Orico presents FIELD OF DREAMSOricoFIELD OF DREAMS

この番組では、「夢に向かって頑張っている人を応援する」をコンセプトに、夢をかなえ活躍する方々をゲストに迎え、そこに向かうまでのプロセスや、努力、苦労、そしてかなえたときの喜びを深く掘り下げていきます。

パーソナリティ 川田裕美プロフィール


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2016.01.31

ゲスト:菊池桃子さん
『Orico presents FIELD OF DREAMS』では、夢を叶えた方、今まさに夢に向かって突き進んでいる方をゲストに迎え、その人生のターニングポイントに迫っていきます!

今週のゲストは、先週に引き続き、菊池桃子さんです。

今週は、大学院を受験し、合格するまでの道のりや学生生活、大学の先生に至るまでの第2のターニングポイントについて伺いました。

──初めての著書「午後には陽のあたる場所」
タイトルに込められた思いとは


“人生の正午“という言葉を、菊池さんは進学相談のために訪ねた、キャリアカウンセラーから教えてもらったと書かれています。
分析心理学者のユングによると、人生を太陽の運行になぞらえて年齢に当てはめて考えると、”正午は40歳に当てはまる”と唱えました。
正午というのは迷いやすい時期であるため、そういった中で勉強を始めたり、気づきがあると、その後の人生の考え方が楽になるという学説です。

それを知った当時、菊池さんは39歳。
”午前中とは違う日の当たり方をするから、それを楽しもう”という、そんな思いが込められているタイトルなんです。

──子育てと受験勉強、仕事を並立させながら、2009年春 法政大学大学院 政策創造研究科へと進学

当時を振り返ると、「最初の1年間は専門用語についていけなくて、聞き取れないんです」と語る菊池さん。

家に帰ってからは、毎日辞書の引き直しをしていたそうです。
子育て、仕事に家事、”どうやってやっていたのか、自分でも思い出せないくらい”というほどの多忙な日々。

そういった生活の中で一番の支えになったのは家族のサポートでした。
お母さんの頑張る姿を嬉しそうに見守る子供たち、「なんでも言って!」と声をかけてくれるお子さんたちに菊池さんは励まされていました。

──第2のターニングポイント

そして訪れた第2のターニングポイントが、2009年41才のとき。
菊池さんは、ゼミの仲間や教授、周囲の人間から「先生に向いている」と言われたそうです。

それをきっかけに自身を振り返ると、”理解の出来ていない学生がいたとしても、気長に付き合える性格かも……”と自覚するようになった菊池さんは、”確かに向いてるかな”と意識も変わっていきました。

そして、修士論文を書き終わったときに、担当の指導教授から「助手をやりませんか?」と、アルバイトの誘いを受けることになります。
”どうせだったらチャレンジしたい!”と思った菊池さんは、助手のアルバイトを始めることになります。

──教育助手を経て、43才で母校の戸板女子短期大学の客員教授に……
5年目になる現在も母校で教壇に立たれています


菊池さんが担当しているのが、”雇用政策から見たキャリア形成論”。
”キャリア”というのは、言葉の概念から「仕事」と結びつけて語られやすいそうですが、もともとの語源は、ラテン語で「轍(わだち)」という意味。

仕事だけのキャリアではなく、仕事を「ワークキャリア」と言うならば、「ライフキャリア」ということで、
人生設計を考えていく上で、”未来にどんな目標があるのか”を一緒に考えながら、目標に向かって、”現在やることは何なのか?”を考える授業を行っています。



>>来週は、「ミシュランガイド東京 2016」で、ラーメン店として初めて星を獲得した、「Japanese Soba Noodles 蔦」の店主・大西祐貴さんをお迎えします。
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2016.01.24

ゲスト:菊池桃子さん
『Orico presents FIELD OF DREAMS』では、夢を叶えた方、今まさに夢に向かって突き進んでいる方をゲストに迎え、その人生のターニングポイントに迫っていきます!

今週のゲストは、80年代のアイドル黄金期を代表する方であり、現在は大学の客員教授として教壇にも立たれている菊池桃子さんです。
昨年、「一億総活躍国民会議」の民間議員にも選ばれ、活躍の幅を広げています。


──芸能生活の中で

菊池桃子さんが芸能生活をスタートさせたのが1983年。翌年、16歳で映画「パンツの穴」でスクリーンデビュー、「青春のいじわる」で歌手デビューもされました。
1985年の日本武道館でのコンサートでは、当時、THE BEATLESが持っていた観客動員数の記録を抜いたそうです。

高校卒業後には、戸板女子短期大学に進学。
大学進学の理由として挙げた2つの理由、”芸能界で長く活躍するのは難しいから、大学を出ておいたほうがいい”という、ご両親からのアドバイス。
もう一つは、”同級生の友達と毎日一緒にいたかった”という、年頃ならではの理由でした。

しかし、そこに込められた思いは、やがて生まれてくる子供のために、”芸能界特有の感覚ではなく、普通の感覚を持ち合わせた母になりたい”という思いがありました。

──結婚、出産を経て

結婚と出産を経験された菊池さんは、家庭と仕事の両立をされていきます。
”結婚して、子供を生んでも仕事を続けよう”という考えを持っていた菊池さん。
20年前の日本は働く女性があまり応援されない時代、菊池さんが結婚するとき、子供を生んだときには「プロ意識が足りない」と言われたこともあるそうです。

そういう中でも、仕事と家庭の両立を選んだのは”社会との繋がりを保つこと”でした。
菊池さんが小学校1年生のときお母様は再就職をして働いていました、その影響も大きかったようです。

──子供たちのために

菊池さんが受験勉強をしていたのが39歳のとき、息子さんの中学受験、娘さんの編入試験と同じタイミング。3人で勉強するときには、嵐のCDを聴くのが定番でした。

菊池さんが受験をしたのは「法政大学大学院 政策創造研究科」。
この学部は、日本の政策の研究や、政策立案や提言ができる人材を育成していく学部です。

この学部を選んだのには理由がありました。
娘さんは乳児期に脳梗塞を患い、左手足にマヒが残ってしまいました。勉強する場所がなかなか見つからなかったり、色々な教育相談への憤りから、日本の政策の内容を知りたいと思うようになっていきます。

自分自身にハンディキャップを持った経験がなく、アドバイスができない自分を情けないと感じたこともあった菊池さん。
そのとき、”娘にとってのキャリアアドバイザーになる”という思いを持って勉強を始め、家事と仕事と受験勉強の3つを並立させることになりました。

大学院は3年履修でしたが、この3年間はアイドル時代よりも忙しかったと振り返ります。
それだけ過酷な状況を頑張ることができたのは、やはりお子さんたちのためでした。
”子供を産んだということには責任があります。この子たちに「このお母さんで良かったと思われたい」という思いだけが、自分を頑張らせていました”



>>来週は菊池桃子さんが、大学の先生になるまでのターニングポイントについてお話を伺っていきます。
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2016.01.17

「大逆転じゃないかもしれないけど、小逆転くらいはあるからね。でも、それで十分だと思うよ」:怒髪天・増子直純
『Orico presents FIELD OF DREAMS』では、夢を叶えた方、今まさに夢に向かって突き進んでいる方をゲストに迎え、その人生のターニングポイントに迫っていきます!

今週のゲストは、先週に引き続き、怒髪天の増子直純さんです。

メジャーデビュー後に訪れる、バンド活動休止のお話、武道館ライブのお話をうかがいました。


●30年の時を経て


川田「メジャーデビュー後に活動休止を一度されますが、この時は解散ではなく活動休止だったんですか?」

増子「解散に近かったかな、”とりあえず一回やめるわ”みたいな。ちょうど30歳になる頃で、いろいろ歯車が合わなくなってきたというか…お客さんが5人、6人の前でライブをやっていって、どうなるのかな?って。これだったら、飲みに行って、隣のやつに自分の考えを話してるほうが、よっぽど伝わるんじゃないかと思ったんですよ。仕事も大変だし、家賃も高いからね」

川田「それを続けないといけないし、となると……」

増子「ちょっと一回、もういいかなってね」

川田「その後、活動を再開されたきっかけは何があったんですか?」

増子「ベースの清水から電話がかかってきて、『ギターの友康さんと飲んでるんだけど、話があるから来ない?』って。”そろそろ田舎帰るのかな”と思って行ったら『もう一回やりたい』って言うから、正気か?って(笑)。
『俺、働いて正社員だよ?カードも作れるんだよ?ローンも組めるんだよ?やめるわけねーだろ!』って(笑)。それでも、『もう一回やろうよ』って言うんだよ。飲んじゃってるからね、そんなこと言われてるうちに、『じゃあ、遊びでやるか!でも、仕事はやめねーよ』ってことになって」

川田「その清水さんの一言があって、今の怒髪天がまた出来あがるわけですよね。その後に2014年、バンド結成30周年で日本武道館でのライブとなります。増子さんが47歳の時ですね。”武道館ライブをやろうか”という話がきた時は、どうでしたか?」

増子「『30周年どうしますか?』みたいな話になって、でも『やんねーよ!』って(笑)」

川田「最初は、やらないつもりだったんですか」

増子「当時、動員が徐々に伸びていって、マックスが2500人だったの。武道館はその3倍くらいでしょ?結成28年やって2500人、あとの2年で、どうやって3倍になるのって話で。記念の年に、なんで最初に悲しい顔で始まんないといけないの?って、だから、『絶対にやんねーよ』って話したの」

川田「なるほど(笑)」

増子「そしたら、『やるとしたら、ここしかないですよ。次ないですよ?』って言われて、ギターの友康が『やろうよ!』って言うんですよ。『え?やりたい!?』って言うと、ベースの清水も『うん、やりたい!』って。
『じゃあ赤字になったら、またバイトでもして返そうよ。記念にやるか』って。俺らがコツコツやってきて、もし出来たら、後から来る若いバンド達や、自分たちと一緒にコツコツやってきた仲間達の希望にもなんじゃねーのってことで、失敗したら笑い話になるし(笑)。
『金ないからどうする?』と、なるから。金ないなら足で稼ぐぞっていうことで、一年前に告知して、一年間かけてびっちり細かくツアーして、宣伝してやろうと、やったんだよね」

川田「やると決めてからは、成功させるために向かったわけですね。それで、朝早い番組で歌ったり」

増子「入りが5時半とかだもんね!(笑)絶対に売り切れるなんて思ってなかったから」

川田「実際に、満員で大成功を収めましたね」

増子「も〜、泣いたね!1週間ちょっと前ぐらいにソールドアウトになって、家でも泣き、ステージでも泣きだね(笑)」

川田「メンバーの皆さんも嬉しかったと思います。30年やってきて良かったなと感じました?」

増子「打席に立ち続けないと、デッドボールも来ないぞっていうね(笑)。立ち続けてれば、デッドボールでも出塁はある!」

●ニューシングル「セイノワ」歌詞に込めた想い


川田「ニューシングルの『セイノワ』このタイトルには、どういう意味があるんですか?」

増子「この曲に関しては、言いたいことはいろいろあるんですけど、あんまり言わないでおこうかなと思って。自分の聴いたままに、好きにとってもらえればと思って。いろんな意味でとれるように作ったので。
いま、この時代に生きる仲間として、俺が一番言いたいことだよね。大きな意味でのラブソングだし、死ぬよりも生きることのほうが大変。それを、愛のために生きることのほうが、死ぬよりも大事なことなんだよという……。逆転あるからね」

川田「身をもって感じていますもんね」

増子「大逆転じゃないかもしれないけど、小逆転くらいはあるからね。でも、それで十分だと思うよ」

川田「”人に届く歌詞”というように、考えて作ってらっしゃると思います。どんどん変わってきましたか?」

増子「そうだね。アナーキーに影響を受けて、アナーキーが出してた本『心の銃』に書いてあったんですけど、簡単な言葉を使って歌詞を書くようにしてると。それは何でかというと、勉強できないやつは簡単な言葉だったら分かるし、賢いやつは、もちろん分かる。
だけど、難しい言葉を使ったら、勉強できないやつは分からないだろうと。だったら、歌う者のメリットとして、絶対に簡単な言葉で書いたほうがいいと。それを中学生の時に読んで、そっからは、その教えを守ってる」

川田「どの世代にも、男女関係なく真っ直ぐに受け止められる。そんな言葉ですよね」

増子「それが一番大事なんじゃないかな」


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2016.01.10

「ここを目印に集まってくる人がいるんで、結局変えなかったね」:怒髪天・増子直純
『Orico presents FIELD OF DREAMS』では、夢を叶えた方、今まさに夢に向かって突き進んでいる方をゲストに迎え、その人生のターニングポイントに迫っていきます!

今週のゲストは、一昨年、バンド結成30周年で日本武道館ライブを行った、怒髪天の増子直純さんです。

怒髪天は、113日にニューシングル「セイノワ」をリリースします。
そして、115日から「怒髪天 申年新春TOUR」を開催されます。

2週にわたって、増子直純さんに人生のターニングポイントについてお話を伺っていきます。


●パンクロックとの出会い


川田「増子さんに訪れるターニングポイントは、いつのことでしょうか?」

増子「中学3年生、1982年くらいかな。パンクロックバンド・アナーキーというバンドを知ってしまった時ですね」

川田「どんな衝撃でした?」

増子「それまで聴いてた音楽って、歌謡曲が多かったからいわゆるラブソングが多かったかな。ロックも聴いてたけど、当時は洋楽でKISSとか流行っていたので。アナーキーは、日本語で中学生にも分かる言葉で歌ってて、世の中に物申すじゃないけど、噛みついていく。
”こんなの歌っていいんだ!”と思って、衝撃を受けちゃって。友達のところで聴いて、”これがパンクか!”と、ひっくり返った!そっから、夢中になっちゃって(笑)」

川田「どっぷりハマっていきましたか。自分でも歌ったりしましたか?」

増子「聴いて歌ったりして、当時はバンドやろうとか思ってなかったので。その頃、若者のユースカルチャーとしてはヤンキーが全盛期で、そこからパンクに流れてくるので、日本独特の進化の仕方をしたんですよね。今見ると”なんで!?”っていう感じなんだけど、当時は当たり前だったので」

川田「なるほど〜(笑)」

増子「最初のドラムのやつも、頭パンチパーマだったもんね(笑)」

川田「え?!高校生でですか?」

増子「パンチパーマで白塗りっていうね(笑)。パンクの正解っていうのが、当時わからなかったので。とにかく”厳つい”というものを色々自分達の中でミクスチャーしちゃって、すごいよく分からないね」

川田「見た目の正解とかもないんですね」

増子「情報自体が少ないので、月一で東京で出るパンクの雑誌も、札幌では売ってなかったから。コピーしたやつをもらっても、つぶれちゃってるし、よく分かんないんですよ」

川田「もちろん、テレビにも出ないわけですからね。当時、増子さんはどんな感じだったんですか?」

増子「俺はね〜、高校の時は青いモヒカンだったね。札幌にはいなかったね。友達で赤いやつと、黄色いやつと、青い俺で、信号機って言われてたね(笑)。当時、パンクっていう概念が広まってないから、モヒカンで学校に行くと、先生に『なんだ、その頭は?インディアンになりたいのか?』と言われて、めんどくさいから『そうだ』って言うしかないでしょ(笑)。先生にしても、不良の髪型っていう認識もないんですよ」

川田「先生は、お手上げ状態だったでしょうね(笑)」

増子「コピーバンドから始まって、試行錯誤してたのが面白かったかな」

●尊敬できる仲間


川田「当時、怒髪天というバンド名はついていたんですか?」

増子「いわゆるパンクっていうのを日本語で表すと、『怒髪衝天』という、”怒った髪の毛が天を衝く”という言葉があって、4文字だと多いから3文字にしたっていう、すごい高校生らしい付け方なんですよ(笑)」

川田「それが、ずーっと今でも続くなんて…、という感じですよね」

増子「何回か変えようと思ったタイミングはあったんだけどね、ここを目印に集まってくる人がいるんで、結局変えなかったね」

川田「名前もそうですけど、現在のメンバーになったのが1988年。長いですよね」

増子1988年って、ちょっとした歴史の勉強みたいだもんね(笑)。こんなに良いパーツを自分がチョイスできたのは、奇跡だなと思ってる。なかなかバンドって、男4人でも、それぞれ育ってきた環境も違うし、好きなものも違って性格も違う。長く続かないのは分かる。
喧嘩もしたり、家族でもないんだから。ちょうどいいバランスだったんだよね」

川田「共通点と言ったら、北海道出身ということですか?」

増子「3人はすごく音楽が好きだもんね。俺も好きだけど、ゲームとかおもちゃとかも好きだから(笑)。この3人は、本当に音楽と酒だもんね。音楽をやる者としては、俺はこの3人を尊敬してるよね」



>>来週も引き続き、増子直純さんにお話をうかがっていきます。


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2016.01.03

「一回戦からやってきたことを信じる気持ちがあったので優勝できたと思います」:プロテニスプレイヤー・土居美咲選手
『Orico presents FIELD OF DREAMS』では、夢を叶えた方、今まさに夢に向かって突き進んでいる方をゲストに迎え、その人生のターニングポイントに迫っていきます!

今週のゲストは、先週に引き続き、現在日本ランキング1位、プロテニスプレイヤーの土居美咲選手です。

土居選手は、今年10月女子テニスツアー「ルクセンブルク・オープン」で、自身初のツアー優勝を飾りました。

土居美咲選手の人生の第2のターニングポイントについてお話を伺っていきます。


●超えるべき壁


川田「2015年10月、24歳のときに迎えた第2のターニングポイントがプロ8年目で初めて掴んだ、WTAツアーの優勝ということですが、この大会をターニングポイントにあげた理由は何ですか?」

土居「プロになってから初めてのWTAの優勝。その前に、トップの選手と戦って勝てそうで勝てない試合が多かったんですね。その壁を乗り越えたという意味で、ものすごく大きかったですね」

川田「初戦が元世界ランク9位のペトコビッチ選手。この初戦はどのように感じていますか?」

土居「なかなか苦しい試合だなと思っていたんですけど、やってみると接戦で、簡単には勝たせてくれない。最後勝ち切って、”壁を越えられたな”という気がしました」

川田「準々決勝で、元世界ランキング1位のヤンコビッチ選手と対戦しましたけど、この時はどうでしたか?」

土居「彼女はものすごくフィジカルが強い選手で、なかなかポイントをとらせてもらえないんですけど。走って走って、勝ち切った感じですね」

川田「自分が相対したときに、”自分はいま、ヤンコビッチと対戦してる!”そんな気持ちになりませんでしたか?」

土居「確かに”対戦しているんだ”というよりは、”ここまで出来てる、自分!”みたいなのはありました(笑)。それを最後まで貫き通せたので、それは良かったですね」

●高みを目指して


川田「土居選手は、メンタル面も変わってきているんですか?」

土居「そうですね。去年のルクセンブルクの大会のときは、常に”まだまだ!”と思いながら戦っていました」

川田「この2人を倒したというのは、自信に繋がっていっての決勝戦だったと思います。どういう風に自分の感情が変わっていったのか覚えていますか?」

土居「”勝てそうで勝てない”という試合があっての勝利だったので、嬉しいの一言ですね」

川田「体格差など、かなり不利な状況だったと思いますが、このときは、どういう試合展開にしようと思っていましたか?」

土居「一回戦からやってきたことを、そのままぶつければ絶対に勝てると、信じて出来ましたね」

川田「優勝が決まった瞬間は、どういう気持ちですか?」

土居「”やっと…”という気持ちですね。ほっとした気持ちと、嬉しい気持ちと、入り混じっていた感じです」

川田「体の部分とメンタルの部分、どちらも欠けてはいけないと思いますが、一対一の試合で一番大変なこと、難しいことって何ですか?」

土居「やっぱり、全て自分で考えて、メンタルも保っていかないといけないので、そこを自分でやるというのはけっこう大変ですね」

川田「そういった時に、自分の支えになるのは何なんですか?」

土居「今までやってきたことを信じるというか、練習にしても、トレーニングにしても、一回戦からやってきたことを信じる気持ちがあったので優勝できたと思います」

川田「これから、どんどん高みを目指してほしいと思います。次の目標はどこに持っていきますか?」

土居「今年は、リオオリンピックを目指してやっています」

川田「オリンピックに出場して、そこでも悔いのない試合をしてもらいたいと思います。さらにそのあとは、どういうことをやっていきたいと思いますか?」

土居「オリンピックの先も見据えて、世界ランキングも上げていきたいなと思っています。今54位なんですけど、上を目指して頑張っていきたいですね」



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