2013年9月30日

9月30日 福島の声を聞こう

今朝は、福島の今を伝えるイベントのレポートです。

作家 渡部一枝さんが、2012年3月から続けている『渡辺一枝トークの会 福島の声を聞こう!』。渡辺さんは震災直後から、なんども福島県内に足を運び、東京で、このトークイベントを続けています。

イベント会場は、東京神楽坂にある「セッションハウス」。毎回、福島で生きる当事者の方を招いて行われています。



◆当事者の言葉を聞く
「福島の声を聞こう!vol.7」、今日は南相馬市の上野敬幸さんに来て頂きました。(南相馬市原町区の)萱浜(かいはま)の北才ノ上というところで、集落が六十数戸あったんですが津波で流されました。集落の中で亡くなった方もたくさんおいでになっています。行方不明の方もまたたくさんおいでになっています。そういう中で上野さんのお宅の辺りは福島第一原発から23キロほどの場所で、30キロ圏内はすぐに避難ということでしたので3月15日に全員避難なさった。でも上野さんは避難せずに残った。なぜ残ったかと言うと、ご家族で奥様はご無事だったのですがご両親と子どもさん2人が流され、お母さんと上の娘さんは、ご自身がその後に捜索して見つけられたのですが、お父さんと息子さんがまだ見つかっていないと言うことで、避難せずにそこで探したいということで残っておられました。私自身は2011年の8月から南相馬市に通って、現地の方にクルマで案内して頂いているんです。すると鯉のぼりが1本立っていて、何もない、しかもまだ8月当時は色々なものが片付いていない状況で、例えば消防自動車とかお墓の墓石とかがボロボロ転がっていて、津波で1階部分が波が突き抜けたような形でたった1軒残っていて、そこに鯉のぼりがすっと立っているというそこに私は、クルマから降りて自分の足で歩くことができずに、クルマの中から手を合わせて通り過ぎていました。


こうして『渡辺一枝トークの会 福島の声を聞こう』の第7回は南相馬市原町区の上野敬幸さんを招いて行われました。上野さんは、現在も被災地で行方不明者の捜索を続けている男性です。ご本人のお話は、明日のこの時間にお伝えします。

渡辺一枝さんは、これまで何度も福島へ行き、そこで見たもの、聞いた話を雑誌やメールで配信してきていますが、『当事者の言葉は、私の書く言葉とは全然違う。少しでも福島のことが伝われば、とこのトークイベントを続けている』と話しています。

「渡辺一枝トークの会 福島の声を聞こう」について詳しくは、神楽坂 セッションハウス のウェブサイトをご覧ください。

明日も、このイベントの模様をお届けします。 

2013年9月26日

9月26日 WWFジャパン「暮らしと自然の復興プロジェクト」(2)



東日本沿岸部の生態系の回復と水産業の復興を目指して行う、このプロジェクト。モデル地区の一つ、宮城県南三陸町戸倉地区では、先日子どもたちのための「シュノーケル観察会」と「海に関する学習会」が行われました。およそ30人の子どもたちが、シュノーケルやフィンを身に付けて、志津川湾の海へ。海を正しく理解し、今後の課題を見つけるのが目的です。

そして、このプロジェクトは、地元の教育関係者、漁業関係者のサポートも得て、行われています。お話は、漁業関係者の父兄で組織する「戸倉地域スクール」の代表、後藤清広さん。後藤さんは、戸倉漁協で、「カキ部会」の代表も務めています。

◆カキの養殖。いまが正念場。
地域の子供たちだが、意外と海に潜ったりすることが少ないので、ぜひとも地域の海を見てほしいという気持ちがあったので、非常に良かったと思う。
わたしたちは津波を経験して、いままでの環境を無視した(過密な漁や養殖の)やり方について、自然を征服したような気持ちになっていたけど、それが全然間違っていた、と。津波で全て失って、やはりこれではいけないと。今後20年、30年やっていくなら、津波も低気圧も災害もすべて受け入れて、品質で勝負しようと。がらっと経営を変えていくために、いかだの数を3分の1以下にして、生産のサイクルを早めて、災害のリスクもコストも減らす方向に。いままで2〜3年かかったものが、いまは1年でも生産できるようになった。こうやってなんとか次の世代に海をつないでいくための、いまは正念場。頑張るしかない。





◆シュノーケル観察会に参加した子どもたちの感想
「海の力と書きました。海でいろんな生き物を発見しました。フグとか小魚とか。」
「シュノーケリングで知ったこと。いろんな魚がいたのがわかったし、潜ったほうがどんな魚がいるのかがわかって、海の色とかもわかって、もっときれいだなと思うようになった」。
「震災後初めて海に入った。海の中はわたしが思ったよりすごく透き通っていて、魚とかが泳いでいた。津波のときの海から創造できないくらいきれいでした。」
「去年と比較してアマモ(海藻)の漁は去年より多かったんじゃないかと思う。震災から復興しているのが見えたし、来年はどうなっているのかなと思っています。」


戸倉地区では、震災をきっかけに養殖するカキの数を減らし、「大型カキのブランド化」で生き残りを図っています。養殖密度が下がって、カキに栄養が行き渡り、以前よりも、早いサイクルで、大きなカキがとれるようになったとか。次の世代に、海と漁業をつなぐ取り組みが続いています。


2013年9月25日

9月25日 WWFジャパン「暮らしと自然の復興プロジェクト」(1)

WWFジャパンが、東日本沿岸部の生態系の回復と、水産業の復興を目指して行う「暮らしと自然の復興プロジェクト」は、宮城県南三陸町戸倉地区と、福島県相馬市松川浦の2カ所がモデル地区に選ばれています。

9月の上旬、南三陸町戸倉地区で行われたのは、子どもたちのための「シュノーケル観察会」と「海に関する学習会」です。ウェットスーツにシュノーケル、フィンを身に付けて、子供たちは海の中へ。お話は、WWFジャパン自然保護室・海洋プログラム担当の前川聡さんです。

◆海の楽しさ、美しさを知ってほしい
震災以前から志津川湾は非常に貴重な環境だということで、環境省がラムサール条約(湿地や海を守るための国際条約)の候補地にしていた地域。これは非常に豊かな海藻が生えている、ワカメだけでなくアマモやアラメなどたくさんの海藻が生えているのが特徴的。
一方で、ここは養殖業や漁業が盛んな地域。豊かな自然と漁業がどう共存していくのかを、震災をきっかけに戸倉漁協の方たちも見直しをされているところ。それをぜひ応援して、豊かな自然と漁業が共存する街造りを進めていきたいと思う。
また震災をきっかけに、次世代を担う子供たちが海を正しく理解することも大切。海がいまどういう状況なのか、課題がなんなのかも知ることも重要だと思う。震災をきっかけに海と子供たちが接する機会が減っているので、まずは海の楽しさ、美しさを知ってもらおうと、地元の方の協力を得て、実施しているところです。


◆シュノーケル観察会に参加した子どもたちの声
「動くとにごってるけど、(海の)中はきれい。魚とかクラゲとかいる。」
「ウニです。岩場に張り付いていて、とるのが大変だった。このごろ釣りをやってもあまり釣れなくなったので生き物がいなくなったのか、心配していた。思ったよりガレキとかが少なくて、よかった。」
「魚とワカメ。たくさん。楽しかった。」
「やっぱ海いいです。楽しいです。ちっちゃいころから泳いでるので、久しぶりに泳げて懐かしいなと思いました。」


子供たちと一緒に海に潜った前川さんは、「志津川湾に豊かな自然が戻りつつある」と実感したそう。これをどう維持していくかが、今後の課題です。

また、震災直後は海に入るのを怖がる子供たちもいましたが、この地域では、暮らしと海、暮らしと漁業を切り離すことはできません。子どもたちが「海を正しく理解すること」が、漁業を中心とした地域の活性化にもつながると、前川さんは語ってくれました。

WWFジャパン「暮らしと自然の復興プロジェクト」

2013年9月24日

9月24日 被災地の心のケア4

東日本大震災から2年半が経過した今、必要な心のケアについてお伝えします。東北国際医療会 ゆりあげクリニックのドクター、心療内科医の桑山紀彦さんのインタビューです。



地震や津波の記憶を、「思い出して形にして、乗り越える」。この方法で、桑山さんは被災地の人たちの心のケアを続けています。そして、自分の記憶を素直に形にできる子どもに比べて、震災後、気持ちが張りつめたままの 大人のほうが問題は根深い…と言います。震災から2年半。大人たちに対する心のケアは、今も続いています。

◆語る方法を持たないお父さんたち
今行われている大人たちのケアの中では、編み物集団『閖上アミーズ』という組織がある。とにかく編む。編み続ける。そうすると会話が始まる。『ねえねえ最近家の跡見に行った?」とか「これからどうするつもりなの」とか。会話がどんどん生まれていく。中には娘さんを目の前で失ったお母さんもいるが、
「やっぱり最近、娘のことを思い出すのよね」という言葉が出てくる。しめしめと思いながら黙々と編んでもらった。それを1年半以上続けているが、みなさん非常に表情が明るくなってきてなんでも語れる。「最近は津波の映像を見られるようになった」なんてことも言う。女性たちはそういう手芸を通じて心を開く場所を得た。

対して男性が方法を失っている。お父さんたちは働き続けている。被災直後から、お金が大事ということもあるので働き続けている。抱えたままずっと黙々と働き続けて2年半というお父さんがいかに多いか。正直、僕らは方法を失っている。語って欲しいが語る方法を持っていない。語って下さいと言っても「いまさらいいよ」と思っちゃう。

こうした中、桑山さんが代表を務める『NPO法人 地球のステージ』では、被災された方が、感情と記憶を整理するための、施設を設置もしています。


◆『閖上の記憶』
私たちが置いている『閖上の記憶」というのは津波復興記念資料館のようなもの。視聴覚室も作り、津波の日のことをきっちり全世界の人たちにわかってほしいという資料館。
それは同時に、被災したみなさんに、いつかここに来てもらって、自分の津波の物語を語りだして欲しい、という心のケアのために作ったものでもある。でも、多くの被災されたみなさんが、「残さないで欲しい、見たくない、潰して欲しい」という意見を持ち始めている。それは良くないと思う。心にフタをしてしまうと病気になる。残すべきものは残して次の世代につなぎ、まだ語っていない人はそれを刺激にして語っていただきたい。それが心の復活の全てだと思っている。

この『閖上の記憶』という施設は、慰霊碑の社務所の役割、立ち寄った方がくつろげるスペース、そして、閖上の写真集や、津波に関する記録データの展示をしています。
また、定期的に「語り部の会」なども行われています。桑山さんは『多くの被災地がこういった動きに賛同して、 感情と記憶の整理に向き合って復興への意欲を取り戻せますように』と、この施設に込めた願いを、メッセージしています。
(※地球のステージ サイト「閖上の記憶」より)

2013年9月23日

9月23日 被災地の心のケア3

東日本大震災から2年半が経過した今、必要な心のケアについてお伝えしています。



東北国際医療会 ゆりあげクリニックのドクターで、心療内科医の桑山紀彦さん。紛争地域や難民キャンプの医療支援に長年携わり、東日本大震災でも、被災された方の心のケアを続けています。

先週は、宮城県 名取市 閖上(ゆりあげ)の子どもたちを対象にした、「津波の記憶を、絵や音楽で表現させる」という心のケアのお話でした。そして桑山さんは、このケアが必要なのは、子どもたちだけではないと言います。

◆語ることができない大人たち
思い出して形にして乗り越えていく。それが心のケア。僕達がどうしようと思っている(懸念している)のは大人たち。大人たちは被災経験をなんとか乗り越えようと思うがあまり、仕事を一生懸命やりすぎたり、「日常、日常」と言いすぎて向き合うきっかけを失ってきた。
子どものほうがあの日のことを素直に表現できた。大人は色んなことを頑張らなきゃいけないから、いつまでもあの日のことにとらわれていてはダメだとすぐに思っちゃう。本当はあの日を表現しなければならないのに、大丈夫、俺はもう立ち直ったからと、立ち直っていないのに言ってしまう。その頑張り具合が大きな障害になったと思っている。
今でも大人の中には、悪い夢を見たり、フラッシュバックしたりする人がたくさんいる。そういう方が今後も、「辛いことがあるけれども、なんとか普通の日常を過ごせば忘れられるさ」と思いつづけているから、問題が起きている。
夕方4時くらいになるとなぜか不安定になる人や3月が近づくと胸がわさわさする人とか、みんなあの日のことを忘れようとしても忘れられないでいるから起きる症状。そんな大人のみなさんに、これからどう語っていただくか。僕の外来にも40代〜50代の働き盛りのお父さんがたくさん来ている。それはやはり津波で家を失い、家族を失い、それでも直後から黙々と働き続けているお父さんたち。
一生懸命話を聞いて、いまさらだが泣いて頂き外来を終えているが、泣くことで人間はどれほど心の重荷をおろせるか。今まで被災以降800人以上の方にお話を聴いたが、涙が全て。
人間は感情を吐露することが大切。だから究極でいえば夜の海に向かって、「津波の馬鹿野郎!」と叫んで欲しい。「俺の家族を返せ!」と。それを叫べないからずっと苦しんでいる。人間はそうやって、心の奥底から叫び、心を軽くしていける生き物だと思います。

明日も、東北医療会 ゆりあげクリニック 桑山紀彦さんのお話です。

2013年9月20日

9月20日 被災地の心のケア2

昨日に引き続き、お話は、東北国際医療会 ゆりあげクリニックのドクターで、心療内科医の桑山紀彦さん。紛争地域や難民キャンプの医療支援活動に長年携わり、東日本大震災でも、被災された方の心のケアを続けています。

津波を目の当たりにし、辛い体験をした子どもたちに桑山さんが行ってきたケアとは、一体どんなものなのでしょうか。

◆思い出して、形にする
子どもたちの心のケアは「向き合う」この一言に尽きる。とにかく津波のことを避けない。思い出して、形にして乗り越えていく。それが心のケアの全て。
いきなり演劇やるぞ、映画撮影するぞといっても、子どもたちは「ええ?」という感じになる。だから表現としては、2次元、3次元、4次元とアップグレードしていくのが定石。2次元表現とは絵を描く事。当時小学校3年制だったミキちゃんは、津波のことで一番覚えているのは、お母さんと一緒に津波に追われて逃げたという記憶。それをまず絵に書いてくれた。後ろの方にはドス黒い津波。手前には自分とお母さんを描いてくれた。よしミキちゃんここまで描けたか、じゃあ次はこれを立体、つまり粘土で作ろうと。あの津波の日を思い出して、勇気を出して作るジオラマ。絵で練習したことを紙粘土で練習してくれた。次はそれを音楽にする。津波の日のことを歌詞にする。3番は未来に向けた願いになる。「大きな波に襲われかけたよ。それと、ママと一緒に逃げた」…これはミキちゃんが作ってくれた歌詞。こうして紙に表現したものが粘土になり、それが歌詞に変わり音楽として演奏する。これが4次元表現。なぜなら時間軸があるから。3次元で作ったものを時間の経過とともに演奏し演じていくのが4次元表現。みなこのあたりになると楽しんでくる。「もっと曲作りたい、もっと歌いたい」と言ってくれて、良かったなと思った。
私たちと接してくれた閖上小学校の子どもたちは、津波に向き合えるようになったなと思う。もう津波の映像を見られるし海にも行ける。ちゃんと津波のこともしゃべることができる。一方、僕達がどうしようと思っている(懸念している)のは大人たち。大人たちはいつの間にか忘れていくのを待っている段階。でもあの出来事は忘れられない。このままだとPTSD(心的外傷後ストレス障害)という病気になってしまう。そんな大人の皆さんに、これからどう語っていただくか。そこは今の被災地の大きな問題。


桑山さんは、「いま、心配なのは大人たち」と話していますが、これについては、来週のこの時間に詳しくお伝えします。

2013年9月19日

9月19日 被災地の心のケア1

今朝は、東日本大震災から、2年半が経過した今、被災された方に必要な “心のケア”についてお伝えします。

お話を伺ったのは、東北国際医療会 ゆりあげクリニックのドクターで、心療内科医の桑山紀彦さんです。桑山さんは海外の紛争地域や難民キャンプ、スマトラ島やジャワ島の津波被災地で、医療支援活動に長年携わり、東日本大震災でも、被災された方の心のケアを続けています。

そして桑山さん自身も、3月11日の地震と津波を、勤務先で経験されています。

◆病院を開けなければいけない
私たちは宮城県名取市に拠点があり、仙台空港の横ですから地震と津波の直撃を受けました。とにかく周りは瓦礫の山で患者さんが何人も亡くなっていて、絶望の中でフラフラしていたら、朝の9時に患者さんが待っていた。ふと我に返った。我々は医者で、病院を開けなければいけない。電気が来ていなかったので自動ドアを手でこじ開けて中に患者さんを導き入れたところ、磯の香りがした。それは津波の被害者だから。命からがら逃げていらっしゃった方、ショックで放心状態の方・・・。海に一番近くて残った唯一のクリニックだったので、そこを維持するのは当然だったと思う。


こうして、桑山さんの病院は、被災翌日から24時間体制で診療を再開しました。そして2年半。心療内科医として、被災された方を診続ける桑山さんが、今感じていることを伺いました。

◆向き合い、乗り越える
現在の一番の問題は心の問題。子どもたちの心のケアは2年間たっぷりやって、「向き合う」この一言に尽きると思っている。とにかく津波のことを避けない。きちんと取り入れて整理して形にしていくという2年間だった。最初は画を書いてもらうという取り組みやすいものからはじめ、だんだんアップグレードしていき、粘土を使ったジオラマ製作や、瓦礫を楽器にして(子どもたちはガレッキと呼んでいた)音楽制作、さらに映像制作、そして映画の制作。さらに演劇。こうして表現をアップグレードしていくことで、彼らに表現してもらったという2年だった。思い出して形にして乗り越えていく。それが心のケアの全て。忘れていくのを待っていたら病気になるというのは、全世界で私たちが経験したことであり、標準的な考え方なのに、我が日本では「ほっておけば忘れるよ、だからほっておきなさい」という声が多くてびっくりしてしまった。それは心のケアには100%逆行すること。これはとても日本の文化的な背景があると思った。私たちは非常に規律があって周りのことを慮って行動するある意味良い癖がついている。だから静かにして、人の顔色を読んで行動しようという日本古来の考え方が、私たちの心のケアとは相容れなかったのだと思った。でもこれは文化の問題ではない。心が傷ついたら直さねばならない。そのためには文化の壁を乗り越えて新しい考え方、向き合って乗り越えていくというのを我々日本人も学ばねばならないなと、今回被災して思いました。



桑山さんは、NPO法人『地球のステージ』の代表理事も務めています。国際医療救援活動をしてきた桑山さんが案内役となり、世界の紛争地域などで起きている様々な出来事を、映像や音楽、語りを通じて 伝えるというステージイベント。96年から、全国で展開しています。近年は、東日本大震災の心のケアについても、このイベントで 実際の活動を伝えています。

★地球のステージ

2013年9月18日

9月18日 震災怪談3

今朝も、『震災怪談』についてお伝えします。

東北に伝わる怪談話を集めた、柳田國男の『遠野物語』には、明治三陸大津波に関する怪談話も収められています。一方、遠野物語を受け継いではじまった『みちのく怪談コンテスト』にも、東日本大震災をテーマにした怪談・実体験が数多く寄せられています。

きのうご紹介した、気仙沼出身の女性と、亡くなったお父さんに関する体験談も、ご本人の手で『白い花弁』というタイトルの「物語」になっています。

津波で亡くなったはずの人が現れ、遺族にメッセージを残すといった“不思議な話”を、残された方が 物語として語り継ぐ理由とはなんなのでしょうか。仙台の出版社『荒蝦夷』の代表・土方正志さんは、こう話します。

◆物語が語り継がれる理由
「2万人の死者」というが、被災地に暮らしている僕らにとっては2万というデータではない。「ひとりひとり」なんですよね。自分の知っている1人の人間に起こったことが、2万件起きてしまったというものすごいこと。彼女(須藤茜さん)も、2万人という記号で語られるのではなく、自分が体験したちょっと不思議な話を文字にして残すことで、2万人の死者ではなく「私のお父さんの死」を記録に残したかったのではないか。これは彼女だけではないが、書くことや語ることで救われる人がいる。誰かに伝えることで救われる人たちがいることは間違いない。ただ、すべての人がそうではなく、まだ語れない、まだ書けないという人たちもたくさんいる。他に言い方が無いので困ってしまうが、今、被災地で暮らす人たちの精神的な、内面の記録なのではないかと思う。精神的、経済的にもあがいている状態。そのあがいていること自体を残していくしかないよな。物語が一番役にたつのって、きっとそういうことなのではないか。民族的な知恵なんじゃないですかね。意識して教訓を残そうというのではなく、遠野物語だけじゃなく、落語でもなんでも、なぜそういう話が残ってきたのかと言うと、それなりの理由があると思う。



仙台の出版社・荒蝦夷代表の土方さんは、遠野物語の中に、明治の大津波に関する怪談話があることを例に挙げ、こうも話しています。

「当時の人たちが、何を感じ、どう経験を昇華して生き続けたのか。100年前の津波でも、こういう体験や想いがあったことを知れば、私たちもなんとかやっていける。だから、物語を残すことで、100年後の人たちに、いま自分たちもこうなんだから、100年後のあなたたちも大丈夫だよというメッセージが伝わればよい」

明日は、宮城県名取市の医師・桑山紀彦(のりひこ)さんのインタビューをお届けします。

★みちのく怪談コンテストブログ

2013年9月17日

9月17日 震災怪談2

今朝も、『震災怪談』についてお伝えします。

震災から2年半。いま、沿岸被災地の人々の間で、“不思議な体験談”が、広がり始めています。
こうした体験談や不思議な創作物語を公募しているのが、仙台の出版社『荒蝦夷』と怪談文芸誌『幽』と共同で実施している、『みちのく怪談コンテスト』。東北をテーマに、震災前から続く怪談文学のコンテストです。震災後の2011年は、『白い花弁(かべん)』というストーリーが大賞に選ばれています。

『白い花弁』は、宮城県 気仙沼出身の作者・須藤茜さんが実際に体験したエピソードです。東日本大震災当日、仙台の職場にいた須藤さんは、地元に戻れず山形県に避難。気仙沼港で船の整備士をしていた お父さんの安否が分からないまま避難生活を続けていました。そこで須藤さんは不思議な体験をしたと言います。ご本人に語って頂きました。

◆白い花弁
(震災から)一週間後に、実家から「まだお父さんが見つかっていない」という連絡がきた。その時私は知人を頼り山形県に避難していて、なかなかお風呂に入れない状況だったので、お風呂屋さんへ行った。
銭湯の靴箱に靴を入れ、靴箱に鍵をかけてお風呂に入り、帰ろうと下駄箱を開けて靴を出して足を入れたところ、「ふわっ」と何かを踏んだ感触がした。

なんだと思って足をひっこめたら、白い花が、靴のかかとの部分に入っていた。隙間の無い靴箱なので、どうやって入ったのか分からない。気付かなかっただけだろう、こんなのに気付かないなんてね、と、その場は笑って終わった。

それから2週間後、父が見つかった。
遺体安置所から棺で帰ってきた父は、顔の部分だけがガラスで縁どられていて、胸のところにお花があった。あの時、靴の中に入っていた白い花と同じ花だった。あの日、靴の中の白い花を見た時、不思議な体験をしてしまったので、父は助かっていないかもと思ってしまった。偶然かも知れないが、あとから考えると一致していた。私は棺の中の父に触れることができず、でも触りたいとずっと思っていた。あとから考えたのは、その白い花のフワっとした感触はもしかすると父の皮膚の感触に似ていたんじゃないかなということ。花を踏むことで父の皮膚に触れたんじゃないかと最近は考えるようになった。

文章に起こして物語にすることで、自分の身に起きたことが何がなんだかわちゃわちゃした状態だったものを客観的にできた。悔しさや悲しさを、物語に全部移してしまうことで客観的に見れた気がする。

東日本大震災で亡くなった方は、およそ2万人。須藤さんは、「2万人、という数字で表されることのくやしさ」を感じ、自分のの父親が亡くなった事実を知って欲しいと言う気持ちから、この物語を書こうと考えた、ともおっしゃっています。

「白い花弁」は、「みちのく怪談コンテスト傑作選 2011」に掲載されています。
★みちのく怪談コンテストブログ


「白い花弁」作者の須藤茜さん。
須藤さんは、本名の須藤文音さんとして、「なぜ父が死んだのか」を知るために、地震学、地震考古学、防災学の研究者をたずね、地震や防災について考えた本『地震のはなしを聞きに行く 』も発表しています。

2013年9月16日

9月16日 震災怪談

今朝、お届けするのは、『震災怪談』です。
いま、東日本大震災の被害を受けた地域で、 “不思議な体験をした”という話が、広がり始めています。 そして、こうした体験談を“震災怪談”として記録し、語り継ごう という動きも始まっています。

お話を伺ったのは、仙台の出版社『荒蝦夷(あらえみし)』の代表・土方正志さん。荒蝦夷は、震災前から、東北に語り継がれる“怪談”を取りまとめてきた出版社です。

◆被災地に広がる“不思議な話”
沿岸被災地で「怪談」とまでは言わないが、ちょっと不思議な話が語られるようになっている。有名なものでは、仙台市内を流しているタクシーの話。乗客に行き先を尋ねると、津波で壊滅した「閖上まで」という。夜に閖上に言っても何もないですよ、と振り返ると誰も乗っていない。そこで仙台市内のタクシー運転手はどうするかというと、閖上まで行き、ドアを開け、バタンとしめて帰る。つまり、帰りたい人が乗ってきたのだから連れて行ってあげようということだと思う。こういう話が宮城県の各地で語られるようになっている。

もう一つは、わたしが直接耳にした話。宮城県北の仮設住宅におばあちゃんがやってきて、お茶っこ飲み(茶飲み話の世間話)をして、またね、と帰っていく。すると座っていた座布団がぐっしょり濡れている。家に招き入れた人は、そのおばあちゃんが、あの日に亡くなったはずだと気がつくが、仮設の色んな家に現れるそのおばあちゃんを、誰もが招き入れ、お茶を飲ませて送り出すという。
どう思っているのかを尋ねると「あのおばあちゃんは自分が死んだことに気づいていない、急に津波にやられちゃったから。そんなおばあちゃんに、あんたあの日にもう死んでしまったから来るんじゃない、というのも気の毒でな」と言う。だからみんな、「そのうち気がつくべ、ということで来たら上げてやんだ」という話をしてくれた。さっきのタクシーの話にしてもおばあちゃんの話にしても、そういう話が語られるというのは、生きている側、生き残っている側の一つの想い、願いがこういう話になってどんどん出てくるんじゃないかなと思う。


こうした“震災怪談”は、実は、1896年の明治三陸大津波のあとにも数多く語られ、民俗学者・柳田国男の「遠野物語」にも、掲載されています。その「遠野物語」を受け継ぐ形で、土方さんが代表を務める「荒蝦夷」は、怪談文学誌「幽」と共同で、「みちのく怪談」というプロジェクトを震災前から続けており、東北に伝わる怪談を取りまとめています。

明日も、沿岸被災地で語られる「震災怪談」についてお届けします。


荒蝦夷 代表 土方正志さん

2013年9月13日

9月13日 海と陸をつなぐ場所、防潮堤を考える(8)

「土木・工学」の視点から、防潮堤について考えます。
お話は、九州大学大学院(工学研究院環境社会部門)准教授、清野聡子さん。清野さんは、河川や海岸の生態工学が専門で、被災地の防潮堤のあり方について、支援/アドバイスを行っています。防潮堤建設を含む海辺の開発は、行政や事業者に一任するのが通例。でも、わたしたち一人一人が、声を上げる権利があると、清野さんは言います。

◆海岸は誰のもの?
「海/海岸は誰のものか」。海辺や海はそもそも国有地で国民のものだが、埋め立てにより、誰しもがアクセスできる海辺のはずなのに、埋め立てた人が自分の土地として、そこを立ち入り禁止にしたりして、70年代かなり議論になった。
そんな中、1999年(平成11年)海岸法が改正され、「防護」だけでなく「環境保全」や「利用者メリット」にも重点が置かれるようになり、一般の人が海岸について意見を言うことができるようになった。国民の権利として、海岸の形をどうするかとか、生態系をどうするかなど、(市民から)自由に意見が出ているという状態が望ましい。そうすると、「線で守る」とか「壁(=防潮堤)を建てる」とか、「(海辺)ぎりぎりまで住んでしまう」ということではないのではないか、見直さなければという機運がある。これだけのことがあったのだから、見直さざるをえないというのが、海岸に詳しい専門家や市民の意見。
また今回津波があり「高台」が注目されている。縄文遺跡や古墳があるところは、ものすごい知恵のかたまり。高台移転を予定していた場所に遺跡があって、それは、昔の人がそこに集中して住んできたということ。高台に住む「価値」をもう一回見出すこと。時間や空間の「スケール(尺度)」を大きく持って、どこに住むべきかをもう一回考えることが重要。


全国各地で巨大防潮堤の建設が進むなか、さまざまな角度から「防潮堤」について考えてきました。「住民の命をどう守るか」「環境や生態系への影響」「海辺の景観」「自然の地形を生かした防災」など、問題は単純ではありません。
そんな中でも、「行政や予算の都合でなく、時間をかけてじっくり考えるべき」という専門家の言葉が印象に残ります。沿岸の暮らしと防災をどう両立させるのか。各地で模索が続いています。

2013年9月12日

9月12日 海と陸をつなぐ場所、防潮堤を考える(7)

引き続きテーマは「防潮堤」です。今日は「土木・工学」の視点から、防潮堤について考えます。お話は、九州大学大学院(工学研究院環境社会部門)准教授、清野聡子さん。河川や海岸の生態工学が専門で、被災地の防潮堤の建設について、支援/アドバイスを行っています。清野さんは、「自然は最大の防災施設」だと言います。

◆自然は最大の防災施設
例えば砂浜だと、波打ち際があって、砂の乾いているところがあって、砂丘があって木とかが生えていて、砂丘を越えるとちょっと低いところがあるとか、「海辺の凸凹」というものがある。それ自体が、海の波だとか津波を、砂丘がブロックしてくれるという感覚が昔はあって、砂丘を壊し始めたのは戦後のこと。戦前までは、砂丘が自然の地形として、波の勢いを鎮めてくれたり、ブロックしてくれるということがわかっていて、だからこそ砂丘に松を植えたり、竹を置いたりした。
昔の人は「線」で壁にするのではなく、海の波がどう消えていくか、水位がどう上がっていくかなどをよく見ながら考えて、海辺の地形を使っていた。逆に「コンクリートの壁で守ります」となってから、ぎりぎりまで開発しちゃっていいんだ、ということになって、全国から砂丘が消えていった。
例えば鎌倉の海岸の砂丘に道路を作る前は、夏目漱石の小説などにも出てくるが、(人々は)砂丘の裏に住んで、海に行くときは必ず砂丘を超えていく。砂丘を超えたら、わーっと海が広がっていくという。開放感もあって。そういう立体的な海への感覚があったのが、海岸道路を通して海を見ながらドライブみたいな(一種欧米風の)感覚が、もともと日本人が持っていた海岸への意識を低くしちゃっているところがある。だから、干潟とか砂浜とか砂丘とか、トータルに見て防災効果もあって、でも普段は遊びにも漁業にも使えるというところを、かなり単目的で観るようになってしまった。


砂浜にコンクリートの壁を置く「防潮堤」は、「線で守る」というやりかた。一方、干潟や砂浜、砂丘を含む、「海辺の地形全体を生かした津波対策」を、清野さんは、「面で守る」と表現していました。「線で守る」から「面で守る」へ。防潮堤を考えるうえで、今後、新たな「キーワード」となりそうです。

2013年9月11日

9月11日海と陸をつなぐ場所、防潮堤を考える(6)

今朝も、東日本沿岸で進む巨大防潮堤計画を受けて、津波工学の専門家の意見を、お伝えします。

「東日本大震災による津波は、2つの津波が重なったもの」「水の重さ・流れの速さが、津波の破壊力に関係している」

東北大学・災害科学国際研究所 副所長、今村文彦教授は、今回の津波で分かったことを、そう説明しています。では、こうした分析結果をもとに考えられる、命を守るための防潮堤とはどんなものなのでしょうか。

◆多重防御・複合的な防潮堤
東日本大震災で大きな被害を受けたわけだが、そこの復興の一つとして防潮堤が建設される。これは「レベル1」という50年から150年のあいだに来る津波の高さを対象としている。
これを超えるようなものは防ぎきれない。これが「レベル2」の考え方。代表的な構造物はコンクリートで、その耐久性は50年から100年。一度作ればそのあいだは機能するがそれ以降は作り変えなければいけない。防潮堤というのはその高さを越えなければ100%守ってくれるものだが、一旦越えてしまうと非常に大きな浸水を起こし被害を拡大してしまう。
今回のように途中で壊れてしまうと、逆に漂流物になって被害を受けてしまう。大切なのは津波の高さを軽減するだけでなく、津波の到達時間を遅らせてあげる。それによって我々が避難する余裕・時間がかせげる。丘みたいなもの。場合によっては森のような植生でも良い。ただ、木も強さに限界があるため、植林する場所が重要。ちょっと小高くしてあげる。木の根が張ることで、全体に津波の力に対して強くなる。今回の津波では立派な松の木も破壊されてしまったのは、根が50センチ程度と浅かったから。低いところに植林されているので頑張りがなかった。海岸からくる津波に対して高さがあり、抵抗があるものを多彩に配置することで少しずつ巨大津波を軽減することが大切だと思っている。


今村さんがおっしゃっているのは、複数の津波対策を組み合わせる『多重防御』という考え方です。そして、その多重防御一つとして今村教授は、「小高い丘になった森」を挙げています。番組で以前紹介した、「森の防潮堤」という取り組みも、その一つです。

また、「多重防御」という意味では、避難の仕方・ルール作りといった「ソフト面」がより重要になってくる。大事なのは、命を守ること。防潮堤に頼りっきりになるのではなく、襲ってくる災害から、どうやって離れるか。逃げるか。これが重要になってきます。

2013年9月10日

9月10日海と陸をつなぐ場所、防潮堤を考える(5)

今朝は、先週お届けした東日本沿岸で進む巨大防潮堤計画について、別の視点から考えます。

東北3県だけでも、総延長およそ370キロという大規模な防潮堤の計画が、進もうとしています。すでに建設が始まっている地域がある中、一部の地域では、生態系への影響・住民の合意を理由に、計画の一時凍結を求める声も上がっています。先週は、防潮堤の必要性に疑問を投げかける、住民の方の声を紹介しましたが、一方、津波工学の専門家は、どう考えているのでしょうか。

お話を伺ったのは、東北大学・災害科学国際研究所 副所長、今村文彦教授です。今村教授は、東日本大震災による津波が、私たちに与えた教訓をこう説明します。

◆あの津波から何を学ぶか
まず基本的に津波を知るということ。今回の東日本での津波の状況、被害の状況を知る。今回は初めて津波の第一波、またはそれ以降をきちんと記録することができた。その結果、2段階の津波が見られた。ゆっくり上がってきた津波に、もう一つが加わった。急激に、まるでスパイクのような津波の成分が加わっていた。そういうものがおそらく、色んな堤防や建物の破壊を起こしたのではないかということがわかってきた。

2つ目は、津波の強度、強さが分かった。スピードというか流れ。流れは目で見えない。速い流れも遅い流れもよく見ないとわからない。速い流れがものすごく怖くて、建物・構造物を壊す原因が流れ。流れが速いと力が加わり、破壊をもたらす。仙台平野をふくむ平野は10mクラスの津波が来た。そ高さは三陸の半分以下だが、入ってきた水の量がすごい。それは沿岸部で泥や砂を巻き上げて内陸に入っていった。そういう状況になるとすごく重くなる。海水は密度が1.02だが、(津波は)1.2〜1.3ある。ものすごく重い水の塊がぶつかってきて、そのために港の工場が壊され、家やクルマも流された。ここでは流速が非常に速かった。


そういう状況も今回はじめてわかったので、次に我々が命を守るためには何をしなければいけないのか。住民だけでなく行政も一体として考えていく。これが総合的な防災の非常に重要な一歩だと思う。

今回の津波は、膨大な数の映像やデータが残された初めてのケースだと言われる。そして分かったのが、今回の津波の「速さ」と「重さ」。このデータをどう生かすか、どう生かせば命が守れるのか。住民・行政が一体となって考える必要があるというお話でした。

明日は、これを踏まえ、いま計画されている防潮堤とはどんなものなのか、引き続き、今村教授のお話をお届けします。

2013年9月10日

9月9日2020年東京五輪決定を受けて〜被災地の声

2020年、東京に、オリンピックとパラリンピックがやってきます。今朝は、この一報を受けた、被災地の声をお伝えします。

東京の招致委員による最終プレゼンテーションでは、オリンピックを開催することが、被災地の力になり復興を後押しすると、その意義を強調しました。

7年後に開催される東京オリンピックを、被災地の人々は、どう受け止めているのでしょうか。福島県・会津地方で、観光業に関わる20代の男性の声です。

◆福島の人間として思うこと
やった!という部分はもちろんあります。ただ、最終のプレゼンの中でも、僕は福島の人間なので「福島の原発から250厠イ譴討い襪里如東京では安全です」というフレーズが、言葉は悪いが“弾かれ者”というか腑に落ちないところは正直ある。オリンピックをやると言うことは、東京に限らず日本を観てもらえるということ。この大きな震災をどういう風に日本が乗り越えていくのかというのを世界に示せるところだと思う。まして私は福島の人間。福島は世界的にも有名な地名になってしまった。それをどうにか良い方向、プラスの方向へ持っていきたいという野望はひそかに持っているので、そこは前向きに捉えてやっていきたいなと思います。福島はマラソン選手を結構輩出している。もし望みがかなうならフルマラソンを福島で、という気持ちはありますね。三地方(会津、中通、浜通)とあるので、ぜひその三地方を入れるようなフルマラソンコースだと観に行きたいなと思った。


続いて、宮城県・南三陸で同じく観光に携わっている20代の女性の声です。

◆7年後、素敵な町になっていたい
日本にたくさん他の国の方が来て頂くので、7年後に被災した場所がどうなっているのかを改めて考えて頂きながら、7年前はこうなっていたけど今はこうなっているんだという。今メディア自体が被災地を取り上げることが少なくなってきているので、もう一度、日本というのはどんな国で、素晴らしい場所があって素敵な人たちがいるのか、人と人とのつながりも改めて日本人がみんな感じた部分。それも他の国に来た選手、応援するサポーターにも感じて頂ければと思います。7年後に、素敵な町になって、みんなと一緒に普通に平凡に笑って暮らせるような街になっていればいいなと思います。


そのほかの方にも伺ったが、全体的には、冷静に受け止めながらも、「楽しみにしている」という声が多い印象でした。

1964年の東京オリンピックも、戦後復興の象徴だったと言います。今回のIOC委員への最終プレゼンテーションで、ロンドンはじめパラリンピック3大会に女子陸上で出場した、気仙沼出身の佐藤真海選手は、「スポーツには、新たな夢と笑顔を育む力。希望をもたらす力。人々を結びつける力」があると語りました。スポーツが持つそういった力をオリンピックをきっかけに、しっかり被災地へ向けるための努力が、これから本当に重要になってきます。

2013年9月6日

9月6日海と陸をつなぐ場所、防潮堤を考える(4)


今週のテーマは「防潮堤」。
「防災の日」に東京で行われた、東北の防潮堤計画について考えるシンポジウム。
主催したのは、日本自然保護協会とNPO法人「森は海の恋人」です。
第一部では、気仙沼市の牡蠣漁師で、「森は海の恋人」代表・畠山重篤さんと
広島大学准教授、生物海洋学者の長沼毅さんが対談しました。

二人の話は、「防潮堤」から「海と森のつながり」、さらに「食糧問題」に及びます。

◆畠山重篤×長沼毅、「森と川と海の関係」
(重)いま防潮堤をどうするかという問題があるが、巨大な防潮堤を海辺に張り巡らせてしまうということは、森と海を遮断してしまうことになり、生態系にもかなりの影響がでると思う。
原発のを見ると、地下水ってものすごい量が海に流れでているんですね。
(長)海底湧水といって、海底から真水の地下水がゆる〜く湧いてるんだけれども、その量って見積もるのが難しくて、たぶん川から入るとのと同じくらい海に地下水が入っているんじゃないだろうか。
(重)そういうものを防潮堤がすぱっと断ち切ってしまう可能性もあるね。
(長)防潮堤は砂浜の上にちょこんと乗っけるんじゃなくて、基礎を作るわけだから。そういった地下水が海に湧きだし、魚が水を飲みにくるという場所があるらしい。そういったことがこれから重要になってくるかもしれない。それを遮断しちゃうかもしれない。
(重)もちろん防災が第一だが、海辺で生活しようとするときに、堤防はできましたが人はいなくなりましたじゃ、なんの意味があったか、ということになってしまう。
(長)なにを守りたいか、ということだよね。
(重)いま予算をつけて、早く予算を使ってしまわなければという雰囲気があるが、この自然のメカニズムを勉強してから設計を考えてもらいたい。日本という国は、どこにいってもお魚や貝がとれる。それは塩水だけでとれるわけではなく、その背景が重要だということ。森と川と海の関係さえちゃんとしておけば、魚介類海藻が黙ってたってちゃんととれる。食料問題にもつながってくる。
(長)魚があればわたしも酒が飲めますからね。だいたい、お米の最大の消費者は酒蔵ですからね。
(重)広島なら酒の産地だもんね。だてに酒飲んでるわけじゃないですよね。
(長)そうですよ、国家のためですよ!


「森は海の恋人」という言葉通り、深い森と豊かな海は、切っても切れない関係だと畠山さんは言います。そして、海岸や砂浜は、まさに「森と海をつなぐ場所」。そういう大事な場所に、「巨大防潮堤」が建設されようとしていることを、ちゃんと理解してますか?と畠山さんは訴えていました。

また、会場からは「必要なのは時間」という声も。「千年に一度の津波への備え。予算や行政の都合でなく、じっくり時間をかけて、この問題を考える必要があるのでは?」という意見も出されました。

気仙沼市民による「防潮堤を勉強する会」は、勉強会の様子や、専門家/行政の担当者とのやりとりをHPで公開しています。

2013年9月5日

9月5日 海と陸をつなぐ場所、防潮堤を考える(3)


今週のテーマは「防潮堤」。先日東京で開かれたシンポジウムでは、東北の防潮堤計画の現状について、さまざまな議論が交わされました。この中で二人の専門家が、「防潮堤」を「海の生態系」の視点から語りました。首都大学東京准教授の横山勝英さん、そして京都大学名誉教授、田中克さんです。

◆首都大学東京 横山勝英准教授
震災後に気仙沼で、震災一か月後から水質調査を始めて、毎月船を浮かべて、プランクトンの分布などを調べてきた。その中で海の生産力が強くて、夏場に大発生する赤潮が出なくなって、逆に春に珪藻類が大発生して、それがどうも牡蠣の成長を支えているようだとわかった。
牡蠣が半年から1年くらいで、出荷できるサイズに育ったということだが、それが海の生産性が良好になったということ。つまり、自然は津波でダメージを受けていない。わたしたち人間はすごく弱いので、津波で大変なことになってしまったが、津波の前よりリフレッシュした側面があるとみている。
※生物を保全するということではなく、恵みを得て生きているということなので、海をちゃんと生かすようなことをすることが、わたしたちの暮らしに繋がっているのではと感じた。

◆京都大学 田中克名誉教授
日本鰻がとうとう絶滅危惧の指定を受けたというのは、今年2月のニュース。でもこれは日本鰻だけの話ではない。もっと身近な話としては「あさり」がある。あさりはかつて、日本全体で16万トンくらいとれていたが、いまは3万5千トンほど。日本中かつてどこでもとれていたのが、ほとんどとれなくなった。
日本は近代化の中で海辺を埋め立てて、宅地や農地にした。そこが津波で全部流れた。ところが、生き物たちはもっと逞しくて、そういうもとに戻った海の中で、あさりが増えだしている。その海に、いま「防潮堤」がつくられようとしている。
生き物は、われわれよりはるかに長い歴史を持ち、生きるための賢い知恵を持っている。
これをわたしたちがきちんと考えて、防潮堤をどうするか、考えなければいけない。それは今回の震災の問いかけだったと思う。(巨大防潮堤が)国民的な議論もないままに、東北に出来てしまえば、東南海/南海地震、日本海にも地震は起こるから、日本列島防潮堤鎖国の、世界の笑いものになり、そのつけは次の世代にまわされてしまう。


震災後の調査で、気仙沼市西舞根の湿地帯に、絶滅危惧種の日本鰻や、メダカ、鮎、あさりが戻ってきていることが報告されています。人間社会に大きな被害をもたらした巨大津波ですが、海はその津波でリフレッシュして、生き物が戻りつつあるというのは、なんとも皮肉な話。自然の大きなメカニズムは、わたしたち人間の尺度を大きく超えています。

津波に備えることはもちろん重要。けれども、「巨大防潮堤」が海や生態系にどのような影響を及ぼすのかを検証することも、子供たちの将来を考えたら、同じくらい大切なのではないでしょうか。

2013年9月4日

9月4日 海と陸をつなぐ場所、防潮堤を考える(2)



津波の被害を食い止めるための「防潮堤」。現在、東北3県だけでも、総延長およそ370キロ、高い場所では、10メートルを超える高さの防潮堤の建設が、計画されています。
そんな中、「未来の海辺に何を残すか」・・というテーマで先日、「防潮堤」をめぐるシンポジウムが行われ、生態系や土木の専門家、また被災地の住民などが集まり、東北沿岸の未来について、さまざまな議論が交わされました。

きのうは、気仙沼市大谷地区の、三浦友幸さんのお話お送りしましたが、大谷地区に計画されている防潮堤の高さは、9.8m。砂浜を埋め立てる計画で、住民の間からも疑問の声があがっています。
三浦さんは、過去の巨大防潮堤建設について学ぶため、北海道奥尻島に視察に訪れました。奥尻島は1993年、マグニチュード7.8の地震に見舞われて、火災や津波で、230名の方が犠牲となっています。

◆奥尻島に学ぶ巨大防潮堤の功罪
ちょうど20年前に、北海道南西沖地震があって、沢山の犠牲者の方が出て、ここにもとても巨大な防潮堤ができた。高さ11メートルの防潮堤で、14キロに渡って張り巡らされている。
実際に目にしたが巨大すぎて、かなりショックを受けた。
ここにはもともと砂浜があったが、防潮堤を造ったことで、砂浜が消えてしまったらしい。当時防潮堤をつくることに反対する方は誰もいなかったという。地域の方は、まず命が大事ということで、合意形成をとって、防潮堤をつくった。でも、まさか砂浜が消えてしまうとは思わなかったという。さらにその砂が磯場のほうに流れて、ウニの生息域にウニがいなくなってしまったり、という状況も続いているという。僕は何人かの役所の方や観光協会の方、漁協の方にお話しを伺ったが、当時自分たちはパニックになっていて、砂浜が失われるとか自然環境が失われるということは頭になかった。でもわたしたちはこれに対して後悔している、というお話だった。
僕が質問した方は、家族6人を津波でなくした漁師さんだったが、20年経ってこの話をするときも、目の奥に深い悲しみを秘めているように、僕は感じた。いま防潮堤に対して、「建てられてよかった」と感じている人はいないと、その人は語っていた。
ただ若い方にも話を聞いたところ(彼はガソリンスタンドで働く25歳の青年)、彼は当時5歳で震災の記憶はほとんどなく、防潮堤についても「なんの違和感もない。これが当たり前の風景だから」と答えた。「あるかなしかだったら、防潮堤はあったほうがいいんじゃないか」という答えだった。
僕は奥尻でいろんなことを学んだが、過去のことを、最初から教訓として知っていて、ものごとの選択/街づくりを進めることができたなら、もっと違った結果があったんじゃないかと強く思った。


大きな津波で被災したら、「巨大防潮堤」があったほうがいいと思うのは、ごくごく自然なこと。でも、海と陸をつなぐ海岸に「巨大防潮堤」を建設することは、自然環境や生態系に、大きな影響を及ぼすことがわかってきています。また「海とともにある街の風景」も、大きく損なわれ、長い目で見れば、観光や漁業の経済的な損失にもつながります。「過去の事例」に学び、人/街/自然にとって一番いい方法はどれか、立ち止まって考える必要があるのかもしれません。

2013年9月3日

9月3日 海と陸をつなぐ場所、防潮堤を考える(1)


いま全国で、巨大な防潮堤の建設計画が進もうとしています。東北3県だけでも、その規模は、総延長およそ370キロ。高い場所では、10メートルを超える高さの防潮堤が建設される予定です。津波の被害を食い止めるための「巨大防潮堤」。でもそれは、海岸の生態系や、海を臨む街の景色を一変させてしまう危険もはらんでいます。住民の間でも、いま「防潮堤」に関する議論が高まっています。
そんな中、先日東京で、東北の防潮堤について考えるシンポジウムが開かれました。
『防潮堤まつり in 東京
東日本大震災と防潮堤計画「未来の海辺に何を残すか」』

主催したのは、日本自然保護協会と、NPO法人「森は海の恋人」。
今日は、そのシンポジウムの模様から、宮城県気仙沼市大谷地区、三浦友幸さんの報告です。

◆高さ10メートルの巨大防潮堤(宮城県気仙沼市大谷地区)
震災前の大谷海岸は砂浜ときれいな海が広がっていたが、東日本大震災でことごとく破壊されて、松林も完全に消え去って、砂浜もなくなってしまった。ただ、震災から時間を経て砂浜は徐々に戻ってきて、また砂浜が形成されつつあり、きれいな海岸になるんじゃないかと思っていた矢先に、被災地における防潮堤計画がスタートした。
大谷地区に建設される防潮堤の高さは、9.8メートルで、ほぼ10メートル。断面を見ると台形をしているが、底の部分の幅が40メートルで、すべてコンクリート製。海側にせり出す形で、砂浜を全て埋めて作る計画だった。これに関しては、地域の方はかなり頭にきていた。防潮堤を造りたいという方も中にはいて、やはり恐怖感もあるし。でも砂浜を全部埋めてしまうということはありえないだろうと。かなり焦って、3500名ぐらいの住民を対象に書名活動を行い1324名分の書名が集まった。
要請事項は2つ。一つは計画の一時停止。二番目は住民の意見をもっと取り入れてもらいたい、ということ。防潮堤を完全に否定するものではない。なぜこういう形にしたかというと、防潮堤が欲しいと言う人も中にはいる。大谷地区ではその割合はかなり少ないが、そういう人達もいるので。
要望書は去年の11月に市長に提出した。今調整中。大谷地区はそういう状況下にあります。


大谷地区のように、計画の見直しを行政に要望している地域は他にもあります。大切な問題だけに、時間をかけて、住民と行政でじっくり合意形成をすればいいのではと思いますが、そこには、被災地特有の事情が。「防潮堤建設」と「復興まちづくり」がセットになっていることから、地方自治体としては、建設を計画通りに進めたい、という思惑があるようです。『LOVE&HOPE』ではシリーズで防潮堤を考えます。

2013年9月2日

9月2日 災害時における地域情報ネットワーク構築に関する協定

昨日9月1日は「防災の日」。各地で災害に備える、さまざまな取り組みが行われました。
そして、昨日、TOKYO FMをはじめとするJFN38局と日本郵便は「災害時における地域情報ネットワーク構築に関する協定」を締結しました。災害時、全国におよそ2万4千の窓口を持つ日本郵便が、各地域の情報や窓口の営業状況を、FM放送を通じて発信するというものです。

日本郵便総務部、危機管理・震災復興対策室、室長の深山忠利さんに詳しく伺いました。

◆地域の災害情報をラジオを通して伝えたい
今回の防災協定は、日本郵便が全国津々浦々2万4千の窓口のネットワークを持っているということは、大きな災害があったとき、必ずその地域に郵便局があり、その地域に社員が行動しているということなので、その中で、いろんな地域の被災の状況が集まってくるので、これをTOKYO FM/JFNに提供することで、危険な箇所や通行できない箇所の情報などを活かしていただきたいと考えている。
※やり方としては、日本郵便には各地方に支社があり、JFNも全国にも38の放送局があると聞いている。なので、支社から各放送局に情報の連携ができれば、迅速かつ地域ごとの情報が提供できるのかなと期待している。実際に東日本大震災のときも、宮城県の支局の人間が電話インタビューに対応させていただいた。場合によっては支社を通じて情報を出させてもらったり、ということも考えられるのかなと思う。
※また、大きな被害があった地域での郵便局のサービスの状況(窓口が開けられない/避難所でのサービスの提供/もとあったところとは違うところで仮設郵便局を開く/避難にあった方に郵貯の非常払いなどのサービスを行うなど)を、FM放送を通して地域の方に伝えることで、生活の利便を確保できるのかなというところを期待している。


災害時、被災した郵便局周辺の情報や状況は、優先回線を通じて、全国13の支社に集約されます。その情報をJFN各局が受取り、地域そして全国に発信するというもの。

日本は地震、大雨、噴火など、災害の多い国。そして、災害のとき、なにより欲しいのは「情報」です。でも災害時は、停電したり、通信回線が繋がりにくかったりと、情報収集が難しくなります。そんなとき、重要な情報ツールがラジオ。実際に東日本大震災のときも、ラジオが被災地に情報を伝え続けました。日本郵便が持つ各地域のきめ細やかな情報を、ラジオを通して発信していこうというのが今回の協定の主旨です。

連携に期待するとともに、わたしたちも、地域に役立つ情報をあらゆる手段を使って、伝えていきたいと思います。

パーソナリティ:中西哲生・高橋万里恵

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2017 東日本大震災から5年 LOVE&HOPE 2016年3月11日(金) 特別企画放送

「LOVE&HOPE〜防災ハンドブック2015」PDF版ダウンロード配信中

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