Orico presents FIELD OF DREAMSOricoFIELD OF DREAMS

この番組では、「夢に向かって頑張っている人を応援する」をコンセプトに、夢をかなえ活躍する方々をゲストに迎え、そこに向かうまでのプロセスや、努力、苦労、そしてかなえたときの喜びを深く掘り下げていきます。

パーソナリティ 川田裕美プロフィール


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2016.04.24

「いまの自分があるのは、テニスのおかげ」:元プロテニスプレーヤー・杉山愛
『Orico presents FIELD OF DREAMS』では、夢を叶えた方、今まさに夢に向かって突き進んでいる方をゲストに迎え、その人生のターニングポイントに迫っていきます!

今週のゲストは、先週に引き続き、元テニスプレーヤーの杉山愛さんです。
杉山愛さんは、テニスの四大大会、グランドスラムのダブルスで4回優勝し、グランドスラムへの連続出場は62回で世界記録を樹立、オリンピックには4度出場しました。

現在、テレビの情報番組などでコメンテーターとして活躍されてるほかにも、順天堂大学 大学院のスポーツ健康科学研究科の学生でもあります。
今週は、第2のターニングポイントについて伺いました。



●やりたいことリスト100



川田「第2のターニングポイントを伺っていきたいのですが、いつ、どんなことが起こったんですか?」

杉山「2009年に引退をしまして、34歳のときです。自分の人生の半分をプロとしてやって、長い現役生活を送らせてもらったなと思いました」

川田「引退を決めた理由は何ですか?」

杉山「一言で言うと、精神的にも肉体的にもいっぱいっぽいで、これ以上できないと。
自分でピリオドを打てるというのはありがたい話だけど、引き際を決めるのはとても難しいことだと思いました」

川田「引退したあと、すぐに始めたことはあったんですか?」

杉山「2ヶ月前に引退発表をして、その時は半年くらい何もせずゆっくりして、第2の人生を考えようと思っていました。
ありがたい話で、引退した国際大会が終わった次の日からメディアに呼んでいただいて、ゲストとしてお話したり、人生を振り返るVを作っていただいたり…」

川田「それはそうですよ!どこもほっておきませんよ(笑)」

杉山「当時、テニスというものが、そんなにテレビで紹介されることがなかったので、それを機にテニスを知ってもらえたり。支えてくださった方に、感謝の気持ちを伝えるという意味で、3ヶ月くらいはテレビに呼んでもらえるかなという感じで気楽に構えていたんですけど。それが続いて、今に至るという感じになりましたね。
私はテニスが大好きで、天職だと思ってやっていたので、引退したときに”これ以上の仕事は見つからない”というのもあって、”次に何をやっていくんだろう?”という意味でも、なかなか考えられなかったんですよ。
自分の頭を整理するためにも、やりたいことリスト100を書いてみたんです」

川田100というのは、なかなかすごいですね」

杉山「一番最初に書いたのが『結婚』だったんですよ(笑)。2番目が『出産』でした。書き出していくと、自分がどういう方向にいきたいのかとか、自分を知る事ができるきっかけになったんですね」

川田「自己分析にもなるし、目標達成するために、今しないといけないことも分かるんですね。いま、どれくらいクリアしましたか?」

杉山「更新中なので、それが130、140になっていって。結婚、出産を無事に終えて、”子供と、こういう時間を過ごしたいな”とか、それを書いていくと、イメージしやすいんですよ」

川田「それは、ちょっとやってみたいですね」

杉山「具体的に、そのやり方を書いてある本が出ますので(笑)」

川田「それ、いま杉山さんがやってらっしゃるんですね(笑)。自分の頭を整理するためにも、やってみるのはいいかもしれないですね」


●新たな挑戦



川田「新たな挑戦でいいますと、いま、大学院に通われているんですよね?どういったことを勉強されているんですか?」

杉山「指導者として力を入れていきたいと思っている中で、経験は積んできた自負はありますけど。指導となると、いろんな人のことを指導していくには、引き出しを増やさないといけないなと思って。
コーチになるために、いろんな勉強をさせていただいています」

川田「それが、順天堂大学大学院 スポーツ健康科学研究科ということですね。新しいものを学ぶのは楽しいですか?」

杉山「楽しいですね。学校という所に、高校以来、長い事行っていなかったので。
机に向かって先生のお話を聞くのは新鮮ですし、教授の話は面白いですね」

川田「杉山さんが考える若い人の育成、どういったところに注意して育成すればいいですか?」

杉山「選手の良さはそれぞれ違いますから、性格も違えば、プレースタイルも違う、持ち味も違う。そういった中で、その選手の持っているものをどれだけコーチが引き出してあげられるか、それが良いコーチだと思っています。
教え込むというよりは、コミュニケーションをとりながら引き出していくコーチングをしたいなと思っています」

川田「今後、こういった事をしてみたい、というのはありますか?」

杉山「いまの自分があるのはテニスのおかげなので、テニスに恩返ししていきたという気持ちがあります。今後、2020年のオリンピック、パラリンピック、東京でありますから。そこでもテニスに携わるような仕事をしてみたいですね。
あと、自分のテニスクラブでのコーチング、テニスの楽しさを知ってもらったり、もし、私に教えてもらいたいという選手が集まれば、そこでコーチをしていくということも、少し考えていますね」





>>来週は、シンガーソングライターで、ミュージカルや舞台で活躍されている、中川晃教さんをお迎えします。
お楽しみに。

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2016.04.17

「スランプが無かったら、きっと自分の夢を実現できなかった」:元プロテニスプレーヤー・杉山愛
『Orico presents FIELD OF DREAMS』では、夢を叶えた方、今まさに夢に向かって突き進んでいる方をゲストに迎え、その人生のターニングポイントに迫っていきます!

今週のゲストは、元テニスプレーヤーの杉山愛さんです。
杉山愛さんは、テニスの四大大会、グランドスラムのダブルスで4回優勝し、グランドスラムへの連続出場は62回で世界記録を樹立、オリンピックには4度出場しました。

現在、テレビの情報番組などでコメンテーターとして活躍されてるほかにも、順天堂大学 大学院のスポーツ健康科学研究科の学生でもあります。
2週にわたって、人生のターニングポイントについて伺っていきます。



●生来の負けず嫌い



川田「テニスを始めたきっかけは、どういうときなんですか?」

杉山「両親がテニスを遊びでやっていましたので、そこに一緒についていくという形でした。4歳という早い段階でテニスに出会ったんです。テニス以外にも、体操教室、フィギュアスケート、クラシックバレエ、水泳教室など…その中の1つでしたが、テニスが一番楽しかったんですよね。
1回だと足りなくて、週2回、3回と増えていって、テニスだけにしぼったのが7歳でした」

川田「早いですね」

杉山「家の近くにテニスアカデミーが出来て、同じ年くらいの子が多かったので、”遊びに行くぞ”という感じで、テニスクラブに通っていましたね」

川田「一緒にやっていく中で、”同じ年くらいの子には負けたくない!”という気持ちはあったんですか?」

杉山「負けず嫌いはもともとあったんですけど、例えば、昔トランプをやっていて、お兄さん、お姉さん相手にやっていたんですね。
どんどん自分が負けていって、お兄さんお姉さんの前で醜い態度をすると、”一緒に遊んでもらえなくなる”と思っていたらしく。負けを我慢して、良い子でいたんですよ。でも、負けが悔しいのが体から滲み出てきてしまって、蕁麻疹が出てきちゃったんですよ(笑)」

川田「ええ!!どれくらいのときですか?」

杉山「幼稚園生ですね。変に勝たせてもらったりすると、それも嫌なんですよ(笑)」

川田「いざプロになって、生業にしていきたいと思ったのはいつなんですか?」

杉山「真剣に考え出したのは15歳で、ジュニア世界ランキングで1位になりまして。世界を見ると、同学年でジュニア卒業して一般に出てる選手がいて。
数字上ではナンバーワンだけど、実力はもっと上がいるというのを、なんとなく分かっていたんですね。なので、自分も近い将来”プロになりたいな”というのを、具体的に考え出した時ですね」

川田「なるほど」

杉山「自分が17歳でプロになったとき、”やっぱり違うな”と、肌で感じました。
世界ランキングって1500位くらいまであるんですけど、本当に食べていけるのって100位、200位の世界なので。プロになったはいいものの、食べていけなかったら、やっていけないわけですから。
大会に出るということは、初めのスタートにみんないるわけで、”この1勝に、どれだけの重みがあるか”という感じで、ジュニア時代とは目の色が違うんですね。”恐ろしいところに入ってきたな”というのは、プロに成り立ての頃に感じた記憶があります」

川田「そこから、華々しく活躍されていきますけど、やっと”ノッてきたな”と思ったのは、だいたい何年くらいですか?」

杉山19歳のときに、初めてグランドスラムの本戦で勝つことができて、その勢いで4回戦までいったんですね。世界トップ20クラスの選手に初めて勝つことができて、”これで、手応えつかんだ!”といいますか…若さの勢いもありましたから、2000年USオープン、ダブルスで優勝しましたけど、そこまでは勢いもありました」

川田「その2000年にターニングポイントを迎えるわけですけど、何が起こったんですか?」

杉山「スポーツではよく聞きますけど、スランプに陥ってしまいました」


●母娘の絆



川田「25歳のときのスランプということですが、ダブルスで全米オープンを優勝されて、上り調子のときにスランプに陥ってしまうわけですか?」

杉山「ダブルスは絶好調だったんですね。当時、フランスの選手と組んでいて1つずつ上がっていって、最後の全米で優勝と…書いたようなストーリーだったんですよ」

川田「こうやって階段を上っていく人は、なかなかいないんじゃないかという快進撃ですよね。スランプというのは、どういうことだったんですか?」

杉山「シングルスでの結果が出なくなってしまって。当時、わたしのプレースタイルがダブルスとシングルスで全然違ったんですね。
シングルスで必要なグランドストロークの調子が崩れてしまって、ボールが飛んでくるのが怖いと感じてしまうようになってしまいました。毎回、”打ち方がわからない”と、硬くなってしまうような、それくらいまで絶不調になってしまったんですね」

川田「シングルス、ダブルス両方やられていたんですよね。そんな急になるものですか?」

杉山「自分では、いきなりと感じていたんですけど。調子を落としていく中で、気が付かなくてはいけなかった時期に、目を向けずに素通りしてしまったので、ここまで落ち込んでしまったという感じでした。
”ボールが怖い、自分の打っていくボールがどこへ飛んでいくのか分からない、自分の目指すプレーってなんだっけ”みたいな…」

川田「そういう、一番最初にまで戻っちゃったんですか」

杉山「本当にひどいもんでしたね。誰にも勝てる気がしなかったし、実際にそんな状態だと負けるし、負けると自信を失って、負のスパイラルに落ち込んでしまった」

川田「そういう時って、まずどなたに話したんですか?」

杉山「ここまで調子が落ち込んでしまうと、”辞めたい”と思ってしまったんですよ。自分の中では、シングルスへの思い入れが強くて、”こんなに上手くいかないなら、やっていても意味がない”と、勝手に思ってしまって。テニスを、初めて辞めたいと思ったんです」

川田「どうやって抜け出したんですか?」

杉山「辞めたいという気持ちを、まず母に伝えました。
そうすると母が言ったのは、『ここで辞めちゃったら、他のことをやっても上手くいかないんじゃない?すべて、やるべきことをやりきれたの?』と聞かれたんですね、その時に”はっ!”とさせられて、”まだ、やりきれてないな”と、答えが出たんですね」

川田「そうだったんですね」

杉山「『やりきれてない』って即答すると、母が『じゃあ、やりきらないとじゃない?』と言われたことに、”そりゃそうだな”って、素直に思えたんですね。
そこで気持ちは切り替えられたんですけど、本当に状況がひどすぎたので、先が全く見えないんだけど、『ママには見える?』って聞くと、母が『見えるわよ』と簡単に答えてくれまして。だったら、”この人にコーチをお願いするしかないな”と思って、コーチをお願いしたんですね」

川田「その決断も勇気のいることだったんじゃないですか?」

杉山「『見えるわよ』という一言が、どれだけ自分に勇気と元気を与えてくれたかっていう事もありましたし、母は選手を経験していたわけじゃないんですけど、学生時代にスキーやバスケットをやったりしている中で、体の動きに着目することが上手な人でした。
”メカニズムがおかしい”とか、”理にかなった動きが出来てない”というのは、見る力があるんですね。ただ、母がコーチということは、甘えが出てきてしまうので…」

川田「母と娘になってしまう瞬間があるんですよね」

杉山「最初は特にありましたね。最初は、自分の精神的な子供の部分を成長させないことには、この先はないなというのが、一番最初の大きな課題だったので。選手としても、人間としても成長していく過程を踏んだのかなと思いました。
スランプがあったから、すべてをリセットできて、初めてトップ10入りできたので。スランプが無かったら、きっと自分の夢を実現できなかったですね。ピンチがチャンスになったターニングポイントだと思います」



>>来週も引き続き、杉山愛さんをお迎えして、第2のターニングポイントについて伺っていきます。
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2016.04.10

「描けない!って思って、スランプになりましたね」:イラストレーター・五月女ケイ子
『Orico presents FIELD OF DREAMS』では、夢を叶えた方、今まさに夢に向かって突き進んでいる方をゲストに迎え、その人生のターニングポイントに迫っていきます!

今週のゲストは、先週に引き続き、イラストレーターの五月女ケイ子さんです。
4月7日から、渋谷パルコ PARCOミュージアムにて「五月女ケイ子の逆襲〜ケイ子の裏博覧会〜」が開催しています。

今週は、五月女ケイ子さんの第2のターニングポイントでもある、「出産」について伺っていきます。


●出産を経て親バカに


川田「五月女さんの第2のターニングポイントは『出産』という事ですが、2010年、五月女さんが35歳の時ですね。本を読ませていただきましたけれど、本当に可愛いですよね!お名前を教えてもらっても良いですか?」

五月女「“はる”と言います。4月で6歳になりますね」

川田「もう6歳なんですね〜。旦那さんも映画監督、脚本家、演出家として活躍されている細川徹さんと一緒に育児体験、出産、妊娠…すべて綴られていますエッセイ『親バカ本』をリリースされているんですけれど、ここにお二人の愛情が詰まっていますよね。描いていると楽しかったんじゃないですか?」

五月女「楽しいもありつつ、結構大変でしたよ!メモとかを取らないといけないし、ネタを考えつつ、育児するのは結構大変でした(笑)」

川田「しかも、妊娠している時から出産中もずっと連載が続いていて、陣痛も大変な時だったと思いますが、その時もメモしたりしていたんですか?」

五月女「そうですね。陣痛が1週間あったんですけど、“これもネタに出来るな…”って苦しみながらメモしていました」

川田「ここで、ご自身に大きな変化があったと思いますけれども、どう変わりましたか?」

五月女「それまでは私自身が子供のようだったんです。社会性ゼロですし、母性とかもまったく無かったんですよ。驚きです」

川田「お仕事にも変化はありましたか?」

五月女「まず、スランプになりましたね。子供も自分が生んだものなので、作品と言えば作品じゃないですか。指とか爪とかすごく小さくて、まつげも全部ついているし、笑顔も天使だし……。こんな絵は描けない!って思ったんです」

川田「自分の生み出した作品と、お子さんとを考えた時にこれ以上のものを作り出せないって思ったわけなんですね。その感覚ってやっぱりアーティストですね」

五月女「怒っているだけでも可愛いので『ママ大嫌い!プン!』って怒っている顔を見てても可愛い〜!って思っちゃって(笑)。私がニコニコしながらだんだん顔を近づけていくと、子供もプッて笑っちゃって、それでケンカが終わるっていう(笑)」

川田「良いですね〜!やっぱり自分でも親バカだなって思います?」

五月女「年賀状に自分の子供の写真を載せて送ってくる人を“バカだな〜”って思っていたんですけど、やりましたね。すっごく恥ずかしいけど、思いっきりやりました(笑)」

●“逆襲”というタイトルに込められた想い


川田「最近のお仕事で特に注目されているのは、動くLINEスタンプですよね。最新バージョンの『わりと動く!五月女ケイ子スタンプ』。
初期の頃から私も使わせていただいているんですけど、本当にシュールで面白くって!最初はこのスタンプどこで使うんだろうって思うんですけど、でも、使えるんですよね〜!」

五月女「そうなんですよ(笑)。ここも意外と思われるかもしれないんですけど、使えるスタンプを作りたくって。自分が使いやすい、こういう時に使えるっていうのをわりと一生懸命考えたんですよ」

川田「そうだったんですね!あの独特の画風というのは他にいらっしゃらないなぁと思うんですが、現在、『五月女ケイ子の逆襲〜ケイ子の裏博覧会〜』という展覧会が渋谷パルコパート1・PARCOミュージアムにて4月17日(日)まで開催しております。
タイトルに逆襲とついていますけど、どういうコンセプトなんですか?」

五月女「基本は今までにあった絵を見せるんですけど、ただ絵だけが壁に貼ってあると私はすごく疲れちゃうんです。疲れない展覧会というのを目指しているんです。
一緒に写真撮影が出来たり、涙型の形の棒を持って、絵の中の人物になって写真が撮れたり…。参加型のものをいくつか増やしたり、色んな部屋に分けたりっていうのをやっていこうって思った時に“逆襲”っていう言葉が自分の中で流行っていたんです。
今までは腰低くをモットーにやってきて下っ端感を出してきたんですけど、もう40も過ぎたので、大御所まではいかないですけど中堅に向かいつつある今、いつまでも腰を低くしていられないぞっていう想いがあって、ここいらで逆襲を始めようじゃないかと」

川田「ほぉ〜!」

五月女「それは、自分が好きな事をやるとか、やりたくない時はやらないとか、我慢せずに自分が思う事をやる。ダメな自分も許してあげるっていう事なんですけどね」

川田「マイナスの意味の逆襲ではなく、自分の為、これからの為のポジティブな意味の逆襲なんですね!今の五月女さんが好きな仕事ってどういう仕事なんですか?」

五月女「やっぱり基本にあるのは面白い仕事ですね。それは、笑えるだけではなくて、一番いいのは求めてくれる人も興味深い提案をしてくれて、面白い使い方をしてくれる人と面白い絵を描くっていう…。イラストっていうのは共同作業なので、そこの部分がつながるとすごく気持ちが良いですね。
普段のお喋りが苦手だから、絵で共同作業をしたり、絵で求められることに無言で答えるということでコミュニケーションがとれるっていうのが自分にとっては合っているし、幸せに感じます」


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2016.04.03

「こんなもの世に出ていいのかしら…!って、その時に初めて感じました」:イラストレーター・五月女ケイ子
『Orico presents FIELD OF DREAMS』では、夢を叶えた方、今まさに夢に向かって突き進んでいる方をゲストに迎え、その人生のターニングポイントに迫っていきます!

今週のゲストは、一度見たら忘れられない!インパクトと脱力感がある画風で知られる、イラストレーターの五月女ケイ子さんです。
4月7日から、渋谷パルコ PARCOミュージアムにて「五月女ケイ子の逆襲〜ケイ子の裏博覧会〜」が開催されます。

今週と来週は、イラストレーター、そしてエッセイストとしても活躍されている五月女ケイ子さんの人生のターニングポイントについて伺っていきます。


●絵を描くことが就職活動


川田「五月女ケイ子さんの画風、一言で表現するのはなかなか難しいんですけど、私は、すごくインパクトがあって、レトロな昭和感もあって、ノスタルジーな感じもあって、暗いけどポジティブだし笑えるし……。ご自身ではどう表現されますか?」

五月女「自分では“脱力劇画”って呼んでいるんです。劇画は緊張感と影と怖さとか色々あるんですけど、それが脱力しているっていう…(笑)」

川田「その二つって完全に相反するものですよね」

五月女「両方入っちゃっているんですよね。すごく複雑なんだと思います」

川田「イラストレーターには小さい頃からなろうと思ってらっしゃったんですか?」

五月女「最初は中学生の時に“少女漫画家デビューする”っていうのが夢だったんですけど、それが出来なかったので漫画家は諦めて、姉が卒業文集の将来の夢の所にイラストレーターって書いていたのを真似して、卒業文集にイラストレーターって書いたのが初めて意識した時ですね」

川田「絵を描くことは得意だったんですか?」

五月女「絵を描くことは好きで、チラシの裏にいつも絵を描いている子でした。わりと暗い子供で、心の声の方が断然多かったですね(笑)。言葉に発するのはその10分の1くらい」

川田「周りから見たら大人しい子だったんですね!」

五月女「そうですね。でも、心の中ではすごく喋っているし、すごく考えている子供だったので、ピアノを弾いたり、歌を歌ったり、絵や文を書いたりっていう方が楽しかったです」

川田「そういう芸術を学びたいという事で、大学で勉強されたんですね。そこからイラストレーターとして仕事をしていこう!ってなる時にどうやってきっかけを作っていったんですか?」

五月女「その頃は就職難と呼ばれている時代で、私は映画研究部に入っていたんです。その部の子達はみんなオタクで、変な人たちばかりだったのでみんな就職しないと思っていたんですよ。仲間だと思っていたら、気が付いたらみんな紺のスーツを着て就職活動を始めていて。取り残されてしまって。
じゃあどうしようかな、って思って手っ取り早くお金になるものって何だろうって思った時にイラストが出てきたんですよ(笑)。だから、就職活動の代わりに毎日絵を描くという事を始めて、それが私の就職活動でしたね」

川田「描いたイラストは自分で持ち込むんですか?」

五月女「普通は描き溜めたやつを持ち込むんですけど、私は暗い子だったので、郵送OKの所を探して送りつけたんです」

川田「本当に人と話すのが苦手だったんですね(笑)」

五月女「そうなんです(笑)。そしたらたまたまマガジンハウスの『Hanako』から返事が来て、そこからいきなりイラストの連載が始まったんです。それが初めての仕事ですね」

川田「その時の画風はどんな感じだったんですか?」

五月女「今と全く違っていて、ガーリーな感じでした。絵を描ければ何でもいいって思ってやっていたんですけど、なんとなく満足いく感じじゃなかったですね」

川田「ちょっと悶々とした時期でもあったんですね」

●新たな絵柄への挑戦


川田「五月女ケイ子さんがイラストを担当したBSフジのテレビ番組『宝島の地図』の中のコーナー『新しい単位』。こちらはシリーズ化されて、2005年くらいまで放送されていたんですね。
このコーナーがとても面白くて、初めて見た時はイラストのシュールさにびっくりしました(笑)」

五月女「テレビのコーナーだったのでネタもすごく面白くって、このネタに合わせて描いて欲しいと言われて、わりと前から人間観察は好きだったので、心の中にあったものを初めて絵にして出しました」

川田「では、ここでガラッと絵柄が変わったんですか?」

五月女「そうですね。『新しい単位』はテレビで2年間くらい放送して、2年後くらいに本が出たんですけど、すごい反響をいただいて。初日で重版をいただいて、あれよあれよという間に…」

川田「その時はどういう気持ちでした?」

五月女「引きこもりながらイラストを描いていたので、周りからは“いったい何の仕事をしてるんだ?”って思われたり、友達とかの誘いも断ったりしていたのでどんどん誘いも来なくなって、寂しい2年間を過ごしていたんですよ(笑)」

川田「それは意外ですね!有名になる前というのは、一番生んでいる辛さがある時なんですね」

五月女「そうですね。だから、本になった時は本当に嬉しくて、本屋をはしごして回ったりして」

川田「今までの画風と全く違うものを書き始めたときは怖さは無かったですか?」

五月女「すごく怖かったですね。テレビ用に描いていたので、一瞬しか画面に映らない事を考えて短い時間で伝えることを考えて描いていたので、それが紙媒体になった時にあまりのインパクトに自分でゾッとしちゃったんです(笑)。
こんなもの世に出ていいのかしら…!って、その時に初めて感じましたね(笑)」



>>来週は、4月7日から渋谷パルコ PARCOミュージアムで開催される五月女ケイ子さん展覧会「五月女ケイ子の逆襲〜ケイ子の裏博覧会〜」についても伺っていきます。

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