2012年10月31日

10月31日「気仙沼からロンドンへ・フェンシング千田健太選手インタビュー(3)」

ロンドンオリンピック・フェンシング男子フルーレ代表の千田健太選手は気仙沼出身。
8月5日、千田選手、太田雄貴選手、淡路卓選手、三宅諒選手の男子フルーレ団体は、一回戦、準々決勝を勝ち上がり、準決勝・ドイツとの戦いを迎えます。
日本の団体として初のメダルをかけた戦いです。
千田選手に、あの団体戦の戦いを振り返って頂きました。



◆「明日で人生変えるぞ」
 団体戦が始まる前、絶対メダルを取ろうと思っていた。太田雄貴選手がミーティングで「明日で人生変えるぞ」「これがラストチャンスだ」と話していた。
 準決勝のドイツ戦。ドイツは世界ランク3位。2回対戦して2敗。失うものはない。チャレンジャー精神で挑んだ。ドイツ戦だと太田が苦手な相手がいるので、俺次第だというのはあった。いつも太田が引っ張っているので、この試合は三宅と僕がなんとかしなければと思っていた。相手は世界選手権4連覇の強豪。最後は相手もリスクを冒してガツガツやってくる。逃げるのではなくガチンコで殴りあわないと勝てない。でも祈るしかできなかった。
 逆転されて残り30秒。難しいと思っていたが、なんとかしてくれと祈った。残り2秒。最後の一刺しで追いついた。あれはミラクル。普通だったらありえない。残り2秒で追いついたのは初めて見た。残り6秒の2点差を追いついたのも初めて見た。
 決勝と三位決定戦では天と地の差。なんとか取ってくれと祈っていた。試合も見てられず下向いていた。見られなかった。この1本に人生がかかっていると思うと見えなかった。ポイントを取った時に、歓声と太田のランプで初めて結果が分かった。



明日も千田健太選手のインタビューをお送りします。

2012年10月30日

10月30日「気仙沼からロンドンへ・フェンシング千田健太選手インタビュー(2)」

ロンドンオリンピック銀メダリスト・フェンシング男子フルーレ代表の千田健太選手。
生まれ育った街、気仙沼を襲った津波は、千田選手の心を支えてきた小学校以来の親友の命を奪いました。
それはまさに、オリンピック出場がかかる戦いの直前だったそうです。
千田選手にお話しを伺いました。



◆震災後、現実とどう向き合ったのか
 五輪予選は前年4月〜3月、1年間のW杯トータルポイントで決まる。震災直後の4月から予選が始まったがフェンシングのことは頭になく、震災のこともあり調子が悪かった。
 しかし今まで世話になった人に何も恩返しできず、競技人生が終わってしまう。亡くなった親友は北京五輪後に一番陰で支えてくれた。ロンドンでメダルをとって恩返しをすることが自分にできること。色んな方の気持ちを背負う自覚はできた。
 精神的に本当にきつかった。メンタルトレーナーにもだいぶ助けられた。苦しいのだが、それをアタマから話してフェンシングのことだけを考えるようにした。
 北京の時は嬉しかったが、ロンドンオリンピックはメダルを取ってナンボだと思った。メダルを獲れる確率はかなり低かった。出発前の7月、雑誌に「フェンシング男子・メダル獲得率20%」と載っていた。俺らは「20%もないよな」と話していた。メダルはきつかったと思う。



震災後、千田選手がお父さんに「フェンシングなんかやってていいのか」と尋ねたところ、お父さんは「お前にしかできないことをやれ」とおっしゃったそうです。

メダルの確率は20%以下。そう自覚しながらも千田選手は、日の丸と気仙沼の声援を背負い、ロンドンへ旅立ちました。
そして8月5日。彼はメダルをかけた戦いを迎えます。


明日も千田健太選手のインタビューをお送りします。

2012年10月29日

10月29日「気仙沼からロンドンへ・フェンシング千田健太選手インタビュー(1)」

フェンシング男子フルーレ代表の千田健太選手。
ロンドンオリンピックでは太田雄貴選手、淡路卓選手、三宅諒選手と共に銀メダルを獲得しました。

千田選手が生まれ育ち、フェンシングに打ち込んだ街が、宮城県気仙沼市です。
震災という辛い経験を乗り越え、メダルを手にした千田選手にお話しを伺いました。



◆気仙沼でトップを目指した
 ロンドンから2か月以上が経ち落ち着いたと思ったが、地元気仙沼で祝賀会、多くの方の祝い、市民栄誉賞…にぎやかな感じ。
 気仙沼高校出身で父がフェンシング部の監督。元々サッカー選手としてW杯が夢だったが、気仙沼市の環境ではサッカーは無理だということで、父にフェンシングを教わることを願い出た。世界という意識は最初は無かったが、やるからにはトップを目指した。ロンドンオリンピック・女子フルーレ個人7位の菅原智恵子選手がいたので、環境は整っていた。


◆親友を津波で失った
 震災の日はドイツにいた。テレビを見たら津波の映像。字幕は「ジャパン・ミヤギ」。血の気が引いた。信じられないし、どうしていいか分からなかった。
 親友を津波で失った。小学校、中学校、高校とずっと同じクラス。大学は別になり僕は東京、彼は仙台。地元に帰る時は一番最初に連絡していた、支えられた大親友。


千田選手の親友という男性は、気仙沼の隣、岩手県陸前高田市の職員で、当時25歳でした。
4年前の北京オリンピックでは11位。結果が出ず落ち込む千田選手に「次は、絶対メダル取れよ!」と怒鳴りつけ、次へ進むきっかけを与えたのが、この親友だったということです。

明日も千田健太選手のインタビューをお送りします。

2012年10月26日

10月26日「映画『天心の譜』に込めた想い・細川佳代子さんインタビュー」

映画『天心の譜』は、オーケストラや、スペシャルオリンピックスというスポーツの祭典などで活躍する“知的障害”を持った方々が主役となったドキュメンタリー映画です。
スペシャルオリンピックとの関わり、そして映画について、製作総指揮を務めたNPO法人 勇気の翼・理事長の細川佳代子さん。細川護煕元総理の奥様です。

細川佳代子さんにお話しを伺いました。


◆スペシャルオリンピックスの活動
 21年前に牧師さんに教わった。「どんなに医学が進歩しても人間が生まれ続ける限り、人口の2%は知的障害を持つ子どもが生まれてくる。それはその子の周りにいる人たちに優しさや思いやりを教えるために、神様が贈ってくれたのだ」と。今まで誤解と偏見、哀れみの気持ちしかなかったことに気づいた。
 スポーツを通じて自立と社会参加を応援するスペシャルオリンピックスの活動を20年前に始めた。昨年、ギリシャ・アテネの夏期大会がパラリンピックの倍の規模で行われた。被災地出身の2人の選手を密着して撮影し、1人は金メダル、もう1人は銀メダルを獲得した。その映像も観られる。



◆映画撮影の最中、東日本大震災が発生
 災害があったとき、一番取り残され苦しむのが障害のある方たち。
 身体障害は目に見えて障害者だと分かるので援助され、周りの理解も得られるが、知的障害は周りから見て分からない。非常時にパニックになり泣きわめくこともあるが、避難所の体育館では怒られてしまう。共同生活が出来ない。
 親は子どもを連れ出して、車の中で生活をするといった経験をした方がたくさんいる。こういう人たちを受け入れる地域社会になって欲しいと思う。




現在、東京・シネマート新宿、大阪・シネマート心斎橋で公開中の映画『天心の譜』
この特別鑑賞券を、15組30名さまにプレゼントします。
「映画チケットプレゼント希望」と明記の上、こちらからご応募ください。
ご住所、お名前もご記入ください。
【ご応募はこちらのページからどうぞ】
※ご応募は本日10月26日(金)24時まで受け付けます。
※当選者の発表は、賞品の発送をもって代えさせていただきます。

映画『天心の譜』
◎東京:10月20日(土)〜 シネマート新宿/10月27日(土)〜 シネマート六本木 ◎大阪:10月20日(土)〜 シネマート心斎橋
◎神奈川:11月10日(土)〜 シネマ ジャック&ベティ ◎山形:11月24日(土)〜 MOVIE ON やまがた ◎愛知:1月5日(土)〜 名演小劇場

2012年10月25日

10月25日「旅館業や飲食店などで打撃を受けた会津若松。秋の期待」

10月13日(土)14日(日)に東京・新宿御苑で開催された環境イベント「GTFグリーンチャレンジデー」。
このイベントでは、東北各地の食材を集めたマルシェも開かれ、福島、茨城をはじめ、15の自治体や団体が出店しました。

その一つが福島県会津若松市。
白虎隊の物語で有名で、今も大正時代のモダンな建物が残る、有名な観光地です。

会津若松市・観光課の渡部博之さんに、会津若松の観光の状況を伺いました。


◆観光客が戻っていない
 福島第一原発からは100km離れていて、宮城県仙台市と同じ距離。放射能の値も問題ない。
 震災後からずっと安全をPRしていたが、「ふくしま」ということで観光客は減った。特に修学旅行生が戻っていない状況が続いている。震災前から9割減。全体としては、今年になって7割は戻ってきているが、前の水準にはほど遠い。


◆地元産のコシヒカリ
 全国の食味ランキングは特Aで、魚沼産のコシヒカリと同じ評価。全国トップレベルの美味しいお米。震災の影響で価格も下がり、買っていただく量も減ったが、特Aランクであることは変わっていない。なんとか復活させていこうとしている。福島では、米は全袋を放射能検査して安全なものだけを出荷しているので、安全面は自信を持って言える。価格は上がっている。去年よりは売れるのではないかと思っている。

◆秋の会津若松
 10月〜11月は紅葉、会津にお客さんがいっぱい来るシーズン。有名どころだと磐梯山。裏磐梯など。新潟寄りの奥会津地域、山に入っていくあたりに、只見線というJRのローカル線があるが、そこは雑誌の紅葉が美しい路線のNo.1に選ばれた。只見線で紅葉を楽しむという旅もおすすめ。

会津若松は、来年1月から放映のNHK大河ドラマ『八重の桜』ゆかりの土地。
明治維新、まさに白虎隊の時代のこの土地が舞台の物語。
地元の方の、観光への期待も大きいようです。

2012年10月24日

10月24日「笑顔で果物を届ける・福島県会津若松の果樹園」

10月13日(土)14日(日)に東京・新宿御苑で開催された市民参加型の環境イベント「GTFグリーンチャレンジデー」。
このイベントでは、東北各地の食材を集めたマルシェも開かれ、福島、茨城をはじめ、15の自治体や団体が出店しました。

会津若松から、獲れたての果物をいっぱい持ってPRにやってきた地元果樹園「がぶりガーデン」の代表・星健一さんにお話しを伺いました。

◆変わらない風評。笑顔でいるしかない。
 出来は最高。例年になく、非常に甘い。夏場の桃なんかは最高。プルーンも酸味があるのだが、本当に甘い。“木になる洋菓子”。とって食べた瞬間にこれが果物かという評判。今後はリンゴが主体。
 風評は変わらない。お客さんの数も変わらない。福島県内で人は動いているが、県外からの団体は少ない。平年を100とすれば今年は20。8割減。その分、福島県内の人たちがいっぱい来てガヤガヤやっている。怖くないし元気にやっているのだが、おかしいなと思う。
 我々が笑顔でいれば、いずれお客さんも分かってくれる。これだけは我々はどうしようもない。笑顔を作っていれば何とかなるんじゃないか。
 来年に期待。とにかく元気で笑顔でやっているのを見てほしい。原発も放射能も会津では変だと言われてしまう。笑うしかない。



会津若松の果樹園「がぶりガーデン」は、果物狩りのほか、フルーツ大福などの和菓子作り体験などもできる施設です。
現在も県外のお客さんは少ないのですが、昨年と違い、県内の方が贈り物用に桃などを積極的に買うようになり、平年の倍は出ていると星さんは話しています。



明日も、東京・新宿御苑で開催された「GTFグリーンチャレンジデー」からのレポートをお届けします。

2012年10月23日

10月23日「復興への願いを込めた舞・宮城県女川町(2)」

10月13日(土)14日(日)に東京・新宿御苑で開催された市民参加型のお祭り「GTFグリーンチャレンジデー」。
このイベントでは、「祭りの力」という、復興への願いを込めた各地の郷土芸能による催しも行われ、宮城県牡鹿郡女川町からは、伝統の獅子舞が参加。勇ましい獅子とお囃子で会場を沸かせました。


お正月の「春祈祷」などで行われる獅子舞。
女川の獅子舞グループ「女川港まむし」のリーダー・岡裕彦さんにお話しを伺いました。


◆女川の獅子舞
 大漁=幸せ。
 「たんぶつ」唄という歌がある。祝い唄で、大黒様や恵比寿様を家に呼びこんで、その家がお正月を楽しく迎えるように獅子が舞う。まず旦那さんを噛んでご祝儀をもらう。さらに家族を噛む。そこの家が今年も大漁、健康で事故なく漁業の仕事ができるようにと獅子が帰っていく。縁側から出ていくのだが、秋の方向・秋の方角の逆方向に口を開けて、家の厄を噛んで吐き出す。
 最後に「おいどまの歌」(ご縁があったらまたお会いしましょう)という歌を歌って、一軒の獅子舞が終わる。
 1軒40分。それを100軒やる。



女川は各集落の神社に獅子があって、お正月には町じゅうで獅子舞が行われます。
しかし昨年の震災と津波で、岡さんの地域の獅子はすべて流されてしまいました。
現在は偶然残っていた複製品を使い、新たな獅子を作っている最中です。

◆獅子に託す思い
 子どもの頃からみんなやっている。シカゴのブルースマンのようなもの。手取り足取り教えられるものじゃなく染み込んでいる。獅子舞の横にちょこんと座ってずっとみていた子どもが、休憩時間にアピールして、「坊主やってみろ」という風にメンバーになる。
 獅子舞いはソウル。女川人気質、湾岸民族気質を観て頂きたい。女川だけじゃない、他の部落もすべて、津波で被災したところはすべてそう。みなさんから支援を頂いたパワーで復興に臨んでいくという姿勢を観て頂きたい。



明日も、東京・新宿御苑で開催された「GTFグリーンチャレンジデー」からのレポートをお届けします。

2012年10月22日

10月22日「復興への願いを込めた舞・宮城県女川町(1)」

10月13日(土)14日(日)に東京・新宿御苑で開催された市民参加型のお祭り「GTFグリーンチャレンジデー」。
このイベントは環境保全のアクションを応援するものですが、昨年に引き続き被災地復興へのメッセージも込められています。
「祭りの力」という企画では、各地のお祭り・郷土芸能が集まり、復興への願いを込めた舞を披露しました。

その一つが、宮城県・牡鹿半島にある女川町の獅子舞です。
女川は地区ごとに獅子舞があるのですが、今回東京へやってきたのは「女川港まむし」という獅子舞の団体。
リーダーの岡裕彦さんは、昨年3月11日の女川をこのように振り返っています。


◆津波に襲われた女川の様子
 女川の海のすぐ目の前。ひいおじいちゃんが女川で市場を立ち上げ、地元の人たちが持ち寄った材料で作った家なので、家を守れと言われた。私は三代目だが、母と父が亡くなって家が空き家だったので、ライブハウスと喫茶店を海の目の前でやっていた。それを津波に持って行かれた。
 子どもたちは高台の学校なので心配していなかった。向かいには目の不自由なおばちゃんがいて、常日頃からおばちゃんを連れて逃げようと家族ぐるみの付き合いをしていた。おばちゃんは歯医者に行っていて、たまたま早く戻ってきたので、町立病院の高台に逃げた。
 海を見ていたが、25分間は何も変化がなかったが、それを過ぎたら海面がいっきにあふれるようになり、速くなり、金華山沖に白い入道雲のようなものが見えて、それが向かってきた。向かってくるにつれて水の量が速くなり、流れる量が3mくらいの高さになった時に、一気に電信柱が折れて、建物が建物を壊していった。電信柱も折れてくる。
 これはもうだめだということで病院の2階に上がった。一気に病院の裏から水が入ってきて、正面から入ってきた水と駐車場で渦を巻き、400台のクルマが流され、三十数メートルの高さになった。


◆女川の復興への動き
 かなり復興は進んでいる。建物を建てたわけではないが、かさ上げのために、基礎を取り除いて埋めていく作業をやっている。5mの最低ラインを作って、どんどんかさ上げしている状態。
 水産加工業もそうだが、みんなで加工できる工場施設を立ち上げて作ったり、サンマの季節ということで、女川魚市場買受人協同組合があり、氷の生産も始まっている。今年もサンマ日本一を目指して頑張っているので、水産業の復興は早い。
 ただ水産業と漁業者は違い、漁師の復興はまだ。ホタテは早いが、ホヤなどは3年〜5年かかるため、軌道に乗るには時間がかかる。



「サンマの町・女川町」では、今年も水揚げが始まり、10月20日(土)には東京・日比谷公園で女川のサンマ6万匹が無料で振る舞われるイベントもありました。

明日は「女川の獅子舞」についてお送りします。


2012年10月19日

10月19日「クリエイティブディレクター・箭内道彦さん インタビュー(5)」

福島県郡山市出身のクリエイティブディレクター・箭内道彦さん。
“お互いの違うところを尊敬し合い、お互いの同じところを大切にしていきたい”という想いで出来た曲、THE HUMAN BEATSの「Two Shot」。
12月からはこの「Two Shot」をみんなで歌い繋ぎたいと、全国各地をまわるライブツアーがスタートします。

◆風とロック LIVE福島 CARAVAN日本
 いろんなミュージシャンの人たちが福島だけでやっていたイベントが、全国を旅する。福島・郡山からスタート。その後、沖縄、札幌、長崎、神戸、広島、東京、宮城、岩手と旅して、最後は福島に戻ってくる。
 福島の人が「『風とロック』が全国にまわるなら沖縄に行ってみようかな」と旅に出るきっかけになればいいと思うし、(開催地が)避難している方々がいる先なので、会いに行きたいとも思っている。


◆故郷を考える
 旅は第二の故郷を増やしていくことだと思う。何度も足を運んでいくうちに自分の中で育っていく、愛し始める。「故郷交換会」と呼んでいる。いろんな人がいろんな土地を訪れて、違う所、同じ所、それを大切にする始まりの日になったらいいと思う。
 自分の故郷のことを考えるチャンスになる。自分の故郷をちゃんと考えるようになると、相手の故郷のことを自分の故郷のように思うことができ、理解をし合えることが増えるんじゃないかと思う。
 1つ心配なのは東京の方々。「俺は故郷はないよ」とよく言うけど、東京って素晴らしい故郷だと思う。田舎じゃないだけで。東京の人が東京を故郷って思ったら、日本ってもっともっと豊かになる気がする。





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▼「Two Shot」公式Website
http://two-shot.jp/

THE HUMAN BEATS 「Two Shot」
2012.9.19 Release
【CD】タワーレコード限定販売 TRHB-1001 ¥420(税込)  
【配信】PC音楽サイトOTOTOY、音楽配信サービスサイト music.jp

"僕と君のカッコいいとこは なにからなにまで違っている 君と僕を認め合う事さ"
MONGOL800のキヨサク、RHYMESTERのMummy-D、クリエイティブディレクターの箭内道彦、音楽プロデューサーの亀田誠治。
この4人から始まったスペシャル・プロジェクト「THE HUMAN BEATS」が9月19日にリリースする楽曲「Two Shot」のミュージックビデオが完成。
"すべての写真は、この歌で世界をほんのちょっとでも明るくしたいと思う気持ちに賛同してくれた大切な仲間たちからお借りしました。"

この楽曲の販売によって得た利益の全額を、あしなが育英会「あしなが東日本大地震・ 津波遺児募金」へ寄付します。

▼「Two Shot」ミュージックピデオ(YouTubeページにジャンプします)
http://www.youtube.com/watch?v=OU4EXI6Oi3A&feature=youtu.be

▼「風とロック LIVE福島 CARAVAN日本」公式Website
http://kazetorockcaravan.jp/

2012年10月18日

10月18日「クリエイティブディレクター・箭内道彦さん インタビュー(4)」

福島県郡山市出身のクリエイティブディレクター・箭内道彦さん。
箭内さんが現在、被災地の復興支援として活動しているのが「THE HUMAN BEATS」というプロジェクト。
その第一弾として出来た曲が「Two Shot」です。
MONGOL800のキヨサクさん、RHYMESTERのMummy-Dさん、音楽プロデューサーの亀田誠治さん、そして箭内道彦さんの4人が集まりました。

◆THE HUMAN BEATSのメンバー
 亀田誠治さんに、この「Two Shot」のことを最初に相談した。誰に歌ってもらおうかという話になった時に、亀田さんがMONGOL800のキヨサクさんに聞いてみることになった。それからMummy-Dさんがラップを入れると後から言ってくれて、素晴らしいラップが入ることになった。
 昨年活動した「猪苗代湖ズ」は福島の歌、福島出身の4人だったが、“みんなの問題”になっていかないといけないなと思った。今回は出身もジャンルもバラバラなメンバーが1つのフレームに入ってくる形が大事。だから4人組のバンドではない。AKB48より大きくて、誰がこれを歌ってもいい、誰がこれを思ってもいい、そんなふうにしたい。始まりの4人なだけ。


◆「Two Shot」のミュージックビデオには、さまざまな方の“2Shot”写真が
 66組が写真を提供してくれた。
 僕は「2012年問題」と呼んでいたが、2012年3月12日から世の中が切り替わって、1年間は東日本のことを心配していたけど、それぞれの暮らしもあるし、いろんな立場を横断したり事務所を超えて何かをすることが少し難しくなった気がしていた。でもこれだけたくさんの人が協力・賛同してくれて、みんな何かを続けていかなければ、優しさと強さで思ってくれてたんだなと思った。
 復興の支援は、いつデビューしてもいいと思う。今まで何もしてなかったけど3年目に何かし始めたとすると、その方が支援が継続していく気がする。10年後でもいい、もちろん今だとうれしい。いろんな人が繋がっていってくれたらいいなと思う。



明日もクリエイティブディレクター・箭内道彦さんのインタビューをお届けします。


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▼「Two Shot」公式Website
http://two-shot.jp/

THE HUMAN BEATS 「Two Shot」
2012.9.19 Release
【CD】タワーレコード限定販売 TRHB-1001 ¥420(税込)  
【配信】PC音楽サイトOTOTOY、音楽配信サービスサイト music.jp

"僕と君のカッコいいとこは なにからなにまで違っている 君と僕を認め合う事さ"
MONGOL800のキヨサク、RHYMESTERのMummy-D、クリエイティブディレクターの箭内道彦、音楽プロデューサーの亀田誠治。
この4人から始まったスペシャル・プロジェクト「THE HUMAN BEATS」が9月19日にリリースする楽曲「Two Shot」のミュージックビデオが完成。
"すべての写真は、この歌で世界をほんのちょっとでも明るくしたいと思う気持ちに賛同してくれた大切な仲間たちからお借りしました。"

この楽曲の販売によって得た利益の全額を、あしなが育英会「あしなが東日本大地震・ 津波遺児募金」へ寄付します。

▼「Two Shot」ミュージックピデオ(YouTubeページにジャンプします)
http://www.youtube.com/watch?v=OU4EXI6Oi3A&feature=youtu.be

▼「風とロック LIVE福島 CARAVAN日本」公式Website
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2012年10月17日

10月17日「クリエイティブディレクター・箭内道彦さん インタビュー(3)」

福島県郡山市出身のクリエイティブディレクター・箭内道彦さん。
現在、被災地の復興支援として活動を進めているのが「THE HUMAN BEATS」というプロジェクトです。
その第一弾として、MONGOL800のキヨサクさん、RHYMESTERのMummy-Dさん、音楽プロデューサーの亀田誠治さん、そして箭内道彦さんの4人による楽曲「Two Shot」をリリースしました。

震災後、地元福島に帰ることが多くなったという箭内さんですが、震災から1年7ヶ月。
だんだんと問題が変化してきていると感じているようです。


◆人の心や考えがバラバラになってしまった
 時間が経てば人は元気になっていくかというと、そうでもない人もいる。時間が経てば経つほど苦しくなる人もいる。
 いろんな立場の人が出てくる。避難をする人と、福島に残る人。そこの人と人の間に溝が出来ていることに段々気付き始めた。放射線の1つ大きな罪は、人の心や考えをバラバラにしてしまったことだと思う。あの目に見えない物質をどう考えるか、ってところで、人の敵は人ではないのに、人と人がすごく相手を否定し合うようなことが起きてきている。なんとかならないものかと今でもすごく悩んでいる。
 そして、THE HUMAN BEATS の「Two Shot」ができた。音楽にどれだけのことができるのかわからないが、歌詞に出てくる「君と僕の違うところを尊敬し合いたい/僕と君の
同じところを大切にしていたい」というスタンスに一度みんなが立たないと、福島の問題だけじゃなく、外交の問題もそうだが、平行線のままなんじゃないかなと思う。



明日もクリエイティブディレクター・箭内道彦さんのインタビューをお届けします。


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▼「Two Shot」公式Website
http://two-shot.jp/

THE HUMAN BEATS 「Two Shot」
2012.9.19 Release
【CD】タワーレコード限定販売 TRHB-1001 ¥420(税込)  
【配信】PC音楽サイトOTOTOY、音楽配信サービスサイト music.jp

"僕と君のカッコいいとこは なにからなにまで違っている 君と僕を認め合う事さ"
MONGOL800のキヨサク、RHYMESTERのMummy-D、クリエイティブディレクターの箭内道彦、音楽プロデューサーの亀田誠治。
この4人から始まったスペシャル・プロジェクト「THE HUMAN BEATS」が9月19日にリリースする楽曲「Two Shot」のミュージックビデオが完成。
"すべての写真は、この歌で世界をほんのちょっとでも明るくしたいと思う気持ちに賛同してくれた大切な仲間たちからお借りしました。"

この楽曲の販売によって得た利益の全額を、あしなが育英会「あしなが東日本大地震・ 津波遺児募金」へ寄付します。

▼「Two Shot」ミュージックピデオ(YouTubeページにジャンプします)
http://www.youtube.com/watch?v=OU4EXI6Oi3A&feature=youtu.be

▼「風とロック LIVE福島 CARAVAN日本」公式Website
http://kazetorockcaravan.jp/

2012年10月16日

10月16日「クリエイティブディレクター・箭内道彦さん インタビュー(2)」

福島県郡山市出身のクリエイティブディレクター・箭内道彦さん。
現在、被災地の復興支援として活動を進めているのが「THE HUMAN BEATS」というプロジェクトです。
その第一弾として、MONGOL800のキヨサクさん、RHYMESTERのMummy-Dさん、音楽プロデューサーの亀田誠治さん、そして箭内道彦さんの4人による楽曲「Two Shot」をリリースしました。

このプロジェクト名「THE HUMAN BEATS」は、今回の楽曲のために用意されたものではありません。
震災直後から現在も続くWebサイトの名前が「THE HUMAN BEATS」でした。

◆「THE HUMAN BEATS」で共有した思い
 メッセージサイトを震災直後・2011年3月13日に立ち上げた。インターネットが使えない状況だったので、まずネットで“福島の人たちへの声”を集めて、それを避難所などに壁新聞のように貼りだしていった。そこでもらった“福島から全国への声”を、そのサイトに載せていた。アナログとデジタルの2wayで、みんなの声を集めるサイトだった。
 あの時、全国の人の中に、心配だけど何をしたらいいかわからないという「無力感」というものがあって、その無力感を放置しちゃうと危ないなと思った。だから無力感を感じているのは僕らも一緒だよと、そのサイトの中で共有できたらという想いもあった。
 あの頃ミュージシャンが参っていた。ライブは中止だし、今は音楽より水や電気が欲しいという時に、若い人も音楽を作って歌う人も、同じ思いを口に出し合えたのは大きかったと思う。
 1つのことが役割の全てを網羅することはできないが、みんなで手分けして、その中では何かしら小さな役割を果たせたんじゃないかと思う。



明日もクリエイティブディレクター・箭内道彦さんのインタビューをお届けします。


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▼「Two Shot」公式Website
http://two-shot.jp/

THE HUMAN BEATS 「Two Shot」
2012.9.19 Release
【CD】タワーレコード限定販売 TRHB-1001 ¥420(税込)  
【配信】PC音楽サイトOTOTOY、音楽配信サービスサイト music.jp

"僕と君のカッコいいとこは なにからなにまで違っている 君と僕を認め合う事さ"
MONGOL800のキヨサク、RHYMESTERのMummy-D、クリエイティブディレクターの箭内道彦、音楽プロデューサーの亀田誠治。
この4人から始まったスペシャル・プロジェクト「THE HUMAN BEATS」が9月19日にリリースする楽曲「Two Shot」のミュージックビデオが完成。
"すべての写真は、この歌で世界をほんのちょっとでも明るくしたいと思う気持ちに賛同してくれた大切な仲間たちからお借りしました。"

この楽曲の販売によって得た利益の全額を、あしなが育英会「あしなが東日本大地震・ 津波遺児募金」へ寄付します。

▼「Two Shot」ミュージックピデオ(YouTubeページにジャンプします)
http://www.youtube.com/watch?v=OU4EXI6Oi3A&feature=youtu.be

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2012年10月15日

10月15日「クリエイティブディレクター・箭内道彦さん インタビュー(1)」

福島出身のアーティストによるバンド「猪苗代湖ズ」でチャリティソングを作り、昨年は6日間に渡る福島でのライブイベントも実施した、クリエイティブディレクター・箭内道彦さん。
現在、新たな復興支援プロジェクトを立ち上げ、活動をしています。

◆福島県郡山市出身の箭内道彦さん
 震災の5年位前から頻繁に帰るようになった。福島と「和解」した。ずっと帰りづらかった。
 福島は「嫌い」だった。ある日「嫌い」ということを口にしたら、逆に福島との関係が始まった。自分の引っ込み思案や人の顔色を見るところを、それまでずっと福島のせいにしていた。県民性なんだと思っていた。でもそれは自分のせいだった。福島のせいにしていたということを、20年ぐらいかけて気付いた。
 「福島のどこが嫌いなのかを詳しく教えて」という仕事(講演や取材など)が増えていった。


◆福島の幅広さ
 福島は「浜通り」「中通り」「会津」の3地域に分けられる。ひと括りにできない。気質も違っている。
 「会津」は会津藩があったところ。頑固で情が熱くて、無口で優しい人が多い。
 「浜通り」は海があるので垢抜けている。「東北の湘南」と言われている。
 郡山出身の僕(箭内さん)は「中通り」なので、両方にコンプレックスを感じていた。どっち付かずで様子を見ている優柔不断な感じが中通りだと、僕は捉えている。


◆今は連帯感がある
 東京で「どこ出身?」と聞かれたら、僕は「郡山」と答えていたし、会津の人は「会津」と答えていた。
 今は「みんなでがんばっていこう」という連帯感がある。



明日もクリエイティブディレクター・箭内道彦さんのインタビューをお届けします。


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▼「Two Shot」公式Website
http://two-shot.jp/

THE HUMAN BEATS 「Two Shot」
2012.9.19 Release
【CD】タワーレコード限定販売 TRHB-1001 ¥420(税込)  
【配信】PC音楽サイトOTOTOY、音楽配信サービスサイト music.jp

"僕と君のカッコいいとこは なにからなにまで違っている 君と僕を認め合う事さ"
MONGOL800のキヨサク、RHYMESTERのMummy-D、クリエイティブディレクターの箭内道彦、音楽プロデューサーの亀田誠治。
この4人から始まったスペシャル・プロジェクト「THE HUMAN BEATS」が9月19日にリリースする楽曲「Two Shot」のミュージックビデオが完成。
"すべての写真は、この歌で世界をほんのちょっとでも明るくしたいと思う気持ちに賛同してくれた大切な仲間たちからお借りしました。"

この楽曲の販売によって得た利益の全額を、あしなが育英会「あしなが東日本大地震・ 津波遺児募金」へ寄付します。

▼「Two Shot」ミュージックピデオ(YouTubeページにジャンプします)
http://www.youtube.com/watch?v=OU4EXI6Oi3A&feature=youtu.be

▼「風とロック LIVE福島 CARAVAN日本」公式Website
http://kazetorockcaravan.jp/

2012年10月12日

10月12日「フタバから遠く離れて - 舩橋淳監督インタビュー(5)」

福島県双葉町は町全体が警戒区域に指定され、約7000人の町民全員が今も全国各地で避難生活を余儀なくされています。
その内180人余りが避難生活を送る埼玉県加須市の旧騎西高校の日常を捉えたドキュメンタリー映画『フタバから遠く離れて』は、今年のベルリン国際映画祭でも上映されました。

舩橋淳監督にお話しを伺いました。

◆ベルリン国際映画祭での反応
 ドイツはメルケル首相が舵を切って脱原発を決定したばかりだった。日本は、広島・長崎に原爆が投下され、今回福島の事故があったのだから、当然脱原発をしているのだと思ったら全然違う。それに対し、「なんでなんだ」という質問がたくさんきた。まだ加須の避難所に暮らしているということに、びっくりしていた。日本政府は何をやっているんだと言われた。
 「いつまでも待たせていてもいい」という、日本人の変な感覚がお上にはある。時間が掛かれば掛かるほど、疲弊して疲れてきて、経済的にも苦しくなるのは、避難している方。フェアに考えれば、できるだけ迅速に次の人生のスタートに立たせてあげるのが、加害者の責任のはず。


◆無視できない原発事故の現実
 「証明責任」という言葉があるが、被害を受けたほうが「これだけ被害を受けたんですよ」と証明すると、「仕方ねえな」と金をもらえるシステム。水俣病などもみんなこれ。証明責任は被害者でなく加害者にあるべき。損害を与えたほうが被害を証明して、損害額を示すべき。
 今回の原発事故に関しては、国は何とか値切ろうとしている。本来は東電の首根っこをつかんででも、「ちゃんと払え」と言わなきゃいけないのに、やっぱり東電をつぶしたらやばいと、一緒に値切ろうと考えている。僕はこれを無視できないと思って、この映画を作った。双葉町と同じような立場で、目の前の交付金、目の前の雇用があるから再稼働しなきゃいけないと思っている大飯町や玄海町などの原子力立地市町村で上映会をしたいと思っている。
 「うちの町で上映会を開きたい」という方は、ぜひ連絡をください。



映画『フタバから遠く離れて』は、10月13日(土)から東京「オーディトリウム渋谷」で公開され、その後全国で順次上映されます。

【ドキュメンタリー映画『フタバから遠く離れて』 Official Website】


(c)2012 Documentary Japan, Big River Films

2012年10月11日

10月11日「フタバから遠く離れて - 舩橋淳監督インタビュー(4)」

福島県双葉町は町全体が警戒区域に指定され、約7000人の町民全員が今も全国各地で避難生活を余儀なくされています。
双葉町・井戸川克隆町長は、町民がコミュニティごとにまとまって避難生活を送れるよう奔走してきましたが、なかなか実現できていません。

町役場は埼玉県加須市の旧騎西高校にありますが、町民の避難先は現在、全国40都道府県に及んでいます。

ドキュメンタリー映画『フタバから遠く離れて』の舩橋淳監督は、ばらばらになった町民に「内部対立がある」と話しています。

◆町民の摩擦
 埼玉に避難している双葉町民は1千何百人。福島県内に3500人ぐらい。その他の地域が2400人くらい。人口約7000人のうち、半分が福島県内。もう半分が全国に散らばっている。そうすると、福島県内で「こうしてほしい」ということと、全国で「こうしてほしい」ということが合わない。
 いわき市を中心に、福島県内に避難している双葉町民は、「町役場は県内に戻せ」と言っているし、埼玉県に避難している双葉町民は、「なぜ被ばくの危険がある県内に戻すんだ」という意見もある。そこでも対立が起きている。溝は深い。
 また埼玉県に住む町民も、1千何百人のほとんどは、避難所の近くにアパートを借りて住むなどしている。役場が近くにあるから、手続きなどなにかと楽。ただ、学校の教室にはさすがにもう住めないと、周りにアパートを借りたりするケースが多い。



映画『フタバから遠く離れて』には、井戸川町長へのインタビューも収められています。
町の財政難を背景に、2011年4月から福島第一原発の7号機、8号機の建設に着手する予定だったことも明かされています。

◆町長との関係の変化
 この1年は、僕が町長に少しずつ認めてもらった1年でもある。最初は話してもくれなかった。メディアと言ってもフリーランスで、どこの馬の骨かもわからないし、つっぱねられた。
 通っているうちに、「お前また来てるのか」という感じで話をしてくれるようになって、原発とともに町が歩んできた歴史を語ってくれた。最後には原発を町に誘致したのは失敗だったと話してくれた。
 「原発の誘致は失敗」と市長が言ったというのは、なかなかないと思う。映画を撮りながら少しずつ、「こいつだったら話を聞いてやるか」という形で受け入れていただいたのではないかと思う。



先月には旧騎西高校の弁当が有料化されました。
これも、町民の間の不公平感をなくすためということで、町民との溝がここにもあります。
また、井戸川町長は先週、役場の機能を年度内に福島県いわき市に移転する意向を正式に表明しています。


明日も舩橋敦監督のインタビューをお届けします。


【ドキュメンタリー映画『フタバから遠く離れて』 Official Website】



(c)2012 Documentary Japan, Big River Films

2012年10月10日

10月10日「フタバから遠く離れて - 舩橋淳監督インタビュー(3)」

福島県双葉町は町全体が警戒区域に指定され、約7000人の町民全員が今も全国各地で避難生活を余儀なくされています。
中でも多くの町民が避難しているのが、埼玉県加須市の避難所、旧騎西高校。
ドキュメンタリー映画『フタバから遠く離れて』の舩橋淳監督は、その日常を9ヶ月に渡って記録しました。

◆撮影の過程で知り合った親子
 親子は双葉町の海岸近くの中野地区に住んでいたが、津波でお母さんが流されてしまった。
 旧騎西高校に避難している時にいろいろとお話を聞くようになり、双葉への一時帰宅にも付いて行った。
 一家族あたり2人しか入れないので、父親と息子さん二人で入り、僕は同行できなかったが、彼らがその様子を家庭用ビデオで撮ってきてくれた。その様子がすごかった。
 自分のお母さんが亡くなった場所に、震災後初めて訪れるシーン。自分の家の跡は土台だけで何もなく、そこに花を供えてくる様子。「なんもねえ」という言葉。自分は何も言葉が出なかった。


◆親子は現在、いわき市で生活
 家の災害保険が下りたらしく、今はいわき市に中古の家を買って住んでいる。
 この親子の息子が自分に年齢が近く、いろいろ話をするのだが、「お父さんがかわいそう」だと言っている。
 ずっと農作業をやってきて、奥さんを津波で流されて、自分の農耕器具も家も流された。62〜3の年齢で自分の持っていたものを全て奪われた。「引退だ」と言っていた。
 ずっと農業をやってきて、いきなり全部リセットしろと言われても、そう簡単にはできない。



明日も舩橋敦監督のインタビューをお届けします。


【ドキュメンタリー映画『フタバから遠く離れて』 Official Website】



(c)2012 Documentary Japan, Big River Films

2012年10月9日

10月9日「フタバから遠く離れて - 舩橋淳監督インタビュー(2)」

福島県双葉町は町全体が警戒区域に指定され、約7000人の町民全員が今も全国各地で避難生活を余儀なくされています。
中でも多くの町民が避難しているのが、埼玉県加須市の避難所。
ドキュメンタリー映画『フタバから遠く離れて』の舩橋淳監督は、原発事故後9ヶ月に渡り、この避難所に足しげく通い、町民たちの生活の様子をフィルムに記録しました。

◆映画に映しだされる日常の風景
 観る人には、避難所で生活しているように感じてほしいと思った。
 避難所で起きて、ラジオ体操をして、弁当を食べて、そこら辺を散歩して、また弁当食べて、昼からやることないからぶらぶらして、テレビ見て、また夕飯の弁当を食べて、テレビ見て寝る。ずーっと繰り返している感覚を持って欲しいと思った。
 自分の家じゃなく、共同生活が続いていく。双葉の人たちは、自分が持っている土地や財産、家、車があるのに手が届かない感覚。
 日本の災害対策、避難や公害問題に対する国の施策は本当に卑怯で、ずっと先延ばしにして、向こうが余裕がない状態に持っていって、兵糧攻めにして、そうして最後に線を引く。これだったら賠償しますよと。物理的、心理的、金銭的に余裕が無くなると、何でもいいから頂戴、という状態になる。そこで手打ちになる。そういう風に持っていく。
 意図的で無くても、結果がそうであって、そうやって無視されていく時間そのものの重みを描くには、春も夏も秋も、そこで生活している感覚を観ている人が我が事として感じる感覚が大切なんじゃないかと思った。




明日も舩橋敦監督のインタビューをお届けします。


【ドキュメンタリー映画『フタバから遠く離れて』 Official Website】



(c)2012 Documentary Japan, Big River Films

2012年10月8日

10月8日「フタバから遠く離れて - 舩橋淳監督インタビュー(1)」

福島県双葉町は、福島第一原発事故により町全体が警戒区域に指定され、ふるさとを離れて暮らすことを余儀なくされています。
中でも多くの町民が避難したのが、埼玉県加須市の廃校。
震災当初、約1500人が集団で避難し、180人余りの町民(10月1日現在)がここで生活を続けています。

ドキュメンタリー映画『フタバから遠く離れて』の舩橋淳監督は、この避難所を9ヶ月にわたり丹念に取材しました。

◆取材を重ね、見えてくるもの
 最初は、カメラも何も持たずに手ぶらで行った。埼玉県・旧騎西高校に福島県双葉郡双葉町という、原発のお膝元にある街が避難してきた。しかも最も遠くに避難してきた街だと聞いた。
 マスコミは行内は立ち入り禁止で、外の喫煙所などで、双葉の人たちから話を聞いた。「うちの部屋に来ていいよ」と言ってくれる方がいて、部屋で話を聴いた。それも2ヶ月ちょっと経ってからようやく。それまでは毎日通って9ヶ月間撮影を続けた。
 今でも続編として撮影を続けている。時間をかけて、定点観測で避難所を見つめていくということをしたいと思った。
 それは、放射能の本質的な性質である「見えない」「臭わない」「感じない」という性質に起因している。遠く離れなければいけない。
 『フタバから遠く離れて』というタイトルにあるように、実感が湧かないものだから、思いっきり遠く離れなければいけない。
 双葉町をじっと見つめることが、放射能について描くことになるんじゃないか。遠く離れて、埼玉の田んぼの真ん中の廃校を描くことで、何か見えてくるんじゃないかと思った。




明日も舩橋敦監督のインタビューをお届けします。


【ドキュメンタリー映画『フタバから遠く離れて』 Official Website】


(c)2012 Documentary Japan, Big River Films

2012年10月5日

10月5日「海岸線は語る - 松本健一さんインタビュー(5)」

日本の海岸線の歴史に詳しい、麗澤大学教授・松本健一さん。
東日本大震災当時は内閣官房参与を務め、直後、被災地の「復興ビジョン」を当時の菅総理に提出しました。

日本の海岸線の歴史を丹念に研究してきた松本さんは、震災後改めて、東北3県の海岸線を歩いて回りました。

◆東北の復興と防災
 復興構想会議で言われていたのは、10.5mの防潮堤、防波堤でもだめなら、20mにしようということ。20mというのは10階建てのビルに相当する高さ。こんなものが海辺にあって、海に暮らしていると言えるのか。今回は40mの津波もあったのに、20mの防潮堤を作ってもだめだということが、地元の人にはわかっている。
 岩手県宮古市田老地区の人も「10.5mでいい」、大槌町などは「10mもいらないのでは」、むしろそれより自然の力で巨大津波は起こりうるということを踏まえて、早く逃げる、危険のあるところには住まない、小学校などは山の上に移していきたいと考えている。防潮堤の高さも今まで通りでいいという考え方を出している。
 でも中には、この際今年3200億円くらい予算があるから、それを使って20mクラスの防潮堤を作っておこうという議員もいる。それは津波の教訓から学んでいない。
 海のそばに住んで、海で生活をしている、産業として漁業をしている民族の長い歴史やそこでの暮らし方を、もう少し考える街づくりを、全国で考えたほうがいい。


◆全国にある「埋め立て地」についての警鐘
 リアス式海岸と平らな平野では、復興の形が全く違う。場所によっては石巻のように1m以上陥没しているところがある。
 現在でも高潮、大潮のときに水が入り込んでしまう。そういうところはだいたい埋め立てたところ。
 東北3県だけでなく日本全国で、埋め立てて漁港、住宅地、田畑を作ってきた。こういう埋め立て地は、ほとんど液状化現象が起きる。東京湾全域に問題がある。
 津波が何mの高さで襲ってくる、ということだけでなく、「国土の形状を変えたことにより引き受けなければならないリスク」というものもあるということを、考えなければいけない。



【松本健一さんの著書『海岸線は語る』についてはこちらをご覧ください】

2012年10月4日

10月4日「海岸線は語る - 松本健一さんインタビュー(4)」

日本の海岸線の歴史に詳しい、麗澤大学教授・松本健一さん。
東日本大震災当時は内閣官房参与を務め、直後、被災地の「復興ビジョン」を当時の菅総理に提出しました。
また、地域に即した「復興のかたち」を、著書『海岸線は語る』でも示しています。

◆広い範囲に断崖絶壁が続く福島県
 断崖絶壁が続くということは、海辺まで田んぼ、畑がないということ。要するに農業ができない。断崖絶壁だから港が作れないので、漁業もできない。農業と漁業ができないから、人が住まない地域だった。
 過疎化が進む中、なんとか地域を復興させなければいけないということで、原発を持ってくるということになった。しかし、女川や福島第二の場合は、30〜50mの断崖の上に建屋を建設したが、福島第一の場合は、30mの断崖の上に立てるのではなく、25m削って、5mのところに建ててしまった。コストを優先した。
 削るということではコストがかかるが、冷却には海水を使う。海水を高い30mにところに汲み上げたり、鉄塔を立てたり、物資を運んだりするには、断崖の上ではコストがかかる。5mの方がコストがかからない。経済原理。


◆原発周辺地域の除染と今後
 チェルノブイリの原発事故から今年で26年が経つ。除染なんてできないので、そこには住ませないという形を採っている。
 そういう経験を学ぶと、基本的に放射性物質を除染するということは無理なのではないか。特に福島のように県土面積の75%ぐらいが森林だと、小学校の庭や幼稚園の屋根とか、そういうところを水で流せば何とかなるという発想は、海を忘れた日本人の欠陥が出ているのではないか。
 私は震災当初から、福島の原発事故にあった方たちは当面福島には住めないと思っていた。例えば、酪農をやっていた人は酪農がやれるような土地まで選定して、村や街全体が移住する復興プランを提出したが、なかなかそれが進まなかった。



明日も松本健一さんのインタビューをお届けします。


【松本健一さんの著書『海岸線は語る』についてはこちらをご覧ください】

2012年10月3日

10月3日「海岸線は語る - 松本健一さんインタビュー(3)」

日本の海岸線の歴史に詳しい、麗澤大学教授・松本健一さん。
東日本大震災当時は内閣官房参与を務め、直後、被災地の「復興ビジョン」を当時の菅総理に提出しました。

震災後、東北3県を歩き直した松本さんは、地域によって地形や歴史が異なることを改めて確認。
人々の暮らしや復興の形も様々だということを認識したそうです。

◆宮城県の沿岸部を中心に広がる「仙台平野」
 仙台平野は内陸に4〜5kmに渡って平地が続いている。海抜1.5mも無いくらいのところだが、ここがすべて津波にさらわれてしまった。ここはもともと湿地で、海辺の葦が生えたような泥沼な状態だったところを、できるだけ堅い土地に干拓して広げていった水田。今ではイチゴを栽培するような近郊農業になっていた。
 仙台空港の辺りは長いこと水浸しになって、再び葦が生えている状況を何回か目にした。


◆「生業」のもとで
 閖上という綺麗な松原が続いている土地は、伊達正宗の指令によって、コメができる状態にしていったところ。ずっと平野が続いているところで、平野の手前に松原をつくって、防潮林、防砂林、防風林にした。その防風林の松原の先に、3m位の土手が作られていただけ。これを津波が乗り越えていったが、松原自体は半分位残った。
 陸前高田の7万本の松原はほとんど全部流されたのに、陸前高田と閖上で、どうしてこういう違いが起こったのか。
 仙台平野では、平野の中に貞山堀を作った。堀を作ると一カ所に水が集まる。泥沼状態のところに水路を作ると、両側の土地は堅くなる。そこで人々は水田や畑や、住居を作ってきた。
 そこをどうやって復興するのか。やはり内陸部分に家を建て直すとか、水田を復興するとか。それが彼らの「生業」だから、ここで食べていくという生き方をするしかない。



明日も松本健一さんのインタビューをお届けします。


【松本健一さんの著書『海岸線は語る』についてはこちらをご覧ください】

2012年10月2日

10月2日「海岸線は語る - 松本健一さんインタビュー(2)」

東日本大震災当時、内閣官房参与を務めていた麗澤大学教授・松本健一さん。
震災当日は首相官邸にいたといいます。
混乱の中で、復興の全体像を誰も描いていないことに不安を覚えた松本さんは、震災直後、被災地の「復興ビジョン」を、当時の菅総理に提出。
また、東北3県を歩き直して、海岸線の歴史と復興のありかたを著書『海岸線は語る』にまとめました。

◆岩手県の「リアス式海岸」
 「リアス式海岸」とはスペイン語で「潮入川」。大潮や高潮のときは、潮が川の中を上っていく。
 岩手から仙台の北側、塩竈や石巻はどちらかというとリアス式海岸で、谷川から水や砂が流れてきて、それが平野を作っている。平野が大きくなっているのが、例えば石巻。


◆津波で被害を受けた東北の海岸線
 津波によって形状が変わったが、元の形に戻ったとも言える。
 江戸時代、海岸線を干拓して畑を作れるように、土地を改良した。ところが今回の津波で1.5mぐらい陥没したり、流されて家が無くなってしまう。水浸しになってしまったままのところもある。「ここはもともと海だったんだな」という感じ。
 そういう意味では、ここ150年くらいにおいて、日本人が必死に埋め立て地を作って、田畑や漁港を作ってきたのが、自然の形状に戻ったとも言える。
 そこに再び漁港や水産物加工場を作るのは、大規模なお金が必要だから、国が応援をしないといけない。それは国の仕事。でも村は、国が作ったわけではない。そこの人々が自分達の共同体を作るという形で村を作ってきた。
 だから、どういう風に我々の村はこの町を作ってきたのかを考え直せば、自分たちで復興に動きだせるということにもなる。
 (例えば)海岸線近くには、当面は人が住まないことにして、加工場や駐車場を作る。江戸時代なら、高台に住んだら海辺まで1時間も2時間もかかったが、いまなら車で3〜5分で通える。自分達の暮らし方は変えずに津波にどう対処するかが大事。



明日も松本健一さんのインタビューをお届けします。


【松本健一さんの著書『海岸線は語る』についてはこちらをご覧ください】

2012年10月1日

10月1日「海岸線は語る - 松本健一さんインタビュー(1)」

東日本大震災当時、内閣官房参与を務めていた歴史家/麗澤大学教授・松本健一さん。
震災直後にいち早く被災地の「復興ビジョン」を当時の菅総理に提出しました。
また東北3県を歩き直し、歴史的な観点も踏まえながら考えた「復興のかたち」を著書『海岸線は語る』にまとめました。

松本さんによると、大きな津波の被害を受けた東北3県も、地域によって地形はさまざま。
被害も、復興のかたちも、それぞれ大きく異なるといいます。

◆地域によって異なる違い
 東北の海岸線は一般的に「リアス式海岸」と呼ばれるが、実際にはリアス式海岸の岩手と、仙台平野の宮城と、断崖絶壁が続く福島と、それぞれ違いがある。
 仙台平野は内陸4〜5km、津波にあらわれた。一方リアス式海岸の場合は、谷川に沿って遡上していく。内陸部というより狭い谷川の周りを津波がなぎ倒していった。津波の被害も一つ一つ、形が違う。
 そうすると、そこの生業も変わってくるし、復興の形も変わってくる。
 典型的なのが、今年4月に行った気仙沼と陸前高田。陸前高田は砂浜と7万本の松原が観光地化していたが、震災後は砂浜が全部失われ、奇跡の一本松も枯れて残っていない。観光の目玉が無くなって、なかなか復興は大変だと感じた。一方気仙沼は、遠洋漁業で、マグロなどを獲りに外に行っているので、船もあまりやられていない。海も濁ったが、海はあり魚も戻ってきているから、すぐ復活できる。地域によって違いがある。



明日も松本健一さんのインタビューをお届けします。


【松本健一さんの著書『海岸線は語る』についてはこちらをご覧ください】

パーソナリティ:中西哲生・高橋万里恵

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