2014年6月30日

6月30日 Rock Corps(ロックコープス)5

先週に引き続き、「Rock Corps(ロックコープス)」のレポートです。

「音楽を通じて、社会に貢献しよう!」という取り組み、ロックコープス。東北の被災地で4時間のボランティア活動に参加すると、9/6(土)福島市で開催されるライブチケットを1枚、手にすることができます。参加アーティストは、NE-YO、コブクロ、May J、さらにもう一組!
ライブ開催に向けて、いま東北各地で、毎週末ボランティア活動が行われています。

現地でボランティアのとりまとめを行う押田一秀さんは、震災直後から、被災地のボランティア活動にかかわってきました。

◆今求めれれるボランティア活動
震災から3年がたち、ボランティア活動のフェーズが大分変って、地域のコミュニティづくりや生活再生の仮設住宅の支援などが主になってきた。ご年配の方が一人暮らしで買い物に行けないとか、外から若者が入ってきてお話するだけでも楽しいと言ってくれる。そんな支援がいま必要になってきているのかなと思う。
また福島の浜は、汚染水の問題もあって、海水浴場がいつ再開できるかわからない状況。行政も手を入れていなかったところに、今回ロックコープスのボランティアが初めて入って、きれいにする活動が始まった。
農業支援についても、夏場は草がどんどん生えてきてしまうが、塩害で使えなくなった農地に新しい作物やオーガニックコットンを植えるにあたって、そこに従事する事業者がなかなかいない。敷地に対して作業する人が少ない状況で、そこのボランティアが必要になってくる。
需要をきっちり伝えればもっとボランティアの参加者も増えてくると思うが、3年たったいまボランティアも激減していて、必要なところに必要な人材がいないなというのが、現地でわたしが思うこと。



◆ロックコープスの参加で、ボランティア参加者のすそ野が広がっている!
特にロックコープスは、もともと「福島」とか「ボランティア」という意識がなかった人達の目が東北に向いた、画期的な取り組みだと思う。音楽が好きで、調べたら「相馬」に行きつき、そこで友達ができて、また行ってみる、そこで物を買ってみる、情報も発信してくれて、お金も落としてくれて…という形ができあがっている。さらに、福島の方のボランティア参加者が全体の半数を占めているのもうれしい誤算。地元の方たちが参加してくれている。これは当初予測していたのより、相当ポジティブな反応。繰り返し繰り返し来るための第一回、「きっかけ」となるのが、ロックコープスの大きな意義なんだなと、いま感じている。


この週末も、岩手県釜石市のビーチ清掃や、宮城県丸森町の農業ボランティアなど、東北各地でロックコープスのボランティア活動が展開されました。参加者はこの週末だけでも、およそ200人。
新たな絆が生まれています。

ロックコープスの公式サイト

2014年6月27日

6月27日 Rock Corps(ロックコープス)4

「音楽を通じて、社会に貢献しよう!」という取り組み、ロックコープス。アメリカやヨーロッパで広がる新しい社会貢献活動のカタチが、今年、日本に初上陸しました。

日本では、東北の被災地で4時間のボランティア活動に参加すると、9/6(土)福島市で開催されるライブチケット1枚を手にすることができます。
参加アーティストは、NE-YO、コブクロ、May J、and more!!

先日は、福島県相馬市内の仮設住宅で、全国から集まったボランティア17人による草刈りが行われました。お年寄り世帯も多いので、仮設周辺の草刈り作業のボランティアは、とっても助かるんだそうです。そして、午前中の作業を終えるとランチタイム。仮設住宅のお母さんたちが、手作りのお味噌汁とお漬物を用意してくれて、一緒にお弁当を食べました。

この仮設に暮らすのは、もともと、相馬市の沿岸「原釜地区」の住民の皆さん。
仮設の暮らしや復興状況について話してくれたのは、自治会長の、高橋謙吉さんです。

◆漁師たちの復興
いまここは156軒、津波で流された人達の仮設住宅で、156軒で始まったが、今現在92軒に減りました。もともと原釜地区で近くに住んでいた人ばかりで、それなりに打ち解けて、いままで生活している。もともと漁師の人が多いので、漁師は船から戻ってくると、そのまま漁網などの道具を自宅に持っていき、自宅の庭先や作業小屋で翌日の作業をする。だから、どうしても自宅兼納屋、漁具倉庫が必要となる。土地も150〜200坪ぐらいの広さがないと、皆さん仕事にならない。どうしても漁師を続けたいという方は、知り合いの山や田畑を譲ってもらって自立していく、ということになる。先に出た人たちはそのように再建している。
あと2年、仮設住宅に住めるということになった。まだ、今後どこに住むか目処がたたない世帯もあると思うが、このようにボランティアの皆さんに支えてもらって、助けてもらいながら、わたしたちも生活基盤を求めていかなければと思うので、今後ともよろしくお願いします。今日は本当にご苦労さまでした。ありがとうございました。


いまも仮設住宅に住み方たちは、害公営住宅の建設や自宅再建など、新しい住まいができるのを待っている状態。ただし、公共工事が優先される中で、住宅再建が遅れているのが現状。そこには、資材の高騰や大工さんの不足など、被災地ならではの事情もあるそうです。
さらに、沿岸の原釜漁港は、以前はヒラメやカレイの水揚げで知られていたが、震災の影響で、現在は試験操業の段階。港の再開には至っていません。「漁が始まれば、この辺りにも活気が戻るはず」と、高橋さんは期待を寄せていました。

来週は、「ロックコープス」から見えてくる、今求められるボランティアについて、お伝えします。

「ロックコープス」のボランティアメニューやスケジュールなど、詳しくは「ロックコープス」のサイトをご覧ください。

2014年6月26日

6月26日 Rock Corps(ロックコープス)3

アメリカやヨーロッパで広がる新しい社会貢献活動のカタチ「ロックコープス」。日本では、東北の被災地で4時間のボランティア活動に参加すると、9/6(土)福島市で開催されるライブチケット1枚を手にすることができます。

ボランティア内容は、ガレキの撤去や畑仕事など様々ですが、その一つが、
仮設住宅をまわる「リヤカー隊」の手伝いです。

福島県相馬市のNPO法人「相馬はらがま朝市クラブ」が運営する、通称「リヤカー海援隊」は、相馬市内の仮設住宅を毎日まわり、身体障碍者の方、買い物弱者の方を個別訪問して、住民に声かけを行っています。野菜、果物、お菓子、パン、カップラーメン、雑貨など。また「こういうものを持ってきてください」というときは、買って翌日にお届けするようです。

そしてこのリヤカー隊。売り手も実は震災の被災者。お互いを支えあっています。住民のお一人にお話を伺いました。

◆住民のお母さん
震災前はあの人たちも全然違う仕事をしてたんだよね。船迎え、といって、お父さんが船で帰ってくるのを迎えて、魚を売るという仕事をしていた。別になにが欲しいというわけじゃないけど、顔を見て、あの人たちが頑張っているから、わたしも頑張ろうってね。
(なにか不便なことは?)やっぱり空気がね。浜の空気と山の空気は違うんだよね。六号線を通り過ぎると、空気や風が違う。鮭みたいにね、ふるさとの匂いでわかるの(笑)
(こちらの生活で楽しいことは?)自宅だと隣がこんなに近いことはないから、隣が近くて、それがいい。考え方一つ。楽しくやればいいと思ってる。(笑)



「ロックコープス」のボランティアメニューやスケジュールなど、詳しくは「ロックコープス」のサイトをご覧ください。

2014年6月24日

6月24日 Rock Corps(ロックコープス)2

「音楽を通じて、社会に貢献しよう!」という取り組み、ロックコープス。
アメリカやヨーロッパで広がる新しい社会貢献活動のカタチが、今年、日本に初上陸しました。

東北の被災地で、4時間のボランティア活動に参加すると、9/6(土)福島市で開催されるライブチケット1枚を手にすることができます。

すでに東北各地で、週末ごとにボランティアが始まっています。
この日お邪魔したのは、福島県相馬市の仮設住宅で行われたボランティア活動です。参加したのは、東京、神奈川、福島、そして大阪から集まった、20代から60代の男女17人

ボランティアの内容は、ビーチの清掃や畑作業などさまざまですが、この日は「仮設住宅の敷地内の草取り」でした。こちらの仮設では、震災当初に比べ、住民の数がほぼ半分に減っています。高齢の方も多くて、草かりの手が足りないということ。そこで「ロックコープス」のボランティアの出番です。

◆ボランティア参加のきっかけ
男性「参加のきかっけは、ボランティアに触れることがいままでなく、音楽が好きだったので、そこで情報を知って、やってみようと思いました」
女性「東京から来ました。以前震災後にボランティアに来たことがあるが、あまり役に立つことができなくて煮え切らない感じだったので、今回実際に役立つことができるんじゃないかなと思って、参加しました」
女性2「もともと小さいころに、福島県双葉郡に住んでいたので、震災後なにか自分にできることはないかなと探していた。こういう活動だと、ライブと一緒にできるから、全員がウィンウィンな関係になれるのかなと思って、参加しました」
女性3「大阪から来ました。大阪に住んでいると(仮設住宅での暮らしなどが)こんなに大変だというのが伝わってこないというか。わたしができることは、もっと友達たちにこういうのがあると伝えたりしたほうがいいのかなと思った」
男性2「思ったよりきつかった。仮設に住む方にはご年配の方が多いから必要なのかなと思った。今度はコンサートとかがついてこなくても、もし機会があったらボランティアをやってみようかなと思った」




新しい社会貢献のカタチ「ロックコープス」。東北の被災地で、4時間ボランティア活動に参加することで、9/6のNE-YO、コブクロ、May-Jなどが出演するライブチケットを1枚手にすることができます。参加のきっかけは、皆さん「音楽」「ライブ」「ボランティア活動」など、さまざま。

※ボランティアの内容やスケジュールなど、詳しくはロックコープスのサイトをご覧ください。

『LOVE&HOPE』
明日はワールドカップ、日本対コロンビア戦生中継のため、お休みです。
木曜日再び、ロックコープスのレポートをお届けします。

2014年6月23日

6月23日 Rock Corps(ロックコープス)1

今週は「Rock Corps(ロックコープス)」のレポートです。
これは「音楽を通じて、社会に貢献しよう!」という取り組み。これまで世界9か国で開催されて、14万人以上の人達が参加した、新しい社会貢献活動のカタチ。それが今年日本に初上陸しました。
   
お話は、日本盤「ロックコープス」実行委員会の、中山隆久さんです。

◆お金では買えない、ボランティアに参加することで得られるチケット
ロックコープスというのは、音楽フェスがあって、その音楽フェスのチケットはお金では買えず、4時間のボランティアに参加することでのみチケットが手に入れられる。アメリカで始まり、ヨーロッパに広がった。元々アメリカの911直後、音楽の力で社会のためになることが始められないかと。お金を寄付する音楽の取り組みはあったが、「人のアクションで社会に貢献していこう」とはじまった取り組みです。
これまでにレディガガ、リアーナなど、ビッグネームがこの主旨に賛同して参加しています。アーティストも、ロックコープスのボランティア会場に訪問し、彼らを通してロックコープスの主旨を世界に向けて発信してもらっています。


アメリカやヨーロッパの国では、先進国ではありながらも、貧富の差があるのが実情。若い人達からは、「ライブに行きたいけど、音楽のチケットが手にいれられない!」という声も聴かれます。
一方、伝統的に、社会貢献活動への参加に関しては積極的です。そこで、「ボランティア活動」と「音楽チケット」の交換がうまくマッチング、広がりをみせています。

そして日本版ロックコープスが選んだテーマは、東北・被災地と音楽を繋げることでした。

◆福島のボランティア活動を中心に
日本では東北の復興につながるボランティアの参加者を募集している。ガレキを片付ける仕事や津波の塩害で作物を育てられなくなった畑にコットンを植える育てるお手伝いなど。
震災から時間がたって、ボランティアに参加する方が固定化されてくる中で、新しいことで背中を押さないと、新しい人が参加する動きが起こらないじゃないかと思って。実際現場を見ると、いままでどうしたらいいかわからなかったけれど、背中を押されて参加しました、という方が、地元の人とふれあいながら話を聞いて、それがまた次の人に口コミで広がって。ただ単に労働だけでなく、一人でも多くの人に伝播していくように「触れあい」を大切にしています。

  
アジアの国としては、日本が初めての開催国となる今回のロックコープス。
ライブイベントは9月6日(土)福島にて。
出演アーティストは4組。NE-YO、コブクロ、May-Jが発表済で、4組目は近日発表!お楽しみに!
ライブに参加するためのボランティアは9月6日のライブ当日まであります。いま募集をしているのは8月の上旬分まで。4時間のボランティア活動に参加することで、ライブチケット1枚を手にすることができます。詳しくはロックコープスのサイトをご覧ください。

ロックコープスのボランティア活動については、明日以降もお伝えします。

2014年6月19日

6月19日 雄勝学校再生プロジェクト4

引き続き、宮城県石巻市の北東部、雄勝町から、「雄勝 学校再生プロジェクト」についてお伝えします。

廃校となった小学校の、木造校舎を改装して、自然体験ができる宿泊施設にしようという取り組み、『雄勝 学校再生プロジェクト』。

大正時代からおよそ90年。雄勝の子どもたちを受け入れてきた学び舎は、新しい役目をあたえられ、生まれ変わろうとしています。そして、徐々に綺麗になっていく校舎は、人口流出が続く雄勝町に小さな変化も起こしているんです。

Sweet Treat 311理事の油井元太郎さんに伺いました。

◆学校が、戻る場所に
いまの学校の状態を卒業生に見てもらおうというのが最初のきっかけで、運動会を卒業生を集めてやりはじめている。上は90歳から下は20代(最後の)卒業生まで、150人くらいが集まった。最初は半信半疑だった。本当に廃校した後者がよみがえるのか、外部の人たちが入ってどこまでやっているのかというのを、話しか聞いていなかった人達が実際に来て、本当に綺麗になり始めている学校と、地域の人たちが盛り上がっている気運を見た。母校に戻れる、同級生に会える、傷ついた雄勝が元気になっているというのを感じて本当に喜んでいる。これからも続けて行こうというのは最近も地域の方と協議会を開いて打ち合わせをしたら、みなさんがおっしゃっていた。結婚して仙台や東京に行っちゃった方もわざわざもどってきて、子ども連れの方は「自分たちが通っていた学校をみせられると喜んでいる。これからは子どもを連れて遊びに来る場所ができた。雄勝に戻るきっかけができたと喜んでいる。


桑浜小の校舎は、雄勝町の「桑浜」「羽坂」「熊沢」という三つの集落の子どもたちのために建てられた学校です。熊沢地区在住・現在66歳の大工さん・阿部利昭さんに、この学校が町にとってどんな存在なのか 教えて頂きました。

◆子どもは地域の星
桑浜小学校は大正に創立。学校を建てたいきさつは、大須の小学校の分校を本校にするため、新しい校舎を建てて本校にした。そのために3つの区でお金を出した。3区の入会漁場というのがあって、そこで獲れたアワビやウニを打ってお金をためて建てた。そこから3つの区の絆が生まれた。今でも子どもは大事だったが、昔はもっと大事だった。地域のスター、星だから。


雄勝学校再生プロジェクト shootingstar

2014年6月18日

6月18日 雄勝学校再生プロジェクト3

引き続き、宮城県石巻市の北東部、雄勝町から、「雄勝 学校再生プロジェクト」についてお伝えします。

廃校となった小学校の、木造校舎を改装して、漁業や農業などの自然体験を楽しめる宿泊施設にしようという取り組み、『雄勝 学校再生プロジェクト』。



現在、着々と進む改装作業は、ほとんどが、各地から集まったボランティアの手で行われています。また、改装にかかる様々な資金も、このプロジェクトに賛同する全国の想いが集まったものなんです。

Sweet Treat 311理事の油井元太郎さんに伺いました。

◆テーマ別に 資金募集
現状、この学校を再生する資金は広く個人、団体さまざまな方からお願いして集めている。その一つのメインとなるのがクラウドファンディング。我々はシューティングスターと言うサイトを使って昨年10月から毎月テーマを変えて12か月連続で12のテーマが続いていくことで最終的には学校が完成するというストーリーでやらせて頂いている。例えば6月はバスルーム、お風呂を作る。地元の方々やここに宿泊する方々が使える入浴施設を作るというテーマで募金を集めている。毎月違うテーマでお金を集めて最終的に学校が完成するという形でやらせて頂いている。お風呂は地元の方が一番期待している場所だったりする(笑) 漁師さんも「毎日入りに行くよ」と言って下さっている。そういった場所を作るご協力を、なかなか東京や全国にいらっしゃる方は雄勝には来られないと思うが、せめてそういった形でご協力いただければと思う。


このように、テーマ別に繰り返し資金を募る方法は、『ブロックファンディング』と呼びます。現在行われている資金募集は、ひと口500円から20万円までが選べて、資金を出した方には、見返りとして「ギフト」がもらえる仕組みです。

ギフトはいろいろあって、例えば、3000円寄付すると雄勝の「復興手ぬぐい」、7000円だと、雄勝の海の幸を堪能できるパーティーご招待権、10000円だとなんと雄勝のとれたて牡蠣20個!

しかも、そのお金で、古い校舎が少しずつ生まれ変わっていくわけです。例えば、こんな楽しげな道具も、寄付によって生まれ変わることになります!



◆全長60メートル、ジャンボ滑り台!
この学校は山に囲まれていて、学校の横の斜面に60mの滑り台がある。この滑り台は日本でも一番長いと言われている。元々地元の漁師さんたちがウニ漁で稼いだお金を学校に寄付して作ったという。山間の学校なのでどうしても校庭が狭い。そこでなんとか体力をつけるために、山の斜面を滑り台を滑るために駆け上がることで体力がつくのではないかという地元漁師さんたちの考えで作られた。だいぶ錆びてきてしまってきているが、シューティングスターでお金を集めて修復費用が集まっているので、ここもオープンまでに直して実際に訪れる世界中の子どもたちが楽しめるような滑り台にしたいと思っている。あれです。(うっそ?危険!!) 斜度がだいたい40度くらいあって、スキー場の上級コース、またはウォータースライダーのような形ですね。かなり斜度がきついですね。(油井さんは滑ったことは)いつも滑っています。すごく楽しい。あのエリアは滑り台だけじゃなくて元々アスレチックフィールドのような仕掛けがたくさんあったと聞いているので、そういうものもこれからどんどん作っていくことで、山の中で子どもたちがのびのびと遊べる環境がすごく大事じゃないかな、整備していこうと思っている。




雄勝学校再生プロジェクト shootingstar

2014年6月17日

6月17日 雄勝学校再生プロジェクト2

引き続き、宮城県石巻市の北東部、雄勝町から、「雄勝 学校再生プロジェクト」についてお伝えします。

廃校となった木造の小学校校舎を改装して、漁業や農業などの自然体験を楽しめる宿泊施設にしようという取り組み、『雄勝 学校再生プロジェクト』。

現在、校舎は床がはがされ、これから改装が進んでいくことになるのですが、その作業のほとんどは、地元の方や県外からのボランティアによって行われています。このプロジェクトの事務局となっている
Sweet Treat 311理事の油井元太郎さんに伺いました。



◆地元、県外の人々の手で
元々ここは公立の旧桑浜小学校という学校だったので卒業生がいまだにたくさんいらっしゃる。お金を集めて新しいものを作るのではなく、今あるあるものを活かして修復、今後も使えるようにしようということで、地元の方々と話し合って、床をはいだり壁をはいだり床下にたまっていた土砂を取ったり、やれることはすべて手作業で、地元の方々、石巻の子どもたち、そして日本全国から大学生社会人、家族ずれなど2000人以上が集まって、みんなで学校を作ろうという想いの元に、毎週末にたくさんの方が全国から集まって学校づくりに関わっている。

雄勝は硯石の日本一の産地で、古くからスレートの屋根や壁がある。この学校も屋根が全てスレート。東京駅もそう。なんとかこの屋根を活かそう、雄勝を象徴する屋根なので、職人さんがはがした90年物の屋根材をボランティアとともに磨いた。コケなどの付着、風化したものをきれいに磨きなおして職人さんが張りなおしている。そういったところも手作業でできることはやっていこう。ムーブメントにしていきたいということで盛り上がって屋根が完成した。今後は地元の方にとっても、自分の学校を直しているという意識になるし、ボランティアも今後将来子供を連れて遊びに来る場所を作っているという発想で関わってもらっている。オープン後に来ていただくのも大事だが、完成する前から関わってもらうことも、楽しいし、環境も食べ物もおいしくて、人も素敵な人が多い。訪れていただくことも我々にとっては嬉しいしぜひお願いしたい。


現在も、このプロジェクトではボランティアの参加を呼びかけています。

雄勝再生プロジェクトHP
Facebookページ

2014年6月16日

6月16日 雄勝学校再生プロジェクト1

今週は、宮城県石巻市の北東部、雄勝町からのレポートです。

牡鹿半島の北にある、もう一つの小さな半島・雄勝半島にあるのが雄勝町。リアス式海岸に沿うように、山あいに点在する集落で構成されています。以前は、およそ4000人が暮らしていましたが、震災後の人口流出で、現在は1000人にまで減少しています。

そんな雄勝町でいま、町を再生する取り組みとして計画が進んでいるのが、『雄勝 学校再生プロジェクト』です。



雄勝町を中心に、地域再生に取り組む団体、Sweet Treat 311理事の油井元太郎さんに伺いました。

◆木造の旧校舎を再生
旧桑浜小学校は、1923年に設立された90年以上の歴史を持つ学校だったが2001年に閉校してしまった。こういった古い木造の学校はもう残っていないので、廃校とはいえ高台で震災の被害はほとんどなく
未だにここに建ち続けている、こんな素敵な学校が残っているなら再生しましょうというアイデアがやっぱり出てくる。そして雄勝の自然環境。我々がこちらの地域に入って活動をしていくうえで、子どもたちと農業体験や漁業体験、一次産業の体験を通じて自然環境の豊かさを感じていた。単なる復興ではなく人口が減っていく町にとって交流人口が続くような、宿泊や自然体験ができる施設に変えていこうということで、雄勝学校再生プロジェクトを2013年4月ごろ立ち上げた。主に子どもたちを対象にした自然の中でサステナブルに生きる、そもそも自分たちの食べ物がどういうところからきているのかとか、生かされている・生きていることがどういうことなのかを感じてもらう体験を、石巻の子どもを対象に実施しているが、今後は地元の子どもたちだけではなく都市部、東京や海外から、震災をきっかけに海外からも人が来るようになっているので、そのつながりを何十年も続けて行けるように、海外の子どもたちにも集まって頂けるような場にしていきたいと思っている。そのためには宿泊もできて食事もできることが必要。宿泊型の体験施設として、夏休みや週末に、家族で、または学校の林間学校でつかえるような施設にしていきたいと思っている。


旧桑浜小学校は、山の中腹にあり、校舎は山を背負い、海を見下ろす素晴らしいロケーションにあります。現在は、地元の方や県外からのボランティアによって床がはがされ、下にたまっていた土砂が取り除かれた状態です。じつは、建築家・熊健吾さんの東京大学の研究室や、世界各国の建築家の学生・教師たちのボランティアが、デザインを担当。そのデザインをもとに、これから改装が行われます。完成は今年の秋を予定しているということです。

雄勝学校再生プロジェクト

2014年6月13日

6月13日 冨沢酒造の挑戦4

今週は、福島の造り酒屋が切り開く「未来」にスポットを当ててきました。

福島第一原発の事故で酒蔵を奪われた、家族経営の小さな造り酒屋、『冨沢酒造(とみさわしゅぞう)』は、今、300年の歴史をつなぐため、アメリカ・シアトルへ渡ろうとしています。

酒蔵がある双葉郡は、今も立ち入りが制限されたまま。冨澤酒造の長女・冨澤真里さんは、生まれ育った故郷への想いと、どう向き合っているのでしょうか。心残りは、、、ないのでしょうか。

◆過去が出来たから、前に進める。
一番はやっぱり自分たちの蔵ですよ。酒蔵を全部置いてきて、その蔵の中には色んな人の想いがこもっているわけです。それを私たちは、ある意味捨てることになる。3年も経てば梁が一本抜けた蔵はもう屋根が雨風に晒されて折れ、とうとう今年の冬に屋根が落ちちゃったんです。本蔵は残っているが真ん中の売り場蔵は屋根が落ちて、倒壊すれば煙突が崩れて蔵は終わり。それに対して本当に私たちの命を置いてきているようなつもりだったんです。それで本当に進んで良いのか、私たちはここを置き去りにして良いのか悩みました。でもたまたまご縁があって、グーグルさんに飛び込んだんです。どうにか私たちの蔵を残すことが出来ませんかと。大企業さんなので何かしらできるのではないかと無茶ブリをしたところ、松岡さんという担当のすごく綺麗な方がいるんですが、「わかりました、なんとかしましょう」と言って下さった。それまで国の方だなんだ色々頼んでいたが、その人がはじめて、なんとかしましょうといってくれて、
ストリートビューと映像で残してくださった。倒壊する前の映像。酒蔵も全部見られる。それを作って頂いた時に、始めて私たちは故郷が出来たと思う。インターネットで過去を作ってもらった。自分たちの故郷ができて過去が出来た。だから次は心置きなく進む、未来を創るしかないなと。色んな思いはあるが、そうやって自分たちの過去ができたので、それに対してグーグルさんには感謝してもしきれないし、双葉町に対しても顔向けができるんじゃないかなと思っている。


冨沢酒造Facebook

来週は宮城県雄勝の廃校となった小学校校舎の再生プロジェクトをお伝えします。

2014年6月12日

6月12日 冨沢酒造の挑戦4

今週は、福島の造り酒屋が切り開く「未来」にスポットを当てています。

福島県双葉郡で300年続く造り酒屋、『冨沢酒造』。福島第一原発の事故で酒蔵を奪われた、家族経営の小さな造り酒屋です。長女の冨澤真理さんは、300年の歴史をつなぐ方法を模索したのですが、
そこには法律など様々な問題が、立ちはだかりました。

そんな中、冨澤酒造の前に開かれた道。それは、アメリカ・シアトルへ渡り酒蔵を建てるという、途方も無い未来でした。いま冨澤酒造は、この途方の無い未来を、本当に切り開こうとしています。

◆人々の支援でアメリカへ
場所もいい、水もいい、空気もいい。でも文化の違いがあって。アメリカ大使館に飛び込んだら、私の話を聞いてくれた大使館職員が「面白い話だ」と応援して下さった。でも「あなたはアメリカについて全然知らなすぎ。英語もだめ、何も知らない。ただ行きたいという気持ちだけはよく分かる」と中小機構を紹介してくれた。そこに、海外支援部というのがあり、半年間みっちり勉強させて頂いた。そして今年1月にフィジビリティスタディという制度で中小気候のスーパーアドバイザーと一緒に渡米して調査した結果、みなさん日本酒に興味がある。酒じゃなく「SAKE(サキ―)」と呼ぶ。日本にわざわざ杜氏になりたくて来日したが受け入れてもらえず帰国したという人も何人かいたし、米軍として日本に赴任して日本酒が大好きな人や日本酒を勉強されている方が多い。みんなが美味しい美味しいと飲んでくれたのも嬉しかったが、一番嬉しかったのが「これを待っているからね、白富士を楽しみにしているから」と言われたのが本当に嬉しかった。アメリカの市場で、シアトルで白富士は受け入れられるでしょうという結果になって、シアトルのワイナリー街に本格的な手作りの酒蔵を建てようという話になり、家族みんなで6月に行くことになる。



まもなく、冨澤酒造のご家族は、アメリカへ渡ります。現在、仮暮らしをしているいわき市の家を引き払い、東京にも拠点を作り、来月には本格的にシアトルでの活動が始まると言うことです。

◆これを登り切ったら。
震災があってある日突然家が無くなるわけで、本当に一番下まで落ちたと思っているんです。それこそ地面に足がついた状態。もう落ちるところはないじゃないですか。じゃああとは登るだけだと思うんです。だからすごいきつい山登りだと思って、でもそれを登り切ったらすごくきれいな景色があるんだろうと自分の中で思っているんです。そうなればあとはもう進むしかないと思って。頑張れると思っています。


今後、冨澤酒造は、アメリカ・シアトルで、代々受け継ぐ日本酒『白富士』の醸造を始めることになります。シアトルは、双葉郡と同じで、水が「硬水」。気候条件も近いそうです。白富士の完成は、来年12月を予定。来年のクリスマスには、シアトルの人々が、この小さな造り酒屋の日本酒の味に、酔う姿が見られることになりそうです。

明日も、冨澤酒造についてお伝えします。

冨沢酒造Facebook

2014年6月11日

6月11日 冨沢酒造の挑戦3

福島県双葉郡で300年続く造り酒屋、『冨沢酒造』の20代目当主を父親に持つ、冨沢真理さんのインタビューです。

原発の事故の影響で、実家の酒蔵を離れざるを得なかった、真里さんとご家族。会津若松の酒蔵の支援で、酒づくりを再開することは出来たのですが、これは、2年間の期限がありました。

酒造りを続けるには、酒蔵が必要です。しかし、新しい酒蔵を建てるには、法律の問題が立ちはだかります。真里さんと兄・守さんは、酒造りに協力してくれる既存の酒蔵を訪ね歩きました。

◆切り開く未来
日本中のやめた造り酒屋さんを見て歩いた。菌から何から持ってウロウロウロウロ・・・日本唯一のジプシー酒屋になっちゃったわけですよ。いつまで経っても私たちはジプシーのままだと思っていたら、一昨年の10月に茨城県の造り酒屋さんから、「鬱々としていても始まらないからアメリカに来い」と言われて渡米。サンフランシスコ、シアトル、シカゴと周り、その中で初めて降りたシアトルが、初めて降りたのにダウンタウンが仙台に似ていた。これは仙台だ!と思っていたら「名所に連れて行ってあげる」と言われ、鮭の上る場所に連れて行ってもらった。大量のキングサーモンがわーっと上がる姿を見て、浪江にそっくりだと思った。気温からなにからみんな一緒で、ここなら出来るんじゃないかと。その時はその想いだけで帰った。1か月後に両親を結婚30周年の記念にシアトルへ連れて行ったところ、両親もやはりダウンタウンを見て「懐かしいな」と言う。サーモンが遡上するのをぼーっと見ながら「鮭だ、鮭だ」と言い、「真里、俺はここで酒造りがしたい」と父が言った。母も「ここだったら骨を埋められるから、なんとかならないか」と言い始め、びっくりした。両親の前向きな話は初めてだったので、蔵の中ではヒヨッコの私にできることは場所を作ること。300年続いてきたから、アメリカで300年続けられる場所を作ることは出来るんじゃないか、なんとかしなきゃと。
一ヶ月後にシアトルの日系二世のおじいさんから連絡があり、「アナタが日本でジプシー酒屋をやっているとシアトルのある人から聞いた。もしよければ会えないか」と日本へやって来た。「あなた方も日系人も、ある意味色んな物に翻弄されてゼロからスタートしている。でも私たちは一生懸命頑張って、今はアメリカでちゃんとした生活が出来ている。でも日系人にとって祖国は遠くていつも日本のことを恋しく思っている。その日系人の夢になってくれないか。一歩踏み出すのはあなた達の勇気だと思う。」と言われ、なんともいえない気持ちになって、分かりました、アメリカで酒蔵が出来るか出来る限りやってみますと、去年の1月にスタートしました。


300年の歴史をつなぐ。その一心で歩き続けた冨澤酒造の前に開かれた道。それは、アメリカへ渡るという、途方も無い未来でした。大きな酒造メーカーではなく、個人経営の酒蔵がアメリカで起業したケースは、過去、例がないそうです。そして冨澤酒造はいま、この途方の無い未来を周りの人々の支えを受け、本当に切り開こうとしています。

この続きは明日。

冨沢酒造Facebook

2014年6月10日

6月10日 冨沢酒造の挑戦2

今週は、福島の造り酒屋が切り開く「未来」にスポットを当てています。

福島県双葉郡で300年続く造り酒屋、「冨沢酒造」の20代目当主を父親に持つ、冨沢真理さんのインタビューです。

福島第一原発1号機に続き、3号機でも水素爆発が起きた2011年3月14日。着の身着のままで避難した真理さんとご家族は、ようやく、いわき市の親せき宅に身を寄せることができました。

その時、先に避難していた長男の守さんと、妹・真理さんが考えたこと。それは、2人が生まれ育った酒蔵のことでした。

◆「白富士酵母」を繋ぐために
兄が見つかって合流したときに、家を続けるよねと聞いたら、「うん」と兄がいった。じゃあやろう。酒造免許を取りに行こう、我が家に伝わるものを全部取りに行こうと、雨合羽をきて酒造免許と家に伝わるものを、双葉の酒蔵から全部持って帰って来た。戻って、その酵母を父に見せたところ、避難のショックで廃人のようになっていた父は、「酵母の匂いだ」とはじまり、「これじゃないんだよ、本当にうちの大事な(酵母)は」と。一番重要な酵母、白富士酵母を持って帰ってこられていなかった。うちのオリジナルの、代々味をつないできた酵母。蔵に住んでいる家付き酵母を更新して繋いできたもの。実はそのオリジナルのありかは父しか知らないため、私たちは残っていた酵母を全部持ってきたと思っていたが、大事なものを蔵に残していた。しかし4月22日、「今夜0時に(双葉町が)警戒区域に設定されます。そうなると一切入ることができません」という朝のニュースが。ご飯食べながら家族でびっくりして、何事という感じだったが、警戒区域になってしまった。入れてもらおうと町や東電、県にも再三電話で掛け合ったが「難しい、お宅一軒を認めることはできない」と。それでも、双葉に戻るため各所に電話をしていると、国の人が電話に出てくれて、冨沢酒造の味を繋げるものだからなんとかならないかと相談した「事情は分かりました、歴史をつなぐということで私が協力しましょう」と、国が動いてくれてOKがでた。そして6月7日、双葉町に入ることに。一級放射線技師が3人つき、「クルマから降りるときに線量が高かったら戻りましょう、蔵の中が線量が高くても戻ります。酵母の線量が高かったら持ち出すことはできません」と言われた。でも、それを全部クリアできて、試験管内に残していた酵母123本のうちで1本だけ元気なものもあった。これをどうにか助けようとしていたら、花春酒造が「うちでやってみるか」と声をかけてくださり、2年の約束で酒蔵のタンクを借りて日本酒を仕込むことができた。


富沢酒造の日本酒「白富士」の酵母は、わずかですが奇跡的に、原発事故の影響を受けていなかったんです。そして2011年の冬、会津若松の酒造メーカー『花春酒造』の協力で、冨沢酒造は、白富士酵母による酒造りを再開したのですが、期間は2年間。その先はまた別の協力してくれる酒蔵を探す必要がありました。

しかしこの酒蔵探しは、なかなかうまくいきませんでした。そこで、冨沢酒造・真理さんと兄・守(まもる)さんが選んだ方法とは・・・。この続きは明日お伝えします。

冨沢酒造Facebook

2014年6月9日

6月9日 冨沢酒造の挑戦1

今週は、福島の造り酒屋が切り開こうとする「未来」にスポットを当てます。

享保元年・徳川吉宗の時代から300年続く造り酒屋、「冨沢酒造」。
お話を伺ったのは、冨沢真理(とみさわ・まり)さん・30歳。冨沢酒造の20代目当主を父親に持つ真理さんは、家族経営の小さな酒蔵で、企画・営業を担当しています。

まず、真理さんとご家族が目の当たりにした、2011年3月の、震災とあの事故を振り返って頂きました。

◆「40分後にこの町は閉じます」
私たちの酒蔵は福島県双葉町新山という地域、原発からは3.5キロ地点にあります。
もうSF映画、電線はスパーク、ゴジラが通った後みたいになっている。家に帰ったら全員が無事で、倒壊もせず、蔵の張りが一本抜けただけだからとにかく片づけをしてお酒を助けてあげようという作業をして震災当日は終わった。次の日になって、町中から人が逃げ始めた。ただ「安全です、安心です、家の中に避難してください」と言われたので、蔵をかたずけることに。ただ長男だけは「万が一の時のために逃がそう、みんなが逃げるんだったら逃げる方向に逃げよう」ということで、兄にお酒を一式持たせて逃がせた。
私と認知症の祖母と両親が残って片づけをしていた。ちょうど2時半過ぎ、外で洗い物をしていたら、建物がぴいんと音叉のように共振し始め、砂利を落とすような音がジャラジャラジャラとしはじめた。
しばらくすると屋根に砂がさらさらさらと降って来た。その当時は何も知らなかったが、ちょうど第一原発の水素爆発があった。夜になって父親と祖母を逃がそうと。夜の7時すぎに後ろのお年寄りたちに言いに行ったら、もぬけの殻だった。町中を叩いて歩いたが誰もおらず、そこではじめて逃げ遅れたことが分かった。たまたま装甲車が目の前を通り、助けを求めたところ、そこで「退避命令が出ているのに何をやっている、40分後にこの町は閉じます。30分後に出る自衛隊の車両が最後の車両なのでそれについて逃げてください」と言われ、持って逃げられるのは祖父の車椅子、おむつ、毛布を祖母にかけて・・・母がトラック、、私が乗用車を運転して自衛隊の車両に囲まれて街から出たのが12日。そこからずっと避難している状態。


こうして冨沢さん一家は、2011年3月12日に避難したのですが、避難所は、被ばくを理由に受け入れてくれなかったそうです。そのため一家は、親戚を頼り14日にいわき市に入りました。家族が福島第一原発で水素爆発が起きたのを知ったのはこの時。親せき宅のテレビで、原子炉建屋が吹き飛ぶ映像を見て茫然とした、と真理さんは振り返っています。

先祖代々の酒蔵を置き去りにして、苦渋の避難をした冨沢酒造は、その後すぐ、酒造りの再開へ向けて奔走することになるのですが・・・この続きは、明日お伝えします。

2014年6月5日

6月5日 福島県飯舘村、酒井政秋さん(4)


作家の渡辺一枝さんが主催する「福島の声を聞こう!」のトークイベントから、
福島県飯館村、酒井政秋さんの声をお届けします。

原発事故の影響で、現在福島県伊達市の仮設住宅に暮らす酒井さん。仮設住宅のお年寄りに寄り添う「傾聴ボランティア」に取り組む一方、村民同士の対話の場「かすかだりの会」を主宰しています。また、県内外の知り合いから飯館村を見たいというリクエストがあれば、
時間が許すかぎり、村を案内するようにしている、といいます。


◆グレーからカラーに
水俣病はグレーで、カラーのないイメージ。教科書で教えられたぐらいの感覚でいた。自分も原発災害を機に、水俣病のことは水俣に行ってみないとわからないことが多いだろうなと思い、水俣を訪れたら、がらっとイメージが変わった。現地の人達にゆっくり話を聞くことでグレーの水俣がカラーになった。そこにはかけがえのない自然があり、雄大で、夕陽がきれいだった。風も感じたりして、水俣病、胎児性水俣病の人たちも、目がキラキラしていた。本当に懸命に生きている。どんなことがあっても、絶望だけでは人は生きてはいけない。絶望の中でも光を見つけて生きていく、という言葉が、自分にとって、また福島にいる人達にとって、とても勇気づけられた言葉だった。真っ暗闇の中では生きている実感はないが、自分の中から光を見出して歩いていくことによって、どんなことをも乗り越える力をもらえたり。だから語り部さんの話を聞いたり、現地を訪れて自分で体感してみることが大事。
水俣で魚がとれなくなった人達は、いま果樹園でみかんや柑橘系をやっていて、とてもおいしい。一緒にもいだりして、水俣と触れ合うことができて、他人事が自分ごとになっていくということじゃないかと。ひとくちに「フクシマ」といっても、被害や状況は、地域や人によって様々。福島に来てくださいというのも、福島の日常、非日常、波の被災地を見ることによって、自分の中でなにか感じられるものがあると思う。その中から、自分の生活の中で、変えられることは変えていこう、ということが生まれるんじゃないか。だから福島に来てほしい。



飯館村の村民による対話の場「かすかだりの会」、次回は6/7(土)に福島市内で行われます。
詳しくは「かすかだりの会」のオフィシャルサイトでご確認ください。

2014年6月5日

6月4日 福島県飯舘村、酒井政秋さん(3)

作家の渡辺一枝さんが主催する「福島の声を聞こう!」のトークイベントから、
福島県飯館村、酒井政秋さんの声をお届けします。

原発事故の影響で、現在福島県伊達市の仮設住宅に暮らす酒井さん。仮設住宅のお年寄りに寄り添う「傾聴ボランティア」に取り組む一方、村民同士の対話の場「かすかだりの会」を主宰しています。

そんな酒井さんが、誰より心にかけているのが、同じ仮設住宅に暮らす、自分のおばあさんのことです。


◆「生きている実感」を取り戻すために
私の祖母はいま83歳。祖母の故郷に対する愛情は、自分の人生、自分の身体の一部で、そこに本当に帰りたいと、震災当初から何回も話している。一時期、本当に精神的に落ち込んで、夕方道路まで歩いて行って、ダンプカーにひかれそうになったことがあった。近所の人がかばって助けてくれたが、なんでそんなことをしたのかと聞くと、「ここで生きている実感がない。だから死んだ方がいい」と泣きながら話した。でもわたしたちは祖母のそんな死に方は望んでいないし、祖母が納得いく生活をさせてあげたい。ちょっと認知症ぎみ、またうつ病になりかけていたのかなと思うときもある。夕方に帰ってみると、真っ暗の中電気もつけずにぼーっとしていることなどがあった。これは仮設住宅の(他のお年寄りの)傾聴ボランティアなんてやってる場合じゃないよね、なんて思ったり。
そこで、たまに飯館に連れて行って、きのことりをするようにしたりした。祖母にとってはそれがとてもよい結果になった。たとえそこできのこが採れても食べられないが、気持ち的に楽になったり、いま生きている実感が味わえたり。昨日も祖母が、「そろそろ山菜がでてきたね」「飯館にいきたいね」と話していた。たまに飯館を味わわせて、ストレスをかけないようにしている。でもわたしは飯館に帰らないことを決めているし、祖母だけでは帰れないので。


全村避難が続く飯館村では、5月1日現在、およそ6700人が、福島県内外で避難生活を送っています。また村内では、一部で、放射性物質の除染が始まっています。
菅野典雄村長は、帰村の目安を、「年間被ばく線量5ミリシーベルト」とする考えを明らかにしています。これは、避難先の慣れない環境で体調を崩したり、家族が離れ離れになるケースも踏まえて、村長が出した苦渋の選択。けれども、「帰還のために、線量の基準を上げるのは本末転倒」とする声もあり、いまだ結論は出ていません。

2014年6月3日

6月3日 福島県飯舘村、酒井政秋さん(2)

今週は、渡辺一枝トークの会『福島の声を聞こう!』から、
福島県飯館村、酒井政秋さんの声をお届けしています。

原発事故の影響で、現在は福島県伊達市の仮設住宅に暮らす酒井さん。
震災後、仮設住宅で暮らす村民のための「傾聴ボランティア」を行う一方、
村民同士の対話の場「かすかだりの会」、会長も務めています。

「かすかだりの会」は、2012年7月に活動を開始。
およそ月1回のペースで、村民が本音で話し合える場を設けています。


◆「会話ができない」現実
友達が亡くなったのを目の当たりにして、生かされた命をどうつないでいくかというのを考えるようになったのが、2012年のはじめぐらい。仮設住宅に訪れるようになり、おばあちゃんが陽だまりのベンチに座って「会話ができない」「帰りたいといえば怒られる」「本音が言えない」というのを聴いて、それが傾聴ボランティアのはじまりだった。
仮設住宅はプライバシーもなにもなくて、となりのテレビの音や足音など、ものすごく響く。なにを言っているのかも聞こえる。夫婦喧嘩をしたりすると、隣のひとが住みづらい環境になってしまう。クレームを言うとコミュニティがどんどん悪くなってしまう。
若い人達の間でも葛藤や、本音で話し合えない部分、家族間での話し合いができない、子どもたちのことが心配、などがある。
2014年3月には、飯舘村の村民全員を対象にして、対話の場をイベントとして立ち上げて、集まった。若い人は20代、年配者は70代まで。幅広い世代の人が来てくれて、家族間の対話や、子どもを交えた対話であったり。なかなか本音が言えなかったというのは、お互いがお互いを思いやりすぎて、これを言ったら相手が傷つくんじゃないかという想いから、本音が言えなかったんじゃないかという想いが共有できた。もっとこういう話し合う場を多くもうけていけば、「分断」などがなくなって、村民目線の復興につながるんじゃないか、と感じる。


「かすかだり」とは、飯館村の方言で「生意気なことを言う」という意味。家族にすら言いたいことが言えない状況の中で、「生意気を覚悟で」若い世代がともに交流し、考えていこうと、あえて、この言葉を会の名前にしたといいます。

※今週の土曜日、6月7日にも、福島市内で「かすかだりの会」が行われます。
今回は主に、子どもを持つお母さんに集まってもらって、日頃考えていること、感じていることを語りあう予定です。詳しくは「かすかだりの会」オフィシャルサイトをご覧ください。

2014年6月2日

6月2日 福島県飯舘村、酒井政秋さん(1)

今週は、渡辺一枝トークの会『福島の声を聞こう!』から、
福島県飯舘村、酒井政秋さんの声をお送りすます。

飯館村は福島第一原発の事故の影響で、いまも全村避難が続いています。
酒井さんは1978年生まれ。高校まで飯館村で育ち、その後東京に。
2006年村に戻り、震災当時は、地元の縫製工場に勤めていました。

現在は、仮設住宅をまわって住民の声を聞く「傾聴ボランティア」を行う一方、
村民同士の対話の場「かすかだりの会」を主宰。忙しい日々を送っています。
けれども、震災直後は精神的に追い詰められ、心を閉ざす日々が続いたといいます。


◆心を閉ざす日々
2011年の3月11日から人生が一変した。わたしは地震を会社で体験した。ものすごく大きな地震で、隣のおばちゃんが腰を抜かして、それを背負うようにして外に出た。立っていられないようなすごい地震だった。幼なじみが南相馬の沿岸部に嫁いでいたので、心配になってメールをしたが、その幼なじみは津波でやられて、遺体で発見された。わたし自身も遺体安置所をめぐって、無数の棺桶を開いて友達を探したりした。本当に異様な空間だった。おびただしい棺桶、本当に五体満足なものはあんまりなかった。そういうのを目の当たりにして、精神的にどんどん落ち込んでいった。
飯館村も放射線量が高く、自宅の近くでは90マイクロシーベルトぐらいはあったと思う。わたし自身も原発事故の被災者になった。避難しなくてはならなかったが、幼馴染のこともあり、精神状態がほぼ思考停止の状態になって、仮設住宅ができたのが7/30まで飯館村に残った。生きているのか死んでいるのかわからなくなって、毎晩のように嘔吐を繰り返して、本当に眠れない日々を過ごした。そんな中、周りの人達がとても怖く思えた。そこの仮設住宅は飯館村の村民たちが住んでいるが、外で井戸端会議をしているのが、全部自分の悪口に聞こえてしまう。そんな精神状態に追い詰められた。2011年はほとんど仮設住宅の中で暮らしていました。


飯館村は平成の大合併でも近隣の市町村と一緒になることなく、独自の村づくりを進めてきました。合言葉は「までいな村づくり」。「までい」とは、地域の方言で「真心をこめて丁寧に」という意味。
農業と畜産を中心としたスローライフを目指す飯館村を襲ったのが、福島第一原発の事故でした。

明日も酒井まさあきさんのお話、村民をつなぐ「かすかだりの会」について伺います。

パーソナリティ:中西哲生・高橋万里恵

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