2014年10月29日

10月29日 南三陸 福興市3

引き続き、南三陸 山内鮮魚店 代表、山内正文さんのインタビューです。


2011年4月の第1回以降、南三陸町では、毎月・最後の週末に『福興市』が、町の人々の力で続けられています。先週末、その回数は40回を数えました。「南三陸に、福を興す市。」 町の再建をめざし、実行委員長の山内さんは、これからも福興市を続けていくと言います。

◆必ず元に戻せる
生まれ育ったところだから、やっぱりこの町が好きなのね。自然も町並みも。だから必ず元に戻せると思っているの。何年かかるって、そんなに何十年もかかる話じゃないと思ってる。意外と本当に明日にも戻るなんて感じで(笑)頑張ってる。だから全然苦にならない。ああ、こんな町ができればいいな、あんな町ができればいいなと思っていてその通りにやろうよと、みんなで思うから。それが原動力なのかな・・・。



そして、いまちょうど南三陸町は、秋鮭の季節です。この鮭をめぐり、山内さんは震災前から思い描いていたことがあるんです。

◆大事にしたいものがあるから
鮭が遡上するのよ、ここは。昔は川が真っ黒になるくらい。うちは川のすぐ脇だから、座敷からアユ釣りとかハゼ釣りができた。お風呂に入ったり寝ていると鮭が遡上する「バシャバシャ」っという音が聞こえるぐらい。橋の上から鮭が来るのを見て、ヤスでズドン!と頭を突いていたの。震災後も鮭は来ているね。あのガレキの中を帰ってくるのだから対したもんだね。今年もやっとアユ釣りやハゼ釣りをする人が出て来たので安心かなと。今年は震災から4年目、鮭は4年で戻ってくる習性があるから、今年は全然だめかなと思ってたんだけど、意外と獲れている。今年は少ない予想なんだけど今のところ意外と戻って来てるのかな。市場にもいっぱい上がっているよ。ここは宮城県で一番鮭があがる土地。鮭はこの土地の自慢。だから鮭で町おこしをしたいなと昔から色々やっていてね。だってなかなか町の真ん中の川に鮭が上るなんてないでしょ!それをみんなで大事にして、自慢にしたいよね。

だから本当は震災が来る前は、橋を造ってそこを歩きながら鮭をみられるようにしたいなと思っていたの。ここはかがり火祭りといって、役場の前で川の中にかがり火を炊くというお祭りもやっていたの。最後の土曜日に、あまり盛大にしないで町民だけが集まって寝そべって夕涼みするお祭りを作っていた。木の橋もあってそこを舞台に郷土芸能もやって。私は本当はそこの上に能舞台を作りたかった。川の上に薪能(たきぎのう)の舞台を作って楽しむ会をしたいと密かな計画をみんなで話していて、あと何年後にはやるぞと言っていたんだけど、その前に津波が来ちゃった。たったこれだけの町だからね。でもここにみんな仲良く暮らしていたからね。街は10年で見違えるように変わると思う。10年で変えたいよね。75歳になっちゃうから(笑) ちょっと体がヨボヨボになっちゃったらうまくないから、その前に見たいよね。ばんばん動き回れるようならいいけど(笑)


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山内鮮魚店

2014年10月28日

10月28日 南三陸 福興市2

引き続き、南三陸 山内鮮魚店 代表、山内正文さんのインタビューです。

津波の危機が迫る中、ご家族や従業員を避難させ、志津川中学校の高台に避難した山内さん。その日から始まった避難所生活についても、振り返って頂きました。



◆避難所は全然苦じゃなかった
たまたま私は避難所の自治会のリーダーをしていました。津波の次の日に校長と相談しながらどう避難所を、子どもたち含めて600人いる中でまとめるかという話をした。そういう体制ができたのはいちばん早かったのかな。食料も、志津川は魚を東京や名古屋に出荷しているから、それを分けて食べようと。15日分くらいの魚を持ってきた。それもたまたま私が仲買人の親分だったから(笑) 荷主もあきらめてるからみんなで食べようと。側溝のふたを全部外させて、木は全部裏山で薪を取ってきてバーベキュー。家庭科(の教室)があるから鍋も釜もいっぱいあるし包丁もある(笑) 本当にびっくりした。全然苦にならなかった。私はこの辺のガキ大将だったからこのあたりのどこの水が飲めるかも全部わかっちゃうの。この辺は縄張りで遊んでたんだもん。軽トラックにペットボトルで水も一日何回も運んでもらってね。どこに何があるのか、山いちごはどこにあるのかもみんな分かる。6月になればこのすぐ下にはイチゴができる。桃も昔はなっていたし、柿も栗もあったし・・・。


そんな山内さんは、津波で破壊される町を見ながら、すぐに「町を元に戻さなければいけないと考えた」とおっしゃっています。その第一歩が、今も続く南三陸の『福興市』でした。


◆力をくれたからできた
本当に全国の商店街がつながっていたことが力になったんだよね。10日後に「山内さんどうするの」と聞かれて、みんなで集まって話し合いをする中で私は闇市をしたいと言ったんだけどみんなはそんな気持ちになっていんだよね、まだ10日後だからね。5月の連休を提案したが「連休にはできねえ、そういう気持ちになれない」と言ったんだけど、全国の商店街のみんなが、「とにかく早い方がいい」ということで色々応援してくれて、4月29日と30日にこの場所で1回目を(開催)。震災後の初めての人がたくさん集まる機会で、いっぱい来たのよ。1日目は4000人くらいかなその次の日は8000人。その時に地域通貨を配ったの。一人300円ずつ。100円の3枚つづり「地域通貨300タコ」ということで。名産がタコだから(笑)それを避難所に1万人分配ったの。「そのお金はどうするんだ」と言われたが、無くてもいいから配れと。そしたら結果的に全国の商店街の人たちが、販売したお金を全部置いて行ってくれたの。兵庫県の佐用町とか諏訪とかね。売り上げを置いて「また来るからね」と。そして、それが安否確認の場所にもなった。本当は1回でやめようと思ったんだけど、こんなに喜ばれるならやった方がいいということで、毎月最終日曜日に決めて始めたのがきっかけ。



福興市の第1回が行われたのは、2011年4月29日。地元の方は、すべてを失い「売るものが無い」状態でした。それでも、全国から支援にやってきた商店街の方を「手伝う」ことで、店の再開をあきらめず、再起する気持ちを持つことができた、、、ということです。

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山内鮮魚店

2014年10月27日

10月27日 南三陸 福興市1

今朝は、宮城県南三陸町から、震災を経ていまも続く「福興市」のレポートです。

きのう10月26日も、南三陸の役場前で開かれた福興市。震災直後・2011年4月の第一回以降、ほぼ休むことなく、 毎月最後の週末に開かれ賑わいを見せています。きのうでなんと通算40回目!



その福興市の実行委員長が、山内正史さん。南三陸で60年続く、鮮魚店・水産加工会社の3代目です。まず、津波が町を襲った日から、福興市に至るまでを振り返って頂きました。

◆いとも簡単に家を破壊していった。
うちのお店は役場の庁舎と、八幡川(志津川)を挟んでのちょうど向かい側にあって、本当に川のふちに建っていたんだね。海岸の別のお店も港から30mくらいのところに建っていたし、工場も同じ並びに建っていて、事務所も川のふちにあったので4カ所が全部に津波ですっぽり流されてしまった。
私は海岸のお店の2階で地震に遭い、みんなと逃げようと従業員に避難命令を出して、自転車で工場へ行った。そこにまだ2人残っていたから。うちは3階建で屋上から津波が見えるのは知っていたんだけど、そこにたまたま工場長と若い男の子が残っていて「ダメだから逃げろ」と言って戸締まりして、誰もいないのを確かめて工場を閉めて、またお店に戻って誰もいないのを確認して、役場の向かいにクルマで行った。女房と長男がたまたま私を心配して戻って来たので合流したのだが、女房が海岸のお店に財布や印鑑を忘れたというので戻ってしまった。なぜ戻れたかというと川が見れたから。チリ地震の津波を経験していたので、津波は川から来ることを知っていた。川を見ながらまだ大丈夫だと判断して戻り、金庫の鍵なども持って志津川中学校へ上がった。
高台から津波を目の当たりにしたけど、あんな地震は経験したことがないし、もうビックリしてしまって、ああ簡単に壊れるものだなと思った。うちは立派な家で(笑)耐震もしっかりしていて地震では崩れなかったのに津波は簡単に家を破壊していった。一瞬でなくなるのだなと思ったよね・・・。


山内さんが、お店や工場をなんども行き来して、避難するまでの時間はたった20分。その直後に津波が襲ったそうです。

そして山内さんは、代々ご商売をして来た自分の町が破壊される様子を、ただ呆然と見ていたわけではありませんでした。

◆商人の使命
津波を見ながら、町は全滅したと思い、でも再起しなければと思った。不思議なもので、これは全滅だけどなんとかして町を戻さなければいけないと思っちゃったのね、なんだか分からないけど。そのためには、自分一人では町なんて良くならない。たまたま私は商人だから復興市をやりましょうと。元々全国に商店街の仲間がいっぱいいて、震災前からつながりがあった。各地で商店街は昔のような勢いがなくなってしまったけど、商店の大事さはみんな分かっている。特にこういう小さな町では商店が頑張らないと。商業主が頑張らないと。だって全ての行事は商業主が中心になってやってきているんだもん。お祭りだって町の美化だってご近所の掃除だって、なんでもかんでも商店の人がやってきているんだから、その商店が頑張らないとどうしようもないからね。一人で儲けようったってしょうがないし、一人じゃ儲けられないんだよね、なかなか。田舎の町では。だからみんなでやらないと。

        
明日も、南三陸の福興市について、インタビューの続きをお伝えします。


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山内鮮魚店

2014年10月24日

10月24日 女川名物の蒲鉾店「高政」に新しく登場する友情のタラコ=「万石の粒」

女川名物の蒲鉾店「高政」に新しく登場する友情のタラコ=「万石の粒」

今週は、宮城県女川町の町づくりについて、女川名物の蒲鉾店、「高政」の4代目、高橋正樹さんのお話しをお届けしてきました。町の復興のために奔走する高橋さんですが、今朝は「高政」に新しく登場する〔商品〕について、ご紹介します。

「高政」の蒲鉾は、プリプリの食感と、素材を生かした風味、味わい、バラエティ豊かなラインナップで地元内外から人気をよんでいます。そんな「高政」の歴史について伺いました。

◆昔ながらの美味しい蒲鉾にこだわって
わたしのひいじいさんが魚の行商をやっていた。そして、震災で亡くなった2代目のおじいさんが、蒲鉾の原料を作り始めたのが50年前。そして、15〜16年前に3代目の父がかまぼこを作るようになった。かまぼこ屋として、高政は最後発メーカー。当初蒲鉾を作り始めた父が、昔食べていた美味しい蒲鉾を作りたい。というのが原点。だから最後発メーカーながら、「昔の笹かまってこういうのだったよね」と言ってくれるお客さんが多い。実は宮城県は笹かまが有名だが、女川、石巻は揚げかまぼこが主流。なので、震災直後に熱々の揚げかまぼこを作って、石巻、東松島、女川の避難所に配ったときに、「この味この味!」と言って食べてくれたのが揚げかま。このあたりの地域は、お茶会の時にも
揚げかまぼこがぽんと出て来る。だからうちの売れ筋もそっちですね。


「笹かま」ではなく、女川・石巻は「揚げ蒲鉾」ということ。かるく炙って食べたスタッフによると、外はパリパリ中はしっとりもっちりリの食感で、香ばしさと白身のうま味が合わさって、走りだしたくなる旨さだったということ・・・

そしてそんな「高政」に、新たにラインナップとして加わるのが・・・「タラコ」です。
これにはどんな背景があるんでしょうか?

◆友情のタラコ=「万石の粒」
宮城県の日本一のものが2つある。かまぼこの生産量と消費量が日本一。また、たらこ、明太子の生産量が日本一。たらこ屋さんが女川石巻に多くて、美味しいものを作っていた。震災後は、石巻は残っているが、女川はもうない。実は僕の同級生もたらこ屋をやっていたがそいつは津波で死んでしまった。あの味をおれ自身食べたいし、女川からたらこの灯が消えたままでいいのかと思った。まだおれは頑張れると思って、たらこを作ることにした。それに協力してくれる方もいっぱいいる。今回は、アメリカで最大の水産会社「トライデント」と田舎のちっちゃな会社「高政」が共同出資をして女川にたらこの工場を作る。アメリカの会社からは、「あなたの所は、どんなに儲けても街への貢献に使ってしまう。だったら私たちも協力する。たらこの収益で「高政」が地元に貢献してくれれば、それが家からの女川の復興の手助けだ。」と言ってもらった。当然アメリカで一番大きい水産会社なので、たくさんの原料を持っている。それを優先的に使って良いと言われた。いまから参入する新規の事業だが、原料も販路も持っていてという所から始められるのが幸せだと思う。
10月から製造を開始して販売することにした。友達の所のたらこはとても美味しかった。どうしてもその味を全国の人に伝えたい。このたらこの事業で女川の名前をだして、ここに住んでいる人も、たらこを作っている人も、全国で食べる人も、みんな幸せになれればと思う。それが、最終的に女川の復興になれば、みんなハッピーかなと思う。


女川名物の蒲鉾店、「高政」のラインナップに新たに加わる、友情のタラコ=「万石の粒」。来週月曜日から、女川町の本店「万国の里」のほか、東北各県の大型スーパーで、店頭に並びます。


「高政」の4代目、高橋正樹さんは、今回送って頂いたタラコに添えたお手紙に、こんな事を書いていらっしゃいました。

『おかげさまで工場が完成し、10月20日より、無事製造を開始しました。
女川のみならず、沿岸被災地では、事業をするにも人手不足が深刻です。今回の事業でも、人員を募集するにあたり、大変な苦戦を予想しておりましたが、実際には募集を超える応募があり、20名の方を、新しく雇用する事が出来ました。しかもそのほとんどが、たらこ、明太子の製造業務経験者です。同級生のタラコ屋で働いていた社員さんもおり、皆が、“またタラコが作れる”と張り切っております。女川タラコの復活をこれほどまでに待っていてくれたのだと思うと、本当に嬉しいです。まだ試行錯誤の段階ですが、社員一丸となって頑張ります。』


「高政」の「万石の粒」、ネットでの販売はしていません。
ぜひ女川を訪ねて、「揚げ蒲鉾」と共に、味わってみてください。

高政のホームページ

2014年10月23日

10月23日 住民が描く町のかたち〜女川町の町づくり4

来年春に完成するJR石巻線・女川駅を中心とした新しい町作りが進む、女川町。

「町づくり会議」では、住民の声が直接 行政に届き、様々なアイデアが形になろうとしています。
その一つが、子どもたちが通う学校の在り方です。

町づくり会議のメンバーで、地元・女川のかまぼこ店の四代目、高橋正樹さんに伺いました。

◆女川を担う子どもたちのために
民間と行政の思惑が合致した例の一つ。あそこが女川中学校でかまぼこ屋根の手前にあるのが女川小学校。僕の母校だがその時1学年5クラスあったが今は子どもが減って1クラス2クラスで間に合っちゃう。行政的には維持管理費がかかるということでいったん建物をなくし、小中一貫校のコンパクトなモノを作ることになった。どのみち爆発的に人口が増えることはこの町ではありえない。我々からすると子どもたちは宝物なので、つらい目にあったからこそ夢をかなえてほしい、震災があったからあきらめましたとは言ってほしくない。夢をかなえてほしいが、頭が良くなればなるほど東京へ出て行ってしまうのは事実。なので小中一貫校のカリキュラムの中に郷土愛の醸成がはいっている。一時的に離れていても戻ってこようかなという時に、女川の町に貢献する、頑張れる仲間として帰ってきた人材が女川の町を強く大きくしてくれる。そういう素地を小中学校の教育プログラムに取り入れようという前向きな意見が出ている。




元々減っていたという女川町の小中学生の数は、震災の影響もあり、現在およそ600人ほど。学校も廃校・合併で小中1校ずつです。ただ、この小さな町の子どもたちは、町の未来を、大人以上にしっかり見据えていると高橋さんは話します。

◆子どもたちの目線の先には・・・
女川の中学生が計画・実現した「いのちの石碑」。これは津波がここまで来たという目印として二十数基を設置して、1000年後に大津波が来ても一人でも多くの命が救われるようにというプロジェクト。すごいなと思う。中学校の彼らが、旧女川交番を震災遺構として残したいと意見も出してきている。震災を彼らなりに捉えて、こうあるべきだという考えは持っていては大人がビックリするようなこともやり遂げている。「このプロジェクトはいつまで続けるんですか」と石碑の除幕式で記者からマイクを向けられた女川の中学生が、「1000年後に誰か一人でも助かればその時に終わります」と言いましたからね。俺ら大人は20年後・30年後くらいしか考えられない。でも彼らは1000年後を考えていた。ゾワゾワっと来た。これは負けてらんねえなと。「子どものために」なんておこがましいんじゃないかなと思う。命の石碑プロジェクトでは、彼らは自分たちで1000万円を集めたんです。すげえなと思いましたね。

      

「いのちの石碑プロジェクト」は、震災当時小学校6年生だった子どもたちが中心となり、3年間考え、実行したプロジェクト。町にある21の浜に、石碑を建てる計画で、現在も進行中です。生徒たちは最初、地元で「100円募金」を呼びかけていましたがそれが、全国・海外からの支援につながったということです。

☆いのちの石碑プロジェクト


明日は、今回インタビューした、高橋正樹さんが四代目をつとめる、女川町の蒲鉾店と、東日本大震災についてお伝えします。

2014年10月22日

10月22日 住民が描く町のかたち〜女川町の町づくり3

宮城県・女川町の、復興・町づくりの「いま」をお伝えています。

2015年春に、JR石巻線・女川駅が完成。津波被害で運休している石巻線の浦宿〜女川間の運行も再開されます。


※建設中の女川駅舎

新しく生まれ変わる女川駅は、駅から海へまっすぐ向かうプロムナードがあり、その先には、水平線を登る朝日が臨めるようになるそうです。

この「海」という存在は、女川のこれからを考えるうえで欠かせない要素です。町づくり会議のメンバー、高橋正樹さんに伺いました。

◆海とともに生きる町に
スーパー堤防を作ろうと宮城県からお達しがあったが、いち早く「いりません」と女川は言った。漁業者は空を見て海を見て、船を出すか出さないか、どこに漁場があって魚がどこに移動しているか考えて漁へ出る。それが海に出ないと分からないのでは、海の町としてあり得ない。これだけの津波が来て思うのは、完全に防ぐことはできないということ。ならば命を守る、財産を守る、高台に町を作る済むところを作る。防災というより減災、免災という考え方でいつでも海を見て津波から逃げられるような体制にしたほうが大事なのではということを優先して女川はそういう方向で行くと町長がいち早く断った。女川の海の景観、リアス式海岸の風光明媚なところを生かした観光をするのに海が見えなかったらどうしようもないということで、明確だった。女川はシンプルな町で漁業しか産業がない。専業も兼業も農家もない。漁業さえなんとかなればこの町は復興するというシンプルな産業構造なので、我々も考えることを絞り込めるし、女川でよかったなと思う。間違いなく言えるのは女川の魚市場は入札価格が高い。良い魚が集まる。女川の魚市場に入札する人たちは目利き衆のかたまり。女川で漁業するということはある程度差別化ができている。儲かる漁業というのがこれからのテーマで、震災前から言われていたが漁業の在り方も考えなければいけない。町の在り方と同時進行で進めている。


そして今、女川では、震災後のボランティアをきっかけに、若い人たちの「移住」も増えていると言います。これはどうやら、女川で生まれ育った人たちの “キャラクター”が関係しているようです。

◆女川人は、ラテン!?
女川の人間って田舎の人間にあるまじきウエルカムさを持っている。なんだべな。人が好きなんでしょうね。漁業体験の交渉をしようとイカ釣り漁船のオーナーを訪ねると「いいよいいよ、100人?200人?」いやいや40人くらいで「じゃあ2隻で間に合うね。保険もかけとくしライフジャケットも用意しておくから」って。そのまま船の上で釣れたばかりのイカ刺食って沖漬つくって帰ってきて・・・というのを普通にやってくれる。女川はラテンだねと言われる。定住してボランティアをやっていて東京へ帰る人って結構多いが女川は人が増えている。女川の人と出会って住むことに決めましたとか。何度も通っているうちに好きになりましたとか。JR女川駅ができることで、こっちの方に移動したい、住みたいですという声がある。元々の女川の気質の良さ。ホスピタリティ精神や食べ物の美味しさをトータルで考えて、そうするという人がいる。責任とれないよと言うのだが「いや、絶対に住みたいんです」と。



お話を伺った高橋正樹さんも、取材中はまじめだけど、どこかラテンな印象のある方でした。。。ちなみに取材した日も、これから女川に移住するという神奈川からやって来た若い女性が挨拶に来ていました。

明日は、女川の将来を担う子どもたちのための町づくりの話です。

2014年10月21日

10月21日 住民が描く町のかたち〜女川町の町づくり2

今週は、宮城県・女川町の、復興・町づくりの「いま」をお伝えします。

日本有数の漁港「女川漁港」で知られる港町・女川町。この町では、町民の代表20人が、役場や工事関係者も交えた「町づくり会議」に参加。意見を直接反映した町づくりが進んでいます。2015年には、JR石巻線・女川駅が完成。この駅を中心に、住民の思い描く町が、まさに姿を見せ始めているんです。

町づくり会議のメンバー、高橋正樹さんに伺いました。

◆女川を、終点ではなく始発に。
新しい女川駅は、元々の場所から奥の方に200m弱離れた。海から離れた場所に移動したのは理由があって、傾斜を作るには若干の距離が必要だということと、駅から海へ向かって真っすぐ道がのびるのだが、その道の両脇にプロムナード・商店街ができる。駅を出て道を見て真っ直ぐ向こう側に朝日がのぼる。そういう自然、今ある土地の自然の良い部分を活かした街づくり。女川といえば海。太平洋側なので朝日を拝んで漁業関係者は1日が始ま。そういうのを活かした街づくりということで駅の場所が変わったりしている。女川は田舎で過疎の漁村。人口の減少率から言うと30年後の人口になってしまっている。人が減っていくのを30年先取りしてしまった。だから我々も意識を根っこから変えなければいけない状況。過疎の漁村だが今まで僕たちは女川駅はJR東日本の駅の端っこで、「終点の田舎町」だと思っていたが、うちで働いているコバルトーレ女川というサッカーチームの選手から教わったのだが、「正樹さんは海が好きすぎて海ばかりを見ているからそう思うんですよ。背中に海を背負ってみて下さい。駅が見えるでしょ。女川駅は始発なんです。終点じゃなくて。ここから全国に女川を発信する駅になる。僕はそういう女川を期待している」って言うんです。終点の町をどうしよう、ではなく始まりの町。旨いものもここから出ていくし、人の交流もここで行われるし、終点じゃなくて始発の町にしてやろう。ここから色んな情報を発信する、色んなストーリーが始まる町にしてやろうと思っています。泉田圭太という選手。なぜか女川で6年目。女川で結婚して子どももいる。サッカー選手って普通はいつでも移籍できるように腰が軽いのに。jリーグのチームからのオファーも来ているのに女川から離れようとしない。いけよお前と言っても「いや、女川が好きなので」で終わっちゃう。それくらいの覚悟をもって女川に居ついている。そいつの考えは、女川に元々住んでいる人間とは感覚が違ってすごい。でもはじめて女川に来た時はどう思ったか尋ねたら「田舎だなってへこみました」と本音を言っていたけど、今はそういう気持ちで全国の舞台にコバルトーレ女川が進出して、女川の名前を日本中に広めるのが僕たち女川でサッカーをやる人間の使命だから、と。そいつが言う言葉だから重いですね。



女川駅から、海へ向かってまっすぐのびるプロムナードは駅が完成する来年の春に着工し、完成には2年がかかる予定。まだまだこれからです。
ただ、イメージは出来ています。町づくり会議のメンバー・高橋正樹さんによれば、地元の人と観光客が「交われる」ような プロムナードになるそう。道の横には芝生が植えられて、そこでくつろいだり、お弁当食べる人がいたり、地元の小学生ブラスバンドが練習してたり、そんな完成図を語ってくれました。

明日も女川の町づくりの「いま」をお伝えします。

2014年10月20日

10月20日 住民が描く町のかたち〜女川町の町づくり1

今週は、宮城県・女川町の、復興・町づくりの「いま」をお伝えします。

石巻市のとなり、雄勝半島の北側の根っこにあるのが女川町。日本有数の漁港「女川漁港」で知られる小さな港町です。いま、この町では、「町づくり会議」を通じて、住民の声を取り入れる独自の仕組みを作り、復興を進めようとしています。この町づくり会議のメンバーで、地元・女川のかまぼこ店の四代目、高橋正樹さんに伺いました。



◆駅を中心に、住民が描く「町のかたち」
女川町は女川駅が来年3月にやっと震災4年で再開するので、その周辺を町の中心地にしましょうと。その中心地がどうあるべきかという直接民意を町の開発に反映させるという会議体なんです。そのメンバーが20人。事業主だったり主婦だったり、僕も事業主・経営者のポジションなんでしょうけど、その20人中10人が40代以下。最年少は20代。老若男女いろんな立場の人が集まっている。83パーセント町が無くなったというのは女川だけ。みんながある程度危機感を共有して前に向かって進むというのがベース。元々の強い郷土愛もベースになっている。
83%の面積を使ってゼロから町を作る都市計画に、俺みたいな若い奴でも関わらせてもらえるという懐の広い行政というのも一つのベースになっているんじゃないかなと思いますね。


町づくり会議は、この20人の住民代表者、行政の担当者だけでなく、実際に 工事を担当する業者も参加。住民の意見を先送りせず、その場ですぐに実現可能か判断する形を取っています。高橋さんは「住民の意見を取り入れると言いながら、実際には“住民のガス抜き”でしかないケースが多いが、この会議はそうではない」と話します。

◆プロの青写真に、住民の肌感覚を
1回目、街づくりワーキンググループがありその進め方が微妙だった。「なんでもいいから話し合って下さい」と放り出された。それじゃ無理っしょという話をした。僕はかまぼこ屋だし、この人は主婦だし、この人は漁業関係者、ホテル経営者・・・この人たちに町の形を作れと言っても素人に作れるわけがない。スピード優先なんだから、女川町の行政とコンサルならコンサルで町の青写真を描いてください。そこにどういうものが必要なのか、レイアウトはこっちの方がいいんじゃないという肌感覚で、我々が生活するうえでの肌感覚を落とし込んでいくという作業の方が絶対に早い。プロに任せる部分は先に作ってもらって、あとは我々の意見を投影してもらえればいいですと。一番早い方法を早い団体で見つけられた。例えばいちばん最初に地図が出て来たが、女川駅を出ると真正面に銀行と郵便局があった。土日は閉まる建物。観光客が来る駅で交流人口を増やしたいのに、土日にいきなり目の前にシャッターの閉まった店があってどうするんですかと。それは違いますよね。平日の導線と土日の導線、昼間の生活導線と夜の導線を変えなければいけないですよね、というのが民間から出て来た実際に被災前の女川駅も、保険屋さんの支店の真っ白い壁がドンとあって何もなかった。そういうのを見ているので、「やっぱりにぎやかな方が良いよね、土日に人を呼び込めるような業種の建物がないといけないよね」という、我々からすると当たり前のことを落とし込んでいくということをやっています。


そのほか、この町づくり会議では、こんなアイデアが住民から出ています。『夜の飲食店街も作ろう』!!「健全すぎる町にする必要はない。お酒を飲んでカラオケして、明日も頑張ろう!という区画をちゃんと作ろう・・・という」と、住民から意見が出たそうです。これは、行政だけの町づくりではありえないアイデアではないか、と高橋さんは話しています。

明日も、女川の町づくりについてお伝えします。

2014年10月14日

10月14日 雄勝町・学校再生プロジェクト「moriumius」2

引き続き、宮城県石巻市・雄勝町の学校再生プロジェクト、moriumiusのレポートです。

雄勝半島の山の中腹。森を背負うように建つ旧・桑浜小学校の木造校舎を再生して、こどもたちのための複合体験施設を作る・・・というのがmoriumiusです。

この再生には、およそ2500人のボランティア、地元の住民、そして、この地域で支援活動を続ける様々な方が関わっています。その一人が、町づくり団体、SHINOMAKI2.0のメンバーで建築家の西田司さんです。



◆90年分の価値を残してあげたい
行っていただくと分かるが、築90年の建物が風雨にさらされて半壊している。それはむしろ美しい。そこを新しくアルミのサッシを入れる、綺麗な壁を作ると学校自体はきれいになるが元々の面影、小学校としての懐かしさ、風や光が潤沢に入る状態は維持できない。いまの半分壊れているものを価値として残して、次に使うお子さんたちが昔の建物の良さを引き継いでいけるような計画になればと思い、黒板や窓枠、自然と近い距離を感じられる風情を、美しいと感じられるあの状態をなるべく残して、ここを直しに来た人たちの手の跡も含めて価値なのではないかと、そういう部分も残して、ということを意識的にやっている。


moriumiusの屋根材は、東京駅の駅舎でも有名な、雄勝産のスレート。美しい反面、木造建築の屋根としては重さがあるんだそうです。そこで西田さんはこの屋根を生かすための耐震補強などをサポートしたということです。moriumiusのオープンは来年の夏。建築家・西田さんはその完成図を、どんな風にイメージしているのでしょうか。

◆未来を一緒に作る
雄勝は森と海が豊かで、そこから子どもたちが学べることは多い。これは都会や仙台ではできないという話がよくでる。この学校はベースキャンプ的な役割で、ここに来た子どもたちはそのまま裏山に抜けることができる。沢に登り、自然体験やキャンプをして、ツリーハウスを一緒に作ったり。フィールドアスレチックのようなロープを使って山を登る体験などもできる。それがこの施設の価値。建物の中に「閉じる」のではなく通り抜けて山に行って戻ってくると、山や地域のものを使った食堂で食事ができて、夜は校舎を改装した宿泊施設で眠る。今実はお風呂も手作りで作成中。地域の方々と露天風呂のDIYワークショップをやっていて、ウッドボイラーという森林から取れるウッドチップで使えるボイラー付きの露天風呂。やっぱりこれだけの人が一つの場所を作るのに関わっている、昔からある小学校に色んな人が関わっているということだけではなく、新しく未来を作っていくことに関わるというのはすごい価値。デザインとは一人がこういう風にやるとカッコよくなるよ、と届ける価値もあるが、色んな人が参加して繋がり、自分もそこに手を入れて積み重なる価値もデザインだと思う。色んな人の参加、想いの積み重ねがそのまま学校になると良いのではないかと思う。


moriumiusという名前は、森と海と「明日(あす)」、そして「us(わたしたち)」という意味もこめられたネーミングです。オープンは来年夏。60人が泊まれる宿泊施設、レストラン、多目的スペース、工房、そしていままさに「露天風呂」が作られています。ちなみにお風呂は地元の方の強い要望もあったそうで、土壁、雄勝石の床、竹の壁など、すべて地元の材料で作られるということです。




また、旧桑浜小学校を卒業した方は、20代から90代までいるそう。自分の母校がこうして生まれ変わることを、すごく喜んでいるということです。

2014年10月13日

10月13日 雄勝町・学校再生プロジェクト「moriumius」1

今週は、宮城県石巻市・雄勝町の学校再生プロジェクト、続報です。

石巻市の北東部の小さな半島の町、雄勝町。リアス海岸の山あいに、集落が点在する町です。人口は震災前の4300人から、現在は1000人ほどに減少しています。

そんな中、立ち上がったのが『雄勝 学校再生プロジェクト』。この小さな町にある、木造の古い小学校を利用して新たな施設を作ろうというものです。

今年6月に番組でも紹介したこのプロジェクト。実は完成が近づいているんです! 先日は、東京都内でメディア向けの報告会も行われ、プロジェクトの新しい名称も発表されました。

◆森と、海と、明日の私たち。
雄勝学校再生プロジェクト改め「moriumius(モリウミアス)」という名称2015年、来年夏に開業を目指して準備をしている。旧桑浜小学校という町立の1923年設立して、2002年に閉校になった学校がある。震災の影響も高台なので特になく、雄勝学校再生プロジェクトを昨年4月から始めて来た。子どもたちの教育を地域の方々がもっともっとやっていこう、それによって地元の子どもももちろんだが、人口が減った町に交流人口を呼び込んで、それを地域の雇用につなげて、それに関わる方々と雄勝町を作っていこうということを目的に活動をしている。築90年の木造校舎それぞれの教室を宿泊部屋やレストラン、子どもたちの体験工房、外の露天風呂も製作中。モリウミアスというのは子どもたちにとって我々が見ることのできない未来を創るうえで自然と繋がる、自然の中で生き抜くことが重要になっていく。これからは特に重要になる。そうした経験をひと夏、週末だけでも感じ取ってほしい。


お話伺ったのは、プロジェクトをサポートする団体Sweet Treat 311の油井元太郎さん。
この、こどもたちのための複合体験施設『moriumius』は、来年夏にいよいよ開業する予定。改修作業にはこれまで、2500人を超すボランティアと地元の方々が関わり、特に、屋根に使われる雄勝特産のスレートは、ボランティアによって全て綺麗に磨きなおされ、職人さんが丁寧に張りなおしたんです。

さて、この報告会では、moriumiusのレストラン用メニューも振る舞われました。雄勝で子どもたちの料理教室を続けてきた、真鍋摩緒さんに伺いました。

◆命を頂くことを伝えたい
2年の料理教室の経験を経て一番感じたのが、雄勝という土地がすごく海にも山にも近いという環境が命を作っているというのをリアルに感じさせてもらえたこと。そして食材自体が、鮮度が良いレベルではなく命がそのまま運ばれてくるような場所での料理教室なので、レストランといってもご飯が食べられるだけでなく命を感じさせてもらえるようなレストランというイメージを持てるようになりたい。みなさんが言うのおのがホタテ。甘くて肉厚。ホタテにかぶりつく。という衝撃。ホタテの漁にいって、水ではなくその場の海水で洗う。醤油もいらない。海水の塩分でそのまま食べるのを経験したら、この食べ方が最高だというのを感じられる。それを漁師さんが楽しそうに話しているのを漁船の上で聴ける。命があるものを自分自身でさばき、とりこむ。命を頂いているというのを改めて感じる。生かされているという気持ちをこういうところで感じながら思い出の残すというのを大人になった私でも発見できた場所。料理教室では、魚やシャケをバンバンさばかせる。子どもたちに。内臓もでるし血も出る。いやだ怖いという声も出る。「だって生きているんだもん」ということを伝える。そうすると途中で意識が変わる。命をもらったんだというのを感じながら全部食べる。単なる勉強ではなく五感を使って心を動かして出来る料理教室。それを感じながら楽しめる空間にしていきたいなと、スタッフと話しているところです。


こちらがmoriumiusのレストランのメニューです。
レストランでは、雄勝のお母さんたちの知恵を取り入れながら、雄勝の四季の食材を使ったメニューを、今まさに考案している最中とのこと。



そして現在。moruumiusでは来年夏のオープンへ向けて、『露天風呂づくり』が進んでいる最中。きのう10月12日もボランティアの方を集めたお風呂作りワークショップが行われたということです。

明日もmoriumiusについてお伝えします。

2014年10月9日

10月9日 福島の温故知新を伝える季刊紙『板木』4

福島で、昔から続く年中行事と、人々の営みを伝える小冊子『板木』についてお伝えします。

版木は、年4回発行され、四季それぞれの行事や、福島の風習を伝えていますが、それと合わせて、毎号「人」に焦点を当てたインタビュー企画もあります。編集長・木下真理子(きのした・まりこ)さんは、
「東日本大震災の被災地としての福島を、直接的に取り上げることは、しない」と、おっしゃっているんですが、ただ、最新号・6号のインタビュー記事には、震災後の福島のこれからを考える上で、とても意味のあることが書かれています。

◆過去と今を繋ぐことが、未来へ繋がる
『気になるあの人』という特集が毎回最後のページにあるんですね。これは日本の伝統文化を受け継ぐ職人さんにお話を聞く企画で、6号では和菓子屋さんの女性のお話だったんです。須田輝美すだてるみさんという女性。和菓子1個40円をすごく細かい作業の手作りで作ってらっしゃる方。お父さんがお店をやってらっしゃって、それを継いだ娘さんが職人さんとしてやっているんですけど、話を聞くと、お父さんは元々深川にお住まいだったそうです。でも東京大空襲で焼け野原になってしまったため親戚を頼って東北に移ることにしたんです。当時はまだ16歳くらいだったらしいんですが、和菓子の道を志して福島市にお店を建てることに。この須田さんという女性は、しゃべっているとお父さんの血を受けて、話し方が完全にちゃきちゃきの江戸っ子なんです。全然福島っぽくなくて、てやんでえなの。でもお店にお客さんがいらした瞬間に、べらべらの福島弁に変わるんです。それが私は、まさに今福島で起きていることの象徴なんじゃないかなと思っていて、例えば避難して移られる方がいらっしゃるんですが、ああこういうことなんだとすんなり思えたんですね。それは震災に限らず色んなきっかけの中でそれぞれの人生があって、地域があって、今があるのだと思うので、色んな場面や景色や人の話をあるがままに伝えていって、読む人の何かきっかけになったらいいなと思うんですけども。やってみて思ったのは、過去を知るということは今の自分にすごく大事なんだなと思うようになったんですね。それって言うのは自分たちがどういう経緯でここにいるのかを知ることが、自分が今いる地点が点だとして、それは過去と繋がることで線になる。それは未来にどうつなげていったら良いのかの指針になる。それが過去にあるんじゃないかな。点だけでは未来に向かってどうつなげていったらいいか分かりにくい。特に今この混沌とした、ぐるぐるとみんなが色んなことを迷っている中で先をどういう風に見ようと思った時に、実は過去にそのヒントがあるという風に思えるんですよね。板木を作っていて。

 
『板木』は、福島市の昔の暮らしを体験できる施設『民家園』のイベントとして行われている年中行事を紹介しています。その民家園では、今度の10月18日(土)は、福島の米作り農家の年中行事『収穫祭』が行われると言うことです。参加自由ということなので、興味のある方は情報チェックしてみてください。

★『板木』購入方法について

★福島市 民家園

2014年10月8日

10月8日 福島の温故知新を伝える季刊紙『板木』3

引き続き、福島で、昔から続く年中行事と、人々の営みを伝える小冊子『板木』についてお伝えします。

春・夏・秋・冬、年4回発行される板木。春に発行された4号が「田植え」。初夏に発行された5号は「七夕」の特集でした。そして8月末に発行された最新号がこちら。



実りの秋!という感じの、鮮やかな稲穂の色の表紙です。というわけで最新号は、収穫の季節をめぐる、様々な行事の特集。板木 編集長・木下真理子さんに伺いました。

◆実りの秋に感謝する行事
最新号6号は「いただきます〜収穫祭」の特集。田植えに続く稲作の話なんですけど、収穫に伴ってお米になるまでの祝い事があるのでそれを伝えています。例えば「庭払い」。要するに稲刈りから脱穀までという村の一大行事のあと、村の人たちを集めてお疲れ様会があるんですね。それが庭払い。その中で食べられて来たものが郷土料理に変わって行っているみたい。しんごろうもちという会津の郷土料理で、取れたお米をつぶして「はんごろし」にする。それをちょっと粒が残る状態で棒にさしてお味噌をつけていろりで焼いて食べたり。それが会津だとしんごろうもち、秋田だときりたんぽ、長野だと五平餅・・・という風に郷土料理に変わっていくそうです。




板木によれば、収穫の後の「庭払い」が各家庭で行われた後、9月末から10月にかけて、家庭ではなく集落単位で行われるのが、「秋祭り」なんだそうです。今週末の11日は、福島稲荷神社の例大祭がありますが、これがまさにそれ。今年も福島駅前には、たくさんの山車(だし)や、露店が並ぶということです。

そのほか、板木・最新号について、編集長・木下さんに教えて頂きました。

◆福島の若い女子の目線も
重芳さんという民家園の物知り博士がいるんですが、それと福島の若い女子大生を対談させるという企画があって。年の差が半世紀以上あるんですね。私たちからしても女子大生ってもはや未知の世代になってくるんですけど、彼女たちには彼女たちなりの考え方がある。ちゃんと世の中を冷静に見ていて、自分たちがどういうことをしていきたいのかというのをちゃんと考えている子たちもいるんだなと思わせてくれるページですね。今回は福島大学の女の子に参加してもらったんですけど、この子は服屋さんに勤めていて、民家園は土がいっぱいでのどかな場所だからそれになじむような格好で来てね、と伝えたんですが、私からすると全然なじまない格好で来た(笑)でも彼女としてはだいぶ押さえ気味だと。その浮きっぷりが面白くて。でも実は話を聞くと実家が農家で、昔はおじいちゃんにくっついて畑にいたんだと。鍬を持たせると腰つきがやけに良かったり躊躇無く畑を耕してくれた。(しげよしさんの話を)聞きながらメモを取らないんです。これはヤバいなと思って。原稿も書いてもらう約束なので、ただ写真を撮ってその様子を私たちが原稿にするんじゃなくて彼女が感じたことを原稿にするんですが、原稿が上がって来たらちゃんとしげよしさんの話を捉えていて。むしろ私や市役所の担当の安斎さんはメモをいっぱい取っていたんですが、実はメモを取らずにしげよしさんと向き合ってお話を聞いている彼女の方が、本当は言葉を捉えていたんじゃないかなと原稿を読んで思えたりして。私たちにとっても、次の世代の人たちとの関わりを持つことが大切だと思えるんですね。

2014年10月7日

10月7日 福島の温故知新を伝える季刊紙『板木』2

今朝も、福島の年中行事を伝える季刊紙『板木(ばんぎ)』についてお伝えします。



『板木』は、A5サイズの小さな雑誌で、春・夏・秋・冬、年4回発行されています。例えば、今年の春・3月に発行された 第4号の特集は、「田植え」です。厳しい冬を越え、いよいよ田植えの準備に取りかかる、春。この時期にも、福島の人々が、昔からずうっと繰り返し、積み重ねてきた知恵が、たくさんあるんです。

◆雪うさぎが教えてくれる知恵
田植えは日本人の生活の根本になっているんですね。五穀豊穣を願ってお祭りをしたりお祈りをするんです。田の神様がいる神事がお田植え。田の神様は「さ」という。五月は「五月(さつき)」でお米の苗は「早苗(さなえ)」全部「さ」という言葉が田んぼに関係している。普段自分たちが使っている何気ない言葉が、実は行事と関係していたりということが繋がって行く。田植えのことが分かって稲刈りを調べると、またそこに繋がって行く。田植えの前にも実は準備が必要で、田起こしという固まった土を柔らかくほぐす作業がある。それも福島市に吾妻山という山があって、そこには白ウサギという雪が溶けるとウサギの形になる景色があるんですね。それは福島市内ならどこからでも見えるんです。そのウサギが見えると種まきの合図にしていたらしい。そういう風に自然とともに人々の暮らしがあって、例えば今だと「気温が何度だから田植えをしよう」だけど、そうではなく、「ああ雪ウサギが見えたね、じゃあ種まきをしましょう」という画が浮かんでくる。それが本当に美しくて神々しい。そういうものを知ると、自然の力を借りて自分の暮らしがあるというのが分かるようになってくるんです。





※上下ともに撮影:佐久間智之(市民カメラマン

板木の編集長・木下真理子さんはそう話します。この「雪うさぎ」、福島市内のお年寄りなら、誰でも知っていて、実は全国各地、季節季節で、このような「米作りの目安」は存在するそうです。

自然と向き合うことで培われた、昔の人々の知恵。それを取材する中で、板木・編集長の木下さん自身にも、気づきがあったと言います。

◆見過ごしていた景色が変わる
暮らしが変わります。私自身の暮らしが変わって行っている気がしますね。別に田植えは意識しなければそのまますぎて行く季節なんですけど、田植えの背景を知るとやけに田植えの風景が神々しいんです。緑がキラキラして見えたり、他の地域に行っても田植えの状況が気になってしまうんです。こっちの方が早いんだとか。こっちは田植えが終わっているのねとか。今まで通り過ぎていた景色に目がいく感覚がありますね。例えば秋になったら「ああ稲穂が実っている」ということにやけに感激しちゃったり。それは私自身が感じるように誌面を見た人がそう思ってくれたらいいなと思いながら、誌面作りをしています。


明日も、『板木』編集長 木下真理子さんのインタビューをお届けします。

2014年10月6日

10月6日 福島の温故知新を伝える季刊紙『板木』1

今朝は、季節とともに繰り返す、人々の営みを伝える、小冊子をご紹介します。

福島市が発行する小冊子『板木(ばんぎ)』です。春・夏・秋・冬、年4回発行されるこの小冊子は、福島で、昔から伝わる季節の行事や、それにひもづく歴史・文化を伝えています。創刊は2013年・夏。9月に最新号として「6号」が出たばかりです。

「板木」を手がけるフリー編集者・木下真理子さんに伺いました。

◆昔の人々の伝達手段
版木は字の通り、板なんです。それをカンカンカンと打つんですが、家の玄関先に吊るしてあって、これをカンカンと鳴らすとお客さんが来た合図だったり、村に響くくらいの音がするので、田植えの季節のお昼の合図などだったそうです。伝える手段が版木。版木が福島の歴史や文化を伝えて行くもの・・・という意味を込めて名付けました。




板木は、叩く回数などで伝える内容を区別していたそうで、災害が起きた時のサイレンの役割もしていたと言います。だから集落の代表者のお家にあったとか。

福島市の文化施設内に移築された古民家には、板木の実物が現在も使える状態になっています。そして小冊子『板木』は、この文化施設の活動を元に、特集が組まれています。

◆福島の温故知新を伝える
震災がきっかけになって、蔵や昔の建物が壊れてしまった中で「福島で伝える温故知新」という副題をつけていて、昔ながらのものを伝えて未来を考えて行く・・・という冊子。福島市の山の麓に「民家園」という古民家を移築した村のような施設があり、そこでは毎月、年間行事が行われています。1月なら小正月、2月なら豆まき、3月なら桃の節句。毎月日本古来の行事があって施設のボランティアスタッフのおじいちゃんおばあちゃんが、来場者の方にその行事の体験を提供する。一緒に餅つきをしたりワラ細工をやったり。その背景にどういうことが隠されていて、ということをひもといて分かりやすく、30代〜40代の女性・お母さん世代に伝えて行けたらという構成を板木ではしています。1号は「お盆」というタイトル。いきなり難しかったんですけど、お盆っていいなというのを若い人たちにどうやったら思ってもらえるのか。自分たちがまず分からないのでおじいちゃん、おばあちゃんに聞くんですね。その中で自分たちがお盆を理解する。でも聞いてみると正解が無いんです。家々や地区でちょっとずつ違うので、あくまで板木で伝えられるのは一つの例としての地域としての特徴も加えつつ、自分のおばあちゃんに聞いてみるというのも面白いと思う。掘り下げて(おばあちゃんに聞くと)「分からない」という答えが返ってくる(笑)「そういうものだから」って。実はおじいちゃんおばあちゃんも、受け継いで当たり前にやっているものだから、そこは、ああそういうものなんだなと思いながら形にしています。多様性があるということからスタートしたような形ですね。


「板木」発行元である、福島市 教育委員会には、「震災で蔵を壊さないといけない。その前に中のものを見てほしい」という問い合わせがたくさん寄せられたという。季刊紙『板木』は、そうした蔵の中にあるような昔の道具、先人たちの知恵を季節ごとに伝えて行きたいという想いから生まれたということです。



明日も、編集長・木下真理子さんのインタビューをお届けします。

★『板木』購入方法について

★福島市 民家園

2014年10月3日

10月3日 サムライブルーの料理人(2)

引き続き、「サムライブルーの料理人」、サッカー日本代表専属シェフ、西芳照さんのインタビューです。



福島第一原発からちょうど20キロの地点・楢葉町にある日本サッカー協会の施設『Jビレッジ』で、震災後、西さんはレストランを再開。西さんは奥様とともに住み込みで、原発作業員やボランティアに食事を提供し続けています。

実は西さん、別の厨房で腕を振るうチャンスも色々あったそうです。でも、西さんはJビレッジの厨房で働き続ける道を選んだんです。

◆どういう風に生きたらいいか。
震災後、どういう風に生きたらいいか、人生ってなんだと振り返るきっかけになった。今できることをどうやるか?友達や近所の人が津波に流され、生きてる自分はどう生きていくか?心を新たにする機会になった。


現在 西さんは、Jビレッジで再開した「ハーフタイム」の他にもう一軒、楢葉に隣接する広野町で「アルパインローズ」というレストランも切り盛りしています。広野町に帰還した住民の方々の集いの場も提供したい、という想いからです。二つのレストランで、西さんが腕を振るうメニューを教えて頂きました。

◆20キロ圏で生きる人々のために
(ハーフタイムのランチは)600円のビュッフェ。魚料理一品、肉料理一品、野菜料理一品、副菜を一品、ご飯味噌汁食べ放題。あとはラーメンとかうどんとかカレー。作業員の皆さんはどうしても食生活が偏るので、なるべく栄養のバランスが取れた食事を摂ってもらおうという気持ちで、ビタミン、ミネラル、鉄分、たんぱく質・・・PFCバランスを考えて作るよう心がけている。(食材も線量を気にしながらではあると思うが地元のモノを使っていこうという気持ちは?)震災前から地元のものを使ってたしそこはぶれたくない。安全が第一ではあるが。(アルパインローズで好評なメニューは?)トルシエが名前を付けた「マミーすいとん」。懐かしがってもらえる。(料理人として喜びを感じる瞬間は?)代表なら勝った時。作業員の場合は、「ここに有って良かった」。定年などで去る時にそういう言葉をかけられると、やってて良かったと思う。


あのフィリップ・トルシエが「故郷のママのスープみたい」と名付けたのが「マミーすいとん」。震災前からの人気メニューで、今も「あのすいとんを食べたい」というお客さんが訪れることもあるとか。

そしていま。西さんのお店の評判は広まり、全国のサッカーファンたちが、訪れる場所にもなっています。

◆世界のサッカーを愛するサポーターたち
今回初めて気が付いたのが、店に全国からサポーターが来てくれる。北海道・愛媛・大分・沖縄・ドイツ!そういうサポーターの方と出会いが有って、本当にこの人たちはサッカーを愛してる、熱い心が初めて分かった。僕も頑張らないとと思い知らされた。
                                                     
ちなみに西さんのお店は、20人ほどのスタッフがいます。当然お給料も払わなければいけないわけです。復興支援ツアーの団体も来店するので、現在お店は順調だということですが、それでも人の減った町、厳しい状況で、西さんは経営者として懸命に戦い続けています。

西さんのお話は、『サムライブルーの料理人 3・11後の福島から』という本で、より詳しく語られています。この本の印税は、西さんの故郷・南相馬市に全額寄付しているということです。

今朝は、サムライブルーの料理人、西芳照さんのインタビューを、お届けしました。

2014年10月2日

10月2日 サムライブルーの料理人(1)

今日と明日は、サッカー日本代表の専属シェフ、西芳照さんのインタビューをお届けします。

福島県楢葉町、福島第一原発からちょうど20キロの地点にある日本サッカー協会の施設『Jビレッジ』の料理人。そして日本代表専属シェフでもある西さん。現在はそのJビレッジ内にレストランを再開し、選手ではなく、福島第一原発の作業員のための食事を提供しています。

さらに西さんはJヴィレッジの近くにもう1軒お店をオープン。2軒を切り盛りされています。いま西さんはどんな状況なのか伺いました。

◆サッカー選手の夢“第三ピッチ”
(店を再開から3年?)3年目です。Jビレッジと広野町に。Jビレッジは5年後の日本サッカー協会のナショナルトレーニングセンターとしての再オープン向けて駐車場に車は入れないようにして、芝を整備することに。広野も5000人中1300人くらい戻ってきてる。(あそこが駐車場になった時は何とも言えない気持ちになりました)あの当時は本当に、二度とここには戻れないんだろうな・・・っていう風に思ってた。震災の次の日、あそこから出て行く時に。そういう意味ではこんなに早く戻れるというのがね・・・。(僕も想像が出来ないです)。


いま駐車場になっているというピッチは「第三ピッチ」。これは日本代表用が練習する特別なピッチです。西さんは震災前、仕事の合間にこのピッチを眺めて休憩するのが好きだったといいます。

一度はJビレッジを離れた西さん、料理人として色んな仕事のオファーもあったと言います、しかし震災2か月後に厨房の様子を確認しようとJビレッジへ戻った時のこと。そこで目の当たりにした光景が、西さんを大きな決意に駆り立てました。

◆24番目のメンバー
(2011年)4月から、Jビレッジに働いてた人が別なところで働くということになった。Jビレッジのレストランには包丁とかみんな置きっぱなしだったので、それを送り届けるのは僕の役目と思って戻ったところ、目にしたのは作業員の厳しい環境。それを見て、果たして僕自身、東京でお酒飲んだりしてていいのだろうか・・・あそこで15年働いて、いま困ってる人がいる・・・なにか自分のできることがあるんじゃないか?と戻る決心をした。良かったと思ったのは、一緒に働いてたスタッフが一緒にやりましょう!と言ってくれた人が多数いたこと。(やっぱりチームですね)社名が「ドリーム24」。母が「大きな夢を持たないと!」いうのでドリームに。24はサポーターナンバー。サポートする会社になろうと名前を付けた。


パーソナリティ:中西哲生・高橋万里恵

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