TOKYO FM/FM愛媛共同制作 道後温泉本館改築120周年特別番組 ~文学が薫る街~ TOKYO FM/FM愛媛共同制作 道後温泉本館改築120周年特別番組 ~文学が薫る街~ TOKYO FM/FM愛媛共同制作 道後温泉本館改築120周年特別番組 ~文学が薫る街~ TOKYO FM/FM愛媛共同制作 道後温泉本館改築120周年特別番組 ~文学が薫る街~

2014.6.29(日)19:00~19:55

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パーソナリティ

島田雅彦

島田雅彦

1961年東京生まれ。1984年東京外国語大学ロシア語学科卒。
在学中の1983年『優しいサヨクのための嬉遊曲』でデビュー。
主な作品に『僕は模造人間』、『自由死刑』、『フランシスコ・X 』、『退廃姉妹』(伊藤整文学賞)、『徒然王子』、『悪貨』、『英雄はそこにいる』ほか多数。2011年より芥川賞選考委員。法政大学国際文化学部教授。
道後温泉に何度も足を運び、『漱石を書く』で、夏目漱石の作品を読み解き、今に伝えている。TOKYO FM「タイムライン」のパーソナリティも担当。

平野啓一郎

平野啓一郎

1975年愛知県生。北九州市出身。
京都大学在学中にデビュー作『日蝕』で芥川賞受賞。
著書は、小説『葬送』、『決壊』、『ドーン』、『かたちだけの愛』、エッセイ集『モノローグ』、対談集『ディアローグ』、新書『本の読み方』等。近著は、新書『私とは何か 「個人」から「分人」へ』、長篇小説『空白を満たしなさい』(講談社)
『本の読み方』で、夏目漱石「こころ」を取り上げているほか、Twitterなどで、正岡子規についても触れている。

神野紗希

神野紗希

俳人。愛媛県松山市生まれ。
松山東高等学校時代、放送部に所属、俳句甲子園を取材したことをきっかけに俳句を始めた。
2001年、第四回俳句甲子園にて団体優勝、「カンバスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる。
2002年、第一回芝不器男俳句新人賞にて、坪内稔典奨励賞を受賞。

水樹奈々

水樹奈々

1980年1月21日生まれ。愛媛県出身の声優アーティスト。1997年に声優としてデビューし、「ハートキャッチプリキュア!」「NARUTO -ナルト-」といったアニメ作品で人気を集める。2000年にはシングル「想い」で歌手デビュー。
2009年6月にリリースされたアルバム「ULTIMATE DIAMOND」で、声優アーティストとして初のオリコン週間ランキング1位を獲得。同年12月には「NHK紅白歌合戦」に初出場。以降4年連続出場。
2011年12月には声優アーティスト初の東京ドームコンサートを開催。
TOKYO FM「水樹奈々のMの世界」ではパーソナリティを務める。
この番組は、水樹奈々さんの出演を
予定していましたが、体調不良のため、
出演者を変更してお届けします。


6月のとある日。
大雨の東京を飛び立った、作家 平野啓一郎さん。
平野さんを迎え入れた松山空港には、梅雨を迎えたばかりとは思えない、
晴れた夕空が広がっていました。

その足で初めての訪問となる道後温泉本館へ。
平野さんが松山の地を踏んだのは中学3年生の時以来。
生まれ育った北九州市には、松山の私立進学校を受験する習慣があったとか。
かつての平野少年もまた、友人たちとともに船で、受験に来たそうです。
そんな事情ですから、観光はせず、道後温泉本館も今回が初めて。
平野さんは1階の神の湯・西浴室に入りました。

神代からの歴史を誇る名湯・道後温泉。
白鷺が足を湯にひたしていたことから発見されたといわれるこの温泉には、神話の神々がつかり、聖徳太子が病を癒したという記録も残っています。
泉質はアルカリ性単純温泉、温度は42度前後。
神経痛・関節痛・冷え症・疲労回復などに効能があるとされています。

道後温泉本館 神の湯・西浴室のお風呂は少し深め、
湯は意外と熱く、中央には温泉が注ぎ出る石のタンク。
壁には夏目漱石の小説『坊っちゃん』の主人公が湯船で泳いで注意の張り紙をされたことにちなんだ「坊っちゃん泳ぐべからず」の札が掲げられています。
松山中学に赴任した夏目漱石、その漱石を松山に誘ったとされる旧友 正岡子規、それからしばらく後に松山を終の住処にした自由律俳句の種田山頭火。
日本の近代文学期に登場し、今の文壇に至る流れに大きな影響を与えている文人たちが
愛した湯につかり、しばし感慨に浸る平野啓一郎さん。

今回、東京のスタジオで、平野さんの松山紀行を聴きながら「文学のまち」松山を案内して下さったのは
先輩作家で法政大学 国際文化学部教授の島田雅彦さん。
島田さんは22歳ぐらいの時をはじめとして、道後温泉本館にこれまで5回、足を運び、そのたびに癒されてきたそうです。
道後温泉本館は今のような木造建て三層楼に改築されて今年で120年。そう、今年は道後温泉にとって記念の年なのです。

翌朝、平野啓一郎さんは、あらためて道後温泉本館に向かいました。
道後のシンボルとなっている建物がつくられたのは明治27年。
当時の町長、伊佐庭如矢氏が100年後も残るものをつくろうと呼びかけて実現しました。
平成の今、振り返ってみると、伊佐庭町長のアイデアは大成功だったわけです。
のちに天皇陛下まで訪れるという松山の象徴となったのですから。
1994年・平成6年には国の重要文化財に指定され、
映画『千と千尋の神隠し』の舞台、「湯屋」のモデルとも言われています。

そんな道後に漱石が通っていたのは明治28年のこと。
英語教師をしていた漱石はこの年、松山中学に赴任しました。
漱石は神経質な性格で、神経衰弱気味。
東大予備門時代の友人 正岡子規の「道後温泉にでも遊びに行くつもりで松山に赴任せよ」、
という助言を受け入れてのことだと言われています。
道後温泉本館は、前年に改築されたばかり。
漱石の目に三層楼の建物は真新しく、立派に映ったことでしょう。
松山の体験のもとに、後の小説『坊っちゃん』は生まれました。

道後温泉本館には、漱石が好んで利用した個室があります。
今は「坊っちゃんの間」と呼ばれる、その部屋には、漱石の写真や書などが飾られています。
中には‘マドンナ’のモデルになったという女性の写真も。

平野さんが「坊っちゃん」を初めて読んだのは小学6年生の頃。
純文学に堅苦しいイメージを持っていましたが笑って読めたそうです。
その後、大人になって読み返すと、最初に持った豪快なイメージとは違って、
漱石の神経質なところが表れている小説だと気づいたといいます。
そして、温泉に入りに行く、入っている描写は、おそらく漱石に実体験が無ければ書けないもの。
手ぬぐいを持って道後を歩く漱石が想像できる。そして、漱石は東京育ち。
松山や熊本への赴任経験はのちの小説に大きな影響を与えただろう、と。

漱石をモデルにした小説も発表しているのが島田雅彦さん。
当時の移動は今とは比べ物にならないくらい時間がかかります。
それだけ地方は東京から離れた遠い場所。
だからこそ地域の独自性があっただろうと指摘します。
その東京の目から描かれたのが「坊っちゃん」。
主人公の江戸っ子っぷりが良く出ている小説ですが、最近では、漱石自身は主人公よりも登場人物の「赤シャツ」に近かったというのが有力なのだそうです。

そして、明治期には小説と温泉はすでに深い関係性があったと島田さんはいいます。
漱石は多くの小説を新聞で発表してきました。
『草枕』は修善寺温泉を訪れる紀行文になっているし、関西の温泉を訪ねる『行人』という小説もある、最後の小説『明暗』にも温泉は出てくる。
今のように娯楽が多くない時代、温泉紀行は大衆にとって、それは楽しいものだったはず。
漱石の小説で都会と地方の対比はよく出てきますが、東京の人間にとって地方や温泉案内をし、地方の人間にとっては東京の案内をする、そんなサービスの気持ちがあったのではないかと見ているのです。
その温泉は気を緩めて、新たなエネルギーを得ることができるところ。
そのために日本人は温泉を目指すのではないか、とも。

次に平野啓一郎さんが向かったのは「松山市立子規記念博物館」。
松山が生んだ俳人として知られていますが、子規は近代俳句・短歌を文芸として確立した人物であり、漢詩・小説・評論から絵画まで、その才能は多岐にわたっていました。
その生涯は34年と短いものでしたが、現在の東京大学 教養学科にあたる東大予備門時代に知り合った夏目漱石をはじめ、同時代の多くの文人に影響を与えました。
子規記念博物館は、そんな正岡子規の足跡を辿ることができる施設です。

記念館の一角に、子規が使ったたくさんのペンネームが展示されていました。
当時の人たちは相手や書く内容によってペンネームをちょくちょく変えたそうです。
それは一種のユーモアから。実は「漱石」というペンネームも元は子規のもの。
そこからも漱石にとっていかに大きな存在だったかということが伺えます。

漱石が松山に住んだ明治28年。
日清戦争に記者として従軍し、その途中で吐血した子規が帰国しました。
28歳。すでに子規の体は結核に冒されていたのです。
漱石は子規を自分の下宿先で受け入れ、およそ50日、2人はともに生活するのです。
その下宿を復元した愚陀仏庵があります。
この間、子規は俳句についての大著を書き上げ、漱石は子規に俳句を見てもらうという刺激的な日々を送りました。この時から子規がこの世を去るまで6年。
学芸員 渡部光一郎さんによると、体は弱っていきますが、それと逆行するように文学への打ち込む姿勢は強くなっていきました。東京へ戻ると俳句に続いて短歌の革新。そして、『病牀六尺』などの散文。渡辺さんが感じる子規の魅力は「書きたい」という意欲が、さまざまなかたちで表現されること。そして、子規に温暖な松山という土地だからこそ育まれた資質を感じるそうです。平野さんは、子規と漱石の邂逅が、その後の日本文学にいかに大切だったか思いを馳せました。

島田雅彦さんも日本文学史にとって子規と漱石の出会いが大切だったことを指摘します。
子規が打ち出した「写実主義」。島田さんによると、漱石はそれを「大人が子供を見るがごとき態度」と言い表し、自身の小説作法に取入れました。この写実的描写は、ある種のユーモアに通じます。観察しているものと自己を同一化しない。すると、苦しい自分や悲しい自分であっても対象との間に距離があるため、何か滑稽になります。例えば、晩年の子規は寝たきりになり、溲瓶で用を足さなければいけませんでしたが「溲瓶が走って来る」ということを記したとか。そうしたユーモアは苦しみや悲しみを少し和らげる力を持ちます。夏目漱石の小説は彼以降の作家に大きな影響を与えましたが、大きな要素は子規との繋がりの中で育まれたものなのです。

温暖な気候に恵まれた松山。
かつて15万石の城下町としても栄えたこの街では、
江戸時代には身分を問わず多くの人々が文芸に親しんでいたと言われています。
その地に、江戸時代最後の年、子規が誕生。
新しい日本の形成とともに、文学を新しいものへと改革していきました。
そのDNAは、現代の松山にも受け継がれています。
街のいたるところには句碑があり、俳句ポストが設置されています。
夏の全国高校俳句選手権大会・通称“俳句甲子園”の開催も全国に知られています。
子供の頃から俳句を読み、大人になっても趣味で俳句を続けている人がたくさんいます。

松山東高等学校時代、放送部員として俳句甲子園を取材したことから俳句に関心を持ち、後に俳人になったのが1983年生まれの神野紗希さんです。
神野さんは「収入が多くなくても生活していけるのであればそれでいい。使える時間は俳句をつくる時間にあてたい」と話して下さいました。

平野さんは、神野さんの母校を訪ねました。
松山東高等学校は子規が卒業し、漱石が英語教師をつとめた旧制松山中学校の現在の姿。旧制松山中学は松山藩の藩校「明教館」の流れを酌んでいます。

松山藩主、松平家11代当主松平定通公が明教館をつくったのは1828年。将来の松山藩をつくる優秀な人材を育てるためでした。
江戸末期を迎えると松山藩は幕府側につき維新を迎えます。
佐幕派というレッテルを貼られて、悔しい思いもあったでしょう。藩士の子弟たちは、なんとか新しい日本をつくる力になろうと一生懸命に勉強したことが想像されます。
その中から正岡子規や司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の主人公になった軍人 秋山好古・真之兄弟など、多くの優れた才能が輩出されたのです。
子規は5・7・5=17文字という世界で最も短い文芸「俳句」を確立することに成功しました。子規はそこに、目にした世界と、感情を、封じ込めようとしたのです。
短いからこそ、研ぎすまされ、心を打つ言葉。

松山東高校には、神野紗希さんがつくった俳句同好会が発展した俳句部があります。
所属する生徒たちは、それぞれの句を披露してくれました。
そこには2014年の今、松山に住む高校生だからこそ詠める思いが詰まっていました。

続いて平野啓一郎さんが向かったのは「一草庵」。
生き方がいま注目を集めている自由律俳句をつくった俳人 種田山頭火の終の住処です。

山頭火が松山にやってきたのは子規が亡くなってから37年後の1939年(昭和14年)。
9歳の時に目撃した母親の自殺に始まり、父親の事業の失敗、妻子との別れ・・・
次々と人生を襲う辛酸を舐めながら俳句を詠み続けた山頭火。
42歳の時には、泥酔して熊本の市電を止めてしまうという騒動を起こし、
彼の身を救おうとした知人たちにより禅寺へ放り込まれ、出家することになります。

その後、山頭火は母親の遺骨とともに四国八十八ヶ所をまわり、全国放浪の旅を重ねます。
やがて肉体的な衰えを感じ、自分の余生は1年と考えて、松山に着いたのは57歳の時。
彼を慕う俳人たちの奔走で道後温泉に近い閑静な寺町に「一草庵」を結びました。

山頭火クラブ事務局長の太田和博さんによると、山頭火の魅力の1つが句の根底にある優しさ。
それは人間にだけではなく、世の中に対して持っているものだといいます。
例えば「秋の夜や 犬からもらったり 猫に与えたり」という句。
犬がくわえて持ってきた餅をもらって大喜びした山頭火ですが、残りは猫にあげてしまったことを詠んだものです。

山頭火が松山を終の住処に選んだ理由。
1つはやはり正岡子規が生まれ育った土地だったからだろうと太田さんはいいます。
さらに八十八カ所巡りした時に松山の人々に受けた優しさがそうさせたのでしょう。
太田さんによると、実際、山頭火は幸福な最後の1年を送ったそうです。

近所の人たちは食べ物やお酒をくれました。映画監督の母親からは映画のチケットをもらって鑑賞に行き、
ハイカラなところもあったようで松山に初めて出来た喫茶店に行けば誰かのお世話になる。
時々、周囲の人を集めて句会をやる。

最後の日も句会を予定していました。
ただ、山頭火はすでに酔っぱらってイビキをかいて寝てしまっていたため、参加した人たちは起こさずに句会を終えて帰っていきました。
その中の1人が夜中にふと心配になって一草庵に行ってみるとすでに山頭火は亡くなっていたそうです。
最後の日記にはコロリと往生したいということと本当の俳句をつくりたいと書いてあったそうです。

島田雅彦さんは、昔の日本には、山頭火のような風来坊がいたといいます。
それは周囲に温かく支えてくれる街の人たちがいたから。
詩人は社会から外れたアウトローがなるもの。
貧しいながら、酒を酌み交わし、彼らがつくる文学には風流があり、
そんな風流を日本人は好んできたのだそうです。

街のみんなが少しずつ助ければ、彼の生活を支えることは、難しいことではありません。
苦労を重ね、苦悩を引き受けた彼の作品は、何かを与えてくれます。
だから、働いたりしなくていい、作品を楽しませてくれたかわりに田畑でつくった作物をあげる、とった魚をあげるというような、都会の貨幣経済とは異なる経済がかつてはあったというのです。
そして、そのことは街の文化水準の底上げに繋がったという。山頭火が移り住んだ松山はそんな場所だったのでしょう。

松山を見下ろすことができる松山城を最後に訪れた平野啓一郎さん。
子規、漱石、山頭火の足跡にふれて松山が、日本の文学にとってどんな意味のある土地だったのかということを感じられたといいます。

島田雅彦さんは日々の生活の中で、東京で文章を書き、大学で授業をするのとは違う、別の場所で生きる生き方を考えることがあるそうです。
旅行に出かけた時には、自分の終の住処になりそうなところかと、気がつくと考えることがあるそうです。それは松山かもしれない、と話を結びました。

松山、そこは間違いなく「文学が薫る街」です。


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