Orico presents FIELD OF DREAMSOricoFIELD OF DREAMS

この番組では、「夢に向かって頑張っている人を応援する」をコンセプトに、夢をかなえ活躍する方々をゲストに迎え、そこに向かうまでのプロセスや、努力、苦労、そしてかなえたときの喜びを深く掘り下げていきます。

パーソナリティ 川田裕美プロフィール


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2016.02.28

「人の思いやりが大きいチームが、大事なところですごい強さを発揮すると思います」:ビックカメラ女子ソフトボール高崎・上野由岐子
『Orico presents FIELD OF DREAMS』では、夢を叶えた方、今まさに夢に向かって突き進んでいる方をゲストに迎え、その人生のターニングポイントに迫っていきます!

今週のゲストは、先週に引き続き、アテネオリンピックでは銅メダル、北京オリンピックでは金メダルを獲得したメダリスト。
ビックカメラ女子ソフトボール高崎のエース・上野由岐子さんです。

今週は、ずっと憧れ続けていたというオリンピックの金メダルを獲得し、現在に至るまでの第2のターニングポイントについて伺っていきます。


●悲願のメダル


川田「上野由岐子投手の人生に起こった第2のターニングポイント。これは、いつ、どんなことになりますか?」

上野「自分の人生の中で、一番大きい。北京オリンピックで金メダルを獲得したことです」

川田「上野選手26才の夏。2008年の北京オリンピックに出場。アテネの時は初めてということもあって、自分の気持ちも安定しないことがあったのかもしれませんが、北京オリンピックではどうでしたか?」

上野「やっぱり2回目という強さがありましたね。”これで勝てなかったら仕方がない”と思えるだけの準備をして臨んだことが、自分の中では一番心強かったです」

川田「初戦の対戦相手はアテネの時と同じオーストラリア。どういった試合展開だったんですか?」

上野「正直言って、試合の内容はどれもあんまり覚えてないんです。一瞬一瞬が必死すぎて、1人まえのバッターが、自分の中で過去だったので、常に『次、次、次……』の繰り返しが試合になっていった感じなんですよ。なので、全然覚えてなくて。
それこそ、決勝とか、準決勝の大事な試合もあんまり覚えてないんですよ(笑)」

川田「決勝ではアメリカに当たって、最後の2日間で413球も投げて、体は相当疲れていたんじゃないかと思うんですけど」

上野「もちろん疲労困憊の状態だったんですけど、そんなことで諦められるような夢じゃなかったので、”これで私のソフトボール人生が終わってもいい”というくらい、北京オリンピックにかけていたので。ここだけは絶対に後悔したくないと思いました。
あれだけ練習してきたし、あれだけ準備してきたわけだから、”これでダメだったら仕方がないと思えるプレーをしよう”と、常に言い聞かせながら投げていたので、しんどくても、しんどいなんていう感情は生まれてこなかったですね。
ここでマウンドをおりる方が一生後悔すると思っていたので、打たれても駄目でも、マウンドに立ち続けたいっていう思いの方が大きかったです」

川田「勝った瞬間のことって、どう思い出しますか?」

上野「勝った瞬間は、どの試合も同じで”よし!勝った!”みたいな。表彰式で金メダルをかけられた時に、一番込み上げてくるものがありました」

川田「それまで見る、上野さんらしくないと言えばらしくないぐらい、すごく喜んでらっしゃるのを覚えています」

上野「特にアテネが終わった4年間が苦しかったんですよ。”辞めたい”と思ったこともあったし、”なんで、自分ばっかりこんなに頑張らないといけないんだろう”っていう、プレッシャーから逃げ出したい気持ちだったり、いろんな思いを乗り越えての4年間だったので。その苦しさを思い出して、”最後まで諦めなくて良かったな”って、”頑張ってきて良かったな”という思いと、初めて夢を叶えた瞬間の感動がすごい来ました」

川田「その時は、誰に伝えたいって思ったんですか?」

上野「一番は麗華監督だったり、妙子監督だったり…近くで一番支えてくれた監督たちに一番伝えたかったですね。あとは、両親も見に来てくれていたので…」

川田「上野さんの所には色々な取材が入ったりで、すぐに会えなかったんじゃないですか?」

上野「監督はいつでも会える、っていう思いがあったんですけど、両親には、この場でメダルを見せてあげたいという思いが強かったので、探して見せにいきましたね」

川田「何と言ってくれましたか?」

上野「交わした言葉はいまいち覚えてないけど。喜んでる姿をみて、やってきて良かったなというか、親に対する感謝もすごい込み上げてきたので。小学校から始めて中高とソフトボール漬けで、怪我もあって、いろんな意味で、両親の支えが無いとこうやってソフトボール選手としてやっていけなかったので、その恩返しができたかなって。そういう気持ちになれたことが、自分の中での一番の嬉しさでした」

●夢を叶えるべく


川田「中学生の頃からの夢を叶えた北京オリンピック。この時、上野由岐子選手は26才。33才になった今も、宇津木妙子シニアアドバイザー、宇津木麗華監督のもと、ビックカメラ女子ソフトボール高崎で、エース兼コーチとして活躍されています。
ご自身の体調管理はもちろん大変だと思いますが、今度はコーチとして、若い選手を育成する立場。別の大変さもあるんじゃないですか?」

上野「そうですね。教えることの難しさを日々感じています」

川田「どういったところが難しいですか?」

上野「人ってそれぞれなので、一人一人が持っている意識が違ったり、目標にしているレベルの高さも違うし、選手一人一人に合わせて教えていくこと、その中でもっと高いレベルを目指して欲しいという気持ちを伝えていくことが難しくて。
自分ばかり先を見ていても周りがついてこない、なかなかチームって上手く回っていかないので。時には、自分がレベルを落としてやることも必要ですし、逆に無理にでも引っ張ってあげることも必要だったりするので。伝えるって難しいなと、いつも思っています」

川田「上野さんが思う強いチーム、良いチームって、どういうチームですか?」

上野「一番はチームワーク。人の思いやりが大きいチームが、大事なところですごい強さを発揮すると思います。技術も大事ですけど、心が体を動かしているので、心が強くないと強いチームになれないんですね。
そのためには、”誰かのために” ”仲間のために”、そういう思いを持っていないと心が強くなれないし、大事なところで踏ん張れないので。そういった意味では、人としての思いやりを持っているチームが一番強いチームになっていくのかなと思います。
その上で、技術練習をしっかりしていくことが大事なのかなと思います」

川田「いま、今後の夢をどういう風に持っていますか?」

上野「私たちは、東京オリンピックで野球ソフトボールが種目に入ることを望んでいますね」

川田「まだ正式種目としては決まっていないわけですよね。どうやったら、近づけられるのかなと思うんですけど…」

上野「ソフトボールを広げていくこと、それが一番なんですけど。ソフトボールをやっている、ソフトボーラーだけではなくて、ソフトボールを見てくれる沢山のファンの方々を増やしていくこと。
周りの声がすごく大事で、”ソフトボールをオリンピックで見たいな”と思ってらえるようなチームになる、競技になることが一番大事だと思います」

川田「なるほど」

上野「子供たちに関しては、オフシーズンには毎週のように、土日は子供たちを対象に講習会をしたりだとか、少しでも楽しんでもらえるように、東京オリンピックを目指してもらえるように活動しています。
子供達はソフトボールの内容よりも、楽しい時間を一緒に過ごせたかどうかでソフトボールの印象が変わると思っているので。とにかく楽しく過ごすことを意識しています。
その中で、キャッチボールをする姿が1人でも多く増えれば、きっと輪が広がっていくと思うので、興味を持ってもらえたらいいなと思っています」

川田「2020年の東京オリンピックで、ソフトボールが正式種目として入ったら上野さんは選手として出られますか?」

上野「選手として、あと4年後活動できていたら、きっとオリンピックという舞台もはっきり見えてくると思うんですけど。今は11年が勝負で、今年1年、まず怪我をすることなく、いい結果を残すこと。そして、また来年が始まる…その積み重ねの中で、きっとオリンピックという舞台が見えて来るのかなと思うので、もちろん日本で出場したいという思いが大きいので、それを現実にできるように、1年でも長く現役選手としてやっていけたらなと思います」

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2016.02.21

「一番強いチームで一番になれなかったら、オリンピックに出られないと思っていました」:ビックカメラ女子ソフトボール高崎・上野由岐子
『Orico presents FIELD OF DREAMS』では、夢を叶えた方、今まさに夢に向かって突き進んでいる方をゲストに迎え、その人生のターニングポイントに迫っていきます!

今週のゲストは、アテネオリンピックでは銅メダル、北京オリンピックでは金メダルを獲得したメダリスト。
ビックカメラ女子ソフトボール高崎のエース・上野由岐子さんです。

今週と来週は、オリンピックという世界の舞台で頂点を極め、現在も現役ピッチャーとしてチームを率いる上野由岐子選手の人生のターニングポイントについて伺っていきます。


●夢の始まりは


川田「日本女子ソフトボールの上野由岐子選手と言えば、2008年の北京オリンピックで、世界最強と言われたアメリカ代表を破り、日本に見事金メダルをもたらした立役者として記憶されている方が多いと思います。このオリンピックで投げた球数の合計は413球です。この数字は、みんなの記憶に残りますよね」

上野「そうみたいですね。むしろ、私のほうがビックリしています(笑)」

川田「ソフトボールを始めたのは小学校3年生のときだそうですが、きっかけは何だったんですか?」

上野「もともと、父がソフトボールをやっていて身近ではあったんです。近くのクラブチームの友達に誘われて始めたのがきっかけですね」

川田「その誘いがなかったら、自分からやりたいと思ったわけではなかったのですか?」

上野「サッカーかソフトボールにしようか悩んでいて、友達が誘ってくれたということもあって、ソフトボールにしました」

川田「その時に入っていたソフトボールチームに女の子はいたんですか?」

上野「私が初めてでしたね」

川田「男子との体力差はどうでしたか?」

上野「小学生だったので、あまり男女差はなかったですね。和気あいあいというか、”男だろうが、女だろうが負けない!”という気持ちでやれていたので、楽しかったですね」

川田「ピッチャーになったのはどうでしてですか?」

上野「自分自身がピッチャーに憧れて始めたんですよ。小学校のクラブチームの監督さんも、女の子だったから外野手とか、背が大きかったのでファーストをやらせようと思っていたみたいなんですけど、私が”どうしてもピッチャーがやりたい”と志願して、父とマンツーマンでピッチングの練習をしてやらせてもらいました」

川田「そこは自分がやりたくて始めたんですね。オリンピックを意識し始めたのはいつですか?」

上野「中学2年生の時に長野オリンピックをテレビで観てるとき、スケートの清水選手の姿を見て”かっこいいな!私もこういう舞台に立ってみたい!”と思いました。ソフトボールが初めてオリンピック種目になったことも重なって、”ソフトボールでオリンピックに出られるんだ”と思って、それからが夢の始まりですね」

●夢の実現に向かって


川田「中学生の時にオリンピックを意識して、そこに向かっていくわけですけど。このあとに訪れる第1のターニングポイント、これはいつ頃のことですか?」

上野「高校2年生の時、腰を骨折して3ヶ月間の入院生活をした時です」

川田「ソフトボールで腰を骨折したんですか?」

上野「いいえ、体育の授業中に走り高跳びをしていて、地面に落っこちてしまって。とんでもない怪我なんですけど(笑)」

川田「これをターニングポイントに挙げたのはどうしてなんですか?」

上野「この怪我がなかったら今の自分はなかったと思うくらい、入院中にいろいろ気づかされました」

川田「例えば、どういうところですか?」

上野「一番は周りの人達の存在です。お風呂にも入れない状態だったので、当時は母が毎日体を拭いてくれたり、お見舞いに来てくれる仲間が、いろんな言葉をかけてくれるんです。そこで”次はこの人たちのために、自分が投げられるようにやらないといけない!”と、恩を返すというか……ありがたい気持ちにさせられたのが大きかったです。
”自分ひとりじゃない”ということに、この入院で経験できたことが復帰してからのソフトボールに対する思いや、仲間に対する思いが変わりました」

川田「それまでは仲間のことをどう思っていたんですか?」

上野「後ろで守ってくれている人達という感じで、”私が抑えれば勝てるんでしょう”というピッチングをしていたんですけど、入院生活を経て、初めて試合でバックに声をかけられたり、ファインプレーをした時の自分の中での嬉しさが倍増しました。
みんなで試合をしてるということを感じられるようになったので、そういった意味では”仲間の大切さ”、”ひとりじゃないんだ”というのを、改めて感じさせられました」

川田「高校を卒業後、ビックカメラ女子ソフトボール高崎の前身となるチーム、ルネサス高崎を運営する会社に入社した上野由紀子選手。そこで、日本代表の監督も務めた宇津木妙子監督に出会うんですよね。この出会いはどうでしたか?」

上野「私が高校生のときに、妙子監督が福岡まで来てくれてチームに誘ってくれました。その中で一番印象的だったのは『うちのチームは厳しいよ』という言葉だったんです。
正直、高校生の時に今やってるソフトボールがつまらなくなってきていたので」

川田「そうだったんですね」

上野「周りのレベルと自分のレベルの差を感じ始めていて、その物足りなさをその一言で満たせてくれたというか…。当時は”オリンピックに出たい”という夢を持っていたので、一番強いチームで一番になれなかったら、オリンピックに出られないと思っていました。だから、一番強いチームに行きたいと思っていたんです。
そのときに妙子監督から、その言葉をもらって、”絶対にこのチームにしよう”と思って、このチームに行けば絶対にオリンピックに出られると信じて選びました」



>>来週は、上野由岐子選手にアテネ、そして北京オリンピックでのお話を伺っていきます!
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2016.02.14

「僕はラーメンの食べ歩きってあんまりしないんですよ」:大西祐貴
『Orico presents FIELD OF DREAMS』では、夢を叶えた方、今まさに夢に向かって突き進んでいる方をゲストに迎え、その人生のターニングポイントに迫っていきます!

今週のゲストは、先週に引き続き「Japanese Soba Noodles 蔦」の店主・大西祐貴さんです。

大西さんは、『ミシュランガイド東京2016』で、116年のミシュランガイド史上、初めてラーメン店で一つ星を獲得した鉄人です。

今週は、「蔦」をオープンさせてから星を獲得するまでに起こった、第2のターニングポイントについて伺っていきます。


●飽くなき探究心


川田「『ラーメン 蔦』ではなく、『Japanese Soba Noodles 蔦 』という店名にしたのには、どんな思いがあるんですか?」

大西「日本の麺料理というと、日本蕎麦とかうどんになっちゃうじゃないですか。僕はラーメンも日本が誇る麺料理だと思っているので、
僕の中で、勝手に一括りにした造語みたいな感じですね」

川田「では、始めた時から世界を見据えていたということですか?」

大西「そうですね。世界に行った影響で、”またラーメンをやっていこう”と思ったので、そういった部分はありましたね」

川田「そんな中、再びターニングポイントを迎えるわけですが、それはどんな事だったんですか?」

大西「2014年に醤油そばをマイナーチェンジして、黒トリュフオイルと、黒トリュフソースを添加して出汁をとるという感じで決めましたね」

川田「ラーメンに黒トリュフとは斬新過ぎるアイデアだと思います。どういう風に思いつくものなんですか?」

大西「やっぱり差別化ですよね。オンリーワンのものを作ろうという部分が強くなって、”どうしたらいいんだ?”と悩んだんですよね。そこで、外国の方は考え方が自由だという部分で、僕も柔軟に考えていいんじゃないかと思いました。食材を見に行くのが好きだったので、その時に黒トリュフオイルがあって気になったんですよね」

川田「最初、食べてみた一口目はどうだったんですか?」

大西「全然合わなかったです(笑)。でも、合う可能性は絶対にあるなというのは見えました」

川田「黒トリュフの醤油そば、簡単に言うとどういうラーメンですか?」

大西「見た目はいたってシンプルだと思いますよ。チャーシュー1枚に、極太メンマが2本入って、ネギが2種類、あとは黒トリュフソースをチャーシューの上に…」

川田「そういった発想はどういうところからくるんですか?」

大西「他の料理の方が勉強になったりしますね。僕はラーメンの食べ歩きってあんまりしないんですよ。昨日は焼き鳥を食べましたね」

川田「焼き鳥から、インスピレーションってあるんですか?」

大西「パテとかすごい発想が面白かったですし、少し勉強になりましたね」

川田「これからまだまだメニューが変わる可能性はありますか?」

大西「もちろんあります。『蔦』のメニューは下剋上なので、”これやめよう”と思ったら、僕はすぐやめますね(笑)」



●世界のラーメン


川田「近々、新しい店『79』をオープンする予定ということですが、これはどういったコンセプトなんですか?」

大西「今、ラーメンって1000円以下っていうのが主流だと思うんですけど、僕はもっと使いたい食材があるけど1000円超えちゃうんですよ。それって食品として抑えてるのかなと思って。だとしたら、使いたい材料を使って1000円を超えるラーメンを作ってもいいんじゃないかと思ったんですよ」

川田「言える範囲でいいのですが、どんな食材を使ってみたいんですか?」

大西「最近買ってきたのは、アワビですね。出汁だけで使います」

川田「一度やってみたことはあるんですか?」

大西「ありますね。もうちょい勉強が必要だなと思いました。でも、可能性は全然あります。そこに2種類の地鶏、丸鷄だけを使います」

川田「そういった、自分のやりたいことだけをやるお店を『79』でしてみようと?」

大西「いま、年内で出来るかどうか難しそうなんですけどね。一回、考え方をリセットして」

川田「現在では、海外からのオファーもきてると伺ったんですけど、どちらですか?」

大西「マカオとシンガポールですね。マカオの方は、6月に『ウィンパレス』というホテルに日本料理のコーナーができるので、そこでラーメンを出したいということで、プロデュースという形で入りますね」

川田「実際にご自分で行って、食材選びなども監修をされるんですか?」

大西「そうですね」

川田「シンガポールもですか?」

大西「シンガポールはライセンス契約という形で、『蔦』の名前を全世界で使いたいということなんですよ。シンガポールで会社を設立して、僕もそこに役員として入る予定です」

川田「それがいつオープンですか?」

大西「シンガポールは7月ですね。物件の場所も見せてもらって、日本で言う銀座の一等地のファッションビルみたいなところに入るんですよ」

川田「そこのメニューは、今の『蔦』と同じですか?」

大西「ほぼ同じ構成にしますね。その中でも、他にないベストなものを提供できればなと思っています」

川田「国によっても味を変えてみたりとか?」

大西「水とか温度でいろいろ変わってくるので、旨味の出方も変わってくると思うんですよね」

川田「これから、日本におけるラーメン、世界で見るラーメンというのは、どうなっていくと思いますか?」

大西「今まではB級グルメとか言われてきましたけど、ミシュランのおかげでラーメン業界自体が底上げになったと思うので、それをラーメン屋さんみんなでキープ出来たらいいですよね。もっともっと上げていく感じでもいいですしね」



>>来週は、ソフトボール女子日本代表の金メダリストで、“ビックカメラ女子ソフトボール高崎”所属のピッチャー・上野由岐子さんです!
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2016.02.07

「この曲を聴きながら新宿のサザンテラスで泣き崩れたんです」:大西祐貴
『Orico presents FIELD OF DREAMS』では、夢を叶えた方、今まさに夢に向かって突き進んでいる方をゲストに迎え、その人生のターニングポイントに迫っていきます!

今週のゲストは、「Japanese Soba Noodles 蔦」の店主・大西祐貴さんです。

大西さんは、『ミシュランガイド東京2016』で、116年のミシュランガイド史上、初めてラーメン店で一つ星を獲得した鉄人です。

2週に渡って、大西さんが独創的なラーメンでミシュランの一つ星を獲得するまでに至った、人生のターニングポイントに迫っていきます。


●覚悟を決めたとき


川田「ラーメンづくりを始めたきっかけが、お父さんのお店ということですね。5年ほど経ってから1度やめられていますよね?」

大西「世界を見たいなという部分があって、外で仕事をして、いろいろやってみたいなと思ったのが正直な気持ちですね」

川田「当時は、またいつか戻ってこようと考えていたんですか?」

大西「考えてないです。”これでラーメンは終わりだ”と思っていましたから。好きじゃなかったですから、未練も全くなかったですね(笑)」

川田「一度ラーメンを離れて、その後はどういうことをされていくんですか?」

大西「新聞配達を2年間くらいやって、その後にアパレル業界です。海外に行く機会も多くて…」

川田「言葉の壁はありませんでしたか?」

大西「勢いでなんとかなりました(笑)」

川田「世界を見てみると、日本人と感覚がだいぶ違うと思いますが、どういう面で違いを感じましたか?」

大西「日本人の感覚は狭いなと思ったし、アメリカとかの方が考え方が自由な発想で、柔軟性が日本人よりあるなと思いますね」

川田「その後、もう一度ラーメン業界に戻られますけど、海外に行ったことはきっかけになっているんですか?」

大西「はい。アパレルを約5年やっていて、”もう一回、食をやりたいな”という気持ちになったんですよ。当時は、サラダが面白いなと思って……ただ、サラダだけだと厳しいだろうなと思って、もう1つ、日本人が入りやすいものとしてラーメンだなと思ったんです」

川田「そこで戻ったんですか?」

大西「その時は、”本気でやろう”と覚悟を決めましたね」



●成功するラーメン屋


川田「もう一度ラーメンに戻って、ここで第1のターニングポイントを迎えますよね。どんなことがあったんですか?」

大西「当時父からラーメン店を任されたんですけど、売り上げも良くなくて、自分の才能のなさを感じてすごく悩みました」

川田「『Desperado』という曲を挙げていますが、これにはどういった思い出があるのでしょうか?」

大西「僕が聴いていたのはカーペンターズのカバーの方だったんですよ。自分の才能のなさとかを考えて、この曲を聴きながら新宿のサザンテラスで泣き崩れたんです。
覚悟決めて入ったので、”上手くいきたい”という気持ちがあったんですよね。アパレルの時は上手くいってる部分があって、一からラーメン屋始めて、全部の自信が崩れたというか……自分に溺れていたじゃないけど、そういうことも感じました」

川田「そういう時は、誰に相談をするものなんですか?」

大西「自分自身しか解決できない事だと思っていたので、誰にも相談しなかったですね」

川田「そこでやめようとは思わなかったですか?」

大西「思わないです。やっていく覚悟を決めていたので、何言われようが、やめる気はひとつもなかったですね」

川田「泣き崩れたのは、その一回だけですか?」

大西「そうですね。当時12月だったので、周りはカップルだらけでしたけどね(笑)。”なんで、あいつ泣いてんの?”ってなっていたと思いますよ(笑)」

川田「その時に、乗り切るために考えた方法は?」

大西「当時、ツイッターとかが流行り出したばっかりの頃ですね。とりあえず始めてみようと思って、どんどん試作の数を増やしたり、どんどん限定を出すようにして発信していきました。
最初は難しかったですけど、継続していくうちに浸透してきて、お客さんも戻ってくるようになったりして」

川田「成功するラーメン屋さんは一握りだと思いますけど、何が必要なんですか?」

大西「ラーメン屋といっても料理人ですから、大事なのは努力だと僕は思っています」

川田「どの部分に対しての努力ですか?」

大西「やっぱり味作りじゃないですか」

川田「味作りには、そうとう時間をかけましたか?」

大西「今でも時間かけてやっていますし、この時があったから今の自分がいられるわけですしね」

川田「営業時間が終わって、そこから試作を作って…何時までやるんですか?」

大西「家帰って寝れなかったりしたら、そのまま店に行ってひらめいたら試作したりとか」

川田1人でやるんですか?」

大西1人でやります。”今日は限定で、これだけあります”とツイッターでつぶやいて。スタッフが来て、僕は1回家帰って寝て、起きて店に行ったら、スタッフが『何したんですか?すごい来たんですけど!』って言われて(笑)」

川田「お客さんが集まりすぎて、びっくり(笑)。せめてスタッフは教えてほしかったでしょうね(笑)。そういうのを繰り返していくうちに話題になりますよね」

大西「そうですね。限定も、いい物を出したかったので、そういう部分に対しては絶対に妥協はしなかったですね」



>>来週は大西祐貴さんが、「Japanese Soba Noodles蔦」をオープンさせ、ミシュランの一つ星を獲得するまでに経験したターニングポイントについてお話を伺っていきます
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