『Orico presents FIELD OF DREAMS』では、夢を叶えた方、今まさに夢に向かって突き進んでいる方をゲストに迎え、その人生のターニングポイントに迫っていきます!
今週のゲストは、デビューはお笑い芸人ですが、
現在では俳優、ミュージシャンと幅広く活躍中のマキタスポーツさんです。
2012年映画『苦役列車』でブルーリボン賞・新人賞と東スポ映画大賞・新人賞を
ダブル受賞されて以来、俳優として注目を集めているマキタスポーツさん。
現在、NHKの大河ドラマ『女城主 直虎』にもご出演されています。
さまざまな顔を持つ、マキタスポーツさんの人生のターニングポイントについて伺いました。
●人を笑わせること
川田「マキタさんはお笑い芸人としてデビューされていますが、小さい頃から人を笑わせるのが好きだったんですか?」
マキタスポーツ「好きでしたね。お笑いを目指す人っていうのは、周りを喜ばせるのが好きっていうことは共通してると思うんですけど。
それが人より開花するのが早いと思うんですよね」
川田「早い?」
マキタスポーツ「幼い頃から人を喜ばせたり、笑かしたりするエネルギーが周りとフィットしない場合があると思うんですよね。ちょっとやばいやつだったと思うんですよ(笑)。
だから、喜ばれると思ってやってることがひんしゅくを買うっていう」
川田「例えばどういうことですか?」
マキタスポーツ「キックベースボールってあるじゃないですか?僕は運動神経が良かったもので、”バーン!”と、ヒット性の当たりだったんですよ。その時に”三塁側に走って行ったら、どうなるんだろうな?”って思うんですよ」
川田「ええ!」
マキタスポーツ「三塁側にものすごい勢いで走っていったら、”わ!”っとウケたので”やった!”という感覚があったんですよ。
だけど、あとから学級裁判にかけられましたね。特に女子からの突き上げがすごかったですね」
川田「そこでヒーローになるかと思いきや、みんな本気だったんですね」
マキタスポーツ「反社会勢力としてですね…(笑)」
川田「その頃から始まっていたんですね(笑)」
マキタスポーツ「”マキタさんは、そういう人でいいや”と、帳尻が合ってきたのは中学生くらいの頃ですね」
川田「そんなマキタスポーツさんに訪れた、第1のターニングポイントはいつのことですか?」
マキタスポーツ「2011年、41歳 東日本大震災が起こった時ですね」
川田「東日本大震災は、本当に様々な人の人生を大きく変える出来事になりましたが、マキタさんの中でも大きな変化があったんですか?」
マキタスポーツ「2009年くらいまで仕事がまったくなかったんですよ。”これから、いろいろ変えていかなくちゃいけない”って思ってた時に、『オトネタ』というライブを始めるんですよ。いわゆる音楽ネタですね。
それに特化したライブとかをやって、”マキタスポーツとは何ぞや?”ということを、引き受けようということで始めました」
川田「はい」
マキタスポーツ「2010年に、そのライブが好評を博してお客さんもいっぱいの状態になり、それがお笑いのところで名前が轟くことになるという。それがあった上で、2011年に銀座の博品館劇場で、3月12日に『オトネタ』というライブを予定していたんですよ。
そこで大成功すれば、自分の中では2012年には風向きが変わるんじゃないかと思っていたんです」
川田「なるほど」
マキタスポーツ「前日の3月11日に、爆笑問題さんとイレギュラーの番組があって収録をしてたんですよ。その最中にグラっと来たんですね。
すごい揺れが大きいなと思って、スタッフとも連絡がつかなくて、DMを使ってやりとりして『これからどうする?』とか、『明日は何時に集合して…』みたいな、ギリギリまでそんなことをやっていたんです。
今から考えるとおかしいんですけど、やるわけないじゃないですか?でも、ギリギリまでやろうとしてたんですよ」
● 2011年3月11日を経て
マキタスポーツ「(選曲した奥田民生の『CUSTOM』について)震災が起こった1週間後に、僕はこの曲をカバーすることになって。
映画監督の大根仁さんがやってる番組に『出てよ』とリクエストされたんですよ。ただ条件があって、ネタをやってほしいと言うんですよ」
川田「ネタですか?」
マキタスポーツ「東日本大震災から一週間しか経ってないので、メディアとか、誰も面白いことをやるっていうことができない雰囲気だったので。僕も一瞬”ん?”ってなったんですけど。大根さんに、『こういう時だからこそ面白いことやってもらいたいし、マキタくんだったらできるよ』と言われて。
もう一つ条件があって、奥田民生さんの『CUSTOM』を震災バージョンで作ってほしいって言われて」
川田「そうだったんですね」
マキタスポーツ「『CUSTOM』っていう曲だけにカスタムしてくれって言われて。
曲の後半に国々の名前を挙げていく歌詞があるんですけど。そこを被災地になったところを歌い上げるということで作りました」
川田「マキタさんが地名を歌われている部分っていうのは、聞いてる方も感情がわっと出る部分かと思いますね」
マキタスポーツ「エンターテインメントにも順序があったと思うんですけど、いきなりお笑いは厳しかったですよね。
歌が最初に来て、スポーツがあって、お笑いは三番手くらいだと思うんですよ。でも、俺の方が神経質になって、”俺らにできることはないんじゃないか”と思っていたんですけど、意外と現地の人は笑いたいと思ってくださっていたっていうのが分かったし」
川田「そうですね」
マキタスポーツ「それ以降の世の中の感じ方、考え方っていうものも変わってきてるのかなと思いますね」
川田「震災も経て、考えることもたくさんおありだったと思いますが。自分が演じること、音楽を作ること、送り出すこと、そういったことに影響はありましたか?」
マキタスポーツ「僕も、地下の穴倉の奥底で、マニアックなことをマニアックなお客さん相手にやってるっていうことを、自分のプライドじゃないですけど……”世の中に迎合してたまるか”みたいな大義名分があったんですけど、それは平和で安定的で、安心安全があった上で、そんな呑気なことを言ってられたと今にして思えば感じるんですよね。
それが世の中のレギュレーションというか、価値観とかが変わってきてしまっているなということを、2011年以降感じるわけですね」
川田「なるほど」
マキタスポーツ「より大勢の人たちが望んでいるものを叶えるということを、引き受なくちゃいけないんじゃないかなということを、すごく思うようになりましたね。
大きいところに向かって、”僕はこういう人間なんです”ってことを、ちゃんと言わないといけないんじゃないかなと思いますね」
川田「それは軸が変わるということじゃないですもんね」
マキタスポーツ「相手にしてくれる人たちだけで、小さいところに集まって何か言っているっていうことじゃなくて…それは矢面に立つということかもしれないんですけど。
僕みたいな人間でも、そういうことを言っていいんだよっていう事とかを、大勢の前でちゃんと表明してみせることが面白いことなんじゃないかと思います」
>>来週も引き続き、マキタスポーツさんをお迎えしてお話を伺っていきます。
お楽しみに!