2014年5月30日

5月30日 「我歴STOCK in 女川」

今朝は、宮城県女川町で今週末行われる 「我歴STOCK in 女川」 をご紹介します。

東日本大震災からの復興を祈って、2011年から開催されている「我歴STOCK in 女川」があさって、6月1日(日)、女川小学校校庭で開催されます。「我歴STOCK in 女川」は、女川出身の若いメンバーが立ち上げた団体、「女川復興丸」が主催。今年で4回目を数える音楽フェスティバルです。

なんと今年はナオト・インティライミさんの出演が決定!

もちろん会場に〔飲食ブース〕も登場しますが、女川といえば、〔丼の中に竜宮城がある!〕と言われる、伝説の海鮮丼、「女川丼」が食べられる、「おかせい」も有りますからね。たくさんの方に足を運んでほしいイベントです!

詳しくは「我歴STOCK in 女川」のサイトをご覧ください。

2014年5月29日

5月29日 「汐凪へ」 木村紀夫さんから汐凪ちゃんへの手紙

木村紀夫さんは、原発事故の影響で「全町避難」が続く、福島県大熊町の出身。
震災による津波で、父と妻を亡くし、次女汐凪(ゆうな)ちゃんは、いまだに行方がわからないままです。長野県白馬村に移り住んだいまも、月に1度は大熊町に足を運んで、自らの手で汐凪ちゃんの捜索を続けています。

今日は木村さんが、汐凪ちゃんに宛てた手紙をご紹介します。

*****

「汐凪(ゆうな)へ」
 
汐凪。
お父さんはまだ、汐凪が津波の犠牲になったということが実感出来ないでいる。
まるで突然お父さんの前からいなくなってしまっただけで、
汐凪はどこかで元気にしているような・・・。
仲の良かった紅音(あかね)ちゃんは、
「汐凪ちゃんは、南に島で元気に走り回っている」と、いまだに信じているよ。

お父さんは、汐凪に謝らなければならないことがある。
大きな地震があったら津波が来るから家に戻っちゃいけないと、
しっかり教えてなかったことをとても後悔しているんだ。
汐凪ならきっと、ちゃんと教えてれば、その通りにしっかり行動できたはずだ。
ほんとうに、申し訳なかった。


大熊町の行方不明者は1人になったよ。汐凪だけだ。
その「1」という数字も、汐凪が残してくれたもので、
その意味についてはずっと考えていかなければならないことだと思っている。

汐凪をしっかり捜してやれない原因をつくった原発事故は、
お父さんたちが求めてきた、お金を使って消費して得る楽な生活、
それの代償のような気がするんだ。
だからその「1」という数字は、人の生き方を問い直す為の、大きな数字だと思う。

お父さんは今、お姉ちゃんと一緒に長野の白馬村で新しい生活を始めている。
ここに汐凪はいないけれど、ここでの生き方、汐凪を捜すこと、伝えること、
そうすることでずっと汐凪と繋がっていけると信じているよ。

大丈夫、ずっと一緒に居られるから・・・。

2014年5月28日

5月28日 福島県大熊町 木村紀夫さん(3)

木村紀夫さんは、原発事故の影響で「全町避難」が続く、福島県大熊町の出身。震災による津波で、父と妻を亡くし、次女汐凪ちゃんは、いまだに行方がわからないままです。

現在は長女と二人、長野県白馬村に移り住んで、ペンションのオープンに向けて、準備を進める毎日ですが、月に1度は大熊町に足を運び、自らの手で、汐凪ちゃんの捜索を続けています。

◆続く捜索活動
ずっと気になっていたのが、ガレキの片付け。去年の春から夏にかけて、いわきのガレキの中から遺体が2体ほど見つかっている。そういうことを聞くと、いくら自衛隊がきれいに片づけたといってももしかして見落としがあるかもしれないと。一人ではどうこうすることはできないが、やっとボランティアの方に入っていただけるという中で、皆で少しずつガレキを広げて探してみますかということに。去年の12月8日に、ガレキの中から自分のうちのものが大量に出てきて。汐凪の短パンも見つかった。それまでめぼしい成果がなかったが、それが見つかって、本当にやっててよかったなと。もしかしたらこの中にという気にもなる。


四月下旬、国は、原発事故で汚染された土などを保管する中間貯蔵施設を建設するため、大熊町と双葉町の住民から、土地を買い取る計画を明らかにしました。買い取りに応じれば、捜索はもちろん、ふるさとに自由に立ち入れることも難しくなります。

◆売る気はない
中間貯蔵施設をつくりたいという国に対して、町はそれを了承するだろという中で、自分は売る気にはなれない。もちろん故郷だからということもあるが、あそこは犠牲になった三人と繋がれる場所。それを国に取り上げられるのは許せない。強制的な話になるなら、いままで人と争ったことはないが戦わざるを得ない。


中間貯蔵施設について、環境省は5月31日から、福島県内外で住民説明会を始める予定。6月15日まで計16回開催される。国はできるだけ早く地元の同意を取りつけて、来年1月を目標としている施設の一部使用開始に間に合わせたい考え。
一方、木村さんはこの住民説明会で、自分の思いをぶつけたいと考えています。

明日は木村さんが、次女汐凪ちゃんに宛てた手紙をご紹介します。

2014年5月27日

5月27日 福島県大熊町 木村紀夫さん(2)

木村紀夫さんは「全町避難」が続く福島県大熊町出身。福島第一原発から3キロ南の海岸沿いに住んでいました。震災による津波で、父と妻を亡くし、次女汐凪ちゃんはいまだに行方がわからないまま。大熊町の行方不明者は、汐凪ちゃん、一人となりました。

現在木村さんは、長女と二人、長野県白馬村に移り住み、ペンションのオープンに向けて、準備を進める毎日です。宿は40人ほどが泊まれる広さで、2階建て、1階には薪を使った暖炉があります。

◆白馬で持続可能な宿を目指す理由
汐凪はまだ見つかっていないですね。妻が6月に亡くなったことがわかって、そこでやっと、長女と二人でどうやって生きていくかを考えるようになった。当時長女は、岡山にある妻の実家に預けていたが、やはり一緒にいたいと。放射能を気にしながら生きていくことは考えられなかったので、福島にも近く、放射能の心配をする必要がないところを捜し、行き着いたのが白馬だった。これからどうやって生きていくかと考えたときに、自分らしく生きたいというのがあった。宿泊業をやりながら、ゆとりを持って生きていくことができればと思い、白馬に移住した。持続可能な宿、化石エネルギーを極力使わないで、あるものを利用して生活していくことを実践し、それをお客さんに体験してもらえる宿にしたい。声を大にして原発反対という性格ではないが、そこにつながっていくものがあるんじゃないかと。


木村さんが白馬で目指すのは、「持続可能な宿」。山菜や野菜を収穫し、鹿などの動物は自ら解体して食べる「スローライフ」を体験してもらえる宿にしたい、ということです。

明日も木村紀夫さんのお話です。

2014年5月27日

5月26日 福島県大熊町 木村紀夫さん(1)

福島県大熊町は、福島第一原発が立地する町。
いまも、町民全員が町の外に避難する、「全町避難」が続いています。

木村紀夫さんは、震災前、家族でこの大熊町に住み、隣町、富岡の養豚場で働いていました。両親、妻、二人の娘、そして愛犬との、何気ない日常。それが、震災で一変します。

震災当時、木村さんは職場で大きな揺れに襲われました。家族のことが頭にありましたが、夕方までは職場で仕事を続けたといいます。

◆津波と原発事故の両方の被害
3メートルの津波が来るという最初の情報を鵜のみにして、それなら自宅が海抜5〜6メートルだから大丈夫だろうと、仕事を続けていた。自宅に戻ったのは夕方6時ちかく。津波でめちゃくちゃな状況で、避難所に行って、そこで初めて、自分の母親から三人(父、妻、次女)が見あたらないと知らされた。
夜自宅に戻ると、買っていた犬がリードをつけた状態で飛び出してきて、普通リードはしていないので誰かがリードをつけて逃がしたのかと。犬も津波で濡れて砂をかぶっていて、初めてそこで本当に流されたのかと思った。次の朝、部落の区長が来て「避難指示が出た」と。その時に「生きているもののほうが大事」という話をされて、はっと長女のことが気になり始めて、避難させなきゃと気持ちが切り替わった。


木村さんは津波で父と妻を亡くし、次女の汐凪ちゃんは、いまだに行方がわからないまま。いまも、自らの手で、汐凪ちゃんの捜索を続けています。

そして現在、長女と二人、長野県白馬村に移り住み、新たな生活をスタートさせました。明日はそんな白馬での暮らしと、いまの想いを伺います。

2014年5月21日

5月22日 舞根森里海研究所〜舞根湾のいま(畠山信)

月曜日から、宮城県気仙沼のNPO法人「森は海の恋人」の活動をレポートしてきましたが、今日でラストです。

森は海の恋人の新しい活動拠点「舞根 森里海研究所」。この施設は今後、震災後の海の環境調査の拠点となり、15の大学の研究者がデータを共有しながら、調査を続けることになります。

元々この調査は、津波を受けた海で牡蠣養殖を再開するために始まったものなのですが、森は海の恋人・副理事長の畠山信さんによれば、舞根湾は震災前とは「全く別の海」になっていると言います。

◆地震と津波は生態系をどう変えたか
東日本大震災の前と後で海の状況がどう変わったかは調査も行われ、データも取れている。震災前の海ではない別の海と言える。同じ部分もあるが完全に同じではない。生き物の種類もそう。地盤が沈下したというのが大きな理由。時間を追うごとに刻々と、海自体が大きな生き物みたいなものなので変化している。潮の流れも明らかに変わりプランクトンの種類も年々変わる。変わらないものもいるが今までこんなのいなかったというのもいたりするし、魚も同じ。ただ人にとって有用か有用じゃないかを別にすれば生態系は良くなっている。
海岸の護岸が崩れていたりするがその隙間にウナギが住んでいたり、災害復旧、道路や護岸の修復がこの地区では道路や護岸の修復が少なく重機も入っていない。そのため勝手に生き物が増えている。草原だった場所が林に、林が森にという自然の遷移が、海でも感じられるようになってきた。


2014年5月21日

5月21日 舞根森里海研究所〜畠山重篤・住吉美紀対談3

「森は海の恋人」の新たな活動拠点、「舞根 森里海(もりさとうみ)研究所」のオープニングイベントの中から、森は海の恋人・理事長の畠山重篤さんと、アナウンサー・住吉美紀さんの対談の模様をお届けしています。

世界的ファッションブランド、ルイヴィトンの支援によって、復旧した西舞根地区、舞根湾の牡蠣養殖施設。
ここには、フランス・ルイヴィトン本社のトップも、訪問しています。畠山さん、実は牡蠣が大好きというルイヴィトンのトップたちのエピソードも披露してくれました。

◆ルイ・ヴィトン5代目当主の訪問
住吉:(ルイヴィトン本社の方々は)こちらにも何度か?
畠山::支援してそのあとどうなっているか見に来てくれました。陸はめちゃくちゃだが海を見るとイカダが整然とならんでいる。そこに5代目当主のパトリックさんが訪問。“職人で石頭”で、スペシャルオーダーという世界のセレブが注文した自分だけのトランクとかバッグを作っている責任者。ポケットにいつもナイフを持っていて、牡蠣をあけて食べて「トレビアン」なんて言っていました(笑) それを見たカモメたちがフランス語を聞いたせいか、変な声で鳴いていて。とにかく彼らはとても喜んでくれた。
それからもう一つアイデアを閃かせて、私たちは今ひとりひとりでは仕事を復活できないということで協業、グループを作っている。舞根地区の牡蠣漁師たちはほとんど家を流されて仮設住宅にいるのだが、その方々に手伝ってもらっている。1年間よく働いてくれたので、ルイヴィトンで安価なネッカチーフを購入してみんなにプレゼントしていた。そこにルイヴィトンのCEOがきたので、カッパに長靴の牡蠣の「剥き子」たちの首にルイヴィトンのネッカチーフをまき、通訳を通して「働くものにこそルイヴィトンは似合う」と伝えたら、CEOが号泣。「支援を2年間延長」となった。ルイヴィトンというのは石頭という意味で、150年前の先祖は貧しい製材所の息子から頑張ってきた会社。今までだとルイヴィトンなんてチャラチャラしていると思っていたが見方が変わった。堂々と持って良いもの(笑)


2014年5月20日

5月20日 舞根森里海研究所〜畠山重篤・住吉美紀対談2

引き続き、宮城県気仙沼のNPO法人「森は海の恋人」の活動レポートです。

「森は海の恋人」が、唐桑町西舞根地区に新たに建設した活動拠点、「舞根 森里海研究所」。
震災後の海の環境調査、子どもたちの環境教育を目的とした施設です。

先月はそのオープニングイベントとして、森は海の恋人・理事長の畠山重篤さんと、アナウンサー・住吉美紀さんの対談も行われました。
森を育てる活動で、国連の「フォレストヒーローズ」にも選ばれた畠山さん。対談では、あの世界的ファッションブランドと、気仙沼の牡蠣養殖のあいだに生まれた震災後の繋がりに関するお話もありました。


※畠山さんの著書は世界各国の言葉に翻訳されている。

◆「石頭のルイさん」からの支援
住吉:世界中で畠山さんの牡蠣、森は海の恋人の話は有名ですが、ルイヴィトンとのコラボがあるんですよね。
畠山:我々は長靴とカッパ世界なのでファッションとはかけ離れているんですが(支援したいという話を受けて)怪しいと思った(笑) ルイ・ヴィトンはフランスの貴族の会社だと思っていたが、調べてみると歴史は全然違う。ヴィトンという名前はドイツ語系のフランス語で、「石頭」という意味。頑固な職人のイメージ。
住吉:「石頭のルイさん」。
畠山:ええ。生活が厳しいところで、ルイ・ヴィトンの初代ルイは13才で母親を亡くし継母にいじめられていた。実家は製材所だったが家を出てパリへ丁稚奉公へ。当時のフランスは女性のファッション、服の仕立ては白木の木箱に入れて届けるので、木箱を作る職人が大事だった。製材所の職人なので木をよく知っていて、あっというまに木箱づくりのマイスターとなり独立したんです。そして旅行ブームがやってきてトランクの需要ができた。トランクの枠はブナやナラということで、トランクづくりを始めたところこれが成功。あの会社は元々、森の木に接点のある会社で、山も持っているんです。さらに調べるとフランスは50年前にウィルス性の病気で牡蠣が全滅したんですが、それを助けたのが宮城の牡蠣の種。病気にかからず、よく成長して美味しいということで、フランス人が食べている牡蠣は、実は宮城の牡蠣種の末えいなんですよ。
住吉:それをルイヴィトンが知っていた。
畠山:いや、ルイヴィトンの経営者は全員牡蠣好きだったわけです(笑) 美味しい牡蠣を作るには山に木を植える・・・という(森は海の恋人の活動を知り)私たちのところを(支援の)第一候補としてくれて、支援を受けることになりました。




そもそも、ルイ・ヴィトンは以前から、森林保全活動に力を入れていたため、森は海の恋人が続ける植林活動に関心を持ったそうです。ルイ・ヴィトンの支援を受け、自力では再建できないと言われた西舞根の牡蠣の養殖施設は、復活することが出来たということです。

2014年5月19日

5月19日 舞根森里海研究所〜畠山重篤・住吉美紀対談1

今週は、「森は海の恋人」の活動レポートです。

これまで番組で何度か取り上げている気仙沼のNPO法人「森は海の恋人」。唐桑町舞根地区の牡蠣漁師・畠山重篤さんを中心に山に木を植えることで豊かな海を育てる活動を続けています。

このNPOが先月末に活動拠点として建設したのが「舞根 森里海研究所」です。ここの目的は東日本大震災で被災した自然環境の変化を調べること、そして目の前の海を使った子どもたち向けの体験学習です。



今週は、この研究所のオープニングイベントから、畠山重篤さんと、アナウンサー・住吉美紀さんの対談の模様をお送りします。対談ではまず、震災前から続く「子どもたちの体験学習」が、話題にあがりました。

◆プランクトンを飲むことは「人間を飲むこと」
畠山:小学生が舞根にやって来た時に、体験学習をやっていてアイデアが浮かんだ。プランクトンネットでプランクトンを取り、それをコップにためて一口ずつ飲ませるというアイデアを閃いたんですね。
住吉:プランクトンを?
畠山:プランクトンは人間が川から流したものを体内に取り入れる生き物。つまり人間が流したものを飲むということに通じる。だからもし人間が川を汚せば当然牡蠣も食べられなくなる。それをクドクド言わずに一口ずつプランクトンを飲ませたわけです。これが効いた。
住吉:どうなったんですか。
畠山:光にかざすと、海水の中には動物プランクトンもいて動いている。これを「飲め」ったってイヤがる。でも沖にいるので、「船長の言うことを聞かないと帰さない」と脅すんです(笑) すると元気の良い男の子が飲む。味はしょっぱいが、植物プランクトンがいるから青臭い。「きゅうりの味がする」と農家の子どもが安心すると、私も僕もとみんな飲み始める。ひと通り飲ませて陸へ戻ってきて顕微鏡で見せる。飲んだ植物プランクトンを顕微鏡でみると、すげえ格好をしている。さっきそれを飲んだ子どもたちは悲鳴を上げて驚くと。クドクド言わなくても、プランクトンを飲むことは”人間を飲むこと”だとぱっと分かる。
住吉:子どもは頭がいい、というか勘がいいんですね。
畠山:牡蠣を作る漁師はすごいポジションにいるということ。河口の汽水域がフィールド。学校の先生がやれないことをできるという自分たちにはできるという自信を、平成2年に持った。今まで1万人の子どもたちがプランクトンを飲んでいます(笑)




舞根・森里海研究所は、カキ養殖の実験室や研究者のための研究施設、そして子どもたちが体験学習をするためのスペースなどが設置されています。今後、この施設と目の前の海で、さっきお話にあったような  「子どもたちが、海のプランクトンの“味を体感する”」などの学習も行われることになります。

2014年5月16日

5月16日 仙台・青葉まつり

杜の都・仙台に春を呼ぶ風物詩といえば、「仙台・青葉まつり」。
今年は、5/17,18の2日間、市内の中心部一帯でにぎやかに開催されます。

今朝は「仙台・青葉まつり」、副実行委員長、鎌田雅敬さんに伺いました。

◆2011年は震災で中止にもなった「仙台・青葉まつり」
杜の都・仙台を開いた仙台藩祖・伊達政宗公のおまつりで、土曜日の宵まつりでは、郷土芸能の「仙台すずめ踊り」が街中にあふれ、約4500人にもおよぶ雀たちが小気味よいリズムで飛び跳ね踊る姿が圧巻です。
日曜日の本まつりでは、伊達政宗公を祀る青葉神社の神輿渡御をはじめ、甲冑に身を包んだ勇壮な戦国武者行列に、豪華絢爛な11基の山鉾といった、時代絵巻の大パノラマが楽しめます。
2011年は震災で中止にもなった「仙台・青葉まつり」。土曜日夜には3基の「復興祈願山鉾」が巡行します。鎮魂の願いと一日も早い復興を願って提灯をともし、すずめ踊りで賑わう定禅寺通を今年復活させた仙台の木遣りと共に練り歩きます。引き手は一般からの応募で集まった市民も加わり、力をあわせて復興を祈願します。幻想的な美しさを是非見て欲しいですね。

◆まつりで楽しめる旨いもの
政宗公は美食家だったそうなので、「杜の市」では、県内外の海や山の美味しいものをたっぷりご用意していますので、楽しんでください。また、まるで江戸時代にタイムトリップしたかのような「伊達縁」では、伝統工芸を体験できる職人屋台や寄席、茶屋、射的やなど、参加して楽しめる縁日になってます。

市民がつくる市民のまつりとして復活して、今年30回を迎える仙台・青葉まつり。杜の都が新緑に包まれる一番美しい季節のおまつりです。見て、踊って、触れてみて、食べて参加できる楽しさいっぱいのおまつりです。明日あさっては、ぜひ仙台・青葉区まつりにおこしください。

「仙台・青葉まつり」公式サイト

2014年5月15日

5月15日 気仙沼・唐桑半島9 「わかもの」と「よそもの」が作る未来

引き続き、宮城県気仙沼市・唐桑半島からのレポートです。

県外からやってきた若者、地元の若者による、唐桑半島の街づくりサークル「からくわ丸」のメンバーのお話を月曜日から、お届けしてきました。

最後は、唐桑で生まれ育ち、今も唐桑で暮らす金野諒さん、そして、兵庫から震災ボランティアをきっかけに、唐桑に移住した加藤拓馬さん、お2人の言葉です。

地元の「わかもの」が思い悩み、県外からの「よそもの」が思い描く、これからの唐桑とは。

◆「わかもの」と「よそもの」が作る未来
(金野さん)うちの場合は高台移転の話に参加させてもらっていて、19世帯で移転する計画を立てている。最近造成がはじまったばかり。ただ高台移転には問題点があり、元々高齢者の多い地域だったため、造成した場所で20年〜30年暮らすと上の世代がいなくなり、そこに新しい人は入ってこない。19世帯の中で俺と同世代は2人しかいない。だんだん人が少なくなっていくというのも問題の一つ。

(加藤さん)唐桑が生き残るためには外からの移住者が絶対的に必要になってくると考えていて、特に地方、山陰地方の島根などは移住促進を行政として推進していて、IターンUターンを誘致できる環境づくりが絶対に必要になってくると考えている。この土地は若い人が圧倒的に少ない状況なので、ここの暮らしや地域性にほれ込んだ若者を外から連れて来て、しっかりとした生活ができること。パソコン1台あれば仕事はできる。ここで自然の中で感性を豊かに保ちつつ、仕事をしつつというライフスタイル、田舎ならではの新しいライフスタイルをこれからの大学生、20代に提案していくことが、こういう地域の生きる道だと最近強く考えている。それをどうやってやろうかとワクワクしている。空き家も増えているがそれをネガティブに考えるのではなく、「空き家バンク」という考え方もあるので、外から移住してきた人と空き家のマッチングする機能を作りましょうというもの。今はやりの古民家のリノベーション。その地域に根差しているけど今風という新しいデザインをどんどん取り入れていくのが難しいが面白いんじゃないかと思っている。


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2014年5月14日

5月14日 気仙沼・唐桑半島8 唐桑で生まれ育った若者

宮城県気仙沼市・唐桑半島からのレポートです。

きのうは街づくりサークル「からくわ丸」の活動の一つ、地元・唐桑の子どもたちに、町の魅力を伝えるワークショップを紹介しました。

からくわ丸を構成しているのは、地元と県外の若い世代、つまり「わかもの」と「よそもの」。
県外からやって来た「よそもの」の“気づき”は、地元・唐桑で生まれ育ったメンバーにも、大きな“気づき”を与えているんです。

◆いつでも戻ってこられる場所
唐桑出身で、いまも唐桑で働いている今野です。やっぱり震災がきっかけ。自分たちの町って意外と漁師さんの話も当たり前だと思っていて、ずっと船に乗ってた父親から世界中の海を回ったという話も聞いたことがある。家にもやっぱりウィスキーの棚がいっぱいあって、親父は酒を飲めないのにずらっと並んでいるのが、実は「当たり前ではない」ということ、面白いと思えるきっかけをくれたのが からくわ丸。
漁業が衰退する中でどうしても外に出て行ってしまう若者が多い。でも同級生で25〜26歳くらいで戻ってくる友達もいる。そういう人たちが、いつでも戻ってこられるような場所にしたいというのが一番だし、なぜ戻ってこられるかと言うと昔の思い出があるからだと思っている。子どものうちにそういった思い出を、自然の中で作っていける場所と言うのも必要なのかな。そういう町づくりができればいいなと。(子どものころ)近所の友達と海岸に秘密基地を作っていた。床一面のホタテの貝殻を敷き詰めたりして基地を作り、週末そこに集まって釣りをした。釣りもエサさがしからはじめたり、オトナになってからも覚えている。そういう場所を作りたいというのはある。海との思い出があれば。夜寝る時に波の音が聞こえてきたり、船の走る音が聞こえて、そろそろ朝だと思ったり、生活のリズムの中に海のある暮らしが、子どもにも知ってもらいたい。




からくわ丸のメンバーの一人、唐桑生まれ、今も唐桑で暮らす25歳、金野諒さんのお話をお届けしました。
明日も、唐桑半島のいま、お伝えします。
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2014年5月13日

5月13日 気仙沼・唐桑半島7 唐桑のいまと課題

引き続き、宮城県気仙沼市・唐桑半島からのレポート。地元と県外の若い世代による街づくりサークル「からくわ丸」の中心メンバーの一人、加藤拓馬さんのインタビューをお届けしています。

唐桑御殿と呼ばれる、とても豪華なお家が立ち並ぶ漁師町・唐桑。かつては腕の良い漁師がたくさんいて、大変栄えていたと言います。しかし、現状はそうではありません。県外から移住してはや3年。今も町づくりに取り組む加藤さんは、唐桑が抱える課題に、どう取り組んでいるのでしょうか。

◆海で遊ばない子どもたち
今は20年位前から右肩下がりの状況。特に遠洋マグロ漁船がすごかったが右肩下がりになり、そのまま後継者不足、若い人が船に乗らず仙台に行ってしまうという状況。若い人たちが進んで船に乗りたいと思ってくれない、昔に比べて売上も伸びていない。次世代にどうつなげるかということでメインで取り組んでいるのが、地域の子ども達に地域の魅力を知ってもらおうという企画を、外の大学生とタッグを組んでやっている。3月の春休みに、子どもを唐桑・気仙沼から20名集めて、漁師の船に乗せてもらいロープワークを習ったりするということをやった。震災後、大人は子どもを海から遠ざけたいと言い、海は危ない場所になってしまった。たった3年だが子どもたちにとっては大きい。海から離れてしまい遊び方を知らない、触れ方を知らないのはマイナスだしもったいない。この町で何が欲しいかと中学生に聞くと「温水プールがほしい」という。海があるじゃんといったら「海に行ってもなにもない」。昔の人に聴くと、海に行けばなんでもあったという。学校から帰るとすぐ浜に行って素潜りして魚を取り釣りをするのがこの地域では当たり前だったがなくなりつつある。これは怖いこと。この地域性の根幹を揺るがすことになるのではないかという危機感がある。



唐桑半島・舞根湾は夕暮れ時になると、こんな幻想的な景色が。
からくわ丸が企画した、地元の子供達のワークショップは夏休みにも、また実施される予定です。

明日も、からくわ丸・加藤さんのインタビューをお伝えします。
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2014年5月12日

5月12日 気仙沼・唐桑半島6 漁師町・唐桑の財産

今週も先週に引き続き、宮城県気仙沼市・唐桑半島からのレポートです。

今回の取材で唐桑半島を案内してくれたのが、地元と県外の若い世代による街づくりサークル「からくわ丸」のメンバー。メンバーの中で中心的な役割を担っているのが、加藤拓馬さんです。加藤さんは兵庫県出身。震災直後にボランティアとして唐桑に入り、決まっていた就職を取りやめ、そのまま移住したという若者です。

加藤さんが、地元の方とつながりを深める中で感じた、移住を決意するほどの 唐桑の魅力。それはどんなものなのでしょうか。

◆豪快な漁師の町・唐桑
今の気仙沼の発展があるのは、唐桑と大島の漁師が優秀だったからというプライドがここの漁師にはある。それもそのはずで石を投げれば船頭さんにあたるというくらい船頭が多かった。船頭は、船長さんとは違い漁場に目をつける人のことで「あそこで魚が獲れるぞ」と指揮する。魚が獲れる獲れないは船頭の指示一つにかかっている。船頭を多く輩出したのが唐桑。魚をとって気仙沼に水揚げすれば加工施設や船の整備が整い栄えていく。そして唐桑では船頭さんが豪華な家を建ててきた。それが唐桑御殿。本当にお金持ちの町だった。中学に上がると船に乗り、20才そこそこで1000万円〜2000万円を稼ぎ町にお金を落とし、家も購入して親孝行もするという時代があった。自分の全く知らない世界のことを教えてくれる。遠洋船に乗ってた人は世界中の海を見ていて、南米の武勇伝なんて話もしてくれる。南米大陸に日本船が来ると港の物価が上がるというくらい日本人の漁師が(お金を)ばらまいていた時代があり、とにかく豪快。銃撃戦に巻き込まれた話を聞けたり、鉱石とか世界中のウィスキーとかが家に並んでいたりして、そういう人たちから昔の話や武勇伝を聞かせてもらえるのが面白い。




漁師町・唐桑が活気づいていた頃の、漁師さんたちの、とても豪華なお家が通称「唐桑御殿」。こんなお家が今も唐桑にはたくさんあります。

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2014年5月10日

5月9日 気仙沼・唐桑半島5「温湯処理」した『もまれ牡蠣』

宮城県気仙沼市、唐桑半島の牡蠣は今が一番おいしい時季!
そのブランド名は『もまれ牡蠣』。
もまれ牡蠣は、牡蠣を美味しくするための、ある「ひと手間」がかかっているらしい・・・
ということでその美味しさのヒミツを、唐桑の屋号「戸羽平(とばひら)」5代目、牡蠣漁師、畠山政也さんに伺いました!


◆65度のお湯につける!「温湯処理(おんとうしょり」
「温湯処理」という方法で、夏に船に大きな釜をつんで65度のお湯を沸かし、海から牡蠣を一旦あげてお湯につけます。そうすることによって、牡蠣はショック状態になり、縦に伸びる成長が止まり、横に膨むんです。そのため、身がぷっくり、立派な牡蠣になります!一般的に牡蠣は熱を通したときに身が縮むイメージだと思いますが、温湯処理した牡蠣は身がしっかりして、鍋にしてもフライにしてもそのままの状態、身が縮まない牡蠣になるんです。
また牡蠣の殻には、ムール貝やいろんな貝、微生物が付着していますが、温湯処理することによって付着物が死滅して、牡蠣だけに栄養がいくようになるんです。


◆甘い唐桑のホタテもシーズンに入りました!
唐桑では4月末からホタテもシーズンに入りました。連日水揚げしています。
お客さんから言われるのは、他の生産地のホタテより甘味があるとなぜか言われます。浜焼きや刺身にしてぜひ食べていただきたい!



もまれ牡蠣やホタテは、唐桑半島のかき小屋「唐桑番屋」で6月1日まで食べられます。
土日祝日の営業です。詳しくは「唐桑番屋」のサイトをご覧ください!

2014年5月8日

5月8日 気仙沼・唐桑半島4 「かき小屋 唐桑番屋」

引き続き、宮城県気仙沼市・唐桑半島からのレポートです。

地元と、県外の若い世代による町作りサークル『からくわ丸』の案内で唐桑半島の 観光スポットをご紹介していますが、スタッフが次に連れてきてもらったのが、こちら。牡蠣小屋です!



◆開けると牡蠣がじゃじゃじゃじゃ〜ん
じゃああけますよ〜。ぐわーーーん。これが一番おいしい時だからね。ぷりぷりですよ。いただきまーす。でかー。汁が・・・。うははは。牡蠣の汁がはんぱないっすね。あー。いい出汁でてるわ。


唐桑半島の先端、鮪立にあるかき小屋・唐桑番屋。いまさっき、海から上がったばかりの牡蠣やホタテの、蒸し焼きが頂けるお店です。





これまで、漁師さんが直接 牡蠣やホタテをふるまうことは無かったそうですが、復興支援の感謝の意味も込めて、土日祝日に、このかき小屋を営業しています。「戸羽平」の屋号で呼ばれる地元の牡蠣漁師、畠山政也さんの話です。

◆5月の牡蠣はバツグンに旨い!!
元々宮城大学の生徒たちが、漁師の憩いの場で「番屋」というのがあるのだが、建ててくれた。牡蠣養殖をやっている仲間内の生産者で、「憩いの場だけではなく、何か利用できないか」ということではじまった。震災前とは違うことをやろうということで、唐桑という場所に来てもらい綺麗な海を見てうまい海産物、牡蠣や帆立を食べてもらおうと。自分らが今まで何気なく見ていたもの、やってきたことが、来てくれた方々には新鮮だということを知った。そんなに喜んでくれるものなのかと思った。生ものにしても風景にしても。牡蠣にいたっては今が一番良い季節。10月だと思っている方が多いが、実は6月に牡蠣は卵を持つ。卵牡蠣になると美味しくない。その前の3月ー5月は卵を含むために栄養を蓄えている時期なので、この時期は一番旨い牡蠣。牡蠣はこの時期も食べられると知ってほしい。春の牡蠣を味わって頂きたい。


唐桑番屋は、土日祝日の営業。予約制です。お値段は、1人前・牡蠣・中サイズ15個で、1500円!(小さ目だと20個) 6月1日まで、通常営業しています。

また、お店は海の目の前にあり、ロケーションも素晴らしいんです。リアス式海岸の、静かな内海が目の前に広がっていてウッドデッキから、眺めることが出来ます。



明日は、唐桑の牡蠣漁師・「戸羽平」の畠山さんに、この時期の牡蠣の美味しさについて、直接電話でお話を伺います。

2014年5月7日

5月7日 気仙沼・唐桑半島3 「唐桑の若き牡蠣漁師」

引き続き、宮城県気仙沼市・唐桑半島からのレポートです。

今回の取材で、唐桑半島を案内してくれたのが、街づくりサークル「からくわ丸」です。地元の“わかもの”、外から来た“よそもの”が一緒になって町のこれからを考える・・・そんな呼びかけのもと、震災後の街づくりに取り組んでいます。

そんなからくわ丸のメンバーの一人が、唐桑で生まれ育った牡蠣漁師、畠山政也さん。この界隈では「戸羽平(とばひら)」の屋号で呼ばれる、若き牡蠣漁師さんです。

◆寄港した日に被災
漁師歴まだ1年と3か月くらい。というのも前は漁業取締船という官庁関係の、漁業を取り締まる船に7〜8年乗っていた。沖縄、尖閣諸島の海域を取り締まっていた。ちょうど気仙沼に寄港したその日が3月11日で、ようやく帰宅してお茶を飲んでいたら地震に見舞われた。


現在30歳、「戸羽平」の5代目・政也さんは、3年前の震災と津波で、漁業取締船の仕事を休業せざるを得なくなったそうです。牡蠣漁師を継ごうと考えたのは、壊滅した気仙沼で、なお立ち上がろうとする4代目・つまりお父さんの姿があったからだと言います。政也さんは当時、何を思ったのでしょうか。


◆奇跡的に残った船
こいつはやるなと(笑) まだやるなと。震災から下手すると2日くらいで漁を再開しようと思っていましたね。というのも、この辺の養殖船は沖出しといって、命の次に船を守れという教えがあって、船を避難させたのだが、自分の家の養殖船は、気仙沼の市内の湾内にある造船場で修理をしていた。避難させられる状態じゃなかった。それでも親父は、震災直後でがれきで埋め尽くされている中で、震災から2‐3日で、がれきをかき分けてその場所に行ったら、船がそのまま、その場所にあって流されていなかった。周りの船はすべて横になっていたり燃えていたりする中、うちの小さな養殖船だけがぽつんと、動かずにいた。それを見て、養殖をやろうと覚悟を決めたみたい。おやじもそうだが、自分もそこで、これは養殖をやれということなのかと思った。実際に初めて見ると当然生きもの相手だから大変だが、手間をかけた分、恵まれた三陸の海は、良いものを育てる。消費者のみなさんも喜んでくれる。その顔を見るのが嬉しくてバネにしてやっている。励みにしている。



そして明日は、唐桑の若き牡蠣漁師が育てた牡蠣も食べられる、大人気の牡蠣小屋をご紹介します!

2014年5月6日

5月6日 気仙沼・唐桑半島2 「唐桑の漁村文化“浜”」

引き続き、東北の観光スポットを訪ね歩くレポート。宮城県気仙沼市・唐桑半島編です。

三陸の海に突き出た唐桑半島。リアス式海岸の入り組んだ地形は、海とともに暮らすこの地域の人々の生活や文化に、大きな影響を与えています。それは、この地域のコミュニティを指す、「浜」という言葉が象徴しています。

お話を伺ったのは、気仙沼市・唐桑町の若い世代による街づくりプロジェクト、「からくわ丸」の加藤拓馬さん。加藤さんは「浜」という独特のコミュニティを、こう説明します。

◆浜は“コミュニティ”であり“縄張り”
浜は数えだしたら無限にある。一つ一つに、そこに船を出してウニやアワビを獲る漁師がいる。「おらいの浜」という言葉があり、それが唐桑のコミュニティの面白いところで、浜ごとに縄張りがある。この浜は◎◎さんの浜・・・という意識があり、隣の浜はライバル。しかも地形がそうさせている。おらいの浜と、あんたの浜の間には山があって、閉鎖的な濃い集落コミュニティが生まれる。全然一枚岩ではなくて、それは良いところであり悪いところである。内陸の平らな所でみんなで田んぼを一緒に耕しましょうという生活をしてきた人とはDNAが違う、積み重ねてきた狩猟民族と農耕民族の違い。


以前この番組で、石巻市・牡鹿半島にも「浜」と呼ばれるコミュニティがいくつもあって、それぞれ出汁の取り方、食文化が違うということをお伝えしましたが、唐桑半島にも、同じようなことがあるんですね〜。

ちなみに牡鹿半島では、これらの「浜」の食文化を町の観光資源にしようという取り組みが始まっていますが、実は、唐桑の町づくり団体「からくわ丸」も、同じような活動をスタートさせています。

◆浜のおかあさんたちのレシピ
からくわ丸のメンバーの中で、特に県外から入って来た学生など女の子たちのメンバーで「クッキングマまんま」という企画をやっている。家庭料理やこの地域に伝わってきた郷土料理を改めておばちゃんたちから学んで一緒に作ろうという企画。地元の中高生、20代、30代をまきこんで一緒に作って手書きのレシピにしてアーカイブするという活動。自分が好きなのは「ばっけ味噌」、ふきのとうをばっけと呼び、その味噌和え。これがあればご飯何杯でも食える定番の家庭料理。そういうものは外からの視点にさらさないと、地元の人もそれが珍しいと気づかない。料理それぞれにエピソードがそれぞれある。作る時期や意味の話が面白い。そういうエピソードも聴いて記録するようにしている。


☆クッキングまんま


明日も、宮城県気仙沼市、唐桑半島からのレポートをお届けします!

2014年5月5日

5月5日 気仙沼・唐桑半島1 「御崎の絶景」

今日も引き続き、東北の観光スポットを訪ね歩くレポートです。今朝は、宮城県気仙沼市から、三陸の海に突き出た唐桑半島の一番東にある、御崎(おさき)です。気仙沼駅からクルマで30分もかからない場所なんですが、実は、日本でも有数の、リアス式海岸と美しい景観が体感できるスポットなんです!



◆宮城で一番早く朝日が見える岬
(※からくわ丸・加藤拓馬さんの案内音声)
・・・唐桑半島の一番端っこの「御崎」に来ています。遊歩道です。唐桑半島の一番先っぽで、東にちょっと出ているので、実質宮城県ではここが一番東になります。宮城県では一番早く朝日が見える場所。宮城の日の出は唐桑からという言葉があるくらい、唐桑町は宮城の一番東、最北東端にあるので・・・。


気仙沼市・唐桑町(からくわちょう)で活動を続ける、地元と県外の若い世代による街づくりプロジェクト「からくわ丸」の加藤拓馬の案内で、唐桑半島の先っちょの、さらに先っちょ、御崎へ。ここは三陸復興 国立公園の一部になっていて、険しいリアス式海岸の岸壁ぞいに、生い茂る森林の遊歩道をお散歩することができます。

そしてこの公園には、長い年月をかけて海が削り取ったとっても不思議な形の岸壁と、透明度の高い海、そしてそしてパノラマの水平線が広がる「とっておきの場所」があるんです!!




◆北の海、リアス、地球の営み
(※からくわ丸・加藤拓馬さんの案内音声)
ここが唐桑の一押しスポット。北の海は海の中が森状態。みると超怖い・・・。ぶわーっと生い茂っていて。サンゴだと「おお〜」っとなるけど暗いんですよ。北の海って。それくらい豊かということなんですけど。(こういう海で牡蠣が育つわけですからね) ここは去年ジオパークに認定されたところで、御崎や唐桑半島も含まれているんですよね。地球と人の営みが感じられるというのが定義で、そういう意味ではぴったりかなと。岩と岩のスキマにマグマが出てきて固まったのが、黒い筋。だから地層マニアにはたまらない。結構縄文時代の遺跡などが唐桑はバンバンでてくる。震災以降に高台移転で山を削ることを始めたところ、唐桑からは結構出てきている。






この御崎には、お菓子のミルフィーユ状に何層にも折り重なった、不思議な岸壁を眺めることができます。また、遊歩道には、「クジラ塚」という石塚があり、この界隈の人々の生活に、クジラがとても重要な資源だったことが分かるんです。さらに、縄文時代、このあたりではどうやらマグロを獲って食べていたらしく、高台移転で山を削ると、巨大なマグロの骨が山ほど出てくるとか。ただ、縄文人がどうやってそんな巨大なマグロを獲っていたかは謎だということです。
 
ちなみにこの御崎の公園、リスもいます。その証拠に、リスが食べた後の松ぼっくりの食べかすもありました。



明日も、宮城県気仙沼市、唐桑半島からのレポートをお届けします!

2014年5月2日

5月2日 ゆりあげ港朝市・2014年GWその2

引き続き、閖上の朝市からのレポートです。

宮城県名取市「ゆりあげ港朝市」。ゴールデンウィーク後半は、明日・土曜日から6日(火・振替休日)まで、毎日 開催されます。

営業時間の延長や、お客さんを喜ばせる仕掛けが実を結び、震災前とくらべて、1.5倍のお客さんを集めるほどになった朝市。明日も、きっと賑わいを見せることになりそうですが・・・組合の理事長・櫻井広行さんは、厳しい言葉で、危機感を口にします。


◆生き残るために
震災前は51の組合員がいたが35に減った。(震災当時)イオンモールで(臨時に)やっていた頃は組合員と同じ料金で新しい人にお店を出せと募集した。組合員は、「出資金を出している我々となぜ突然来たやつが値段同じなのだ」と不満そうだったが、客を増やすには最低でも店を増やさないといけない。あとは1軒1軒が充実すれば客は増える。現状何もないところから始まったので、お店の数を増やして、ダメなところは淘汰されるという新陳代謝をしない限り(だめだ)組合員を大事にするというのは、良い商売をしているから。お客さんの支持を得られない組合員はやめてもらってもしょうがない。厳しくないとみんなナアナアになって、知らないうちにお客さんがいなくなり全国のシャッター商店街のようになってしまうのは何十年前から見えている。零細商売が集まって、知恵もないし資金もない。どうやって生き残るかと言ったら内部の競争。いいと思ったらすぐやる、パクリまくってオリジナルに進化させる、これしか生き残る道はないと思う。


閖上ではいま、土地のかさ上げ計画が進んでいますが、海の近くに戻ろうという住民は少なく、町の存続を心配する声もあります。海沿いの元の場所にこだわり、朝市をさらに盛り上げようという櫻井さんは、
閖上の将来をどう見据えているのでしょうか。

◆朝市が頑張れば人は戻ってくる
新しいメンバーが入ってきて刺激はある。現状では60歳以上の店主が半分以上なので、後継者がちゃんとできるような規模にしなければいけない。我々の商売は基本的には日曜日だけの商売でも食っていける商売をしなければいけない。よそにないものを売っていかないといけない。そういうことをやりつつ、まだまだ伸びる余地はある。現在は48(店舗)だがなんとか来年には65軒、3年〜5年後には100軒にしたい。わけのわからん売り場、許可の無い売り場が周りにできるくらいの、ごちゃごちゃした市場がいいかなと。なにもないところで唯一活動しているのはうちしかない、町の復興もあと3年はかかる。朝市が頑張っているのなら、戻りたいという人も増える。町の旗振り役、先頭に立って旗を持って突っ込んでいく、いつ倒れるかわからないですが、そんな感じでやっていくしかねえなと思っている。

                                

GW後半の朝市は、5月3日(土)から6日(火)までの4日間 開かれます。
ちなみに明日3日は、午前中に2回、マグロの解体ショーがあります。解体後のマグロは、激安販売されるということです。

詳しくは
ゆりあげ港朝市のホームページ
または
Facebook をご覧ください。


来週は、宮城県気仙沼市、唐桑半島の情報をお伝えします!



2014年5月1日

5月1日 ゆりあげ港朝市・2014年GWその1

ゴールデンウィークの行楽とともに、被災地を支援するための情報をお届けしています。
きょうは、宮城県名取市の海沿い、閖上から38年の歴史を持つ、「ゆりあげ港朝市」。こちらは日曜と祝日の朝の風景として、長年地元に親しまれてきた朝市です。2011年の津波で壊滅的な被害を受けましたが、去年、元の場所で復活しました。

復活からちょうど1年。ゆりあげ港朝市・協同組合理事長の櫻井広行さんによれば、朝市は努力のかいあって、今まで以上の賑わいを見せているようです!

◆震災前の1.5倍の集客
去年のグランドオープンから、営業時間を13時まで延長(以前は午前6時〜10時)。お客さんは震災前の1.5倍に。震災前はピーク時間が7時から8時半だったが今はピークが7時から10時、約3時間くらいはイモ洗い状態が続いていて、なんとかやっていけそう。モノだけ買うという時代は終わったものですから、飲食店を増やした。飲食店を増やした理由は、朝と昼に食べてもらいたいということと、今はどこに行っても飲食店が必要だということ。飲食を強化しないと集客力に繋がらない。あとは魚屋でも自分でご飯を炊いて丼物を作ってやっている。今年も保健所の許可をもらったので、飯と刺身を出したり、魚屋のパスタでも作ろうと勉強中です。パスタが見えないくらい魚の具が乗っかってて、パスタ食ってるんだか魚食ってるんだかわかんねえくらいのパスタ屋があってもいいんじゃないかなと(笑) 炉端焼きは炭火でやっている、買ったものはその場でただ焼ける。せっかくこういうところに来たんだから楽しんでもらえればなと。


元の場所で復活した閖上の朝市。お店で買ったお魚や焼き鳥をその場で焼いて食べるための、炉端焼きが屋外に置かれていました。これで、海を眺めながら炉端焼きが楽しめるんですね。また、飲食店ブースも増え、お買い物の合間にくつろげるウッドデッキも完成!朝市はさらにグレードアップしていました。

また朝市では、ゴールデンウィーク後半、お客さんを呼び込もうと、新しいチャレンジも始めています。

◆遠方からも来てほしい!
ここの町(閖上、沿岸部)は人口5000人いたが今はゼロ。地元の客がいないため少しでも遠くから来てもらうためには滞留時間を長くしなければいけない。滞留時間を長くすると何ができるかというと、炉端焼きや、競り市ができる。9時からの競り市は、各店舗が打っている品物を3割から半額くらいでどんどん競り落とす。たとえば1000円の品物を「はい300円から!」と。400円、500円、600円と競りあがっていく。どんどん人が参加していく。なんとかうまくいけば集客につながるのではないか。

                            
GW後半の朝市は、5月3日(土)から6日(火)までの4日間 開かれます。屋外に置かれた炉端焼きはもちろん楽しめますし、さきほど紹介した、一般のお客さんが品物を競り落とす「競り市」も行われるということです。

詳しくは
ゆりあげ港朝市のホームページ
または
Facebook をご覧ください。

明日も、ゆりあげ港朝市についてお伝えします。


パーソナリティ:中西哲生・高橋万里恵

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