Orico presents FIELD OF DREAMSOricoFIELD OF DREAMS

この番組では、「夢に向かって頑張っている人を応援する」をコンセプトに、夢をかなえ活躍する方々をゲストに迎え、そこに向かうまでのプロセスや、努力、苦労、そしてかなえたときの喜びを深く掘り下げていきます。

パーソナリティ 川田裕美プロフィール


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2015.06.28

「僕からしたら、『サッカー=カズさん』でしたね」:中澤佑二
『Orico presents FIELD OF DREAMS』では、夢を叶えた方、今まさに夢に向かって突き進んでいる方をゲストに迎え、その人生のターニングポイントに迫っていきます!

今週ゲストにお迎えしたのは、まったくの無名からサッカー日本代表のキャプテンにまで上り詰め、ワールドカップに2度の出場を果たしました。異色の現役プロサッカー選手・中澤佑二さんです。







●サッカーに魅せられて


川田「中澤さんは、2回ワールドカップを経験されていますが、中学、高校の頃は、そんなに名前の知れた選手ではなかったと伺っていますが、それは本当ですか?」

中澤「本当です。サッカーの上手な子、普通の子、下手な子と分けたら、下手な子に入ってました。僕より上手な子って沢山いましたし、一個下、二個下の後輩の方が上手かったと思います」

川田「当時は自分でも感じていましたか?」

中澤「感じていましたね。『何で、ああやってボールを蹴れるのか、ドリブルが出来るんだろう』と、いろいろ考えてましたね」

川田「第1のターニングポイントとして挙げているのが学生時代なんですけど、それはいつですか?」

中澤1992年くらいだったと思うんですけど。1993年にJリーグが開幕するというニュースをテレビで観たんですよね。その時、中学だったと思うんですけど、『じゃあ、俺、今サッカーやってるし、プロサッカー選手になってみようかな、なりたいな』と、思ったんですよ」

川田「私は当時小学生だったんですけど、サッカーやってる子達は、みんな浮き足立って、プロを目指したいって思いましたよね」

中澤「その中の一人です(笑)。みんなと同じ様な事を考えてました」

川田「当時、憧れの選手はいましたか?」

中澤「やっぱり、カズさんですね。カズさんしかテレビに出てなかった。僕はディフェンスなんですけど、攻めのカズさんに惹かれるということは、それだけカズさんがすごかったと思うし、カズさんがテレビに出る度に、ドリブル、シュートの仕方を真似したり、僕からしたら、『サッカー=カズさん』でしたね」

川田「当時の中澤選手は、チームの中ではどんな存在だったんですか?」

中澤「一応、部長はやっていたんですけど。サッカーが一番上手いから部長じゃなくて、”とりあえず中澤に任せておけば”と、他の同級生がやりたくないものを、僕がやっていたみたいな(笑)」

川田「押し付けられたくらいの感じですか(笑)。それは、嫌ではなかったんですか?」

中澤「”俺がやらないと始まらないから”という感じですね。僕はただ単に、部長として声を出していただけです」

川田「それで、チームは強くなれましたか?」

中澤「強くなれてません、弱いんです(笑)。中学校で、だいたい一回戦負けが普通でしたね(笑)」

●反骨精神をバネに


中澤「高校に入って、次にどうしようかなと考えた時に、一番の希望はJリーグからオファーがかかるという事を目標としました。オファーなかった場合は、カズさんがプロになる前にブラジル留学をしたと聞いていたので、ブラジルに行って成功してから、と考えていましたね」

川田「それは高校入学の時に決めていたんですか?」

中澤「入学が決まって、決めました。高校3年間で結果が出なかったら、ブラジルに行こうって」

川田「それを決めた時点で、自分の中で目標が明確に見えたわけじゃないですか。自分の心境の変化ってありましたか?」

中澤「今までは、サッカーをやらされていたという感覚だったんですけど、プロになりたいと思う事で、”自分からサッカーをやるんだ”という気持ちになって、自分の中でサッカーに対する思いが日に日に大きくなっていきました」

川田「高校のクラブの中では、ヘタクソと言われるところではなかった?」

中澤「まぁ〜、普通だったと思いますね(笑)」

川田「それでも、まだ普通ですか(笑)。中澤さんより上手い人がいたんですか?」

中澤「いましたね。いろんな地区の選抜とかいたんで、僕より上手な子はまだまだいました」

川田「その時に、めげずに出来たのは周りの応援があったりとか?」

中澤「周りの応援は、ほぼほぼ無かったです。周りには『お前はプロは無理だよね』と、いつも言われていたので。逆に、それをエネルギーに変えていこうかなと”将来プロになったら、お前のこと知らねって言ってやるからな”って(笑)、ちょっと性格悪い的な部分が出て来ちゃいましたね(笑)」

川田「それがあったからこそ、頑張れたのかもしれないですよね(笑)」

中澤「いい意味でそれをエネルギーに変えて、きつい練習も自分から取り組むことが出来ました」

川田「でも、当時は青春の一番楽しいときじゃないですか?」

中澤「間違いないです(笑)。僕の周りは、彼女さんとか連れてデートしてたり、いいな〜って(笑)」

川田「サッカー選手なんて、一番モテますし、学校の憧れですよね」

中澤「いや〜、坊主で色黒はモテないんです(笑)。女の子となんて話せなかったですよ。遠目で見てるくらいで、近くに来ると恥ずかしくて話せなかったですね。僕の友達はモテてたんですよ。他の学校からも見に来る子もいた、僕はその人の、ただの友人なんですよ(笑)。横にいる、坊主の色黒(笑)。特に何もなかったです」

川田「意外ですね。そういうことが、サッカーに没頭出来る環境になったのかもしれないですね」

中澤「脇道にそれなかったから、良かったんじゃないかと思います」

川田「ブラジルに行くと自分で決めていて、言葉の事など、心配はなかったですか?」

中澤「行けばどうにかなるだろうと思ってました。あまりネガティブな事は考えなかったですね。とにかく、高校で結果が出なかったら、ブラジルに飛んで一生懸命サッカーをやって、あとはどうにかなるだろうなと思っていましたから」

川田「ご両親はどう見ていたんですか?」

中澤「親父は猛反対でしたね。おふくろは、『好きな事やっていいんじゃない』っていう感じですね。親父は、サッカーはちゃんとした職に就いてからでもいいんじゃないと、現実をしっかりと見てる親父でしたから。あまり冒険は好きじゃなかったんですよね」





>>来週も引き続き、中澤佑二さんに、ブラジル留学、サッカー選手を目指すに至るまでの、第2のターニングポイントについてお話を伺っていきます。



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2015.06.21

「何歳だから駄目だとか、実力=年齢じゃないんですよ」:ミサコ・ロックス
『Orico presents FIELD OF DREAMS』では、夢を叶えた方、今まさに夢に向かって突き進んでいる方をゲストに迎え、その人生のターニングポイントに迫っていきます!

先週に引き続き、ニューヨークで活躍する日本人唯一のコミックアーティスト。その活躍が認められ、安倍総理の懇親会にも招かれたことのある、ミサコ・ロックスさんをゲストにお迎えしました。


●日本の女性はコツコツと!


川田「ミサコ・ロックスさんが、漫画家への道を歩む事になった、第2のターニングポイントはいつ頃になるんですか?」

ミサコ・ロックス「2004年の、ちょうど20代の真ん中くらいですかね」

川田「当時よく聴かれていたのが、Cibo Mattoの「Moonchild」ですね」

ミサコ・ロックス「私が、あるイケメンミュージシャンと知り合って結婚したんですよ。ですが、お互いを分かっていないまま一緒に暮らしてしまったのが悪かったんでしょうね」

川田「上手くいかなかったわけですか?」

ミサコ・ロックス「2年と経たない間に、どんどん関係が悪くなって。この曲を聴くと、辛かった時にすがって聴いていた曲という事が思い出されますね」

川田「恋愛は、けっこう積極的にいかれるんですか?」

ミサコ・ロックス「そうですね、狙った獲物は逃さないというね(笑)」

川田「どういうテクニックなんですか?」

ミサコ・ロックス「私はアメリカ人の男の子としか付き合った事がないんですよ。しかもイケメン好きで。太っていたという、自分の中で弱点があったんですね。それをどう使うかという時に、アメリカ人の男の子は追うのが好きで、セクシーでイケてる女が好きなんですよ。ただ、そういう人達が多いから気が強い女性ばっかりだし、そればかりやっていると疲れちゃうから。日本人の大和撫子というかですね、気の優しいところ、気配り出来るところを上手く使うんです」

川田「押し引きというか感じですか」

ミサコ・ロックス「メールとかでも、毎回送ってたのにいきなり途絶えさせたりすると、アメリカ人の男の子は余計に気になるんですよ。諦めるという事をしない、アメリカって告白とかないんですよ」

川田「え?どういう事ですか?」

ミサコ・ロックス「日本って、ちゃんと付き合うとなった時に『好きです』とか、それなりに少女マンガチックなシーンがあったりするじゃないですか。アメリカの場合は、なんとなく2人きりになって『週末、映画行かない?』となった時に、それがデートになっていって、親密になり、それが彼氏彼女になっていくんですよ」

川田「いつの間にか、『あの2人は付き合ってる』みたいな感じになるんですか?」

ミサコ・ロックス「パーティに行ったときに『俺のガールフレンド』みたいな事で紹介されたら、付き合う事になってるし。向こうでは、境界線がカジュアルで曖昧なんですよ。私は、告白で思いを伝えたらドッキリするかなと思って。『好きです!』と、ウルウルの上目遣いで言うと、キュンとなるんですよ(笑)」

川田「そうやってゲットするんですね!(笑)」

ミサコ・ロックス「コツコツですよ!日本人のいいところは、コツコツを恋愛でも使うんですよ!」

川田「それは、今のニューヨークでも使える技ですか?」

ミサコ・ロックス「使えます!(笑)」

●切り拓く道


川田「2004年は辛い事もあり、楽しい事もありなんですけど。マンガとは、どこでどう出会うんですか?」

ミサコ・ロックス「2004年前後で出会ってたんですね。当時、私は人生のどん底にいたんですよ。彼と私の生活を支える為に、アルバイトを週7日やって、6つ7つしてたんですね。私は尽くしてしまうタイプだったので(笑)」

川田「それは、大変でしたね」

ミサコ・ロックス「その中の一つで、こども美術館で受け付けをやっていたんですよ。ある6歳のアメリカ人の男の子が来て、『このマンガ知ってる?』と言われて、それが「ドラゴンボール」だったんですよ。そこで初めて、マンガに出会ったんです。その時に”私が次にする職業はマンガだ!”と思ったんですよ」

川田「それまでに描いたことはなかったんですよね?」

ミサコ・ロックス「子供の時に、女の子だったら真似する程度のものですね。美術は得意な子だったけど、コマの描き方も知らなかったし。自分の事を第三者の目で見たら、失う物がなかったんですよね。そこまでやることやって、全部中途半端で終わってきたんだから、恥ずかしいものは無いじゃないと思って。
だったら、これに賭けてみて、職業になったらアメリカに住めばいいし、駄目だったら、私は才能がないんだと日本に帰ればいいやと思いました。日本のマンガとアメリカのコミックをかき集めて、それを教科書にしてマネっこから入ったんですよ」

川田「その違いを見ながらということですか」

ミサコ・ロックス「日本人だし、普通のペンで描くより、筆とか筆ペンで描いたら日本の良さをアピール出来るんじゃないかと思ったんです。筆ペンを日本から取り寄せて、コツコツ描いていましたね。
私の中で、何が武器になるのか考えたら、アメリカのコミックって、ほとんど男の子向けなんですよ。女の子向けで、なおかつインターナショナルで、こんなに面白い人生歩んでて、素敵な彼氏が出来ました!ということを書けるのは、”私しかいない!”と思って、”これは絶対に受けるぞ!”と、それを信じて大手の出版会社に何回も営業に行って、断られて2年近くかかりました」

川田「それで、一番最初に『じゃあ、持って来てよ』となったのは、どこなんですか?」

ミサコ・ロックス「それが、ディズニーだったんですよ!私、最初ディズニーでデビューさせていただいたんですよ。最初はディズニーとは知らなかったんですよね。会社はハイペリオンという名前で、会社に行ったらミッキーがいっぱいあって、”ここディズニーなのかな?”って、そこで気付いて。
私のエディターに、何故わたしの作品に興味を示したのかを聞いたら、プレゼンテーションのアピールをすごく頑張ったんですよね。そこを見てくれていたのか、『この子とだったら、一緒に仕事してみたい』というのが、あったみたいですね」

川田「ミサコさんの様に、キャリアアップしたいとか、海外で活躍してみたいという方に、どういった言葉をかけてあげたいですか?」

ミサコ・ロックス「まず、頭の中で自己解決、リミットを作ってほしくないんですよ。何歳だから駄目だとか、実力=年齢じゃないんですよ。気持ちなんて、あればあるほど若返ってくるものだし。だからこそ、ちょっとでも興味あるものが出来たら、そこにジャンプインして、突き詰めていってほしいんですよね。
私は、メッセージを子供達や生徒に言うんですけど、「If you put your mind to it,you can accomplish anything.」これは、マイケル・J・フォックスが「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で言った言葉なんですよ。要は「為せば成る、何事も」ということなんですけど、それを11歳、12歳の頃から信じて、生き続けて。
今や、こうして皆さんに語りかけてるような存在になったので。そういう自分の中の名言とかがあったら、それが頼りになるし、みんなもそういうのを見付けてほしいなと思います」


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2015.06.14

「このまま戦争が始まって死んでしまうのかなと、私だけじゃなくて、ニューヨーカーみんな思っていたと思います」:ミサコ・ロックス
『Orico presents FIELD OF DREAMS』では、夢を叶えた方、今まさに夢に向かって突き進んでいる方をゲストに迎え、その人生のターニングポイントに迫っていきます!

今週は、ニューヨークで活躍する日本人唯一のコミックアーティスト。その活躍が認められて、安倍総理の懇親会にも招かれたことのある、ミサコ・ロックスさんをゲストにお迎えしました。

●憧れの地へ


川田「最初にアメリカに行こうと思ったのは、どういうきっかけだったんですか?」

ミサコ・ロックス「私は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を観て、マイケル・J・フォックスに恋しちゃったんですよ(笑)
。彼が好き過ぎて、ラブレターも書いたし、誕生日に布団カバーを送ったり、追っかけていました。
その憧れがいつしか目標に変わって、”こうい文化に触れたい”とか”英語を勉強したい”ということで、最初は留学だけだったので、当時は何がやりたいというのも分からなかったですね。
帰国をしてもお金ないし、いろいろ考えていた時に、「ライオン・キング」を観て、『私は人形師になる!』と、人形とかマスクを作る仕事をしようと思ったんです」

川田「演じる方ではなくて、作る方だったんですね。そこはスムーズにいきましたか?」

ミサコ・ロックス「まったく上手くいかず、私の欠点は情熱だけですべて始めちゃうんですよ。ニューヨークは、アメリカンドリームを叶えたいという、野心家が集まるので。マーケティングを考えないでいくと拒絶されたりする、それで、自分に自信がなくなちゃったんですよね。だから、迷走しっぱなしでした」

川田「人形師の仕事には、近づけた事は近づけたんですよね?」

ミサコ・ロックス「本当にちょっとだけで、結局人形師っていうのは、作ってもボランティアみたいな感じだったんですよ。小さい劇団でやってもお金は入らないし。せめて出来るのは、学校でワークショップをするくらい。私みたいな経験がないやつが、いきなり『ブロードウェイで勝負します!』なんて言っても、誰も相手にしてくれないんですよね」

川田「やっぱり、そこでお金が生まれなければ、いたくてもいられないんですよね」

ミサコ・ロックス「人種差別をニューヨークでも受けて、ある日突然、いきなり『家、出てってくれ』と言われてしまったんですよ。それで、当時は夏だったので、1週間くらいなら公園でどうにかなるかなと思って。それが、結局1ヶ月くらいマンハッタンの公園に住むことになっちゃったんですよ(笑)」

川田「公園に住むというと、いわゆるホームレス…という、ことですか(笑)」

ミサコ・ロックス「ホームレスでした。ですが、その日暮らしの仕事で、フェイスペインティングとかを描いてたんですよ。それを夏のストリートフェスティバルでやってたり。レズビアンの主催者がいて、『私は家がないんだ』と言うと、『うち、空いてるよ』と言われて、彼女の家に住む事になったんですよ。彼女は劇団のディレクターだったんですけど、もう一個の仕事で中学校のアート講師をしてたんですよ。
私がアメリカの子供と触れ合うのが上手いから、彼女が『子供の扱いが上手いんだから、中学校の放課後のアート講師とかやってみれば?』と言ってくれたんですね。
それで初めて、自分では知らなかった強みを見付けて、これは一発、教育委員会に連絡してやってみようかと思いました(笑)」

川田「また、そこで行動に移すのが早いですね」

ミサコ・ロックス「インターンなんて、いつ帰るか分からないので、一つ一つを無駄にしちゃけないなと思ったんです。面接に行くと黒人しかいなかったんですね。どう見ても場違いかなと思ったけど、そこで思ったのが、私だけがアジア人ということは、日本人の文化を伝えます!という事を言えば目立つと思ったんですよ。そこで中学校の講師になりました。そこからが大きかったんですけど、マンハッタンで「9.11」が起きてしまったので、そこからが大変でしたね……」


●2001年9月11日に起きたこと



川田「中学校に講師として行かれて、その時は楽しく過ごせたんですか?」

ミサコ・ロックス「最初は辛かったんですよ。アジア人がいないところで教えてたから物めずらしく見てたし、発音が違うこともバカにされたりしたんですけど。知れば知るほど、彼らって純粋で、私の注意をひきたくて攻撃してることが分かったので。未経験ながらも、彼らのドアを開こうと一生懸命叩いてましたね」

川田「それも、自分で考えないといけないんですもんね」

ミサコ・ロックス「彼らは日本の文化を知らないわけだから、私が折り紙とか、和紙を使って書道、筆を使ってイラストを描いたりとか教えたり。でも、彼らって黒人の子達ですから、ヒップホップとかダンスが好きなんですよ。だったら、日本の良さとヒップホップの文化を融合させて、曲を聴きながら書いてみようかとか、やっていたんですよ」

川田「彼らしか出来ないことと、ミサコさんしか出来ないこと、その両方を合わせて教えてあげたわけですね。ちょうど、その前後で「9.11」アメリカ同時多発テロが起きてしまいましたが、ミサコさんは当時どこにいたんですか?」

ミサコ・ロックス「このときは、マンハッタンの上の方に住んでいたんですね。ハウスシッターという事をやってまして。その日の朝は夢見が悪くて、バリバリと音が聞こえるなと思っていたんですよ。それで、パッと目を見開いたら、外はチラシとか埃が舞っていたんですよ。
それで、日本からの電話が鳴って、『大丈夫!?テレビ早くつけて!』と言われて、テレビを見るとWTCのビルが崩れていて、私が見ている時に、2機目が2つ目のビルに突っ込んだんですよ。それをテレビで見て、外からは同時に音を聴いたんです」

川田「その音はすごかったですか?」

ミサコ・ロックス「言い表せないというか、人の叫び声と、本当に崩れ落ちる音というんですかね。そこで、電話が切れてしまったんですよ。まったく2週間くらい日本とも交信出来なくて、このまま戦争が始まって死んでしまうのかなと、私だけじゃなくて、ニューヨーカーみんな思っていたと思います。
タイムズスクエアなんかは、いつもは観光客でごった返していたんですけど、そこから11月までは新聞紙がブロードウェイを舞っていたんですよ。誰もが忘れられない瞬間でしたね」

川田「ミサコさんの周りでも、身近な方を亡くされた方も多いんじゃないですか?」

ミサコ・ロックス「地下鉄が開通されて、そこで『行方不明のお父さんがいません』というのを貼って、その場で泣き崩れている光景を見てきたんですね。こんな大都会で、一瞬で終わってしまうんだなっていうのを見てしまったときに、”ニューヨークが絶対に復活していくのを一緒に見てきたい、私もその一員になりたい”と思っていて、だからこそニューヨークを離れたくなかったし、アート講師になったときも、この子達に何が出来るんだろうなと、ただ、がむしゃらに伝えてったのが、ちょうどその時の思い出でしたね」


>>来週も引き続き、ミサコ・ロックスさんに、マンガ家への道はいつどんなきっかけで訪れたのか?そして、第2のターニングポイントついてお話を伺っていきます。



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2015.06.07

「あの人がいなかったら、僕はそういう風になっていなかったですね」:菅賢治
『Orico presents FIELD OF DREAMS』では、夢を叶えた方、今まさに夢に向かって突き進んでいる方をゲストに迎え、その人生のターニングポイントに迫っていきます!

今週は、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』や『踊る!さんま御殿!!』など、数々のバラエティ番組をヒットに導いた名プロデューサー・菅賢治さんをゲストにお迎えしました。

●テレビというメディアの面白さ


川田「今日は、放送業界に入られてからやってくる第2のターニングポイントについてお話を伺いたいと思います」

「先週お話した『シャボン玉ホリデー』の秋元近史さんという方がいまして。僕が、どうしようかなと思っているとき、”ここ、日本テレビだよな?会えるよな”と思って、秋元さんに弟子入りすればいいと思ったんですよ。
それで、プロデューサーに”秋元さんに弟子入りしたいんだ”と話をしたんですよ。『分かった、話をしてあげよう』となって、日本テレビの子会社の、制作会社に入る事になったんですよ」

川田「それは、秋元さんに近付きたいという思いからですか?」

「結局、寸前でお亡くなりになってしまって、僕一回もお会いしてないんですよ。その後、いわゆる「日本テレビエンタープライズ」という当時の会社に入ったんです」

川田「その当時、担当されていた番組はどんな番組だったんですか?」

「夕方5時くらいからやっていた、25分間の生放送の番組ですね。関東ローカルだったと思うんですけど、月〜金の帯だったんですよ。僕は当時、テレビ業界を1年半くらいしかやっていなかったんですよ。
この人が、僕のテレビ人生の全ての人なんですけど、加藤光夫さんという日本テレビの社員の方がいました。のちに「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」をお作りになる方です。その人に『菅、来週オンエアの卓に座ってみる?』と言われて、『え?卓どころか、ヘッドセットもしたことないですよ』って言って…」

川田「オンエアの卓に座るって、相当重要なポジションですよね。しかも生放送ですよね」

「番組の中の一番の事をやれと言われてるわけですからね。『誰だって初めてなんだから、やったほうがいいんだよ』と言われて、生放送をやりました。結果、100点満点で上手くいったんですよ。
というのは、周りは全員プロですから。僕がごちゃごちゃ言わなくても、みんなきちっとやってくれるわけですよ。これで、”テレビなんてちょろいもんだな”と思っていたら、次の週、本番5分前に、梨本勝さんが持ってきた、おめでたい大スクープがあって『この台本一切なし、白紙』っていう状態になったんですよ。
僕、完全にパニックになって、指示も出来ないし、どうやって構成していくかも分からない。挙げ句の果てにスイッチャーさんに『菅、うるさいから黙ってろ!』って言われて。僕が余計な指示をするもんだから、画もガチャガチャですよね。クビはともかくとして、来週から座らなくていいよと言われるなと思いましたね。
そして、加藤光夫さんの所に呼ばれて『本当に申し訳ありませんでした』と言ったら、『テレビっておもしれーだろ、あんだけ心臓飛び出そうな事ないだろ?だからテレビはおもしれーんだよ。来週からもやってみ!』って言われて、こんな人がいる場所だったら俺は一生やっていけるかもしれないなと、その時に思いましたね」

川田「それだけの失敗をしても、そこで終わりというレッテルを貼るのではなく、まだチャンスを与えてあげると」

「僕ら制作会社の人間ですから。本来なら日本テレビの社員を育てないといけない、それが当たり前じゃないですか。だけど、加藤さんは『やれるやつがやるべきなんだ』と、すごい加藤イズムでしたから」

川田「菅さんも、分け隔てなく皆さんと付合うのも、そういう所からなんですね」

「まさしく、その一点ですよ。あの人がいなかったら、僕はそういう風になっていなかったですね」

●楽しむことを求めて


川田「菅さんは、出演者の皆さんとはどういう接し方をされていますか?」

「僕は狭く深く付き合ってるので。実はプロデューサーとしては失格なのかなと思っていて、浅く広くって出来ないんですよ。とことん付き合わないと、自分の中で消化できないというか…」

川田「ダウンタウンのお2人とはどうですか?」

「土屋敏男から、『ダウンタウンっていう、とんでもない漫才師、知ってる?』と言われて、当時漫才のVHSを貸してくれたんですよ。観てひっくり返って、『なんだこの人達は!』って(笑)。
それで会いに行ったんですよね。コンサートをやっていて、曲の合間に漫才でもやるんじゃないかと、楽しみにしながら行って。お客さんは中高生の女性ばかりで、出て来ると『キャー』という歓声の中、曲を歌うんですよ。それで、『どうもありがとー!』で終わっちゃうみたいな(笑)。僕らは漫才を知っているから、これはとんでもない芸人さん出て来たなと思ったんですよ。付き合いが出来たのは、そこからですね」

川田「菅さんは、テレビに出るように2人から言われたりするんですか?」

「ガキって不思議な集団で、ガキが深夜番組の頃に浜ちゃんが罰ゲームでスカイダイビングをやらされたんですよ。当時、奥さんのお腹にお子さんがいて、いろんな考えがあったんでしょうね。終わって、つい泣いてしまったり…、本人嫌がるから、あまり言えないですけど。でも、『いろんな事思ったな〜』って、今でも言いますよ。
で、その後に『こないだ俺、命懸けでスカイダイビングやったんだから、お前らも何かやれよ!』って言って、”そういう番組なの?”って(笑)。基本的には、松っちゃんと構成作家と、みんなで考えて。松っちゃんが考えてる事を、僕らは一生懸命絵にするっていう番組だと思うんですよね」

川田「なるほど」

「年とってるやつが、T.M.Revolutionやるなんてみっともなくて(笑)。でも、オンエアみたら松っちゃんが一番笑ってくれてたから、ちゃんと役目は果たしたなって(笑)」

川田「そんな菅さんが日本テレビを退社されて、一人で個人事務所を立ち上げられますけど、現在は携帯動画配信サイト“BeeTV"で『太田と上田』や『発掘!ブレイクネタ 芸人! 芸人!! 芸人!!!』この2つは、ご自身がやってみたかったものなんですか?」

「まさしくそうで、太田さんと上田さんはそれぞれ仲良くて、上田さんの楽屋で”ワハワハ”笑ってると、爆笑の太田さんが番組関係なく訪ねて来て、2人がすごいじゃれ合うんですよ(笑)。太田さんは、上田さんの前では”こんなにボケる?”っていうくらいボケるんですよね。上田さんは全部拾ってくれるので、言ったら、そこに客は僕しかいないですからね」

川田「カメラが回っていない前で(笑)」

「その2人を見ていて、”この2人で、ただ単にしゃべくるだけの番組をやりたいな”と、ずっと思っていて。退職するとなった時に『実は、2人で番組やりたいと思っているんだよね』って話をしたら、『いいんじゃないですか』と言ってくれたんですよ。まぁ〜楽しかったですよ(笑)」

川田「この2人が同じ画面に写ってること自体がすごいなと思いました。まだ、やりたい事の実現に向けて動いてらっしゃる真っ最中の菅さんですが、これからやってみたいことはどんなことですか?」

「やっぱりプロデューサーって、”この人と、この人を合わせたら凄いことになるんじゃないか”とか、”この人と、このディレクターを合わせた時に、すごい番組が出来るんじゃないか”とか、いわゆるプロデュースですよね。
新しい出会いをしてもらうとか、そしたら、今までなかったものがお互いに見えて、楽しそうだなということをやりたいですね。自分の中では、テレビ以外の映像とはまったく関係ない事でもやっていきたいと思います」



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