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[No.2] 『ウォレスとグルミット ベーカリー街の悪夢』監督ニック パーク 7月19日の放送より!
投稿者:ニック・パーク / 男性 / 50代 / その他 投稿日:2009/7/19 16:45
僕はジブリ、そして宮崎監督の作品の大ファンです。さまざまな影響を受けました。いつも勉強しています。今回、特別に試写をして頂いてとても嬉しかったです。『ポニョ』を見した。素晴らしい映画でした。すごくチャーミングだなぁ、と思いました。これまでの作品よりも、幼い子どもの層まで幅が広がって、客層がすごく広いなぁ、とも感じました。大人たちのなかにも子供がいます。みんなが忘れているだけで、みんなの中に子供はいるのです。ポニョはそれを思い出させてくれます。年齢に関係なく、みんなが持ってる、内なる子供にアピールする!僕もそんな映画を作ってゆきたいと思いました。。。


『ウォレスとグルミット ベーカリー街の悪夢』監督ニック パーク 7月19日の放送より!
[No.1] リリー・フランキー 「こたえあわせ」
投稿者:リリー・フランキー / 男性 / 40代 / 福岡県 投稿日:2009/7/13 10:19
二十年前の今頃。
 日本は、バブル経済に浮かれていた、らしい。
 というのも、僕個人は世間のそんな流れにはまるで関係なく、美術学校を卒業して就職もしないまま、日がな一日、中野のアパートに閉じ籠っていた。
 二十年後の今頃でいえば「引きこもり」と呼ばれるのかもしれないが、当時は携帯電話もインターネットもない。
 家に引きこもったところですることもなければ、たまにやるバイト以外に出掛ける用事もない。
 就職した友人たちはみんな途端にバブル経済に飲み込まれ、プータローの僕とは会話が続かなくなった。
 子供たちは、浮かれた大人たちの言葉を聞きかじり、生臭いニュースが無味乾燥に伝えられている。
 真夏の街角からは、ソウルオリンピックの歓声が鳴り響いていた。

 何かが狂い出しながら、日本中が、これでいいのだと、ねじれ始めたあの頃。

 世の中とも、誰かともつながることのできなかった僕の唯一の楽しみはレンタルビデオ店で借りてくる「未来少年コナン」を繰り返し観ることだった。
 冷房のない部屋で、コナンのたてる水飛沫から涼をとりながら、コナンのひたむきな姿、人々やラナを想う、その心の強さと美しさに自分では理由のわからない涙を流していた。

 そして、それから二十年後の夏。僕は「崖の上のポニョ」を観て、同じ種類の涙を流している。
 でも、その涙の理由は自分ですぐにわかっていた。
 「未来少年コナン」の時代設定は西暦二〇〇八年。
 破壊的な威力を持つ超磁力兵器による世界戦争で、人類の大半は死滅し、社会、文明を失い、ほとんどの都市は海中に水没していた。
 ちょうど今は、二〇〇八年の夏。
 コナンで設定された二〇〇八年のように破壊的な戦争で、人類が死滅するには至ってはいないが、人の命を奪う争いがなくなることはない。
 文明はただ、人々を傷つけるためだけに高度になり、実体のないコミュニケーションに中毒化した人々は、孤独と悪意と不信、不安に心を病み、未来に希望を、人間に信頼を持てず、自らの命を断っている。
 文明は高度になり、社会生活がどれだけ便利になったところで、人の心の器には限界があるのだ。
 強さも、弱さも、曖昧なことも。
「未来少年コナン」の世界で、人類を破滅に追い込んだ超磁力兵器とは、現代の社会における高度な文明が、人々の心を闇に葬ったそれぞれのことだったのかもしれない。
 今、人々の心の磁場は大きく狂って、体内の方位計はぐるぐると回り続けるばかりだ。
 そして、地球環境も目に見えて異常とわかる今、水没した都市から、人々の再生を描いた「未来少年コナン」の設定は、実はなにも外れていないのかもしれない。


 ポニョは、ゴミだらけの海からやってくる。ひなびた港町に見えるが、それはかつての海に守られたその昔ではないようだ。
月は終末を告げるように迫っている。
 宗介の家は不安定に見える崖の上にある。現代的な親子関係の中で育てられている宗介だが、その心の無垢である部分、人々に対する慈しみは、いつの時代の子供たちと変わらぬ美しさを持っていた。
 そんな宗介とポニョの出会いの日。
 宮崎さんは、今、この世界の不安に怯えるすべての人々が一番聞きたい言葉を宗介に言わせる。
「ぼくが守ってあげるからね」
 聞き慣れない言葉ではない。この瞬間も世界のどこかで、この言葉をくどき文句にささやいている者もいるだろう。
 しかし、そのほとんどは無責任であるか、利己的であるか、無力であるか。個人主義がねじれたまま常識化された現代に、この言葉を純粋な気持ちで相手に伝えることはほとんど耳にすることがない。言葉の意味すら考えてない者ほどそれを口にする。だから人は不安になる。
 しかし、宗介はその純粋さと混じり気のない決意でそれを口にする。
 そして、宗介はそれを実行する。
 ひとりの者を守り、救うためには、それ以外の人々やすべてを守らなければならないという原則を知っている。
 個人主義の愛情には、正解がいくつも用意されているが、純粋な愛に、答えはひとつしかない。
 「僕、お魚のポニョも、半魚人のポニョも、人間のポニョも、みんな好きだよ」

 これはかつてあった人魚伝説とも、子供たちの純朴をクローズアップした物語とも違う。
 これは、今を生きる僕たちの失ったもの、あきらめてしまったもの、不安の中で詭弁を覚えて手離してしまったもの。
つまり、すべての不安の原因に対し、答えはひとつしかないんだよと語りかける、現代を苦しむことで生きながらにして、心からまってしまった人々へのメッセージなのだ。
「生まれてきてよかった」
そう思えるためには、心ない言葉だけでもいけないし、ただ側にいるだけでもいけない。
 通じ合い、認め合い、互いが同じ夢に向かって世界を変えること。
 インターネットで検索しても出てこない。たったひとつの単純な正解を確認すること。
 
 ポニョは確かな決意と愛情を持って、海の中から、宗介の元にやってくる。
 様々な妨害や異変が起きても、ポニョはあきらめない。引き離されても、泣くことすらない。ただ、一心不乱に宗介を目指す。
 親に背向いて、海のバランスを壊してまでも、まっすぐそこに向かう。
 本当に確かなものを抱いている者は、どんな困難にあっても悲愴な顔はしない。
 信じているものがあるから。

 僕は宗介を目指して、微笑みながら波の上を全力疾走で駆けてくるポニョの姿を見た時に、無意識のうち涙を流してしまった。
その涙の意味は、流れた瞬間にわかった。
宗介とポニョの混り気のまったくない愛情。それのできなかった自分の想い。
 でも、その物語以上に感動をもたらしたものは、その画面いっぱいから津波のように溢れ出てくる、作画のエネルギーだった。
 まず最初の涙は、宮崎さんの絵に、絵に対する恐るべき執着と愛情に泣かされたのだ。

 人の心の荒んだこの時代。世界が希望を失ったこの世界に、普遍的なメッセージを作品を通して伝えることは限りなく難しい。
 言葉やアイデアだけではどうにもならない壁がある。テクノロジーやマシーンでは、埋没してしまう温度がある。
 それを実現するには、想いと、時間と、力と、圧倒的なエネルギー。作者自身がまず、全身と人生を削り取って注がなければならない。
 宮崎さんの強い想いがスクリーン全身に憑依しているかのようだった。
 映画を観終わって知ったことだったが、本作はCGを一切使わず、すべて手描きだったという。
 現代のCG技術ならば、手描きのような風合いも表現することが可能なのかもしれない。
 そんなことは百も承知の宮崎さんが、すべて手作業に託した意味。
 それは、宗介の血を吸って、ポニョに人魚の命が宿ったように、この作品、このメッセージは、全身と自らの指先を使って、一枚一枚の絵に魂を輸血しなければならないという、ポニョや宗介と同じ、純粋なる決意なのである。

 そして、今、僕は「崖の上のポニョ」のコンテを手に取って、改めて、宮崎駿という人のとてつもない才能と作品に対する想いと、宇宙的なエネルギーを感じて、尊敬を遥かに越えた恐ろしさすら抱いている。
 それは宮崎さんのコンテを見るたびに思うことではあるのだけれど、今回、全カラーで描き込まれたコンテを見ていると、また新しい奇跡を宮崎さんが血を流しながら生み出したこと、そして、どんな文明の時代にあっても、人々の心が求める奇跡は、人間の体温ある指先から血を注いで生まれるものなのだと語りかけてくれる。

 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
 ロンドン留学時代、神経を患ってしまった漱石の『草枕』から、このポニョの誕生のきっかけはあったとパンフレットには書かれてある。
 そして、多くの人が心を病む今、宮崎さんはこの作品に身を削って、世界中の人々や漱石と答え合わせをしたのではないだろうか。

 人の世は住みにくいけれども、やっぱり答えはひとつしかないんじゃないかな、と。
その、ひとつしかない答えがこの作品にははっきりと描かれてある。

                           スタジオジブリ絵コンテ全集16
                            崖の上のポニョ 月報 より