2012年1月31日

1月31日「荻上チキ・災害時のメディアの役割(2)」

メディア論などを専門とする評論家・荻上チキさんに「災害時のメディアの役割」についてお話を伺っています。

ネットやソーシャルメディアは、震災直後の被災地では、実際には役立ち難かった一方、支援を「する側」にとっては有効なツールだったと語る荻上さん。
では、その「支援する側の人間」が、今後ネットメディアを活用する上で、東日本大震災をどう教訓にすればよいのか、荻上さんに伺いました。


◆震災から見えてくる特徴
 東日本大震災の特徴…ネットが普及して以降の震災であること。ネットを通じてより多くの人たちが情報を共有することができた。
 メリット…必要な情報を必要な人が速やかに共有できる。
 デメリット…未確認、不確かな情報が拡散、混乱を招く。


◆注意すべきは「支援呼びかけ流言」
 “どこどこで誰々が困っている。物資を送りましょう”“通報しましょう”という書き込み。実際にはそんな物資の要望も事実もないのに書き込みを信じた人が殺到すると、物資を捌ききれず混乱、消防や警察に、実際に存在しない犯罪の通報が何十件も寄せられるなどが起こる。
 助けのつもりが結果として妨害することに。それを防ぐには情報の適切な連携ができるようにするのが重要。


◆支援訓練
 震災時、我々は支援をする側に回る可能性が高い。支援をする方法をあらかじめ知っておいた方がスムーズに人の命を助けられる。例えばウェブサイトを通じた支援だと、Google パーソンファインダーというサイトの存在を知っておけば、次の震災の時の書き込み件数・利用者が増え効果も上る。
 防衛省は震災直後に支援スキームをネット上で告知した。支援物資は自治体から自治体が原則というもの。最寄りの自治体⇒被災地の自治体⇒被災者へ、という流れの方がスムーズ。


 ※Google パーソンファインダーは、被災した人の安否を調べられる消息情報。震災直後に立ちあげられ、昨年10月末をもってサービスを終了した。



【荻上式BLOG】

【Twitter:荻上チキ(@torakare)】

2012年1月30日

1月30日「荻上チキ・災害時のメディアの役割(1)」

東日本大震災直後、ネット上に広がった「デマ」を“止める”活動をしていた評論家・荻上チキさん。

震災直後、ソーシャルメディアが大きな役割を果たしたと言われていますが、その役割について、荻上さんにお話しを伺いました。

◆ネットメディアが果たした役割
 震災時のメディアの役割を検証するのはすごく大事。それぞれのメディアがどの段階でどう役に立ったのかは細かく見なければいけない。 
 多くの方が気にしているのは、阪神大震災と東日本大震災で大きく違う条件の一つ、インターネットの普及。
 ネットがどの時期にどれくらい役に立ったのか。被災地で取材をすると、高齢者も多く、3月11日から数日間は停電し、PCも流された方が多い。必要なものは食べ物や避難所などの命にかかわる情報。そんな状況下ではネットの情報が役に立ったと答える方は数としては少なかった。
 徐々にインフラが回復、被災者がネットを直接見ることができるようになってからは、情報の確保、仲間と連絡をとるという面で非常に役に立った。
 一方、3月11日からしばらくは被災者ではなく支援者同士がネットで情報を共有、適切な連携ができた事例もある。
 ネット上だとツイッターやフェイスブックといったサイトを通じてデモが広がった面が注目されたが、専門家同士、医者同士が「◎◎の被災地では××の薬が足りていない」「ベッドの空いている病院」などの情報連携をメーリングリスト、メール、ファックス電話などフル活用しながら役に立てていったケースがある。
 すべてのネットメディアが役に立ったかどうかではなく、それぞれのメディアがどんな場面に役に立ったのかを議論することによって、次の震災に生かす、参考にできる場面が増えると思う。



【荻上式BLOG】

【Twitter:荻上チキ(@torakare)】

2012年1月27日

1月27日「被災地で放送を続けるラジオ(5)『茨城県水戸市・FM Palulun』」

茨城県水戸市は、東日本大震災で震度6弱の地震に見舞われました。
コミュニティFM「FM Palulun」本社スタジオも、地震により放送用の機材が倒壊。CDも多くが破損してしまいました。
震災からの復旧と震災後の番組作りをどのように行ってきたのか、FM Palulun代表・小川啓子さんに、伺いました。

◆震災直後のFM Palulun
 何トンというスタジオ自体が動いてしまったし、茨城県庁の屋上に立っていたアンテナ自体が倒れてしまったので、放送ができる状態じゃなかった。会社をやめようかと思ったくらい。アンテナ自体が仮アンテナの状態なので、復旧は半分くらい。
 震災後、今まであまりラジオを聞いていなかった人たちも聞いてくれるようになったという実感はある。
 本当に大変な時、リスナーの方から「うちには井戸がありますからお水取りに来てください」「お風呂使ってください」「紙おむつおわけします」という情報をどんどんいただいた。地域情報はコミュニティに、という流れになってきている。


◆原発事故の影響と余震。そしてこれから
 茨城は野菜の生産地だが、茨城の野菜やお肉、魚は食べたくないという声や、(野菜などが)送り返されてきたという話はあちこちで聞く。
 余震が年明けから結構増えている。子供たちが、ちょっと揺れただけで机の下に潜り込むようになった。
 地域情報がどのくらい大切なことかということを、リスナーも初めて気づき、私たちも身に沁みてわかった。
 よりリスナーとの距離、行政との距離を縮める、情報ツールとなれるように存在価値を高めていきたい。



【FM Palulun】

【災害FMがネット上で聴ける「サイマルラジオ」】

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今週は「被災地で放送を続けるラジオ局」を取り上げてきましたが、
一方で、マンパワーやノウハウ、機材や資金が不足して運営が難しくなり、やむなく放送を休止する災害FMも出てきています。

そんな中、東北6件のコミュニティFM23局などで運営する「東日本地域放送支援機構」が、NPO法人の認証を受けました。
この機構は、被災地やその周辺各県のコミュニティFMが、ノウハウや資金面で苦しむ災害FMをバックアップしようという目的で設立されたものです。
今後、この番組でもその取り組みをご紹介していきます。

【特定非営利活動法人 東日本地域放送支援機構】

2012年1月26日

1月26日「被災地で放送を続けるラジオ(4)『南相馬災害FM』」

福島県・南相馬災害FMが放送をスタートしたのは昨年4月16日。
開局してから9ヶ月が経った南相馬災害FMは、市民に日々必要な情報をメインに放送。
特に放射線量の情報は、時間をかけて丁寧に放送をしているそうです。

今日は、建築関係のお仕事から農業へ転職するための研修中に被災したという、南相馬災害FMのスタッフ・今野聡さんにお話を伺いました。


◆南相馬災害FMの現状
 取材・構成、技術、パーソナリティなど合計11人態勢で放送をしている。
 平日は、南相馬市民に必要とされるような情報を発信できるように務めている。市からのお知らせや、復興に向けての会議レポートや、東電の賠償相談会のお知らせ、仮設住宅や交通に関する情報を伝えている。また、市と文科省が発表する毎日のモニタリング、放射線量の情報も丁寧に伝えている。
 南相馬市では40か所以上のポイントを計測している。そのデータを放送で読みあげている。水道水の検査データも定期的に報告しているので、放送では10分近く使っている。
 そこまでやらなくてもいいんじゃないかという意見もあるが、ラジオの前でペンを持って確認している市民もいるので、大切な情報と意識して扱っている。


◆シビアな情報を伝える中で、大切にしていること
 昨年のクリスマスには、幼稚園や保育園児に「サンタにお願いしたいプレゼント」を聞いて、声を放送した。そういった声で“癒し”を届けようと思った。
 平日のフリートークでは、身近な、誰でも共感できるような街の話題や日常のひとコマを話している。


◆伝えたいこと
 南相馬市は市の一部が警戒区域に入っていて、家があっても住めない地区がある。1万2千人以上の方が避難生活を送っている。放射能の問題で、自主避難している方も多い。震災前は7万人いた人口が、今は市内に4万人しか住んでいない。お年寄りだけの家や、妻子は遠くへ避難して、旦那さんは地元で仕事をしているなど、家族が二重三重の生活を送っているようなお宅も多い。
 一方で“避難しない”ことを選んだ家庭では、「危険な所に子どもと住んでいる」と批判を受けてしまうこともある。しかし、みんな悩みながらこうした生活を選んでいるということを知ってもらいたい、理解してもらいたいと思っている。
 今、地域や家族の心まで分断されそうになっているが、お互いが理解しようとすることで、遠くに離れていても南相馬市民として繋がっていけるよう、放送ができればと考えている。



【南相馬災害FM】

【災害FMがネット上で聴ける「サイマルラジオ」】

2012年1月25日

1月25日「被災地で放送を続けるラジオ(3)『宮城県南三陸町・FMみなさん』」

宮城県南三陸町の災害FM「FMみなさん」は、津波で流出した防災無線の代わりとして、昨年5月、町の総合体育館の一角で放送をスタートしました。
町の災害・生活情報を中心に、生放送を含む24時間体制で放送を行っています。

開局にあたって、大震災を経験した神戸や長岡のラジオ局がノウハウを提供したそうです。

現在「FMみなさん」のスタッフは9名。
そのうちの1人、和泉博文さんは、震災前はラジオと全く関係のない仕事をしていたといいます。


◆震災前の仕事
 震災前はトラックの運転手だった。山で原木を積んで街に下ろす仕事。社長の家も流され、会社を解雇された。
 災害FMに応募したのは町の臨時職員にもなれるし、いままでと違う仕事をしてみたいと思ったから。
 今はゲストの出演依頼交渉や、現場に行って収録、編集して番組を作っている。手さぐり状態。トラックの運転手だったので、人と喋ることもあまりなかった。知らない人と喋ることに最初は抵抗があったけど、だんだんわかってきてスムーズにできるようになった。

◆3人の子育て
 震災前から父子家庭で、親子の会話はカタコトだった。でもこういう仕事をすることによって、言葉で意思の疎通ができるようになった。言葉って大事。
 声かけすることによって子供たちの気持ちもわかるし、自分の気持ちも伝えられる。この仕事をしてよかった。親子の関係を修復できた。
 「FMみなさん」は、3月で閉局になる。俺が仕事しなければ生計が立たない。今は何も考えられない。先のことを考えてくよくよしても仕方ない。やれない仕事はない。とりあえずなんかやってみようかなと思う。





「FMみなさん」などの災害FMは、インターネットで全国どこからでも聴くことができます。

【災害FMがネット上で聴ける「サイマルラジオ」】

【南三陸災害エフエム「FMみなさん」のブログ】

2012年1月24日

1月24日「被災地で放送を続けるラジオ(2)『陸前高田災害FM』」

岩手県・陸前高田災害FMは、震災から9か月となる去年12月に放送がスタートしたばかりです。
それまでは隣の大船渡市の災害FMから情報を届けていました。

災害FMとは、臨時災害放送局のこと。
災害があった時、住民に必要な情報を提供する目的で、総務省が市町村にごく簡単な手続きで免許を与え、放送を許可したFM局です。
陸前高田をはじめとする大半の災害FMが、インターネットを通じ、全国で聴けるようになっています。

災害FMは、地元のコミュニティFMが担当する場合もありますが、陸前高田にはもともとFM局がなく、全てゼロからのスタート。
機材も、2010年ハイチ大地震で使われたものを、半年がかりで調達しています。

そして震災から9か月、陸前高田災害FMは、2年間の免許を受けて放送がスタート。
復興へ向けた市民レポートや、市内に住む外国人向けの中国語・英語の番組、おじいちゃんおばあちゃんによる昔話など、娯楽番組も放送しています。

開局に至る経緯を、陸前高田災害FMを運営するNPO法人「Aid TAKATA」村上清理事長に伺いました。

◆開局までの道のり
 陸前高田は約2万4千人のうち約1万3千人が被災した。約2000人が死亡・不明。市役所も流され、職員も100名以上亡くなった。何もない状況が続いていて、災害エフエムをやりたくてもできない状況だった。
 そうは言っても住民は避難所ごとにラジオを置いて、聞いている状況。ラジオの重要性は大きかった。防災無線が整備されているが、それも流されてしまった。防災情報を伝えるツールが無い。そういう意味でも大事だった。
 災害FMを通して、陸前高田の市民の皆さんに情報を流していた。


◆陸前高田災害FMの試み
 ある程度復興が見えてきたころに市議会が始まった。住民からも今度の議会は「復興議会である」との声や、「議会を聴きたい」という要望があった。そこで生中継しようと思った。
 職場で聞いていたり、がれきの処理をしている現場にラジオを大きなボリュームで聞いたりという場所もあった。
 みなさんからは「議会は傍聴しに行かないといけないが、自分の家で聴ける。自分たちが選んだ議員が何を話しているのが聴こえるので、身近だ」という感想を聞いた。議員たちも、これができたからうかうかしてられない、何言われるか分からないという反応も大きい。議会を身近に感じられるし、復興を市民一人一人が自分のものとして捉えられる、そういう意味では少しずつ変わりつつある。



現在、東北の災害FMの運営資金を民間企業がサポートする動きもありますが、これも来年の3月まで。どの災害FMも、潤沢にお金があるとは言えない状況です。

陸前高田災害FMは現在、8人のスタッフで毎日の放送を続けています。


【陸前高田災害FMブログ】

【災害FMがネット上で聴ける「サイマルラジオ」】

2012年1月23日

1月23日「被災地で放送を続けるラジオ(1)『釜石やっぺしFM』」

今エフエム岩手では、県内6つの支局による「ふるさと元気隊」プロジェクトを展開。
月曜から水曜の午後に、それぞれ1時間番組を放送しています。

沿岸部で大きな被害を受けた釜石支局「釜石やっぺしFM」パーソナリティ・阿部志穂さんにお話を伺いました。

◆「釜石やっぺしFM」で伝えていること
 「ふるさと元気隊」は、FM岩手の6つの支局(久慈、八幡平、遠野、紫波、盛岡、釜石)が、それぞれの地域密着で故郷を元気にする情報を発信している。
 「釜石やっぺしFM」では、今現在の釜石の状況、復興し始めた第一歩を踏み出した人にスポットを当てている。
 例えば、醤油醸造会社を取材した。甘めのしょうゆ。沿岸の人はそれじゃないと刺身が食べられない。被災してしまっていたが6月に復活。番組でも情報を出したら反響が大きかった。釜石に住んでいる人も聞いているが、出身者で釜石を出てしまった方たちも聞いている。なるべくそうした外への発信、中へ向けての発信も両方伝えるようにしている。


◆印象に残った話題
 明るい話題としては成人式。去年まで行われていた市民文化会館は被災してしまったので、ある高校の体育館で実施。振袖を着た新成人たちが明るい表情だった。
 インタビューしたが、これからどうなって欲しいか聞いたところ、「前よりももっといい街にしたい」「親孝行がしたい」。復興に必要なものは人の力。ひとりひとりがそう考えてくれているのは嬉しかった。
 ラジオで何ができるのかは手探りだが、個人的には人にスポットを当てたいと思っている。人の力が大切。ひとりひとりを大切にした番組を作っていきたい。

阿部さんご自身は、去年1月に地元・千葉県を離れ、釜石やっぺしFMのパーソナリティになりましたが、その2か月後に被災。現在も釜石で暮らし、出来る限り釜石の方々の取材を続けたいと話しています。



【エフエム岩手「ふるさと元気隊」】
エフエム岩手「ふるさと元気隊」
釜石やっぺしFMは、毎週水曜日15:00〜15:55 ON AIR

「radiko.jp復興支援プロジェクト」では、日本全国で岩手・宮城・福島・茨城の4県7局の放送を聴くことができます。
【radiko.jp復興支援プロジェクト】




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番組でご紹介した「仙台フィル『絆』コンサート」チケットプレゼントのご応募は、番組メッセージフォームからどうぞ。
【LOVE&HOPE メッセージフォーム】
※「プレゼント希望」と明記の上、ご応募ください


仙台フィル「絆」コンサート

仙台フィルハーモニー管弦楽団は、被災しながらも、いち早く「音楽の力による復興センター」を立ち上げ、被災地で200回に及ぶ復興コンサートを行ってきました。
今回のコンサートは、多くの支援に対して感謝の気持ちを伝えるとともに、人々に癒しと勇気を与え続けてきた音楽の力をみなさんにも届けたいという思いから行われます。

日時:2012年2月3日(金) 19時開演
場所:サントリーホール

2012年1月20日

1月20日「神戸から東北へ。復興へ必要なこと」

東北各地で町の復興に携わる人たちを神戸に招き、神戸の知恵と経験を伝えようという「復興まちづくり勉強会」。
宮城県気仙沼市や石巻市、岩手県山田町から参加した方たちが、いま抱えている悩みを話していらっしゃいました。

勉強会の中心となったのが、神戸の復興まちづくりに携わり、東北の街再生コンサルタントも行っている建築家で「神戸まちづくり研究所」の野崎隆一さんです。

◆神戸の復興を経験したからこそ言える「必要なこと」
 まずは住民ができるだけ早い機会に集まること。集まってお互いに顔を見て、「あんたどうするの?わたしはこうしたい」とざっくばらんな話し合いをする場がないといけない。そこからしか始まらない。
 「復興まちづくり」の主人公は被災者の皆さん。やってもらうものでもないし、誰かから与えられるものでもない。主人公である皆さんが「ああしたい、こうしたい」とどんどん言えば、周りからいくらでも専門的な支援はついてくる。
 東日本でも(自分が復興の)主人公だと思ってない人がたくさんいる。被害を受けたんだから当然行政がやってくれるものだと思っている。でも(待っているだけでは)やってくれるものしかできない。主人公なんだから「こんな復興住宅だったら住みたい」とか、自分たちが住みたいものを作らせるように、やっていかないと。自分たちで声を出していかないと実現できない。


◆スタートさせようと思っている取り組み
 復興のチャートをつくろうと思っている。「被災地にどうしても家を建てたい人」「移転したい人」「仲良しと一緒に高台に集団移転したい人」「お金がないから公営住宅に住みたい人」「公営住宅でも鉄筋でなく木造に住みたい」など、いろいろな選択肢があるはず。選択肢をチャートにして「あなたはどのコースに行きたいですか」と言ってあげると、判断する目安になる。分岐点でメリットデメリットも書いてあげればいい。
 公営住宅に入っても、何年後かに払い下げも受けられる。そういうことも皆さん知らない。そういう選択肢もあるということを、チャートにしてあげることを、考えている。




今回の「復興まちづくり勉強会」に参加した、岩手県山田町の湊よしゆきさんは、
「自分たち漁師は海から離れられない。だから高台に居を構えることができればいいと考えている。仕事のことを考えると海からあまり遠いところにもいけない。」と話してくださいました。



高台への移転や仕事など、状況や悩みはさまざま。
神戸の経験を東北に伝える試み、そして復興への道は始まったばかりです。


神戸長田区。震災による火災の爪痕は17年経った今でも残っている

【神戸まちづくり研究所 official web site】

2012年1月19日

1月19日「神戸から伝える“これからのまちづくり”」



震災から17年目となる1月17日を前に、先週末、神戸で開催された「復興まちづくり勉強会」。
東日本大震災で被災した町の復興に携わる人たちを神戸に招き、知恵と経験を伝えようという取組みです。
今回勉強会に参加したのは、宮城県気仙沼市と石巻市、岩手県山田町で町の復興に関わる住民です。

このプロジェクトの中心となったのが、神戸の建築家で「神戸まちづくり研究所」理事・野崎隆一さん。
野崎さんは神戸の復興まちづくりに参加し、現在は東日本大震災の被災地でも、街の再生のコンサルタントを行っています。


◆神戸で行なわれた街作り勉強会の意味
 これまでは我々が東北の各地に行って、「神戸ではこうでしたよ」という話をしたり、向こうの意見を聞くようなことをしてきたが、一番正確に知ってもらうのがいいなと思った。神戸には復興を担ってきた人がいっぱいいるので、そういう人たちの話を直接聞いたり、質問してもらったりが一番大事なんじゃないかと思い続けてきた。神戸“117”の時期でもあるので、ちょうどいいんじゃないか。
 私自身は阪神淡路のときは「白地地域」と呼ばれる地域の支援を中心にしてきた。「白地」とは行政がこうしろああしろと言わないで、“皆さんが自己負担で自力で復興してください”という地域。阪神淡路大震災のときは95%が白地だった。
 皆、区画整理とか再開発で(神戸が)復興したと思っているが、それは5%くらい。大半は自力で復興しなければならなかった。だから僕らは、「皆で集まって共同再建したら、自己負担少なくて補助金がついて復興できますよ」などと支援しながら、いろんなプロジェクトをやってきた。
 東日本も考えてみるとほとんどが「白地地域」。我々が(神戸で)やったことが、東日本でも生かされるんじゃないかと、いま思っている。


◆神戸の復興に関わってきた経験があるから
 神戸市は“やり手”。都市計画などが大得意で、災害があったら災害を機会にこういうふうにしてやろう、という行政の想いがあった。東日本を見ていると、行政にそういう強い想いもスキルもない。県の意向を待ってるとか、県は国の意向を待ってるとか。そういう意味では、神戸と全然違うと思った。
 我々は行政を励まさなきゃいけないし、住民も励まさなきゃいけない。両方盛り上げていかなきゃいけない、というのが神戸の時と全然違う状況。
 阪神淡路の一番の教訓は、適切な時期に正確な情報が流れていれば、被災者は適格な判断ができる、ということ。ところが被災者が最善の判断ができない要因は、不正確な情報や、本当に必要なときにその情報が伝わらない、という場合。
 復興で一番大事なのは、“皆さんがいるのは今このステージで、次のステージではこういうことが起こる。そのためにいま皆さんができるのはこれ”ということは言ってあげること。そういうこと(震災後のステップ、スケジュール)をわかるようにしてあげるのが、われわれ神戸の人間にできることじゃないか。

2012年1月18日

1月18日「神戸から東北へ贈るぬくもり」

神戸市東灘区で書道教室「ばく工房」を主宰する書道家の野原神川さんは、阪神淡路大震災で、両親と義理の弟さんを亡くしました。
妹さんは落ちてきた梁に身体を圧迫され、今も障害が残っています。

17年経っても決して癒えることのないあの日の記憶。
だからこそ、東日本大震災は、野原さんにとって大きな衝撃でした。

そこで野原さんが参加したのが、神戸のNGO「アセック」(理事長・瓜谷幸孝さん)が、東北の被災地の仮設住宅に贈る年賀状を募集したプロジェクト「元気メール年賀状」でした。

◆自分ができること
 (阪神淡路大震災の後)本当に多くのお友達に支えられた。4〜5回引っ越しを繰り返したが、その度に集まってくれる友達がいたから今の自分がある。その時のお礼を東日本の人たちにしてあげたい。
 テレビや新聞で皆さんがいっぱい応援しているのを見ながら、自分が何もできないでどうしようと思っているときに、新聞で「年賀状を被災地の方に書きましょう」という記事を見た。これなら自分でもできる、自分で100枚は書こうと、NGOの瓜谷さんに贈らせていただいた。
 「頑張らずに泣きなさい。思いっきり泣いてください、思いっきり人に甘えて、いろんな人に手伝ってもらっていいんじゃないの」と書いた。「一日一回くらいは笑顔でいられたらいいんじゃないの」と。
 特に大人は、自分から声を掛けにくかったりするし、一日中喋らないということも多いが、「いいお天気ですね」「どこからいらっしゃったんですか」と人と話をすると、その中に一つくらいは笑いはあるだろう。そんなに親しくならなくても普通に会話ができたら、心があったかくなると思う。おしゃべりすることも大事。



書道教室の生徒と一緒に年賀状を書いて贈ったという野原さん。

その年賀状を受け取った石巻の仮設住宅では、被災者の方から「書道を始めたい」という声が上がっているそうです。

◆石巻から届いた声
 瓜谷さんからお電話をいただいた。向こう(被災地の仮設住宅)で非常に評判が良くて、年賀状の取り合いをしているぐらいだと言われた。本当に一生懸命書いた甲斐がある。
 書道を初めてもらうきっかけになればそれで良かったし、書道を始めたいという人がいるなら、私も指導に、お顔を見に、会いにいきたいなと思っている。
 芸術作品とかきれいな書を書くのではなく、ぜひ皆さんに書を楽しんでもらいたい。小さいころから何十年も筆を持ってない、という人も全然OK。そのためにもちょっとだけ指導に行きたい。何月ごろにしようかなと思っている。



野原さんは被災地の仮設住宅に書道の道具を贈るため、作品のチャリティ展示・販売を行っています。
神戸市東灘区「本山コンテナヤード」で今月いっぱい開催しています。



【野原神川さん official site】

【「ばく工房」へのアクセス】
住所:〒658-0016 神戸市東灘区本山中町2-6-12
TEL/FAX:078-412-4400











2012年1月17日

1月17日「阪神淡路大震災から17年。薄れることない記憶」

17年前の今日、1月17日、早朝5時46分。
兵庫県南部を中心に、広く近畿地方を大きな地震が襲いました。

阪神淡路大震災。
死者・負傷者を合わせて1万人以上。全半壊した住宅、およそ25万棟。
今朝5時46分には、神戸を中心に全国各地で黙とうがささげられました。

神戸市東灘区で書道教室を主宰する、書道家の野原神川さんも、阪神淡路大震災で被災し、家族を失った一人です。

◆震災で家族を失った
 私は実家から12分くらいのところに一人暮らししていました。
当日は実家に泊まる予定でしたが、両親ともに風邪をひいていて来るなと。
それで両親二人とも亡くなってしまいました。ぺちゃんこでした。
たぶんわたしも泊まっていたら一緒に逝っていたと思う。
だから、残してくれたのかな、と。父親から「お前は残れ」と。

実家の斜め前に妹家族が住んでいて、妹はクラッシュ症候群で、上から梁が
長い時間足に負担かけていたようで。いまだに障害になってしまっている。
長いこと妹の後姿を見ることができないでいる。見ると涙が出ちゃう・・・
前はいいが後ろがだめ。泣きそうになっちゃう。
本人にはそんなこと言ったことないけど・・・。


◆震災の記憶が薄れることは決してない
 あの時の天気はいまだに忘れない。すごくお天気がよかった。地べたで起こっている風景と空のきれいさのギャップがすごくあって。天気のいい日は震災のことを思い出したりする。
 とくに12月に入ってから1月17日までがしんどい。体調もよくないし、当時のことを振り返るというか。毎年だめ。お正月は毎年18日にならないとこない。たぶん私だけじゃないと思う。(神戸の方は)皆さんそうだと思う。



神川さんは震災後、実家があった場所に書道教室を開き、
子供から大人まで、広く書の楽しさを伝えています。
また、NHK朝の連続テレビ小説「だんだん」の題字を手掛けるなど、書道家のアーティスト。
現在、自身の作品をチャリティー販売して、東北の被災地へ向け書の道具を送る支援活動を始めています。

神戸市東灘区 書道教室「ばく工房」で販売も行なっています。

【野原神川さん official site】

【「ばく工房」へのアクセス】











2012年1月16日

1月16日「神戸から、17年目の想いを歌声に乗せて」

阪神淡路大震災から明日で17年目を迎える神戸。
昨日、神戸・三宮で行われた「5万人のメッセージライブ!!」で、子どもたちの歌声が響き渡りました。
歌のタイトルは「しあわせ運べるように」。

阪神淡路大震災の被災地で生まれ、そしていま、東北の被災地でも歌い継がれている歌です。

作詞作曲を手掛けたのは、神戸の小学校で音楽教師を務める、臼井 真さん。
臼井先生は、17 年前に神戸の東灘区で被災。自宅も全壊しました。

◆曲を作ったきっかけ
 神戸の震災で自宅を失い、精神的にも追いやられてつらかったとき、親戚の家でお世話になっていたが、夜9時すぎのニュースに神戸の三宮が映った。それが自分が知っている三宮でなく、街全体が消えてしまったかという衝撃を受けて、目の前にあるメモ帳のような紙の裏に10分間くらいで作ったのが、この「しあわせ運べるように」という曲。
 避難所だった学校で授業ができたときに小学3年生に歌ってほしいと教えた。メロディが覚えやすいので、子供たちはすぐに覚えた。ボランティアの方がたくさんいたのでボランティアの方に向かって歌った。
 涙を流しながら歌う子もいたが、全体的には勢いがあって明るく歌うと、ボランティアの方たちが涙を流していた。それを見て、この歌は届くかもしれないな、という実感はあった。



阪神淡路大震災の被災地・神戸で生まれた歌「しあわせ運べるように」。
この歌は、歌詞の「神戸」の部分を「ふるさと」に置き換えて、東日本大震災の被災地でも歌い継がれています。


◆歌い継がれる想い
 東日本大震災の後にインターネットなどで、自分が知らない間に「このうた聴いてください」といろんな方が送ってくれたり、実際に現地で歌ってくれたりと、いろんな方面から広がっていった。被災した方にも直接お会いし、東北にも2度行った。
 高校生の女の子が中学生時代の部活の後輩を津波で亡くした。「“元の姿に戻る”という歌詞があるが、ふるさとは非居住地になって元の姿には戻りっこない。でも“生まれ変わる”という歌詞に救われた」「そうだ、生まれ変わるんだ、と思ったら前を向いて希望を持って生きられるかな」と言ってくれた。それを聞いて、やはり被災地の想いは一緒なんだなと思った。


臼井先生が現在教鞭をとる西灘小学校では、明日1月17日、学校の体育館で子供たちが「しあわせ運べるように」を合唱します。
また、長田区の大正筋商店街でも、夕方に子供たちの歌声が披露されます。

さらに、「しあわせ運べるように」のCDブックもリリースされています。CDと本の印税は全額、東日本大震災の支援のために寄付されます。

詳しくは、「しあわせ運べるように」公式サイトをご覧ください。
最新情報、様々な動画も見られるようになっています。


【「しあわせ運べるように」公式サイト】









2012年1月13日

1月13日「震災は人権問題」

震災から10ヶ月が経過。
いまだに故郷に帰ることができない方や、仮設住宅に入居しても、仕事や買い物、通院や登校などで、不自由な生活を余儀なくされている方が多いのが現状です。

そこで今日は、国際法の専門家で、国内外の「人権問題」のスペシャリストで、財団法人 人権教育啓発推進センターの理事長・横田 洋三さんに、「震災と人権」の観点から、お話しを伺いました。


◆「震災は人道問題であると同時に、人権問題だ。」
 震災でたくさんの方が亡くなり、怪我をした。また、病気になった方、必要な薬が手に入らなかった方、食料品が不足した、水が不足した、子供が学校にいけないなど、日常生活が正常に行えない状態が起こった。
 震災だから「誰かが人権侵害をした」ということではないが、物がない、サービスがない、という意味では、人権侵害と同じこと。直後ならともかく、一週間以上たって、“安全な水がない、食料品が十分にない、薬がない”となると、これは人権問題になる。
 国や地方自治体などが、必要なモノ・サービスを提供できるだけの経済力があるのに放っておかれる。本来はただちに救援の手を差し伸べなければいけない。
 透析が必要な人が透析を受けられない状況。これは人権問題以外の何者でもない。


◆反省するべき点
 一人ひとりの気持ちを考慮した対策でなかった。被災者は温かい食べ物だけでなく、人との繋がり、温もりを期待している。
 今までなら隣の人が食べ物持ってきたら30分くらい話したりした。そういう繋がり、心のケアはとても重要。でも今回の震災では、それだけの余裕がない中で、機械的に流れ作業でやってしまった。
 震災で孤独死の率が高くなる。死ななくていいのに亡くなってしまう方がいる。本当は亡くなりそうな方の周りには、人がいるはずなのに、それがいない。孤独死そのものより「孤独死がつくられる状況そのもの」が問題。
 仮設にいる人の心のケア。どうやって人と気持ちを通じ合って、安心して生活が送れるようになるか。そういった対策を行政で行うことが必要。




【財団法人 人権教育啓発推進センター official site】

2012年1月12日

1月12日「千葉県旭市・心の傷を負いながら、語り続けること」


千葉県で最も大きな被害を受けた地域、旭市・飯岡地区で始まっている、津波の体験を後世に残す「語り部」の活動をご紹介します。


「いいおか津波 語りつぐ会」の語り部活動の発起人のおひとり、渡邉義美さんは、飯岡で飲食店を経営されており、銚子、旭、茨城県神栖の飲食店と協力し、「復興どんぶり」というメニューで資金を集め、語り部の活動費などに充てています。

◆活動のきっかけ
 地域の人達に元気をつけるためには、我々が元気にならなければいけない。そこで「復興丼」を作り看板を立てた。20店舗ほどでお金が入ってきた。そのお金で、飯岡の復興のために後世に伝える動きを起こそうということになった。
 聴き取り調査をはじめ、被害を受けた方の中で前向きな方を語り部とした。その結果、しゃべった本人が元気になってしまった。そこで「いいおか津波 語り継ぐ会」を始めた。



「語りつぐ会」の語り部、小野芳子さんは、ダウン症の長男と一緒に仮設住宅で生活をしています。
小野さんは、津波の被害を受けた家を、修復せずに解体してしまいました。その理由は、津波が長男の心に残した傷でした。

◆息子の意思を受けて
 築12〜13年、全壊ではなかった。直して入ろうとしたが、息子が反対した。「津波が怖いから行かない」と拒否した。そんなに深い傷を負ったとは想いもしなかった。
 津波の話をすると嫌がっていたが、忘れてくれるだろうと思っていた。しかしそうじゃなかった。「津波が怖い」「僕頑張った」と言う。意思を受けて海の見えないところへ行くことに決めた。9月20日ごろに家を解体。別の場所に小さな家を建てようと思っている。



「いいおか津波 語りつぐ会」は、今後も千葉県内の学校や、防災イベントを中心に活動を続ける予定です。

【いいおか津波語り継ぐ会】
お問い合わせは 電話:0479-57-2691
 ※この番号は15日に開通予定です

2012年1月11日

1月11日「千葉県旭市の『語り部』が、後世に伝える体験」


津波の被害にあった千葉県旭市は、市の発表によると、
地震と津波による死者13名、行方不明者2名、
住宅被害は全部で3677戸、そのうち全壊と大規模半壊が768戸、液状化の被害767戸
千葉県で最も大きな被害を受けた地域です。
旭市では現在も、約170世帯が仮設住宅での暮らしを続けています。

旭市飯岡地区の小野芳子さん(75歳)は、市内で働くダウン症の長男と一緒に、今も飯岡地区にある仮設住宅で避難生活を続けています。

また小野さんは現在、飯岡の市民団体が立ち上げた、震災・津波の体験を後世に伝える「語り部」としての活動に参加しています。

◆「語り部」の震災体験
 2階のある家はみんな2階へ上がった。うちは平屋だった。津波は瞬間7mといっていたがそれ以上だったのでは。第一波は玄関までで引いた。「この程度で終わった」と思った。
 息子が帰らないのでうちで待っていた。それから40分ほどして大きなのがきた。息子が帰ったところだった。避難しろと言われ、大事なものを家に取りに行った。奥の座敷へ財布などを取りに行き、手を繋いで座敷から帰ってきて下駄箱に手を置いたらバーンと津波が来た。
 手を繋いでいた息子がいない。「まさかず」と呼んだが、返事もない。茶箪笥も冷蔵庫も倒れてきた挟まれた。波はどんどん重なり3mくらいになった。捕まっていたが潜ってしまった。
 「まさかずゴメンね」と謝りながら意識を失った。気がついたら仏壇の前のガレキだらけの上に座っていた。助かった。
 でも正和がいない。「ごめんね正和」と大きな声で言ったところで引き潮に。消防隊が来たので、「障害を持つ息子がうちの何処かに沈んでいるから探してくれ、そうでないとうちは出られない」と言ったら、息子は既に助けられたことを知らされた。その後、どうやって正和が助かったのか教えてくれた。息子は流木を乗り換えて、屋根に飛び乗り、助かった。



小野さんは、生まれも旭市飯岡で、1960年のチリ地震など、過去に襲った津波も経験していますが、「今回のような津波は全く想像していなかった」ともおっしゃっていました。

2012年1月10日

1月10日「宮城県南三陸町の現状。発揮される『地域力』」

昨年3月の東日本大震災で、宮城県南三陸町を襲った津波は、町内を流れる3つの川を逆流。
町の庁舎も津波に飲み込まれました。
死者・行方不明者は1万人を超えています。

南三陸町・佐藤仁町長の、復興に向けた想いを伺いました。

◆今年は「復興元年」になる
 震災復興計画が決定した。復興計画の基本は「高台移転」を進めること。それに向けて、いま町民の皆さんにアンケートしている。今年が復興元年になると思う。

◆雇用の確保と「地域力」
 町の雇用を支えていた85%の企業、会員が壊滅してしまったので、雇用は厳しい。収入がある、ということが生活の再建の基本中の基本。雇用の場所をどう確保するかが課題。
 基幹産業は水産業。去年7月1日、漁が解禁になった。9月から秋サケの水揚げが始まった。サケの孵化放流事業を展開しているが水揚げは宮城県内トップ。例年に比べて量は少ないが、単価が高かったので、ほぼ前年と同様の売り上げがあった。水産の分野については前を向かって歩み始めることができた。
 震災前から元気な人は震災後も元気。去年4月末に復興市の第一回目を開催した。三回、四回と会を重ねるうち、はずみもついて、出店する商店も増えていった。今年も進めていきたい。
 地域の皆さんの「地域力」が発揮されている。今年もがんばって、復興に向かって歩みを進めていきたい。




復興計画の基本となる「高台移転」に向けて、「復興事業推進課」「復興企画課」という二つの部署が新設されました。新年の仕事始めで、16人が配属されたばかりです。

また2月末ごろに、町内に仮設の商店街も誕生する予定です。

2012年1月9日

1月9日「岩手県宮古市の現状。市民のチカラ」

岩手県宮古市田老町は過去に週十回の津波の被害を経験してきました。
1978年には、津波に備えた、高さ10メートルの防潮堤が完成しましたが、東日本大震災の津波は、その巨大防潮堤をも乗り越えて、地域に大きな被害をもたらしました。

宮古市・山本正徳市長に、現在の宮古市の復興の状況を伺いました。

◆宮古市の現状
 復興の基本的な計画は立っているが、日々の生業をしっかり持つためには仕事ができるようにしなければ。それは並行してやっている。
 この地区はわかめ、昆布の養殖、ホタテ、カキの養殖、定置網。いま全体からいえば(震災前の)60%ぐらい。その後の加工業などがしっかり回復していない。スピード感がないとか、国の制度がついていかない、というのも現状。
 一つの原因は、工場を建設したり、商店を復活させるための業者の数が少ないこと。メニューやお金も用意されているのに建築が進まない、ということもある。そこは地元だけのチカラではできないので、県内、また全国の業者が入ってきて、復興を支えてくれないと、なかなか早くは進まない。



津波で甚大な被害を受けた宮古市ですが、宮古市魚市場は震災1ヶ月後の4月11日、岩手県の沿岸被災地の中で、いち早く再開をしました。

◆宮古市民の「チカラ」
 宮古は「民力」がすごい強い。商売をやっている人、お店をやっている人、加工業の人。(それぞれが)わたしはこれをやらなきゃいけない、家族を食べさせなきゃと頑張っている。なので、昼も夜も街に活気が出てきている。これを一部だけでなく全体に持っていかなければ、と思っている。



宮古市魚市場では新年4日、今年の初セリが行われ、サケ、スルメイカ、メバルなどがセリにかけられました。昨年の水揚げ量、取引金額は、例年の7、8割にまで回復したということです。
また1月8日には、宮古市民総合体育館で成人式も行われました。

2012年1月6日

1月6日「フラガールが見た10ヶ月」

新しい年を迎えた東北各地から、それぞれの新年、復興へ向けたこれからの動きをお伝えします。
今日は、福島県いわき市「スパリゾートハワイアンズ」で華やかなダンスを見せているフラガールたちが見た、震災後の10ヶ月について聞きました。

震災の影響で、施設は休業を余儀なくされ、フラガールたちは踊る場所を失ってしまいます。
復興への願いを込めて、フラガールの皆さんは故郷福島を離れ、「全国きずなキャラバン」を行いました。
その後、10月には「スパリゾートハワイアンズ」も部分的に営業を再開しました。

ダンシングチーム・サブリーダー 工藤むつみさんにお話を伺いました。

◆気持ちを込めて踊る
 地元を離れて「きずなキャラバン」でいろんなところに行かせていただいた。不安でいっぱいだったが、行く先々でたくさんのお客さんに迎えてもらって、元気をもらった。
 10月1日にいわきに戻ってきたとき、皆さんに踊りを見てもらうのは震災後ほとんど初めてだったので、すごくうれしかった。いまも地元のお客様あってのハワイアンズだなと実感した。震災後わたしたちは踊る場所を失って、踊ることは当たり前じゃない、お客様に毎日来ていただくことも当たり前じゃないんだなと感じた。
 震災後はより一つ一つ大切に、より気持ちを込めて踊るようになった。



年末年始のお休みにかけて、ハワイアンズにはたくさんのお客さんが詰めかけました。
久しぶりに故郷に戻り、足を運んだという方や、被災して家族と離れて暮らしている、という方もいらっしゃったそうです。


◆ハワイアンズに来てくんちぇ
 ご家族が福島を離れて暮らしている、というおじいさんと話をした。「すごく寂しい。でもハワイアンズに来て、毎日ショーを見ていると元気になる」と聞いて、わたしたちもがんばらないと、と思った。
 2月8日にグランドオープンを迎える。いまのショーとはまた違ったショーを準備しているので、ぜひグランドオープンにも来てほしい。
 「ハワイアンズに来てくんちぇ」




「スパリゾートハワイアンズ」は、2月8日にグランドオープンを迎えます。
詳しくはオフィシャルサイトをご覧ください。

【スパリゾートハワイアンズ official site】

2012年1月5日

1月5日「陸前高田・復興へ向ける想い 〜カフェフードバー「わいわい」〜

新しい年を迎えた東北各地から、それぞれの新年、復興へ向けたこれからの動きをお伝えします。

岩手県陸前高田市にあるカフェフードバー「わいわい」はもともと、高田駅前にあったお店で、飲食やお酒を提供していました。
震災後の7月には、陸前高田の高台にある住宅地の土地を借り、プレハブ3棟をつないで、仮設店舗をオープン。
冷蔵庫、食器などは知人を通じて無償で譲り受けたそうです。

今日は、カフェフードバー「わいわい」を経営している太田明成さんに電話でお話しを伺います。


【カフェフードバー「わいわい」 official blog】

2012年1月4日

1月4日「新しい年を迎えた気仙沼 〜NPO法人 森は海の恋人・畠山信さん〜」

新しい年を迎えた東北各地から、それぞれの新年、復興へ向けたこれからの動きをお伝えします。
今日は、宮城県気仙沼市で牡蠣の養殖業を営みながら、豊かな海を育てるために「森に木を植える」活動をしているNPO法人『森は海の恋人』副理事長の畠山信さんにお電話でお話を伺います。


【NPO法人 森は海の恋人 official site】

2012年1月3日

1月3日「元気メール年賀状(2)」

「元気メール」は、阪神淡路大震災のとき、仮設住宅で孤立を深める被災者のために、全国から被災者への「励ましの便り」を募集し、被災者に届けたのが始まりです。

今回は、東日本大震災で被災し、仮設住宅で暮らす方に宛てた年賀状を全国から募集。
全国から、3500通もの年賀状がアセックに届きました。
元日からアセックのメンバーが被災地の仮設住宅を回って、年賀状を配っています。

今日は「アセック」の代表・瓜谷幸孝さんにお電話でお話を伺います。

2012年1月2日

1月2日「元気メール年賀状(1)」

神戸の国際ボランティア団体「アセック」が、被災地の仮設住宅で暮らす方に向けた年賀状を募集しました。
この「元気メール」の取り組みがスタートしたのは、阪神淡路大震災のとき。
仮設住宅で孤立を深める被災者のために、全国から被災者への「励ましの便り」を募集し、被災者に届けたのが始まりです。
東日本大震災で被災された方に向け、全国から3500通もの年賀状がアセックに届きました。
その年賀状は昨日と今日、アセックのスタッフが直接、仮設住宅に配っています。
今日はその一部をご紹介します。

◆私も神戸長田で震災にあい、住む家を失くしました。
 今の市営住宅に入居できるまで、3年と、少しかかりました。
 その間生きる元気を亡くした日々、人の親切に涙した日々、がんばろう、いやもうしんどいの繰り返しでした。あれから17年。今涙するのは感謝のみです。
 あの時負けないでがんばってよかったと思う、今日この頃です。


◆実はぼくも被災者です。そんなぼくが、あなたに一言だけ言わせてください。
 「がんばってください!」
 日本は必ず不死鳥のように復活します!その時まで頑張りましょう!

 (小学校6年生の男児)

◆震災のニュースを見たとき、無力な私は、ただ遠い沖縄から見ることしかできませんでした。ですが、3年後、私はあなたたちの心を支え、力になれるよう立派なナースになれるよう、日々頑張ります。
 (沖縄・看護学生)

◆こちらも被災地・福島県です。
 こちらもあなたと共にがんばりますので、あなたもがんばってください。
 絆を大切に。

 (福島県いわき市・小学校6年生の男児)

◆私の住む北海道札幌は朝晩と冷え込み、雪を踏むとザクザク、ザクザクと音がします。
 そちらには雪が降るのでしょうか。あまりにたくさんの雪で、除雪に苦労されないといいのですが…。
 まだ見ぬあなた様がどうぞお元気で温かくいてくださることを、少し遠くからお祈り申し上げております。



アセックでは、全国から届いた年賀状を、今日も被災地の仮設住宅に配る予定です。

パーソナリティ 鈴村健一

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