2014年1月31日

1月31日飯舘村のいま 前田区長・長谷川健一さん4

引き続き、福島県 飯舘村の酪農家の声です。

去年12月、東京で開かれた、作家・渡辺一枝さんが企画する「福島の声を聞こう」。このイベントにスピーカーとして招かれたのが、飯舘村前田地区の区長で酪農家の長谷川健一さんです。

飯舘村では、いままさに除染作業が行われていますが、長谷川さんは、この除染に疑問を感じていると言います。また、空間線量を計る「モニタリングポスト」についても、不信を募らせています。

◆除染、モニタリングポストへの不信
モニタリングポスト、飯舘村の今の線量はいくらですか、モニタリングポストから日本全国に(情報が)流れています。今日の新聞に掲載されている数値は、だいたい0.65マイクロシーベルトくらい。非常に低い。下がりましたよね。ところがこれにはとんでもない裏がある。モニタリングポストの下の土、汚染されていない土と入れ替えをしちゃった。ここだけが強制的に下げられている。そしてこの下をご覧ください。鉄板の上にモニタリングポストが上がっている。ということは土から上がった直接くるガンマ線は測れないと言っているんですね。飯舘村には全部で19か所のモニタリングポストがあります。そこを私は全部測りました。全てのモニタリングポストが低い、ということになっているんですね。そういうことで、我々も独自に線量のデータ残しをやっています。これから5年後〜15年後に、我々の子ども、我々も含めて体に異常が出てきたとき、国では必ずこのデータが出てくるんです。「あの当時はこのデータだった、因果関係はない」といわれる。我々からすれば、実測の半分のデータだ。そういうのがどんどん世の中に出てくるんです。そんなことはとんでもねえだろうと。そして今飯舘村では除染というものがまっさかりで叫ばれています。除染というものは飯舘村でどういうものをやっているのかといいますと、屋根瓦をペーパータオルで一枚一枚拭いています。ビニールハウス、ペーパータオルで拭いています。除染ってこういうもんなの?取れんの?って。そして私のうちにも除染の説明に来ました。私も環境省の職員に聞いた。おれのところは板張りなんだけれどもここはどういう除染の方法をやるんですか、と。すると「いや、長谷川さんのところもみなさんのところも同じように、あそこの板張りの部分を拭き取りします」って。あんた・・・それで取れると思う?個人的な考えでいいから取れると思う?と聞いたら黙っちゃった。だれも取れる思っていないんですね。パフォーマンスなんです。やらなければ「やらない」と言われる。だからパフォーマンスで、大手企業のビジネスなんですよ。そういう状況になっているんですね、今は。

           
今朝は、去年12月に開かれた、「福島の声を聞こう」というトークイベントから、福島県飯舘村・前田地区の区長で、酪農家の長谷川健一さんのお話をお届けしました。

長谷川さんが語った「モニタリングポストの下の土を汚染されていない土と入れ替えをしている」という話ですが、モニタリングポストを管轄する原子力規制庁に確認したところ、 “設置したメーカーの話”として回答がありました。

・ 「新しい土を持ってきて入れ替えたという事実は無い。ただし、地中にコンクリートの基礎を入れる際に、土を掘り起こすので、表面の土と、深い部分の土が、上下 入れ変わっている可能性は否定出来ない」
・また、鉄板の上にモニタリングポストがある、ということについては、「衛星通信機器、バッテリーなど周辺機器を載せるために、鉄板の土台を敷いている」ということです。
・そしてモニタリングポスト周辺の線量が低いという指摘については 「高さ1mの空間線量をはかるので、場所によって 数値が変わることはある。土の入れ替えや鉄板の影響は無い」との回答でした。


長谷川さんの著書『原発に「ふるさと」を奪われて~福島県飯舘村・酪農家の叫び』

2014年1月30日

1月30日飯舘村のいま 前田区長・長谷川健一さん3

引き続き、福島県 飯舘村の酪農家の声です。

去年12月、東京で開かれた、作家・渡辺一枝さんが企画する「福島の声を聞こう」。このイベントにスピーカーとして招かれたのが、飯舘村前田地区の区長で酪農家の長谷川健一さんです。

長谷川さんは、飯舘村 菅野典雄村長が主張する、村民が村に戻るための基準「年間追加被ばく線量で5ミリシーベルト以下」という数値について真っ向から反対しています。

◆5ミリシーベルトを巡る対立
国では追加被ばく線量を「1ミリシーベルトを長期的には目指しますよ」と言っているんですね。ところが飯舘村村長さんは、「いやいや、飯舘村は5ミリでいいですよ」ということがはじまった。今度は環境省でそれに乗っかってきた。国では1ミリシーベルトと言っているんだけども、飯舘村に関しては極力5ミリシーベルトに近づけるように努力しますと、こういうことを国で言ってきた。とんでもないことだと。私も村長にかみついた。すると、「国が言う1ミリシーベルトを待っていたのでは10年も20年も帰村できないでしょ、だから5ミリなんだ、多少のリスクは仕方がないでしょう」と。健康とか安心安全という言葉はどっか言っちゃった。
とんでもない話です。私は今度は村長に対して、5ミリという数字がどういう数字かわかっているのか、わかっていないなら教えてやると、5ミリという数字はチェルノブイリにすれば「移住の義務のライン」だぞ。日本だって病院の放射線管理区域が5ミリ。そういうところを飯舘村は目指すのか、できなくてもできなくても、国がいう1ミリシーベルトに極力近づけろと、それが当たり前だと私は思います。そして先月27日に飯舘村のワークショップがあり、村長に質問をした。村長は帰村宣言を出すにあたってどの時点で出すつもりなのか。まず一つは、「住環境の除染を終えた時点で帰村宣言を出すのか」、ふたつめが「住環境と農地の除染を終えた時点で出すのか」、三つ目「住宅地と農地と、山積みの汚染度を撤去した時点で出すのか」どれだと。するとなんとなさけなや、村長の答えは、「1住環境の除染を終えた時点」で帰村宣言だった。田圃も畑も除染をせず、汚染度が山住の中で帰れるわけねえだろ、何考えているんだと。これからもこの戦いはずーっと続きます。


今朝は、去年12月に開かれた、「福島の声を聞こう」というトークイベントから、福島県飯舘村・前田地区の区長で、酪農家の長谷川健一さんのお話をお届けしました。

飯舘村は震災前、豊かな自然を活用するライフスタイルを実践する村として、全国的にも高い評価を受けていました。その村づくりを主導したのが、菅野村長です。そして長谷川さんは元々、菅野村長を支援する、最大の支持者の一人でした。2人は、「良い村を作る」という共通の目的を持つ関係だったそうです。

明日は、飯舘村の「除染」をめぐる、長谷川さんのお話をお伝えします。


長谷川さんの著書『原発に「ふるさと」を奪われて~福島県飯舘村・酪農家の叫び』

2014年1月29日

1月29日 飯舘村のいま 前田区長・長谷川健一さん2

引き続き、福島県 飯舘村の酪農家の声です。

去年12月、東京で開かれた、作家・渡辺一技さんが企画する「福島の声を聞こう」。このイベントにスピーカーとして招かれたのが、飯舘村前田地区の区長で、酪農家の長谷川健一さんです。

福島第一原発の事故発生から1か月後の2011年4月中旬、政府は飯舘村を「計画的避難区域」に指定。村民は避難を余儀なくされました。そして長谷川さんをはじめとした酪農家の方々は、もう一つのつらい選択をしなければなりませんでした。

◆11戸の酪農家、苦渋の決断
我々酪農家は、「飯舘村は計画的避難区域に設定されたのだから、そこに牛は飼ってはダメですよ」と言われた。さらにそれにおまけがついた。牛を移動してダメだといわれた。何を言っている。牛は移動してはダメだ、人間は避難してくださいと。そんなむちゃくちゃな話は無いだろう。牛が餓死するだろう。そんなことできないぞと。私は酪農家組合の役員をやっています。協議をした結果こういわれた。「飯舘村の牛2頭を屠畜してください。その肉から放射性物質が検出されなければ、飯舘村の酪農家の親牛を全部屠畜してもいいですよ」と言われた。みんなで考えた。しかし餓死させるよりはその方がよいだろうということで、屠畜という道を選ばざるを得なかったわけですね。この映像は私のうちの牛が屠畜に連れていかれる映像。
ロープを結っているのはうちの息子です。事故の6年前に、「おやじ、俺べこやる」と戻ってきたんですね。そして牛のお尻を押しているのが私の次男坊で、立っているのが女房です。家族と同じ牛が屠畜に連れていかれる。ごめんね、ごめんねと泣きながら牛が積まれていくトラックを追いかけた。本当になぜこんなことが起きたのか。からっぽの牛舎に入って、俺はこれからどうすっぺと、そういう思いにふけっていた時に、ついに私たちが最も恐れていたことが起きてしまった。「原発さえなければ」、という走り書きを残して、飯舘村のすぐとなり相馬市の酪農家、私の友人(が自殺)。さらに南相馬市では93歳のおばあちゃんが、「私はお墓に避難します」と命を絶った。こういうことがどんどん起きていった。
2年8か月の避難生活でみんな疲れ切り、どうでもよい、投げやりな気持ちになっている。それが現状です。      


こうして2011年4月末、牧草から基準を超える放射性物質が検出されるおそれがある、などの理由で、
長谷川さんはじめ飯舘の酪農家の方は、「酪農を『休止』する」こと決定。11軒あった酪農家は、すべての牛を失いました。長谷川さん自身、30年以上続けてきた酪農から離れることに。そしてその2か月後、相馬市の酪農家の男性が、「原発さえなければと思ます」という言葉や、家族へ詫びる言葉を書き置いて命を絶った出来事は、当時ニュースでも報じられました。

明日は、飯舘村ではじまった「除染」の現状について長谷川さんのお話をお伝えします。


長谷川さんの著書『原発に「ふるさと」を奪われて~福島県飯舘村・酪農家の叫び』

2014年1月28日

1月28日 飯舘村のいま 前田区長・長谷川健一さん1

きのうお伝えした、福島県飯舘村、菅野典雄村長の会見に引き続き、今日は、飯舘村・村民の方の声です

お伝えするのは、菅野村長の会見直後、去年12月8日に東京で開かれた、作家・渡辺一技さんが企画する「福島の声を聞こう」というトークイベントの模様です。
この日、イベントに招かれたのは、飯舘村前田地区の区長で、酪農家の長谷川健一さん。長谷川さんは、菅野村長の「年間追加被ばく線量で5ミリシーベルト以下」を、村に戻る基準とする考えに、真っ向から反対しています。まずは長谷川さんによる、福島第一原発事故直後の振り返りです。

◆「までいの村」に降り注いだ放射能
まずですね、飯舘村、この私の地区であの事故後に45キロ地点でプルトニウム、ストロンチウムが検出されたという報道が出ましたけれども、ということはそういう猛毒の物質にまで飯舘村は汚染されてしまったんだなと、そういう思いがします。まあそんな飯舘村、事故の前はどんな村だったのかと申しますと、一言で言えば美しい村。山間の本当に素朴で静かな村ということが言えます。皆さんもご存知かと思いますが、「までいな村」、までい、とは東北地方の方言で、物事を大切に、丁重に、手を携えて、色んな意味合いがあります。そんな言葉を合言葉にして村づくりを進めてきた。

そんな村に3月14日、3号機が大爆発を起こすわけですが、その前から3キロ、5キロ、10キロと避難の指示が出ました。そしてこの3号機の大爆発と同時に、飯舘村のさきほどの30キロ圏内、一部が30キロ圏内に入るので屋内退避の指示が出た。それでも我々は「国も万が一のことを考えてそういう対応をしたんだろう」と、そう思っていたんです。ところがその時はすでに放射能は来ていたんです。当時のSPEEDIの映像を見ると、まるで飯舘村を目がけているように放射能が流れているんですね。そしてこういうデーターが国によって隠ぺいされ、その結果我々は無用な被爆を続けたと言っても過言ではないと、そういう思いがします。そんな中で、3月21日には飯舘村の水道水の摂取制限がかかった。放射性ヨウ素967ベクレルが検出され、水を飲んじゃだめと言われた。しかし時すでに遅し、飯舘村の人たちはその水を飲んでご飯を炊き、風呂に入っていたんですね。そういう対応の遅れがこれからも問いただされなければならないと、そんな思いがします。


長谷川さんによれば、その後2011年3月下旬から4月にかけて、「放射線の専門家」を名乗る学者が飯舘村に入り「安全」を訴えたと言います。これを受け、自主避難していた村民は次々村へ戻り、飯舘村で普段の生活を始めたそうです。しかしその直後、4月中旬に、政府は飯舘村を「計画的非難区域」に指定しました。安全を強調した科学者と、計画的非難区域に指定した政府。飯舘の村民の方々は翻弄され続けたのは事実です。

そして長谷川さんは、原発事故直後から、ビデオカメラを回し続け、人のいなくなった飯舘村の見回りを続け、そこで見たことを全国各地で伝え続けています。


長谷川さんの著書『原発に「ふるさと」を奪われて~福島県飯舘村・酪農家の叫び』

明日は、避難を余儀なくされた飯舘の酪農家たちの、苦渋の選択について、長谷川さんのお話をお伝えします。

2014年1月27日

1月27日 飯舘村のいま 菅野村長の主張

今週は飯舘村が、置かれている現状についてお伝えします。

福島県 飯舘村は、福島第一原発から距離にして30キロ以上離れています。しかし原発事故直後の風向きなどの影響で、多くの土地が放射能に汚染されました。村は現在、線量に応じて、帰還困難区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域に分かれており、村民およそ6,600人のほとんどが、県内・県外で避難生活を続けています。

そんな中、去年12月4日、飯舘村・菅野典雄村長は、東京で記者会見し、村の今後と、帰村に関する考えを語りました。

◆5ミリシーベルト以下を帰村の基準に
一つだけここでお話させて頂くと、放射能に対して避難はしなければならない。これは当たり前でありますけれども、じゃあそのために住民の生活をズタズタにしていいのかという両面、ですから、生活の変化によって起きるリスクと放射能のリスクとどうバランスを取りながら避難をさせるかというのが大切だ。

ただ、国も、失礼ですがメディアの人も「危ないから避難しろ」と言っていれば、それはそれで正論でございますからいいのですが、私はそうもいかないなあというところで住民に集まって頂いて喧々諤々の議論になり、あるいは将来に向けてのお話ができると、こういうことでございます。一つは除染の問題。国からは年間20ミリシーベルトになるので避難しなさい、という話だったわけであります。ですから基本的にはそこが基準ですから20ミリに、ということなんでしょうけども、それは避難する時の値でありますから、戻るときにも、それでいいよという話は、それはちょっときついでしょうと。ですから今、除染をモデルを、飯舘村はいち早く入れさせました。

その結果、除染をすればだいたい毎時1マイクロシーベルトくらいにはなるということがわかりましたので、とりあえず除染の目標を5ミリシーベルトにということで言っているところであります。私の村と伊達市だけです。あとはみんな1ミリシーベルトということでありますが、残念ながら学者も右から左までいます。私は1ミリシーベルトの呪縛を早く取り除かないと大変なことになるという風に、私は思っています。今はやはり、かなりの人たちが「ここでは死にたくないよ、戻りたい」と、どんどんと環境の違ったところでの生活から体を悪くしているところを考えれば、戻れない人はそれはそれで、村としても仕方がないですよとちゃんと言っているわけでありますから、私は5ミリということで帰村を考えてみたいと、このように思っているところです。


村長によれば、飯舘村は原発事故の前、世帯数は「1700世帯」でしたが現在は、およそ3100世帯と、世帯数が増えています。これは、もともと大家族で暮らしていた方々が、同じ仮設住宅やアパートなどに入ることができず、バラバラになってしまったことを意味します。
そんな状況を受け、菅野村長は、村民との議論を重ねたと話、その結果打ち出したのが「年間追加被ばく線量で5ミリシーベルト以下」という基準です。この数値まで除染できれば、帰村を進めると菅野村長は考えています。

一方、飯舘村の村民は、村長の考えをどう受け止めているのでしょうか。明日は、飯舘村の酪農家の声をお伝えします。

2014年1月24日

1月24日 続・東北食べる通信5

東北の農業・漁業の生産者を取材した記事に、付録として生産物がついてくる、食べる情報誌「東北食べる通信」。

先日 発行されたばかりの12月号は、岩手県大槌町の新巻鮭と、その鮭をとる「定置網漁」を特集。漁を取り仕切る「大謀(だいぼう)」、つまり漁船のリーダー・小石道夫さんの 震災後のストーリーが掲載されています。

東北食べる通信 編集長の高橋博之さんは、この号を手にした読者に、知って欲しいことがあると話します。

◆大槌の「希望」
12月号でもう一つ伝えたかったことは漁師の減少。これは震災に関わらず全国各地の問題で、漁師の数は右肩下がりで減っている。そんななか、「漁師が憧れの仕事だ」と、中学3年生で将来漁師になると言う少年がいる。彼になぜ漁師になりたいかを聞きに行ったところ、じいちゃんが漁師で、震災と津波で亡くなってしまったそうだが、じいちゃんに舟に乗っけてもらってしょっちゅう釣りに行っていたらしい。
「じいちゃんもまだまだやりたいこともあっただろうし、だけど流されてしまった。自分は海に背を向けていきたくない。海と一緒に生きていきたい。とにかく漁師になりたい」と言っている。

この中学3年生は希望。読者には、漁師が高齢化で減っていることを知って欲しい。大謀さんも後継者がいなくて悩んでおり、次のリーダーが見つかるまでは定年を過ぎてもやめられないと話している。その現状を知ってもらい、一方で漁師を目指す若い人がいるし、こうした若い世代を都市の消費者に支えてもらいたい、応援してもらいたいと言うことを伝えたくてこのページを作った。
菅野柚樹 くん。勉強はあんまり好きじゃないけど魚のことを質問すると目をキラキラさせて答える。「高校に行ったら釣り部を作る」と言っていました。自分のところにあるものが好きだというのは、そこに残り生きていく動機づけになる。僕もそうだが、何もないと思って東京に出てくるが、逆に東京にはないけど田舎にあるものを、この中学生は気づいている。今も夜中12時に起きて港に行って漁師さんの手伝いをして、朝5時くらいに家に戻りシャワーを浴びて一眠りして朝飯食ってから学校に行くという修業を始めている。



東北食べる通信12月号には、その中学3年生・菅野柚樹くんの写真が、大きく掲載されています。柚樹くんは本当に海と魚と釣りが好きで、修学旅行で行ったお台場でも、「釣りがしたい」と思ったそうです。

最後に、「食べ物と人を情報でつなぐ」。東北食べる通信が掲げるこのテーマは、意外な形で、全国に広がり始めています。

◆食べる通信が全国に!
全国各地に食べる通信カルチャーが広がり、去年の暮あたりから四国、中国、北海道などで「食べる通信を自分のところでもやりたい」というお声を頂いている。そしてまず今年4月に、四国食べる通信が誕生する。創刊号は、高知のカツオの一本釣りを特集すると言ってました。ヤバイ、負ける(笑)


東北食べる通信、最新号・2014年1月号は「いわき市の寒中野菜」の特集となっています。


来週は、作家・渡辺一枝さんによる、トークイベント「福島の声を聞こう」の模様をお伝えします。


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2014年1月23日

1月23日 続・東北食べる通信4

引き続き、『東北 食べる通信』の続報です。

東北の、農業・漁業の生産者を取材した記事に付録として生産物がついてくる、食べる情報誌「東北食べる通信」。去年7月の創刊以来、毎月、様々な生産者の方のストーリーが、写真とともに紹介されています。先日 発行されたばかりの12月号の特集について、編集長の高橋博之さんに伺いました。


◆不撓不屈の海の鬼
12月号は岩手県大槌町のしゃけ。新巻鮭。大槌のソウルフードを特集。定置網という漁法で獲るのだがそこのリーダーの小石道夫さん、「大謀(だいぼう)」という定置網のリーダーにスポットを当てた。小石さんの物語とともに新巻鮭を届ける。特集の見出しは「不撓不屈の海の鬼」。震災にあい津波で壊滅し、港も船も流され、 自身も被災し漁師をやめようとしていた。年齢も還暦を超えあきらめ鬱になり、引きこもっていたが復活した。海に戻り、海は戦場だと言い、鬼のような形相で指示を出す。大槌の海を知り尽くしている。この場所の深さ、地形、塩の時間帯ごとの流れが頭の中に入っている。海の中はしかけが見えないが大謀さんには見えている。35年かけないとできないこと。


ということで東北食べる通信12月号は、大槌町の定置網漁師、小石道夫さんのストーリーです。小石さんは漁師歴35年、定置網漁の大謀という立場。定置網漁は命がけのチームプレー。そのすべてを支配する司令塔が、大謀です。

震災後、一度は漁師を辞めてしまった小石さんは、ボランティアの方々が募金を集め、漁船を寄付してくれたことに心を打たれ、恩返しをしなければと立ち上がり、漁師を再開したといいます。

そんな物語とともに、付録として送られてくる新巻鮭は、どんなものなんでしょうか。


◆大槌の冬の風物詩
新巻鮭は江戸時代に江戸に大土の酒を塩漬けにして寒風にさらし乾燥させ、江戸に運んでいた。江戸で超大ヒット。大槌では冬の風物詩として民家の軒先につるしている。鮭の口にひもを通し、腹を裂き、塩でもんで乾燥させてがちがちに硬くなっている。それを大槌ではお茶漬けにしたり。しょっぱいがアツアツの白いご飯にあう。ちょっと食べればごはん1杯いけます(笑)


大槌町では、新巻鮭は「買うもの」ではなく「作るもの」。町の家々には、冬になると、軒先に鮭がつるされます。寒風にさらすことで、旨みが増すのだそうです。その風景は仮設住宅の軒先にも見られるとのこと。



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LOVE&HOPE。明日も、東北食べる通信の情報をお伝えします。

2014年1月22日

1月22日 続・東北食べる通信3

引き続き、『東北 食べる通信』の続報です。

去年11月、読者と生産者が、よりつながりを深めるイベントとして東京でオフ会が行われました。

オフ会に招かれたのは、会津若松の小菊(こぎく)かぼちゃの生産者・長谷川さんともう一人、お隣 喜多方市で高麗(こうらい)人参を作っている、若き生産者です。

◆会津の風土の味がする
人参というのは太い部分の主根、細い細かいひげ根、細いところと太いところのあいだの肉、という風に部位がある。蒸すと甘くなるが匂いもすごくする。逆に天日干しだと会津の風土の味がするという。苦みがしっかりする。そして三種類の部位を三種類の加工方法でみなさまに届くように今回はしました。


喜多方市の清水琢さん(32)。東京でシステムエンジニアとして働いていた清水さんは、いま、ふるさとの喜多方に戻り、郷土の伝統である高麗人参作りに携わっています。

漢方薬の王様 高麗人参は1本作るのに5年かかり、年数がかかるからこそ、滋養が詰まっていると言います。そして清水さんが作る高麗人参には、ふるさとの歴史も詰まっているんです。

◆故郷の伝統を受け継ぐため
最初は江戸時代。八代将軍吉宗の時。江戸幕府も太平の世で健康ブームがあった。その時に「一番に人参がほしい」と江戸の人たちが言った。人参を手に入れるには輸入するしかない。当時は朝鮮から輸入していたが、その対価として国内の銀が流出してしまう。それを防ぐために国内で栽培しようということになり、各地で栽培が始まったのだが、会津藩は人参の奉行所を作りお役人で管理した。会津で人参の栽培が始まったのは300年前。昭和から平成に移り変わるくらいが一番の最盛期だった。農家数で360軒、収穫量で170トンくらいあったが、急激に経済状況が変わり後継者不足で落ち込み、今は10軒の農家でやっている。このままだと絶滅してしまう状況。自分は東京にあこがれがあり上京したが、薬草屋の息子だから、全然違うことをやってきたが、薬草をやりたいと。帰ってやる仕事は継ぐことしか考えられなかったのでやりましょうと。





もともと、喜多方の高麗人参づくりに関わる方は高齢化が進んでいました。そこに震災もあり、生産組合自体が存続できない状況だったといいます。もし清水さんが、後継者として名乗りを挙げなかったら本当に、会津地方の高麗人参作りは、消滅してしまっていたかも知れないそうです。

32歳の清水さんは今、人参作り数十年のキャリアを持つベテラン農家の方、おかあさんたちに囲まれ、色んなことを学んでいます。

2014年1月21日

1月21日 続・東北食べる通信2

引き続き、『東北 食べる通信』の続報です。



東北の、農業・漁業の生産者を取材した記事に、付録として生産物がついてくる、食べる情報誌「東北食べる通信」。すでに1000人を超える読者と生産者が、食を通じたツナガリを築いています。去年11月には、つながりを直接 深める「オフ会」も催されました。

◆小菊かぼちゃ生産者との出会い
参加者「普段飲んでいるかぼちゃのポタージュよりもねっとり、重い感じ。とても美味しい。」
参加者「ちょっと普通に飲んだことのあるかぼちゃスープとは違う。デザート感がある。甘いし美味しい!」

長谷川さん「会津小菊かぼちゃは菊の花のような形をしているのが特徴です。ポルトガル人がカンボジアを経由して伝えたかぼちゃで400年の歴史があると考えられている。触感がねっとりしているのが特徴。会津は長い3か月〜4か月に及ぶ雪の中での生活を強いられるので、体調を崩さないように季節の行事として、冬至の日にかぼちゃを食べる。小豆と一緒に煮て、無病息災を祈りながら食べるというのが文化としていまだにある。最盛期は会津盆地の方々はみなさん作っていた。私たちが辞めれば種もなくなり、会津の野菜として残らなくなる。それはすごく困ると思いますし、今現在は学校でも小菊かぼちゃを食べる習慣ができているので、子どもたちにも応援してもらいながら生産者が増えるような活動ができるのではないかと思っています。


この東京のオフ会に招かれたのが、福島県会津地方の伝統野菜「小菊かぼちゃ」の生産者、長谷川純一さんです。



農薬も肥料も使わずに作る小菊カボチャは、コストも手間もかかるため、生産者は減り続け、会津では長谷川さんを含め「2人」しか残っていません。400年前、日本にやってきた伝統野菜。その「種」は古来種と呼ばれ、本当に貴重なもの。その種を途絶えさせないため、長谷川さんは生産を続けています。

そしてオフ会では、この「種」をめぐって読者たちのよる新たな展開が生まれています。東北食べる通信 高橋編集長のお話です。

◆種を返そう
これもびっくりでした。伝統野菜は種を残してつないでいかないといけない。オフ会で酒飲んでいるときに長谷川さんが読者に「種を返してほしいんだよね」とポロッと言ったらしい。
そこでみんなが、伝統野菜は種をつなぐものだと知ったようで、「じゃあ食べ終わったらかぼちゃから種を取って長谷川さんに送り返そうよ」と盛り上がってフェイスブックのグループページで
食べ終わった種を返してくださいという呼びかけた行われ、「それはいいことだ」と100件くらいのメッセージが届き、封筒にメッセージとともに種を入れたものが続々と集まり始めている。
今度は読者がボランティアとして種を仕分けして、会津の長谷川さんのところへ持っていくことになる。「自分たちで植えたい」と話している。命がめぐっている。
東京にいると食べたい時に食べたいものをいつでも食べられる。大量消費文化。でも本来は旬があり、種をつなぎ命をつないでいるということを東京に持ち込んでいる。
まさか自分でやっていてこんな化学変化が起こると思わなかったので、嬉しい想定外ですね。

                  


いまも着々と、読者から「小菊かぼちゃの種」は集まっているようです。生産者・長谷川さんは、こうした古来からの「種」を守ることが、TPPなど、日本の農業を取り巻く問題の中で、大事になってくると話す。また長谷川さんは現在、小菊かぼちゃを主に学校給食向けとして作っていて、「子どもたちに、舌で地元を感じてもらうことが大きな力になる」とも おっしゃっています。

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2014年1月20日

1月20日 続・東北食べる通信1

今朝は、昨年11月に取り上げた、『東北 食べる通信』の続報です。



東北の、農業・漁業に携わる“生産者”を取材した記事とともに、牡蠣やお米などの「生産物」が、付録としてついてくる・・・史上初の“食べる情報誌”が、「東北食べる通信」です。

「食べる人と作る人を、情報でつなぐ」ことを目指して、創刊したこの月刊誌は、読者と生産者のツナガリを、深める試みも始めています。それが、いわゆる「オフ会」です。

◆食べ物の力が、人をつなげる
去年の7月、創刊号として石巻の阿部貴俊さん(牡蠣漁師)を特集して以降、毎月、東北の生産者の人柄や哲学、生産現場の苦労や感動を「食べ物と一緒に届ける」ということでやってきたが、生産者のことを知ったうえで食べると「味が違う、本人に会いたくなる」という話が出てきたので、特集した生産者を東京にお呼びして読者の方にご案内するということを実施した。みんな初めて会う人たち。世代も違うし職種も違う。唯一の共通点は同じ生産者の作ったものを食べたという共通項。その共通項だけでめっちゃ盛り上がる。だからすごいなと思う。食べ物の力って。

お話を伺ったのは、東北食べる通信・編集長の高橋博之さんです。お話にあったように、昨年の11月、東京で開催されたオフ会。食材は、東北食べる通信11月号で特集した、会津若松市の長谷川純一(じゅんいち)さんがつくる会津の伝統野菜「小菊カボチャ」。そして、お隣 喜多方市(きたかたし)の清水琢(たく)さんが作る「高麗人参」。オフ会の会場には、この食材を通じて繋がった、たくさんの読者の方が集まりました。



◆参加者の声
・「東北を支援するのではなく関わりたい。関わるには好きなこと、本能に訴えることが長続きする。それが食べることと酒飲むこと。それを月に1度、2千円くらいのもので生産者の物語、どういう生きざまがあって、いまこれを作っているのかを知る。それが届いて食べると、本当に命を頂いている、作っている人の物語を含めていただいているということが人間としての生きる上での必要な食を根本的に考えられるし、いい仲間にあえる。同じような気持ちを持った人と出会い続けられるのは無理がないと思ってやっています。」

「最初はがれき撤去のボランティアをしていたが、震災から時間がたつとどうかかわったらいいのかがわからなくなってくる。普段は東京で仕事も忙しいので長期で向こうにはいけない。東北とかかわり続ける中でどうしたらいいかというときに食べる通信を知って、高橋さんのいう「生きざまを商品にして」という、生産者のストーリーを見せてそこで食材を紹介し、地方と都心をつなげていくということをされようとしている。その考えに共感して、単純に美味しいものを食べられて読み物としても面白くてというところで、これなら良い形で続けられるのではないかと思っている。」
                   

11月号の特集「小菊かぼちゃ」は、会津若松で400年の歴史を持つ伝統野菜。「八重の桜」の新島八重が、戊辰戦争の際、籠城中に食べていたといわれています。


「高麗人参」は、漢方薬の原料として有名。幕末の会津藩が財政難の際、この高麗人参の輸出で財政を立て直したという、こちらも伝統的なもの。
ただ現在、どちらの野菜も生産する人は、数少ない。特に小菊かぼちゃの生産者は、現在たった2人。11月号は、その伝統野菜の生産を守ろうとする生産者のストーリーが掲載されました。


明日も、東北食べる通信の最新情報をお伝えします。

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2014年1月17日

1月17日 地元コミュニティFMとJFN38局の協定

今朝も、臨時災害放送局の話題です。
今日で阪神淡路大震災から19年目を迎えます。

日本で初めて臨時災害放送局が立ち上がったのが、その阪神淡路大震災のとき。被災した神戸の街に、さまざまな状況を伝えて、復興の後押しをしました。

そして東北では、震災から3年を迎えようとしているいまも、17の臨時災害放送局が放送を続けています。

臨時災害放送局の役割はいつまで続くのか。地域密着の放送局に詳しい、龍谷大学教授、松浦さと子さんは、こう話します。

◆臨時災害FMの役目は、仮設住宅がなくなるまで持続するべき
臨時災害局という名前からして、短期間のものだと思っている方がほとんどだと思う。省庁のほうも、「臨時」とついているからには、当初は3か月または1年と期限を区切って、それ以上はコミュニティFMに昇格していくとか、ほかのメディアに変わっていくということを想定していた。けれども、実は「臨時」とは、「被災状況が続いている」「緊急の状況が続いている」限りは「臨時」という名前を名乗っていていいのではないかという理解も高まってきた。地域によってはまだ仮設住宅のまだで、完全に復興していないのだから、臨時災害局を持続できないか、という声が高まっている。


また、東北の臨時災害放送局が震災直後に直面したのが、放送に関わる機材や人材の確保と、情報収集や情報発信のノウハウです。こうした課題を踏まえて、JCBA(日本コミュニティ放送協会)と、TOKYO FMをはじめとするJFN38局は、今日「災害時における地域情報ネットワーク」の協定を締結しました。

これは、災害が起こったとき、コミュニティFM各局と、JFN全国38局が回線や電話をつないで、相互に情報をやりとりするというもの。東日本大震災からの教訓。またこの協定ではどのような情報連携が求められるのでしょうか

◆情報の「遠距離交際」
震災のときは、隣近所の都道府県が皆困ってしまう。助け合おうにも、自分のところで精いっぱいになるので、むしろ「遠距離交際」という意味で、遠いところのネットワークが大事。全く震災の余波がなかったところから応援に駆け付けてくれる方々の助けがものすごく力強い。東日本大震災は、発信力が強かったところがボランティアや義捐金がたくさんあつまった事例がある。なにに困っているかが明確に発信されれば的確な応援がくる。ならば、その声はできるだけ広く遠くに届けるべき。一方で、各地域にふさわしい情報を提供してくれるネットワークもほしい。どこからどういう支援がもらえるのか、どこに避難することができるのか、放送ソフトの協力をするとか、放送のコンテンツを作って送るとかで、助かった!という反応がくると思う。そういう遠くからの支援のネットワークも大切になってくると思う。


次の災害に備えて、ラジオのネットワークをさらに有効に活用しよう、というのが、今回の協定の主旨。今後、機材や技術提供、人的サポートなど、具体的な連携の形を模索していく考えです。

「災害時における地域情報ネットワーク」の協定締結

2014年1月16日

1月16日 宮城県山元町 りんごラジオ

今朝も、東北の臨時災害放送局にスポットをあてます。


現在、東北で活動する臨時災害放送局は17局。その中で、震災後いち早く放送を始めたのが、宮城県山元町の「りんごラジオ」です。


「りんごラジオ」の名物パーソナリティが、高橋厚さん。元・東北放送のアナウンサーで、引退後、縁あって山元町に移住し、いま地域密着の小さなラジオ局を支えています。

◆自主制作100%を目指して
放送時間は朝9時から夕方6時まで。りんごラジオ制作100%。これは正直、とんでもなく大変。毎時間毎時間、町長、教育長、町議会議員、町の皆さんにご出演いただいたり、こちらから出向いて取材したり、中継をしたり。そこがりんごラジオの特徴だと思っている。
町民の皆さんは、町の復旧復興状況がどうなっているのかが最大の関心事。いつ町がつくってくれた住宅に移れるのか、その建設状況がどうなっているのか、など。さらに交通手段。いつ本格工事が始まって、通勤通学の足が確保されるのか。町議会の生中継なども大きな関心を持って聞かれているという状況。


山元町では、震災の10日後に、いち早く臨時災害放送局が立ち上がりました。これは、高橋さんなど町民が、町のコミュニティFM開局に向けて、以前から勉強会を行っていたことが、大きな要因です。

◆災害時の地域密着ラジオの必要性
山元町民が中心となって、コミュニティラジオがあれば、お祭りとか商店街の情報などを放送することで町が活性化できる、なんとか開局しましょうと町に働きかけていたが、結局開局には至らなかった。その5年後に大震災となってしまった。
震災のときは、こちらは震度6強の地震だったが、役場の屋上にあった防災無線が折れたり、町内に50カ所くらいあった防災無線のスピーカーも大半が流されて、情報を伝えることができなかった。また、仙台などのメディアは山元町の情報を1週間近く伝えてくれなかった。気仙沼とか石巻とか女川とか、県北のほうにメディアの取材、中継が集中してしまった。被災者にとっては、被災直後、一番大事なのは情報だった。水も食べ物も、とにかく情報が大事だった。そういうときに、りんごラジオが何年かまえに開局して、日頃から町民の皆さんに聞いていただける習慣があったら、もう少し救える命もあったのではないかと思っている。


高橋さんは仮設住宅がゼロになる見通しの平成27年までは、臨時災害放送局として放送を続けたいと話しています。また、その後もコミュニティFMとして放送を継続したいが、資金面のハードルが高いということです。

2014年1月15日

1月15日 陸前高田災害FM

今日から3日間スポットをあてるのは、東北の臨時災害放送局です。

臨時災害放送局は、地震や洪水などの災害が起こったときに、被害を減らし、必要な情報を届けるための臨時の放送局。東日本大震災の後、東北各地では、30の臨時災害FMが立ち上がりました。このうち、現在も放送を続けているのは、17局。震災から3年を迎えるなかで、いま東北の臨時災害FMはなにを伝えているんでしょうか。


今日はまず、岩手県陸前高田市からのレポート。
お話は、陸前高田災害FMの阿部裕美さんです。
   
◆陸前高田災害FMの開局
震災から9か月経ってから開局した。仮設住宅に移ったあとだったので、できるだけ地元の方の声を取材して、ラジオから聞こえてくる地元の人の声で、聴いている人がほっとしたり笑ったり、元気になれる番組をずっと心掛けてやってきた。
もうすぐ震災から3年になるが、ラジオを聴いた方が「震災後連絡が取れなくなっていた知り合いの無事を知ることができた」というお話をいまも聞く。いまもまだ、互いに無事を知らずにいる人同士のコミュニティのつなげ続けていきたいと思っている。


阿部さんは生まれも育ちも陸前高田。震災前はご主人と和食のお店をきりもりしていました。けれども、震災でお店は被災。実家も流され、ご両親も津波の犠牲となりました。

そんな中で阿部さんが出会ったのが、臨時災害FMの仕事でした。放送に関わるのは初めてだったという阿部さん。でもいまでは、取材からパーソナリティまで、幅広く活躍しています。

◆ラジオの番組作りを通して見えたこと
一番反応があるのは、「みなみの福興ラジオ・ぷらす!」という番組。現在高校1年生の女の子みなみちゃんと、とわたしでお送りしている。去年(みなみちゃんが)中学生のときにスタートした。中学生とは思えない話しぶりに大人が面食らう感じで、本人が復興や震災について、思っていること感じていること、新しい陸前高田でこういうことが再開されたということを紹介したり。大人が聴いてもなるほどな〜というトークを続けくれている。
ラジオの仕事に関わって、人とのつながりを強く感じている。全国のたくさんの方とつながらせていただいたし市民の方でも、いままで全然知らなかったかたともつながらせていただいて、とても感謝している。生きることができなかったたくさんの犠牲者の方の分も、これからはしっかりと地に足をつけて生きていかなければいけないなと感じている。



主な放送内容は、朝と夕方の生放送と、町民インタビュー。そして昔話や落語など。中でも、一番求められているのは、住宅や復興街づくりに関する情報だとか。市議会の生中継や担当者への取材などを通して、町民に復興の状況を伝えています。また、陸前高田災害FMの放送は、インターネットのサイマル放送で、全国どこからでも聞くことができます。

2014年1月14日

1月14日 いしのまき浜日和

今朝は、宮城県石巻市の「浜」の魅力を伝える小冊子「いしのまき浜日和(はまびより)」をクローズアップします。



石巻の沿岸部・リアス式海岸沿いに点在する漁村・集落を、地域の人はこれら集落を「浜」と呼んでいます。そしてこれら「浜」には、それぞれ特徴的な漁業や、伝統文化が今も受け継がれています。

「いしのまき浜日和」は、こうした「浜」の暮らしにスポットを当てた小冊子。地域で活動するボランティア団体や、ISHINOMAKI2.0、そして地元の新聞社「河北新報」などが共同で制作しました。河北新報の、大須武則さんに伺いました。

◆改めて知った「浜」の魅力
浜の再生をどうしたらいいのか、と考え浜の豊かな暮らしを紹介することで、浜の人たちが改めてその良さを認識し、遠くから来た人たちにも浜を伝えることで再生できるのかなと思い、積極的に浜を取り上げた。2013年4月に小冊子を作り、若い人たちからも評価を得た。これを拡充して、若い人たち、よそから来た人たちも地元の人たちも含めて一緒に作ろうと始まった。私は以前、水産関係の取材をしたことがあるので知っている部分もあったが、初めて知ったこともある。震災後にまた元気に立ち上がる姿を、彼らが一緒に行動を共にして共感を得ながら立ち上がる姿を見てきたというのは、現場を見に行けなかった私も勉強になった。





「いしのまき浜日和」には、石巻界隈の、それぞれの「浜」の人々が生き生きと描かれています。例えば、小渕浜(こぶちはま)ではアナゴ漁。このあたりは50センチを超える大きなアナゴが獲れる上。活魚の生産量としては、日本で一番多いといわれているそうです。また、鮫浦(さめのうら)のホヤの養殖を紹介したページでは、「三陸の海の味」ホヤを食べると、ビールも水も、“甘みを感じる”という表現で、その深い味わいを紹介。そのほか、ホタテ漁、わかめ漁、焼きハゼ作り、海苔など石巻の“海のごちそう”たちや、町の史跡、名所、食事処なども掲載されており、ガイドブックとしても使えます。

そしてこの本には、石巻の将来を見据えた、こんな想いが込められています。

◆石巻の未来のために
まもなく丸3年になるが、よそから来た人から見ると、土地はきれいに片付き震災の跡は見えなくなってきている状況にある。ただ、やっと復興のスタート台についたのかなと私は思う。いしのまき浜日和は若い人たちと一緒に作ったわけだが、スキルを持った若い人たちが石巻に、最初はボランティアとして、そこから長期滞在、そして住所を移し石巻の新しい住人として一緒に仕事をしていくようになってくれればなと思う。若い人が楽しんで仕事ができる、新しい仕事を作り出して、活気を作っていければなと思う。



Ishinomaki2.0出版『いしのまき浜日和』

2014年1月13日

1月13日 石巻トラベルレストラン

今朝は、宮城県石巻市から、ISHINOMAKI2.0の、2014年の新たな動きです。

地元の若い世代、県内外のクリエイターによる街づくり団体、ISHINOMAKI2.0。番組ではこれまで、海外のアーティストとの交流イベントや古民家の再生など、町を面白くする様々な仕掛けを紹介してきました。そんなISHINOMAKI2.0による、今年の新たな動き。それは、震災前に比べ、人口がおよそ1万人減少した町の、交流人口を増やすためのプロジェクトです。

◆観光客を受け入れる、石巻流のおもてなし
1万人いなくなってしまった町を元気にするためには交流人口を増やさなければいけない。そういった中で2つの、観光をテーマにしたプロジェクトが動いている。
一つが、先日発行した、石巻の浜ごとの特徴ある豊かな暮らし、漁の仕方や食材を紹介する『いしのまき浜日和(はまびより)』という冊子。
もう一つは、『いしのまきトラベルレストラン』という事業。単純に美味しいものを食べる、楽しく観光をするだけではなく、その土地の食材の収穫現場を体験したり、食卓で使う食器を一緒に作ったり、浜ごとの人たちと交流したり、、、そうしたことを含めて“まるごと美味しく頂きましょう”というプロジェクト。2012年10月に第0回を実施して、石巻を代表する水産物、牡蠣の水揚げ、殻むき体験をして頂いた。また石巻には、水産物だけではなく豊かな農産物がある。完全自然栽培のお米「ササシグレ」という、ササニシキの親にあたる非常に貴重なお米。これは有機肥料を使うのだが堆肥ではなく、前年に刈り取った稲わらを熟成させた肥料でお米を作る農法で作る。その農法で作ったお米を、「羽釜」というまんが日本昔話に出てくるような大きなお窯で炊き上げる。蓋を取った時にあがる湯気がたまらない。石巻の人がホストとなり、みんなで素晴らしい資源、食材を使い、全世界からくる人をもてなそうということを考えている。それが間もなく、2月に本格的に始動する。


ということで、説明してくれたのは、ISHINOMAKI2.0代表理事・松村豪太さん。

手に持っているのは、冊子「いしのまき浜日和」と、完全自然栽培のお米「ササシグレ」です。

いしのまきトラベルレストランは、石巻の田んぼや浜をめぐり、様々な体験をしたうえで、その食材がずらりと並んだ「一日限りのレストラン」で食事をするというプログラム。2月にスタートするということで、いち早く、その内容を教えていただきました。

◆テーマは「浜のお正月」
2月はまだちょっとだけお正月気分が残っているだろうということで、お正月をテーマにする。“浜のお正月”。石巻はエリアごとにだしの取り方や具材が独特で個性がある。あるところは焼きハゼを使ったり、ホヤでだしを取ったりする。これがまた濃厚な良い出汁が出る。あとは完全有機栽培の稲わらでお正月の注連縄を作ってもらう体験も企画している。

                   

いしのまきトラベルレストラン第1回は、2月23日(日)に実施予定。この回では、地元産のもち米を使った餅つき体験もあり、石巻の「浜」独特のお出汁を使ったお雑煮を頂くこともできる予定です。また、お料理は、石巻の老舗割烹の料理長が腕を振るうということです。※詳しくは、石巻トラベルレストランのホームページにまもなくアップされます。

★石巻トラベルレストランHP

2012年「第0回いしのまきトラベルレストラン」の様子です↓楽しそうじゃ!!

2014年1月10日

1月10日 四季彩食いまむら@石巻市 その2

昨日に引き続き、宮城県石巻市の中心市街地にのれんを掲げる、一軒の和食屋さんのご主人のインタビューです。

お店の名前は「四季彩食いまむら」。ご主人の今村正輝さんは震災ボランティアとして、地元・千葉県を離れ石巻へ。そこで出会ったボランティア仲間とともに、去年4月、石巻にこのお店を開業しました。お店の雰囲気はこんな感じ!



実はこの外観や内装のほとんどは、被災した店舗をボランティア仲間とともに手作りで改装して作り上げたんですって!

◆この店は誇り
やるからには手作りにこだわりたかった。素材に関してはできるだけ多く石巻のものを使おうと。お店の内装の土壁は北上町の土。カヤやワラも石巻のものを使っている。テーブルやカウンターも石巻・牡鹿半島のものを使っている。テーブルやカウンターは石巻・牡鹿半島にある木を使った。全部自分たちで作ってやった。本当にみんなが来てくれた。最初にボランティアでチームを組んでいた人たち、知り合った県外のボランティア仲間が、土日や休みが取れた日に手伝いに来てくれた。宝物じゃないが、仲間たちは財産。お客様にも誇れるお店だと思う。実は思っているところがあって、石巻はなかなかお店があかない。若い人たちも見かけない。人口も流出している。自分もやっていて怖い。人通りは無いしなかなかお店をやろうという人がいないと思う。何が成功かはわからないが5年〜10年後に自分がここで経営をできているというのが、「見本」というと言いすぎだが、そうなれるように今は頑張っている。それぐらいの覚悟はもって臨んでいるつもりではある。


そしてこのコダワリは当然、お料理にも生きています。これからの時期のオススメを今村さんに教えて頂きました。

◆地元の食材との出会うたびに。
前菜、お刺身、煮もの、焼き物、てんぷら、季節の土鍋ごはん。牡蠣の土鍋ごはんとか。あんこう鍋も美味しいんですけど、鱈も石巻はいっぱい上がってくる。肝と味噌でコクのあるような鍋にしたらおいしかったので鱈鍋もいいかなと。ぼっけとかそういうお魚に出会うたびに大変ですが献立を変えないと・・と。一度ゆっくり全部食べて頂きたい。




いまむらは、日曜・祝日が定休日。営業時間は、午後6時から11時までとなっています。詳しくは、いまむらのFacebookをご覧ください。

2014年1月9日

1月9日 四季彩食いまむら@石巻市 その1

きょう紹介するのは、宮城県石巻市の中心市街地にのれんを掲げる、一軒の和食屋さんです。

◆石巻の食材にこだわる和食店
(※お店のカウンターで録音した音声)
アナゴの白焼きは牡鹿半島です。渡波の一番摘みの海苔で巻いて食べると美味しいですね。石巻のアナゴは身も厚く美味。その隣が牡鹿半島で取れた芝エビのから揚げで、その隣が仙台牛A5ランクのローストビーフ。そのとなりがホタテとホワイトセロリのあえ物。スープ代わりにうちのお店のベースとなるお出汁を。。。


お店の名前は「四季彩食 いまむら」といいます。
ご主人は、今村正輝さん(32)。まだ若い料理人さんです。もともと、千葉県松戸市の飲食店で修業していた今村さんは、東日本大震災直後の2011年5月から、石巻のボランティアに参加。石巻に留まって活動を続ける中、この町にお店を出したいと考えたと言います。

◆「石巻で店を出したい」
5月〜6月にがれきの撤去活動をしていたが、徐々に、商店街やお店を再開したいという方が増え、たまたま店舗の“再生班”のボランティアに参加。当時は大工さんが足りない状況ということもあり、塗装や電気工事、解体工事出身の人に交じって飲食店経験者としてお店再開の手伝いをするチームを作った。四十数店舗の内装工事の手伝いをした。腕もない素人だが僕らにしかできない工事をしようと、一緒に作っていった。このお店(いまむら)でもお世話になっている酒屋さん、魚屋さん、肉屋さんも、みんな(改修を)手伝ったお店。今もつながっている。その活動があったから自分はここで残ってやりたいと思った。お店を開ける手伝いをして、「がんばってください」で終わりではなく、自分もここでお店を出して商店街の一員としてやっていきたいなと。あとは料理人として、ここの食材を使いたいという想い。海産物はもちろん、米などの農作物も美味しくて新鮮。震災後の活動で漁師さんや農家さんと知り合うことができた。みなさん被災して辛い状況の中で商売を再開された方々。その想いや、生産者の顔が見える中で仕事がしたい、お客さんに提供したいと思って、(石巻に)住民票を移した。


こうして今村さんは、ボランティアを続けながらお店を出すことを決意。2012年に住民票を移し、資金を集め、去年の4月にお店を開業。※石巻の食材にこだわり、生産者と近い距離にいるからこその料理を、丁寧に作り続けています。いまでは、週末は予約が途切れない人気のお店になっています。

明日も、「四季彩食 いまむら」についてお伝えします。



「四季彩食いまむら」Facebook

2014年1月8日

1月8日 サポートアワーキッズ「HABATAKIプロジェクト」その3

引き続き、「サポートアワーキッズ」の活動を紹介します。

サポートアワーキッズの海外ホームステイを体験した子どもたちの次のステップ、
「HABATAKIプロジェクト」。子どもたちは海外で得た仲間と、経験を活かし、復興のための様々な企画を立ち上げました。

昨年12月、仙台市内で行われた発表会では、14歳で会社を起業し、現在、高校生CEOとして注目を集めている、仁禮彩香さんから、こんな提案がありました。

◆同年代の企業家からのメッセージ
私は高校1年生で、株式会社グローパスという会社を経営しております。中学2年生の時にこの会社を起業したのですが、やっている事業は3つあります。一つ目は「未来志向の学校を作る」二つ目は「子どもが大人をサポートする」三つめは「私たち子どものアイデアを実現する」。
今回、私と同い年、同じ世代のみんなが話している活動やアイデアを聞いていて、自分たちで色んなことをやろうとしている子がたくさんいることにワクワクしていますし、一緒にやっていけたらいいなと思いました。色んなプロジェクトをやっていますと、私はリーダーとして一生懸命やっているのですが、意見や考え方が違う人もいて悩まされる部分もあります。ここにいるリーダーの人たちも、今まで活動に参加したことがない人を引っ張ってくるのは大変だと思います。そういう中でも、リーダーの仲間が一緒に協力をしたらもっと良いものができるし、怖がらないで一緒にどんどん前に進めたらいいなと思います。
私たちは未来そのもの。子どもがこれからの未来を築いていくので、その子どもたちが一生懸命いろんなことに取り組めば未来も明るいものになると思います。だから一緒に前に進んでいけたらと思います。

今日、紹介した高校1年生 仁禮あやかさんが、中学生で立ち上げたグローパスという会社は現在3年目。順調に事業を進めているといいます。仁禮さんとグローパスは、3月7日・8日に日比谷図書館の大ホールで今後の防災・減災について考える、専門家を招いたカンファレンスを行う予定。実はそのカンファレンスには、サポートアワーキッズのメンバーも招待されていて、ハバタキプロジェクトの企画を、プレゼンすることになります。



サポートアワーキッズについてはこちら    

2014年1月7日

1月7日 サポートアワーキッズ「HABATAKIプロジェクト」その2

きのうに引き続き、復興を担う被災地の子どもたちの、自立支援に取り組む団体「サポートアワーキッズ」の活動を紹介します。

サポートアワーキッズの海外ホームステイを体験した子どもたちの次のステップ、「HABATAKIプロジェクト」。子どもたちは、このツナガリと経験を活かし、復興のために、様々な企画を立ち上げています。

例えば…
・被災地の復興に向けて「子どもたちにできること」を伝える書籍を作る企画
・自分たちの活動をPRするためのゆるキャラの開発などなど。

それぞれのグループは他にも、こんな企画の実現に向けて動き出しています。

◆活動をつなげるために!
「HABATAKI村プロジェクト」は、サポートアワーキッズの活動が7年後の2020年に終わってしまうので、その活動を引き継いでいこうという想いから、活動拠点・兼・避難所、および防災教室を開催する施設として、「HABATAKI村」を作るという大規模なプロジェクトを計画しています。

「ワールドグッズ」というプロジェクトです。僕たちは防災グッズを半年後に作るということを目標に頑張っています。被災した僕達だからこそ分かる必要なものを揃えて、これから災害が会った時に使えるような防災グッズを作って行きたいです。

そして昨年12月、仙台市内で行われた発表会。ステージに上がった子どもたちは、それぞれ持ち寄った企画を、つなげて、コラボレーションするための話し合いも行いました。


◆アイデアをつなげよう。
司会「いままで各プロジェクトが、8つが10月から走ってきたわけなんですけど、子どもたち自身が『ココとココは、なんかちょっと繋がるところがあるね』と、底上げしていくために気づいたグループがいくつかありました。

●私たちは、交流会を開くのに施設がいるとなった時に、情報交換の場に「HABATAKI村」があればいいなと思い、連携して行事ができたらいいなと思っていました。

司会「HABATAKI村は拠点、ハードを作りたい。一方、はそういう国際交流が出来るイベント、コンテンツ、ソフトを作りたい。そういうところが連携してできるということに気づいたようです。他には?」

●私たち本作りは、ゆるキャラを本の表紙か裏表紙に採用させて頂きたいなと思いました。

司会「さっそくゆるキャラの採用先が決まりました(笑)ひとつは防災グッズにゆるキャラがぽん、とあることでしょう。1つは、本にゆるキャラが見られそうです」



サポートアワーキッズについてはこちら    

明日は、この「HABATAKIプロジェクト」を支援する、高校生の社会起業家・仁禮彩香さんのメッセージをお伝えします。

2014年1月6日

1月6日 サポートアワーキッズ「HABATAKIプロジェクト」

今朝は、復興を担う被災地の子どもたちの、自立支援に取り組む団体「サポートアワーキッズ」の活動を紹介します。

サポートアワーキッズでは、2011年から継続的に、被災地の子ども達による、海外語学留学を実施しています。今回お伝えするのは、子どもたちの次のステップとしてスタートした
「HABATAKIProject」です。ホームステイを体験した子どもたちが、今度は“自分たちが支援する立場になる”ことをめざし、自分たちで企画を考える動きです。

すでに子どもたちは、何度も会議を重ね、「海外と復興」をテーマに、様々な企画を立ち上げています。
昨年末12月22日には、仙台市内でその発表会も行われました。



◆自分たちの体験を次の世代へ
「僕たち『世界情報発信局』のプロジェクトテーマは、日本について、海外について興味を持ってもらえるような発信をしようということです。実際に同年代の人たちに、国際協力に興味があるかと聞いてみるとみんな必ず、興味をもっていると答えてくれるが実際にホームステイに行ってみないか、サポートアワーキッズのホームステイに参加して人生の見方を変えてみないかというと、みんな必ず「僕はいいよ」「私はそんなにたいしたことはできないから」と答える。どうしてそう思うのか僕たちは考え、海外の文化について偏見があるからではという結論に至りました。その偏見を少しずつ無くしていこう、文化の違いについてちきっと理解してもらい、知ってもらおうということをインターネットなどを通じて話していきたいと思っています。最終的には国際的な交流・・・例えば留学やワーキングホリデーで働いてみるなどをしてみてほしい、ということを思ってこのプロジェクトを進行していきたいと思っています。」

「私たちが行うプロジェクトテーマは『本づくり』です。名付けて『HABATAKIブックプロジェクト』です。7年後には東京オリンピックが来ます。東京オリンピックの選手村でこの本を置いてもらえれば幸いです。また翻訳されたものを世界に発信したいと思います。今日までの活動で決めたことがあります。それは、本の表紙と帯とタイトルです。タイトルは「あなたに知ってほしいこと」カバーに“ネバーギブアップ東北 明日から私たちができる123の復興のカタチ”となっています。復興支援にかかわりたいと思っていても方法がわからず関われない人がたくさんいると思います。だから私たちはこの本を通して多くの人たちに復興支援の方法をわかってもらい、それを実践してもらいたいと考えています。最後に、この本を通じて元がとれる自信があります。絶対に元が取れると思っています。だからたくさん支援してください(笑) ぜひ私たちに力を貸してください。こうしたほうがいいよとかアドバイスがあればお願いします。

海外から帰国した子どもたちは、今も交流を続けています。そのつながりの中で、今回、8つのプロジェクトが立ち上がりました。海外との交流・復興支援をテーマに、子どもたちはこれからも活動を続けます。また、サポートアワーキッズは震災から10年間の継続を目指していますので、10年の節目となる2020年の東京オリンピックが、これから、子どもたちの一つの目標になっていくということです。

サポートアワーキッズ

2014年1月2日

1月2日 雄勝・女川の獅子ふり

東日本大震災から3度めのお正月。三が日のこの時間は東北各地の新年の表情を、地元の方の「声」とともに、お伝えしています。

今朝は、宮城県石巻市雄勝町・女川町のお正月です。こちらでは、元日から6日まで各地域で毎日、「獅子ふり」という行事が行われています。お電話がつながっているのは、石(いその)神社ほか、雄勝・女川17の神社で宮司を務める、千葉秀司さんです。

お正月の6日までこの地域の各神社で行われる「獅子ふり」とは、関東でいう「獅子舞」ですが、2人1組で舞うところが大きく違います。およそ600年前、修験者たちから受け継がれたものと言われています。

「獅子ふり」の獅子の頭は、津波の被害を受け、雄勝地域では10個中9個が津波で流されてしまったのですが、1個はがれきの中で発見。9個は支援を受け新たに作成。現在は震災前と同じ数に戻っています。



獅子ふりは、お正月に各家々を回る方法と、境内など一か所で行う場合があるのですが、いずれにせよ、獅子が舞う場所や、獅子ふりの囃子が聞こえる場所に地域の方が集まり、そこで新年のあいさつも交わされるのが、この地域のお正月の風景。震災の影響で暮らす場所も、景色も変わってしまったけれど、日常なかなか顔を合わせることのなくなった人同士が、顔を合わせる機会になっていると宮司の千葉さん話しています。

明日も、東北のお正月の表情を、地元の方の声とともにお伝えします。

2014年1月1日

1月1日 大槌 向川原虎舞「風虎会」

東日本大震災から3度めのお正月を迎えました。
三が日のこの時間は、東北各地の新年の表情を、地元の方の生の声とともに、お伝えします。



今朝は、岩手県大槌町から、お正月恒例の「虎舞の奉納」です。向川原虎舞、風虎会の7代目の会長、中村光高さんにお電話をつなぎました。

中村光高さんは34歳。年齢34歳。震災では家が全壊、現在は仮設住宅で生活。津波でご親戚を亡くされています。


虎舞は、虎2人1組で虎の頭と両足を表現する。遊ぶ仕草や草を食べる仕草、手負いの虎が荒れ狂う姿…などを激しい踊りで表すもので、立ち上がる仕草では、高さは2〜3mほどという迫力!!「虎は一日にして千里走り、千里帰る」ということわざがあり、岩手沿岸部・漁村で、漁の無事を祈ってはじまったといわれています。また、江戸時代、江戸の人形浄瑠璃を持ち帰ったのが由来とも言われています。


震災の影響で、虎舞そのものも存続が一時は危ぶまれましたが、流されてしまった衣装や虎頭などは、支援を受け復旧。
  
恒例行事としては9月の秋分のお祭りがメインですが お正月も、10時から小鎚神社にて奉納の舞が行われます。中村さんは少年時代から秋祭りで見た虎舞に憧れていたといいます。現在、風虎会は20代が10人所属。 若い世代によって伝統は受け継がれています。町を離れた方も、虎舞の日には地元に戻ってくるのだそうです。



LOVE&HOPE。明日は、宮城県雄勝町(おがつちょう)のお正月の恒例行事「獅子振り」をご紹介します。

パーソナリティ:中西哲生・高橋万里恵

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2017 東日本大震災から5年 LOVE&HOPE 2016年3月11日(金) 特別企画放送

「LOVE&HOPE〜防災ハンドブック2015」PDF版ダウンロード配信中

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