2012年9月28日

9月28日「JustGivingで支援『東日本大震災復興支援財団』」

お金を直接寄付するのではなく、何かに挑戦して周りから寄付を集める。
そのお金が、被災地の復興支援団体に届けられる。
それがJustGivingというシステムです。

特にマラソンと相性が良く、例えば、11月3日に開催される「湘南国際マラソン」は“東日本大震災復興支援大会”として、参加ランナーの方にJustGivingへの参加を呼びかけています。
(すでにレースのエントリーは終了)

こちらは、7つの支援団体から寄付したい先を選ぶ形になっていて、その一つが「東日本大震災復興支援財団」です。
事務局長の池田昌人さんに、活動について伺いました。

◆東日本大震災復興支援財団の活動
 発起人の一人・孫正義が未曾有の大震災に対して、復興専門の団体を立ち上げ一日でも早い復興を支援するべきだと、2011年7月11日に公益財団として立ち上がった。
  屬佞澆世垢佞しま」プロジェクト:一時避難したほうが良い、または留まって復興を頑張ろうと考える方、様々な判断があった。財団はそれぞれの「一歩踏み出そう」という判断に対して出来るだけ寄り添おうという考えの元、一時転居支援(引っ越し代の支援)、賠償の問題を相談できない方のための「ふみだすサポートセンター」を常設。福島の方々の、それぞれの判断の後押しを財団が出来るように、寄り添って来た。
 被災三県の高校生向け奨学金:被災によって高校の学費が払えない、家業が続けられないなど経済的困窮を抱えた方が多い。高校生活という青春ど真ん中の夢を持って生活をして欲しい。給付型の奨学金を提供した(返済しなくて良い)。1200名の学生を支援している。


◆継続的な支援について
 通常の生活に戻りつつあり、要望が見えにくいのが2年目の状況。子どもの普段の生活、放射能を気にしながら外で遊ぶ、屋外で遊べないから屋内の遊び施設が欲しい、砂場で遊ばせたいなど、様々な親御さんのニーズは表立って見えず、内在している。
 東京の団体ではあるが、福島に赴き、「芋煮会」という福島・岩手・山形の文化を参考に、「芋煮会ワークショップ」という名前で、各地域で住民を呼び、今の課題や問題、要望を集め、適切な支援が何か考えつつ、10年は寄り添っていきたいと考えている。


◆事務局長・池田さんご自身も、湘南国際マラソンを通じてJustGivingにチャレンジ!
 単なるいち市民ランナーなのだが、ハーフマラソン・エリート部に誤って登録。10kmを45分で駆け抜ければならない。達成すべくスピードトレーニングをしている。私自身もJustGivingにチャレンジ。エントリーしたいと思う。



【東日本大震災復興支援財団 Official Website】

【湘南国際マラソンのJustGivingについてはこちら】

2012年9月27日

9月27日「JustGivingで、自分がチカラになりたいところへのサポートを」

マラソンなど、何かに挑戦することをウェブサイトで宣言して、仲間に応援してもらい、同時に仲間から寄付も受け付ける。
そして集まった寄付を、支援したい被災地に届けることが出来るという仕組み「JustGiving」。

最近はマラソンを主催する側も、ランナーにJustGivingを呼びかけています。
例えば11月3日に開催される「湘南国際マラソン」は、参加料のうち500円が東北の被災地へ寄付されますが、さらに大きな支援をということで、ランナーにJustGivingへの参加も呼びかけています。

届いた寄付はどんな風に役立てられるのでしょうか。
「湘南国際マラソン」を通じて寄付できる、7つの支援団体の一つ「NPO法人 国境なき子どもたち」の広報・松浦ちはるさんに伺いました。

◆子どもたちの居場所作り
 「国境なき子どもたち」は震災直後に、海外での活動経験を活かして、東北でも2017年までを目処に支援を行なうことが決定。以前子どもたちは、学校が終わった放課後に友達と一緒に過ごすスペースがあった。お家に帰るまで公園で時間を過ごしたり。でも今はそういったものが無くなった。
 仮設住宅に戻れば、狭い部屋の中で他の家族と時間を過ごすことになり、自分たちだけの時間がなかなか持てない、勉強に集中できないという声が寄せられた。そうした子どもたちのために、居場所作りをしていきたいと思っている。


「国境なき子どもたち」が支援しているのは、岩手県陸前高田市。
大規模に仮設住宅が建った地域は、子どもたちが放課後に集まる場所が制限されています。
この団体では、バスを改造した読書・勉強スペース作りなど、子どもたちの“居場所を作る”活動に力を入れています。


JustGivingでは、何かにチャレンジして寄付を集める人を「ファンドレイザー」「チャレンジャー」と呼びますが、「国境なき子どもたち」も日本にファンドレイザーが増えることを歓迎しています。

◆ファンドレイザーとして寄付を
 JustGivingというシステムを使うことで、一人一人がファンドレイザーとして被災地への寄付が出来る。
 過去にもマラソン大会に出場した方が、JustGivingを通じて何万円も寄付をした。若い女性が、一人芝居をするというチャレンジで寄付下さった。
 マラソンにエントリーしてJustGivingに参加して、さらに東北への支援をしてくれたら大変ありがたい。



このJustGivingはマラソンだけじゃなく、受験勉強でも、ダイエットでもなんでも「チャレンジ」を宣言することが出来ます。
寄付する先も、被災地支援に留まりません。
いま自分が、力になりたいと思うところを選ぶことが出来ます。


【NPO法人 国境なき子どもたち】

 (C)国境なき子どもたち 

 (C)Atsushi Shibuya

2012年9月26日

9月26日「マラソンにチャレンジすることが、被災地の力になる。JustGiving」

そろそろ秋のマラソン大会シーズン。
“マラソンにチャレンジすることが、被災地の力になる”という仕組みがあります。
「JustGiving Japan」というウェブサイトのサービスです。

このサービスがどんなものなのか、JustGiving Japan 代表理事・佐藤大吾さんに伺いました。

◆「JustGiving」とは
 被災地復興のために寄付をしたいという方は多いが、これは自分自身で寄付するのではなく、友達から寄付を集めることが出来るサービス。マラソンに出場する動機は健康やチャレンジだが、それを社会貢献に活かそうという発想。「僕がマラソンで頑張るからみんな応援してくれ」と友達に呼びかけて寄付を集める。
 寄付は自分がもらうのではなく、応援している非営利団体やNPO団体に全額寄付される。被災地復興のために自分で寄付をすることも出来るが、自分が走る姿を応援してもらい、お金にして、それが復興支援に行く。


◆マラソンとJustGiving
 マラソンはJustGivingと相性が良い。元々2001年にイギリスで誕生したシステム。ロンドンマラソンという、世界最大のチャリティマラソン大会の寄付集めに用いられた。
 日本でも、マラソンとチャリティの相性が良いということで、たくさんのランナーが
JustGivingを通じて寄付を集めている。
 マラソン挑戦が、誰かの役にたち、自分自身のモチベーションアップにもなる。
 JustGivingのサイトには、友達が寄付と共に応援のコメントを書いてくれる。練習や本番の苦しさの中、頑張ろうという勇気をもらう仕組みでもある。
 マラソン以外では、トライアスロン、自転車レース。それ以外だと、受験勉強を頑張るとか、太り気味なので5kgダイエットするとか、違ったやり方もある。



欧米のマラソンランナーたちの間では、「マラソンに出るんだ。じゃあどこの寄付を集めるの?」という会話が成立するくらい、当たり前になっているそうです。
また、日本版JustGivingが設立された2010年から、今までに集まった寄付金の総額は約9億2千万円!すでにチャレンジャーがたくさんいます。



明日は、この「JustGiving」を利用した被災地支援の一例、「湘南国際マラソン」についてご紹介します。


【JustGiving Japan Official Website】

2012年9月25日

9月25日「岩手県陸前高田市広田町に移住した、1人の若者(2)」

震災直後から岩手県陸前高田市広田町でボランティア活動を続け、この春、東京の大学を卒業。広田町に住民票を移した三井俊介さん(23歳)。
現在、企業の被災地視察のコーディネート、地元のお母さん向けのパソコン教室、さらに漁業支援プロジェクトなど様々な活動をしています。

三井さんは、同じように広田へやってきた若者と2人で一軒家で共同生活をしています。
彼はこの町の人たちに新鮮な驚きと魅力を感じていると言います。

◆人生の先輩方と話すこと
 広田には「けせら」文化があって、意味は「持ってけ」。挨拶や話に行くと、ジャガイモ、にんじん、レタス、キャベツなど、何でも貰える。今は漁業団体の手伝いもしているので、そこで魚も貰える。頂き物を料理して食べている。
 すごく温かくてお節介。距離感が好き。家を借りたら大家が(勝手に)入ってくる。持ってきたものを置いていってくれたり、世間話をする。
 年配の方が多い。東京で暮らしていると60代70代の方と話す機会は多くはないが、広田にいるとほぼ毎日話す。人生の先輩として学ぶべきことが多い。



地元の方に「被災地を助けたいという気持ちなら来るな」と反対されても、三井さんは広田を選びました。
それは、この暮らしの中に自分が本当にやりたいこと、目指すものがあったからだと話しています。

◆広田の暮らしの中で目指すもの
 自分の活動は広田の復興のためだが、生き方の確立というのもある。東京で生きるしかないと思っている同年代に、そうじゃない生き方がある。お金が少なくても色々な人から色々なものを頂きながら暮らせる。自分で野菜を育て魚を獲ることもできる。
 大工作業もしているが、それも楽しい。生きる力が学べる。それを見ていいなと思った人はこっちに来たらいい。そういう人には受け入れや仕事の面でも手伝っていきたい。


◆「来て良かった」と思う瞬間
 お母さん方と話すと、「広田から若い人が出ていくばかりの中で君は入ってきた。これから一緒に頑張ろう。広田の希望の星」と言ってもらえた時は嬉しかった。


高齢化が進む広田町に、若い世代の人口が少しずつ増え始めています。
三井さんによると、10月にももう1人、広田に若者が移住してくるということです。





【三井俊介さんのメールマガジン】

2012年9月24日

9月24日「岩手県陸前高田市広田町に移住した、1人の若者(1)」

三井俊介さん(23歳)はこの春、東京の大学を卒業したばかりです。
彼が選んだ進路は岩手県陸前高田市、太平洋に突き出た小さな半島にある漁村・広田町への移住です。
すでに住民票を移し、地元の方と生活を共にしながら、街の復興に携わろうとしています。
なぜ、三井さんはこういう道を選んだのでしょうか。

◆支援で関わっていた広田町
 大学を卒業するタイミングで、どこで仕事をしたいか、誰のために働きたいかを考えた。その時に昨年1年間、震災支援で関わっていた陸前高田市広田町で何かしたいと思い、移住という決断をした。
 地元の方からは最初、「来るな」ということも言われた。「中途半端に来てもしょうがない」「もし失敗して帰ったらどうなる、この街は誰も来なくなるぞ」とか、「お前の夢は何だ。その夢を達成するために来るならいいけれど、応援のためだけだったら違う。そういう関係だったら続かないから来るな」というような、厳しい言葉をもらった。
 自分はこの町でしたいことを話す中で、「やってみろ」と受け入れてもらえるようになった。



三井さんは震災前から、カンボジア支援のチャリティフットサルを企画したり、社会の為に働く生き方を目指していました。
昨年4月以降は、復興支援団体を設立して広田で活動を続け、移住を決意したそうです。

そんな中、彼が知った広田町の現状。
それは住民の5割が60歳以上という高齢化。そして産業の衰退です。
今彼は、新しい産業を作るプロジェクトに取り組んでいます。

◆産業を育てたい
 広田町は漁業の町。漁業の新しい形を作りながら、高収益なモデルを作っていく。小型船舶の漁業者が個人で東京のレストランと直接やり取りをしている。今までのような仲買人を介することがないので、漁師、生産者にお金が落ちる仕組み。
 今は漁師個人とレストランだが、これを組織化するために動いている。しかし地元の方は定款を作るなどの事務作業をしたことがないので、自分は事務処理全般を請け負い、組織化に向かっている。
 今は東京とやり取りをしているが、これを海外に直接売っていきたいと思っている。
地方で世界と勝負するという価値観、世界観ができる。そこで若い人たちがこちらに移住して仕事を手伝っていくようになると、産業が育ち、人口も増えていくと思っている。





【三井俊介さんのメールマガジン】

2012年9月21日

9月21日「宮城県塩釜市・『GAMA ROCK FES 2012』」

明日、9月22日(土)宮城県塩竈市・みなと公園で開催される「GAMA ROCK FES 2012」。
このフェスの中心となったのが、Dragon AshのATSUSHIさんと、宮城県塩竈市出身の写真家・平間至さん。
二人は震災直後から塩竈市を拠点にライブや炊き出しなどの支援活動を続け、1年間で50回以上、被災地に足を運びました。

◆Dragon Ash・ATSUSHIさんの想い
 311の約10日後に現地に足を運び、それ以来塩竈を拠点にいろんな場所に行っている。
 ライブ活動や炊き出し、物資提供、形を問わずに、皆さんの力になれればと活動してきた。今後継続的に活動を続けていくためにどうしたらいいのかということを現地の方たちと話すようになり、そこで出てきたのが、現地の方たちが5〜6年前からやりたいと考えていた「GAMA ROCK FES」という野外フェス。
 今まで1年半の活動の中で知り合った現地のアーティストやミュージシャンが中心となり、そこに東京勢のミュージシャンも一緒になって、ライブとアートと食で野外フェスを行う。
 宮城県塩竃市はとてもいい場所。311でいろんなことが起きたが、それを踏まえて、皆さん向いて頑張っていこうとしている。食もいいし、景色もいい。ぜひ一人でも多くの人に来てもらえたら嬉しい。



≪GAMA ROCK FES 2012≫
開催日:2012年9月22日(土・祝)
開場 10:00/開演 11:00/終演予定 20:00
開催地:宮城県塩竈市みなと公園(塩釜港緑地内)
    宮城県塩竈市貞山通3-12-1
出演アーティスト:asari×MyPiano/ATSUSHI(DragonAsh/POWER of LIFE)/おひつじ座流星群/Caravan/黒田征太郎×中村達也/津軽三味線 柴田三兄弟/CHEAP PURPLE/中田裕二/HOUND DOG/ピストルバルブ/BRIGHT KIDS/細美武士/mito(クラムボン)×おおはた雄一

ライブの他、タワーレコードの「NO MUSIC, NO LIFE?」の被写体になれるポスター撮影会も開催。(限定100組)
アロマキャンドルをつくるワークショップや、「藻塩スイーツ」、ラーメン、牛タン、笹かまぼこなど、地元の「食」も楽しめます。


【GAMA ROCK FES 2012 Official Website】

2012年9月20日

9月20日「宮城県気仙沼・西舞根地区。進まない防潮堤建設『撤廃』」

宮城県気仙沼市・唐桑半島の付け根にある「舞根地区」でホタテや牡蠣の養殖などを営む、畠山信さん。
NPO法人「森は海の恋人」の副理事長も務めています。


現在、被災地沿岸には防潮堤の建設計画が国の予算で進められています。
畠山さんが暮らす西舞根に計画された防潮堤の高さは、9.9m。
これに対し、住民全員一致で計画の撤廃を県と気仙沼市に求め、気仙沼市長はこれに同意。
被災地で初めて防潮堤計画の「撤廃」が表明されました。

この地域は高台移転が決定しているため、“防潮堤による守るべき財産は、低地にはない”という主張が認められたからです。
しかし宮城県は計画の撤廃に動いていません。
畠山さんに、今の状況や市民の動きを伺いました。

◆行政の認識の違い
 僕ら気仙沼市民の多くは、「海と生きる」というキャッチフレーズを作ったくらいなので、守るべきものは「景観」。観光産業をやっていた方は特に、その認識が強い。コンクリートのデカい壁などいらない。
 一方、行政・宮城県の守るべきものは、「いのち」「公共施設」そして「道路」だと言っている。国交省に話を聞きに行ったら「そんな珍解答は初めて聞いた」と言われた。国と県と市で認識が全く違う。



◆市民が集まって
 気仙沼市の市民、有力者が集まって、「防潮堤を勉強する会」という任意団体が始まった。いきなり反対運動をするのではなく、防潮堤とはどんなものか、どういうお金でどういう場所にどう出来るのかを勉強する場。一週間に1〜2回のペースで有識者を呼んで、何が課題なのかを学ぶ場を作った。毎回100人以上集まる。関心は高い。しかしまとまった意見がなかなか出せない。なぜなら住む場所が決まっていないから。
 行政が各集落ごとに街づくり協議会を作るはずだが、そんなゆとりは行政にはなく、でも期限は決まっていて、期限が過ぎれば執行される。5年後には東北の被災地沿岸はほとんど電柱より高い堤防で覆われてしまう。
 要望書のフォーマットはホームページに載っている。他の集落にも、防潮堤に反対したいという活動を始めた仲間もいる。そういう連中には要望書の数字と文字を変えればそのまま提出できる。すると気仙沼の若い連中が、舞根と同じように自然環境を大切にした街づくりをしたいと言い始めた。じゃあ色々手を貸そうと、最近はこの舞根集落だけでなく、他の集落にも足を運んで話を聞いたり、まとめたりすることが増えてきた。



【舞根2区の海岸堤防の計画撤回に関する要望書】

【舞根復興ポータルサイト MOUNE.jp】

【NPO法人 森は海の恋人 Official Website】

2012年9月19日

9月19日「宮城県気仙沼・西舞根地区。防潮堤建設の問題」

宮城県気仙沼市・唐桑半島の付け根にある「舞根地区」でホタテや牡蠣の養殖などを営む、畠山信さん。
NPO法人「森は海の恋人」の副理事長も務めています。


畠山さんが暮らす西舞根の住民たちは、その8割が高台に移転することを選択しました。
地盤沈下の結果、元々暮らしていた土地は干潟や湿地帯に生まれ変わりましたが、海の生き物が戻ってきたこの干潟を地元の方は受け入れ、「みんなで守る場所にしよう」と考えています。

しかしそんな中、地元の想いを無視した計画が持ち上がりました。
大規模な防潮堤の建設です。

畠山信さんにお話しを伺いました。


◆「海と生きる」を理解していない
 防潮堤の問題は去年の秋くらいに、国から突然降ってきた。被災地沿岸部に今までより高い堤防を全面的に作るという計画。ただ、津波を経験して学んだのは、人工物では何も守れないということ。堤防で固められていた場所もすべて津波で壊れた。作っても意味はないし、そんなものは必要ないという考え方。
 気仙沼市の復興のキャッチフレーズは「海と生きる」。意味の深い言葉ですごく好き。だが防潮堤の計画を立てた人間はここに住んでいない人間。ライフスタイルを理解していない。
 舞根地区だと9.9mの堤防で囲う計画。電信柱+2〜3mの高さ。この集落に住む人たちは全員「そんなものいらない」と言っている。守るべきものは、命や公共施設らしいけど、我々は高台移転する。守るべきものは津波が被る場所にはない。海が見えるこの景観が大好き。景観を壊すものは必要がない。
 震災後に西舞根地区は被災地で初めて、防潮堤の計画撤廃の要望書を、住民100%合意の元、宮城県知事、気仙沼市長あて両方に提出した。


受け取った気仙沼市長は、「西舞根地区は高台へ移転するため、生命の危険性は低い」として、計画の撤廃を表明しました。
しかし、行政の様々な力が作用して動き出した計画は止めるのが難しいと、畠山さんは感じています。

◆行政の問題
 先日、宮城県知事がこの西舞根集落を視察。気仙沼市長が「この集落には、住民の要望も出ているので、防潮堤は作らない方針で進めます」と県知事に説明した。県知事はノーコメントだった。一言くらいあるのかと思ったら「次に行きましょう」と行ってしまった。かなり強硬な姿勢。
 国の管理者は国交省。国交省としては「当然住民の意向に沿う形が望ましい」と言っている。一方の宮城県は、国の予算をもう取っちゃっている。使わないといけない。ひっくり返すのは難しいようだ。県はノーともイエスとも言っていない。


コンクリートの堤防ができれば、海と山は分断され、生態系のバランスが失われ、せっかくできた干潟にも影響が出るおそれがあります。

畠山さんによれば、地盤沈下で出来た干潟にはメダカ、カニやエビ、アサリだけでなく、カレイやヒラメの稚魚、そして環境省が絶滅危惧種に指定する方針のニホンウナギも確認されています。


【NPO法人 森は海の恋人 Official Website】

2012年9月18日

9月18日「宮城県気仙沼・西舞根地区。高台移転への課題」

宮城県気仙沼市・唐桑半島の付け根にある「舞根地区」で牡蠣の養殖などを営む、畠山信さん。
NPO法人「森は海の恋人」の副理事長も務めています。


畠山さんの住む西舞根地区では、全52戸中44戸が流され、自宅を失っています。
しかし住民の多くは海を恨むことなく、海が近い高台へ集団で移転することを選択しました。

畠山信さんにお話しを伺いました。


◆ひとつ進み始めた
 気仙沼・西舞根地区では、津波が来たところには家を建てられない決まりがあるので、標高40mくらい・集落の中の小高い丘に高台移転しようとしている。32戸、震災前の8割。先月から移転先の測量調査が始まり、ボーリング調査も始まったので、やっと未来に向かって動き始めたという感じ。平成26年度中には造成が完了。そこからは個人で家を建てるという流れになる。
 今まで何一つ進まなかった、やっと一つ進み始めた。先が全く見えないのはストレスだったので、肩が軽くなった。気持ちが浮いたり沈んだりしなくて済むという一つの落ち着きがある。



高台移転の土地造成に着手した気仙沼市の西舞根地区。
土地が決まれば、その後はそれぞれ自己負担で家を建てなければなりません。
自己負担を少しでも軽くするため、資金の充てにしているのが、もともとあった宅地の買い取り額ですが、課題は多いようです。


◆宅地買い取りの問題点
 高台移転に関しては、宅地の造成(インフラ整備)までは国費負担。そこに建てる家は個人負担。
 幾ら掛かるのかが胆になってくる。津波が来たところの土地を売りたいが、行政の買い取りは宅地のみ。畑や庭は買い取りの対象にならない。宅地は点在しており、それを買い上げると虫食いの行政の土地が出来てしまう。その管理はすごく大変。まとまっていればいいが、点在は行政の負担になる。そこからどうするかが決まっていない。




移転先に家を建てるには資金が必要なので、もともと住んでいた土地を国に買い取ってもらいお金を工面したい。ただ、国が買い取るのは「宅地」。庭や畑は買い取ってくれない…という現状なんです。

昨日、この西舞根地区の浸水地域にできた干潟を残そうという話をお届けしましたが、そうなると、新しく生まれた干潟も国が買い取る土地とそうでない土地がまばらに出来てしまうことになります。
浸水地域の土地利用、住宅再建の資金となる土地の買い取り、こうした声に応えるには、行政の柔軟な対応が必要です。

一方畠山さんは、他の地域で高台移転を検討している方のために、手間のかかる役所への申請の「フォーマット作り」も進めているということです。


【NPO法人 森は海の恋人 Official Website】

2012年9月17日

9月17日「宮城県気仙沼・震災後、新たに生まれた環境」

宮城県気仙沼市・唐桑半島の付け根にある「舞根地区」で牡蠣の養殖などを営む、畠山信さん。
NPO法人「森は海の恋人」の副理事長も務めています。


海辺の小さな漁村・舞根地区。
ここには震災前までアサリの獲れる小さな干潟が残っていたのですが、震災による地盤沈下で海に沈んでしまいました。
しかし、今この土地には、新しい干潟が生まれつつあります。

<写真:地盤沈下によってできた干潟。震災前は防風林があった>

畠山信さんにお話しを伺いました。

◆潮溜まりにアサリの稚貝
 今年生まれたアサリはまだ1mmから5mmくらい。去年生まれた稚貝は1.5cmくらいなので、もう少しで食べられる。
 ここはもともと防風林の跡、宅地があった場所だが、もう陸じゃなくて海になっている。
 アサリの発見がこの集落の人たちの心を動かした。ここのアサリは他で獲ったものより美味。子どもの頃のそういう楽しみがまたできるのは、お年寄りも嬉しい。潮干狩りは楽しい。


<写真:畠山さんが干潟の砂を手でさらうと、そこにはアサリの稚貝が>


津波で家や林が流された跡が干潟になり、そしてこの新しい干潟には、たくさんの海辺の生きもの、海の生態系が息づき始めています。


◆震災後に生まれた環境を、子どもたちのために守る
 舞根集落の陸地だった部分が、地盤沈下で磯や潮溜まり、干潟になっている。そこにはアサリ、エビ・カニなどの甲殻類が繁殖している。
 特に子どもたちの遊び場として最高のフィールドになっている。最近はメダカが復活。実はメダカは耐塩性で海水に強い。大繁殖している場所を見つけた。場所によってはメダカは絶滅危惧種。
 そういう街づくりをしたらいいじゃないかと地元の方に提案したら、この集落は震災後の自然環境を大切にした小漁村にしようということになった。子どもたちの遊ぶ場所は海辺にほとんど無くなった。
 NPOの事業では環境教育を謳っており、アサリの調査、生育環境や分布の広がりを調べる。エビとカニがすごくたくさんいる。ドクターシュリンプのように、皮膚を食べにくる(笑)。一見怖いが結構気持ちいい。古い角質を食べてくれるという原体験。子どもの頃からやっていると怖いという意識は持たず、楽しいという気持ちを持つことができる。生きものって面白いなと思える。
 そういう原体験をできる場所が、この集落に震災後にできた。それを守っていこうという活動をしている。



ただ、この干潟はもともと住宅のあった土地と、そうでない土地が混在しています。
そのため、干潟全体を「みんなのもの」として保護するには、土地の買い上げをどうするか、管理をどうするかなど、課題があるということです。


<写真:道路を挟んで右側は、もともと干潟だったが地盤沈下で海になり、左側は海水が流れ込み干潟になった>



<写真:地盤沈下で出来た干潟と湿地帯>


【NPO法人 森は海の恋人 Official Website】

2012年9月14日

9月14日「震災から1年半。気仙沼・漁業の今(2)」

宮城県気仙沼市・唐桑半島の付け根にある「舞根地区」で牡蠣やホタテの養殖業を営む、畠山信さん。
NPO法人「森は海の恋人」の副理事長も務めています。


震災から1年半。
舞根地区は、ホタテや牡蠣の出荷が出来るまで再生しました。


畠山さんは今、将来を見据えて進めている計画があります。

◆新たな産業の立ち上げ
 これから先は産業をきちっと作っていかないと地域が継続しないという話になった。じゃあ産業を作ろうということで、NPO法人「ピースネイチャーラボ」を立ち上げた。地元の人間だけだとろくな産業が立ち上がらない。知見も狭い、システムも知らないノウハウもない。外から入った人間と地元の人間による混成チームで食品の加工品を作ろうと言うことになった。上手く回るなら地元の人たちに任せる。

気仙沼では、牡蠣は生で食べて十分美味しいので、加工品という文化は今まであまり発展してこなかったそうです。

◆学んだこと、地元が集まる場を作ること
 ベタな考えだが、誰もがウマイと思う牡蠣フライが作れたら面白いということで、調理師専門学校・辻調の校長や、シェフのアラン・デュカスと繋がって教えてもらった。
 衣をつけた状態で冷凍・冷蔵で出荷、おうちで揚げるだけの状態。最高にウマイ牡蠣フライがあったらいいなと牡蠣フライを作っている。同時にパンにつけるホタテのパテをメインでいこうかと。色んなところに視察に行き、大きな学びがあった。
 共通した学びは、「地元からはじまれ」。いきなり東京市場に出荷するのではなく小規模でも地元の人に食べてもらい、地元が集まる場を作る。その「地元から始まれ」という学びから、小さなカフェを作ろうと思っている。僕の趣味・シダ植物の栽培を活かして温室カフェを作ろうと。温室だと冬でも暖かい、熱帯のシダ植物が冬でも元気だと嬉しい。そこに地元の人が集まれる、小洒落たカフェがあるといいなと思っている。地元からの要望があればオイスターバーになったり、レストランになったり変えられるというのもミソ。


◆美味しいものを届けたい
 最初は薫製を食べたくて作った。そしたら美味。作ったはしから喰っちゃう。もうちょっと味が美味しくできる方法を見つけてしまったので、いいものを作って販売しようと思っている。それまで少々お待ち下さい。

<写真:牡蠣の薫製小屋>


11月に加工場の完成、12月には東京のデパートの復興イベントでこれらの加工品のお披露目販売を予定しています。
また、温室カフェも来年のゴールデンウィークにはオープンさせたいということです。

<写真:温室カフェと加工場の建設予定地>


【NPO法人 森は海の恋人 Official Website】

【NPO法人 ピースネイチャーラボ】

2012年9月13日

9月13日「震災から1年半。気仙沼・漁業の今(1)」

宮城県気仙沼市・唐桑半島の付け根にある「舞根地区」で牡蠣の養殖などを営む、畠山信さん。
NPO法人「森は海の恋人」の副理事長も務めています。


昨年10月に気仙沼の現状を伺ったところ、当時はまだ、漁業の復旧には時間が掛かるというお話しでした。
さらに1年が経過した今、舞根地区の現状を伺いました。

◆漁師町の姿を取り戻しつつある
 牡蠣、ホタテは今年になって出荷できた。今は夏場なのでホタテの出荷がじゃんじゃん。去年秋から冬にかけ仕込んだものが半年でかなり成長。本当は1年半〜2年半かかるのだが、やはり津波のあとは成長が早い。プランクトンの量が多いので味はすごくいいと思う。


ホタテの出荷が終わると、今度は牡蠣の出荷も始まります。
これらの出荷は、この地区の漁師さんたちの支え合いによって行なわれています。

◆漁師の方々の居場所
 舞根地区の場合は、6〜7人くらいの家や船を失った色んな被災状況の人たちが協業で集まって、船と加工場をシェアして一緒に養殖業をしている。私の実家「水山養殖場」が生産・販売をしていたので、そこが母体となってアルバイトで雇う形を取って協業を薦めている。
 漁業者の家族を一緒に雇用しているので地元の母ちゃんにも加工場の仕事に声を掛けたところ、我も我もと手が上がり14人いる。これ以上の雇用は難しい。
 仮設住宅にも居場所はあるが、誰からも頼られない生活は苦痛。お願いしますというと嬉々として動いてくれる。人に頼られるというのは、田舎の方では重要なのではないか。居場所は重要だと思う。



◆漁業者と海
 海が好きな人、漁業者は海に出ていないと心に違和感が残る。漁業者はほとんどそう。息苦しくなる。なのでみんな意味もなく海に行ったり、釣れもしない魚を釣りに行ったり。魚を釣るわけではないが船でとりあえず沖に出てみるとか。僕もその一人。



ホタテなど貝類は流通を立て直すのが比較的簡単なので「復旧も早かった」と畠山さんは話しています。
その一方、魚類は水産加工場の復旧が必要で、こちらは地盤沈下した土地のかさ上げも絡むため、今も課題となっています。



【NPO法人 森は海の恋人 Official Website】

2012年9月12日

9月12日「震災から1年半。南三陸『大雄寺』の存在」

宮城県南三陸町・志津川地区の「あさひ幼稚園」は、昨年3月の津波で建物を失いました。
しかし園舎は、地元のお寺の津波で枯れてしまった杉の木を使って再建されました。

そのお寺の名前は「大雄寺」と言います。
800年前に藤原氏によって建設されたとされ、その後、450年前から志津川の小高い丘の上で、この土地を守り続けてきた由緒あるお寺です。
その19代目の住職が、小島孝尋住職。
あさひ幼稚園の園長でもあり、この土地を代々見守り続けてきました。

◆1年半経った想い
 震災から1年半が経つので、うちを流された方々は「いつ家を建てられるのか」という漠然とした不安がある。仮設にいる方は「ここで何年過ごすのか」と考えているみたい。
 津波で流されて、結局見つかっていない方もいる。今ごろどこにいるのか、早く家に戻してあげたいという想いでいる。来年3回忌、丸2年が経つ。落ち着いてきたから、逆に将来を楽観視できないという考え方の人は結構いるのではないか。



高台にある大雄寺にもあと1.2mの高さにまで津波が迫ったそうです。
津波がわずかに届かない高さにお寺があったのは、先人たちの知識だったのではないかと小島住職は仰っています。

◆地域にとっての「大雄寺」という存在
 風景が一変してしまったので、みなさん「何故なのか」と言っている。お寺の目印だった参道の杉並木も無くなってしまったので、早く植え直してお寺の景観を昔に戻してあげたいと思う。
 お寺がこのまま残っているので、他の地域に行った方は「田舎に帰ってきたんだな」と思うと言う。来れば昔からのものがそのまま残っている。おじいさんが孫に見せた地獄絵図がある。じっちゃんが小さい頃おっかねえと思った地獄絵図は、寺子屋時代から続いている、道徳・戒めのためのもの。悪いことをするとここ(地獄)に行っちゃうんだぞと。親も、その親から教わり、その親もそのまた親から言われた話。それがきちんと残っている。こうしたものを残すのが私たちお寺の勤めだと思う。
 お寺が流されてしまったら、昔から続く風景は全て無くなってしまう。故郷の自分の家が無くなっても、ご先祖を守るお寺が残っていて良かった。
 家は流されてしまったが、ここだけは変わらないと言われるのが私は嬉しい。よくぞ残ってくれたと思う。




<写真:大雄寺で生き残った杉の木>


<写真:ユニセフを通じてあさひ幼稚園に寄付金支援したサッカー日本代表MF長谷部誠選手のサイン>



<南三陸の現状。未だ瓦礫は仮置きされた状態が続き、一方、津波で住民がいなくなった川沿いに処理施設が建設されつつある>

2012年9月11日

9月11日「震災から1年半。南三陸の幼稚園(2)」

宮城県南三陸町のあさひ幼稚園は昨年3月の津波で建物を失い、公民館を間借りして臨時保育を行なっていましたが、日本ユニセフなどの支援で新しい園舎が完成。
震災から1年5ヶ月。夏休みを終えた子どもたちは、公民館ではなく、新しい幼稚園でお友だちと再開することが出来ました。


この新しい園舎は、あさひ幼稚園の園長・小島孝尋さんが住職を務める大雄寺の参道で、津波をかぶってしまった杉の木が使われています。
お寺を守ってきた杉の木に托された新たな役割。
小島さんはどんな想いを込めたのでしょうか。


◆杉の木を生きた教材として活用
 塩害で枯れた杉を120本ほど持っていってもらった。樹齢350年ほどと言われている。年輪を釘で推しながら数えたが、目が細かくて途中で嫌になって止めた。それでも200年は経っている。太い木は350年は経っていると思う。
 近辺には加工するところが無かったので、石川県で加工して持ってくるという行ったり来たりをした。向こうの人(石川の人)も「腐りもない立派な木だ」と言っていた。全部きちんと使って頂いた。記録と記憶に残る建物を造って頂いて感謝している。
 子どもたちに“津波にあって死んじゃった木”を使ったことで、「君たちを守る園舎が出来た」こと、「こんな大きい木も津波にやられてしまう」ことを生きた教材として使えるのがありがたい。
 子どもたちはとにかく自分たちの幼稚園が戻ってきたのが嬉しいみたい。走り回って自由に遊べるのが嬉しいようだ。前の幼稚園も地元の木をふんだんに使っていた。小中学校はコンクリの建物。
 小さい頃に木に触れて、傷をつければ残り、ぶつかっても痛くない木の感触を感じてもらえれば。仮設に住んでいる子どもたちに、広々とした木の建物で、木という存在の温かさを思い出と共に持って行ってもらえれば一番良いと思う。






2012年9月10日

9月10日「震災から1年半。南三陸の幼稚園(1)」

宮城県南三陸町志津川地区で唯一の幼稚園・あさひ幼稚園は昨年3月の津波で、建物を全て流されてしまいました。
幸い園児たちは全員無事だったのですが、今年7月まで公民館や別の小学校を間借りする形で、幼稚園生活が続いていました。
あさひ幼稚園園長で、地元のお寺「大雄寺」の住職・小島孝尋さんに、震災直後を振り返って頂きました。

◆津波が来た時間
 もう子どもたちは帰っている時間。居残りの子どもは8人。幼稚園に残っていた子どもたちは毎年訓練しているので、いつもの通り、職員と一緒に裏の高校の高台に逃げた。
 高台から津波が来るのを見ていた。幼稚園はきれいさっぱり流された。茶色い土埃が上がって、「はて何の煙だべ」と思っているうちに、ああ津波なんだとわかった。ただあっけに取られて見ていた。


◆津波を目の当たりにした子どもたち
 小中学校の先生たちは子どもたちに「津波を見ちゃだめ」と言ったようだが、幼稚園の子たちは帰った後だから津波を目の当たりにしたかもしれない。
 子どもたちは遊びの中で、“津波ごっこ”をしていた。子どもなりに自分の気持ちを整理するための遊びなので、あえてそれを止めたりしなかった。衝撃が残っていたのだろう。今は無くなったがしばらく続いた。ジャングルジムに登って避難ごっこをしたり、そういう様子があった。そういう風な遊びを通して、自分の中で整理をつけていたのかもしれない。


◆昨年末、新しい園舎を建てる話が持ち上がった
 園舎が完全に無くなったので再建の話が出たが、使えそうな場所は全て避難所。
 その後父兄を介してユニセフの支援の話がスタート。寺の塩害杉で園舎を作ろうという話になった。



津波の塩害を受けたお寺の杉を活用し、今年の7月末、園舎は完成しました。
その様子は明日お届けします。



<写真:あさひ幼稚園・小島孝尋園長>



<写真:大雄寺>

2012年9月7日

9月7日「災害社会学・関谷直也准教授インタビュー(5) 〜災害時の連絡手段と情報収集〜」

今週の「LOVE&HOPE」は、東洋大学社会学部・関谷直也准教授(災害社会学)に災害への備え、災害時の適切な行動について伺っています。

今日金曜日のテーマは<災害時の連絡手段と情報収集>


◆普段使っている通信手段が使えない場合
 NTTは「災害用伝言ダイヤル171」、携帯各社は「災害用伝言板」を用意している。
 また、携帯電話のショートメッセージサービスは普通の電話よりは繋がりやすい。
 そもそも携帯電話自体を壊してしまうということも考えられる。いざという時に遠くの親戚に連絡をする、必ずここの避難所に避難するようになど、最終的な避難場所、連絡場所を決めておくことも、災害時の連絡手段などの問題を回避できる。


◆情報収集と情報発信の仕方
 大規模な災害時は動揺し不安。新しい情報がきたら、人に伝えようとするのはやむを得ない。その際確認すべきは「どこからの情報なのか(情報の発信源)」と「いつの情報なのか(タイムスタンプ)」。ツイッターなどで支援物資の情報などが流れても、時間が経つと実際には使えない情報になってしまう。「誰がいつ流した情報なのか」を徹底的に確認することが大事。
 そういった情報発信は被災地で情報を確認した人が発信すべき。伝言ゲームのような転送は控えるべきなのでは。

2012年9月6日

9月6日「災害社会学・関谷直也准教授インタビュー(4) 〜避難場所と地域情報の確認〜」

今週の「LOVE&HOPE」は、東洋大学社会学部・関谷直也准教授(災害社会学)に災害への備え、災害時の適切な行動について伺っています。

今日木曜日のテーマは<避難場所と地域情報の確認>


◆自宅や職場の周りの避難場所
 意外と私たちは住まいや職場、学校の近くの一時避難場所、広域避難場所を知らないのではないか。
 東京の避難場所は、火災から逃れるための避難場所。そこに向かうための広い道路も併せて覚えておくことが必要。一時避難場所、広域避難場所は確実に覚えておくべき。
 意外と知られていないのが、池袋や新宿など大きな駅の周辺は火災が発生する可能性が少ないエリア。そこからあわてて避難する必要もないので、そういったことも併せて覚えておくのも大事。


◆「防災マップ」と「ハザードマップ」の役割
 市町村が出している災害関係の地図には「防災マップ」と「ハザードマップ」の2種類がある。
 まず押さえてもらいたいのが「防災マップ」。避難所、避難場所が書いてある。いざというときの連絡先や、市町村からどういうふうに災害情報が流れるかなどが書いてあるので、必ず持っていてほしい。
 「ハザードマップ」は、火災の危険度を記したり、津波や浸水の危険を記したりしたもので、過去の事例に基づいて危険性を算定したもの。あくまでも過去の想定に過ぎない。その地図では問題無いとされても、本当に問題無いかどうかはわからない。ハザードマップはあくまで想定でしかない。シミュレーションとして認識するのが「ハザードマップ」の正しい理解。それをわかった上でハザードマップを読んでいくことが大事。



明日は東洋大学社会学部・関谷直也准教授に、災害時の連絡手段と情報収集について伺います。

2012年9月5日

9月5日「災害社会学・関谷直也准教授インタビュー(3) 〜災害時の避難行動・都市部編〜」

今週の「LOVE&HOPE」は、東洋大学社会学部・関谷直也准教授(災害社会学)に災害への備え、災害時の適切な行動について伺っています。

今日水曜日のテーマは<災害時の避難行動・都市部編>


◆都市部の大地震。最も気をつけなければいけないのは火災
 初期消火はもちろん重要だが、たいていの家の場合、地震の揺れがある程度強いと、LPガスや新しいガスなら火が消えるようになっている。昔なら地震になったら「すぐ火を消せ」と言っていたが、最近は「できるだけ火から離れる」こと。もちろん火が出たら消すのが大切だが、地震の直後ということなら、まず火から離れることが大事。

大地震の後はまず自宅から火を出さないことが第一。
でも自宅や隣家で火が燃え広がってしまったら、身の安全を最優先にしてください。


◆自宅から避難する際の注意点
 家が倒壊している可能性がある。古い木造住宅が密集している地域ほど、狭い道路が多い。そこを通って逃げようとすると、曲がってみたら家が倒れて逃げられなかった、気がついたら火に取り囲まれてしまった、ということがある。なので、できるだけ広い道路を使って一時避難場所、広域避難場所に向かって避難することが大事。
 日本全国どこでも、消防車や救急車は地震のときのためでなく、普段の急病人、普段の火災のときに対応している。地震のときに救急車を呼んでも来ないし、消防力も限界がある。
 阪神淡路大震災のときも、全国から消防力を集めても数日間火災が止まらなかったわけだから、それ以上の大都市で大きな火災が起こったとき、消すのはなかなか難しい。東京都なら大通りで火が止まる、といった形。だから本当に大きな地震の火災の場合は、消防車に消してもらうのは難しいと考えたほうがいい。


また自宅から退避するときは、電気機器の消し忘れによる火災を防ぐため、分電盤のブレーカーを下ろしてください。
ブレーカーの場所も家族で確認しましょう。



明日は東洋大学社会学部・関谷直也准教授に、災害時の避難場所と地域情報の確認について伺います。

2012年9月4日

9月4日「災害社会学・関谷直也准教授インタビュー(2) 〜災害時の避難行動〜」

今週の「LOVE&HOPE」は、東洋大学社会学部・関谷直也准教授(災害社会学)に災害への備え、災害時の適切な行動について伺っています。

今日火曜日のテーマは<災害時の避難行動>


◆東日本大震災レベルの大きな災害があったとき、都市部で気をつけなければいけないこと
 東京や大阪など、都市部で一番心配なのは火災。
 東日本大震災のときは皆が必死になって家に帰ろうしたが、火災の可能性がある。まずはその場に留まって、一時避難場所、広域避難場所などに逃げ、そこで待ち、火事が広がっていないのを確認して待つということが大切。


◆自分の子が心配でも、無理して帰宅しようとしない
 東日本大震災に関するテレビのニュースでは、子供たちが犠牲になった例というのが多く取り上げられた。しかし気仙沼市の小中学校で学校にいる子どもたちが亡くなった例はない。釜石も同じ。
 普段から学校がどのような災害対応を取るかを確認しておいて、いざというときは信頼して任せるのが大事。
 助けに行って無事を確認すればもちろん安心するだろうが、大きな災害のときはその途中の方が危険なので、そちらのほうを危惧すべき。


◆放課後や休日の場合の、子どもたちへの対応
 都心部の木造密集地域に住んでいる場合は、できるだけ早く近くの一時避難場所、広域避難場所に避難しなければいけないということを教えておくべき。その際大切なのは、小さい道を通らず、できるだけ大きな道を通って小学校のグラウンドや大きな公園など、火事が広がる可能性の少ないところに避難することを普段から教え込んでおく。
 沿岸部の場合、10分〜1時間以内で津波が来る。周りの人を探していると自分も津波に巻き込まれてしまう。東北の人は「津波てんでんこ」という、津波のときはてんでんばらばらに一人一人が逃げるということが重要なんだと言っている。
 いざというときにどうしたらいいかというのを子供に教え込んでおくことが大切。




明日は東洋大学社会学部・関谷直也准教授に、都市部の災害時の避難行動について伺います。

2012年9月3日

9月3日「災害社会学・関谷直也准教授インタビュー(1) 〜災害に備える〜」

先日「南海トラフ地震」の被害想定が発表され、災害の心構えについて、改めて考えさせられました。
また、9月1日「防災の日」には、全国各地で防災訓練が実施されました。
そこで今週の「LOVE&HOPE」は、東洋大学社会学部・関谷直也准教授(災害社会学)に災害への備え、災害時の適切な行動について伺います。
   
今日月曜日のテーマは<災害に備える>


◆毎日持ち歩くべき最低限のもの
 ライト、笛、ラジオなどを持ち歩くことが大事だが、常に持ち歩くことは難しいかもしれない。
 家に帰れなくなったときにどういうものが必要なのかを考えるといい。コンタクトレンズをしている人ならメガネを持ち歩く、薬を飲んでいる人なら薬を一日分持ち歩くなど、一日二日家に帰れなくても困らないものを持ち歩くことが大切。


◆日頃から自宅に備えておくべきもの
 昨年3月11日には皆が帰宅困難になり、都心部だとコンビニなどで物がなくなった。震災後も1週間ほど物不足が続いた。東京などの都心部は、普段より人が多く物を買うと、物不足に陥る性質がある。
 今までは、地震や大きな災害に備えて3日分の食料と水を用意しておけと言われていたが、「3日」に根拠はない。3日ぐらい経ったら、なんとか助けにいけるからというだけ。
 東日本大震災の被災地を考えると、長期間食料や物資が手に入らない可能性があるということを前提に備えをしておくべき。
 食料1週間分というと難しいので、普段よりストックを多めにしておくこと。水は脱水症状になるという怖さもあるので、水だけは多めに用意しておくことがもしものときの備えになる。


◆災害時の心理
 私たちは地震や大災害の時、パニックを起こすんじゃないか、慌てて何もできないんじゃないかと考えるが、実際は地震が来ても何も行動をとらないということの方が多い。
 専門用語では「正常化の偏見」=「normalcy bias(ノーマルシー・バイアス)」というが、私たちは、自分が地震や水害で死んでしまうとは思わない。日常生活が続くと思ってしまう。大きな災害が急に起こっても現実のこととして受け止められない。
 大地震があったら東京なら火災を、沿岸部なら津波を警戒しなきゃいけないのに、周りの人も平気そうに歩いていたりすると、大丈夫なんじゃないかと思ってしまって逃げない。その方がかえって自分の身を危険にさらしてしまう。
 災害時には「自分が危険にさらされている」ということを、いざという時に思えるかが重要。




明日は東洋大学社会学部・関谷直也准教授に、災害時の避難行動について伺います。

パーソナリティ:中西哲生・高橋万里恵

メッセージ、ご意見、プレゼントご応募はこちら

2017 東日本大震災から5年 LOVE&HOPE 2016年3月11日(金) 特別企画放送

「LOVE&HOPE〜防災ハンドブック2015」PDF版ダウンロード配信中

アーカイブ

  • いのちの森
  • Support Our Kid's
  • TOKYO FM
  • JFN