2012年5月31日

5月31日「気仙沼大島・『食事処・はま家』の再開」

宮城県気仙沼大島は、海と山が拡がる周囲22kmの島です。
島民は約3000人。


東日本大震災では、太平洋側からの津波と本州からの引き波によって、島を東西両面から津波が襲い、30人以上の島民が犠牲になりました。

フェリーの接岸港「浦の浜」にあり、長年、観光客や島民に愛されてきた「食事処・はま家」にも津波が押し寄せました。

「はま家」を営む菊田公子さんにお話を伺いました。

◆津波と火事に襲われたあの日
 浦の浜の船着き場の前、リフト乗り場の前の食堂だった。
 店が流されていって、2階の部分だけ残った。その時は車で逃げた。うちのお父さんは2階から毛布を出したり缶詰を持ったりして、私より後から車で走ってきた。
 お寺について上から見ていたら、お父さんの車の前からや後ろから水が来て、お父さんは車を寄せて走って逃げた。
 お父さんが助かったので、家が流れていくのに涙も出なかった。うちだけでなく、皆流されていった。
 気仙沼湾が海火事になった。それが瓦礫伝いに海側から山に移って、寺に下がってきた。私たちも池から水をバケツリレーした。流された車にもガソリンが入っているから火がついたら大変と、人力作戦で。もうどきどきだった。
 うちの子どもたちは、「(私たち夫婦が)津波で助かったけど火事で死んだと思った」と言っていた。
 子どもたちは東京と埼玉にいるので、息子が様子を見に行くと言ったら、娘が「お父さんとお母さんが死んだのにあんたまで死んだら困る」と言ったと、後から知らされた。
 お寺の和尚さんから「私たちが生きている」というのが伝わって、娘から「父と母をお願いします」というメールが入った。それを見て初めて涙が出た。もう震災から1週間ぐらいたってたけど。家が流れた時もお父さん助かった時も涙は出なかったけど、そのとき初めて。やっぱり家族だなと思った。



「はま家」は昨年12月、島内で場所を変え、営業を再開しました。
再び、観光客や島の住民が集まる憩の場になっています。

◆店の再開
 また店をやると思わなかった。ショックで。お父さんも疲れちゃって。
 でもだんだん落ち着いて、夏過ぎてからは、法事の食事(の仕事)もやってくれって言われた。
 土地の持ち主に「ここの土地貸すからやれやれ」って言われて再開することになった。
 9月に土地を借りたときに、家賃だからと気持ち持っていたら、「貸すからやれっていったんだから、儲かったら貰う」って言って、地代を取らない。そういう人たちだよ、大島の人たちって。本当に皆のお陰。



「食事処・はま家」の菊田公子さんは、「とにかくたくさんの人に、大島を訪れてほしい」とも話されていました。

2012年5月30日

5月30日「気仙沼大島ランフェスタ」

気仙沼の沖合に浮かぶ「大島」。周囲は約22km。島民は約3000人です。

海と山の自然に恵まれ「緑の真珠」とも呼ばれる大島ですが、東日本大震災では、太平洋側からの津波と、本州からの引き波により、島を東西両面から津波が襲い、30人以上の島民が犠牲になりました。
また気仙沼湾で発生した火災が湾内の瓦礫を伝って島に上陸し、島のシンボルでもある「亀山」が火災に見舞われる被害もありました。

その大島で、5月27日(日)にマラソン大会「気仙沼大島ランフェスタ」が行なわれました。
コースは10kmとハーフの2コースで、島の美しい景観とともに震災の爪痕などもめぐる設定になっています。

◆実行委員長・白幡昇一さん - 開催に向けた想い
 島の観光の幕開けが、このマラソン大会となる。楽しむことが支援になる。
 コースの中には瓦礫を置いてある場所や、もろに被災した跡などもある。記録を争う大会ではなく、走って楽しんでもらう。それが島の支援にも繋がるということで始めている。
 私の本業は、気仙沼と大島を繋ぐ船会社の代表。(震災前に)7隻あった船のうち3隻が座礁や火災で沈没。4隻が陸に上がってしまった。船会社として船を一隻も持たず、島民の足を確保できず、責任を痛感した。全国の旅客船の仲間から「うちで船を貸すよ」というオファーがあって、船を走らすことができた。
 今回のマラソン大会を通じて、島の人間がこんなに頑張っているよという顕れになるかなという想いもあって、やってみることになった。




「気仙沼大島ランフェスタ」の参加者は約1200名。
島の自然とマラソンコースを存分に楽しんでいました。


◆「気仙沼大島ランフェスタ」参加者の声
 ・大島は綺麗で、走る気持ち良さと景色の気持ち良さがある。海沿いや山の中のアップダウンもあって、アップは苦しかったが、木漏れ日が気持ち良かった。
・1年経ったら自然は回復したけれど、人工物、灯台が傾いているのを見ると、ここは被災地だったんだと、改めて感じた。
 ・沿道の方の応援、おじいちゃんおばあちゃんが「ありがとうございます」と言ってくれたのが感動した。お礼を言うのはこっちなのに、お辞儀してくれるおじいちゃんがいて、涙が出そうになった。
 ・2年前まで気仙沼で仕事をしていた。(ランフェスタに参加するのは)今回4回目。昔、大島に来ていたことがあったので、見慣れた風景が様変わりしたという思いは正直あったが、みなさんが元気に応援してくれたので、地域の方々の力を改めて感じることができた。
 ・海は穏やかで綺麗だけど、間に山積みになっている瓦礫とか、ぺちゃんこの車が山になっていた。復興はまだまだという感じがした。長年やっていたマラソン大会が去年できなくて、でも今年復興ということで開催できたようなので、来年もやってもらえれば。また今後ゆっくりこようと思う。いいきっかけになった。





2012年5月29日

5月29日「瓦礫を活かす森の長城プロジェクト(2)」

震災瓦礫を処理するのではなく、埋めた瓦礫の上に小高い丘・マウンドを作り、木を植え、防潮堤にしようという取り組み「瓦礫を活かす森の長城プロジェクト」
先日、細川護煕元総理を理事長とする財団法人も設立され、4月には岩手県大槌町で「森の防潮堤」のモデルケース作りの植樹祭が行われました。

このプロジェクトを指揮する植物生態学者、横浜大学・宮脇昭名誉教授は「森の防潮堤には、三陸沿岸部に昔から自生していた樹木を植えることが大切」と話します。

◆宮脇昭教授 - 防潮堤に適した樹木とは
 植えるのはタブの木が中心。常緑樹で根が真っ直ぐ深く伸びるので台風や地震、津波でも生き残る。
 シラカシやアカガシ、ウラジロガシなどカシ類。仙台平野から南はスダジイなど椎の木も入ってくる。それを支える同じく常緑樹のヤブツバキ、モチノキ、シロダモなどを混ぜて混植、密植する。



「タブの木」などは、真っ直ぐ根をおろし、マウンド深く埋まった瓦礫をしっかりとつかみ、頑丈な地面を作るそうです。
宮脇さんによれば、「土地本来の樹木は災害に強い」ということです。


4月に行われた植樹祭には、地元の方もたくさん参加。
小さな苗木にそれぞれの想いを込めていました。

◆参加された方の声 - 自分が植えたものを観る楽しみ
 大槌の仮設団地に住んでいる。地元だから大槌の復興を願って、みんなが和む森になればいい。
 山桜や紅葉もある。何年か後に、自分が植えたものを観る楽しみもできると思う。


◆参加された方の声 - もう一度立ち上がろうという気持ち
 もともと大槌に住んでいる。タブの木はうちにもあったが、津波には耐えたが全部燃えてしまった。 クルマも家も津波で流れた。きっとこのタブの木は大きくなる。
 1000年に一度の津波。一度は自然を恨んだが、やはり私たちは自然によって生かされている。
 瓦礫は世の中で邪魔扱いされているが、亡くなった人の想い、財産が入った(土地の)上に木を植えて、300キロの鎮魂の森を作る。何年もかかるが、それと共に荒廃した町が復興していくのも見られる。
 この1年で体を悪くしたが、こういうものをみると生命力が貰える。もう一度立ち上がろうという気持ちになれる。

 


大槌町の植樹祭には、細野豪志環境相も参加しました。

◆細野豪志環境相 - 生活の跡を生かすプロジェクト
 瓦礫と一言で言っても、家の跡や地域の鎮守の森が流されたりしている。
 (このプロジェクトは)生活の跡を一番いい形でやっていると思う。色んなやり方があるが、一番良いやり方。
 色んな人に関わって欲しい。全国の人に手伝ってもらえるといい。




「瓦礫を活かす森の長城プロジェクト」は将来的に、青森から福島までの沿岸部300?に渡る「森の長城」を作ることが目標で、政府・行政とも連携した大きな事業として、検討されています。

 

2012年5月28日

5月28日「瓦礫を活かす森の長城プロジェクト(1)」

震災による瓦礫の広域処理が思うように進まない状況が続いていますが、瓦礫を処理するのではなく、活かそうという試み「瓦礫を活かす森の長城プロジェクト」がスタートしています。

5月25日、一般財団法人「瓦礫を活かす森の長城プロジェクト」が設立総会を開き、理事長・細川護熙元総理をはじめとした賛同者の記者会見が行われました。

◆後世に残る事業
 瓦礫を厄介者にするのではなく、復興の有効資源とするもの。マウンド(瓦礫を使った小高い丘)を作り、土地の植生13〜14種類を密植して植える。20年後には立派な森として防潮堤の役割を果たす。
 今後10年で東日本海岸沿いに300?、9000万本を植える計画。震災から立ち上がる日本のシンボル的な事業。後世に残る事業になる。


この会見に先駆け、4月には岩手県大槌町にマウンドが試験的に作られ、横浜ゴム主催の植樹祭も行われました。
これには大槌町の住民をはじめ、約550名が参加。3400本の苗木が植えられました。


【写真:細川護熙さん/4月30日の植樹祭にて】


震災直後からこのアイデアを提唱してきた、横浜大学・宮脇昭名誉教授(植物生態学)にお話を伺いました。

◆瓦礫で丈夫な防潮堤を作る
 大事なことは、生きた緑の構築材料。単なる緑化では無く、土地本来にある植物を使う。
 故郷の木によるふるさとの森。混植、密植による「せりあい効果」で競争しながら土地本来の森を作る。
 瓦礫は亡くなった方の遺品や生き残った方の思い出の品が詰まっている。
 分別は終わっている。この危機をチャンスとして森を作っていきたい。


◆マウンドに瓦礫を使う意味
 下にコンクリの瓦礫を小さく割って敷き詰める。そのあいだに流木を20%〜30%混ぜる。
 小さな木の枝やその他は資源として使う。根は息をしているので隙間が大事。養分が大事。
 植物性のものはゆっくり分解して森の養分となる。分解して穴が空くとそこに酸素が入る。
 タブの木、カシ類は、南三陸などで調査すると、根が6mも入り込み、津波を壊す効果がある。
 南北300?の海岸沿いに積極的に作る。その最初の例が大槌で行われた。歴史的なもの。ノウハウを東北〜日本に発展させたい。



【写真:宮脇昭さん/4月30日の植樹祭にて】


4月の大槌町に続き、5月26日(土)には岩手県岩沼市でも同様の植樹祭が行われています。
これらの取り組みはまだ試験段階ですが、会見の席で細川元総理は「国の事業とも連携して進めていきたい」と話しています。
また、政府もこの取り組みを「参考にしたい」としています。


 

2012年5月25日

5月25日「Support Our Kids・子どもたちのその後(3)」

東日本大震災の被災地の子どもたちに、海外でホームステイをしながら数週間の語学留学を体験してもらう「Support Our Kids」
昨夏に実施されたニュージーランド語学留学の参加者の中には、東京に出てきて、社会人として新生活を始めている子もいます。

震災を経験した彼らにとって、海外で過ごした数週間は、どんな意味があったのでしょうか。


◆岩淵一美さん「笑顔を学んだ」
 最初は販売がしたかったが、ホームステイを経験し、震災などを考え直したところ、医療従事者不足を知り、医療の道を考えた。
 この4月から看護師になるため、午前中は病院の仕事。午後は準看護学校で勉強。毎日学び、復習。病院と学校で覚えたことを家で復習。料理もしなきゃいけないから疲れが溜る。大変だけど、充実している。
 ニュージーランドの人たちに笑顔を学んだ。患者と向き合う上で不安にならないために笑顔を崩さないように。


◆中村元さん「自分が変わるきっかけ」
 千葉県の城西国際大学で英語と観光を勉強している。
 地震の後、ボランティアでディズニーのホテルの方が来てくれた。ディズニーランドホテルに招待されたのが、ホテルマンになりたいという憧れのキッカケ。
 ニュージーランドのホームステイで、夢が明確になった。地震で姉や友人、犬を失ったが、地震があったことをマイナスに考えないで、自分の将来への試練だと思うようになった。そしてプラスになり、夢も決まり、自分が変わるきっかけになった。
 僕だけじゃなく、被災して過去を引きずっている人たちには(ホームステイに)参加して欲しい。行けば変わる。



被災地の子どもたちを支援したいという、多くの方の寄付で運営されるSupport Our Kidsでは、今年も語学留学に参加する中高生を募集しています。
Support Our Kids事務局の新山明美さんは、このように話しています。

◆背中を押して欲しい
 現地の家に滞在、語学学校に通い、各国ならではの体験をする。カナダならトレッキング、米国ならテクノロジカルな場所の視察、英国は五輪の空気に触れられる期間なのでスゴイ経験ができる。
 情報をキャッチするのは親御さんのはず、子どもに提案して背中を押して欲しい。




Support Our Kidsプロジェクトでは、今年も7月下旬から2週間の語学留学を実施します。
今回は、イギリス、ニュージーランド、アメリカ、カナダの4カ国に、50人前後を派遣する予定です。
お申し込みはSupport Our Kidsのホームページから応募用紙を印刷し、推薦書とともに、指定の住所まで郵送して下さい。
応募期間は、6月4日まで
詳しくは、Support Our Kidsのホームページでご確認ください。
【Support Our Kids 第2回ホームステイプログラム参加者募集ページ】

2012年5月24日

5月24日「Support Our Kids・子どもたちのその後(2)」

東日本大震災の被災地の子どもたちに、海外でホームステイをしながら数週間の語学留学を体験してもらう「Support Our Kids」

昨年は、岩手・宮城・福島から30人の中高生たちがニュージーランドにホームステイをしました。
あれから1年。参加した子どもたちの中には、東京で新生活を送っている子もいます。

石巻市出身の浅田香菜さん(18歳)。
彼女は高校を卒業後、4月から東京で働いています。

◆東京での新生活
 今は飲食店で働いている。仕事に行き、帰ってご飯を食べて寝る、の繰り返し。全然ついていけない。生活リズムも変わり、やりたいことをする余裕もない。
 たまに帰りたいと思うくらいで、東京の生活をやめて石巻に戻りたいという気持ちはない。
 石巻よりこっちの方が私のやりたいことが増えていく、生活が充実していく。もっと充実させたい。


◆ニュージーランドでの経験
 行く前は、迷って、行っていいのかというのがあった。英語もできないし、海外は映画の中の世界。
 家族ではなく、知らない人と行く海外は不安。でも行った人にしかわからない感動、楽しさ、エネルギーを感じてほしい。そういうチャンスがあるんだから逃してほしくない。自分の行動するエネルギーになっている。
 何かがしたいと迷った時、英語も分からなかったがニュージーランドで幸せな時間を経験できたから、今迷っていることもやってみる。やればできることは分かっている。自分の背中を押してくれる経験だった。
 ホストファミリーからメールが来る。英語は分からないが、一生懸命解読して返信している。
 東京に来て就職して、今働いているとメッセージしたら、ホストファミリーも大学に通っていると返信があった。遠くてもみんな前に進んでいる。もう一度ニュージーランドにも戻りたい。そういう目標もあるので頑張れている。



Support Our Kids事務局の新山明美さんは、海外へのホームステイ経験について、このように話しています。

◆次へのステップへ
 家を失い、友人もバラバラになってしまい、今何をしたらいいのか。
 夢もあったが家を建てるのが先になり、進学よりも就職が優先となる。生き方のゼロ地点に立っている。
 毎日目にするものががれきの山や土地。そうしたものを眺めながら学校へ通う。外に出る気力もなくなる部分がある。
 こういう海外へ行くチャンスを生かして、色々な人たちに触れて話をして、見て、聞いて、という経験をすれば、次にやりたいこと、我慢や諦めていたことをやろうというスイッチをオンにすることができる。次のステップに向けてプラスになる。





Support Our Kidsプロジェクトでは、今年も7月下旬から2週間の語学留学を実施します。
今回は、イギリス、ニュージーランド、アメリカ、カナダの4カ国に、50人前後を派遣する予定です。
お申し込みはSupport Our Kidsのホームページから応募用紙を印刷し、推薦書とともに、指定の住所まで郵送して下さい。
詳しくは、Support Our Kidsのホームページでご確認ください。
【Support Our Kids 第2回ホームステイプログラム参加者募集ページ】

2012年5月23日

5月23日「Support Our Kids・子どもたちのその後(1)」

東日本大震災の被災地の子どもたちに、海外でホームステイをしながら数週間の語学留学を体験してもらう「Support Our Kids」
昨年は、被災地の中高生たちが夏休みにニュージーランドにホームステイをしました。

「子どもたちを支援したい」という、多くの方の寄付によって運営されているこのプロジェクト。
今年度は7月下旬に、ニュージーランドをはじめ、イギリス・ロンドンなど4カ国へのホームステイが実施されます。

Support Our Kids事務局・新山明美さんに、昨年の取り組みと、参加した子どもたちのその後を伺いました。

◆参加した子どもたちの新しい歩み
 ニュージーランドという異国に3週間滞在。大変だけど家族になれて、刺激を受けた。
 将来を選択する中で、自分が出来ることやしたいことを考え、悩んだ結果、今がある。看護師になりたい、保育士になりたいという目的を達成するために受験も頑張って、それぞれが新しい4月を歩み始めていると聞いている。
 10代の多感な時期に海外へ行く経験は、ものすごいプラスになると実感している。
 今年、第2回の参加者を募集している。


◆精神的に大きく成長
 ニュージーランドの温かい人柄の人たちとのコミュニケーションで、感謝の気持ちが新たに芽生えた。
 親御さんともあまり喋らない、自分の思いを外に出さない子が、自分の想いを語るようになり、人の役に立つことをしたいと英語を勉強。外に気持ちが向いていった。
 高校3年生で進路を決める時期の子が、被災地のためのボランティアに積極的に顔を出す雰囲気になってきている。




Support Our Kidsプロジェクトでは、今年も7月下旬から2週間の語学留学を実施します。
今回は、イギリス、ニュージーランド、アメリカ、カナダの4カ国に、50人前後を派遣する予定です。
お申し込みはSupport Our Kidsのホームページから応募用紙を印刷し、推薦書とともに、指定の住所まで郵送して下さい。
詳しくは、Support Our Kidsのホームページでご確認ください。
【Support Our Kids 第2回ホームステイプログラム参加者募集ページ】

2012年5月22日

5月22日「被災地で活動する団体を支援する『忘れないプロジェクト』と『大友克洋GENGA展』」

一般社団法人「Think the Earth」と、企業やNPO、クリエイターなどが共同で、被災地で活動する団体を支援する取り組み「忘れないプロジェクト」
東日本大震災後、すぐに立ち上げた緊急支援のための基金が、昨年9月に一旦終了。
「同様の活動を続けてほしい」という声を受けて、昨年12月に「忘れないプロジェクト」が始動しました。


「Think the Earth」プロデューサー・上田壮一さんに、この「忘れないプロジェクト」について伺いました。

◆「忘れないプロジェクト」への想い
 僕は神戸の出身。17年前の阪神淡路大震災でも一年経つと報道が減り、いろいろな意味で忘れていってしまう。そのこと自体が苦しくつらい、というのがあった。
 実際、東北もそうなっている。311から1年過ぎて、報道も減り、関心も減っている。最初は大きな支援の手がいろいろ入ったかもしれないが、徐々にその波が引いていく寂しさ。
 家は流されたままで、暮らしの未来も見えず、置いてきぼりになっている中、人の関心も無くなったら、生きていることがすごく大変になってしまう。
 けれど頑張っている人はたくさんいる。その人たちのことを知ってもらうのが大事だし、持続して繋いでいくということをしたい。



忘れないプロジェクトの活動の柱は「忘れない基金」と「忘れないプログラム」の2つ。
この「忘れないプログラム」として、「大友克洋GENGA展」が開催されています。

◆「大友克洋GENGA展」で広める活動
 漫画家・大友克洋さんは宮城県出身。
 原画展を大々的に行ない、チャリティにして寄付を集め、被災した故郷を支援したいということで、一緒に(原画展を)やることになった。
 Think the Earthと大友克洋GENGA展実行委員会が、被災地で活動する6つの団体を選び、来場者がそのうちどこに寄付をするか、投票することができる。
 来場者自身に「被災地でこんな活動があるんだ」ということを知ってもらえるし、選ぶために一生懸命に活動内容を読んでくれる。さらに大友展で集まった寄付が、実際にどんな活動に使われるのかも、ホームページで公表する。
 5月13日には6つの団体の代表に会場に来てもらって、お客さんの前でそれぞれの活動について話してもらった。すごくいいイベントだったと思う。



▼大友克洋GENGA展とThink the Earthが支援しているのは下記の6団体です。

岩手県「北浜わかめ組合虹の会」
福島県「かーちゃんの力・プロジェクト」
宮城県「特定非営利法人 田んぼ」
福島県「福島の子どもの外遊び支援ネットワーク」
宮城県「ゆりあげ港朝市協同組合」
岩手県・宮城県・福島県「特定非営利活動法人 難民を助ける会」


 
 


「大友克洋GENGA展」は5月30日(水)まで開催中です。
入場は日時指定の予約制ですので、詳しくはオフィシャルサイトでご確認ください。
【大友克洋GENGA展 Official Website】

【Think the Earth「忘れないプロジェクト」 Official Website】

2012年5月21日

5月21日「東北コットンプロジェクト」

田植えの時期を迎えたこの時期、5月19日に仙台市若林区荒浜地区の水田でコットンの種蒔きが行われました。
繊維、アパレル、流通など、多くの企業が参加している「東北コットンプロジェクト」です。

水田に蒔かれた種は、なぜ米ではなくコットンなのでしょうか。


◆発起人の一人、綿の栽培を技術面からサポートする大正紡績・近藤健一さん
 太平洋の塩分率は3.5%。(津波を受けた土壌は)1ヶ月浸かると塩分率が1%ぐらい上がる。米なら0.2%、大豆は0.1%を超えると生育しない。でも綿花は1.2%でも生育する。綿花は植えると塩分が抜けるので、除塩の目的もあって提案をした。
 瀬戸内や有明海など日本の埋め立て地は、塩分が高いのでコットンを植える。2〜3年すると米、大豆、イチゴなどを植えることが出来る。自然の除染効果がある。宮城県名取でもにもコットンを植えたが、ほとんど1年で塩が抜けている。
 離農者が増えると大変。すぐに何か仕事がないと生きていけない。特に農家は体を動かすのが生きがい。その人たちの仕事を奪うのが一番残酷。
 価値の高いものを農家が作り、有名ブランドに売れば、お米の値段とは異なり、高く売れる。



近藤さんによると、1本の木から収穫できるコットンはおよそ300グラム。
これはTシャツ1枚分に相当します。
今回蒔いた種からは、およそ1万4000枚分のコットンが採れる計算になります。


◆10軒の生産者を取りまとめる、仙台東部地域「綿の花生産組合」組合長。赤坂芳則さん
 何もしないでいたら体もだめになるし、農地も荒れ放題。収入もない。だからお金になるものをやりたい。綿花がきちんと採算が取れるとなれば、やりたいというところが出てくるんじゃないか。
 この地方では初めての挑戦だし、綿花って夢がある。ここから生まれた綿花が日本中の大きな企業が商品化、販売まで手掛けてくれる。一般的に農家の悩みは「作っても売れない」ということ。
 生産者と農業と商業が一緒になったプロジェクト。これなら続けられる。こんなにすごいプロジェクトはないと思う。



今回種を蒔いたコットンは、秋に収穫し、来年の春の製品化を目指しています。




【東北コットンプロジェクト Official Website】

【東北コットンプロジェクト on Facebook】

2012年5月18日

5月18日「宮城県石巻市・牡鹿半島のボランティア(2)」

宮城県石巻市・牡鹿半島でボランティアのとりまとめを続けている、遠藤太一さん。
遠藤さんが代表を務める牡鹿半島のボランティア団体は、現在、現地に常駐しているのはたった2名という状態です。

牡鹿半島は、ガレキの撤去はほぼ終わり、仮設の商店街も開業しています。
しかし遠藤さん自身は、今後も牡鹿半島での活動を続けると話しています。

◆ボランティアの移り変わり
現在、いわゆる災害ボランティアは終わりにしては良いのではないかという意見もある。
どこまでが災害ボランティアで、どこからがそうではないのか。僕の認識としては、形は常に変化するのではないか。ここまでが復旧でここまでが復興というものではない。
だんだんガレキの撤去が少なくなっていく中で、次の支援の方法、ボランティアとしての支援者が居なくなる中で、どういったものが残っていくと半島が潤っていくのかを考えなければいけない。
ここ最近、地元の方が「ボランティアが少なくなっている」と言う。長期で居た人がいなくなる。「さみしい」と口に出して言う人が多い。極端な人の移り変わり、来ていた人が来なくなるというのは、震災後のストレスにプラスして寂しさを残してしまう。なるべく極端な形にならない入れ替わりが必要かと思う。


◆次の段階へ
牡鹿半島は漁業、商業、観光がバランス良く成り立つことで経済的に回っていくと思う。商業が弱い。観光も弱いので、まだまだ漁業に追いついて行っていない。
まずは商業施設、昨年2011年11月18日に出来た「牡鹿のれん街」という箱がせっかくできたのだから、アピールする。地元の人が利用しやすくする。地元からの声で盛り上げる。それを外から見守る人間がバックアップするという形になるといいと思う。
統一感のある看板、統一感のある飾り付けを「やって欲しい」と頼むのではなく、やってみる試みを自分たちでやる。見積もってみて、これくらいなら出来そうだという夢物語を作って欲しい。
ボランティアに一から十まで頼むと、出来上がったものは同じでも、次の段階へ移れない。移れてもまたはじめからボランティアに頼むということになる。



復興商店街「牡鹿のれん街」では、地元の人が運営する会社が、地元の雇用を作るための活動を始めています。
牡鹿半島は人口流出が続いており、そうした人が戻ってくるためには、雇用を含めた生活基盤の整備が必要だと、遠藤さんは話しています。


遠藤さんが代表を務める牡鹿半島のpikari支援プロジェクトでは、長期間、復旧・復興にたずさわる意思のある方を求めています。
詳しくは、Pikari支援プロジェクトのTwitterかFacebookページをご確認ください。

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2012年5月17日

5月17日「宮城県石巻市・牡鹿半島のボランティア(1)」

宮城県石巻市・牡鹿半島は、地理的な理由で復旧に時間がかかっていた場所です。
昨年末には復興商店街が完成。
ただその時点では、「がれきの撤去は春以降までかかる」ということでしたが、現在の状況はどうなったのでしょうか。
震災直後から、現地でボランティアのとりまとめを続けている遠藤太一さんにお話を伺いました。

◆がれき処理の現状
 現在牡鹿半島内の大きいがれき(の処理)は、家の梁や屋根が落ちているようなことはないが、斜面にロープが引っかかっていたり、基礎が壊されたあとに、細かく散らばるプラスチックや金属、釘やガラスを取り除きながら遺留品、拾得物を回収するという形で進めている。
 一番重要なのは震災の爪痕が見えなくなり、石巻市内、仙台や県外へ出ている人が牡鹿に戻ってきた時に、「こんなにきれいなら」と、生活を再建しようと思える街になってもらえればと思い、細かいものまで拾っている。


◆牡鹿半島でのボランティアの役割
 長期で牡鹿のボランティアサポートをしていた人が、順次社会生活に戻っている。ピーク時にはリーダー格が15人〜20人いたが、現在、常駐者は4人。週末は3人という状態。
 金華山、網地島という2つの離島を現場としているため、週末は4人中1人が島に行ってしまう。団体を受け入れる受け皿が小さいため、問い合わせは多いが全ては受け入れられない。そのためお断りをせざるを得ない状態。受け皿をどれだけ広げられるか、学生や、数週間・数か月単位で助けられるという方がいれば受け入れをしている。
 復旧から復興へとフェーズが変わってきている中で、地元の手伝い、子どもの遊び場など気持ちの逃がしどころ(設置)などもできるのではないか。


このインタビューの後、さらに常駐のボランティアが減りました。
現在、常駐しているのは、遠藤さんを合わせて2人です。


遠藤さんが代表を務める牡鹿半島のpikari支援プロジェクトでは、長期間、復旧・復興にたずさわる意思のある方を求めています。
詳しくは、Pikari支援プロジェクトのTwitterかFacebookページをご確認ください。

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2012年5月16日

5月16日「福島県南相馬市小高区・ボランティアの現状」

現在、福島第一原発20km圏内にある南相馬市小高区では、警戒区域の一部解除を受け、住民の方の一時帰宅が認められ、自宅の片付けなどが出来るようになっています。
このため、住民の方の要望を受けたボランティア活動も始まっています。その活動内容について、南相馬市ボランティア活動センター・松本センター長に伺いました。

◆ボランティアの活動内容
 活動場所は主に、避難準備区域が解除された南相馬市小高区。福島第一原発から10.1km〜20kmの区域。
 住宅は水に浸かったまま、津波に流された車両や農機具が畑や道路、ガードレールに引っかかったまま。それが1年間放置されている。地盤沈下と津波で中の家具は水浸し。そうした家を少しでも乾かしたいという住民の希望があり、家から家具や布団などを外に出すという作業。ガレキを集める場所(行政による仮置き場)がないため、敷地内で保管してほしい。家の人もそれは分かっているので、敷地の一角まで運ぶ。
 住民はまだ住んでいない。24時間居てはいけない地区なので、活動する時は仮設住宅に避難している方が車で30分〜40分かけてやってきて、立ち会いの上でがれきを撤去する。



松本センター長によると、小高区は現在も地盤沈下の影響で、雨が降ると道路は50cmほど浸水する状態だということです。
また、がれきを集める「仮置き場」の設置は、南相馬市の工程表では来月以降の予定だということです。


小高区では来週以降、電気が復旧するため、一時帰宅が増え、ボランティアへの要望も増えることが予想されます。
今後のボランティアへのニーズ、そして放射能のケアについて伺いました。

◆ボランティアが足りない
 週末は100名を超えるので人が足りるが、平日は圧倒的に足りない。常時100名くらいのボランティアが必要と見ている。ニーズはますます増える。
 放射能。線量計を持って回っている。線量が高い地域はスタッフへ撤収指示を出している。安心して活動してほしい。
 1年間、放射能の影響で被災当時のまま。被災地を歩くたびに言葉にならない。
 長い間放置すれば建物は痛み、農地も使えなくなる。日本の原風景・農村が崩れようとしている。みなさんの力が欲しい!



ボランティアの受け付けや、宿泊施設などについては、「南相馬市ボランティア活動センター」のブログでご確認ください。
【南相馬市ボランティア活動センター(運営:災害復興支援ボランティアねっと)ブログ】


「南相馬市 生活復興ボランティアセンター」でも、小高区・原町区でのボランティア受付を、18日(金)から開始します。
【南相馬市生活復興ボランティアセンターのブログ】

2012年5月15日

5月15日「宮城県南三陸・佐藤秀昭さんが撮り続ける風景(2)」

写真詩集「私とあなたここに生まれて」は、宮城県南三陸町の写真家・佐藤秀昭さんの写真に、詩人・和合亮一さんの詩が重ねられた作品です。
南三陸町・志津川で生まれ育った佐藤さんが、8年ほど前から撮り溜めた、ご自身が暮らす街の風景が掲載されています。

佐藤さんは昨年3月11日、目の前で津波にのみ込まれていく「ふるさと」を記録していました。

◆レンズと肉眼で目の当たりにした光景
 たまたまカメラバッグを片手に、志津川小の高台に早めに逃げた。とっさに津波を撮った。ファインダーを覗いてる時はテレビを見ている雰囲気。
 一旦カメラを下ろすと、おっかない。「今の状況はあってはならないことだ」と思い直し、記録すべきだと、もう1回カメラを持った。街が全滅してなくなるまで撮り続けた。
 家が役場の前まで流されて、一瞬のうちに吹っ飛んでいったという感じ。八幡川沿いをすごい勢いで流れてきた。川沿いの家をなぎ倒して津波と瓦礫が壁になって押し寄せてきたという感じだった。



佐藤さんは震災当日、津波が街を破壊していく様を「町がなくなるまで」撮り続けたと言います。
その後、追い打ちをかけるように南三陸は雪に見舞われましたが、詩集には、壊滅した町が雪に覆われていく写真もあります。
さらにページをめくると、がれきの中で満開を迎えた、一本の桜の木の写真があります。

◆津波をかぶったはずの桜の木
 これは、高台だったんだけど、高台にも津波がきて。その時、桜の花ぐらいしか咲いてなかった。この桜が、私が確認した最初の桜。すごい生命力と思って撮った。
 まだまだ目に見える状況では復旧が進んでいないけど、自分は入谷地区、国道398号沿いに「佐藤輪業商会」という店を建設中。5月末に完成予定。それと同時に趣味の写真を撮りながら、街の様子をPRできればいいと思っている。



佐藤さんは震災以降もカメラを持って、街を撮り続けています。
その写真は、佐藤さんのブログでご覧になることが出来ます。
【佐藤秀昭さんのブログ「南三陸 海 山 川!」】



佐藤さんの写真と和合亮一さんの詩による写真詩集「私とあなたここに生まれて」は明石書店から発売中です。


こちらの写真集を3名の方にプレゼントします。
ご応募は、メッセージフォームからどうぞ。

【プレゼントのご応募はこちらから】
メッセージ欄に「私とあなたここに生まれて 希望」とご記入ください。
またお名前、ご住所、お電話番号等、お忘れなくご入力ください。
当選者の発表は、賞品の発送をもって代えさせていただきます。

2012年5月14日

5月14日「宮城県南三陸・佐藤秀昭さんが撮り続ける風景(1)」

一冊の詩集に収められた“宮城県南三陸の風景”と、それを撮影した、一人の男性のインタビューをお送りします。

この写真詩集のタイトルは、「私とあなたここに生まれて」。
福島市在住の詩人・和合亮一さんの詩と、南三陸の震災前後の写真を組み合わせた作品です。
これらの写真はプロのカメラマンではなく、南三陸在住の佐藤秀昭さんが撮影したものです。

南三陸町・志津川で生まれ育った佐藤さんは、8年ほど前から、ご自身が暮らす街の風景を撮りはじめたといいます。

◆街を撮影するようになったきっかけ
 南三陸・志津川の防災庁舎のすぐ隣、川沿いで家業の自転車業を父から譲り受け、30年やっていた。
 写真は8年前ブログを立ち上げてから撮るようになった。2階の部屋の窓を開けるといい雰囲気だったので、川沿いの風景を写真に撮り続けられたらとの想いから。
 それが段々、町内を写すようになった。


佐藤さんの写真は、津波でその大半が失われてしまいました。
しかし、知り合いに預けていた1000枚が奇跡的に被害を免れたそうです。

◆表紙は、震災前の南三陸の街並み
 高台にある志津川中から撮った1枚。階段の一番上から。
 八幡川の河口付近。橋が5本掛かっている。この川は海に面しているので、満潮・干潮のときに水位が変化する。満潮のときは海のカレイとか、干潮のときはアユやハゼとかがいる。
 ハゼ釣りをしている人も結構いた。そういう街に戻るといいんだけど。
 志津川で被災した場所は家を立ててはダメ。町は高台へ移転することになる。
 この写真のような街並みってのはもうないのかな。この写真を撮ってたのは貴重だった。たぶん、もうこういう街には戻れない。





佐藤さんの写真と和合亮一さんの詩による写真詩集「私とあなたここに生まれて」は明石書店から発売中です。


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2012年5月11日

5月11日「雄勝法印神楽(2)」

宮城県石巻市雄勝町に600年前から伝わる、国の重要無形文化財「雄勝法印神楽」。
法印神楽とは、日本書紀などを元にした「舞い」を神様に奉納するもの。
天地創造など神話の物語を元にした、28の演目があります。

先週末、地元神社の例大祭の日に雄勝町・大須地区では、神話の神様の衣装をまとった神楽師たちの舞いが披露されました。
2年ぶりに「法印神楽」を披露した 神楽師たちはこの日をどんな想いで迎えたのでしょうか。
雄勝法印神楽保存会・阿部ヒサトシさんに伺いました。

◆2年振りの法印神楽
東日本大震災で神楽保存会の道具を全て失った。奉納していた地区も全壊となった。
正直廃絶するかと思った。その中で、仮設に入る前の避難所にいる人から「お神楽が見たい」という要望があり、全国からも励ましの声があった。震災復興に勢いをつけるのではないかと奉納を決めた。嬉しすぎて泣きそうになった。
御神輿を担いでいる人たちも全身から喜びがあふれ、復興を頑張ろうという決意を新たにする日になった。





普段は地元の公務員として働く阿部さんを含め、神楽保存会の神楽師は約20名。
雄勝地区に鎮座するたくさんの神社にお神楽を奉納する役割は、震災を乗り越え、より意味深いものとなり、次の世代へと受け継がれていきます。


◆神楽の魅力
小学校の時のお神楽のクラブから始まっていた。一時期は田舎くさいと気持ちで離れたが、年を追うごとに、そういうものじゃないと見つめ直す機会があり、25歳で再びやることにした。37歳。ハレの日を迎えた。
めでたい象徴、喜びの象徴。体に染みついたもの。自然とリズムを聴けば幸せな気分になる大切なもの。
御輿を担ぐためだけに帰ってきている人もいる。祈りは個人で出来るが、祭は地域の力がないとできない。コミュニティ、絆の重要さを再認識した。
セリフの中に「面白し神遊び」と出てくる。神が遊ばれている。里に下りてきて愉快だと。
御神輿に乗れば楽しいし、俺のエリアはどこも変わらずにあるなと確認している。
神楽は17時で終わり、御輿が神社に帰る。境内の指定の場所に収めれば終わりなのだが収めさせてくれない。神様が帰りたくない。楽しくて。入りそうだけど戻ったり。




雄勝法印神楽は、13日(日)に 立浜地区・北野神社の例大祭でも披露される予定です。


2012年5月10日

5月10日「雄勝法印神楽(1)」

宮城県石巻市雄勝町に伝わる「雄勝法印神楽」。

法印神楽とは、宮城県沿岸部各地に伝わる、神社奉納の伝統芸能です。
特に石巻・雄勝の法印神楽は、600年の歴史を持ち、国の重要無形文化財にも指定されています。

震災で中止となっていましたが、今月5日、雄勝町大須地区で再開。
様々な神様の衣装・お面に身を包んだ地元の神楽師たちが、太鼓と笛に合わせて、舞台の上で舞を披露。たくさんの地元の方が集まりました。

法印神楽は、日本書紀や古事記の物語をモチーフにした舞で、この地域では、地元の子どもたちが小学生の頃から神楽を学び、そこから一人前の神楽師が育ち、大人から子どもへ長年伝えられてきました。


雄勝法印神楽保存会会員で、大浜地区の宮司・千葉秀司さんにお話しを伺いました。

◆法印神楽が持つ意味
神社の例祭で神様に神話をお見せするのが神楽。
雄勝には各浜ごとに神社があり、春秋は必ず例祭という神様の誕生日を祝うお祭りがある。その際奉納されるのが法印神楽。
にぎやかに、1年の感謝の気持ち、1年の豊作祈願など、色んな祈願を込めて神様に神楽を見せる。その脇から自分たちは見せてもらうというのが主体。
地元の人は、神楽を見ることができて良かった、奉納できて良かったという気持ちが強い。ドラマ同様に配役がある。兄弟ゲンカのハナシもあれば、魔物退治のハナシもあり、ストーリーが分かるとより楽しく観ることができる。


◆神楽の再生へ
神社が残っている地域も、地区の会館などにお祭りの用具を保管していたが流出。その被害額は大きい。太鼓70万〜80万、獅子頭も含めると300〜400万円。それらはユネスコ協会など支援企業の力で揃いつつある。社殿は私の住んでいる地区も天井まで津波が入り、解体。神体を収める部分のみが残っている。
地元の神様のお祭りはみんなでお祝いしなければ行けないという大義名分があるので、それを中心に人が集まる機会、お祭りで実家に帰ってきて同級生や親しい人と会うための数少ない機会。今後も今までのお祭りの形を復元したいと一生懸命進めているのでぜひ田舎のお祭りがどういうものなのかを観に来て頂きたい。人が来てくれるだけでも励みになる。



雄勝法印神楽は、町のそれぞれの浜に鎮座する神社の例大祭で行なわれます。
次は13日(日) 立浜地区の北野神社。例大祭とともに、神楽が披露されます。


2012年5月9日

5月9日「南三陸町・和泉博文さん 子どもたちへの想い」

東日本大震災でトラック運転手の仕事を失い、この春から漁協の臨時職員として働き始めた宮城県南三陸町の和泉博文さん。
津波で自宅を流され、お父さまを亡くされました。
大切な家族、仕事、自宅、そして故郷をなくした和泉さんは、震災から一年を経て、いま大きな「喪失感」に包まれているといいます。

◆生きてきた足跡が無くなった
 無くなったものの中で一番残念だと思うのは、これまで生きてきた足跡が全部無くなったこと。写真も家も。
 最近の写真が見つからなくて、俺のちっちゃいころの写真なんかが出てきたり。ほんとは子供たちの成長過程の写真なんかが見つかればいいんだけど。本当は子供たちの足跡があればいいな、と思ってる。
 振り返ってみたくなる、やっぱり取り戻したいと思っている。震災前の生活を。



和泉さんは、小学生から高校生まで、3人の子供を抱えるシングルファーザー。
長男が小学生の時に離婚し、現在は和泉さんの母親と3人の子供たち、3世代5人で仮設住宅に暮らしています。

◆子どもたちへの想い
 子供たちに嫌な想いをいっぱいさせてきた。
 お母ちゃんがいなくなってしまったから、娘の卒園式では服だけ用意した。男親だから靴まで頭がまわらなかった。一人だけ汚い靴で卒園式にいた。悲しくて涙が出た。娘に申し訳ないと自分を責めた。
 実生活の上でも隔たりがある。今さら仮設住宅の小さい家や避難所で隣り合わせに寝たからって、家族の距離が縮まるかといえば、縮まらない。だからこそ親ともぶつかるし、ばあちゃんともぶつかる。いろんな面で子供たちも悩んでいると思う。でも、よくないこともかえって「いい状況」。こういった状況で生きてるから「どうでもいいや」と思えば適当になる。
 だけど子どもらはもっとちゃんとして、自分らしく生きたいと、よりいっそう真剣に取り組んできていると思う。自分の今後のことも考えて。だからこそ反発するんだと思う。だから俺との関係じゃなくて、人間的にもっとよくなると、俺は思ってる。
 苦労した分、絶対よくなる。それを信じてる。

2012年5月8日

5月8日「南三陸町・住民の気持ちと高台移転」

東日本大震災でトラック運転手の仕事を失い、この春から漁協の臨時職員として働き始めた宮城県南三陸町の和泉博文さん。
自宅は津波で流され、母親と小学生から高校生まで3人のお子さんと一緒に、仮設住宅に暮らしています。

いま町の中で議論が続いているのが、高台移転の問題です。
和泉さんはこの高台移転について、行政の出してきた素案は、町民の主張とは隔たりがあると感じています。

◆住民の気持ちを受け止めてもらいたい
 地区の区長を交えて、今後の高台移転の意見交換をした。被災地のみんなはいろんなことを話したい、わかってもらいたい。でも県や町では受け止めてくれない。
 5年先、10年先の住まいだけでなく、子孫が住んでいく高台移転。今後を見据えて、自分たちの孫、子孫が住んでよかったという魅力的な町でないと意味がない。
 町としては、高台移転をするにしても、管理しやすいところに居てもらいたい。ベイサイドアリーナ(仮庁舎などがあるところ)などに集中すれば、管理しやすい。でも地元の人は自分が住んでいたところに帰りたいけど帰れない。だから少しでも近くの高台に住みたい。
 町としては土地取得の面など、うまくいかない。でも時間をかけて、そういった住民の気持ちをちゃんと受け止めて、手順を踏んでやれば、もっといい町になると思う。
 だからこそ、自分達の夢みたいな構想であっても、ちょっと耳を傾けて動けないか。


◆みんな真剣に悩んでいる
 先祖代々住んできた土地を離れていいものかと思うし、おふくろもいる。でも、もしかして別なところに住めば、別な人生を送れるのかなと思う。
 逃げた方が得。だからこそみんな悩んでいる。別のところに行くほうが楽。みんなポーンと忘れて別な町、隣町に行った方が楽。
 だけどそうでなくて、何にも無くなったこの町で、もう一回、何百年も住めるような家に、土地にしたいから、みんな悩んでいる。
 逃げるのは簡単。今まで何十年と築きあげてきた家や財産が、一瞬にして何にも無くなった。先祖代々で築き上げてきたものが一瞬にして無くなった。金では買えない。だからみんな真剣に悩んでいる。




昨年度の第三次補正予算で、高台移転の費用を全額、国が負担することが決まりました。
町による住民への説明会も行われていますが、同意を得ることはできないでいます。

2012年5月7日

5月7日「南三陸町・和泉博文さんが迎えた春」

震災でトラック運転手の仕事を失い、宮城県南三陸町の災害FMで臨時職員として働いてきた和泉博文さん。
小学生から高校生まで、3人の子供を抱えるシングルファーザーでもあります。
この春、和泉さんは災害FMの雇用期間期限を迎えました。

◆この春の状況
子供たちも進級してほっとしているし、自分も新しい仕事を初めて、春から新しいスタートを迎えた。町の状況も、平常時に向かって動こうとしているが、足りない事もいっぱいある。けれど被災地ということで、標準の生活でない、落ち着きが無い。
安定した職業を得ないと家族を養っていけない。地に足をついた職業にすればいいのかと思った。
いま漁協の臨時職員として雇われたが、雇用期間は1年。先は見えない。それでもこの町で一番大事なことは何かと考えると、やはり漁業や農業だろうと思った。自分が漁協に勤めることで何か開けていくんじゃないかと思った。


南三陸町の漁協では、震災後、約100人を臨時職員として雇用しました。和泉さんもその1人です。
パソコンで漁船登録の作業をするなど、これまでとは全く畑違いの仕事内容に、戸惑うことも多いといいます。

◆ストレスで眠れない
1年の雇用期間の後、どうなるのか。歳も歳だし、この後家族を養っていけるのか。先が見えない。行き当たりばったりの人生で、自分ひとりだったらいいけど、子供もいるし。今後どうしたらいいのか。
トラックの運転手で、去年3月頃まで全然違う仕事をして、全然違う人生を歩んできた。全然追いつかない。若い人はこんなに出来てるのに自分は出来ていないという負い目もある。自分の能力の無さと、今後の家族のことが不安でストレスは毎日感じている。
寝れない日もあるし、過食気味になったり酒を飲んだり。紛らわせている。家族に対して、不安な面もあるから、前より話しかけることがなくなった。それはイヤだな、と思っている。



仕事のこと、先の見通しが立たないことが一番気がかりだと話す和泉さん。
和泉さんと同じ想いで暮らす人がたくさんいるのが被災地の現状です。

2012年5月4日

5月4日「石巻マルシェ」

宮城県石巻に暮らす人、そして首都圏の石巻出身者が取り組む「石巻復興プロジェクト」の一環として、毎週土曜日に東京都大田区「大森ウィロード山王商店街」にお店を構える「石巻マルシェ」。

石巻マルシェのスタッフのほとんどは、首都圏在住の石巻出身者です。
自分の仕事や生活の傍ら、ボランティアでお店の運営をサポートしてきました。
   
「石巻を離れていても、石巻のためになにかできることをしたい!」というのが、スタッフ共通の願いです。

◆石巻マルシェ副店長・石森洋史さん
 昨年11月末に始まり、そろそろ半年。東京に散らばる石巻の情報を発信する場、また石巻の事業者の商品を扱うことで、事業の再開を手助けできるようなシステムにしたかった。
 石巻のおいしいもの中心に、お米、乾物、牡蠣味噌、缶詰、お菓子などを扱っている。
 大森の商店街で半年お店を開くことで、毎週のように来てくれる人がいて、僕達がここに立ち続けて「リアル」な場を作れたのがすごく大切だと思った。インターネットでできる支援もあるが、場を作れば集まってくれる人がたくさんいるのを感じた。



石巻マルシェは、店舗改装のため、明日(5月5日)でいったん閉店となります。
しかし大森の商店街の協力もあり、7月に同じ場所でお店を再開することが決まりました。


◆石巻復興プロジェクト副代表・花田寛明さん
 単純にモノを売るだけでなく、商品を通じて、「この商品はこういうもの」「この事業者さんはこんな人」「あの場所はいまこうなってる」などの“物語を伝える”ことが、僕等の意義。これからもそういうところを変えないで続けていきたい。




≪石巻マルシェ 売れ筋商品≫
第1位:田伝むしの「おこげ煎餅」(無農薬のササニシキを使用)
第2位:木の屋石巻水産の「くじらの大和煮」
第3位:末永海産の「牡蠣味噌」(ノーマル、ネギ、ピリ辛の3タイプ)






≪石巻マルシェで買える商品≫
石巻の方たちとくるりの皆さんが一緒に作ったチャリティーCD「石巻復興節」
(石巻市内、インターネットで販売中。東京で購入できるのは石巻マルシェだけ)
詳しくはこちらからどうぞ 【くるり「石巻復興節」】


【石巻マルシェ】
場所:東京都大田区・ウィロード山王商店街内
開催日時:毎週土曜日 10時〜18時 ※5月5日でいったん閉店

2012年5月3日

5月3日「ヒューマン・ケア・プロジェクト活動報告」

TOKYO FMとJFN38局が、東日本大震災で被災された方の心と身体のケアを目的に展開しているヒューマン・ケア・プロジェクト。

4月29日、プロジェクトは福島県いわき市にある高久第4応急仮設住宅を訪問。
阪神大震災から、紙芝居を通じて子どもたちの心のケアを続ける、子ども文化研究家の中平順子さんの 被災地訪問をサポートしました。

こちらには双葉郡広野町の約260世帯をはじめ、楢葉町やいわき市の避難者が生活をしています。

◆広野町の避難者の取りまとめ役・米山正彦さん
 いわき市にお世話になっている中で、どうしても沈みがちな気持ちを和らげて頂くという意味では、イベントはありがたい。3月11日以降、イベント自体が縮小され回数なども少なくなっている。ゴールデンウィークではあるが、ありがたい。沈んでいる方がかなりいる。その反面、行事に積極的に参加する方もいるという二分割の状態。
 広野町は帰還宣言をした。バラバラな状況ではない。我々も管理人として今後どうしたらいいのかを模索しているところ。


◆子どもたちと触れあった中平順子さん
 ここにいらっしゃる方々は初めてだが、子どもたちが明るい。子どもは未来。その子達が幸せな輝きを持つことが、お年寄りにとって一番の喜び。お年寄りが一時でも楽しい時間を繋げられたら、きっとお互いがもっと身近になって、今一緒に来ているという実感が湧く。それだけでもいいことかなと思っている。
 紙芝居は色んな出会いを作る。お話しの中、コミュニケーションを取り合う中で、観客や関わっている方が輝いてくる。子どもがキラキラして言葉がどんどん出てくる。お年寄りもどんどん自分のココロを言ってくれる。そうすると表情がどんどん明るくなっていく。お互いに助け合って喜び合うことが、生きる上で最も大事なことだと思っている。

2012年5月2日

5月2日「岩手県山田町・心の支えである『神社と祭』」

岩手県山田町・山田八幡宮と大杉神社の例大祭「山田祭」に伝わる「八幡大神楽」の歌神楽。
明治19年から参加している、歴史ある民族芸能です。

「山田祭」は三陸有数の船祭り。
船祭りの多くが、岸壁から直接船に神輿を乗せるのに対し、山田祭では、海から直接神輿を引き上げるという伝統のスタイルを守り続けている、全国的にも類を見ないお祭りだそうです。

山田町にも昨年3月、地震と津波が押し寄せました。

山田八幡宮と大杉神社の宮司・佐藤明徳さんにお話を伺いました。


◆祭り好きの多い町・山田町
山田祭は山田八幡宮と大杉神社で、3日間に渡って行なう。祭り好きのDNAが組み込まれているのが山田の人間。子供からお年寄りまでお祭り好きが多い町。
お盆に帰省せず、祭に帰ってくる。そうすると街の人口が普段の2倍になったりする。故郷を離れて嫁にいった人も、子供を連れて帰ってくる。祭りが大好きな町民性がある街。


◆震災の被害
2つの祭りに参加する8団体のうち5団体は、祭りの道具を保管してあるところが、津波やその後の火災で100%無くなった。
祭りの中心となる八幡宮は高台にあり助かったが、大杉神社は鳥居一つと鉄筋が残っただけ。



震災で、大杉神社だけでなく、約1600世帯の氏子の8割が壊滅的な被害を受けたといいます。
それでも昨年の9月には規模を縮小して、「山田祭」を再開。
しかし、祭りの再興には、思わぬ壁が立ちはだかっていました。

◆自分たちでやるしかない
しょうがない話だが、文科省は郷土芸能を守るため、支援で太鼓や半纏を作ってくれたりするが、郷土芸能の軸となる神社には、政教分離の壁になって、神社の復興のための支援は一切出ない。
昭和20年の終戦のとき、神社は「宗教法人」にさせられた。新しい日本国憲法によって政治と宗教は離すという基本原則。被災した寺も協会も一切公的な支援を受けられない。これが寺社、ひいては街の復興の妨げになっている。
神社や寺は人々の心の支えになっている場所。自分たちでやるしかない。時間がかかってもやるしかないと思っている。街の人間の想いは一つ。一日もはやく大杉神社を復興して、昔に近い祭を再開したい。

2012年5月1日

5月1日「藻塩作りが支える塩竃の復興」

数千年にわたる塩づくりの歴史をもつ宮城県塩竈市では、海藻のホンダワラを用いた伝統の「藻塩作り」が、いま改めて注目されています。

6年前に「藻塩」の製造を始めたのが、「合同会社 顔晴れ(がんばれ)塩竈」の及川文男さんです。
昨年の震災では、沿岸部に位置する工房と事務所にも津波が押し寄せたそうです。

◆震災から復旧への力添え
 3メートルの水が入った。電気系統(乾燥、脱水、ボイラー)も全てダメになった。
 でも復旧の力添えになったのは、残った神棚、竈、そして「顔晴れ塩竈」という看板。
 これが神様からのお告げかなと思って、次の日から前に進んだ。


◆震災から2か月後の5月中旬に営業再開
 塩なくして塩竈を語ることはできない。塩竈には6800年に渡る長い歴史と文化がある。それを子供たちに伝えてやるのが大人の責任。いままでそれをやっていなかった。こういう啓蒙活動をしないで故郷の誇りなんて語れないと思った。
 工房を兼ねた体験の場、歴史、文化を教える場所、また塩をつかった商品の展示販売ができる「塩のミュージアム」を作るのが私の夢。


◆活気を取り戻すには時間がかかる
 被災地に働く場所を見つけないと人は街からいなくなる。我々が塩竈の一つの産業の核になりたいと思っている。
 塩竈は魚の街だが、3年前から我々が塩の事業を始めてから、塩をつかったスイーツがけっこう来ている。今まで考えられなかった。
 市のマイナスになった勢いを、いろいろなことに転換しながら補っていきたい。


「顔晴れ塩竈」では、工房の見学と塩作り体験をすることもできます。(要・事前連絡)

【合同会社 顔晴れ(がんばれ)塩竈 Official Website】

パーソナリティ 鈴村健一

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