Orico presents FIELD OF DREAMSOricoFIELD OF DREAMS

この番組では、「夢に向かって頑張っている人を応援する」をコンセプトに、夢をかなえ活躍する方々をゲストに迎え、そこに向かうまでのプロセスや、努力、苦労、そしてかなえたときの喜びを深く掘り下げていきます。

パーソナリティ 川田裕美プロフィール


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2015.11.29

「運がきた時に動ける体であるかというのが大事ですね」:魔裟斗
『Orico presents FIELD OF DREAMS』では、夢を叶えた方、今まさに夢に向かって突き進んでいる方をゲストに迎え、その人生のターニングポイントに迫っていきます!

今週のゲストは、今年の年末6年ぶりに、再びリングに立つという世界王者キックボクサーの魔裟斗さんです!

魔裟斗さんと言えば、「K-1 WORLD MAX」の2003年と2008年の世界王者。
これまでの生涯戦績は63戦55勝2分、そのうち25回はKO勝ちという輝かしい成績を残されています。

今週と来週は、魔裟斗さんの人生のターニングポイントについてお話を伺っていきます。



●あるがままに


川田「魔裟斗さんが、キックボクシングを始めたきっかけは何だったんですか?」

魔裟斗15歳の頃にボクシングから始めたんですよ。それは、高校を辞めるための、親を納得させる理由でした。僕も親になってわかるんですけど、せめて、高校くらい出ろよって思いますよね」

川田「その時は、『いいよ』と言ってくれたんですか?」

魔裟斗「親っていうのは、子供が生まれた瞬間から子供のことを知っていて、どういう性格かよく分かっていますよね。言い出したらきかないと分かっていて、半ば諦めですよね(笑)。
僕の中では、学校を辞めて遊ぼうという安易な考えがあったんです。でも、それも親は分かっていたので、辞める前からいくつかのボクシングジムを見学に行って、ここがいいだろうというジムを決めて、連れて行かれましたね(笑)」

川田「さすが、先回りされているんですね(笑)。それでは、遊ぶ時間もなく練習を始めたんですね。そこからキックボクシングに?」

魔裟斗「2年間ボクシングをやってたんですけど、プロテストの直前にジムを辞めてしまったんです。当時行っていたジムが、練習生が多くて、プロテストがあるんだけど、スパーリングがやれないほど多かったんですよ。
こっちは不安じゃないですか。”大丈夫かな?”と思って、プロテストを受けずに辞めちゃったんです」

川田「そして、17歳の時にキックボクシングを始めて。この時は、すぐにプロテストと…、トントン拍子に進めたんですか?」

魔裟斗「プロになってやろうという意識が、まずなかったんですよ。ボクシングを辞めて、たまたま近所にキックボクシングのジムがあって、力も有り余っていたので、フィットネスの感覚で始めたんですよね」

川田「じゃあ、『プロテストを受けてみないか?』と言われた時も、まだ思っていなかったんですか?」

魔裟斗「”やだな”と思っていましたけど、押しの強い会長だったので、押しに負けたという感じですね。大した練習もしないでプロテストは受かっちゃったんで、会長がデビュー戦を決めてきて、『すぐ、勝てるよ』って、言うんですよ。
18歳の僕もその気になって、いざ試合やったら1ラウンドで勝っちゃって、だいぶ天狗状態ですよね(笑)」

●誰にも負けない自信


川田「魔裟斗さんは、わずか2年、20歳で全日本キックウェルター級第19代の王者になります。そのあとに、第1のターニングポイントがやってくるんですよね?」

魔裟斗1999年、20歳の頃に所属していた全日本キックボクシング連盟をやめて、フリーという立場になったんですよね」

川田「なぜ、連盟を脱退しようと思われたんですか?」

魔裟斗「キックボクシングを始めて、デビューしたのが18歳の頃だったんですけど。その時って、その世界のことをわかっていなかったんですよね。チャンピオンになったら、”このくらいの収入が得れて…”という、自分の思っている感じと現実が違ったんですね。
自分がステップアップするためには、辞めないといけないというのが1番の理由ですね。当時テレビでK-1がやっていて、リングサイドで、いろんな芸能人の方がいて、華やかな世界だなって…そのリングに出たいなと思ったんです」

川田「そんなに、K-1とキックボクシングの差は大きかったんですか?」

魔裟斗「全然違いましたね。当時のK-1と言ったら東京ドームでやったり、すごかったですからね。やっぱり、同じ練習をしてK-1に出てる選手と、僕の練習の量、どっちが多いかというと、僕の練習の方が多い自信があったんですね。
K-1の今の選手が出てるより、僕の試合をテレビでやったほうが、人気が出る自信があったんですよ」

川田「その絶対的な自信があって、フリーになられたと?」

魔裟斗「そうですね。ただ、フリーっていうのはあり得ないですからね」

川田「今まではいらっしゃったんですか?」

魔裟斗「いないですね。基本的にはジムに所属して、そのジムが格闘技の団体に所属してるから試合がある、っていう状態なんですけど」

川田「では、所属していない状態だったら練習はどうするんですか?」

魔裟斗「練習場所がまずないので、どうしようかなって。”今やれることをやるしかない”から、とりあえず走ることと、シャドーボクシングだけだなって。その時に東京に一人で出てきて、全て一人になってしまったんです」

川田「一人暮らしも初めてで、不安になりませんでしたか?」

魔裟斗「不安にもなるし、ストレスも溜まりますよね。やっぱり、前のキックボクシングの団体に戻ろうか、普通に働こうかとか、悩んだりしましたね。この時は辛かったんですけど、その時に言われた言葉が、『高く跳び上がるには、一回多きくしゃがまないとダメなんだよ』と、ある人に言われたんですよ」

川田「そう思って、次に跳び上がった舞台が『コロシアム2000』ですよね。これが東京ドームで行われる舞台、このチャンスはどうやって掴んだんですか?」

魔裟斗「コロシアム2000が放映されたのが、テレビ東京だったんですよ。以前、全日本キックボクシングにいた時に、テレビ東京の番組で『格闘コロシアム』っていう番組があって、そのプロデューサーが、たまたま渋谷の街にいたんですよ。それで、その場で『コロシアム2000に出してください!』って、言ったんですよ(笑)」

川田「ばったり会ったんですか?」

魔裟斗「たまたまバッタリ会って、『出してください!』と言ったので出してくれたんですよ」

川田「それも、運なのかもしれないですね。それを掴むも、掴まないも自分次第ですよね」

魔裟斗「運って大きいと思いますよ。あと、運がきた時に動ける体であるかというのが大事ですね。いつ、何が、来てもいいように、準備だけはしておこうというのを止めなかったんですよね」

川田「この時も、TKO勝ちができたわけですよね。

魔裟斗「それで、当時TBSのK-1MAXのプロデューサーが、たまたま観に来ていたんですよね。それで、『あ、魔裟斗知ってる』となったんですね」



>>来週も引き続き、魔裟斗さんをゲストにお迎えして、K-1の舞台にたち、第2のターニングポイントを迎えたお話など、うかがって行きます。
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2015.11.22

「我々の迷走した感じを、一緒になって楽しんでいただければと思います」:天野ひろゆき
『Orico presents FIELD OF DREAMS』では、夢を叶えた方、今まさに夢に向かって突き進んでいる方をゲストに迎え、その人生のターニングポイントに迫っていきます!

今週のゲストは、先週に引き続き、お笑いコンビ・キャイ〜ンの天野ひろゆきさんです。
お笑い芸人であり、映画監督であり、お料理のレシピ本や資産運用の本などもリリースされている多才な方です。

1991年キャイ〜ンでデビュー後、まもなくして参加した『オールスター水泳大会』が、第1のターニングポイントでした。
この番組での経験から仕事への向き合い方が変わったという天野さん。
今週は、その後の天野さんに起こった、人生のターニングポイントについてお話を伺っていきます。



●別離をこえて


川田「天野さんに再び訪れたターニングポイントとは、どんなターニングポイントだったんですか?」

天野1999年、29歳の時ですね。初代のマネージャーが亡くなってしまった時です。先週話した、『水泳大会』で言い合いになっていたマネージャーですね」

川田「それは、事故だったんですか?」

天野「喉頭がんという、喉のがんでした。その人は病院が好きじゃなくて、あまり行かない方だったんですよね。僕らが気付ければよかったんですけどね」

川田「おいくつくらいだったんですか?」

天野「亡くなられたのは、50歳くらいだったと思います。僕らより1回り以上離れていたので。僕は生意気だった頃ですから、当時、いろんなこと言っちゃったんですよね(笑)。デビュー当時、ウドちゃんが注目されているという話をしましたが、そんな時もウドちゃんだけで依頼がくるわけですよ。そういう時も『どうにか、キャイ〜ンでやれないでしょうか?』みたいな事を言ってくれていたと、後に知るわけですよ」

川田「そういう事だったのですね」

天野「そうすると、僕がいかに愚かな人間だったか気付いて、感謝をし始めるんですよ。”矢島さんと、これからも頑張っていこう!”と思っていた矢先に、そういうことになってしまって……。僕たちが、ゴールデンの番組とかをやらせてもらうようになった時ですから、辛かったですね」

川田「一番最初の駆け出しの時から、だんだん忙しくなって、人気が出て……というのも、この方の力は大きかったんですね」

天野「矢島さんは、ゴリ押しして仕事をとるという感じではなくて。現場の人が、みんな愛してくれていたというか、人気があったんですよ。テレビに出たら、超面白い感じなんですけど。見た目は揚げシュウマイみたいな、浅黒い感じでしたね(笑)」

川田「それ、どういう方ですか(笑)。そのマネージャーさんに言われて、覚えてる言葉とか、やってもらって嬉しかったことはありますか?」

天野「病院に入院されて、”治ることはない”と僕らに言われて。矢島さん自体には、お話してなかったそうですけど。本人は気付いてたところはあったと思うんですよね。
最後に、病院にお見舞いに行こうと、『これは、絶対に矢島さんに気付かれちゃいけないから、絶対に泣かないで見舞うんだ!』という話をして、副社長と俺と、ウドちゃんで行ったんですけど。痩せた矢島さんを見たら、俺、涙が止まらないんですよ。嗚咽しながら、矢島さんの方から『ごめんな、すぐに現場行くからな』と言ってくれて」

川田「矢島さんの方が気を使わせないように、そう言ってくれたんですね」

天野「それがまた、俺はわーっとなっちゃって。でも、ウドはすぐ泣く方なんですけど、その時は泣かないんですよ。本当にあいつ、強いやつだなと思いますね。
矢島さんは『天野、お前は次に何やりたいんだ?』と、いつも聞いてくれたんですよ。それをすごく覚えています。
そういうのが枯渇しちゃうことが、人として寂しいと、南原さんも共通してるのは、アンテナ張って、自分が興味ある事とか、そういうことがないと大変な世界。だから、俺はいつも、自分で考えるようにしていますね」

●キャイ〜ンとして


川田「キャイ〜ンは、デビューして今年で24年。最近の天野さんは、蓄財術を紹介する本を出されたり、お料理のレシピ本を出されたりと、活動の幅が広がっていますね。先月出されたのが『天野っちのシアワセごはん』ですね。拝見させていただいて、かなりプロっぽい、すごいレシピですね。本格麻婆豆腐とかも…」

天野「番組の企画で、とあるミシュランとっているような中華屋さんの麻婆豆腐を、味覚で何を使っているか当てて、その店の味を再現するみたいな企画があったんですよ」

川田「拝見しました!天野さん、ほぼ全部当ててましたよね」

天野「それで教えてもらって作った麻婆豆腐ですね(笑)」

川田「こういった本格的なものもあれば、唐揚げに白だしを使った唐揚げとか、びっくりしましたね。家にあるもので、できたりするんですよね」

天野「白だしだと綺麗になるんですよね。すき焼きのタレと、生姜のチューブで”生姜焼きのタレ”になるとか、そういうのも簡単だし。寿司酢とマヨネーズで、コールスローが簡単にできるとかね」

川田「ぜひ、やってみたいと思いますね。そして、キャイ〜ンのお2人が、これからでやったみたいことは何ですか?」

天野「最近ね、やっぱり漫才はベースにあるので、少しネタをやらせてもらう機会も増えたので、漫才はちゃんとやっていこうと思ってますけどね。原点回帰みたいなね」

川田「じゃあ、ライブとなると本数もいると思うんですけど。そういう作る時間はどうされているんですか?」

天野「そういう時、ウドちゃんは、ほぼノータッチなんだよね(笑)。ちょいちょい世の中の話題とかを気にしながら、気になることは書き留めるようにしていますけどね」

川田「それを披露するとなると、どのくらいの時期を目指すんですか?」

天野「年内、テレビでもやれそうなところがあると思うので。舞台は、もうちょっとかかると思いますけど。我々の迷走した感じをね、一緒になって楽しんでいただければと思います(笑)」

川田「ネタも、天野さんが考えられたことが、本番になってどうなるか分からないという(笑)」

天野「ウドちゃんが変なところに間を空けたりね(笑)そこも踏まえてキャイ〜ンだと思っていただけると(笑)」


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2015.11.15

「助け舟が泥舟なんですよ(笑)」:天野ひろゆき
『Orico presents FIELD OF DREAMS』では、夢を叶えた方、今まさに夢に向かって突き進んでいる方をゲストに迎え、その人生のターニングポイントに迫っていきます!

今週のゲストは、お笑いコンビ・キャイ〜ンの天野ひろゆきさんです。

お笑い芸人であり、映画監督であり、お料理のレシピ本や資産運用の本などもリリースされている多才な方です。
天野さんがウド鈴木さんとキャイ〜ンを結成されたのは1991年、21歳の時。

2週に渡って、天野ひろゆきさんの人生のターニングポイントについてお話を伺っていきます。



●気持ちの変化は


川田1991年にコンビを結成されて、その頃に第1のターニングポイントを迎えるわけですね」

天野1991年の21歳、デビューしてすぐの頃に『オールスター水泳大会』に出場したんですね。中山ヒデさんが司会で、アイドルの人たちが集まって行う水泳大会なんですけど、デビュー当時、ウドちゃんのインパクトが強くて、ウドちゃんで仕事をもらっている感覚も自分の中であったんですよ。
その時に言われた仕事が、アイドルの女の子達が発泡スチロールを渡る、それを支えるっていうだけの役目だったんですよ」

川田「リポーターとかではなく、ですか?」

天野「そうですね。競技に出るわけでもなくて、ウドちゃんは幾つか競技があって、天野少年は傷つくわけですよ。尾崎豊も聴いていたので、『俺は、こんなことをやるために果たして来たのか?』っていうことで(笑)。
ウドちゃんへのジェラシーもあったと思います。そういうのが全部からまって、『俺はいかない!』と、当時のマネージャーさんに言って、そんなの若手ではあり得ないんですけどね」

川田「あんなに大きな番組ですから、行くことに意味があるというか…」

天野「しかも、先輩が司会をされている番組でね。マネージャーも『いやいや、困るよ』と言って…。ただ、マネージャーもどこかで、漫才やネタをやりたくて、これ自体を望んではないということを理解してくれていましたけどね。
ま〜、若い頃の僕はひどかったですね。今思えば、何をやるにも自信が無かったんだと思いますけどね」

川田「結局、行かなかったんですか?」

天野「やらなかったんですよ。散々マネージャーとやり取りして、一つ終わって…テレビつけたら、ウドちゃんがノリノリで発泡スチロールを持っていたんですよ(笑)」

川田「それを見て、どう思うんですか?」

天野「随分、方向性の違う人と組んじゃったなって(笑)。ウドちゃんはアイドル水泳大会とか、出たくてしょうがなかったんですよ。今思うと、与えられた場でいかに面白くやるかってことも大事だなとも思います」

川田「今、後輩が同じことを言ったらどうですか?」

天野「『何言ってんだバカ、やれ!』って言いますね(笑)。帰りのバスで、悔しくて僕は泣いてましたね、情けなさもあったんだと思います」

川田「かなり苦労の時代があったんですね」

天野「ウドちゃんは、なんで俺が泣いてるのか、よく分からなかったと思いますよ(笑)」

川田「それがまた、ウドさんの良さだったりしますよね(笑)」

天野「ただね、どうでもいいプライドかもしれないけど。”次呼ばれる時には、もっとちゃんとしよう”とか、”もっと自分のやりたい事が出来るように頑張ろう”と思ったんですよね。『嫌だ』と、言うだけは簡単じゃないですか。そこから気持ちは変わりましたね」

●漫才がやりたくて


川田「おふたりは、どういう芸人さんを目指していこうと思っていたんですか?」

天野「漫才から始めたんですけど、漫才がすごく楽しくて。ネタはちゃんとやろうという気持ちはありました」

川田「天野さんが作られたものを、ウドさんはどうやってアレンジしていくんですか?」

天野「アレンジというよりは、時折忘れながら、余計な事を言いながらで(笑)。僕は大体、ネタが8割で、ウドちゃんが120%にしてくれてるみたいな。ウドちゃんなりの変な返しがあったりとかして、そのとき、他の方が面白く見えちゃうみたいなボケがあったり…。
ネタで書いて、実際にウドちゃんとやることで完成するという感じです。それで、ウドちゃんは寝ると忘れちゃうので(笑)。毎回、新ネタをかけてるみたいなドキドキ感、本当はいらいなんですけどね(笑)」

川田「それはドキドキしますね〜(笑)」

天野「初期の頃なんかは特に心配だから、俺がまず最初に喋る、で、ウドちゃんがボケる。ひたすら交互に(笑)。そうすると、俺のきっかけで”これを言われたら、これを言う”というように、覚えるじゃないですか。
でも、そうすると単調になっちゃうから、あるとき変えると、ちょっと忘れる時があって…(笑)。ウドちゃんが忘れるのは、俺は頭の中にあるから戻せるけど、俺が飛んだ場合はもうダメですね」

川田「そういう場合はどうするんですか?」

天野「そうすると、ウドちゃんがちょっと覚えてるじゃないですか?自然に教えてくれればいいじゃないですか。ウドちゃんは、耳打ちしちゃったりするから(笑)。『天野くん、今ここだから』って(笑)。そういう時、何かテクニック出せよって(笑)。助け舟が泥舟なんですよ(笑)」

川田「天野さんも、何が返ってくるかわからないっていう怖さと面白さがあるんですね(笑)」



>>来週は天野ひろゆきさんの第2のターニングポイント、そして、レシピ本をリリースされるほどお料理上手な天野さんに、幸せになるレシピを教えていただきます。
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2015.11.08

「人生がオーバーラップしているような作品なんですよね」:HIDEBOH
『Orico presents FIELD OF DREAMS』では、夢を叶えた方、今まさに夢に向かって突き進んでいる方をゲストに迎え、その人生のターニングポイントに迫っていきます!

今週のゲストは、先週に引き続き、タップダンサーのHIDEBOHさんです。
HIDEBOHさんは、両親ともにタップダンサーという家に生まれ、6歳からタップをカラダに叩き込んできた生粋のタップダンサー。

1のターニングポイントは、1989年、21歳の頃、映画「タップ」を観てアメリカのタップダンサー、グレゴリー・ハインツに刺激されニューヨークへ渡ったこと。
その経験が、HIDEBOHさんのその後のタップ人生に大きな影響を与えます。

今週は、HIDEBOHさんの第2のターニングポイントについてお伺いしました。



●時を経て……


川田「第2のターニングポイントが、2003年公開の北野武監督の映画『座頭市』への参加ということですが、この時はおいくつですか?」

HIDEBOH「35歳から36歳にかけてくらいですね」

川田「もともとは、どういう出会いだったんですか?」

HIDEBOH「不思議に不思議で、僕の親父がハーモニカを吹いて、漫才をしながらタップダンスをする、という浅草の芸人だったんですね。僕が6歳のときは、舞台の袖から、親父の舞台を観ていました。そこに出ていたのが、ツービートさんでした。『坊主、また来てるな〜』なんて言われながら、時を経て、とある番組で再び出会うんです。
父がケリーヒグチと言うんですけど、『ケリーの息子なんです…』ということになって。武さんの師匠である深見千三郎師匠が、『芸人はタップくらいできないとダメなんだよ』と、いつも仰っていたみたいで。武さんは、ずっとタップをおやりになっていたんですけど、漫才ブームなどがあってしばらくやっていなかったんです」

川田「そうだったんですね」

HIDEBOH「それで、武さんが『改めてタップをやりたいんだけど』と言って始められてから、13年くらい経つんですね。『座頭市』のちょっと前に、再びタップをを始められて、それから『座頭市』になった、という経緯なんですよ」

川田「映画から、北野監督の”タップがお好きだな”という事が伝わってくるんですけど、それは感じられましたか?」

HIDEBOH「感じますね。新たなる出会いから、タップを教えさせていただく経緯となったんですけど。北野監督もお忙しいので、テレビ番組の収録の合間にしか時間がないんですよ」

川田「ええ〜!そんなに…」

HIDEBOH「収録の合間に行って、2ステップ、または3ステップくらいをお渡しして。武さんは1日2時間ずつおやりになって、足りない時は、タップの練習ビデオを作ってお渡しするんです。芸能人の方がタップダンスをやる、という隠し芸的なことではなくて、そうとうな本気のタップへの思いとか、移動車の中でギターを練習してたりされているんですね」

川田「すごいですね」

HIDEBOH「武さんの練習場か何かですかね?壁に年表が貼ってあって、謙虚なので『バカだから、忘れちゃうんだよ』とか言うんですけど。歴史の年表が壁に全部貼ってあって、そうやって勉強されているんですよ。仕事のためではなくて、ご自身の為のことをずっと磨いてるイメージですね」

●新たなる出会いから生まれたもの


川田「映画『座頭市』から12年後の今年、HIDEBOHさんは北野武さんと再びタッグを組んで舞台に挑戦しているんですよね。東京銀座の博品館劇場で、現在公演中の舞台『海に響く軍靴』1115日(日)まで行われています。これは、どういったスタートだったんですか?」

HIDEBOH「『座頭市』より2年くらい前に、武さんがタップを改めて始められた当時仰っていた話で、小野田さんという、戦争が終わっても30年間フィリピンのルバング島という所にいた方の着想を得て、武さんが作られているので。
”日本兵と黒人兵がタップで友情を結んでいく、ラストシーンは、カメラが青空に向かうとタップの音だけが鳴り響いて…”というお話を、ずっとされていて…」

川田15年前から構想はあったんですね」

HIDEBOH「そうなんですよ『いい話だよ〜、HIDEBOHさん主役だよ』なんて言って、ドキっとしながら、いつこの映画は撮られるのかなと思いながら(笑)。『座頭市』もあって時は過ぎるわけですけど。前に仰っていたのが『この話は、もうちょっと歳いってからやるのがいいんだよな』と言っていたんです。
僕が3年前に、銀座の博品館劇場で『タップ・ジゴロ』というミュージカルを、主役でやらせていただいて。武さんがいらしてくださったんですね。
その時に、『例のあの話なんだけどさ、映画もいいんだけど、タップだから生でやるのもいいかもね。まずは、舞台でやってみようか』と、2年くらい前に仰ったんですね」

川田「武さんの中では無くなったわけではなくて、ずっと構想があったんですね。この舞台の主演がHIDEBOHさん、アメリカ兵役には黒人のタップダンサーのTamangoさん、女性記者役に島田歌穂さん。豪華ですね」

HIDEBOH「たった3人の舞台でございますから。特にTamangoさんとは、黒人兵と日本兵ということで、公演の真ん中はずっと2人だけで行われます。なかなかね(笑)ある意味、ストイックな舞台ですよ」

川田「見せ所というと、そこになりますか」

HIDEBOH「そうですね。Tamangoさんは、ニューヨークにいた時にお世話になった方なんですね。厳しいことを言う方が多い中で、『ニューヨークで生きていくには、こうしたほうがいいんだよ』と、唯一、僕に優しく教えてくださった方なんですよね」

川田「武さんもそうですけど、Tamangoさんとも長い付き合いがあって、舞台にたどり着いたという感じなんですね」

HIDEBOH「本当にパラドックスのように、僕は両親からタップを習っていますけど、小野田さん、武さん、Tamangoさん、いろんな方がパラドックスのように、人生がオーバーラップしているような作品なんですよね。皆さんの思いが詰まっていて、一緒に並行して皆さんがいるようなところがありますね」


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2015.11.01

「”ここで何かやらないと、人生変わらないな”と思ったんです」:HIDEBOH
『Orico presents FIELD OF DREAMS』では、夢を叶えた方、今まさに夢に向かって突き進んでいる方をゲストに迎え、その人生のターニングポイントに迫っていきます!

今回お迎えする方は、北野武さんの映画『座頭市』のハイライト、農民がタップを踊る…あの印象的なシーンを振付、監修し、ご自身も出演されました。
タップダンサーのHIDEBOHさんです。

HIDEBOHさんは日本のタップダンス界をけん引してきたタップ界の立役者。タップダンサーとして舞台に立ったり、演出や振り付けをされたり、幅広くご活躍されています。
今年9月には、世界規模のエンタテイメント・ダンス・コンペティション「Legend Tokyo Chapter.5」で、準優秀作品賞をはじめ、4部門の賞を獲得しました。



●タップとの出会い


川田「HIDEBOHさんとタップとの出会いは、生まれる前からと言っていいのでしょうか?」

HIDEBOH「両親がタップダンサーという、珍しい家庭だったんですよね。親父が、『OSK』という大阪の松竹の振付師で、お袋が、『SKD』という松竹歌劇団。その2人の間に生まれて、6歳からやっていました。生まれる前から聴いていたと言っても、過言ではないのかもしれないですね」

川田「6歳で始めた時って、どういう感覚か覚えていますか?」

HIDEBOH「物心はちょっとついていたんですけど、6歳から舞台に立っていたんですよ。”才能”とか”開花”と言ってくれる方がいるんですけど、よくわからないでやっていましたね」

川田「そうですよね。小学低学年というと、他にもやりたいことも沢山ありますよね」

HIDEBOH「僕は野球選手になりたかったですから(笑)。リトルリーグをやっていて、僕は、小学校卒業して『タップダンスをやめるね』と言っていたんですよ。それを、ダメと言わないんですよね。『いいね〜、野球がんばってね、応援してるから!』って言うんですよ(笑)。
『喧嘩してもいいよ』と言われると、喧嘩しないように、放任主義で。逆に”僕はタップなのかな?”となるんですよね」

川田「人に教えるっていうのは、早い段階だったんですよね」

HIDEBOH16歳くらいで、両親のアシスタントという形でお手伝いしていたという感じですね」

川田「そして、訪れる第1のターニングポイントですが、これがいつのことでしょうか?」

HIDEBOH「21歳の頃、もう亡くなってしまったんですけど、アメリカの有名なタップダンサー、グレゴリー・ハインズという方がいて、その方に出会ったのがターニングポイントと呼んで、過言ではないですね」

●成長し続けること


川田「第1のターニングポイントが1989年、21歳。グレゴリー・ハインズとは、どういった出会いだったんですか?」

HIDEBOH「実際は映画で有名な方でしたから、『タップ』という映画があって、日本で公開もされていて、大ファンでした。日本でコンサートにも来られていたんですよ。タップのライブって不思議で、みんな自分のタップシューズを持ってきてるんですよね。それにサインをしてくれたり、ステージ上に上がって、ジャムセッションということもやるんですよ。
僕もこのときに並んでいて、ほとんどが女性だったのを記憶してます。最後に並んでいて、”ここで何かやらないと、人生変わらないな”と思ったんです。そこで、彼が当時日本でやっていたCMを、いきなり踊ったんですよ(笑)」

川田「すごいですね(笑)」

HIDEBOH「空気が止まって、グレゴリーも僕の方を見たんですけど、お客さんから”ワッ!”と歓声があがったんですよ。すっとこどっこいな事をやったわけですけど(笑)、グレゴリーが、『君はちょっと待て』ということで、皆さんにサインをしたあとに、グレゴリー・ハインズと踊ったんですね」

川田「すごいですね、だって憧れの人ですよね」

HIDEBOH「夢のようなシーンでしたね、今でも鮮明に覚えています。その後に楽屋に呼ばれてお話をして、『実は、あなたの師匠のヘンリー・ルタンへ、弟子入りしにいこうと思っているんだ』と言うと、『名前といろいろ教えなさい』と言われて、ニューヨークに勉強しに行くようにと、紹介をしてくれたんですよ。これが、なかなか良い話なんですよ(笑)」

川田「それまでに、ニューヨークへ行こうと決めていたんですか?」

HIDEBOH「決めていました。タップダンスの本場や、グレゴリーの師匠は誰だとか、いろいろ調べているうちに、そうやって紹介をしてくださって…ドキドキしましたけど、やってよかったなと思いましたね(笑)」

川田「ニューヨークでは、まず何からはじめましたか?」

HIDEBOH「ヘンリー・ルタンのところで始めたんですけど、リズムが違うんですよね。簡単に言うと、日本の表で取るリズムが多いことに対して、ジャズの裏で取っていくリズムとか、全部違うんですよね。だから、まずリズムに戸惑ったんですよね」

川田「ダンス以外の部分では、ニューヨークに行って変わったことはありますか?」

HIDEBOH「憧れが大きかったので、日焼けしてドレッドにして、黒人さんの真似をするんですけど大否定されるんですよよね。
『君は日本から来てるけど、何のために来てるのか?僕たちのファッションを真似てだぶだぶな格好をしてるけど、ダメなんだ。日本のアイデンティティーを持ってこないと、マンハッタンにいる価値はないね』って、言われて」

川田「そんなにはっきり言われるんですか」

HIDEBOH「はっきり言いますね。はっきり言うから、裏表が無くていいところがあったんですけど。そういった言葉にはショックを受けて、”日本人がやるタップって何なのかな”って、考えたのは確かですね」

川田「それはどうやって乗り越えたんですか?」

HIDEBOH「日本に帰って、実は親父が京都出身なので、お寺とか見たんですよね。それから、能とか歌舞伎を見に行ったりしました。タップダンスも、古くは『高坏』と言って、歌舞伎のなかで下駄でタップをやってたりして、いろいろ研究したんですよね。日本の民族自体でのダンス、そういったものに目を向けるようになりましたね」



>>来週は、北野武さんとの出会い、そして、そのたけしさんと21年ぶりに再びタッグを組んで取り組んでいる舞台、『海に響く軍靴』のお話を伺っていきます!


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