盛岡・久慈岩手山と三陸の海
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ON AIR REPORT

盛岡・久慈岩手山と三陸の海

石川啄木が過ごした街

「友がみな われよりえらく 見ゆる日よ」
スコンとやられた、この言葉に。

叶わなかった夢のカケラが、まだ心にひっかかる。
初めてなのにこの地には、ふるさとの匂いがした。
岩手山に見下ろされる街並み。肌をめでる風はひんやりと冷たい。

才能とは、なんだ。

「ぼんやりとした悲しみが、夜となれば、寝台の上にそっと来て乗る」
叶わぬ夢を抱え、みじめな夜を過ごしたのは、僕だけではないのだ。

けれども。

才能でもなく。
お金でもなく。
今日これから、という時間を僕は持っている。
どこにでも行ける自由を。
新しい夢を追いかける、力を。

帰りのバスに揺られながら僕は、
じっと、自分の手を見つめた。

INFORMATION

明治時代を代表する歌人として知られる、石川啄木。そんな彼が、その人生の大半を過ごしたのが、岩手県盛岡市でした。
小学校を優秀な成績で卒業。「神童」と呼ばれた啄木ですが、中学校に入ると文学の魅力に取り憑かれ、学業は次第に疎かになっていきました。やがて冷めない文学熱から中学を自主退学。文学で身を立てる決心をするものの、なかなか思うように軌道に乗らず、苦難の時代を経験します。
そんな啄木の名がようやく世間に知れ渡ったのは、24歳のとき。後の代表作となる処女歌集「一握の砂」の刊行でした。優しい言葉で、日常の悲喜こもごもを素直に歌い上げた短歌は評判となり、「生活派短歌」と呼ばれました。しかし、それからわずか2年足らず、啄木は母と同じ肺結核を患い、26歳という若さでその生涯を閉じました。
近代短歌に、新しい世界を切り開いた石川啄木。盛岡では、彼の作風を受け継いだ短歌づくりを通じて、その作品と生き様を後世に伝えています。
1人の歌人が人生にもがきながら見つめたこの街も、岩手県北バスのバスは走る。

海女たちの技と想い

海は静かに私を待っていた。

軽く岩を蹴って一気に水面下へ降りていく。
ゴーグル越しに見えるエメラルドグリーンの世界。
あそこだ。
海藻の生い茂る岩肌にとりつき、黒く光る玉を手のひらにおさめる。
ウニの棘は柔らかいことを思い出した。
海面に顔を出し、大きく息をはく。
やはり3年のブランクは、大きい。

まさかここが、一躍有名になるとは、思わなかった。
いつか消え去ると思っていた女たちが、
いまでは地域活性のかなめとなっている。
私も、その一人になるはずだった。

琥珀色の太陽が、じわりと身体を温める。
三陸の海は、やはり冷たい。
でも私は、この海が好きだった。

岸辺から夫が小さな娘を抱いて手をふっている。
「かっこいいよ!」と。
都会育ちの夫の腕は妙に白くて、思わず笑ってしまった。
採れたてのウニの旨みを、彼にも教えたい。

遅れてきた夏休み。
2人の待つ場所へ戻りながら私は大声で言った。
「ただいま!」

INFORMATION

岩手県久慈市といえば、2012年にNHKで放送された、連続テレビ小説「あまちゃん」の舞台として、一躍注目を浴びました。
海女たちが行うのは、切り立った崖と岩礁によって形成された海岸に飛び込み、素潜りでウニやアワビといった海産物を採ってくる漁。
上手な海女はひとかきで2メートル以上も進み、獲物の多いポイントまで一気に潜水します。
そんな海女のはじまりは、明治初期といわれています。遠洋漁業が発展した時代、男性が何日も家を空けるようになると、女性も畑仕事の合間に海に出て、獲物を獲り、生活の糧にするようになりました。やがて、その子どもたちも一緒に海に潜るようになり、自然と潜水の技術を身につけ、次の世代の海女となっていきました。
海女たちの技と想いが受け継がれていくこの街も、岩手県北バスのバスは走る。

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