Orico presents FIELD OF DREAMSOricoFIELD OF DREAMS

この番組では、「夢に向かって頑張っている人を応援する」をコンセプトに、夢をかなえ活躍する方々をゲストに迎え、そこに向かうまでのプロセスや、努力、苦労、そしてかなえたときの喜びを深く掘り下げていきます。

パーソナリティ 川田裕美プロフィール


*

2015.09.27

「”金持ちだろうが何だろうが、生まれた瞬間に死ぬのは決まってないか?”と思ったんですよ」:高橋ジョージ
『Orico presents FIELD OF DREAMS』では、夢を叶えた方、今まさに夢に向かって突き進んでいる方をゲストに迎え、その人生のターニングポイントに迫っていきます!

今週のゲストは、先週に引き続き、ミュージシャンの高橋ジョージさんです。
先月までNHKで放送されていたドラマ『美女と男子』では、一発屋ベテラン歌手・たどころ晋也を演じました。

そして今月、たどころ晋也の役名で、劇中でも歌われる「ハローマイラブ!」と「ふたり〜One Day」をリリースされました。
今週は高橋ジョージさんの第2のターニングポイントについて伺っていきます。


●ニューヨーク 憧れの地で


川田「バンド・トラブルが解散して、絶望的な気持ちを持ってニューヨークへ行って、そこからはどういった生活だったんですか?」

高橋「ジョン・レノンのダコタアパートを見上げて、ガードマンにインスタントカメラで撮ってくれと言ったんですよ(笑)。人間って面白いもので、日本語でも、何を言おうとしているか伝わるんですよ。『ジョン・レノンは、どこに倒れてたの?』と聞いて、同じところに倒れて、写真撮ってって(笑)」

川田「同じ格好で、そこに倒れたんですか(笑)」

高橋「そこから空見上げた瞬間に、ぶわーっと涙が出てきて。急に、死ぬって一番絶対的なものだと思ったんですよ。”金持ちだろうが何だろうが、生まれた瞬間に死ぬのは決まってないか?”と思ったんですよ。自分で死ななくても、いつかは死ぬわと思ったんです」

川田「なるほど」

高橋「ということは、”いつまでも、あると思うな人生”と思ったの。死ぬ気でやってみようかと、明日死んでもいいんだから。
それで、ライブハウスに行きたかったから行って。外で喧嘩が始まったりするわけ、当時、俺みたいな顔して空手のポーズとると、みんな逃げるんですよ(笑)」

川田「ジャッキー・チェンのようにできるんじゃないかと思って(笑)」

高橋「すると、そこの用心棒みたいなのがいて、『空手を教えてくれ!』と言われて。本当は3級なんだけど、『3段だ!』と言って、ハッタリがきくから(笑)。それで仲良くなって、毎日ライブハウスがフリーパスになったの」

川田「すごいですね(笑)」

高橋「ライブを毎日観てると、全然レベルが違うんですよ。前座が、日本のバンドのメインより、はるかに上なんですよ。”俺、何ロックンロールって言ってたんだろう”と思って、恥ずかしくなっちゃったんですよね」

●ジョン・レノンに憧れて


高橋「ある日ライブハウス行くと、スターのオーラを出してる人がいて。その人に『お前、どっから来たの?』と言われて、『日本だよ』と言うと、『日本人は、7:3の髪型でトレンチコート着て、革のバッグ持ってる』と、言うんですよ。
何やってるのか聞かれて、『ロックシンガーだ』と言うと、歌ってみろと言うんですよ。その日は、300人くらいの満杯だったんですよ。そこのステージに出ていって、ロックンロールのスタンダード『Blue Suede Shoes』を歌って、すごい盛り上げたんですよね」

川田「すごいですね、盛り上がったんですね」

高橋「それで、アンコールきちゃって(笑)。それで、偉そうにしてたやつに『おまえ、すごい声がいいよ!』と言われて、”なんだ偉そうに?”と思って『おまえ、誰だ?』って言うと、周りのやつが『超有名なプロデューサーだ』って言うんですよ。
『明日、俺のオフィスに来い』って、それでで、サインもらったんですよ」

川田「誰だったんですか?」

高橋「帰って、ルームメイトにサインを見せると『ジョージ!シャンパン飲もう!』と言うんですよ、『彼はベリーフェイマスだよ!Mott the Hoopleのイアン・ハンターだ!』って言うんですよ。俺は”マルコポーロ”って聞こえていたんですけどね(笑)」

川田「マルコポーロに聞き間違えていたんですね(笑)」

高橋「ヒアリングが悪いから。スタジオに行って、その日にデモテープを録ったの。”やべー!俺、スターになっちゃう!”と思っていたら、『日本に帰れ』って言われたんですよ(笑)。おまえの発音、幼稚園並みって言われて。発音が悪すぎるから、売れないって。
でも、声はいいから、日本帰って勝負しろと言われたんですよね。そのままじゃ帰れないと言うと、『ブルーススプリングスティーンのチケットあげるから、見ておいで』と言われて、次の日観に行ったんですよ」

川田「すごいじゃないですか!」

高橋「そこで、ブルーススプリングスティーンの『The River』を聴いたときに、ぱっと『ロード』というタイトルが出てきちゃったの。『The River』はアメリカ人で言う、”人生”の比喩なんですよ。
俺たちで言うと『道、人生』じゃないですか。俺は”道”『ロード』というタイトルで、いつか曲を書こうと思ったんですよ。それが1985年です、それで帰ろうと思ったんですよね」



*
*

2015.09.20

「同じ空を見ながら倒れたいと思ったんですよ」:高橋ジョージ
『Orico presents FIELD OF DREAMS』では、夢を叶えた方、今まさに夢に向かって突き進んでいる方をゲストに迎え、その人生のターニングポイントに迫っていきます!

今週のゲストは、ミュージシャンの高橋ジョージさんです。
先月までNHKで放送されていたドラマ『美女と男子』では、一発屋ベテラン歌手・たどころ晋也を演じました。

そして今月、たどころ晋也の役名で、劇中でも歌われる「ハローマイラブ!」と「ふたり〜One Day」をリリースされました。
今週は高橋ジョージさんのターニングポイントを伺っていきます。


●「0時5分の最終列車」に乗って


川田「高橋ジョージさんと言えば、THE虎舞竜の『ロード』。この曲が生まれるまでには、いろいろなターニングポイントがあったと思います。まず、第1のターニングポイントはいつですか?」

高橋1976年、17歳から18歳になりかけてる頃ですね、僕は生まれが宮城県の栗原市なんですけど、そこから訳あって岩手県の一関の学校に行って、色々あって退学になって…仙台に行って退学になって(笑)。”このままだと、高校卒業するまでに21歳なるな”って計算しながら、このまま地元にいたら、はぐれちゃうかもしれないなと思って、一度東京へ行こうと思いました。
僕にとって東京に行くのは、火星に行くようなものだったんですよ。テレビの中でしか見たことないっていうか」

川田「高校生の時はそうですよね」

高橋「でも、挑戦してみようと思って。3月31日に夜行で出て4月1日に着く、そういうプランだったんですよ。だから、3月31日の23時20分のチケットを買ったんですよ。
バイクのチームの仲間が見送ってくれて『頑張って、夢叶えてきてくれよ!』という感じだったんですよ、すごくいい感じで『じゃあな!』と言って、”ビー”っとベルが鳴るとアナウンスが流れて、『雪のため遅れます、0時5分です』って(笑)”日にちまたいでんじゃーん!”って思いながら、みんなばつが悪いじゃないですか」

川田「気まずいですよね(笑)」

高橋「でも、0時5分って聞いた時に、キャロルの「0時5分の最終列車」”ぴったしじゃーん!”と思ったんですよ。
矢沢さんの本には、広島から1人で、5万円を握って、ギター1本持ってと書いてあって。俺もちょうどギターを持って、親父に7万円もらった時に、2万円多いんだわって返しましたから(笑)」

川田「それも矢沢さんと一緒にしたかったんですね。高橋さんが、そもそも音楽に興味を持ったきっかけは何だったんですか?」

高橋「両親が11歳の頃に離婚して、うちの父親がタクシーの運転手で1日置きに家にいないんですよ。
僕はビートルズが大好きなんですけど、ビートルズを知った理由はラジオなんですよね。レコード屋さんに行って、かかった曲を買いに行ったり、気に入ったら買うみたいな世界で。
ポールもジョンも家庭に恵まれてなくて、寂しさを紛らわすためにギターを弾いていたんです。自分の思いを、下手な詩なんだけど書いて、曲作ってみたいな。コード3つしか弾けないけど、メロディを作ったりし始めました。それが中学2年の頃ですね」

川田「それは早いですよね」

高橋「図書館が大好きで、いろんな人の偉人伝を読むと、ほとんど14歳でなりたいものを決めてるんですよ。これは14歳で決めた方が勝ちだなと思って、14歳でミュージシャンになりたいと思いました。
それから、オートバイに乗ったり悪いことしたけど、やっぱりまたそこに戻ってくるというか、自分の夢を叶えなかったら、何なんだろうなって思ったんですよ」

●ジョン・レノンに憧れて


川田1980年、THE虎舞竜の前身となるバンド “トラブル”を結成,されます。この時は、大変な時期でしたか?」

高橋「今言うと、売れもなく、売れなくもなくと言うんですかね。レコード出せば、頑張れば1万枚くらいは売れるんですよ。でもい、1万枚じゃ食べられないんですよ。ところが、1万人の武道館いっぱい以上の人が『頑張れー!』と言ってる声を聞くと、やめられないんですよ。
20代って、みんな朝まで寝ないで話して『どんなことあっても、絶対やろうな!』って言うんですけど、地方出身者は僕だけだったんですよね」

川田「高橋さん、お一人だけだったんですね」

高橋「他のメンバーは東京、横浜とかだったので、親御さんと一緒に住んでるんですよ。デビューして3年もして、『売れないんだったら、お前何やってるの?』と言われて、一人やめ、一人やめ、一人やめと……一人やめてから気付けば良かったんですけど、”あれ?これって解散ってこと?”ってことになって、気づくのが遅かったんですね(笑)」

川田「なるほど(笑)」

高橋1985年に解散するんですけど、僕一人になって、”ソロでやっていくか”と、レコード会社の人に言われたけど、僕はメンバー探しますと言いました。自分の前向きな、これだけのスピードで走ってきた人間だから、何も無くなった時に喪失感が半端なかった」

川田「そうなってしまいますよね」

高橋「”どこ行こうかな?”と思った時に、ニューヨークへ行こうと思ったんですよ。
ニューヨークへ行くって、何かカッコいいけど、違うんですよ。実は死にたかったんですよね。1980年に一番の心の師としていた、ジョン・レノンが銃弾に倒れて、ダコタアパートというセントラルパークの脇のアパート、そこに行って、同じ空を見ながら倒れたいと思ったんですよ」

川田「当時、そんなことを思われていたんですね」

高橋1985年のニューヨークは、いろんな事件も多くて一番危なかった時ですよ。”俺みたいな人間が行ったら、打たれるよ?”と言われて、『打たれに行くわ』ってことで…。すごい頑張った土地で死にたくなかったし、ジョン・レノンが亡くなった時にすごくショックだったので。
当時は、まだ5年くらいだったので、”あのアパートにジョンの魂が宿ってるのかな”とか、思ったんでしょうね。そこに行って、空を見上げてみたいと思ったんですよ。
何が一番辛かったと言ったら、人の裏切り。でも、それも良くないんですよ。今考えると裏切りでも何でもなくて、”生活していく” ”親の面倒をみていく”という理由で、メンバーはやめていったわけですから。それを裏切ったと思っていたのは、若いと青いは違いますから。やっぱり青かったんだろうなって思うんですよね」



>>来週も引き続き、高橋ジョージさんをゲストにお迎えして、さらなるターニングポイントに迫っていきます。お楽しみに。



*
*

2015.09.13

「全部ぶっ潰したいですね」:加藤雅也
『Orico presents FIELD OF DREAMS』では、夢を叶えた方、今まさに夢に向かって突き進んでいる方をゲストに迎え、その人生のターニングポイントに迫っていきます!

今日のゲストは、先週に引き続き、現在公開中の映画『アンフェア the end』に出演されています、俳優の加藤雅也さんです。

●海を越えて


川田「加藤さんは23歳でモデルとして活動開始をして、翌1987年、当時の夢だったパリコレ・デビューを果たしました。その後、モデルから俳優へ転身されるわけですが、これはどういうきっかけだったんですか?」

加藤「パリコレに出られたことは良かったですね。逆に世界各国のモデルを見て”これは無理”っていう…。かっこいいという事に関しては、美の基準が違いますけど。スタイル的に、身長や骨格の問題なんですよ。
洋服が大きすぎて多くの服を着こなせない、そういうのは自分の中で物理的に無理だと考えていて、この先モデルを辞めるんじゃなくても、何か考えないとなと思っていました」

川田「その時に、演じる方へいこうと思ったんですか?」

加藤「俳優って基準がないじゃないですか。身長が高いからなれない、太ってるからなれないとか、そういう基準がない方が弾かれる事がないんじゃないかと考えて、そういう表現がいいんじゃないかと…。もし基準があったら、なってないですね」

川田1988年、25歳の時に映画『マリリンに逢いたい』で俳優デビューを果たしましたね。のちに、どういう活動をされていくんですか?」

加藤「映画『マリリンに逢いたい』の、初日舞台挨拶を終えたあとに、ハリウッドを見て、ニューヨークに行って、もう一回パリコレに出ました。事ある毎にロスへ行って、いろんな人を紹介されてコネを作っている中で、日本でも合作とかチャンスが出てきたんですよ。
外国映画も3本くらい撮って、最終的に向こうから『来ないか?』という話になって…。1年かからなかったと思います」

川田「ロスではどれくらいの期間いたんですか?」

加藤「丸々、日本に帰ることがなかったのが5年くらい、そのあと5年行ったり来たりみたいな感じでした。行った以上は、英語も勉強しないといけないし、意外とロスで遊んでないんですよ。遊ぶ所はいっぱいあるけど、目的はそこじゃなかったので、”しょうがないな”って」

川田「5年間のロス生活も経て、また日本へ戻ってきたと」

加藤「向こうではジャッキー・チェンがブレイクした頃なので、日本人よりも中国人が重宝される時代だったんですね。「ラストサムライ」以降、日本人も認められたんですけど、そういう意味ではアウェーでしたね。
それに、「9.11」もあって、その頃は撮影もストップしていました。むしろハリウッドで作るのではなくて、オーストラリアとか外で作るようになったんですよ。そうなると、現地の俳優を使うので、メイン以外は連れていけないみたいな。そうすると厳しくなるんですよ」

川田「アメリカにいない方が、チャンスがあるということですか」

加藤「流れっていうのがあるから、そこに乗るか乗らないかなので、違うなみたいな。ある時に中国人の俳優に『おまえはハリウッドで何をしたいんだ?』と言われました。オーディションは行くけど、なかなか受からない、でも、作品で言う銀メダル、銅メダルをとることはあった。
”金が取れないのは何故なのか?”それは、英語がパーフェクトじゃないというところで落とされる。そういうのって、やり続けたくなるじゃないですか?すごい自分の中で後ろ髪引かれる時があって。
そういう時に友達に『おまえがやりたいのは、どういう映画だ?』と言われて、”これこれ、こういう映画をやりたいんだ”と言うと、『考えてみたら、おまえの場合、いいクリエーターと一緒に仕事がしたいんだろ?それだったら、日本にだって良い監督がいっぱいいるじゃないか』と言われたんですよ。
昔は英語を喋れる俳優を探していて、今は演技ができる俳優で、英語が喋れたらいいじゃないかと、彼らの考え方も変わったんですね」

●舞台に立ち続けること


川田「今後、加藤さんの中でやってみたい役はどんな役ですか?」

加藤「今まで僕がやってきたイメージのキャラクターじゃないものをやりたい、全部ぶっ潰したいですね。「BROTHER」とか、「荒ぶる魂たち」で、アウトローをやったものですから、強烈なイメージが残っていて。
そっちのイメージがいき過ぎたので、もうちょっと普通のおじさんとか、関西のおっちゃんとか、やってみたいですね」

川田「それでいくと、舞台をやられたのも新たな事ですよね?」

加藤「舞台は自分に演技力がないので、避けて通ってきていました。昔、つかさんにお話いただいた時も断わっているんですよね。それが、ものすごく自分の心の中に残っていて…」

川田「舞台を初めてされたのはいくつの時だったんですか?」

加藤「45歳ですね。”出来て当たり前”と観られてやるプレッシャーとか、”45歳にもなって台詞忘れたらどうしよう”っていうプレッシャーの方が大きくて(笑)。
今では、もっと早くやっておけば良かったというのと、やってみて、こんなに楽しいものは無いって思いましたね」

川田「大変なところだけど、やって良かったと思えたんですね」

加藤「結局、嫌だなと思うところにチャレンジした時に、自分の好きなことがあるのかもしれないし。けっこう神様っていたずらで、”俺はこういうの嫌だ”ということに、自分の才能とか道が開けることがあったりすることが多いんですよ。
俳優デビュー50周年が75歳くらいなんですけど、その時にやってみたい舞台があるんですよ。それは、大滝秀治さんがやった『巨匠』という舞台なんですよ。
もうお年だったんですけど、切れるような表情でやっていて。その舞台を観た時に、『俳優の世界って、こういう世界だよな!』って思ったんですよね」

川田「そうなると、75歳までは、とにかくまだまだ走り続けないといけないわけですね」

加藤「そうですね。足腰鍛えて、ちゃんと立てるということ。声が出てるように節制した状態でないと立てないでしょうね」



*
*

2015.09.06

「とにかく勉強しよう、経験しようと思いました」:加藤雅也
『Orico presents FIELD OF DREAMS』では、夢を叶えた方、今まさに夢に向かって突き進んでいる方をゲストに迎え、その人生のターニングポイントに迫っていきます!

今週お迎えするのは、現在公開中の映画『アンフェア the end』に出演されています、俳優の加藤雅也さんです。




川田「加藤さんの第1のターニングポイントは、いつ、どんな事があった時ですか?」

加藤「大学を卒業する、もうすぐ23歳になるという前ですね。「MEN'S NON-NO」というファッション雑誌のモデルに選ばれた時です」

川田「大学が横浜国立大学ですが、どういったことを専門に勉強されていたんですか?」

加藤「僕は、ゼミがバイオメカニクスと言って、今でこそ、”バイオ”という言葉がありますけど…。”人体の”とか、そういう意味で。スポーツ力学みたいなことを勉強していました」

川田「そこから芸能界へ、というのはどういう流れがあったんですか?」

加藤「モデルの仕事をするようになったきっかけは、知り合いの方がモデルクラブのマネージャーになったんです。その方は俳優を目指していたんだけど、夢を諦めてレンタカー屋で働いてたんです。でも、芸能界に未練があってマネージャーになられて、その方から声がかかったんです。
僕はこの大学に来て、これをやりたかったのかと、分からずに来てました。その時にこの話があったので、とりあえずやってみようと思って。試行錯誤しながらやって、卒業直前に「MEN'S NON-NO」に決まったので、これは流れに乗ってる可能性があると。一つの目安になりました」

川田「なるほど」

加藤「俳優、モデル、歌手、人が認めてくれないといけない職業なので、試験をパスしないといけないわけじゃない。これに選ばれるということは、何か時代性に合ってるのではないかと思って…」

川田「その方に声をかけてもらうまでは、ご自身はモデルをやりたいと思ったことはあったんですか?」

加藤「まったく思ってないですね。モデルの仕事は、スーパーのチラシとかテレビのコマーシャル、結婚式場のパンフレット、”こんなことまでモデルの人がやってるんだ”というのは驚きでした。

川田「それも知らないくらいだったんですね」

加藤「やれば、やっただけの答えが返ってきたので、これは面白いなって」

川田「失礼ですが、身長は何センチですか?」

加藤182センチですね、モデルの時なんかは185センチって嘘書いてました(笑)。みんな嘘書いてたんですよ、靴の中にシークレット入れてたりとかして…。
たまにオーディションの時に、デザイナーが『みんな、靴脱いで下さい』と言うと、みんなデコボコなんですよね(笑)」

川田「加藤さんは他のモデルさんと比べると?」

加藤「小さいですね。185、6センチがアベレージで、たった2、3センチであっても体が全体的に違うんですね。
当時はギリシャ彫刻みたいなマッチョな人達で、服もでかかったんですよ。だから、ファッションモデルになるのはけっこう厳しかったですね」

●変わっていくもの


川田「モデルの道を歩み出した加藤雅也さんですが、大人気だったファッション誌「MEN'S NON-NO」のモデルを、1年ほどされていたんですか?」

加藤「そうですね。2年目はちょっと減りながらもやっていました」

川田「阿部寛さんも同期として活躍されていましたよね。横浜国大に行かれてる方って、一般的に堅い所に就職される方が多いと思いますが、その中でモデルを選ぶというのは、相当な勇気がいると思います」

加藤「そうですね。勇気もいりますけど、リサーチもしました。向いてるか、向いていないか、色んな人の意見を1年かけて聞きました」

川田「そこは冷静に判断されているんですね。」

加藤「せっかくやるなら、成功しないといけないと思うし。”駄目だった場合、どうするのか”っていうのもあって。父は好きな事をやってみろと、何か困った時は、大学を出ただけの知識を持って解決すればいいという考えだったんですよ。
大学のゼミの先生は、『お前が成功するかは分からない。この4年間お前を見てきて、のたれ死にするタイプではないので、やるだけやってみろ』という先生で、ある程度成功して、金があるときにこそ勉強をしろと、得た知識と経験は絶対になくならないから、それを持って復活してこいという教えがあったので。それを元に、V」

川田「そこからどういう行動に移したんですか?」

加藤「東京コレクションをやるために、ファッション誌の後ろにプレスルームの電話番号が書いてあるんですよ。全部に電話かけて、直接写真を持って行ったんですよ。
受けてくれる人もいるし、受けてくれない人もいる。そういうことを繰り返して、モデルの世界はどういう風なシステムでオーディションが行われて、どういう風に決まっていくかを勉強しました。そういう事をやっていると、助けてくれる人が出てくるんですよ。
その人の助言で、一つ進んで東京コレクションに出られるようになって。次に、イッセイミヤケさんが、久しぶりにメンズのコレクションを日本でやるというのに居合わせたので、オーディションに行って東京で出たんですよ。その勢いもあって、パリに行ったろって決めて。
日本には外国人のモデルクラブがあるので、マネージャーの所に行って、向こうにどういうエージェンシーがあるかリストを聞いて、あとはチケットを買って、行くしか無いですよね」

川田「それも全部、自分で手配してやっていたんですね。けっこう大変ですよね」

加藤「英語が出来ないので、とにかく自分で行かないと。それが自分にとっては、今となってはすごい財産ですよね」

川田「見事パリコレデビューをされまして、夢を一つ叶えました。その時は、どういう感覚なんですか?」

加藤「パリコレに行くと、モデルが本当にカッコいいんですよ。背も高いし、ものすごい身体してるし、スタイルはいい。
物理的に無理、服が大き過ぎて合わないんですよ。クリスチャン・ディオールのオーディションは、入り口に186センチのプレスの男の子が立っていて、その子より低いのは全部さよなら。東洋人だから無理、じゃなくて、物理的に無理。これを一生の仕事には出来んぞと感じたんですよ。
今だったら、僕のサイズでも大丈夫なんです。今はモデルが細くて小さくなっていて、時代の流れがあるんですね。



>>来週も引き続き、加藤雅也さんをゲストにお迎えして、さらなるターニングポイントに迫っていきます。お楽しみに。


*

感想・メッセージのご応募はこちら

Message

ご応募はこちら

AIR TIME

AIR-G'(FM北海道)
(日)07:00〜07:25
エフエム青森
(土)12:30〜12:55
エフエム岩手
(土)12:00〜12:25
Date FM(エフエム仙台)
(土)12:30〜12:55
エフエム秋田
(土)12:00〜12:25
エフエム山形
(土)08:30〜08:55
ふくしまFM
(日)09:30〜09:55
FMぐんま
(日)07:00〜07:25
TOKYO FM
(土)12:30〜12:55
RADIO BERRY
(土)12:30〜12:55
FM-NIIGATA
(土)08:00〜08:25
FM長野
(土)12:30〜12:55
K-mix
(土)08:30〜08:55
FMとやま
(土)08:00〜08:25
エフエム石川
(土)09:00〜09:25
FM福井
(土)12:30〜12:55
@FM(FM AICHI)
(日)08:00〜08:25
FM GIFU
(土)12:30〜12:55
FM三重
(土)11:30〜11:55
FM滋賀
(土)09:30〜09:55
FM OH!
(日)07:30〜07:55
Kiss FM KOBE
(土)09:00〜09:25
エフエム山陰
(土)09:30〜09:55
FM岡山
(土)11:00〜11:25
広島FM
(土)09:30〜09:55
エフエム山口
(土)11:30〜11:55
FM香川
(土)12:00〜12:25
FM愛媛
(土)07:30〜07:55
FM−TOKUSHIMA
(土)12:30〜12:55
エフエム高知
(土)09:00〜09:25
FM FUKUOKA
(土)08:00〜08:25
エフエム佐賀
(土)09:00〜09:25
エフエム長崎
(土)09:30〜09:55
エフエム熊本
(日)08:30〜08:55
エフエム大分
(土)12:30〜12:55
エフエム宮崎
(土)12:30〜12:55
エフエム鹿児島
(土)09:00〜09:25
FM沖縄
(土)08:30〜08:55

page top