元日本代表の斉藤祐也さんがラグビー人生を振り返る(2016/09/17 放送)
今週は、ラグビー元日本代表の斉藤祐也さんをお迎えしました。
斉藤さんは1977年東京生まれの現在39才。ラグビーを始めたのは高校生の時だったそう。「やはりボールを持って走るスポーツって他にないんですよね。で、当たれるっていうことも もちろんそうですし、ボールを持って走って、相手をステップを切って抜き去る、そしてトライをするっていう快感が自分に合ってたのかなと」。35才まで現役を続けられたのは、スピードを追求した結果だとおっしゃっていました。
現役の時は「ワン・フォア・オール、オール・フォー・ワン」や「ノーサイド」といった言葉に象徴されるラグビーの精神性についてそれほど意識していなかったとう斉藤さんですが、引退して子供たちにラグビーを教えるようになってからは大事な言葉だと感じるようになったそう。
「15対15がグラウンドに立つっていう最も人数の多いスポーツなので。また、ボールは1つしかない。そのボール1つをみんなで守らなきゃいけない。それをみんなでインゴールまで持っていかなきゃいけない。だから、1つのボールを持った人間が倒れる、そしたらサポートに行かなきゃいけない。1つのボール、または人を守る、そういった自己犠牲の精神があるっていうことを最近知りました(笑)」
東京高校でラグビーを始めた斉藤さんですが、ルールが複雑なこともあってすぐにレギュラーというわけにはいかなかったそう。ただ、手が大きいこともあって楕円形のボールを扱うことは得意だったとか。
そして、2年生の時に花園ラグビー場で開催される高校選手権に出場。高校日本代表にも選出されますが、ルールがわからないまま代表の遠征に行った、なんておっしゃっていました。「昨年のワールドカップに出た畠山選手もルールがわからないんだ、って自分で言ってましたからね」
花園といえば、ラグビーにおける甲子園のようなものですが、斉藤さんは出場できて嬉しい一方、案外簡単に行けるんだなという気持ちもあったとか。「これが花園なんだ、っていう感覚でしたね。やっぱりボールを持つと抜けるんですよね。できたんですね。高校の中では体が大きい方で、その中でも足が速かったんですね。これだけは自分の強みだと思ってたので、それを生かせるスポーツだったってことなんですけども」
しかし、花園では接戦の末、一回戦で敗退。それも、最後のロスタイムに自分がボールを落としたことで逆転負けするという苦い結末だったようです。「怒られなかったです。ただ、先輩には、お前のせいで負けたって言われたことも、冗談ですけど、ありましたね。ただ、そういう言葉を感じた時にやはり自分の責任感というものは凄く強くなりましたね」
斉藤さんは1977年東京生まれの現在39才。ラグビーを始めたのは高校生の時だったそう。「やはりボールを持って走るスポーツって他にないんですよね。で、当たれるっていうことも もちろんそうですし、ボールを持って走って、相手をステップを切って抜き去る、そしてトライをするっていう快感が自分に合ってたのかなと」。35才まで現役を続けられたのは、スピードを追求した結果だとおっしゃっていました。
現役の時は「ワン・フォア・オール、オール・フォー・ワン」や「ノーサイド」といった言葉に象徴されるラグビーの精神性についてそれほど意識していなかったとう斉藤さんですが、引退して子供たちにラグビーを教えるようになってからは大事な言葉だと感じるようになったそう。
「15対15がグラウンドに立つっていう最も人数の多いスポーツなので。また、ボールは1つしかない。そのボール1つをみんなで守らなきゃいけない。それをみんなでインゴールまで持っていかなきゃいけない。だから、1つのボールを持った人間が倒れる、そしたらサポートに行かなきゃいけない。1つのボール、または人を守る、そういった自己犠牲の精神があるっていうことを最近知りました(笑)」
東京高校でラグビーを始めた斉藤さんですが、ルールが複雑なこともあってすぐにレギュラーというわけにはいかなかったそう。ただ、手が大きいこともあって楕円形のボールを扱うことは得意だったとか。
そして、2年生の時に花園ラグビー場で開催される高校選手権に出場。高校日本代表にも選出されますが、ルールがわからないまま代表の遠征に行った、なんておっしゃっていました。「昨年のワールドカップに出た畠山選手もルールがわからないんだ、って自分で言ってましたからね」
花園といえば、ラグビーにおける甲子園のようなものですが、斉藤さんは出場できて嬉しい一方、案外簡単に行けるんだなという気持ちもあったとか。「これが花園なんだ、っていう感覚でしたね。やっぱりボールを持つと抜けるんですよね。できたんですね。高校の中では体が大きい方で、その中でも足が速かったんですね。これだけは自分の強みだと思ってたので、それを生かせるスポーツだったってことなんですけども」
しかし、花園では接戦の末、一回戦で敗退。それも、最後のロスタイムに自分がボールを落としたことで逆転負けするという苦い結末だったようです。「怒られなかったです。ただ、先輩には、お前のせいで負けたって言われたことも、冗談ですけど、ありましたね。ただ、そういう言葉を感じた時にやはり自分の責任感というものは凄く強くなりましたね」
度重なる怪我などがあっても「ラグビーを辞めたいと思ったことはないですね」と斉藤さん。その理由は「楽しから」だそう。「もちろん練習も厳しいんです。ただ、試合でみんなで勝利する、みんなでボールを運んでトライをする、そういう喜びの方が大きいんですよね」
高校卒業後は明治大学に進んだ斉藤さん。実は他の大学からの誘いもあったようですが、それはご本人には知らされなかったとか。「高校の監督、先生が教えてくれなかったんです。お前はもう明治だよ、って言われたんです。ホントはですね…早稲田(笑)法政も行きたかったんです」
「明治大学はいろんな噂がありました。とにかく名門でラグビーの凄い選手も多いんだけども寮生活も厳しいと。上下関係が厳しい。やっぱり先輩に対してはしっかりと礼儀をしなければいけない。先輩に言われたことはやらなきゃいけない。で、そういう噂があったので僕は明治大学に行きたくなかったんです。ただ、明治大学に入ることによって僕は凄く成長できたんですね」
実際に入ってみた明治大学は噂されていた通りだったそうで、山の中で行われる合宿では先輩が1年生をこき使い、合宿中に何人かいなくなったとか。しかし、そんな環境でも斉藤さんは1年の時からレギュラーになり、いきなり大学選手権で優勝を経験します。
そして、4年生でキャプテンになった斉藤さんは「4年生は神様」という制度をやめさせたそう。「周りの同級生からの反対は凄かったですけどね。伝統で、こうやって強くなってるんだっていうものがありますから」。また、斉藤さんは監督不在の中、キャプテンとしてチームをまとめなければならない立場だったそうです。
「凄いチャレンジだったんですけども…コーチも常にいるわけではない、メンバーも自分が決めて、練習内容も自分が決めて。また、寮に帰ると寮生活も自分が見なきゃいけない。もう全部の責任がキャプテン一人にのしかかってきたんですけども、これは凄く大変でしたね」
「とにかく孤独ですから、気持ちで乗り切りました(笑)。同級生で一緒にグラウンドに出る、仲がいい仲間がいるんですけども、本音は言えなかったですね。その選手ももちろん試合に出たり出なかったりする。で、そういう仲の良い選手も外さなきゃいけない場面も出てきますから」
「当時は生意気だとそういう言われ方もしたんですけども、やはり自分が先頭に立ってやらなければ周りもついてこないですし、自分が決めたことは自分が率先してやる。それに対してみんながついてきてくれる。なので、かなり厳しい1年間を過ごしたんですけども」
最終も引き続き、斉藤祐也さんをお迎えして、社会人以降のお話を伺います。お楽しみに!