2013年10月31日

10月31日 災害時の民間ヘリコプターの支援活動(高橋ヘリコプターサービス)3

今朝も引き続き、 “民間ヘリコプター”による災害支援についてお伝えします。

東日本大震災の発災直後、いち早く被災地へ飛び支援活動を続けた、茨城県の民間ヘリ会社『高橋ヘリコプターサービス』代表、高橋雅之(まさゆき)さんは、被災地の支援活動に、民間ヘリが有効活用できない現実に直面します。

そして高橋さんは、災害支援のための行政・各団体の連携組織『シビックフォース』とともに、民間ヘリを有効活用するための新たな団体を発足。それが、『NPO法人 オールラウンド・ヘリコプター』です。



◆被災した医療過疎地に民間ヘリを
気仙沼は診療所が流されるなど色々なことがあり、未だに「医療過疎」の状態にある。目の前に(離島の)大島もあるので、そこで医療用の多目的ヘリコプターを使う。気仙沼の場合、急患などは石巻の赤十字病院まで救急車で運んでいる状況にある。そういう医療過疎の場所で、ヘリコプターを使って何かできないかということで、「オールラウンドヘリコプター」という名前のNPOを作り気仙沼での作業を始めたところ。ドクターヘリとは違うが、救命救急士も同乗して、海外でもやっているEMS(エマージェンシーメディカルサービス)のような、ドクターや医療まで運び、なんでもする多目的医療ヘリを目指した団体。例えばドクターヘリでも、ベースから医療過疎地に飛ぶため片道分が余計かかる。であれば、医療過疎地にヘリコプターを置くことで短時間で色々な行動ができるのがメリット。また、気仙沼にベースがあれば周りのことに対してすぐに対処ができる。高橋ヘリコプターサービスのある茨城県から飛ぶと、気仙沼まで1時間半かかってしまう。それが気仙沼にベースがあれば石巻まで15分から20分以内。仙台の病院にも30分で到着できる。いかに書道段階での動きができるかということで、強みがあると思っている。通常、ドクターヘリも防災のヘリコプターも、県単位でやっているため県境の問題がある。今は何県かで協定を結んでいるところもあるが、縦割り行政の弊害がある。それと関係なく、県境を飛ぶミッションでもなんでも使える、という意味のオールラウンドを目指している。それで気仙沼をはじめ、南三陸町、一関と協定を結び、運び先の石巻の赤十字病院とも協定を結び、ようやく準備がスタート。23日から本格始動する形になっている。


このNPO法人は、先週から本格的な運用がスタート。民間主導による医療用ヘリコプター事業は、全国的にもとてもめずらしい試みだといいます。シビックフォースなどの支援団体からの寄付、地域医療に関する補助金などで、運営されます。高橋さんは、「低予算な民間ヘリで、人命を助けられるモデルケースにしたい。」と話しています。

来週のこの時間は、中西哲生とパラリンピアン・佐藤真海選手が仙台からお届け。宮城県石巻市のサンファンフェスティバル、ツール・ド・東北などをご紹介します!!

2013年10月30日

10月30日 災害時の民間ヘリコプターの支援活動(高橋ヘリコプターサービス)2

きのうに引き続き、 “民間ヘリコプター”による災害支援についてお伝えします。

東日本大震災の発災直後、いち早く被災地へ飛び、宮城県・気仙沼への物資の輸送などの支援活動を続けたのが、茨城県にある民間ヘリ会社『高橋ヘリコプターサービス』です。

この会社の代表、高橋雅之さんは、大災害の発災直後にヘリコプターが果たす役割を、こう考えています。

◆ヘリコプターにしかできない支援
生存確率について、発災初期段階72時間以内ということがよく言われる。
先日の伊豆大島の台風被害でもそう言われたが、そのあいだにどれだけの人の命を助けられるかが重要。道路も寸断され、気仙沼大島のような行き来のできない孤立した場所も、ヘリなら2〜3分で行くことができる。日本の国土を考えるとヘリはもっと有効活用されても良いのかなと思う。

こうした考えから、高橋ヘリコプターサービスは一昨年の震災直後、いち早く被災地へ向かいました。しかし高橋さんは、民間のヘリコプターが有効活用できない現実に直面します。

◆教訓が生かされていない
ヘリで行っても、モノを運び人を助けることができず、やみくもに飛んで行ってもやりようがない。災害当時に航空局に連絡を取っても、政府の依頼かと確認され、飛行場に降りる許可も出ないし、相手は分ける燃料もない。「自分たちで勝手にやれ」という感じだった。航空局に問い合わせても、有事なのに平時の対応で、「政府の依頼か」という。NPO、NGOの関係で人道的支援で飛ぶと説明しても、平時の対応をしなさいと言われる。それでは動きが取れないので、自分たちの責任において、私の場合は、お叱りを受けてもいいから、自分の気持ちで飛んで行ったというのが最初の頃。

飛んで行って現場を見ると、こんな状況だというのを国として分かっているのかという疑問符が頭の中をよぎることもあった。こんな大災害、オールジャパンでやらなくてどうするんだという風にも思った。言葉はきついが、色んな災害があるのに教訓が生かされていないのは感じる。そんな中で一生懸命やって少しずつ色んなことが変わっているのは分かるが、実際にはヘリが飛んでいても、統制がとれているかやみくもに飛んでいるのかは無線で聴いていて分かった。もっとうまくできるのではないかなと。自衛隊など組織的なところの命令系統などが色々できると思うのだが…そういう歯がゆさを感じた。


震災時に民間ヘリコプター会社として感じた「歯がゆさ」。この経験から立ち上がった団体が、民間のヘリコプターを、有効活用するための新たな団体、 『NPO法人 オールラウンド・ヘリコプター』です。実は先週から、本格運用がはじまっています。これについて詳しくは、明日のこの時間にお伝えします。

明日も、高橋ヘリコプターサービス代表 高橋さんのインタビューです。

2013年10月29日

10月29日 災害時の民間ヘリコプターの支援活動(高橋ヘリコプターサービス)1

今朝は、東日本大震災 発生直後から宮城県で支援活動を続けた“民間ヘリコプター”にクローズアップします。

お話を伺ったのは、茨城県にある 『高橋ヘリコプターサービス』の代表、高橋雅之さん。この会社は、ヘリの整備や法定検査の代行を行う民間会社です。

一昨年の震災直後、高橋ヘリコプターサービスは、いち早く、被災地へ飛び、物資の輸送・供給などの支援活動を続けました。

なぜ、民間のヘリコプター会社が、震災に素早く対応して、支援を始めることができたのでしょうか。高橋さんは、そのきっかけとして阪神淡路大震災を挙げています。

◆飛んで行っても何もできなかった
災害時は自衛隊をはじめ、消防、警察、防災ヘリ、ドクターヘリも飛んできたが、シビックフォースのようなNPO、NGOの団体が一緒に飛ぶことは非常に難しい。まず「相手にしてくれない」。阪神淡路大震災の時は、ただやみくもに飛んでも、行政などとコラボしていないと何もできない。連絡を取っても「余計なヘリは来るな」という状況だった。地団駄を踏むだけで行きたくてもヘリで飛んで行っても何もできなかった。


こうした経験から高橋ヘリコプターサービスは、2008年ごろ行政・企業・NPOと連携して迅速な災害支援をするための組織「シビックフォース」の呼びかけに応じ、災害時のパートナー協定を結びました。協定は元々、東南海地震を想定したもので、静岡県袋井市やショッピングセンターのイオンと連携して、防災訓練も行っています。

これらの繋がりがあったことで、高橋ヘリコプターは、東日本大震災直後、即座に行動できたと言います。

◆悔しさと複雑な思い
3月11日、まずシヴィックフォースと連絡を取り、「1便飛ばしてくれ」ということでヘリを手配。「石巻に飛んでくれ」ということで石巻イオンへ。現地のイオンは津波にやられておらず、避難所としてイオンが使われていた。そこでシビックフォースの大西代表が災害対策本部と話をし、気仙沼の方が被害が大きいと言う情報を聞いて気仙沼へ向かった。気仙沼イオンは津波に1階部分がやられていた。着陸場所を探していたが防災ヘリや自衛隊ヘリが飛んでいるため、有事ということもあり、イオンの屋上に着陸。イオン店長と気仙沼災害対策本部で話をして、気仙沼を支援しようということになり、その日は飛んで帰った。
それからはパイロット席だけのヘリコプターにして、ベースのある茨城県の結城から気仙沼に、1日2機で2便往復した。バルーンシェルターという送風機と発電機があれば膨らませて、その中に150人くらい入れるもの、一家族ずつが入れるテント、食料品などありとあらゆるものを運んだ。石巻からクルマに乗れないような人を帰りの便で運んでくれと頼まれ運んだこともある。うちの母の実家が新潟県柏崎で、地震の時に手伝いに行ったが、その時とは全然違う。津波のひどさも違うし、当時は気仙沼大島も火が出ていた。色んなヘリがレスキューしていたが、尋常じゃない被害の大きさと、現地に燃料さえあれば自分も現地で色んなことができるなという悔しさと、複雑な思いで飛んでいた。



こうして高橋ヘリコプターサービスは、震災直後からおよそ1か月にわたり、ヘリによる被災地支援を続けました。そして現在、高橋さんは、シビックフォースとともに 『NPO法人 オールラウンド・ヘリコプター』を立ち上げ、 気仙沼を拠点に、民間ヘリの新たな取り組みを始めています。これについては、明日のこの時間にご紹介します。
 

2013年10月28日

10月28日 東北サンさんプロジェクト 佐藤真海・河北新報一力社長コメント

今朝も、サントリーと、東北の地元のメディアや企業が力を合わせて支援活動をする『東北サンさんプロジェクト』についてお届けします。

この活動の最初の1歩として、11月3日、4日に石巻市で行われるのが「ツール・ド・東北2013」、そして「サン・ファン・フェスティバル」です。サントリーはこれまでも漁業支援など総額88億円の復興支援を
行っているんだそうです。

『ツールド東北』は石巻〜南三陸の沿岸部を自転車で走るイベント。先日、「ツールド東北」を主催する河北新報の一力社長、サントリーの社員で気仙沼出身のパラリンピアン・佐藤真海選手、
そして中西さんによるインタビューが行われました。今回の実施について、一力社長、佐藤選手のコメントです。

◆交流してふれあう機会に
(一力社長)サンさんプロジェクトの一環として『ツールド東北』という11月3日に開催されます。
目的は、被災地に多くの方に来てもらおうというのが一番の目標です。震災以来、自転車で被災地を走れるのだったら「ぜひいきたい」という方が全国にたくさんいらした。一人とかチームで言っても、被災地の方に冷たい目で見られるのではないか、迷惑なのではないかと色々心配があって、行きたくてもいけない方がたくさんいたが、このたびツールド東北の開催を求めたら、全国から「待ってました」と応募もすぐ埋まった。今回は順位を競う競技ではなく、ファンライド。まだまだ道路が陥没したり橋が無かったりするところがある。自転車ならクルマと違い、「今」というものを、高さでもスピードでもゆっくり見てもらえると思う。もう一つは、地元の方と触れ合う、交流の場を作る。エイドステーション(休憩所)をたくさん作って、そこで地元の産品を用意して食べてもらう、買ってもらう。それを通して来年以降も来ますよ、というような色んな交流をして欲しい。1500人の方がエントリーされているんですね。宿泊所が足りなかったんです。被災したホテルも旅館もたくさんありますから。そこで今回は「民泊」といって、民間の方がホームステイとして受け入れてくれます。それだけでも交流できます。まさに触れ合う機会を作る。来年以降も継続するという。

(中西)東京オリンピックにも絡めてね。

(一力社長)オリンピックのロードレースは東京から八王子の区間ですが、それが終わってからこちらに来る方がいるかも知れないですね。

(佐藤)私も走りきれるのか自信がないですけど、20キロから30キロしかマックスで走ったことがないので、今回60キロということで未知の世界にチャレンジするという感じですが、外からの応援という形で沢山の人達が行くということに加えて、宮城県の方もたくさん走ると聞いています。まずは外からの応援だけでなくみんなが元気になって盛り上げないと。県内からも。願いでもあります。


この模様は10/28の河北新報(東北エリアの地元新聞)に掲載されています。

そしてもう1つ、東北サンさんプロジェクトの一環で行われるお祭りが、11月3・4日に同じく石巻で行われる「サンファン・フェスティバル」!実はきょう10月28日は、石巻市から、かつて、伊達政宗の命を受けた慶長遣欧使節団が、海を超えヨーロッパへ旅だった日からちょうど400年という日。これを記念して行われるのが、石巻市「サンファン・バウティスタパーク」を会場とした、「サンファン・フェスティバル」です。こちらでは慶長遣欧使節団を乗せた当時の船を復元したものが、震災被害から改修され、久しぶりにお披露目されます。この会場には、スペイン料理や地元の料理もたくさん出店しますのでツールド東北と合せて、ぜひ楽しんでみては。

詳しくは、東北サンさんプロジェクトのウェブサイトをご覧ください。
≪東北サンさんプロジェクト≫

2013年10月25日

10月25日 東北サンさんプロジェクト 中西哲生・佐藤真海対談4

今朝も、中西哲生・佐藤真海選手の対談の模様をお届けします。

サントリーと、東北の地元のメディアや企業が力を合わせて支援活動を繰り広げる『東北サンさんプロジェクト』。中西さんと、サントリー社員で気仙沼出身のパラリンピアン佐藤真海選手がそのアンバサダーを務めています。そして、この支援活動の一環で行われる、『ツールド東北2013』では、中西さんと、佐藤選手がともに、60キロのライドに挑戦します!!

これに関連して行われた対談では、アテネ、北京、ロンドンのパラリンピックに出場し、社会人として子どもたちに自分の体験を元にした出張授業を続け、パラリンピック普及のための活動も積極的に行っている佐藤選手が、「スポーツの力」「役割」について、力強く語りました。

◆2020年へ向けて
これまでアスリートの教員活動と並行して子どもたちに夢を持つことの大切さですとか、自分自身が病気を超えてオリンピックにチャレンジしてきたことを通じた、命について考えるワークショップや公演を手探りでやってきました。本当の答えってわからないまま、自分で大事にしたい思いを伝えてきたんですね。それを5年くらいやってきて、だんだん子どもたちに伝わってきたなと感じてきています。
というのも、パラリンピックって本当にエキサイティングなスポーツの大会なんですね。障害があるなしにかかわらず限界にチャレンジするという本質があって、それを子どもたちに知ってもらうことで、それぞれに置き換えて考えてくれるんですね。次からは、辛いことがあっても諦めないようにしようとか、目に見える障害だけじゃなくて一人ひとりが子どもたちなりに悩みや不安を抱えながら戦っているんですよね。
そういう時にぐっと堪える強さを育んでいってほしいなと思っていますし、そういう活動を広げていきたいですね。これからさらにもっとやっていかないと。わたしはパラリンピックにすごい力をもらって、ロンドンの8万人が入る満員のスタジアムの中で競技をさせてもらって、それはまさにスポーツを楽しみに来た観客たちで溢れかえっていて、すごく幸せだったんですね。そういう風に新にオリンピックとパラリンピックが一つになり、別け隔てなくひとつのスポーツとしてみんなが観に来る、選手たちが高い意識で戦うというのを東京ではさらにムーブメントを一段階アップさせて開催したいというのがあったんですよね。
その目標物があることで、みんなでやっていくことができるので、そこはすごくスポーツの力を今後さらに有効活用していく必要があるのかと思うんですよね。そんなマジメなことを考えるタイプじゃなかったんですけど(笑)
自分自身、20年間スポーツが大好きで育ってきて、大学生の時にいきなり障害を持って、なぜかパラリンピックの選手として10年間歩んできて。両方を経験してきたと思うので、そこで感じてきたことを言葉にしていかなければいけないのかなと、役割を感じています。


来週は、東北サンさんプロジェクトの一環で行われる、ツールド東北と、そしてサン・ファンフェスティバルについて、さらに詳しくお伝えします。

≪東北サンさんプロジェクト≫

2013年10月24日

10月24日 東北サンさんプロジェクト 中西哲生・佐藤真海対談3

今朝も、中西哲生・佐藤真海選手の対談をお届けします。

サントリーと、東北の地元のメディアや企業が力を合わせて支援活動を繰り広げる『東北サンさんプロジェクト』。中西さんと、サントリー社員で気仙沼出身のパラリンピアン佐藤真海選手がアンバサダーを務めています。そしてこの支援活動の一環で行われる、『ツールド東北2013』では、中西さんと、佐藤選手がアンバサダーとして60キロのライドに挑戦することになります!

そして先日、このイベントに先駆けて2人の対談も行われ、あの五輪招致プレゼンに関する話題も。佐藤選手を含む東京五輪の招致委員たちはIOC総会の最終プレゼンテーションで2020年東京オリンピックを見事に勝ち取りましたが、7年後へ向けて、佐藤選手は、いまどんな気持ちでいるのでしょうか。

◆これまでパラリンピックのチャレンジや仕事を通して、自分自身の夢を追い求めることをしてきて、それはそれで幸せを感じてきたんですね。ここからの7年間という時間は、自分自身もそうですけど、みんなで夢を追えるというのが楽しみではありますね。そこはやはり、自分自身の願いも希望もこめて招致の最終プレゼンに立っていたし、実現して夢がつながったという感じです。私たちアスリートって、人と人が繋がっていくことの強さを一番感じていると思うんですよね。それをもう一度、震災のあとに日本が一つになって、気持ちがひとつになったと感じたんですけど、さらにもう一度、2020年を目指して、それは個人レベルだと限界があるんです。アレやりたい、コレやりたいと思っても一人では微々たる力しか無いんですけど、サンさんプロジェクトで東北地方で継続的にやっていく形のように、みんながガチっと手を組んでいく。歩んでいくのって、東北出身者としても心強いし嬉しい。わたしもアスリートとして戦っていきたいし、主体的にやっていきたいと思っていますね。自分自身も実は、ずっと元気いっぱいで乗り越えてきたように見えると思うんですけど、社会人になって2〜3年、大きな喪失感と闘いながら夢を追っていた部分もあります。そういう意味では、今見えない部分で戦っている人が東北にも多いと思うんですね。そういう時にこそみんなで一つになって、楽しみを持ってやっていくということがすごく必要なのかなと思います。出場してきて、持って帰ってこられる想い出って、その場で戦ったことだけじゃなくて現地とのふれあいや、そこが作り出す空気感だったりするんですね。だからみんなが関われる。みんなが関わらないと成功しないから。ある意味で誰もが主役だと思うんですね。

この対談の詳しい模様は、きょう発売の雑誌『ゲーテ』にも掲載されます。
明日も、中西さん、佐藤真海選手の2人による対談の模様をお届けします。

≪東北サンさんプロジェクト≫

2013年10月23日

10月23日 東北サンさんプロジェクト 中西哲生・佐藤真海対談2

今朝も、サントリーと、東北の地元のメディアや企業が力を合わせて支援活動を繰り広げる『東北サンさんプロジェクト』のレポートです。

中西さんと、サントリー社員で気仙沼出身のパラリンピアン・佐藤真海選手がアンバサダーを務めるのが、東北サンさん・プロジェクトです。その一環として、石巻〜南三陸を自転車で走る『ツールド東北2013』などのイベントが行われます。ツールド東北には、中西さんと佐藤選手が参加することが先日発表されました。

今日も、これに関連して都内で行われた、お2人による対談の模様をお届けします。佐藤選手といえば、2020年のオリンピック開催地を決めるIOC総会の最終プレゼンテーションで、素晴らしいスピーチをされたのは記憶にあたらしいところ。先日の対談では、見事!東京オリンピックを勝ち取ったあのプレゼンについて、ご本人に伺うことが出来ました!


◆最終プレゼンテーションに込めた想い
中西:なんであそこまで冷静にやれたのかというのが。。。

佐藤:冷静に見えるかもしれませんけど。

中西:佐藤まみの入社2年目の頃を知っている身としては、あのプレゼンテーションの中で出てくる言葉は、自分が悲しみを強く持った部分が多かったと思うので、感情なしでは語れないと思うんですよ。

佐藤:そうなんですよね。

中西:自分で話していて涙が出てくるでしょ。

佐藤:普段は泣くことはないんですけど、短い4分〜3分30秒で伝えるという時に、その時のことを思い出さないといけないと思ったんですよね。1回その時の自分に返ろうと思ったんですよね。震災の話の時にも、下を見てはいけないんですけど、スクリーンに映っている気仙沼の映像が映って、その時は一番グッと来ましたね。その当時のことを思い出して。気仙沼が火事で覆われていた時の苦しい思いとか、色んな顔を思い出しましたね。

中西:練習するときは。

佐藤:練習するときは一度も泣かなかったです。淡々と、ここを強く、ここを弱く読むんだなくらいで、頭でしゃべっていたのが、最後の1日〜2日で心で思い出しながら話すことが出来て。やっぱり自分の2回の試練があったからこそ、スポーツの力を知ったということを伝えるためにというのは、プレゼンの先生が、「どういうことがあったのか、その時の気持を教えてくれ」と話をして、足を失った時の気持ちとか、震災で家族と連絡がとれなかった時の気持ちを話しながら思い出して言ったんですね。それはただ笑いながらだったんですが、プレゼンをするときには、その時の気持ちになりましたね。

中西:それと同時に、当時の気持ちに戻らなければいけないけど、最終的に一番大事なことは自分がスポーツの力によって、これだけ前に進むことができた。その伝えよう、伝わって欲しいというのが、言葉として魂が乗っかっていた。それは見ていて思いました。すごいと思った。

佐藤:これはやってきたことが一つ一つがつながってきていてって感じですね。新入社員で何もできない時期と、アスリートとしてスランプもありながらパラリンピックの舞台に立ったことも含めて、一つ一つが、得意じゃないけど人前で話すことを積み重ねてきたこととか。色んなことがあの場の4分間に凝縮してきて。自分でも知らない自分。テレビで観るのは恥ずかしいですね。凝視できないですね。なんで涙ぐんでるんだ、みたいな(笑)


明日も中西さん、佐藤真海選手の2人による対談の模様をお届けします。

≪東北サンさんプロジェクト≫

2013年10月22日

10月22日 東北サンさんプロジェクト 中西哲生・佐藤真海対談1

今朝は、サントリーと、東北の地元のメディアや企業が力を合わせて支援活動を繰り広げる『東北サンさんプロジェクト』をお届けします。

中西さん、そしてサントリーの社員で気仙沼出身・パラリンピアンの佐藤真海選手がアンバサダーを務める東北サンさん・プロジェクト。その活動の一環として行われるのが、石巻・南三陸沿岸部を自転車で走るイベント、『ツールド東北2013』です。

そして先日、それに先駆けて、中西さん、佐藤選手の2人による、雑誌『ゲーテ』の対談が、東京都内で行われました。

◆緊張しなきゃパワーは出ない!
佐藤:わたしにとっては、こういう風な立場で二人が座っていることが不思議な気分なくらい。話せて、頭も良くて、元アスリートで、手が届かない感じだったので・・・

中西:ちょっと待って下さい。やめてもらってもいいですか。

佐藤:本当ですって。こんな風にフランクに話させてもらうこと自体が当時では考えられないくらい。

中西:それは言い過ぎだと思いますが、佐藤さんが企画の方にいて新入社員で、僕の最初の印象はものすごい笑顔の素敵な子だなと。それは10年間変わらない。今日は五輪決定後、初めて会ったんですけど、くったくのない笑顔も変わらないし一緒にいて楽しい気分にさせてくれる。人に伝える気持ち、伝わる魂を持っている選手だと思う。その強さが増していると思う。

佐藤:みんなが褒めてくださるんですが、自分では全く自信がなかった。日本人が、自分たちのプレゼンテーションで海外に伝わるんだと思ってもらえればいいかなと思う。特に地元の故郷の子どもたちが、同じように育った子どもたちがあんな舞台で英語で話せるんだなと思ってもらえればいいですよね。いろんな殻を破ってこなければいけなかったですし、緊張して喉が渇くって初めてでした。話し始めて1分しないうちに口がカラカラで。最後までいけるかなと心配でした。

中西:緊張しなきゃパワーがでない。

佐藤:緊張がきたな!って。

中西:)緊張するのはあたりまえ。緊張しなければ、普段とは違うパワーは出ない弛緩していたら出ない。緊張してきたら、これは良い緊張感だなと分かるはず。そうわかると急に冷静になる。

佐藤:そうですね。プレゼン当日は冷静で。ピーキングは大事ですよね。

中西:変に早くから緊張してもしょうがないしね。



この詳しい対談の模様は、あさって発売の雑誌『ゲーテ』にも掲載されます。

明日も、中西さん、佐藤真海選手の2人による対談の模様をお届けします。

≪東北サンさんプロジェクト≫

2013年10月21日

10月21日 東北サンさんプロジェクト 〜ツール・ド・東北2013

今朝は、サントリーと、東北の地元のメディアや企業が力を合わせて支援活動を繰り広げる『東北サンさんプロジェクト』のレポートをお届けします。

東北サンさん・プロジェクトの一環として行われるのが、中西さんがアンバサダーを務める『ツールド東北2013』。これは、石巻〜南三陸の沿岸部を自転車で走るイベントです。

先日、この「ツールド東北」を主催する河北新報の一力社長と、サントリーの社員で気仙沼出身のパラリンピアン・佐藤真海選手、そして中西さんによるインタビューが行われました。まず、河北新報 一力社長が取材陣に語ったメッセージです。

◆ありのままの東北を
二年半立ってありのままの東北を見てもらいたい。これ以上風化をさせず、情報発信をすすめる。やっぱり来てもらうってことが大事。こういう新しい動きがあるから、参加して欲しい。関心を持って欲しい。そういう仕掛けが大事になる。そういうのをそれぞれ乗り越えて、11月3日があるんだと思う。みんなでやるイベントだなという思いがしましたね。

河北新報の一力社長によれば、ツール・ド・東北の目的は   「来てもらう、見てもらう 自転車を通して被災地のあり方を考えてもらう」そして「地元の方と触れ合う交流の場づくり」でもあると言います。
例えばコースの途中には「エイドステイション」を設置して、そこで地元の方と触れ合ったり参加者を一般家庭が受け入れる「民泊」も行われ、31軒が部屋を無償で提供するなど、全国から集まる方たちと地元住民の交流の場が各地で行われる予定です。また、「自転車で走ることができるインフラを作り、自転車を楽しめる町づくりも今後提案していきたい」というお話もありました。

一方、気仙沼出身、佐藤真海選手は、このように話しています。

◆生まれ育った土地で
自分が育った宮城県でこのような大きなスポーツイベントが開催されるのはうれしい。私も三陸の海岸線が好き。全国から三陸に集まってくるのが意義のあること。スポーツで広がる笑顔の環、自分自身も笑顔に助けてもらってきた部分もあるし、震災後みんなで分かち合ってきた部分でもある。そういう笑顔の環を今回さらに広げていきたい


その他、河北新報 一力社長は、「震災後、被災地を自転車で走りたいという声を多く受けていた。自転車なら被災地の今というものを、車で通りすぎるよりリアルに感じてもらうことができる。」とも話しています。

≪東北サンさんプロジェクト≫

明日は、中西さん、佐藤真海選手の2人による対談の模様をお届けします。

2013年10月18日

10月18日 映像作家、海南友子さんインタビュー(4)


東日本大震災の直後から、福島に入り取材を続けた海南さんですが、現地に入って1か月もしないうちに、自らの妊娠が明らかになります。悩んだ末、福島を離れて、家族で京都に移住。2011年12月、元気な男の子の赤ちゃんを出産しました。そんな海南さんが、いま目を向けているのは、福島の「母子避難」の現状です。家族との軋轢や経済的な不安を抱えながら暮らす、福島の人たちの声を、記録し続けています。
   
◆福島の母子避難の現状を取材
ほんとに普通の福島の保険の外交をしていた40歳くらいのお母さんで、お子さんが4人いて、一番上のお姉ちゃんが高校生。下の3人は京都に連れてこれたんだけど、お姉ちゃんは「福島に残りたい」と言って、大ゲンカして、結局連れてこれなかったらしい。そのお姉ちゃんが「将来孫を産んだとき、なにか大変なことがあっても、お母さんに迷惑かけないから福島に残りたい。」と言われたみたいで、「娘にそんなことを言わせる社会を自分が作っちゃったんだ」と、お母さんが泣いていて。普段明るく元気に活動している分だけ、そういう想いを抱えているんだなと感じた。
例えば「避難する」とか「避難しない」とか、夫婦や親子で意見が一緒なら、それはそれで問題ないと思う。でも一番大事に思っている家族同士で、どうしても意見が合わないケースがでてくる。だから、放射能大丈夫だという人と、だめだという人の軋轢が、全部の家族にあって。親や兄弟からいまだに反対されたまま沖縄に来ちゃいましたとか、岡山に来ちゃいました、という人がやっぱりいて。
避難とか移住っていつまで続くのかはっきりわからない。汚染水もあんな状態だし、いつ帰れるのか、帰っていいのかわからない。そういう家族の苦しみみたいなのが、無限の和のように日本中に広がっていて。
残念なのは、事故からもう2年ちょっと経っているので、そういうのを皆さんフタして生活していると思う。直後みたいにわーって言える環境じゃなくて、心の中に織のように溜まっていくのをどうやって収めていいのかわからない。そういう家族の苦しみみたいなものをたくさん見聞きした。


海南さんは、自身の出産の経緯と、福島の避難母子への取材をまとめ、現在ドキュメンタリー映画を製作しています。
 
◆この時代に母になる意味
この時代に母となる意味って、どういうことだろう、というのをテーマに、いま映画づくりをしていて、自分を含めた(避難母子の)お母さんたちを取材している。これからできれば、チェルノブイリの事故のときにお母さんがどういう決断をして、それからどうやって世の中を変えようとしたのか。
わたしたちがいま知りたいのは、被害がこうだったかということじゃなく、これからどういう世の中にすればいいのかという道標が、わたしはすごく欲しい。そういうことが、幸か不幸か25年前にあったので、それを知っている母たちを訪ねて(チェルノブイリに)冬は行きたいと思っている。
それがちゃんとまとまって、来年どこかで公開したい。


海南さんは来年の秋を目処に映画を公開する予定です。仮のタイトルは「あの日から 変わってしまった この空の下で」。また先日、リーフレット「あなたを守りたい〜3.11と母子避難」もリリースしました。これまでの取材の様子や、避難母子のための保養施設のリストなどを掲載しています。詳しくは海南さんのオフィシャルサイトでもチェックできます。

海南さんのサイト

2013年10月17日

10月17日 映像作家、海南友子さんインタビュー(3)


今週は映像作家、海南友子さんのインタビューです。海南さんは、福島第一原発と生年月日が全く同じ。原発事故も他人事ではないと、2011年4月、福島で取材を始めます。でも取材に入って1か月もしないうちに、今度は、自らの妊娠が明らかに。悩んだ末、海南さんは、福島、さらに東京も離れて、家族で京都に移住します。そして、2011年12月、男の子の赤ちゃんを出産しました。

◆福島からの避難母子を取材、あふれる想い
とりあえず生まれた直後は特別大きな病気がありそうな感じでもなかったので、ほっとして分娩台の上にいた、という感じ。検診などに行くと、ちょっと心配なことを言われたりすることがある。そうすると、どうしても放射能のことをつなげて考えてしまう自分がいる。おそらくこれは、3歳になっても5歳になっても、もしかしたら20歳や40歳になっても、うちの子どもがなにか放射能が関係している病気の疑いが持たれたときに、わたしは自分の責任をこれから何十年間も責めながら生きていくんだなと思う。
京都の近くにも、結構たくさんの(福島からの)避難母子が暮らしていて、そういうコミュニティがあるのがわかった。同じような気持ちで避難してきている方たちが、いまどうしているかというのをもっと取材したいなと思った。妊娠中から取材を始めて。実際どういう体験をして、いまどのように暮らしているのか、これからどうしたいのか。一人一人訪ねてお話を聞くというのを、一年半くらいやっている。自分もそうだけど、なんでいま京都に住んでいるのか。あの日を境に「運命」が変わってしまった人達が日本中にこんなにいるんだと、会えば会うほど感じる。多くの方が、「話を聞いてくれてどうもありがとうございました」とおっしゃる。話すことでもやもやがすっきりした、とお礼を言われることが多くて。それだけ皆さん思いがたまりにたまっている状態なんだなと思う。


海南さんは自身の体験と、避難母子のインタビューをまとめ、映画を製作中。
また先日「あなたを守りたい〜3.11と母子避難」というブックレットもリリースしています。

海南さんのサイト

2013年10月16日

10月16日 映像作家、海南友子さんインタビュー(2)


今週は映像作家、海南友子さんのインタビューです。NHKのディレクターを経て、フリーの映像作家となった海南さんは、東日本大震災を受けて、福島で取材を始めます。そこで見たのは、現代の日本とは思えない、「避難」と「家族離散」の現状。そして、取材に入って1か月もしないうちに、今度は、海南さん自身に、あるニュースが舞い込みます。
 
◆ちっちゃな命を守りたい
取材しながら、すごく具合の悪いことが続いて、「なんでこんな調子が悪いんだろうな」と思って病院に行ったら、4月の末に病院で「妊娠しています」と告げられた。わたしも40歳だったので、正直言うと出産とかはあきらめていた。まさかという感じで妊娠していることがわかって。本当は飛び上がって喜びたいニュースだったのに、病院で立ち上がれないくらい落ち込んでしまって。
実際原発のすぐ近くまで行ったときに、割と高い放射線量を浴びていて、そのときも子どもはお腹の中にいた。大人より子ども、さらに胎児のほうが、より放射線の影響を受けやすいということを知っていたので、わたしは取り返しのつかないことをしてしまったんじゃないかと、本当にショックで。それまでは福島の方たちを取材するという立場だったのが、妊娠がわかった瞬間から、ある意味で自分も逆の当事者、放射能と赤ちゃんをどう考えればいいかという逆の当事者になって、福島の取材をどうしようかとものすごく迷った。
お腹の中にはすごくちっちゃな命が宿り始めていて、たぶん今は子どものことをわたしは優先せざるを得ない、それが自分がするべきことだと思って。当時東京は水道から放射能が出ていたり、余震も多かったので、思い切って出産を(関東圏から)少し離れたところでしようと思って、仕事も家も全部解約して、6月に京都のほうに一時避難というか、移住する形になった。福島の原発の近くで自分が浴びた放射線量は、一時間に2ミリとか3ミリ。大人が一年間に浴びていい線量が1ミリなので、わたしはそれを一時間とかに時間で浴びる状態にいた。すごく高い線量を浴びているので、それが子どもにどういう影響が出るのか。生まれてくるまで、その不安に押しつぶされそうで、出産まで過ごした。


妊娠がわかって、夫とともに、東京から京都に移住。不安を抱えながら、高齢出産に臨んだ海南さんは、2011年12月、無事、元気な男の子の赤ちゃんを出産しました。海南さんはいま、自身の経験も踏まえて、福島の母子避難の現状を取材しています。『LOVE&HOPE』明日はそのお話です。

2013年10月16日

10月15日 映像作家、海南友子さんインタビュー(1)


今日は映像作家、海南友子さんのインタビューです。海南さんは1971年生まれ。NHKのディレクターを経て、フリーの映像作家として独立。「ビューティフル・アイランズ」や「いわさきちひろ〜27歳の旅立ち〜」などのドキュメンタリー映画を手掛けてきました。そんな海南さんを突き動かしたのが東日本大震災。海南さんは、震災直後から、最小限のスタッフと装備で福島に赴きます。福島第一原発と海南さんには、ある共通点があったのです。
 
◆福島第一原発とともに生まれて
3月11日〈地震が起きた時)、皆さんいろんなことを思われたと思うんですけど、わたしも最初は怖いな〜と思うだけだった。でも実はわたしは3月26日が誕生日で、(2011年に)40歳になったんだけど、スタッフの一人に「海南さんと福島第一原発の誕生日が一緒じゃないですか」と言われて。よく見たら、生年月日がほんとに一緒だった。
そこから福島で起きた事故が、自分にも直接なんらかの原因があるなと感じて、それを知ったあとは身体が勝手に動いて、昨日まですごく怖かったんだけど、気が付いたら、福島の現地に入っていて、近いところだと、原発4キロぐらいのところまで、当時はまだ警戒区域が設定される前だったので入れたので、そこでなにが起きているのか、どういう人達が家や故郷を失ったかということを、ぐーっと前のめりに取材に入っていった。
その年は一年かけて、「絶対これを作品にしよう!」と決めて、中に入っていった。最初に(福島に)入ったのが、2011年4月11日。普段わたしたちは取材に入るときは、いろいろ下調べをして入るが、今回はもうそのままカメラマンを連れて、出会った人出会った人にどんどんお話を聞いていくスタイルだった。それまで自分が外国とか災害の現場とかであったいろんな方たちに比べても、ある日突然なにもかも失うって、まるで日本で起きていることじゃないな、と。戦争とかがほかの国であって難民になって、というのは見たことがあったけれども、いわゆる難民状態の方が、こんなにいっぱい自分の身近に、同じ時代にたくさん生まれてしまったことがショックだったし、電気を使っていたという意味では、自分にも直接的な関係があると思うと、現場ですごく暗くなった。
また、津波の後の光景も相馬などで撮影したが、教科書で見た、広島や東京大空襲とだぶってしまって、いま自分の国で起きているとは、どうしても思えなかった。混乱しながら、でもやらなくちゃ、という気持ちで、二日と開けずに福島に通って、本当にたくさんの方にご迷惑をおかけしながら、お話を聞かせてもらった。



震災後の福島で精力的に取材を行っていた海南さんですが、現地に入って1か月もしないうちに、自らの妊娠が明らかになります。海南さんが下した「決断」とは?
続きは、明日の『LOVE&HOPE』でお届します。

2013年10月14日

10月14日 東北サンさんプロジェクト

今朝は、【東北サンさんプロジェクト】という東北復興支援プロジェクトについてお伝えします。

【東北サンさんプロジェクト】、サンサン♪と太陽のような楽しげな名前ですが、これは、サントリーと、東北の地元のメディアや企業が力を合わせて支援活動を繰り広げるプロジェクトです。その最初の1歩として「ツール・ド・東北2013(にせんじゅうさん)」と、 「サン・ファン・フェスティバル」というイベントが11月に石巻市で行われます。

このプロジェクトのアンバサダーが、クロノスパーソナリティの中西哲生、そしてパラリンピック陸上女子走り幅跳び代表・佐藤真海選手!東京オリンピック招致委員としての、あのプレゼンは記憶にあたらしいところですが・・・まずは、佐藤選手からのメッセージをどうぞ。

◆佐藤真海選手のメッセージ
おはようございます。佐藤真海です!故郷は気仙沼なんですが、2年半前は私自身すごく大きなショックを受けました。私自身が病気を乗り越え、パラリンピックにチャレンジする、夢を持つということを通してすごく力をもらい、色んな人に支えてもらいました。だから今まで自分が経験したことを、故郷の、とくに未来を担う子どもたちと一緒に共有していきたいという想いで、スポーツや自分の経験を伝えるという、自分に出来る活動をしてきました。今回の東北サンさんプロジェクトというのは、いち個人でも、いち企業でもできないことを、 東北としっかり手を組んで一緒にイベントを盛り上げていこう、東北サンさん、ということで太陽のように笑顔の輪を広げていく、ハッピーな関係になっていこうというのを、私自身も希望と願いを込めて関わっています。

その第一弾として、「サンファン・フェスティバル」と「ツール・ド・東北」。三陸は私も子どもの頃車で走っていたが大好きな場所です。そこを自転車で自然の風を感じながら走ってもらうのはすごくいいですね! ツールド東北を通じて1500人もの人が石巻に行く、外からも中からもエネルギーを出して1つになっていく。楽しみながら東北の今を知ってもらい何か持ち帰ってもらう、そういう機会になればいいと思います。
みなさんが参加できるイベントなので、多くの人に全国から来てもらいたいです。私自身そこへ行って盛り上げたいと思う。お待ちしています!

中西哲生と佐藤さんがアンバサダーを務める東北サンさんプロジェクトの一環で、石巻〜南三陸の沿岸部を自転車で走る、「ツール・ド・東北」があります。これになんと、我らが中西キャプテンも参加!本人曰く、「軽く60キロいきます。朝飯前です!」とのこと。本当でしょうか・・・。

11月3日の「ツール・ド・東北」、エントリーはすでに終了していますが、11月3日・4日に同じく石巻で行われる「サン・ファン・フェスティバル」   こちらは入場無料、誰でも参加できます。

会場には中西&佐藤のアンバサダー2人も登場。メキシコ、イタリア、スペインのフードブースが出店するほか、畠山美由紀さんのライブなど様々な催しがあります!

今後も番組では、東北サンさんプロジェクトのレポート、お届けします。次回は来週 21日(月)、佐藤真海選手と中西哲生の対談の模様を、お伝えします!

2013年10月11日

10月11日 浪江焼麺太国@関東甲信越B-1グランプリin勝浦

今朝は、9月末、千葉県勝浦市で行われた関東甲信越B−1グランプリin勝浦からのレポートです。

ご当地グルメの町おこし団体によるイベント、B1グランプリの、この地区大会は、2日でおよそ12万人を集め、全国から様々なまちおこし団体が出展。その中に、福島県双葉郡・浪江町の町おこし団体
「浪江焼麺太国」のメンバーの姿もありました。リーダーの八島貞之さんのお話です。

◆心を繋ぎとめるために
浪江焼麺太国の大王です。震災当時、避難した先がバラバラになってしまい、それぞれ避難先から集まってくるようになっている。今回は、宮城県岩沼、茨城、東京、福島の5人。元々平成20年に商工会青年部の部長だった時に町おこし事業をやろうと考えた。目的は仲間作りだった。せっかくあそこまでやってきて、いま離れ離れになったからって諦めきれない。一時は色々悩んだ。家族の負担、避難先で不安な状況なのにやっていていいのか。速く生活を安定させなければ。色々悩んだが出来る限りこられないメンバーをカバーしながらやり続けている。宮城や岩手では私らと同じ世代が前向きに、一所懸命に仕事をして復興の先頭に立っているが、私たちには何もできない。でもせめて焼きそばでみんなの心を繋ぎとめることができるのかなと思ってやっています。

浪江町は、いまも町民全員が街へ戻れない状況が続いています。避難区域の再編が行われましたが、町の大半は、放射線量の高い帰還困難区域です。一方、町は、今月1日づけで、除染やガレキ撤去を担当する「ふるさと再生課」を浪江町内にある本庁舎に移転。町の再生へ向けて動き出していますが、
住民である、八島さんの心境は複雑です。

◆帰還への不安
ほんとうに何も変わっていない。私たちも納得していない。街の方針は「5年かけて除染とインフラ整備をして5年後に期間宣言」だが、帰還しても私たちが本当に生活できるかが心配。いくらインフラ整備や除染をしたからといって、2キロ〜3キロとなりに中間貯蔵施設ができる予定。浪江の隣町、3キロくらいのところに施設ができるのに、そのとなりで子どもたちと一緒に生活ができるかと言われたら、ちょっと心配で迷ってしまう。あとは仕事。私も鉄工所を経営していたが、戻ったからと言って地域全体が戻るわけじゃない。仕事が続くかどうかも心配。帰還するという方針ではとにかく人が少ないんじゃないか。ただ、浪江町という部分では諦めたくないので、町おこしができなくても、全国にバラバラになってしまっても、
町を残す、名前だけでも残すという活動で訴えていく。あとは、現状が変わらないことも伝えて風化させないようにしたい。今日の食数提供は終了。予定よりも1時間も早く。

地元のローカルフード「なみえ焼きそば」による街のPR活動は、今も続いています。震災前のメンバーは33人ですが、この日集まったのは5人。それぞれの生活もあり、集まる人数は限られるようになっています。
お話を伺った八島さんも、元々雇っていた鉄工所のスタッフのために、浪江町できるだけ近い 南相馬市でお仕事を続けています。一方、ご家族はいわき市で避難生活をしています。

浪江焼麺太国は、11月9日(土)、10日(日)に行われる全国大会『B1グランプリin豊川』にも出場する予定です。

来週は、オリンピックの東京招致で、最終プレゼンテーションをした、気仙沼出身のパラリンピック女子陸上代表、佐藤真海(さとう・まみ)選手の声をお届けします。

2013年10月10日

10月10日 シンガーソングライター「がく亜り」@GTF2013in新宿御苑

今朝は、東京・新宿御苑で先週末に開催された市民参加型のお祭り「GTFグリーンチャレンジデー」からのレポートです。

環境保全などのアクションを応援するこのイベントは、ステージ上でライブなど様々なパフォーマンスも行われたのですが その中に、ギターを弾き語る一人の女の子の姿がありました。
久我(くが)理(り)亜(あ)さん。「がく亜り(がく・あり)」という名前で活動する仙台在住 17歳のシンガーソングライターです。



被災地の子どもたちの自立支援プロジェクト『サポートアワーキッズ』にこの夏 参加。フランスホームステイを経験したメンバーの一人です。プロのアーティストを目指している彼女はフランスでの出会い・繋がりの中で、このステージに立つ機会を得たそうです。そんな彼女が、真剣に音楽に取り組むことになった理由。それは、2年前の震災でお父さんを失ったことでした。

◆本気でやれることが嬉しい
地震が3月にあって、12月くらいに始めたんです。お父さんのエレアコがあったのでそれで。
音楽は元々大好きで、震災前もずっと音楽に助けてもらっていた感じなので。自分でやりたいと思ってギターを始めて、最初はプロを目指す気はなくて。ただ歌が好きだったので他の人のをカバーしたり。自分自身音楽に震災後に救われて。中学3年の時は自分の精神がすこしおかしくなったというか暗かった時期があって、学校も上手く行かなくて友達関係もめんどくさくなったりしたので色々断ち切って。お父さんが閖上にいて、(亡くなったことで)そのせいで色々と崩れた気がした。歌えば唄うほど、色んな人に出会えて、当時は夢は無かったんだけど夢ができて。本気でやれることが嬉しいです。震災があったから今があると思う。もっとたくさん色んな人に聴いてもらいたいなと思っています。

彼女のオリジナル曲の音源は、ホームページ上でYOUTUBEなどを通じて、色々と公開されています。久我理亜さん。「がく亜り」さんは、亡くなったお父さんが、すごくロックが好きな方だったそうです。お父さんの影響で、色んな音楽を聴いて育ったことが、音楽に興味を持つ最初のきっかけだったと語っています。

そして今 彼女は、仙台や東京などで、路上ライブも続けています。現在高校2年、今後は、大学に進学したうえで、プロのアーティストを目指したいと話してくれました。

≪がく亜り HP≫

2013年10月9日

10月9日 会津若松がぶりガーデン@GTF2013in新宿御苑

今朝は、東京・新宿御苑で開催されたお祭り「GTF グリーンチャレンジデー」からのレポートです。

10月5日(土)・6日(日)に行われたこのイベントは、環境保全・生物多様性のアクションを応援するものですが、被災地復興へのメッセージとして、東北各地の食材を集めた「マルシェ」も開かれました。
その中で、秋の獲れたての果物をいっぱい並べて、販売・PRをしていたのが、「がぶりガーデン」。こちらは、福島・会津若松の果樹園です。

◆会津の老舗果樹園
がぶりガーデンは35年前、最初はぶどう畑から始まって果樹専門でやらせて頂いている。福島県会津若松市、北会津町という田んぼと畠しかない「ど農村」ですが、蛍で有名で、それだけ水がきれいな場所。だから果物もお米も野菜もなんでも美味しいものができる。震災以降、風評被害もあったが、みなさん食べて頂ければよく分かる。実際、検査をしてしっかり出してやっている部分についてはご理解いただいている方が非常に多い。色んなところで食べて頂いた方、最初は1個・2個買っていったお客さんが、あとになって「美味しかった」と注文してくれている。現状、色んなところで販売させて頂いているのも、単純に売り上げということではなく、ここで会ったお客さんとのご縁が、また縁になれば最高だなと思いながら回らせて頂いています。今はリンゴ、ブドウ、プルーン。秋の収穫シーズンなのでそのあたりが一番おいしいかなと思います。


お話を伺ったのは、がぶりガーデンの若旦那。専務取締役の星直樹さん。こちらは、去年もマルシェに出店していて、その時も取材しています。1年前は、風評で福島県外からのお客さんが「8割減」と話していました。 あれから1年が経過した、いまの状況です。

◆大河効果を次につなぐには
現状としては、お客さんは戻りつつある。ブームに乗っかった部分があって、大河ドラマ「八重の桜」の放映もあり、会津はお客さんが戻りつつあると思います。
(がぶりガーデンのお客さんは?)
それがですね、あまり波及はないんです。それは波及させるための努力が足りなかったと言われればそうかも知れない。ただ、一挙集中になってしまうのはどうしようもないですよね。だってお城(鶴ヶ城)が大シンボルですから。それをこれからの努力で、周りに波及させる。例えばシャトルバスを遠地に置くとか。そこから無料で走らせるとか。動かないとしょうがない。誰も認めてくれない。みんながやっていないことを一所懸命やって、そういうムーブメントを起こして、それを広められれば御の字かなと思う。活動できる仲間を増やしたいかなと思います。


◆お客さんの声
(女性)いつも見ている生のプルーンと違う、この辺には出回らないプルーンだということで買いました。生産者の顔が見えるところでは買います。
(男性)このプルーンがさっき食べたらめちゃくちゃうまくて。完売しちゃうんじゃないかと思って買いに来た。香りもいいし甘みもいい。みずみずしい。「がぶりガーデン」という言葉の響きからして全部が気に行っちゃった。


がぶりガーデンは、観光農園としてもぎ取り・食べ放題もやっています。
また、産地直送の通販もやっていて、
ファンも多く、東京から直接電話や手紙で注文を受け付けることも多いそうです。ちなみに星さんのおススメは、11月下旬、終わりごろにいっせいにもぐリンゴの「完熟!蜜入り! サンふじ」。星さんいわく「超おススメ」とのこと。このリンゴは、寒い時期に寒ざらしにすることで、ギリギリまで熟成させて甘みを引き出した逸品。県の品評会で金賞も取ったリンゴだということです。



明日も、「GTFグリーンチャレンジデー」のレポートをお届けします。

2013年10月9日

10月8日 被災地を舞台にしたノンフィクション小説『共震』(2)


東日本大震災の被災地を舞台にした小説『共震』。著者は、作家で経済ジャーナリストの、相場英雄さんです。復興を支える県職員殺害の謎を追う、ノンフィクション小説。復興支援に奔走する人達の姿を描く一方で、被災者支援金の詐欺横領やNPO法人の不正な寄付金の流用など、復興にまつわるダークな側面も描きだされています。

震災前から「みちのく麺食い記者・宮沢賢一郎シリーズ」で、東北各地を取材してきた相場さんは、震災後、ゆかりのある人達の支援や取材に動く中で、被災地の現状と復興の遅れを目の当たりにします。

◆復興を阻むもの
やっぱり行政の縦割り意識と、政治のリーダーシップの欠如、これに尽きる。小説の中では、県や市町村の枠を取り払って、復興支援のために走り回った方が殺されるというおおまかなストーリーを作ったが、たぶんそういう、県の枠や市町村の枠を飛び越えるという「お役人」というのは絶対にいない。「そういう人がいたらよかったよね」という僕の想いが、強く小説に投影されている。
政治家の方々も、個別に一生懸命やっている方はたくさんいるが、永田町と沿岸被災地の距離は物理的にも遠いし、この2年半を見ていて、もっとその距離が開いたなという印象がある。例えば仮設住宅にお住まいの方に聞くと、びっくりするようなことがすごくおきる。東北の沿岸のある街では、仮設から今月中に出ていかなければいけない人がいる。というのも、そこの地域特有の地形で、家を建てられる面積が非常に限られている。同じ集落の人達がもともと震災前から一つのコミュニティになっていて、そこに彼らの復興住宅を建てるので、(いまその場所にある仮設に住んでいる人は)出ていかなければならない。(そんなふうに)街ごとに事情が異なる。復興住宅の建設が5年後になるところもあれば、もう入居しているところもある。そこの早い遅いなども行政の仕組みが違うから。そこを一括して、復興庁が全部壁を取り払うべきなんだろうが、それが全然できていない。
僕はもともと新聞記者だったので、生活している人たちの声を聞こう、そこから始めようと考える。だから(小説の中で)震災に関わる主人公が被災した方から聞く話は、全部「なま」の話。被災地の方がどんなに過酷な現状を生き抜いてきたかというのは、ちょっとびっくりするような言葉がいっぱい入っている。ちょっと心臓には悪いかもしれないが、実際にそこに住んでいるかたが、現実問題として何十万人もいらっしゃるので、その人たちの気持ちを少しでも共有していただけたらな、というのがこの本の狙い。


タイトル『共震』には、「被災地に、共に寄り添ってほしい」という相場さんの想いが込められています。また、シリアスなシーンが多い作品ですが、東北各地のラーメンが登場するのもこの小説の魅力です。全部、実際にあるお店を描いているということで、ラーメンの描写もリアル。思わずお腹がすいてきます。興味を持った方は、ぜひ手にとってください。

2013年10月7日

10月7日 被災地を舞台にしたノンフィクション小説『共震』(1)


東日本大震災の被災地を舞台にした小説『共震』。著者は、昨年、食品偽装を題材にした『震える牛』で注目された作家で経済ジャーナリストの、相場英雄さんです。相場さんは、震災前から、「みちのく麺食い記者・宮沢賢一郎シリーズ」で、東北各地を取材してきました。震災後、ゆかりのある人達の支援や取材に動く中で、被災地の現実を目の当たりにします。

◆「被災地の現実を知ってほしい」
震災から1年、1年半、2年と、東京のメディアではカレンダーでしか震災を切り取らなくなってしまった。でも依然として、福島、宮城、岩手の地元のテレビ、新聞では毎日震災のニュースがある。
いろいろ取材に行くと、被災した方たちは「俺たちもう忘れられちゃうんじゃないか」とシビアに言っている。実際問題として、関西の講演で「もう東北大丈夫なんでしょ?」と言われて、椅子から転げ落ちそうになったことがある。東北とそれ以外の地域でこれだけギャップが生まれたら、おかしいだろうと。それを埋める一つの手助けになれば、という想いで、この小説を書いた。

『共震』は、ノンフィクション小説。被災地の復興を支える県の職員が殺害されるところから、物語はスタートします。取材にあたるのは、みちのくシリーズの主人公、新聞記者の宮沢賢一郎。取材をすすめるうちに、宮沢は、被災地をとりまく不明瞭な人と金の流れにたどりつき・・。物語はノンフィクションですが、ディテールは、相場さんの実際の取材をベースにしています。


◆復興を取り巻くダークな側面
言えないこともいっぱいありますが・・
震災発生直後はいろんなところからいろんな寄付が、お金だったり物資だったりが、ほぼその当時は善意で集まったが、そこに、お金儲けの糸口を見出す人達が必ず出てくる。震災直後は、さすがにそこまで僕も取材する、または報じるエネルギーがなかったが、震災から2年を経って、まだ震災をきっかけに、非常に大きなビジネスをやっていらっしゃる人もいるので、そろそろそういう人達を注意したほうがいいんじゃないですか、という警鐘の意味も込めて、この小説では被災地のダークな部分も描いたつもり。例えば沿岸の被災地のために寄付を集めましょうと5億円集めました。でも実際に寄付に回ったのは3000万円だったりする。そういう極端な例がかなりあるので、そういう部分もあったんだよということを、読者の皆さんにしってほしかった、というのもあった。実際、日本の捜査機関でそういう動向を監視している人達がいるので、気をつけたほうがいいんじゃないですか、という意味も込めて、書いた。


被災者支援金の詐欺横領、NPO法人の不正な寄付金の流用、そして官僚の汚職・・。さまざまな実態が浮かびあがる一方で、そこには懸命に生きる被災地の人達の姿、そして彼らを支える人達の想いが描き出されます。読んだ後に、タイトル『共震』の意味が胸に迫る一冊です。

2013年10月4日

10月4日 福島の声を聞く5

作家・渡辺一枝さんが東京で続ける、福島の今を伝えるイベント『福島の声を聞こう』からのレポートです。

南相馬市の沿岸部「萱浜」の上野敬幸さんは、震災直後から、地元の方とともに被災地のがれき撤去、行方不明者の捜索活動を続けています。そのグループの名前は『福興浜団(ふっこうはまだん)』。上野さんは、震災から2年半が経過した今も、捜索活動を続ける理由をこう語ります。

◆確率をゼロにしたくない
僕らが初めて海を見に行ったのが3月24日。(南相馬市の)萱浜という地区には、
7人が海に上がっていた。20キロ圏内、直径40キロの海沿いにはたくさんの方が、
一度は、海に打ち上げられたと思う。
それが誰にも見つけてもらえずに、また海に行ってしまったと思うとどうしても許せない
部分はある。20キロ圏内が解除されたのは去年の4月16日。それ以降、20キロ圏内の
捜索を考えてその場所へ行った。探す人がいなくなったら確率はゼロ。そのゼロにしたくないというのもあるし、親父と倖太郎(こうたろう・ご長男)は見つかっていないが、
とりわけそこにこだわって探しているわけじゃない。岩手、宮城、福島も含めて震災で
行方不明になっている2600人が全て家族の元に戻れるのがベストだと思っている。
命がある自分たちがやれることをやる。


高橋 福興浜団は現在、ボランティアの方も随時 受け入れて活動をしています。
この日のイベントにも、ボランティアを経験した方が来ていました。

◆見捨ててはいけないから
(男性)福興浜団に月に2〜3回参加。これからは行方不明の方の捜索。見捨ててはいけないと思う。ぜひとも参加していただいて、一人でも多くの人を一日でも早く見つけたいと思うのでお願いします。
(女性)ボランティアというとスコップや重たいもののイメージがあるが、女性でもキレイにしかできないことがある。そういうちょっと気軽な感じで来て頂けるといいかなと思う。



福興浜団は、毎週 土曜日と日曜日、そして土日につながる連休に活動しています。南相馬の「道の駅」に9時に集合すれば、そのままメンバーとともに活動に参加できます。
福興浜団のフェイスブックページでは、活動情報が随時更新されていますので、関心のある方はそちらも御覧ください。

【福興浜団Facebookページ】

今週は、トークイベント『福島の声を聞こう』のレポートをお届けしました。

2013年10月3日

10月3日 福島の声を聞こう4

今朝も引き続き、作家・渡辺一枝さんが東京で続ける、福島の今を伝えるイベント『福島の声を聞こう』からのレポートです。



先日、イベント会場で体験を語ったのは、南相馬市の上野敬幸さん。福興浜団として、いまも被災地のがれき撤去、行方不明者の捜索を続けている方です。上野さんのご自宅は、南相馬市の沿岸部・萱浜。
ここは、福島第一原発から、およそ22キロ地点にあります。

津波で、ご家族4人を流された上野さんご夫妻は、その直後に起きた原発事故にも、大きく翻弄されました。

◆最後の別れもできなかった
当時、お腹に子どもがいた嫁さんには、3号機が爆発したため心配で茨城の親戚を頼って避難してもらっていた。お姉ちゃん(長女)はその時にもう見つかっていた。日にちは覚えていないが、3月14日か15日に。
だから嫁さんは、お姉ちゃんの顔もお袋の顔もほとんど見ることなく避難して、火葬に立ちあうことも出来なかった。当時8才だった永吏可(えりか)との別れもできず、骨を拾ってやることも、抱きしめてやることも出来なかった。そういう苦しみ、辛さが起きたのは原発のせいだと思っている。自分のお腹を痛めた子どもが亡くなっただけでも当然辛い。最後の別れや抱きしめる事もできず避難したのを考えればすごく辛かっただろうと思う。嫁さんと同じような経験を、20キロ圏内の人たちはみんな経験している。どんな想いでずっと離れていなければいけなかったのか。一番つらい思いをしたのは、20キロ圏内で家族を亡くした方だと思う。そういう意味では東京電力への怒りは当然感じる。               

上野さんの奥さんはその後、無事に女の子を出産。女の子の名前は、倖吏生(さりい)ちゃん。この名前は津波で流されたお2人のお子さんから一文字ずつもらったものです。倖吏生ちゃんは9月に、満2才を迎えています。

明日も、上野敬幸さんのお話をお伝えします。

2013年10月2日

10月2日 福島の声を聞こう3

引き続き、作家・渡辺一枝さんが続ける、福島の今を伝えるイベント『福島の声を聞こう』からのレポートです。

毎回、福島で生きる当事者を招いて行われるこのトークイベント。先日の第7回は福島県南相馬市の上野敬幸さんを招いて行われました。



上野さんは、奥様は無事だったものの、津波でご家族4人を流され、ご自身の父親と、幼い長男は今も見つかっていません。そんな上野さんは震災後、地元の方と「福興浜団」という団体を作り、この2年半、行方不明者の捜索活動を継続しています。

◆家族を亡くしたから気づくこと
数えたわけではないが、自分たちだけで40人以上は見つけているだろうなと。当時、自衛隊が来て「陸上にはいないだろう」と言った。自分たちが見える範囲は探したし、自衛隊の方も2週間いてそれなりの人数でやったので、見える範囲にはいないんじゃないかというのがあった。そこから、土の中にいるのではないかということになった。全部見たかった。
でも、自衛隊の方が捜索している時に僕に「人は土の中に潜ることはないです」と言った。
僕は首まで土に埋まっている子どもを見た。こういう津波を経験したこともないのに何が分かるのかと思った。だから土の中も捜索した。僕らにしか気づかないことがあると思う。家族をなくした人だから気づける部分。残された家族の手助けはできないかと。寄り添うこともそう。震災のあと最初の12月のクリスマスの時のこと。生きている子どもたちには色んなプレゼントがやってくるが、亡くなった子どもたちにはなんのプレゼントもない。だから僕らは亡くなった子どもたちにクリスマスプレゼントを買って、持って行って手を合わせて回った。
メインは捜索活動だがそういうこともした。その頃、復興浜団を立ち上げた。よその人の力も借りながら捜索やがれき撤去をしたりと今も続けている。今日僕はここ(東京)にいるが、地元に戻れば仲間たちが萱浜の海を捜索しながら、砂を起こしてその中の瓦礫の中に人がいるのではないか、骨の一部でもあるんじゃないかと、今もやっています。


上野さんによれば、原発20キロ圏内・沿岸部には今も、瓦礫が積まれている場所が数多くあり、その撤去の際に、行方不明者が発見される例もあるそうです。ただ、こうした瓦礫を、捜索目的で仕分けをするには、 自治体の管轄や、予算の問題などが横たわっています。それでも上野さんは、残されたご遺族のために捜索をする方法はないかと模索を続けています。

今年9月11日現在、東日本大震災による行方不明者の数は、2,654名です。
 

明日も、上野敬幸(たかゆき)さんのお話をお伝えします。

2013年10月1日

10月1日 福島の声を聞こう2

今朝は、福島の今を伝えるイベントのレポートです。

作家 渡部一枝さんが、東京神楽坂のイベントスペースで続けている『福島の声を聞こう』という企画です。毎回、福島で生きる当事者の方を招いて行われています。



先日の第7回に招かれたのは、福島県南相馬市の上野敬幸さん。上野さんのご自宅は、南相馬市の「萱浜」という、福島第一原発から22キロ、海沿いの地区にあります。

◆避難すると思っていた
3月11日は職場の農協にいた。心配で一度家に戻ると、親父、おふくろ、下の子の倖太郎が家にいて、避難するところだった。地元消防団の活動へ向う最中に津波がきたが、“自分の家は大丈夫だ”という感覚があった。自分の家族は大丈夫、避難すると思っていた。そして、同じ地区で流されている人を助けていた。自分の家族が流されているとは気づかずによその人を助けていた。夕方になって、安心したいと思い、長女が行っているはずの高台の避難所へ行った。そこにいるもんだと思っていた。子どもたちの顔を見て安心しようと思っていた。
しかし「(家に)帰っていったよ」と言われ、そこからは自分の家族の捜索になった。
夜は懐中電灯を持って捜索した。長女が見つかったのは田んぼだった。近所のみんなも捜索に協力してくれていて、仲間たちが見つけてくれた。15日くらいまでは色んな人がいた。自衛隊や警察ではなく消防団、地元の人たちの助けがあったが、原発事故が有り、15日以降はみな避難した。でも1週間くらい経つと10人くらいの地元の若い奴らで捜索が始まった。


この日のゲストスピーカー、南相馬市の上野敬幸さんは、奥様は無事だったものの、 ご両親と、当時小学校2年生だった長女の永吏可(えりか)ちゃん、幼稚園入園を控えていた、長男の倖太郎(こうたろう)ちゃんの4人を津波で流され、お父さんと長男・倖太郎くんは現在も見つかっていません。 

そして上野さんは、震災直後から地元の方とともに、瓦礫の撤去と行方不明者の捜索に動き出し、現在もその活動を続けています。

明日は、震災から2年半が経過した今も続く、捜索活動についてお伝えします。

パーソナリティ:中西哲生・高橋万里恵

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2017 東日本大震災から5年 LOVE&HOPE 2016年3月11日(金) 特別企画放送

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