2013年1月31日

1月31日(木)宮城県気仙沼市唐桑町の「からくわ丸」〜“よそもの、わかもの、ばかもの”の被災地支援〜(4)

「からくわ丸」は宮城県気仙沼市の唐桑地区で展開されている街づくりプロジェクト。唐桑の魅力を再発見する「まち歩き」やメンバーが唐桑の将来について話し合う「唐桑ルーキーズサミット」など、さまざまなプロジェクトを展開しています。中心となっているのは代表の加藤拓馬さん、24歳。子供のころ神戸で阪神淡路大震災を経験した加藤さんは、東日本大震災のあと、就職を控えていたにもかかわらず、いてもたってもいられず、東北へボランティアに向かいます。いまは住民票も唐桑に移し、唐桑での生活が2年を迎えようとしています。

■「昔ながらの近所づきあい」に日本の突破口がある
たぶん(唐桑の)地元の若者たちが(からくわ丸と一緒に)活動をしているのは、「地元愛」地元のことがほんとにすきなんだと思う、僕等とは比べ物にならないくらい。
唐桑のよさは、海がきれいで、山の幸、海の幸がとれること。そして、自分が唐桑に2年住んで一番魅力的に感じるのは、昔ながらの狭いコミュニティ。前田浜には前田さん、佐々の浜には佐々木さん、馬場の浜には馬場さん。そういった狭いコミュニティだから、いい意味でも悪い意味でも、他人に対しての地域内の関心が強い。悪い意味で働く場合の多いけど、ひとたび震災のように有事になると、お互いがお互いのことを助け合うのが当たり前。その関係性は「ボランティア精神あふれる街ですね」なんていう言葉はあてはまらない。そういうんじゃない。もともと日本の社会がもっていた原型みたいなものが、唐桑には残されているというふうに自分は感じた。それは東京では味わえないものだし、これからの社会、20年、30年経っていて、どんどん人口が減って経済がだめになる中で、どういうふうに人と接していけばいいのか、社会と向き合っていけばいいのか、たぶんいろんな人が直面する問題だと思うが、その突破口が自分は「田舎の近所づきあい」にあるんじゃないかと感じた。
だったらもう住むしかない、と。東京に帰る理由がなくなってしまった。



からくわ丸サイト

2013年1月30日

1月30日(水)宮城県気仙沼市唐桑町の「からくわ丸」〜“よそもの、わかもの、ばかもの”の被災地支援〜(3)

「からくわ丸」は宮城県気仙沼市の唐桑地区で展開されている街づくりプロジェクト。活動のメインとなっているのは、唐桑の魅力を再発見する「まち歩き」とメンバーが唐桑の将来について話し合う「唐桑ルーキーズサミット」です。代表の加藤拓馬さんに伺いました。

◆「自分たちも何かしたい!」
僕等の活動拠点に、去年の6、7月くらいから地元の若い人たちが5〜6人来るようになった。飲み屋もなければ溜まるところもないし、外から来た大学生のボランティアがいる、なにか面白いことやっているらしい、ということで、お互いぺちゃくちゃおしゃべりしたりするなかで、「からくわ丸」に協力したいという人が出てきた。
外から来た、しかも自分たちより年下の人間が俺らの町のためにやっているのに、自分たちがなにもしないわけにはいかない、と。26〜7歳くらいの人たち。

◆唐桑ルーキーズサミット
毎晩プレハブで他愛のない話をするのも素敵なんだけど、月一回ちょっと真面目に、唐桑をこれからどうしていったら盛り上がるだろうというのをやらない?と提案して、「たまにはビシっとやろうぜ」ということになった。それが「唐桑ルーキーズサミット」。地元のお祭りにあわせてこういうものが出せるんじゃないかとか。
あと、こういう会にありがちなのが、若い人だけで集まって年配の人たちを敵に回すというパターンなので、そういうことは避けようと、あえてルーキーズサミットに年配の人たちを呼んで20年前の話を聴いたりとか。世代間の交流もしている。


復興のカギは街づくりに地域の住民が主体的にかかわること。「からくわ丸」の活動をきっかけに、唐桑ではいま若者たちが動き出しています。

からくわ丸サイト

2013年1月29日

1月29日 宮城県気仙沼市唐桑町の「からくわ丸」〜“よそもの、わかもの、ばかもの”の被災地支援〜(2)



「からくわ丸」は宮城県気仙沼市の唐桑地区の街づくりプロジェクト。活動の中心となっているのは、加藤拓馬さん、24歳です。いま「からくわ丸」の活動のメインとなっているのが「まち歩き」。地域の住民と地域の外からきた大学生が一緒に唐桑を歩いています。

■「ないものねだり」から「あるもの探し」に
いま一番メインでやっているのが「まち歩き」という活動。「街づくり」の手法として「地元学」というものがある。これは、九州の水俣を復興させた街づくりの手法。理屈はすごく簡単で「ないものねだり」から「あるもの探し」。日本の田舎のおじいちゃんおばあちゃんに「この街にはなにがありますか?」と聞くと「この街にはなんにもない。あれがない、これがない」ということになる。若い人に聞いても同じ。そういうところからやめよう、と。そうじゃなくて、この街にはなにがあるか「あるもの」から探そうと。そのためになにをするかというと「歩いて発見する」。でも地元の人たちだけで歩いても、普段住み慣れている場所なのでなにも見つからない。そこで外から来た人間と一緒に歩く。例えばいまは外から来た大学生と一緒に「まち歩き」をしている。大学生がどんどん質問していく。「これなんですか?」「こんなのまだ残っているんですか」そういった驚きが街の人たちにとっては新鮮だったりする。
自分が面白かったのは「井戸」。東京生まれ東京育ちの大学生には「井戸」が珍しい。古井戸は使っていなかったが、震災のときはすごく役立った。そんな話を聞きながら井戸を見学。すると大学生が「この井戸の水ってどっから運んでくるんですか??」と。地元の人も苦笑しながら「じゃあ井戸に水を入れるための井戸が必要だね〜」とコントみたいな会話になった。地元の人からは「井戸が珍しいのか〜」と。素朴な生活に関するものを再発見するのが「まち歩き」の醍醐味。


最近は「まち歩き」だけでなく、地元のおいしいものを再発見する「唐桑料理レシピづくりの会」も開催。「あるもの探し」の和が広がっています。

からくわ丸サイト
「まち歩き」レポート

2013年1月28日

1月28日 宮城県気仙沼市唐桑の「からくわ丸」〜“よそもの、わかもの、ばかもの”の被災地支援〜(1)

東日本大震災の地震と津波で大きな被害を受けた、宮城県気仙沼市唐桑町。この地区で、「からくわ丸」という若者サークルが被災地支援の活動を続けています。地域の外から来たボランティアと地元の人が一緒になって、唐桑地区の「街づくり」に取り組むこのプロジェクト。活動の中心となっているのは、「からくわ丸」の代表、加藤拓馬さん、24歳です。

大学卒業と東日本大震災の発災が同時期に重なった加藤さんは、就職を一時延期して被災地でボランティア活動に携わります。けれども、滞在が長期化する中で見えてきたのは、破壊されていく「人の絆」でした。

◆震災は「人と人の絆を壊していく」
 滞在が長期化したときに見えてきたのは、どんどん片付いて向上いくハード面と、震災から時間が経てばたつほど住民の心が冷え込んでいく姿。これはなにか、ソフト面の活動に移行したほうがいいんじゃないかと思ったのが、そもそものきっかけ。
目に見えてコミュニティにひびが入っていく。「唐桑にはいたくない。早く出たい」「仙台に行ったほうが復興が早いんじゃないか」など。避難所で済む人、仮設の人、在宅の人の間でも意思疎通ができない状態。長期で滞在していると、そういった本音が見えてくる。生き残った人間にとって一番怖いのは、震災が「人と人との絆をぶちぶち破壊していく」ということ。
自分も阪神大震災をきっかけに、友達が神戸に住めないとばらばらになったり、家族も一時期ばらばらの状態で過ごすことになった。今まで通りの生活ができなくなると、いままで通りの人間関係がキープできなくなる。これはなんとかしないといけないなと、だんだん「街づくり」とか「コミュニティ支援」に興味を持ち始めたのが、自分にとっての2011年。そのためにはなにが必要なのかといえば、一方的な外部からの支援ではなく、地元の人間と「共同」で活動していけるかがキーワードになると考えた。そこで、地元の人と一緒に「街づくり」をしていく、という話になった。



「からくわ丸」のメンバーは24歳の加藤さんをはじめ、大学生など20代前半の若い人ばかり。地域の外からきた若者たちの働きかけによって、いま地元唐桑の人たちも動き出しています。活動の中心は地域の魅力を再発見する「街あるきプロジェクト」。明日以降具体的にご紹介していきます!

「からくわ丸」サイト

2013年1月27日

1月25日 津波火災の知られざる脅威

専門家チームが東日本大震災で発生した「火災」を検証する中で浮かび上がってきたのが、「津波火災」という言葉。「津波火災」とはいったいどんなものなのか。そして「津波火災」による被害を防ぐための対策とは?名古屋大学、減災連携研究センター准教授の、廣井悠さんに伺いました。

◆「津波火災」のメカニズムと対策
−津波火災というのは、東日本大震災で発生した火災の種類の一つ。東日本大震災では全部で330件の火災が発生しているが、その半数が「津波被災エリア」、つまり津波が来た場所で発生している。割と新しい現象だということで、いろいろ調べた結果、何らかの原因でガレキや家が出火して、それが波に乗って流れて高台、要するに波の来るぎりぎりまで到達して、波が引いた後も火災だけが残り、周りには木材が一杯あるので、どんどん燃えて、ガレキに阻まれて消化もできない。重油が流出した場合は、さらに燃焼を拡大させ、大規模に山際が燃えてしまう、というような現象が、津波火災の基本的なパターン。
津波火災の一番の問題点は、津波被災エリアが燃えるということ。山際の避難場所や津波避難ビルに残っていた人が火災にあってしまう。「避難場所が危険になる」ということが問題。
津波火災を減らすためには、火災が起きたときにどう迅速に消化するか。例えばポンプ車をできるだけ高台に上げておくとか、津波火災が発生しそうな場所に集中的に防火水槽を配置するとか、なるべく消火できるような対策をしておく。
最後の手段は、二次避難ができるようにしておくということ。火災が起きても、さらに高台に行けるようにする。避難ビルにおいても、防火扉をきちんとつけるなど、ビルの中の防火対策をきちんとすること、などがあげられる。一旦逃げた人が焼け死んでしまうということがないようにしましょうというのが、津波火災対策の目的。
南海トラフなどを中心に、また同じような津波や地震が起こるとされているなかで、どれだけ避難場所を安全にできるかが、われわれが経験した教訓の一つだと思うので、そういう面からも対策をすすめる必要がある。


山際の避難場所にも「津波火災」が押し寄せる可能性があるということ頭に入れて、二次避難についても家族や地域で話し合うことが重要。また、行政にも「津波火災」を踏まえた被害想定の算出と避難場所の設置が求められています。

2013年1月24日

1月24日 福島県南相馬市 原町高校 放送部が記録した311 〈4〉

今週は、福島県・南相馬市にある、原町高校 放送部が記録した、震災と原発事故に焦点を当ててお送りします。福島第一原発30キロ圏内にある原町高校の放送部員は、震災後、それぞれの家族や身の回りの状況を取材して、数本のドキュメンタリー作品を制作しました。

そのひとつが、「お父さんの仕事」。原発作業員の父を持つ放送部員・大浦美蘭(みらん)さん 当時1年生の家族を取材した7分間のラジオドキュメンタリーです。

今日は、この作品にも使われた取材音声を抜粋してお聴き頂きます。大浦さんのお父さんは、取材した学生に向かって、福島第一原発の作業へ向かう素直な気持ちを語っています。


◆お父さんの仕事
大浦美蘭さんの父親(以下、父)「なんとかしなくちゃいけない、誰がするのか考えた時に、今まで20年以上勤務して給料をもらい家族を養ってきたわけだから、当然その後片付け、復旧のお手伝いもなんとかしなくちゃいけないのかな、うちらがやらなければ誰がやるのかという気持ちで3月、4月は(原発の作業へ)行っていた。」

部員「仕事の為に寮に住んでいると聞いたが、忙しい時は家に帰れていましたか?」

父「忙しい時、特に夏は1ヶ月に1回か2回(しか帰れなかった)。今は毎週土日が休み。金曜に帰ってきて日曜日に(原発に)帰る。これが毎週。」

部員「大浦さんの仕事は特別な感じがするが自分の仕事をどう思うか。」

父「マスクをして防護服を着ているが、やっている仕事は普通の仕事。場所は原子力発電所だが、やっている仕事は表と同じ。そんなに構えなくてもいいのではないかと思う。住居はなくなり単身赴任になり、(生活は)大きく変わったが、このとおり普通。普通の家族。」

大浦美蘭さん「お父さんがどう思っているか知らないが、本当は怖いのかも知れない。そういうところを見せないようにしているのかも知れない。聞かないであげたい。だから心配しない。それが親孝行というか、親を立たせて上げるというか、そういうことだと自分は思っている」



南相馬市 原町高校 放送部が記録したドキュメンタリー、原発作業員の父を持つ放送部員・当時1年生の大浦美蘭さんの家族を描いた「お父さんの仕事」という作品から、抜粋してお届けしました。

この番組を制作した当時1年生だった原町高校の放送部員たちはこの春、学校を卒業することになります。


(左から)佐藤健司くん、高山風優香さん、鈴木千尋先生

2013年1月23日

1月23日 福島県南相馬市 原町高校 放送部が記録した311 〈3〉

今週は、福島県・南相馬市にある、県立原町高校 放送部が記録した震災と原発事故に焦点を当ててお送りします。

福島第一原発30キロ圏内にある原町高校の放送部員は、原発事故直後から、およそ1年間、自分たちの避難生活の取材を続け、映像やラジオ用のドキュメンタリーを制作しました。

その作品のひとつが、「お父さんの仕事」。当時1年生だった、放送部員・大浦美蘭さんの家族を取材した、7分間のラジオドキュメンタリーです。大浦さんの父親は、福島第一原発の事故収束作業に携わる、作業員をしています。

◆原発作業員の父親
(大浦美蘭さんの)お父さんが福島第二原発で働いていた。震災当時、父親は偶然原発にいなかったのだが、震災から1週間後から、第一原発の作業に従事するようになり単身赴任状態に。彼女(大浦美蘭さん)と妹、母親は避難先の郡山に残った。1年近く取材したのだが、生徒にその父親を取材させたらいい話を聞いてきた。(放送部顧問・鈴木千尋先生)

実際に取材を経験した、現3年生の佐藤健司くん、高山風優香さんは、当時の取材をこう振り返っています。

◆“普通”の、いいお父さんだった。
佐藤くん「お父さんに話を聞く取材。どのくらい聞いていいか困った。同じ福島の被災者の中でも原発作業員は特別。境遇が違う。震災報道を見て「辛い」という気持ちも強いのではないかと思ったが、そうではなかった。インタビューすると、自分の仕事を「普通」だという。家族も「普通だ」と。確かに、普通のどこにでもいる家族で、普通のいいお父さんだと思った。自分の仕事に誇りを持っていることも感じた。いい人だと思った。

高山さん「原発事故を経た今となっては“普通ではない”“特殊な仕事”になってしまった。彼女は震災で家族と会う時間も減ってしまったが、家族の気持ちは何も変わっていない。一緒にいることができなくても、仕事をしてご飯を食べて会話をして、、、。それは私の家族と何も変わらないということを(大浦さんの父親は、取材に対して)言おうとしていたのではないかと思った。

実際に取材した高山くんは、取材後「本当に普通だった」と、興奮気味に先生に報告したそうです。中原発事故渦中の作業員を取材して感じた“普通の家族の日常”。原町高校の放送部員たちは、この「普通」をテーマに、ドキュメンタリーを制作しようと考えたと言います。こうして、ラジオドキュメンタリー「お父さんの仕事」は作られていきました。


(左から)佐藤健司くん、高山風優香さん、鈴木千尋先生

2013年1月22日

1月22日 福島県南相馬市 原町高校 放送部が記録した311 〈2〉

今週は、福島県・南相馬市にある、県立原町高校 放送部が記録した震災と原発事故に焦点を当ててお送りしています。

福島第一原発30キロ圏内にある原町高校は、原発事故を受けて、一昨年、3月から5月まで休校状態となってしまいました。学校がいつ再開するかも分からない中、放送部顧問の鈴木千尋先生は、
バラバラに避難する1年生部員に、「いま起きていることを記録して番組にしませんか」とメールを送りました。鈴木先生ご自身も、悩んだ末の判断だったと言います。

当時1年生だった、原町高校・放送部の佐藤健司くん、高山風優香さんは、そのメールをこう振り返っています。

◆いま起きていることを記録する
佐藤健司くん「3月、母親の実家に避難している時に先生からメールをもらい、取材を始めた。避難していた場所も津波の被害がひどく、そこを撮影した。きれいさっぱり、木も草も堤防の石もなくなり、土地は土だけになっていた。感じるものが大きすぎて処理しきれずオーバーフローしているような感覚。自分が死ぬまで、もうこういうことはない。だから記録しておいたほうがよいと思った。

高山風優香さん「先生からのメールを受けて、震災に関する新聞記事のファイリング作業をした。震災から1週後、東京の母方の親族から「避難してこい」と連絡があり、東京の祖母の家に強制的に避難していた。私の家は相馬なのでそこまで被害があった訳ではなく、避難準備区域になった訳ではないのに東京では大騒ぎで、甲状腺検査やホールボディカウンターをやれ、病院に行けと言われた。私よりもっと大変な人がいるから、と誤解を解くのが大変だった。転校という話もでたが、原町高校に通いたいという希望を両親が聞いてくれて、戻ろうと思っていた頃、先生からメールが届いた。



この2人を含む、放送部員の1年生・7人は、2011年3月、それぞれの避難先で取材を始めます。取材は2012年の春まで続き、 集まったたくさんの素材をもとに、部員たちは数本のドキュメント番組を制作。その一つが、「お父さんの仕事」です。福島第一原発の作業員として働く、放送部員の父親を取材したこの作品は、その後、様々なメディアで取り上げられることになります。


(左から)佐藤健司くん、高山風優香さん、鈴木千尋先生

2013年1月21日

1月21日 福島県南相馬市 原町高校 放送部が記録した311 〈1〉

今週は、福島県・南相馬市にある、県立高校 放送部が記録した震災と原発事故に焦点を当ててお送りします。

原町高校放送部は震災後、それぞれの部員たちが、被災状況を記録。これまでにいくつかのドキュメンタリー番組を製作しています。そのきっかけは、原町高校が福島第一原発の30キロ圏内にあり、
原発事故の影響が、新学期に及んだことだったと言います。放送部 顧問、鈴木千尋(すずき・ちひろ)先生の話です。

◆原発事故直後の原町高校
震災後、2〜3日で原町高校では地震の被害とは“別の被害”が大きくなり、逃げろと言われた。原町高校の校舎で待機避難していた子どもたちもいたが、親は避難勧告で迎えに来ることができず、最後まで5人が残っていた。学生たちは、原発10km圏内、20km圏内、30km圏内、避難区域とは関係ない地区在住の子、あとから指定して逃げなければいけなかった飯館在住の子と、状況が違う子たちが全ていた。(放送部顧問 鈴木千尋先生)


結局、原町高校は、いつ再開できるかも分からぬまま、休校となってしまいました。5月に他の高校の敷地で授業を再開、10月には元の校舎に戻ってくるのですが、先生も生徒も、「学校がどうなるのか、情報はほとんど入らなかった」と当時を振り返っています。そんな中、鈴木先生は、放送部の顧問として考え抜いた末、バラバラに避難する部員たちに、こんなメールを送ったといいます。

★放送部として記録を
3月20日に「放送部の1年へ」という件名でメールを送った。「どんな番組になるかはともかく、今回のことを記録しなければ放送部の名がすたると思いませんか」と。地震や津波の被害を受けた高校はあるが、原発の被害で学校がクローズしてしまい通えなくなった学校は少ない。その中で放送部として活動をしているのは原町高校しかない。私たちがやらなければ誰もこのことを伝えられなくなる。高校生として被災状況を記録しましょう、と。ただ、その時にすでに大浦美蘭の親が東電関係者だとは知っていたので、そのメールを送る時にはいろいろ考えた。そこで補足事項として「無理強いはしない」とした。東電関係者としてはつらいだろうからやれることだけでよいと。しかし大浦からは「やります」という返信が来た。(同 鈴木先生)



こうして原町高校・放送部は、それぞれ避難先で取材を始めました。その一人が、原発10km圏内・浪江町(なみえまち)から、郡山市に避難していた大浦美蘭さん。大浦さんは震災後、福島第一原発の復旧作業に携わることになった自分のお父さんと家族を取材。大浦さんが録音した取材音声には、
原発事故直後の、何気ない、家族の会話が記録されています。

★福島第一原発へ行く父親
大浦美蘭さん「お父さんが仕事に行くとなった時は、なんか考えた?」
母「え?って思った」
美蘭さん「なんで? お父さんも、そろそろ来るかな〜、そろそろ俺の出番かな〜って言ってたじゃん」
母「そういうのがあったら絶対に行く人だからね」



こうして、大浦美蘭さんが取材した、福島第一原発の復旧に携わる父親・家族の記録を中心に、原町高校放送部は、ドキュメンタリーの制作をスタートさせました。部員たちはその後、取材を通じて原発について多くのことを考えることになります。


震災直後3月20日に鈴木先生が生徒たちに送ったメール

2013年1月18日

1月18日 東北各地の<災害FM>はいま(5) 岐路に立つ災害FM

東日本大震災のあと、東北各地で32の災害FMが開局し、現在も22の放送局が、東北各地で情報発信を行っています。ただ免許の期限切れや、運営資金の問題など、課題も多いのが現状。女川さいがいFMもそんな岐路に立つ災害FMのひとつです。チーフディレクターでパーソナリティも務める宮里彩佳さんに伺いました。

◆女川さいがいFMの継続問題について
いままでなかったこういう放送局ができたということはすごく大きな財産。女川さいがいFMを基盤に、なにか新しい情報発信のツールができあがればいいなと思っている。そこにわたしがいるいないは関係ない。ここがあったからできあがったものができれば、わたしたちがやってきたことに意味があるのかなと。


◆女川さいがいFM リスナーの声
−なくなってはいけないものなんじゃないかと思い始めている。私たちの楽しみがなくなってしまって、さみしい。無くなっては困る。
−海の作業をしている人たちにとってはテレビをみながらはできないが、ラジオを聴きながらなら(作業が)できる。こういうラジオはあったほうがいいと思う。
−なくならないことを信じている。なくならない運動でもしてみます。


長年国内外のコミュニティメディアについて研究を続けてきた、龍谷大学の松浦さと子さんは、これからの災害FM、コミュニティラジオのあり方について、こう話します。

◆災害FMやコミュニティ放送を支える新しい制度、法律を検討する時期
いまコミュニティ放送を立ち上げるにあたって、非常に高額の資金がかかると思われているが、もっとシンプルに考えて、まずお金のかからない立ち上げ方もできるという発想や、既存の放送とは全く別のものであるという認識のもとに、コミュニティを支えていく放送の在り方をきちんと制度化していくという議論も、これから必要なのでは。特に日本は災害がたくさんあるわけだが、それに対応する必要な装置として、それを支える制度、法律が日本にはとくに必要だと考える。



地域密着の情報を届ける災害FMは地域の住民同士つなぐ役目を果たすとともに、インターネット放送などにより、街の情報を全国に発信する可能性も秘めています。存続には法律や制度の壁があるのも事実ですが、議論が深まっていくことに期待したいです。

2013年1月17日

1月17日 東北各地の<災害FM>はいま(4)  海外での資金調達方法

阪神淡路大震災から今日で18年。日本で初めて災害FMが立ち上がったのは、その阪神淡路大震災のときでした。そして東日本大震災のあと、東北各地で32の災害FMが開局し、現在も20を超える放送局が、東北各地で情報発信を行っています。

ただ免許の期限切れや、運営資金の問題など、課題も多いのが現状。被災地の災害FMが、地元密着の放送を続けていくには、どのような方法があるんでしょうか。

長年、国内外の「コミュニティメディア」について研究を続けきた龍谷大学の松浦さと子さんに、海外のコミュニティラジオの資金調達の方法を伺いました。

◆寄付やカンパ、受信料の再分配などあの手この手
―コミュニティラジオというのは多くの国々でいま免許がとれるようになっているが、財源をどうするかはどのコミュニティも真剣に考えるところ。免許をとるときにも、できるだけたくさんの人たちが「わたしたちのコミュニティを立ち上げる」という共通認識を持ち、そのラジオ局をわたしたちが支えていくという覚悟を持って達が得ることが多い。
―費用も自分達で出す、自分たちで集めるなどの工夫をしていて、例えばチャリティマラソンの収益金やリサイクル物資を売った費用を当てたり、寄付や会費やカンパを集めたりしている。
―あるいは広告料を取っている放送局から税金を集めて再分配をするとか、受信料を集めている国はその一部をコミュニティラジオに配分するという形で、「第三の声」を流す公共放送を成り立たせている。


東北の被災地では地元密着の災害FMが存続の可能性を探っています。

◆決め手は「自分たちの放送局を持つ!」という強い想い
―被災地ではいま臨時災害FM局が地域の被災者に向けて、貴重な情報や言論や表現がなされている。多くの人たちがその大切さを知り始めているが、この放送局がなければ!と切実感をもって受け止めているひとはわずか。でも「自分たちはこの放送局がなければやっていけない!」という思いを共有できたときに、「わたしたちがこの放送局を支えなければ!」という自覚が生まれてくるかもしれない。
―スポンサーとなるべき企業や行政も十分な資金がないかもしれないが、その放送局が大事だと思う人たちが、わずかずつでもまず会費やカンパとして寄せ集めること。また被災地でコミュニケーションやつながり、表現、言論、記録が残されていくことに意味を感じる全国の人、世界中の人たちが、被災地を応援するカンパの中で、コミュニティ放送が立ち上がることを支援したいという気持ちが集まれば、希望が生まれるのではと思う。


リスナーに必要とされてこそのラジオ。災害FMだけでなく、圏域放送もコミュニティFMも、お金を出してでも聴きたい番組づくりが、いま求められています。

2013年1月16日

1月16日 東北各地の<災害FM>はいま(3)  南相馬さいがいFM

今日スポットをあてるのは、福島県の「南相馬さいがいFM」<ひばりエフエム>。
南相馬市は、原発事故の影響で、市の一部が現在も避難指示解除準備区域に指定されています。チーフディレクターを務める今野聡さんに「ひばりエフエム」の現在の放送内容、そして今後運営の見通しについて、伺いました。

◆いまも「災害状況」が続く南相馬。新しい放送局の制度が必要・・
―ひばりエフエムの特徴的な番組は放射線量のモニタリング情報。市内129カ所のモニタリング数値を読み上げるだけでも30分近くかかる。学校給食の検査結果も含めて放送。放射線については不安や質問が多いので、医師に内部被ばくとはどういうものかというのを解説してもらう番組もある。放射線に関してはいろんな見解があるので、市内で行われる講演会なども収録して特別番組として随時放送している。
―もちろん放射能の話ばかりではない。南相馬の市民は、毎日不安におびえて暮らしているわけでもない。そんな中で、若者が楽しく素朴な声を届ける「若者たちのRADIO会議」という番組も放送。
―今後の運営について。現在の制度の上では、臨時災害放送局として続けることは難しい。コミュニティFMへの移行も当初から考えていたが特に経営していく上で課題が多い。一方地域の人にはすごく必要としているのを感じる。
―南相馬市内の企業が大きく疲弊している中、復旧復興が進む中、災害FMとコミュニティFMの中間に位置して住民の心のよりどころとなれるような、新たな理解による放送局の制度が必要と感じている。


南相馬さいがいFMの一部の放送は、インターネットによるサイマル放送や、HPからのダウンロードでも聴くことができます。故郷を離れて、全国各地で避難生活を送る南相馬の人たちにも、放送を楽しみにしている方が多いといいます。<ひばりエフエム>の番組は、そんな<人と人をつなぐ>ツールでもあります。

南相馬さいがいFM<ひばりエフエム>

2013年1月15日

1月15日 東北各地の<災害FM>はいま(2) 釜石さいがいFM

災害FM、正式名称は「臨時災害放送局」。
洪水や地震など、大きな災害が発生したときに、被害を減らすことを目的として、一時的に放送を行う放送局のことです。許認可の仕組みが特別に簡略化され、出力も必要に応じて拡大することができる一方、運営面でもさまざまな優遇措置が施されています。

総務省は、東日本大震災のあと、被害の甚大さを考慮して、「災害FM」の免許期間を最長2年と定めました。その期限切れが、この春訪れるのを前に、各地の災害FMがこれからの放送や運営について、いま頭を悩ませています。

岩手県の「釜石さいがいFM」も、そんな岐路に立つ災害FMのひとつ。釜石市広聴広報課の三浦麻美さんに伺いました。

■必要とする人がいる限り、放送を続けたい・・
−(現在の放送内容について)震災後の影響がまだまだあり、地盤沈下しているところが各地であり、ちょっとの雨ですぐ浸水し、車が通行止めになるところがある。災害FMでそういった情報を適所にリアルタイムに伝える役割が一番大きいかなと思う。
−まだ仮設住宅に住む人もたくさんいる。住宅再建や災害公営住宅の計画が進んでいるが、今年度中の完成ではない。被災された方が一番求めているのはこれから住む場所の情報。これから続けて発信していかなければと思う。
−コミュニティFMに移行するという方向も考えてはいるが、現在は担い手が見つからない。運営資金についても、一番はスポンサーがつくことだが、釜石市内の企業も被災してスポンサーがつくのは難しい面があるのかなと思っている。
−一番重要なのは公営住宅の入居時期が延びていること。手続きなどの生活支援情報を細かく伝えるのは、新聞などがあるが、目の見えない方にとっては災害FMが最も有効だと思うので、放送してほしいとう声がある限り放送をしていきたい。
−免許をいただいている総務省には認可を1年間延長してほしいと伝えている。われわれとしては存続したいという声はこれからも上げていきたいと思う。


「釜石さいがいFM」の放送免許の期限は今年4/6まで。現在、1年間の免許延長を総務省に申請しています。

釜石さいがいFMブログ

2013年1月14日

1月14日 東北各地の<災害FM>はいま(1) 女川さいがいFM

災害FM、正式名称は「臨時災害放送局」。
洪水や地震など、大きな災害が発生したときに、被害を減らすことを目的として、一時的に放送を行う放送局のことです。現在も20を超える災害FMが、東北各地で情報発信を行っています。震災からおよそ1年10か月。災害FMはいま地域で、どんな役割を果たしているのか。今日クローズアップするのは、宮城県の「女川さいがいFM」です。

〜おながわ☆なうの名物コーナー「この言葉わかりっすか」を聴きながら〜

女川さいがいFMの情報番組「おながわ☆なう」は、行政からのお知らせや生活・雇用の情報などが番組中心ですが、なかでも人気のコーナーが「この言葉わかりっすか?(=この言葉、わかりますか?の意)。パーソナリティ宮里彩佳さんが方言全開で、ユーモアたっぷりに地元の言葉を紹介しています。
   
女川さいがいFMは現在専任スタッフは5人。高校生ボランティアスタッフが5人で、あわせて10名。震災前は「ラジオ」と全く無縁だった若者たちが、リスナーに語りかけています。宮里さんも女川出身。「町民が必要とする情報を自分たちの手で伝えたい。」そんな想いから、震災後、ラジオの番組づくりに携わるようになりました。

◆災害FM、復興とともに伝える情報も変化
―最初のころは炊き出し情報やお風呂の情報などを、避難所で生活するうえで必要な情報を伝えていた。
―いまは町内で少しでもみんなに元気になってもらおうと企画されているイベントを紹介したり、一般の方、隣のおじいちゃんが出たら聞いてくれるかな、と。そういう方にお願いして出てもらうことが多い。


〜おながわ☆なうの名物コーナー「この人さ聞いでみっちゃ」を聴きながら〜

「おながわ☆なう」のもう一つの人気のコーナーが「この人さ聞いでみっちゃ」。女川町に暮らす一般の方に、被災当時の状況、そして、いま何をしているのか、インタビューする15分のコーナー。これまで200人以上が登場。復興に向け歩もうとしている姿を、地元のみなさんに届けています。

町民が町民のために情報発信を発信する「女川さいがいFM」。町の人たちは?
◆「生活の一部」になりつつある災害FM
−女川の情報がよくわかる。子どもたちの合唱コンクールなど、ラジオ通して聞けたりするのもうれしい。
−飾らない感じで聞いていて、リラックスできる。
−日常のリズムのよう。生活の一部。わたしにとっての癒し。町民皆にとってもそんな感じ。


震災からおよそ1年10か月。
災害FMの役割も、震災直後と現在とでは、少しずつ変化してきています。

女川さいがいFMの一部の番組は、インターネットによるサイマル放送、またポッドキャストで、全国どこからでも聴くことができます。

女川さいがいFMオフィシャルサイト

2013年1月11日

1月11日 震災からの復興を願う「ともしびプロジェクト」




「ともしびプロジェクト」は、東日本大震災の月命日にあたる毎月11日に、キャンドルの灯りを灯して復興を祈る取り組みです。
お話を伺ったのは、「ともしびプロジェクト」の実行委員、さいとうかおりさん。さいとうさんは、震災後ボランティアなどで被災地に足を運んだのが縁で、このプロジェクトに加わったといいます。

◆キーワードは「忘れないをカタチに」
−東日本大震災から半年くらいでボランティアセンターがどんどん閉鎖されていった。ま-まだボランティアや支援が必要な状況なのに、閉鎖されてしまった。
−そうなってくると被災地の方々が思うのが、「どんどん自分たちのことを想ってくれる人がいなくなっていくんじゃないか」「まだまだ震災は終わってないんだよ」ということ。「忘れられるのが一番怖い」という想いがひしひしと伝わってきた。
−じゃあ「忘れてない」ということをどうしたら形にできるか。毎月11日の月命日に、キャンドルを灯して、それを写真にとって、フェイスブックやホームページにアップしてもらうことで、被災地の人たちに「忘れてないんだよ」ということを伝えるとともに、キャンドルが灯っていることが希望になるんじゃないかと思ってスタートしたプロジェクト。


中心となっているのは、宮城県気仙沼市を拠点に、震災の支援活動を行う杉浦恵一さん。またおよそ50人のプロジェクトメンバーが、全国各地でワークショップを開催しています。もちろん個人でプロジェクトに参加することも可能です。

◆KONECAN(こねきゃん)で心の復興支援
―自分のお家で自分の大好きなアロマキャンドルを灯した写真だったり、「ともしびプロジェクト」のもう一つのプロジェクトの「KONECAN」という、手でこねるキャンドルキットがあるので、それを使って、粘土細工のように自分で好きな動物やお花をつくったりした写真が、フェイスブック上にアップされている。
―KONECANのキットそのものは山梨で作っているが、パッキング(袋詰め作業)を避難所や仮設で過ごしていたおばあちゃんやママ友の会の女性たちがやっている。一緒に集まって作業することで、楽しい時間を過ごすこと、また少しでも賃金を得て、次の仕事につなげていく、心の復興支援、と考えている。


キャンドルのやわらかな灯りが被災地に「忘れない」という想いを届けます。

「ともしびプロジェクト」オフィシャルサイト
「ともしびプロジェクト」facebookページ

2013年1月10日

1月10日 塩釜市浦戸諸島・桂島 小泉善雅さん(4) 『天然の一粒牡蠣 養殖へ』


宮城県塩釜市、浦戸諸島 桂島からのレポートです。

震災後、全国からの支援をうけて牡蠣の養殖を再開した桂島。今後は、島の漁業を活性化するために支援金をどう活用していくかが課題です。

そこで今、計画が進んでいるのが、『一粒牡蠣』のブランド化です。
『うらと海の子再生プロジェクト』の小泉善雅さんに、教えて頂きました。

◆天然牡蠣の生命力で、島を元気に!
本当の天然の牡蠣というのは、干潮時に干上がる場所(潮間帯)に棲息している。
それらの牡蠣は、小さいが生命力が強く、2012年の猛暑でも死なずに残った。味も格別に美味。
甘味と旨みが強いが、小ぶりで数も少ない。それを量産化するやり方として参考になるのがフランスの手法。
先日、水産研究者とフランスを視察して科学的な裏付けや根拠も学んできた。これを元に、この天然牡蠣の養殖を始める予定。試作品を作って試食したが、明らかに味が違う。誰もが太鼓判を押すものだった。その養殖費用に支援金を充てていこうと考えている。
(そんなに普通の牡蠣と違うのでしょうか?)
今の日本の牡蠣養殖は、短期間で、なるべく大きく実入りもよくするために、ずっと海水につけて育てる。本来棲息していないような海の奥深いところに牡蠣をぶらさげて、短い時間で成育させて出荷していた。干潮時に干上がる場所の牡蠣は、太陽に当るため?成育が悪く小さい。しかし松島湾の漁師はそれが一番美味しいことを知っていた。ただ、出荷するのはあくまで「剥き牡蠣」。小さい牡蠣では効率が悪く、数量を稼ぐため、なるべく大きな牡蠣だけを選別して剥いて出荷していた。でも、実は旨みはこの天然牡蠣の方が良い。ぜひ食べてみて欲しい。塩竈の新しい一粒牡蠣で挽回していきたい。


現在、うらと海の子再生プロジェクトは、この「一粒牡蠣」の養殖・販売、さらにオンラインショップでの販売も計画しているということです。漁師さんだけが知っていた、厳しい環境で生まれる絶品の牡蠣。食べられる日が楽しみです。

『うらと海の子再生プロジェクト』

2013年1月9日

1月9日 塩釜市浦戸諸島・桂島 小泉善雅さん(3) 『うらと海の子再生プロジェクト』


南ブルターニュ牡蠣養殖場にて視察(2012年12月)

宮城県塩釜市浦戸諸島、桂島からのレポートです。

『一口オーナー制度』という形で、漁業を再開するための支援金をつのり、支援者に海の幸を還元する『うらと海の子再生プロジェクト』。支援金の募集はすでに終了しましたが、支援を受けた9人の牡蠣漁師さんたちは、いち早く漁業資材を復旧。誰一人欠けることなく、現在も桂島の海で仕事を続けています。

この「うらと海の子再生プロジェクト」を立ち上げ、島の漁業を救ったのは、高齢化が進む 小さな島にやってきた30代の“新米牡蠣漁師” 小泉善雅さん。集まった支援金の使い道と、今後のプランについて伺いました。

◆一粒牡蠣に込める希望
2か月半ほどで1万4000人近くの支援者から、1億8500万円の支援を頂いた。1口1万円のうち半分の5000円は、漁業資材の購入・破損施設の修繕に。残り半分のうちの15%(1500円)はもろもろの経費とした。残り3500円は漁業者の現金収入。ただの現金収入では“生活支援金”で終わってしまうので、加工品を高く買い取ってもらうという形をとった。生産意欲の向上につなげ、漁業を辞めさせないため。続けてもらうため。応援する支援者がいたからこそ、みんな助けられたと思う。現在は、うらと海の子再生プロジェクトを法人化し、頂いた支援金を有効活用している。復旧だけで終わらず、震災前よりも活気を取り戻す復興へ向けて。元気になって欲しいというメッセージをたくさんいただいた。高齢化で離職者が増え、漁業が衰退する中、この機会に新しいものを見出して、若い世代も一緒にやっていけるようなことを始めている。その一環として、フランスのかき養殖を視察。大きな実りがあった。震災前からしたいと思っていた、天然のひとつぶ牡蠣の養殖をはじめる。この美味しい牡蠣をみんなに味わってほしい。今後は養殖を始めていきたい。美味しいものを提供できると思う。


桂島周辺の海は、干潮時に干上がる「潮間帯」で、こうした厳しい環境で育つのが、猛暑にも負けない生命力を持ち、濃厚な旨みと甘味が特徴の「一粒牡蠣」です。うらと海の子再生プロジェクトでは、フランス研修で学んだノウハウを生かし、この「一粒牡蠣」のブランド化をめざしているということです。

『うらと海の子再生プロジェクト』
(※一口オーナー制度・支援金の募集は打ち切られています)

2013年1月8日

1月8日 塩釜市浦戸諸島・桂島 小泉善雅さん(2) 『うらと海の子再生プロジェクト』


宮城県塩釜市、浦戸諸島・桂島からのレポートです。

味の濃い、良質な牡蠣の産地・桂島は、震災後の早い段階で養殖に必要な資材・施設を復旧しました。これはインターネットを通じた全国からの支援の力が大きいのですが、そのアイデアの発案者が、牡蠣漁師・小泉善雅さんです。塩釜市生まれの小泉さんは、東京での会社員生活を経て、30代半ばで地元にUターン。牡蠣漁師として第二の人生を送ろうとした矢先、震災に見舞われました。

★うらと海の子再生プロジェクト
震災当日は桂島におらず、松島湾内の別の場所で被災した。1〜2週間後、ようやく桂島と連絡がついたのだが、「全部流され、先行きが見えない状態。桂島じゃなく、塩釜(島外)で別の仕事があるならそっちにした方がいい。漁業は無理だ。先行き真っ暗で見通しが立たない」と言われた。ようやく桂島に入れたのは4月2日。ちょうどその頃、システムエンジニアをやっていた兄の無事がツイッターで分かり、ツイッターという存在を知った。それを利用して島の情報を発信しようと考えたのだけど、場所はネット環境の整備されない離島。そんな中、たまたまアメリカのNGO団体(国際NGOオペレーション・ブレッシング・インターナショナル)が支援の要望を聞いてきたので、ネット環境の整備をしてほしいと要請。翌日には発電機とノートパソコンとポケットWi-Fiを持ってきてくれた。兄を呼んでツイッターのアカウントを取り、「うらと海の子再生プロジェクト」をはじめた。とにかく支援金を呼びかけ、牡蠣、海苔、ワカメでお返しをする一口オーナー制度をツイートした。


「うらと海の子再生プロジェクト」の一口オーナー制度の支援金呼びかけで集まった金額は、約1億8500万円(2011年4月〜6月の2か月間、およそ1万3000人)。支援金の多くはすでに漁業資材、設備、かさ上げ工事などに活用されています。そのほか、国際NGOやロータリークラブからの支援を受けた桂島では、小泉さんを含む牡蠣漁師9人は、全員廃業を免れ、漁を続けています。

『うらと海の子再生プロジェクト』
(※一口オーナー制度・支援金の募集は打ち切られています)

2013年1月7日

1月7日 桂島の牡蠣漁師・小泉善雅さん(1)



先週に引き続き、宮城県塩釜市 浦戸諸島、桂島からのレポートです。
牡蠣やワカメの産地として知られる浦戸諸島では、『うらと海の子再生プロジェクト』という漁業再生の取り組みが続いています。プロジェクトの代表は桂島の牡蠣漁師・小泉善雅さん。小泉さんは東京での会社員生活を経て、地元・塩釜にUターン。36歳で牡蠣漁師として、おととし3月に独立した直後に震災に遭いました。

◆住民票を移した翌日に震災。カキ養殖業の資材も家も失う
震災直前に、桂島の漁師たちに受け入れてもらい、牡蠣養殖業をするはずだったが、正式に始めることが出来たのは震災後。木材関係の商社マンを辞めて、地元・塩釜に帰ってきた。自然の中で生きたいという想いがあった。6年前、たまたま知り合った松島の牡蠣漁師の方の下で修業。牡蠣漁師として独立をめざして転々としていたところ、宮城県漁協浦戸支所と繋がり、桂島の漁師として受け入れてもらった。震災直前の3月6日には桂島の漁師の集まりに参加して、新人漁師として紹介してもらったばかりだった。民宿だった家を借りて、牡蠣の漁業体験や海外の観光客の長期滞在も可能なゲストハウスをやりながら、牡蠣漁もできれば面白いのではないかと考えていた。住民票を3月10日に移し、船も譲ってもらったばかりだったが、船は一度も乗ることなくどこかへ行ってしまった。家は全壊で更地に。揃えていた牡蠣養殖用の資材もすべて流された。そうなってしまったのは仕方がないから、とにかく動き回った。


牡蠣漁師として独立した矢先に起きた震災。しかし小泉さんは、受け入れてくれた島の漁師たちへの恩返しと、後継者不足を抱える漁業の再生のため、「うらと海の子再生プロジェクト」を立ち上げ、活動を始めたのです。(続く)

『うらと海の子再生プロジェクト』

2013年1月4日

1月4日 宮城県塩釜市 浦戸諸島桂島(4) まなびのたね ネットワーク

今朝も、宮城県塩釜市、浦戸諸島、桂島からのレポートです。

震災後、東北沿岸部では、漁業の再生へ向けた努力が続き、私たちが海や漁業の在り方を改めて考えるきっかけになりました。一方、浦戸諸島では、震災前から漁業をより身近に感じてもらう活動が続いています。桂島の牡蠣漁師、内海信吉さんのお話です。


◆牡蠣は何年生きると思う?
牡蠣の寿命がどのくらいなのかは我々漁業者には実は分からない。養殖なんて立派なことを言っているが、実際には“作業”をしているだけ。実際は自然が育ててくれるもの。だからあまり立派なことは言えない。
以前、タスマニアに行った時に、「この牡蠣は何年生きていると思うか」と聞かれ、2〜3年と答えたが実は10年だった。ええっ?と思った。我々は1年サイクルで仕事をしているが、実際にはそうやって牡蠣が十年単位で生きることを知った。そこで、生きもの、食物のありがたみや尊さを伝えなければいけないと思った。
そこで今、子どもたちに体験学習という形で伝えている。県内のホテルや旅館の調理師にも、体験してもらっている。向いて商品になってショーケースに並んだ牡蠣や、袋詰めになったものではなく、年間を通して、牡蠣養殖の作業を、実際にいかだに乗ってもらって体験してもらう。子どもの中には、「おれ牡蠣大嫌い」という子もいるが、実際に牡蠣をむいて食べてみると、「牡蠣じゃない。前に食べたものと違う」という。でもそれが牡蠣(笑)
旬というのは現場にこないと分からない。それを体験してほしいし、それを守るのは君たち子どもだよと。我々は海で牡蠣の作業をしているが、海を守る作業は我々だけの仕事じゃない。漁業関係者以外の9割の一般の人たちがやってくれないと水産物は提供できなくなってしまう。それを伝えたい。


この取り組みは、教育を通じた地域づくりを目指すNPO法人による、『自然体験ツアーin浦戸』という企画。浦戸諸島の漁師たちの協力で行われています。2013年も、子どもたちを対象に、浦戸の漁師さんの仕事を体験できるイベントを予定しています。

詳しくは『NPO法人まなびのたね ネットワーク

2013年1月3日

1月3日 宮城県塩釜市 浦戸諸島桂島(3) 人の繋がりは財産

今朝も宮城県塩釜市 浦戸諸島・桂島からのレポートです。

浦戸諸島・桂島は、おととし3月11日の震災で、およそ10メートルの津波に襲われました。しかし、地元消防団員の素早い判断、地域の密接な繋がりで、島民は全員が一命を取り留めました。

そして島での避難所生活が始まったのですが、生きるために必要な、電気や食料などの確保はすぐに対応できたと言います。海に囲まれた小さな島で、なぜそれが可能だったのでしょうか。
桂島の牡蠣漁師、内海信吉さんのお話です。

◆離島だからこその備え
この島はすぐに買い物ができる状況ではないし、ガソリンスタンドもない。ガソリンも灯油もみなストックしている。津波で助かった家にはそういうものがあった。だからそれを集めてその日のうちに発電機で避難所に電気を通して情報を得るようにしていた。食事もできるようにした。そこがこの島の人のすごいところ。すぐに炊き出しがはじまった。手のついたものは提供してください。手のついていないものは買い上げますということで、避難所生活が終わったら清算するということで協力をお願いした。炊き出し班のお母さんたちも一生懸命やってくれた。班を決めて分担してもらい、毎日やっていた。それが半年続いたが、お互いを深く知りあうことが出来た。


そしてやはり人と人との繋がりが、災害時に大きな役割を果たしたと、内海さんは振り返ります。

◆人との繋がりは財産
自衛隊から私の携帯に電話がかかってきて、「石巻のある場所と連絡が取れないので、誰か知っている人がいたら連絡とってくれないか」と言われた。沿岸部にいる漁業仲間に連絡が取れ、ヘリの救助がいくことが出来た。そういう情報網は必要。
つながりは、三重にも広島にもある。養殖場がすべて流されてしまった時、三重や広島のおなじ養殖漁師の仲間が養殖資材を届けてくれ、再生の第一歩となった。ありがたかった。


2013年1月2日

1月2日 宮城県塩釜市 浦戸諸島桂島(2) コミュニティが命を救った


今朝も宮城県塩釜市 浦戸諸島・桂島からのレポートです。

松島湾、浦戸諸島の4つの島の一つ、桂島。
人口数百人のこの小さな島は、東日本大震災で10m津波が押し寄せ、
住宅およそ120軒のうち、70軒が損壊。
しかし、島のおよそ200名の住民は全員が無事でした。

200人の命を救ったもの。それは、島に根付くコミュニティと、消防団員たちの判断がありました。桂島の消防団員で海苔漁師・内海信吉さんは当時をこう振り返っています。

◆命を救った“島の繋がり”
この地域の島は、二百数十人しかいない小さなコミュニティ。だから誰がどこにいるのかは連絡取ればすぐにわかる。私も消防団の一員なので、大津波警報が発令された時点で、海に出ている人を呼び戻した。家で待機している人は避難所に戻すということを決めて、無理やり避難所に運んだ。「チリ津波の時はここまで来なかったんだから大丈夫だ」と思っている人もたくさんいたと思うが、ちょっと違うのではないかと思い、若い連中に、叱られるのは一回だがもし大きな津波だったら一生悔いが残ると伝え、無理やり軽トラックに載せて、無理やり運べと指示した。結果、それが正解だった。家は半分無くなったが、亡くなった人はいなかった。「助かった」とみんなおっしゃった。実際には私ではなくて若い連中が運んでくれたのだが。誰がどこにいるのか、小さなコミュニティがしっかりしていたから分かった。当然、海にいた人もいた。牡蠣や海苔の作業をしている人もいたが、誰がどこにいるのかが皆がそれぞれ把握して連絡が取れた。それでみんな戻った。携帯も偶然通じた。防災無線は地震の時点で全てダメになってしまった。たまたま私の携帯が通じたので、避難勧告して逃げようと言った。


2013年1月1日

1月1日 宮城県塩釜市 浦戸諸島の漁業の現状

東日本大震災以降、2度目の新年を迎えました。
番組はこれからも継続して復興途上の被災地の今をお伝えしていきます。


今年最初にクローズアップするのは、
宮城県塩釜市、浦戸諸島に浮かぶ桂島の漁業の現状です。
松島湾の内側に浮かぶ4つの島、浦戸諸島は、「浦戸の牡蠣」をはじめ、ワカメや海苔の名産地です。浦戸諸島の漁師たちは、様々な支援を受け 震災後の早い段階で漁を再開したのですが、この冬、牡蠣漁は別の理由で厳しい状況を迎えています。浦戸諸島・桂島の牡蠣漁師、内海信吉さんに松島湾の船上で伺いました。

◆猛暑の影響
あれもこれも、ウチのいかだ。全部で8台。(今年の牡蠣漁について) 個人差はあるが牡蠣が全滅した方もいらっしゃいます。私の場合は8割くらいが死滅。2割の水揚げができるかどうか。本来は最盛期で忙しい時期だけど供給が出来ない状況。夏場の天気が良すぎて海水温が高かったのが原因。牡蠣が抱卵する夏場に体力を使い切ってしまった。雨も少なかったため、山から里、海へと流れ込む栄養分が回らず、汽水域のプランクトン発生率が下がってしまった。津波の被害を受けた昨年度はみなさんの支援で再生、復旧ができたが、今年はその半分の水揚げにもならない。


震災直後の牡蠣シーズンは、例年の半分まで水揚げが復活しましたが、この冬は去年の半分程度の水揚げに留まるようです。それでも、内海さんは前向きさを失っていません。実は、震災の数か月後に養殖を再開した桂島の牡蠣漁師さんたちは、一人も漁を辞めずに済んでいます。

◆それでも恵まれている
我々のところ(浦戸諸島)は、牡蠣の処理場が助かったので、津波の後もすぐ再生できた。しかし、未だに生産できない仲間がたくさんいる。宮城県内でも。そういう意味では私たちは恵まれている方。津波は南側から来るのだが、桂島は北側に港があるため作業する港が助かった。資材があればなんとかなるということでみんなで頑張って復旧した。牡蠣養殖業だけでなく、海苔業者もそう。海の再生を思っている。


浦戸諸島の早期の漁業再生は、『うらと海の子再生プロジェクト』という取り組みによるものなのですが、これについては、改めてお伝えします。

パーソナリティ 鈴村健一

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