2012年12月31日

12月31日 特別番組『LOVE&HOPE 〜support our kids special』後編


松島の南、海に突き出した小さな町、宮城県七ヶ浜町。高校1年生・中村あかりさんは、この町で暮らしています。

父親の勝義さんは自衛官。震災後は、被災地で支援活動に従事していました。母親の晴美さんは、ヨガのインストラクター。そしてその子どもが、長女・明日香さん、長男・元(はじめ)くん、末っ子のあかりさんの三人きょうだい。

中村家は、自宅そのものの被害は免れたのですが、長女・明日香さんは外出先で津波に遭い、帰らぬ人に。お母さんの晴美さんは、明日香さんについて、こんな想い出を話してくれました。

◆明日香さんと、あかりさん
明日香はお菓子を作るのが好きで、パティシエが夢だった。バレンタインには、あかりと2人でお菓子作りをしていたのを覚えている。すごくいい匂いで、その姿を見て幸せだった。明日香はガトーショコラを彼にプレゼントして、カップのチョコを私たちにプレゼントしてくれた。仲の良い姉妹だと思っていた。あかりは表面に出さない子。涙ぐんでいたのもお葬式の時と安置所に通う時だけだったけど、今にして思うと本当は辛かったのだろうと思う。


母親・晴美さんは、あかりさんが震災後、すごく甘えるようになってきたと話しています。

◆あかりさんの変化
あかりはすごくベタベタしてくる。もともと甘える子だったが、私の上に乗っかってきたりマッサージしてとねだって来たり。そういうのは全部受け入れてあげようと思った。時折、すごくネガティブな言葉をぶつけてくることもある。「死にたい」とか「お姉じゃなくて私が死ねばよかった」とか。それは流して聴いてあげるのが役割だと思っている。あかりは幼稚園の頃から頑張りすぎるし、気を張りすぎる子だった。これは明日香の反面教師でもある。明日香は高校を中退し、親にも強く反発する時期があった。それを見てあかりは育ってきたし、その後、姉が優しくなったのも見ている。明日香が辛い時期をのり越えて「ありがとう」を言えるようになった。「ありがとう」が言えない子だった。大人になり、今までの分を取り戻すように「ありがとう」を何度も私にいった。そんな矢先に震災が起きた。


晴美さんは、「あかりは明日香のぶんも私に甘えていたのかも知れない」と感じています。

亡くなった明日香さんは当時、思い悩む時期を乗り越えて、ようやく自分の夢を叶えるため、2011年の春に上京する予定でした。すでに父親・勝義さんと2人で独り暮らしをする部屋の下見を済ませたばかりだったそうです。

そして、震災の翌年。思いがけないものが、中村家に届きます。

◆5年後に届いた手紙
晴海さん「この手紙は、明日香が中学3年生のときに先生が生徒たちに書かせた手紙。明日香が成人する時に投函する予定だったが、先生もためらったようで、手紙とともに同封してくれた。」
父・勝義さん「遅ればせながら夢を実現しようとしていた。もし、地震が起きるのがあと1週間遅れていたら、明日香は東京の国立から専門学校に通っていた。本当に1週間の差…」


『5年後の私へ』と題されたこの手紙は、15歳の明日香さんが、当時の悩みやパティシエになるという将来の夢を、20歳の自分に託すメッセージが綴られていました。

長女を失ったこと。いま中村家はそれぞれの受け止め方で、喪失と向き合おうとしています。

◆明日香さんが残したもの
あかりさん「最初は信じられなかった。死んだ姉をみても、本当に姉なのかと思った。でも何日か経って、姉がいない、声が聞こえないことを考え実感した。姉はいないと私は吹っ切って、だからお墓にもいかない。いなくなって家族の大切さを感じられた。姉は料理に興味がありお菓子作りが好きだったけど、上京する1週間前に震災があって、それができなかった。だからやり残すのはいや。そう思って(音楽関係の学校で)やりたかった音楽を始めた。将来はっきりつかめていないが、来年からはボーカルを頑張りたい。今年はこれを頑張るぞという感じで思っている。」

晴美さん「お別れしてしまったが、いまは受け入れられる。我が家の先生のような存在が明日香。いなくても今も色んなことを子どもたちにも伝えてくれている気がする。」


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七ヶ浜の中村あかりさんは、音楽関係の学校でギターの勉強をしていますが、来年の春からは、ボーカルの勉強もしたいと話しています。やりたいことを“やり残さない”ために。

そして蔵王町の中津留裕人くんは、来年春には大学生として生まれて初めての独り暮らしへ。ご両親はちょっとさびしそうでしたが、末っ子の成長を本当に嬉しそうに語っていました。

2013年の春、震災3年目を迎える被災地で、
2人の高校生は、また一歩、大人に近づいていきます。


※『サポートアワーキッズ』は、来年度も、被災地の子どもたちを海外語学留学に送り出す予定です。詳しい情報は、サポートアワーキッズのウェブサイトをご覧ください。

2012年12月31日

12月31日 特別番組『LOVE&HOPE 〜support our kids special』前編



特別番組『LOVE&HOPE 〜support our kids special』 前半

震災から1年9か月。被災者は今も、親しい人を失った現実や環境の変化と懸命に向き合いながら、日々を送っています。この特別番組は、被災地の2組の家族をみつめ、2人の高校生が成長していく姿と、支えあう家族の想いをお伝えします。

LOVE&HOPEでは、東日本大震災で被災した子どもたちに語学留学を体験してもらう「サポートアワーキッズ」を去年から取材しています。2回目となる2012年は、ロンドンとニュージーランドの2か国で実施。番組は取材を通じて参加者2人と出会いました。津波でお姉さんを亡くした宮城県七ヶ浜中村あかりさん(高1)、そして震災と津波の被害で、宮城県岩沼市から、蔵王町への移転を余儀なくされた、中津留裕人くん(高3)です。

今年8月、2人を含む10人のロンドン留学メンバーは、事前研修を受けるため東京に集まりました。

◆8月、ロンドン前夜の中村あかりさん
「初めて行く国なので不安と期待が半々。でも最終的には興奮の方が上回りそう! 色々と辛いことがあって、自分ばかりなぜこうなんだろうと思ったけど、去年のサポートアワーキッズに参加した兄が、それをきっかけにやりたいことを見つけて大学に入学、キラキラしているのを見て、私も参加しようと思った」

◆8月、ロンドン前夜の中津留裕人くん
「宮城県岩沼市の海沿いで両親が経営する養豚場が、津波の被害を受け全財産を一失い失業した。半年後に両親は蔵王の保養施設の職を見つけ、引っ越すことになった。給料も安く余裕もなくなり、今まで欲しいものを買ってもらえていた環境もガラリと変わってしまった。来年の大学進学は親に迷惑をかけないよう国公立に進学したいが、頭の良さも足りなくて…。でも塾に行くお金もなく親にも相談できない。自分の思うようにできない生活で、我慢をすることで大人になり、成長するのかなと思っている」


ロンドンではそれぞれ、ホストファミリーの元で生活をしながら現地の学校で学び、地下鉄などリアルなロンドン生活を体験。また、五輪開催期間中ということで、男子レスリング金メダリスト・米満達弘選手の試合を観戦する機会にも恵まれました。

帰国した2人は、本当に輝くような笑顔で2週間の経験で感じたことを語ってくれました。

★2週間後 ロンドンより帰国の2人
中村あかりさん「楽しかったです! 積極的に会話をしたかったんだけど、なかなか伝えられなかった。日本に帰って猛勉強して、また他の国でリベンジしたいという気持ちが強くなった。英語でしゃべれるようになりたい。リベンジです!」

中津留裕人「ただいま! この経験は自分の人生を変えるものだと感じた。性格も自分で分かるくらい変わった。自分から積極的に動けないタイプだったんだけど、イギリスでは自分から自己アピールできた。留学がしたい。家庭にお金はないから厳しいかも知れないけど、何歳になっても遅くない。絶対に海外に行ってたくさん学びたい。(両親にどんな報告がしたい?) 恥ずかしがり屋がなくなったよって言いたい(笑)」


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そして4ヵ月後、番組は2人が生活する宮城県へ。裕人くんのご両親は、蔵王町のスキー場にほど近い別荘地「蔵王休養村」で住み込みの管理という職に就き、新たな生活を送っています。

◆一瞬にして生活が一変
父親・和明さん「岩沼市の海岸沿いで養豚場を経営。住まいはそのとなりの亘理町。自宅の被害はなかったが、養豚場は建物も1500頭の豚も全滅。学生の頃から畜産一筋でやってきたが、一瞬にして生活が一変した。まるで夢を見ているような感覚があって、現実を受け止めるのに時間がかかった。末っ子の裕人はまだ高校生なので、すぐにでも生活のことを考えなければならず、養豚場を諦める判断をした。今は住み込みで別荘地の管理をしている。裕人は無口なのであまり詳しくは話さないが、彼は彼なりに色々感じているんだと思う」

母・弘美さん「豚の仕事はもうできないから、お父さんは新しい仕事を父親は探して、良い仕事があったのだから家族でそこに移転しよう…と裕人に話した。裕人はうなづいていたが、我慢しているんだなと感じた」


父親の和明さんは、養豚場を再建するには数億円のお金がかかり、融資を受けようにも返済計画を立てられる状況ではなかったと話しています。裕人くんの進学に大きくかかわる切実なお金の問題。両親は、新聞記事で偶然見つけたサポートアワーキッズの募集要項を勧め、裕人くんにこうアドバイスしたと言います。

◆夢がなくなったわけじゃない
弘美さん「裕人は海外進学を目指していたが、生活が変わり無理かなと思った。今年の夏に、国内の大学進学に切り替えようか? と話した。私立は経済的に厳しいから国公立でがんばってね〜(笑)と。すると猛勉強を始めた。予備校もいかせられない中、本当に親が見ても頑張ったと思う。

和明さん「夢がなくなったわけじゃないんだから、色んな方法を考えて違う方向を探って、色んな人とかかわって欲しいと思っていた。一番良かったのはイギリス語学留学の経験。自分の海外への夢がはっきりしたようだ。またイギリスに行きたいと言っているし、その夢があれば、ストレートに海外進学が出来なくても、いつか必ず行けると思っている。私たちも応援している。

弘美さん「これくらいのことで海外への夢を諦めるなら、この先どんな夢も叶えられない」と言った。大人になったら必ず壁が出てくる。それをどう乗り越えるか。その時の為にすごい体験になったと思う。


両親が感じた、裕人くんの変化。「人見知りが治ったよ」と話す裕人くんは、ロンドンで何を見つけたのでしょうか。

◆遠回りしても、つまずいても。
裕人「ホームステイ先のホストファーザーが、あまり僕を気にかけてくれない人だったので、積極的に話しかけたら、笑顔で返してくれて嬉しかった。今までは自分から積極的に話しかけられないタイプだったけど、この経験が自信になった。カナダに留学するのが夢だったけど、経済的理由で、親にだめだと言われてしまった。悔しさもあって、その代わりにサポートアワーキッズに応募した。参加して、遠回りしても自分の夢を叶えることが大事だと学んだ。イギリスに行く前は何かにつまずいたらそこで諦めていた。これを乗り越えて滞在できたことが、意識しないうちにためになっているんだと思う。」


そして裕人くんは、来年春、夢に向けて大きな一歩を踏み出します。
実は、12月に宮城大学の合格発表があり、見事、事業計画学科に合格!
来年4月からは、観光学というカリキュラムで、ホテルやレストランの経営を学ぶことになります。

◆いつか、両親を自分のホテルへ
裕人「宮城大を卒業したら、海外の大学へ留学してホテルやレストランの勉強をしたい。英語力も高めて、卒業後は国内の有名ホテルに就職して、海外のホテルへ派遣されて、最終的には自分で立ち上げたホテルやレストランに親を呼んで、素敵な時間を過ごしてほしい。最近すごく考える。でも親には恥ずかしくて言えない(笑) 末っ子で、最後まで迷惑をかける子どもなので、その分の恩返し、親孝行がしたい。」



(※後編へ続きます)

2012年12月31日

12月31日 特別番組 LOVE&HOPE サポートアワーキッズ・スペシャル 予告編



今夜10時〜は 『LOVE&HOPE サポートアワーキッズスペシャル』を放送。
被災地の2人の高校生とその家族に焦点を当て、彼らの成長と家族の想いを伝えます。

番組が昨年から取材してきた、「サポートアワーキッズ」。
東日本大震災で被災した子どもたちに、海外語学留学を体験してもらう取り組みで、2012年の夏は、24人の中高生がロンドンとニュージーランドを体験。2週間の滞在で、たくさんの刺激を受け、大きな希望を胸に帰国しました。

★帰国直後、ロンドンの2週間を経て
中村あかりさん「楽しかった。外国人相手に積極的に会話をしようと思ったんですが、なかなか伝えられない。日本に帰って猛勉強してまた他の国へ行ってリベンジしたいという気持ちが強いです」

中津留裕人くん「この経験は人生を変えるものだったと感じた。自分でもわかるけど性格が変わった。(両親に報告したいことは?)恥ずかしがり屋がなくなったよ(笑)」


笑顔を輝かせて語ってくれたのは、宮城県七ヶ浜の高校1年生・中村あかりさん、そして、宮城県亘理町出身の高校3年生・中津留裕人くんです。

そして4か月。2人は今、それぞれのご家族と東北・宮城県で生活をしています。番組は12月にその2つの家族を訪問。震災で失業し、蔵王町の別荘地の住み込み管理をしながら生活をしている、中津留弘美さんは、末っ子の裕人くんの成長をこう語っています。

★強くなった!
中津留弘美さん「(裕人くんは)強くなった。すごい壁を乗り越えてくれた。今回のことは彼にとってすごく自信になったと思う。大人になろうとする中で、人生で初めての壁に直面した。海外にストレートに進学することが出来なくなり、そこをどう乗り越えていけばいいか、どういう道があるのか、あきらめずに自分の夢を叶える方法を考えることを学んだんだと思う。ロンドン語学留学は今後の人生にすごくプラスになる体験だったと思っている。


経済的な被害で、海外進学を諦めざるを得なかった裕人くんは、ご両親の後押しと、海外で学んだ「強さ」で、いま新しい目標へ向けて歩みはじめています。

一方、中村あかりさんのご両親は、長女・明日香さんを失った現実と向き合う残された家族の想いを、一枚の手紙とともに語りました。

★夢の手紙
母・晴美さん「(明日香さんが)中3の時に、学校の先生が書かせた、パティシエになりたいという夢を綴った手紙。成人した時に投函する予定だったが、先生は投函をためらい、お手紙と一緒に送って下さった。」

父・勝義さん「遅ればせながら夢を実現しようとしていたんだよね、まさに。もし地震が一週間遅れていたら、東京・国立で独り暮らしをして、専門学校に通っていた。本当に一週間の差だった。」


『5年後の私へ』と題した、明日香さんが15歳の時に、自分にあてて書いた手紙。そこには、色々なことに思い悩み、パティシエになるという夢を20歳の自分に託すメッセージが綴られています。


LOVE&HOPEの特別番組『LOVE&HOPE サポートアワーキッズ スペシャル』は、
大晦日の、今夜10時から、全国38のFM局で放送されます。
明日香さんの手紙や、あかりさん・裕人くんとご両親の震災1年9か月後の いまをお伝えします。

2012年12月29日

12月28日 宮城県七ヶ浜国際村 サポートアワーキッズ 『リユニオン』?


ロンドン、ニュージーランドで過ごした夏休みの語学留学から数ヶ月。
宮城県・七ヶ浜で行われた交流・報告イベント『リユニオン』で、子どもたちは久々の再開を果たしました。

子どもたちはそれぞれ、海外で感じたこと、そこから見えてきた具体的な目標を、保護者や仲間たちに向けて力強く宣言しました。

●鈴木杏樹さん(福島南相馬市 高2)
「イギリスで建築を見て、海外の大学で建築を勉強して関わる仕事にしたいと感じた。それが今の目標。自信が持てた。どうにかなるし、どうにかしようと思えるようになった。行動することがどれだけ大事かが分かった。私がした経験を伝えないといけないと思う。以前はいやなことがあるとどう逃げるかを考えていたが、今は、逃げずに進んだらどうプラスになるかを考えるようになった。」

●小野寺真礼くん(仙台市 高3)
「11月のはじめに推薦入試があり、国立の教育系の大学・宮城教育大学に合格することが出来た。自分は昔から恥ずかしがり屋で人前で話せなかったが、今回の2週間の経験で、人種が違う人でも同じように、一歩引かずに会話ができるようになった。教員になるにあたり、今後はボランティアもしていくが、子どもと接する時に、日本だけでなく海外の良さを伝えていければと思う」



サポートアワーキッズ・発起人で事務局長の秋澤志篤さんはこの取り組みを、今後も継続的に続けていくと話しています。

●秋沢志篤氏
「SOKのホームステイプログラムは、10年、つまり毎年続ける。2013年も5か国から7か国に増やして実行する。未曽有の災害がくれた未曽有のチャンスだと思って、多くの人に希望してもらいたい。」




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2012年12月27日

12月27日 宮城県七ヶ浜国際村 サポートアワーキッズ 『リユニオン』?


被災地の子どもたちに、数週間の語学留学を体験してもらう取り組み
「サポートアワーキッズ」。

この夏、ロンドン、ニュージーランドで語学留学を経験した子どもたちは、宮城県・七ヶ浜で行われた交流・報告イベント『リユニオン』で久々に再開。その顔ぶれの中には、滞在中に憧れのロンドン五輪で戦う日本選手たちを目の当たりにして、大きな夢を語っていた中学生・佐藤響くん姿もありました。

◆ロンドン滞在中の佐藤響くん(宮古出身 中学1年生) 
(オリンピック・レスリングの競技を見てどうだった?) 技は世界レベルだけど、力と根性がやっぱり日本には足りないなと思いました。けど、アスリートが夢見る舞台を観客として観ることが出来たので、次は選手として会場を見られるように頑張りたいと思いました。


佐藤響くんは、お父さんの影響でレスリングをはじめたのですが、お父さんは、津波でいまも行方が分かりません。一時は、レスリングやめようとしていたのですが、お母さんのすすめもあり、レスリングを再開したんだそうです。お母さんの目に、今の佐藤君はどう映っているのでしょうか。

◆佐藤響くんのお母さん
ロンドンに行かせてもらってから視野が広がったみたい。「海外で仕事をしてみたい」と言って英語の勉強を一生懸命やるようになり英語の成績も上がった。この前も、「将来のことを俺は考えているんだ」と言ってくれて嬉しかった。震災後、家を失い父親がいなくなり、転校せざるを得なくなり、本人にとって悲しいことが多かった。私は悩んで、これからどうしようと前向きになれなかったが、「これからちゃんと前を見て行かなければならないんだから、くよくよしないで」と(響くんに)言われた。私よりしっかりしているし助けられた。


そして佐藤響くんは、リユニオン場で、お母さんや支援者の前で、今の夢を発表しました。

◆佐藤響くんのリユニオンでのスピーチ
今回のホームステイプログラムで英国に2週間滞在しました。元から得意教科だった英語がさらに得意になりました。これから取り組みたいことは、レスリングで中学までに全国ベスト3、高校ではインターハイ、国体で優勝できるように練習に励みたいです。今後はみなさんと一緒に、次に参加する後輩たちのサポート役になれればと思います。


佐藤くんはロンドンに行く前は少し内気な印象があったのですが、リユニオンで再会した他の子どもたちは口々に「響は数ヶ月ですごく大人になった」と話しています。

2012年12月26日

12月26日 宮城県七ヶ浜国際村 サポートアワーキッズ 『リユニオン』?


今朝は被災地の子どもたちに、数週間の語学留学を体験してもらう「サポートアワーキッズ」のレポートです。

12月22日(土)、今年の夏に語学留学を体験した子どもたちが再び集まり交流・報告をするイベント、「リユニオン」が行われました。会場は宮城県のイベントホール『七ヶ浜国際村』。子どもたちはホール壇上から親族・支援者に向けて、ロンドン、ニュージーランド留学体験を報告。将来の夢や目標を発表しました。(リユニオン:同窓会。再結合)

◆ロンドンホームステイ参加 阿部穂奈美さんのスピーチ(南三陸 志津川中2年)
この夏休みに、私はイギリス・ロンドンに2週間ホームステイしてきました。イギリスと日本では面積の違いはそれほど大きくありませんが、イギリスは外国との交流を盛んにする国でした。出国前は、自分から前に出て何かをすることを考えたことはありませんでした。どうしても一歩を踏み出せないことが多かったのです。しかしホームステイを終えて日本に帰ってきてからは、もっと自信を持ってチャレンジすることを覚えました。最近は生徒会会長選にも立候補して副会長にもなることができました。学校をより良いものにするために活動を開始したところです。私は将来、海に関わる仕事をしたいと思っています。今回の震災で受けた被害や失ったものは多かったけど、たくさんの支援をしていただきました。ですから今度は、誰かが困っている時に私が助けられるように海上保安官になりたいと思ってます。そしていつかみんなが自由に笑って過ごせればいいなと思います。


「被災後、様々な支援を受けた自分が今度は誰かを助ける立場になりたい」。阿部さんは津波で自宅を失っていますが、この海外語学留学の経験を契機に、自身の「海上保安官」という夢がより明確になったと言います。

サポートアワーキッズ・発起人で事務局長の秋澤志篤さんはこの取り組みの目的や支援する大人たちの想いをこう話しています。

◆Support Our Kids秋澤志篤 事務局長
未曽有の災害を受けた子どもたちに、未曽有に倍する活力になってもらいたいと思った。彼らも初めての海外だから、言葉の壁や生活習慣の違いなど経験できないことが経験できた。この留学経験を今後の将来にどう生かしたいのか、帰国後の子どもたちは口々に言ってくれた。その宣言や感じたことを、次の子どもたちに受け継ぎ、橋渡しをしていってほしい。



サポートアワーキッズでは、来年春のアメリカ語学留学に向けて、すでに約50名の子どもたちの事前研修がスタートしています。その後も、留学対象国を広げていく予定です。

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2012年12月25日

12月25日 宮城県石巻市 石巻日日新聞 代表 近江弘一氏

今朝は、宮城県石巻市の地元新聞社『石巻日日新聞』 代表の近江弘一さんに伺った、震災から1年9か月、石巻の今をお伝えします。

石巻日日新聞は、震災直後、新聞の印刷もままならない中、
手書きの壁新聞で、避難住民に必要な情報を発信し続けたことで知られています。
地元の新聞社は、石巻の現状をどう捉えているのでしょうか。

◆停滞する復興
寒い時期に差し掛かってきている。この時期は常につらい。僕らも含め被災者は今年に入ってからは、停滞した中、同じ状況の中で暮らす“踊り場”のようなところにいる気がする。人間の性で、その踊り場の状況にくやしいが慣れてしまう。状況としては大きな変化はない。道路はデコボコでインフラもまだまだ復旧していない。ガレキも片付いてきたと言うがまだ山のようにある。いま必要なのはここから先の見通し。政権も変わり、何がどう変化してくれるのかを待っている状況。仮設住宅にいる人たちは、今まで住んでいた場所と違い、より遠い場所に投票に行かなければならなかった。お年寄りは投票に行くのが難しい。天候も悪く、停滞感を感じる中で、どこに入れるべきか、誰に託せばよいのかが見えにくい選挙だった。(被災地とは)関係ないところの話題ばかりが多かった。そのためこの地区は投票率は過去最低だった。政治の停滞がそのまま反映している。



復興政策を進めるために、最も民意をくみ取るべき被災地で、投票率が過去最低という状況。近江さんご自身、そしてご家族も被災されています。被災者として、いま必要な支援について伺いました。

◆外に出す支援
母親が一人暮らしをしていた住居は海岸から10mだったので完全に壊滅し、母は今仮設で暮らしている。私は自宅がたまたま浸水がなかったため、地盤沈下はあるがそのまま暮らしている。地方都市はどこも高齢者が多い。海沿いで被災して仮設で暮らす人たちを、外に連れ出す支援がこれからは大事になると思う。仮設を訪ねてお話を聞いてあげる支援も大事だが、家にこもらせないように、外に連れて行ってあげる支援を厚くしていかなければいけない。ちょっとした買い物も、買ってきてあげるのではなく、できるだけ連れて行ってあげた買い物をさせてあげる支援。本来なら家族がやることだが、若い人たちは仕事がないため地域外に出て行ってしまった。家族が離反しているケースも多い。


被災地・石巻が感じる「停滞する復興」。26日に発足する新政権に課せられた喫緊の課題です。

2012年12月24日

12月24日 宮城県石巻市 おらほのラジオ体操

今回は、宮城県石巻市から全国に広まった、「おらほのラジオ体操」の話題です。

誰もが知っているラジオ体操を、石巻の“お国ことば”でアレンジしたのが
「おらほのラジオ体操」。去年の夏、その映像がネットで話題となり、
今や全国に広がりつつあります。実は今月に入って、DVDも書店などに並んでいます。
生まれたきっかけはなんなのか。企画したメンバーで、石巻市の地元新聞
「石巻日日(ひび)新聞」代表の、近江弘一(こういち)さんに伺いました。

◆被災地の元気と健康のため
実行委員は、私・近江と、ラジオ石巻の今野雅彦さん、マッキャンヘルスコミュニケーションズの西根英一さん。西根さんが石垣島に旅行に行った際、現地の小学生の向けに製作された、島の方言を忘れないため、健康維持のための島の方言のラジオ体操を知った。それを受けて、被災地の人たちの健康を守るための道具として、方言を使ったラジオ体操はどうだろうかという持ちかけがあった。これは、被災地の人たちを励ますことができるのではないかと感じた。

こうして生まれた「おらほのラジオ体操」。そのDVDには、石巻で暮らすたくさんの人たちが、笑顔でラジオ体操をする、楽しげな映像が収められています。

◆「おらほ」の笑顔
「おらほ」とは、“うちの”とか“僕らの”、“私たちの”という意味。震災後、コミュニティが壊れていく中、まず地元を励ますために、親近感のある言葉でやりたいと思って作った言葉。ラジオ体操の音と方言は、みんなを笑わせ、元気にしたという声をよく聞いた。映像は9月11日に録音したのだが、被災した魚市場や街中で野菜を売るお母さん、サッカーをやっている子どもたち、田んぼで稲作の準備をするお父さん…いろんな場面、色んな人たちが収められている。どれも笑顔。DVDの冒頭では、録画した石巻の人たちの画像が大勢出てくるが、全て綺麗な驚くほどの笑顔だった。今でも会社の始業や仮設のおばちゃんたちの朝の運動に利用されている。

おらほのラジオ体操


おらほのラジオ体操 フェイスブックページ

2012年12月21日

【特番のお知らせ(2)】12/31 JFN全国38局ネット22:00〜放送【LOVE&HOPE Support Our Kids Special】

東日本大震災から2度目の年の瀬を迎えます。
震災から1年9ヶ月、ところどころで語られる「復興」という言葉の影で、
今も震災で大きく変わってしまった生活に戸惑いながら、不安の中で過ごしている子どもたちがいます。

東日本大震災で被災した生徒たちに、数週間の海外留学・ホームステイを通じて心のケアを行うプロジェクト「Support Our Kids」。

このプログラムを通じてロンドンでのホームステイを体験した2人の高校生の、
4ヵ月後の“今”をお届けします。

夢を叶えるため大学受験に挑戦するツルくん。


音楽専門の高校に通い、ギターに一生懸命なあかりちゃん。


2つの家族に会いに、雪の降る東北を訪ねました―。

2012年12月21日

12月21日 災害支援のプロ、NPO「Civic Force」の被災地支援(5)


今週は、東北の被災地でさまざまな支援活動を展開する、NPO「Civic Force」、東北事務所代表、勝田和一郎さんのインタビューをお届けしています。

宮城県気仙沼市に事務所を構え、地域の復興と被災者の生活再建を見守る勝田さんに、いま、被災地はどのように映っているのでしょうか。

◆震災から1年9か月。被災者の間に生まれる心の格差
被災地の外から訪れる人を案内すると、やはり被災地の雰囲気は大分変ってきたのかなと思う。がれきが減ってくるなどの目に見える変化もあるし、被災者の方々とお話ししても、去年より明るく見える。去年は全く笑顔がない、笑える状況ではなかったところが、徐々に笑顔も出てくる状況になった。一年前と比べると、穏やかな雰囲気になってきているかと思う。
一方で、震災のもたらした精神的なダメージはまだまだ回復されていないし、街が復興して明るくなった分、逆にそうでない方、仕事や家族、友達を失った方なども多くいて、被災者の中でも、前向きに動かれている方とそうでない方の差が広がってきているとも感じる。

◆癒えぬ心の傷。キーワードは「被災地を忘れない」
先日ある芸能人の方が被災地でコンサートを行った。そのコンサート自体盛り上がって皆さん楽しんでいらっしゃる様子が見えた。またずっと被災地に目を向けて活動する方がいるのは心強いと思ったが、コンサートの後、ある高齢の女性とお話しすると、家族6人のうち4人亡くなってしまった、自分の家族にもこういう楽しいイベントを見せたかったと涙を見せていた。
やはり1年半ではそういった心のダメージは消え去るものではないと改めて感じた。(被災者の方は)自分達が忘れられていない、全国の方々が見てくれていて、気にしてくれていると感じるだけで励みになるのかなと思う。長い目で見てもらって、機会があればぜひ被災地に足を運んでもらえたらと思う。


「Civic Force」の被災地支援活動については、オフィシャルサイトでご覧ください。
Civic Force

2012年12月20日

【特番のお知らせ(1)】12/28(金)LOVE&HOPE Special〜Heart Voice RADIO〜

東日本大震災の後、被災自治体が立ち上げた「臨時災害FM」が
いま岐路に立っています。

「臨時災害FM」は、防災無線も壊滅状態にあった被災地で、震災当初は住民の安否や
生活物資、交通、医療、福祉の情報を届け、地域に不可欠な情報源となりました。
現在は仮設住宅で暮らす被災者や圏域放送が届きにくい沿岸地域の住民に、生活情報を届けています。

けれども運営資金の不足や放送免許の期限切れなどの課題を抱え、運営の立て直しを迫られる放送局も少なくありません。また「臨時災害FM」から「コミュニティFM」への移行にも資金面から難題が立ちはだかっています。

一方で、これまで「地元密着の放送局」がなかったエリアで、「臨時災害FM」が住民に親しまれ、生活に欠かせない存在になっている現実もあります。街の情報を全国に発信する「広報官」の役割を果たす局、離れて暮らす住民どおしをつなぐ「架け橋」となっているケースも少なくありません。

いま「臨時災害FM」各局はどのような状況にあるのか。
今後どうあるべきなのか。人と人、心と心をつなぐラジオにできることとは?

東北の「臨時災害FM」を通して、ラジオの役割と被災地のいまを見つめます。

<放送日時>
12/28(金)15:00〜15:55(一部地域を除く)
JFN38局ネット
※FM新潟・FM石川 19:00〜19:55
※FM沖縄 21:00〜21:55

2012年12月20日

12月20日 災害支援のプロ、NPO「Civic Force」の被災地支援(4)


今週は、東北の被災地でさまざまな支援活動を展開する、NPO「Civic Force」、東北事務所代表、勝田和一郎さんのインタビューをお届けしています。
今朝は、気仙沼市の「震災遺構」の話題です。

「震災遺構」とは、「震災」によって被害を受けた建物や打ちあがった船など、「震災の記憶をとどめる建造物」のことを差す言葉。「震災遺構」をどうするのか。各地で、いま住民の意見が二分しています。気仙沼の現状を伺いました。

◆気仙沼市の震災遺構「第18共徳丸」
−気仙沼市の鹿折地区に大きな船が打ちあがっている。震災直後、かなりの数の船が打ちあがっていたが、その中でも沿岸から800メートルほど離れた場所に、見上げるような船が打ちあがっている。その船をめぐって、いま住民の意見が大きく2つに割れている。
一つは、やはりそういうものは見たくないので早く撤去してほしいというもの。周囲になにもなくなった中で大きな船がどんと乗っているというのは、自分たちの街を取り戻したいという方には、見るだけで負担になるのではと感じる部分もある。
逆の意見としては、こういった災害は、体験した自分たちの記憶からも薄れてしまう、というもの。あの船を見ると、こんなに巨大な船が本当にここまで流されたのか、津波がどれだけ破壊的な力を持っていて怖いものかが、口で説明するよりよくわかる、という意見。特にこれから生まれてくる子供たちや、実際に地震を体験していない人たちが今後成長していく中で、ああいったものがあったほうが、震災の記憶を引き継いで、次の災害の被害を減らせるんじゃないか、という意見もあり、それもよくわかる。
気仙沼市長は「震災の記憶を残す」という意味で「保存したい」と言っている。住民の方が、いま、そしてこれからの街にいいのはどういう形だと考え、どのように決定するのか。わたしたちとしても見守っていきたい。


被災地の各地に残る「震災遺構」。保存の方向性が決まっているのは、岩手県宮古市の「たろう観光ホテル」など、ごく一部に留まり、その多くは保存か撤去か、住民の意見が分かれています。結論を出すには、もう少し時間が必要なのかもしれません。

Civic Force

2012年12月19日

12月19日 災害支援のプロ、NPO「Civic Force」の被災地支援(3)


Civic Forceは宮城県気仙沼市に東北事務所を構え、さまざまな形で、被災地支援を行っています。震災から1年9か月を迎えた被災地の「現状」と「課題」。Civic Force東北事務所代表、勝田和一郎さんに伺います。

◆気仙沼の「再生可能エネルギー」の取り組み
もともと気仙沼の中心産業は「漁業」。それはこれからも変わらない。ただやはり、新しい産業も盛り上げていかなければいけないということで、「再生可能エネルギー」も市全体で取り組んでいる。
再生可能エネルギーにもいろいろなものがあるが、その中でわたしたちが支援しているのが「木質バイオマス事業」。木を燃やして熱エネルギーを電気にする、というもの。なぜ「木質バイオマス事業」かというと、森から木を切ってきて燃やす過程で雇用が発生し、地域への波及効果という意味で、ほかの再生可能エネルギーよりも雇用を創出できる可能性があると考えるから。これまでは、間伐材は切っただけで放置されてきたが、ちゃんと運びだし、ボイラーで燃やして、「循環する木質バイオマス事業」とする、その仕組みづくりをお手伝いしている。
まずは副業的な位置づけで、すでに「森のアカデミー」として講座なども開催されていて、それらが軌道にのってくれば、専業でやる方も出てくるのでは。ゆくゆくは50〜100人くらいの雇用を生み出せればと思っている。


間伐などにより、未利用のまま山間地に放置される木材は、全国で年間およそ2000万立方メートルにも及びます。この間伐材を「資源」として利用しようというのが「木質バイオマス」です。

◆参考にしているのは、高知県の森林環境保全活動
木質バイオマスの事業に取り組んでいるのは、もともと気仙沼でガスやガソリンの販売・卸しをしていた、エネルギーと関係のある仕事をしていた方。震災で原発の事故もあり、地元の資源を生かし、かつ地元の産業になって雇用を生み出せるものとして、取り組んでおられる。参考にしているのは、高知県の事業。「土佐の森救援隊」の指導を受けながら、いま気仙沼で積極的に活動されている。


Civic Force

土佐の森救援隊

2012年12月18日

12月18日 災害支援のプロ、NPO「Civic Force」の被災地支援(2)


Civic Forceは宮城県気仙沼市に東北事務所を構え、さまざまな形で、被災地支援を行っています。震災から1年9か月を迎えた被災地の「現状」と「課題」。Civic Force東北事務所代表、勝田和一郎さんに伺いました。

◆被災地の医療アクセスの現状
−気仙沼や南三陸の医療の状況として、震災のときだいたい6割くらいの病院と診療所が流されて、診療停止に陥った。いま大分戻ってきてはいるものの、一から病院を再建するというのはものすごく費用がかかったりするので、仙台や一関に転勤して病院に勤めるという先生もいて、医師の数自体が減っているのが現状。さらに、病院が減ったこともあり、被害にあわなかった病院も、患者数が相対的に増えていて、充分な医療が受けられない状況が出ている。
−歯医者さんなどもたくさん流され、気仙沼市内、どの歯医者さんもだいたい一カ月待ちだったりする。命に係わる病気の場合、より深刻さの度合いが高くなる。


被災地の深刻な医師不足。一方で、新たな取り組みもスタートしています。

◆過疎地側から飛ぶ「民間の緊急搬送用ヘリ」の運行について。
−いま気仙沼市立病院の先生方とお話ししている中で、重症患者、緊急を要する一刻も早く手術などをしなければいけないときに、気仙沼―仙台間は普通にいくと2時間半かかるところを、ヘリコプターを被災地側(気仙沼)において、高度な医療が施せるところに飛ばす計画を立てている。
−日本にはドクターヘリ―というものがあり、都会にヘリコプターがあって、(必要な場所に)飛んでいくというスタイル。そうでなくヘリコプターを医療過疎地側におけば、運送時間も半分で済み、救命率、社会復帰率も上がるのではないかと考えている。
−従来のドクターヘリ―は一基5〜6億円ほどするが、わたしたちのような民間なら、ヘリは5000〜6000万。年間運航費も国でやる場合の数分の一で済む。
−安価にやることで全国に広げられる、自治体の負担も減らせる、そういうモデルを展開できればいいなと考えている。


気仙沼発着の民間の緊急搬送用ヘリ、運行は来週の春を目指しているということです。
被災地だけでなく、全国の医療過疎地のモデルになる可能性もあり、今後注目です。

Civic Force

2012年12月17日

12月17日 災害支援のプロ、NPO「Civic Force」の被災地支援(1)


Civic Forceは東日本大震災の発生後、宮城県気仙沼市に東北事務所を置き、さまざまな形で、被災地支援を行ってきました。震災から1年9か月を迎えた被災地の「現状」、そして「課題」とは?Civic Force東北事務所代表、勝田和一郎さんに伺いました。

◆被災地の高台移転と住宅再建について。
集団移転については、全国250か所で「集団移転促進事業」という国からの承認が下り、実際測量などの計画づくりが始まっている。住宅再建への先行きの目処が見えてくることは、一つの安心材料になっていると思う。
一方、高台移転をするといっても、補助金がでるのは土地の整備までで、実際家を建てるには各自の持ち出し。現実的な自分自身の生活や将来を考えると、不安を持っている方が多いとも感じる。

◆集団移転について前向きな議論が展開されている事例は?
気仙沼市の小泉地区は気仙沼の一番南側にあり、気仙沼で一番大きな津波が襲い、数百世帯が流された地区だが、甚大な被害を受けたにも関わらず住民の結束が非常に強くて、震災直後から高台への集団移転に向けた取り組みを始められた。単に国がつくった計画に従うだけでなく、せっかく一から造り直すんだから、小泉という街が元通りになるだけでなく、これまでよりよくなって、子どもや孫に誇れる街にしようと取り組みをされている。実際に「街づくり組織」を自分たちで立ち上げて、若い方からおじいちゃん、おばあちゃんまでが、活気ある楽しそうな議論をしている。
実際には上から降ってきた計画にしたがって移転しているところがほとんどなので、こういった取り組みがほかの被災地にも広がっていくといいなと。そういった部分のお手伝いをしていきたい。

◆一方、高台移転や住宅再建がなかなか進まない地域もあります。
本当は安全な土地に早く移転したいという被災者の方の想いが先で、そういう被災者の気持ちにあわせた仕組みがどうあるべきかという議論をすべきだが、国の制度がこうだから、これにのっけるように皆さん着いて来てください、着いてこれない人は仕方ないですね、というふうになりがち。
また、基礎自治体と言われる市や街の職員の方も、それぞれ被災されて、家や家族を失ったりして、いっぱいいっぱいというような。
そういう2つの理由で(高台移転や住宅再建)が進まないのではと考える。


Civic Force

2012年12月14日

12月14日 被災地が一票に託すもの(5) 〜ISHINOMAKI2.0 古山隆幸さん

“被災地が一票に託すもの”。
復興を強く望む有権者たちが、一票に込める想い、
そこから見える被災地の今を伝えています。

月曜日からお届けしてきたこのシリーズも、今日でラスト。
最後は、宮城県・石巻市。地元の若い世代、県内外のクリエイターが自由な発想で
街作りをするプロジェクト「ISHINOMAKI2.0」のメンバー、古山隆幸さんの声です。

★ITが石巻を変える
住民票は埼玉にあって、埼玉に住みながら東京で仕事をしている。ただ、震災以降は東京と石巻を行き来する生活。石巻工業高校を卒業。石巻には自分にとって魅力的な仕事、やりたい仕事がなかった。でも、今東京で仕事をしていて思うのは、ITという仕事は東京にいなくても出来るということ。東京にクライアントがいるからといって、毎日東京でどっぷりやるものでもない。開発や企画を練るのはパソコン一つあればどこでもできる。これは石巻の産業になり得るものなんだと考えた。石巻をはじめとした被災地域に限らず、過疎化や高齢化を抱える地方が、問題を打破するものになるのではないかと思う。それをリアルな現場で見せていきたいなというのが、今の自分が思っていること。
自分の実家も被災している。現地で泥かきをしながら、地元・石巻を見て自分の街はどうなるのかと考えた。今飛ばないでいつ飛ぶのだ、自分ひとりが2〜3年人生を投げ出して本気でやったとしても、それは必ず巻き戻せる。だからこそ2〜3年は石巻にぶつかっていって、何か新しいことをやっていこうと、石巻に根ざして活動をしている。。


こうしてISHINOMAKI2.0に参加した古山さんは現在、母校・石巻工業高校で、スマートフォンアプリの開発を学生に教えるなど、IT技術を石巻の若い世代に根付かせるための活動を続けています。

選挙については、「もちろん投票はするつもり」と話す古山。こうしたISHINOMAKI2.0の活動を通して、民間の力の限界や、「国・行政」と「民間」の大きな意識の差を感じています。

★街は走り続けているのに。
東北は後回しにされていると言う感覚はある。石巻は街が日々進化しているのに、待っているなんてできない。街は走っている。だから自分たちはもっとダッシュしなければ。そこに行政が絡むと、「ステイ」がある(笑) 行政に何かをやってくれと頼むと、「助成金を作ってなんとかします」「でも来期になります」と言われる。来期まで待っていてどうなるんだ。目に見える形で動き出すことをやって欲しい。
椅子に座って物事が完成するなら、みんな座っている。座るヒマもなく走っている人たちが大勢いる。
やはり目に見える動きがなければいけないし、無駄な動きばかりの行政なんかいらない。


気仙沼、南三陸、福島、石巻から、5人の有権者の声を届けてきました。
被災地の一票一票、新政権はどう受け止めるのでしょうか。

2012年12月13日

12月13日 被災地が一票に託すもの(4) 〜福島県・立花弦一郎さん

“被災地が一票に託すもの”。
かつての生活を失い、復興を強く望む有権者たちが、一票に込める想い、
そこから見える被災地の今を伝えています。

今朝は、福島県・双葉郡浪江町を離れ、家族と共に避難生活を送る、立花弦一郎さん(39歳)の声です。

◆福島の復興のために選んだ生活
元々、浪江町に住んでいたが今は郡山市に避難している。福島第一原発の事故を受けて滋賀県に避難した。もう二度と福島県に戻らない気持ちでいたが、やはり福島を復興させたいという気持ちになり1か月後に福島に戻った。妻と生後6か月の息子が一緒に郡山に暮らしている。南相馬で不動産業の仕事をしていた。郡山から南相馬まで100kmを毎日通って職場へ行っている。この暮らし、避難生活自体が不満のかたまり。毎日2時間通勤。浪江の川添というところに家を建てて1年しか経過していない。ローンは今まで通り払っている。今は住んでいるアパートは県の借り上げ。家賃を払わなくてよい。住宅ローンを払いながら狭いアパートに身を寄せ合って住んでいる状況。全てが不満。


立花さんは、どうしても福島の地に暮らしながら復興に関わりたいと、郡山から南相馬に毎日通う生活を選びました。福島に戻ると決めた時、親せきなど周囲の反対も多かったと言います。

また、立花さんの自宅がある浪江町・川添は、福島第一原発の警戒区域で、今後は、居住制限区域に再編される見通しです。

もし今後、地域の除染が進んで帰宅できても風評の懸念は付きまとい、帰宅した場合の賠償は不透明です。立花さんが、政治に求めるもの、一票に込める想いとは。

◆政府があいまいだから
ダメなものはダメで構わない。それを今の政治は曖昧にしている。浪江町の人たちと話すと、みんな迷っている。その迷いは政府が迷っているから。「賠償金、補償はこうするから、あなたたちは新しい生活をしたらどうでしょう」と、きちんと決めてくれれば、私たちも新しい生活に踏み出せる。それを曖昧にされてしまっているため、帰れるのか、帰れないのか、みんなが判断できない。決断をしてくれる人に投票してほしいと思っている。


立花さんは「自分たちの存在が、風化してしまうんじゃないかと感じている。各政党の政策も、原発のことは多いが、福島の復興について書かれているものは少ない」とも話しています。

浪江町は10月現在、21,172人が各地で避難生活を続けています。

2012年12月12日

12月11日 被災地が一票に託すもの(3) 〜福島県・宍戸慈文さん

“被災地が一票に託すもの”。
かつての生活を失い、復興を強く望む有権者たちが、一票に込める想い、
そこから見える被災地の今を伝えています。

今朝は、宍戸慈(ししど・ちか)さん 28歳。
福島県郡山市から、県外へ“自主避難”した女性です。
宍戸さんは、同じ境遇に悩む、同年代の女の子たちを繋ぐ活動を続けています。
震災から1年9か月。福島の女の子たちの今について伺いました。

◆今も悩み続ける福島の女の子たち
福島県福島市出身、去年12月に北海道札幌市に住民票を移した。今は札幌と福島を行ったり来たりしながら、ラジオのパーソナリティや、福島の女の子たちのための団体、ピーチハートという任意団体の共同代表をしている。福島から自主避難した女の子たちは、1年半ちょっと経過して、やっと自分たちが今置かれている状況に必要な情報・環境・時間が整ってきた。そして自分たちの状況を理解した段階にあるのかと思う。
そうした動きの象徴的なものの一つとして、来年の春・3月に自分たちの仕事を整理して県外へ避難を決めた子もいる。12月に機に新しく、放射能や自分たちの環境や体のことを考える女子を育成する会社を立ち上げて頑張っている子もいる。次のアクションに移れる段階になってきた子がちらほら出てきたのかなと思う。
もちろん、福島に残ることを決意して、頑張っている子もいるし、心と時間の整理、自分の状況を受容していくまでの時間はまだまだ必要な子はたくさんいる。


宍戸さん自身は、生活のことを考えて札幌に移転。選挙区は札幌です。
福島を離れて投じる一票、宍戸さんはどんな想いを込めるのでしょうか。

◆原発の有無でも、政党でもなく。
原発の有無が叫ばれている段階。個人としては、先日、チェルノブイリ原発事故から26年後のウクライナに行った。ウクライナはいま原発推進になってしまっている。私と同い年の28歳の女性が「原発の有無を語るのではなく、私たちは再生可能なエネルギーをしっかり作れるような状況を作らなければいけない」と言った。彼女の言葉が神髄だと思う。原発の有無、二者択一ではなく、第三の選択を私たちが作れるように、私たちも一緒に考えなければいけないと思っている。本当の意味で原発が安全に使えるのであれば
それは再生可能エネルギーの一つとして考えてよいわけで、それが安全でつかえないから脱原発という言葉が出てきている。いずれにせよ、原発があるかないかというまやかしではなく、あっても無くても、「安全な再生可能エネルギーってなにか」を考えなければいけないと思う。政党政治というもの自体にあまり信頼がおけない。
政党ではなく、人。人の心を読んで感じ、考えるということをして、自分の一票をしっかり入れたいと思う。


今年6月、自主避難者も含め、原発事故の避難者の生活を守る法律
『原発事故 子ども・被災者支援法』が成立しました。。
しかし具体的な内容は、まだはっきりしていません。
宍戸さんは次の政権に、「すぐにこの法律を具体化して、施策を始めてほしい」と求めています。

2012年12月11日

12月11日 被災地が一票に託すもの(2) 〜南三陸町・和泉博文さん

今週は“被災地が一票に託すもの”と題して、震災後、かつての暮らしを失い、一日も早い復興を求める人々は、有権者として、どんな想いで一票を投じるのか・・・そこから見えてくる、被災地の今‐を伝えていきます。

今朝は宮城県・南三陸町の和泉博文さん。
3人のお子さんを抱えるシングルファーザーで、現在は、地元漁協の臨時職員として働いています。和泉さんは今年も、ご家族とともに仮設住宅で年末を迎えます。

◆2年目の冬、子どもたちのための選択
2度目の冬を迎えるが、何も状況は変わっていない。今暮らしている仮設住宅は、自分たちの家が津波で流された近くに建てられているが、この場所からは、朝になると漁船のエンジンの音が聴こえてくる。海から1キロ離れている距離でも、その音が聴こえるほど、なにも無くなってしまったということ。復興は現実味を帯びている感覚はない。この町に見切りをつけて、隣町の利便の良いところに行こうという人も結構いる。復興にかかる時間を待っていられないという人は、慣れ親しんだ故郷を離れて違うところで
生きるしかないと思う。うちは災害公営住宅に入ろうと思っている。今まで思い出に残る土地を売る。母親と話をして移り住むと決めた。母は年を取っているから、「地元に残りたい、借金してでも家を建てたい」と言っていたが、子どもたちは高校生、中学生、小学生で今後の未来もある。地元に残って欲しい。高台移転で借金して家を建たら、それがしばりになって土地から離れられなくなり、身動きが取れなくなってしまう。それはかわいそう。子どもたちはなにも無くなった分、自由な価値観、方向性を持って進んで欲しいと思っている。だからそういう選択をした。


子供たちには家に縛られることなく、自由に将来を選択してもらいたい。
そんな想いで、和泉さんは災害公営住宅を選びました。
しかし、和泉さんによれば、災害公営住宅は、構想はあっても具体的なことはまだ進んでいないそうです。
一方、漁協の臨時職員は、雇用期間が来年3月まで。
和泉さんは新しい仕事のため、小型船舶の免許を取るなど、前向きに動き続けています。
「家族がいるから前向きになれる」そう話す和泉さんは、どんな想いを託して一票を投じるのでしょうか。

◆暮らしてきてよかったと思える街を
震災後はじめての選挙。被災地としてはやっぱりこちらにもっと目を向けて、被災者の声をくみ取ってもらいたい。寄り添う形で、政策も売って欲しい。この町で暮らしてよかった、これからも住んでいこうって思えるような方向性をつけてほしい。


「1キロ先の漁船の音が聴こえるほど、何もなくなってしまった」
和泉さんのこの言葉をどう感じますか。
なにも無くなった土地に、これから何を作るのか。
「この町で暮らして良かったと、地元の方が思える街にしてほしい」
その想いは届くのでしょうか。

2012年12月10日

12月10日 被災地が一票に託すもの(1) 〜気仙沼・畠山信さん

10日(月)から5日間は、“被災地が一票に託すもの”と題して、震災後、かつての暮らしを失い、一日も早い復興を求める人々は、有権者として、どんな想いで一票を投じるのか・・・そこから見えてくる、被災地の今‐をお届けします。

今朝は、宮城県・気仙沼市、「NPO法人・森は海の恋人」副理事長で、気仙沼市でカキの養殖業を営む畠山信さんの声です。

◆防潮堤計画、気仙沼住民の反対の声
震災からもうすぐ2年、今 気仙沼では防潮堤の問題が話題。気仙沼市の有志で「防潮堤を勉強する会」を結成、何が課題なのかを抽出して、意見をまとめて紙にするという手間を経て、要望書や意見書を(行政に)出しているが、その声が反映されることは非常に少ない。住民の意見を尊重すると言うけど、かなり無視された形で(防潮堤の計画は)進められている。それって法律違反じゃないのかという風に思う。宮城県知事や気仙沼市長に対して、しっかり住民の意向を吸い上げて反映させるように、要望書を提出した。みんなモヤモヤしています。そんな中で疲れ切ってしまい、自分たちの生活も苦しい状況なので、「もうしょうがない」「これ以上長引かせたくない」と、行政の意向を飲むしかないのではないかという“諦め”の雰囲気が漂い始めている。一方で、そうではなく、自分たちの意見を反映させるべきではないかという人たちも半数くらいいるため、そういう方たちと活動を続けている。


 気仙沼・舞根地区では、地盤沈下で出来た干潟に新たな生態系が生まれ、住民はその自然をみんなで守ろうと考えています。大規模な防潮堤は、その自然に影響を与える可能性が高く、住民はみな高台に移転するため堤防は必要ない。住民たちはそう考え、県や市に要望書を提出しています。 防潮堤はいらないという住民と、国の予算を背景に建設を推し進めたい行政。せめぎあいはまだ続きそうです。
そうした中行われる総選挙。畠山さんが次の政権に求めること、一票に託すものとは。

◆住民の意見を本気で聞く政治
新政権にいち早くやって欲しいことは、「住民の意見をちゃんと聞いてくれること」。住民の合意形成をしっかりしてから街作りのハード面の整備をしてほしいと思う。住民の意向を吸い上げるのは大変だし手間がかかると思うが、それが出来ないと、住みにくい、住民の望まない街ができる。そんな街が出来たら人はどんどん離れていく。持続可能な街づくりを進める上でも、住民の合意、住民の意見を本気で聞いてくれる政党に一票を投じたいと思う。


NPO法人 森は海の恋人

気仙沼 防潮堤を勉強する会

2012年12月7日

12月7日 温泉エッセイストの山崎まゆみさんが語る東北の温泉の魅力

温泉エッセイスト山崎まゆみさんは、これまでに、29か国、950か所以上の温泉をめぐってきた、温泉のスペシャリスト。取材で長年交流を深めてきた東北各地の温泉宿も、震災でその多くが被災しました。


峩々温泉

◆宮城県の一軒宿「峩々温泉」の取り組み
−温泉を紹介する仕事を初めて15年。長くなると、お宿の方も家族ぐるみでお付き合いすることになり、もちろん東北の各地にも大切な方たちがたくさんいる。
−その中のお一人が、宮城県の峩々温泉という一軒宿の若いご主人。宮城県でも沿岸部ではなく山のほうなので、源泉も大丈夫で目に見える被害はなかったが、どうしても休業せざるを得ない状況に追い込まれた中でも、自分はまだ山のほうで元気だし、沿岸部の人たちを支援したいと活動に動いた。
−温泉を運んで足湯をしてもらったり、避難所生活が長くお風呂に入りたいという声にこたえて、ご高齢の方々を自分のマイクロバスに乗せて、湯治をプレゼントしたり。
−わたしもそれを記事にしたり、同行したりさせていただいた。
−皆さんすごくよろこんで、彼はその支援をいまも続けている。

この「峩々温泉(ががおんせん)は、「種プロジェクト」に登録されている宿でもあります。
また、東北には日本古来の温泉文化がいまでも残っていると、山崎さんは言います。

◆東北に残る日本古来の温泉文化とその魅力
−通常は旅館というと一泊二食の温泉旅館が多いが、東北は古くからの湯治場があって、食事は別で一泊3000〜4000円ぐらいで1週間から10日、長逗留できる湯治場が多く残っている。
−同時に、東北は古き良き共同浴場もまだまだたくさんある。日本が古くから大切にしてきた温泉文化がぎゅっと詰まっているのが東北。
−例えば、湯治場なら、岩手県の花巻温泉郷は鉛温泉や大沢温泉などがあり、自炊棟もあって、湯治客がみんなでなごやかに冬の一カ月間を生活しながら過ごすという文化が、普通に残っている。
−これからの季節は共同浴場と湯治場を目指して、ぜひ東北に行っていただきたい。

客足が回復している温泉宿もある一方で、まだまだのところも多いということ。
東北の温泉の魅力を伝えるために、今後さらに活動の幅を広げていきたい山崎さん。
観光の復興が、これからの被災地復興のキーワードになるのかもしれません。

2012年12月6日

12月6日 旅館サポーター制度 『種プロジェクト』(4)



旅館サポーター制度 『種プロジェクト』
「旅館サポーター制度・種プロジェクト」は登録されている被災地の温泉宿の中から、すきな宿を選んで、一口5000円でサポーターになる制度。未来の宿泊に対し料金を「前払い」することで、被災地の温泉宿を支える取り組みです。


「種プロジェクト」に登録している温泉宿の一つが、福島県福島市、高湯温泉「ひげの家」。自慢は、ゆで卵の香りたっぷりの、乳白色のお湯と海山の幸を使った食事ですが、震災後、食材の調達についてさまざまな工夫をしていると、三代目の後藤秀人さんは語ります。

◆震災後、食材の調達に苦慮
―食事は温泉と同じ宿の目玉でもあるので頑張っているが、食材は放射能の問題など気にしている面もあり、いままで使っていた地元の食材が使えない、ということもある。
―特に海のものは、福島の小名浜や原釜などのものを使っていたが、いまは遠くのものを取り寄せて使っている。
―もともとおいしいものをいろいろ取り寄せていたが、食事ももう一回見直して、もっと喜んでいただけるようにと料理人も招いて、料理にはさらに力をいれて頑張っている。

◆背中を押してくれたのはお客さんの言葉
―「種プロジェクト」で支援してくれる方は、「すぐにはいけないけど、以前行ったときにすごくよかったから」「なんとかがんばって残してください」など暖かい言葉もいただいて、希望にもなったし、有りがたかったし、がんばらなきゃと思った。
―種プロジェクトのクーポンを持ってきていただくと、すごくうれしい。
―いままでお客さんが来てくれるのは当たり前と思っている自分たちがいて、それがお客さんがいなくなった現状の中で、改めて有り難さがわかった。
―宿をもっとよくして、頑張ってお客さんに応えていかなきゃなと思う。震災前よりよい「ひげの家」になりたいと頑張っている。


こういったクーポン券がお宿さんから直接届きます。
サポーター料金と同額のクーポン券の有効期限は、2014年3月11日。
この期日までに宿泊ができない場合、サポーター料金は寄付となります。


旅館サポーター制度 『種プロジェクト』

2012年12月5日

12月5日 旅館サポーター制度 『種プロジェクト』(3)

旅館サポーター制度 『種プロジェクト』
「旅館サポーター制度・種プロジェクト」は登録されている被災地の温泉宿の中から、すきな宿を選んで、一口5000円でサポーターになる制度。自分が支払った金額と同額のクーポン券は、宿に宿泊する際に使用することができます。現在福島県内で6軒、宮城県内で5軒の温泉宿が登録。サポーターは280名を数えます。

この「種プロジェクト」に登録している温泉宿の一つが、福島県福島市、高湯温泉、「ひげの家」です。「種プロジェクト」の丹羽尚彦さんに、その魅力を伺いました。

◆福島県福島市、高湯温泉「ひげの家」
−福島県福島市の高湯温泉は、近くの河原から温泉がぐんぐん湧いていて、それをお宿に引き入れている宿。いわゆる自墳しているお湯を引き入れている。光の当たり具合や気候によって、白濁したお湯がエメラルド色っぽく青みを帯びた、いい感じになる。



◆「ひげの家」三代目、後藤さんも震災当時の様子を語ってくれました。
−地震で福島市内も大きく揺れて、湯船のお湯がなくなるほどだった。源泉を確認しにいくと、雪の中お湯が沸いているのを確認できたのでなんとかなるかなと。震災直後はリネン屋さんも来なかったので、自分たちでシーツなども洗って。温泉も練炭でなんとかやっていた。
−その後原発事故が起こり、大変なことが起きているのかなと思いながらも目の前のことに夢中で、実際にこれはまずいかなと思い始めたのは4月に入ってから。
−入っていた予約はキャンセルになり、新しい予約も入らず、夏休みなどはお子さん連れが多かったのが、そういうお客さんもほとんどゼロになった。これは続けられないと思った。雪のなかでどんどんお湯が沸いているのに、やっていけるのかな。やっていかなきゃという気持ちだった。
−その後一組のお客さんがいらっしゃって、自分たちは続けていかなくちゃ、高湯温泉を残していかなくちゃという気持ちになった。

高湯温泉「ひげの家」では、震災直後、一時お客さんが激減したものの、昨年秋から徐々に客足が回復し、現在では例年の8割〜9割に回復している、ということ。
乳白色のとろっとしたお湯が自慢の宿。
アクセスは、福島駅からバスで40分ほど。


こういったクーポン券がお宿さんから直接届きます。


旅館サポーター制度 『種プロジェクト』

2012年12月4日

12月4日 旅館サポーター制度 『種プロジェクト』(2)



旅館サポーター制度 『種プロジェクト』
「旅館サポーター制度・種プロジェクト」は東北の被災した温泉宿をサポートする仕組み。登録されている被災地の温泉宿の中から、応援したい宿を選んで、一口5000円からサポーターになると、自分が支払った料金分のクーポン券が送られてきます。宿に宿泊する際に、そのクーポン券を利用することができます。

「種プロジェクト」の丹羽尚彦さんによると、一口に被災地の温泉宿といっても、エリアや取り組みによって、復興の進み具合には、ばらつきがあるといいます。

◆宮城県・追分温泉

―追分温泉は石巻から山のほうに峠を上がったところにあるが、岩盤も強く揺れはそんなに大きくなかったそうで、ご主人もそれほど大きな地震だと思っていなかったそう。ところが、地震の後に石巻の街の人がどんどん上がってきて、これは大変なことだぞとそこで初めて気が付いた。そこで、事実上自分たちの宿を避難所として開放し、のちに避難所として指定されたとか。
―震災後石巻の状況を見て、営業を再開する気持ちになれないと考える時期もあったが、現在は例年に近い状況まで復興しているそう。ご主人も全国の人が石巻を見に来てくれて、楽しんでくれればいいなという気持ちだとか。

◆福島県・いわき湯本温泉「旅館こいと」

―福島については、原発の影響があるところとないところで、復興の具合に違いが出ている。原発に近いところだと宿の復興は30%ぐらいのところも。例えば磐城温泉などは、これまで一般のお客さんは比較的少なく、工事関係者の方が多かったのが、そういう方も少なくなっているという。

◆福島県郡山・須賀川温泉「おとぎの宿米屋」

―一方、原発から比較的離れている郡山・須賀川温泉「おとぎの宿米屋」さんは、集客が震災前の70%ぐらいに回復しているそう。
―「米屋」の女将さんによると「自分達が被災者だという思いがあったら、ここまで復興できなかっただろう。起きてしまったことは仕方ない。あとは前を向いて頑張れれば、自分たちで未来は変えられる」とPR活動などを行ったということ。

「種プロジェクト」では、被災地の温泉宿をサポートしたい!というサポーターと、サポートを受けたい、という温泉宿の登録を、両方受け付けています。


こういったクーポン券がお宿さんから直接届きます。


旅館サポーター制度 『種プロジェクト』

2012年12月3日

12月3日 旅館サポーター制度『種プロジェクト』(1)



旅館サポーター制度 『種プロジェクト』
寒さが日増しに厳しくなるこの季節。恋しくなるのが「温泉」です。
東北地方は日本でも有数の温泉地が点在するエリア。でも、震災の影響で、集客が伸び悩む温泉宿も少なくありません。
そんな被災地の温泉宿を支援する取り組みが、旅館サポーター制度「種プロジェクト」です。被災地の温泉宿に「復興の種をまく」、そんな思いが込められています。

「種プロジェクト」を運営する丹羽尚彦さんに伺いました。

◆旅館サポーター制度「種プロジェクト」とは?
−「種プロジェクト」は、サイトに登録してある宿の中から、応援したい宿を選び、サポーターになっていただいて、その将来の宿泊を約束する、というもの。
−一口5000円。そこに応援メッセージを添えて、サポーターになっていただく。自分がその宿に泊まりに行くときに、サポーター料として払ったものを、宿泊料金の前払いとして使うことができる、という仕組み。
−現在、福島で6軒、宮城で5軒の温泉宿が登録し、サポーターは280名を数える。
−「種プロジェクト」を始めたきっかけはというと、昔から温泉宿が好きで、全国の温泉宿を回り、「タビエルの宿」というサイトで宿泊のレポートを書いていた。
−そんな中で、震災の後、東北の宿のお客さんが激減していると聞き、まずは、その現状を皆さんに知っていただきたいと考えた。
−また、被災者であるお宿さんも、例えば炊き出しをやったり、お風呂の無料開放をしたりと。復興活動を積極的にやっていることを知った。その活動を伝えたいという思いもあった。

◆「種プロジェクト」をきっかけに、さまざまな交流が生まれています。
−「種プロジェクト」に関するいくつかのエピソードを紹介すると、サポーターになった方が、本来は2口10000円でサポーターになれば、宿に泊まりに行ったとき、それを10000円のクーポン券として宿泊代に使えるが、「これは記念にとっておきます」と言って、正規の料金を払って宿泊したとか・・
−また、徳島や九州など遠隔地の方がサポーターになってくださっているケースもあり、その方たちは(差し当たっては)その宿に行く予定すらないのに、「いつか必ず泊まりにいきます」「泊まりにいくまでは、これで勘弁してね」と徳島特産のお菓子を送って、そこでお宿さんと交流が生まれたり・・
−震災は本当に大変な出来事だったが、それがきっかけでお客さんとの関係をもう一回見直して、お客さんにどういう存在であったらいいかを改めて問い直したというお宿さんが何軒かあった。それは本当に印象的だった。


「必ず泊まりに行きますよ〜!」という「思い」が、被災地の温泉宿の方たちにとっては、一番心強い「支援」なのかもしれません。


丹羽尚彦さん


こういったクーポン券がお宿さんから直接届きます。


旅館サポーター制度 『種プロジェクト』

パーソナリティ 鈴村健一

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