2014年11月28日

11月28日 続・「福島の声を聞こう」(4)

作家、渡辺一枝さんが主催するトークイベント「福島の声を聞こう vol.12」

毎回ゲストスピーカーを迎えて「福島のいま」を伝えるトークの会です。
今回のゲストスピーカー、通称「かまけんさん」は、東京で働く40歳の男性。東日本大震災の翌年、2012年1月から福島県南相馬市に通って復興支援活動を続けています。

内容は「ガレキ拾い」「ビニールハウスの修復」から「ライブ演奏」までさまざま。まさに「何でも屋」として、南相馬の人達に親しまれる存在です。活動を始めて3年。かまけんさんは、地元の方たちの怒りや悲しみを、肌で感じてきたと言います。

◆『笑ってなきゃ死んじまう』
「たかはしのばあちゃん」という人がいて、ほんと僕らに見せる顔はニコニコ笑って元気なおばあちゃん。勝気な人。仮設の、元気がなくなった人を鼓舞する、牽引するおばあちゃんで、すごろくをつくったり、お手玉やおはじき、カルタをつくったり。それが絵心があってすごくうまい。例えば手縫いで200個お手玉をつくったと。それをおみくじみたいにしてみたと言って、1円玉とか5円玉とか、あたりには100円玉を入れてみたと。正月のパーティみたいなものの口上も考えたり。プロデューサー気質があって。仮設もこんな暗いんじゃだめだ、花見をやらなきゃだめだと、歌と踊りと衣装も全部自作で、元気が出る歌と踊りを考えたと。4人メンバーも集めたと。「すごいじゃん、ばあちゃん、これどういう歌なの?」と聞いたら、恥ずかしそうに顔を真っ赤にして歌詞カードを見せてくれて。それが全部下ネタだった。「ずんずくずくずく、今夜は眠れねえ〜」「あんた〜!」とか。「これちょっとヤバい内容?」と聞くと「やだ!」ってバッチバチ叩いてきて。「やだって、これ自分で書いたんでしょ」と。
俺は元気なばあちゃんしか知らなかったけど、ある時ばあちゃんが「いままでつらい苦しい思いしてきたから、仮設の皆が元気でやってきゃなきゃなんねえ」と言った次の瞬間に「笑ってなきゃ死んじまう」って泣き崩れた。(俺は)びっくりして。
みんなよく「被災地の人達は強くて、わたしが逆に元気をいただきました」なんて言うけど、俺は全然そんなふうに思ったことはなくて。東京にいる俺たちだって、強くいから生きてるわけじゃ決してないわけで。自殺者は東京でも多いですけど、南相馬では焼身自殺とかまであったから。そんな中でも、ほんとなんとか踏ん張って「笑ってなきゃ死んじまうから笑って」なんとか一歩踏み出している、というのが俺の印象。翌月行ったら、花見を今度やるんだと聞いて、「よかった」と思った。
(一枝さん)
わたしたちは、現地の人達のそういう気持ちを、よくよく知って行かないといけないなと思います。


「たかはしのばあちゃん」と呼んでいたおばあさんは、娘さんとお孫さんを津波で亡くし、一時は睡眠薬が手放せない状態だったそうです。

年末年始が近づいていますが、故郷に帰れない人がいまもたくさんいる。そのことをわたしたちは忘れちゃいけないと思いました。

***

今回のイベントの様子は、会場となった「セッションハウス」のブログでチェックすることができます。 
また「福島の声を聞こう」、次回は12月12日(金)に開催されます。ゲストスピーカーは、福島県南相馬市の草野良太さん。草野さんは震災直後から「フロンティア南相馬」を立ち上げて、支援物資の配給などボランティア活動を続けています。
日程は12月12日(金)19時〜。場所は東京神楽坂のセッションハウスです。

渡辺一枝さん主催「福島の声を聞こう!」

2014年11月27日

11月27日 続・「福島の声を聞こう」(3)

作家、渡辺一枝さんが主催する「福島の声を聞こう」。毎回ゲストスピーカーを迎えて、「福島のいま」を語り、伝えるトークの会です。
今回のゲストスピーカーの一人、通称「かまけんさん」は、東京で働く40歳の男性。東日本大震災の翌年、2012年1月から福島県南相馬市に通い復興支援活動を続けています。

◆隣のじいちゃん、ばあちゃんを訪ねる感じ
活動はもう「何でも屋」って感じ。屋根を直したり、20キロ圏内に取り残された動物たちのエサやりとか捕獲の手伝いとか。あとは畑を中心とした肉体労働。必要と言われたことはなんでもやろうと思ってやってきた。今でも「支援」とか「ボランティア」とか、最初からあまりピンときてなくて、遊びに行っているというか、隣の家のじいちゃん、ばあちゃんを訪ねていくような感じで毎月通っている。
俺たち最初評判悪かったからね。モヒカンとか金髪とか刺青とかがぞろぞろ行って、仮設で仕事し始めて、「あいつらなんなんだ」みたいな感じになってたから。それで顔を覚えてもらったみたいなところもあったけど。


南相馬に通うようになって3年。かまけんさんは、ほぼ毎月1〜2回のペースで、仕事を終えた金曜日の夜に、車で南相馬に向かいます。活動の名前は「百足団(むかでだん)」。「福島でボランティアをしたい人のプラットフォームみたいなもの」とかまけんさんは言います。

◆心にぽっかり穴が
去年くらいからすごく仮設は混とんとしていると、向こうの自治会長さんから聞いたりしている。ちょっと話がそれるけど、向こうの民家で一昨年の12月にライブをやった。音楽を演奏させてもらった。懐メロのカバーとか。そのきっかけとなったのが、一昨年の夏。カズオさんという旦那がいて、ご家族を津波で亡くされて、「そういえばお前ら派手ななりしているけど、エレキやってるんだろ」と言われて、「ああ、エレキやってます」と言ったら、「今日仲間呼ぶから、晩飯のときに歌を歌ってくれ」と言われて。自分は下手の横好きでずっとバンドを続けているけど、原発事故の後、「音楽なんてクソの役にもたたん」と思って、非常に落ち込んだりもしたり、自分には何ができるんだろうと思ったりして、それでいろいろ(肉体労働とかを)やってきたら、ある日カズオさんに歌ってくれと言われて。
「なんで歌なの?」と聞いたら、「いままで生きるか死ぬかで必死にやってきて、そんな余裕まるでなかったけど、いま心にぽっかり穴が空いてしまったような、そういう時期、そういう段階にみんな入ってきたんだ」という話を聞いて。
あ、なるほどなと。それで「上を向いて歩こう」だとかをいろいろやらせてもらったんだけど。だから、だんだん「心のケア」みないなものが、例えば「話を聴くだけ」とか「愚痴聴くだけ」とかが必要なんじゃないか。
(一枝さん)
いま話に出たカズオさんは、仕事場が海とはちょっと離れたところにあって、地震のあとで一回自宅に戻ってみたら、奥さんが自宅を片付けていたので「大丈夫か?」と聞いたら「大丈夫だ」と言うんで、安心して、また職場に戻ったら、その日に家ごと奥さんが流されて、まだ見つかってないという方。


若い世代が比較的少ない中、かまけんさんたちのサポートは、仮設住宅に住むお年寄りの支えになっているようです。

***

次回の「福島の声を聞こう」。ゲストスピーカーは、福島県南相馬市の草野良太さんです。
草野さんは震災直後から「フロンティア南相馬」を立ち上げて、支援物資の配給などボランティア活動を続けています。日程は12月12日(金)19時〜。場所は東京神楽坂のセッションハウスです。

渡辺一枝さん主催「福島の声を聞こう!」

2014年11月26日

11月26日 続・「福島の声を聞こう」(2)

作家、渡辺一枝さんが主催する「福島の声を聞こう」は、震災で被災した福島の方や、福島でボランティア活動を続ける方をゲストスピーカーに迎えて、「福島のいま」を伝えるトークの会です。

今回のゲストスピーカーの一人、福島県南相馬市で復興ボランティアを続ける小山謹子さんは、「きっずれたー to 南相馬市」を主宰。南相馬の仮設住宅で暮らす方たちに、季節のメッセージカードを贈る活動を続けています。募集したメッセージは、有志とともに仮設住宅を回り、住民の方たちに直接手渡しています。

◆周囲の目や心無い言葉
今年の「春のおたより」のときに、これまではお便りで参加してくれていた方が初めて仮設住宅に手紙を届ける活動に参加してくれた。その方の感想がすごく良かったので読み上げます。
『今回ご縁があり南相馬に初めて伺ったのですが、一番ショックだったのは、五時間ほどの短い滞在時間の中で、“仮設の人たちは毎日一人15万もらってるんだよね。人生狂っちゃって、パチンコに通って仕事を辞めた人もいるよ”という言葉を地域の方から聞いたことでした。毎日生活を共にし、仮設での暮らしもご存じのはずなのに、こんな身近な人たちでさえ、そういうことを言うんだと、暗い気持ちになりました。実際東京で友人に、南相馬の人達に手紙を書くささやかなボランティアをやっていると話すと、同じ反応が帰ってきたこともありました。また今回一緒にプレゼントを用意してくれた友人も、“でもこのプレゼントを贈る人達も毎月一人10万もらってるんでしょ“と言いました。決して悪気があるのではないと思うのですが、こういう周囲からの目や言葉が、どんなに仮設住宅で暮らす方たちの気持ちを落ち込ませ、卑屈にさせ、傷つけているだろうとため息がでました。
今回お尋ねした方が“誰が好き好んで月10万でこんなところに暮らすか”という言葉が、本当にどれだけ心無い言葉や嫌味を投げつけられてきたかを表しているようでした。原発から○キロ圏内というくくりが発生し、そのキロ数によって補償内容や支援体制が全く異なってきたことが、問題をより複雑にしているんだと思いました。』

(一枝さん)
たとえば福島県小高町で自動車整備の店を持っていたかたがいる。20キロ圏内なので仮設住宅に避難しているが、10万もらって暮らしているんじゃいやだとということで、なんとか仕事を再開したいと、原町の町中に整備工場をつくった。自分で賠償金をつぎ込んで場所を借りて、新たに店を興した。そうやって仕事をしていると売り上げが生じてくるので、所得税が生じる。賠償金というのは、避難している間の生活のために使われるためのものだが、それをつぎ込んで事業を再開し、せっかく仕事を始めても、税金が払えなくなって事故破産するというケースが結構ある。
10万円もらってるからいいよねと言われ、実際にパチンコに行っている人もいるが、じゃあなにをすればいいの?というところ。これは、原発事故の後で、この事故に対してどう対処していくのかという中で、まず生活再建を考えずに「賠償金」に真っ先にもっていったことが、一番大きな問題をつくるモトだと、わたしは感じている。



「きっずれたーto南相馬市」では、現在「クリスマス」に南相馬の仮設住宅に届けるお便りとプレゼントを募集中です。締切りは12月6日(土)。
お子さんだけでなく、大人の方からのお手紙も広く募っています。参加したい!という方は、活動のオフィシャルサイトをご確認ください。

「きっずれたーto南相馬市」オフィシャルブログ

2014年11月25日

11月25日 続・「福島の声を聞こう」(1)

今週はトークイベント「福島の声を聞こう」です。
作家、渡辺一枝さんが主宰する「福島の声を聞こう」は、東日本大震災で被災した福島の方、また、福島で活動するボランティアの方をゲストスピーカーに迎えて、「福島のいま」を伝えるトークの会。12回目を数えます。

今回のゲストスピーカーの一人、小山謹子さんは、福島県南相馬市の仮設住宅で暮らす方たちに、季節のメッセージカードを贈る活動「きっずれたーto南相馬市」を主宰。一般から広く募集した手紙やプレゼントを、自ら仮設住宅に届けています。

小山さんが福島と関わりを持ったのは、東日本大震災の直後。最初は支援物資を届ける活動でした。

◆心を届けるギフト
(小山さん)ずっと支援物資などのモノを贈り続ける活動を続けていたが、それも2012年3月に終わりになった。1か月ぐらいしてから、「被災地の方はどうされているかな」と思って、お菓子と一緒にお手紙を書いて、お送りした。電話番号も書いてお送りしたら「ありがとうございました〜」とお電話があって。そのとき初めて「これだ!」と思った。いまから必要なのはコミュニケーションだと確信して。それから手紙を書くようになり、書くうちに、どうせ手紙を書くなら、仮設住宅にはおじいちゃん、おばあちゃんが多いっていうから、子どもたちの手紙のほうが喜ばれるのかなと思って始めたのが、「きっずれたーto南相馬市」という活動。いまは大人の方のお手紙も募集しているが、お手紙を南相馬に持っていって、おじいちゃん、おばあちゃんにお渡しするという、「気持ちをお渡しする」という企画。関係を築きたい、コミュニケーションを図りたい、という企画。
最初仮設住宅の集会所に持っていったら、決まった人しか集会所には来ないと聞いて、それでは意味がないと思い、その年のクリスマスから仮設住宅を一軒一軒まわって手紙を手渡している。最初は軒先で立ち話なのが、二回目訪ねていくと「上がってけ、上がってけ」となり、三回目には何時間も話したり、ご飯を食べさせてもらったり。そうふうになる。
(一枝さん)
南相馬の仮設住宅に行くと、おばあちゃんたちが言うんです。「こんな手紙をもらったんだよ」と。そして「小山さんて、紙切れみたいなものをプレゼントだって言って持ってくる。最初はなんだこの人はと思っていたけど、そうじゃない。小山さんは“心”を届けにきてくれてるんだね」と。メディアを通した言葉ではない言葉というのは、ものすごく力があると思う。小山さんは、福島に通うようになって、福島の現状をどう感じている?
(小山さん)
南相馬の方たちの全体的な印象というのは、去年はちょっとあきらめなど暗い印象があったが、今年に入って、復興住宅などもどんどんできてきて、ちょっと活気づいているような。一方で、放射能で避難されている方は、自宅があって復興住宅に行く目処もないので、仮設の中の人間関係も悪いところはすごく悪いので、すごくきつい状況下にいるというお話を聞いて、前を向き始めた方とにっちもさっちもいかない方に分かれてきているのかなと。


「きっずれたーto南相馬市」
メッセージの募集は「春のたより」「夏のたより」「敬老の日」そして「クリスマス」の年4回。いまは、ちょうど「クリスマスのお便り」を募集中です。

お便りやプレゼントを贈りたい!という方は、12月6日(土)まで受け付けています。「きっずれたーto南相馬市」のオフィシャルブログをご覧ください。

「きっずれたーto南相馬市」オフィシャルブログ

2014年11月20日

参加者募集 Support Our Kids アメリカホームステイ

番組でこれまでもお伝えしてきた、 「Support Our Kids」のプログラム新規参加者募集のお知らせです。

「Support Our Kids」は、東日本大震災で被災した中・高校生が対象の、海外研修のプログラム。今回のステイ先はアメリカです。日程は来年3月。シアトルなどアメリカの3都市を訪ねて、2週間の文化交流やホームステイを体験します。
「海外ホームステイに興味がある!」「日本の魅力や文化を英語で発信したい!」そんな東北の中・高校生の方、詳しくは「Support Our Kids」のオフィシャルサイトをチェックしてください。

2014年11月20日

11月20日 映画『フタバから遠く離れて 第二部』(4)

今週は、映画「フタバから遠く離れて【第二部】」、舩橋敦監督のインタビューです。舩橋監督は震災直後から、双葉町の町民の避難生活を取材。今回映画の「第二部」が完成し、先日公開が始まりました。

原発事故の影響で、町民が長期の避難生活を強いられている福島県双葉町。町の90%以上が、帰還の見通しが立たない「帰還困難区域」に指定されています。 避難生活が長引く中で、コミュニティは分断され、新たに「中間貯蔵施設」の建設に関する波紋も広がっています。

「福島の原発事故は収束した」という表現に、強い違和感を持つという舩橋監督。鹿児島県、川内原発の再稼働にも、大きな危惧を抱いています。

◆性善説ではなく、性悪説
日本は福島の反省が全くできていないというか、再稼働の文脈の中で福島の話をしようとしない。それは政府が意図的に切り分けているんだと思うが、鹿児島の川内原発について、新規性基準という原発事故の後にできた基準(津波に耐えられるか、火災が起きたときどうするか)というのは世界一厳しいもので、それにパスしたから大丈夫と言っているが、それはハードの問題だけ。
原発の箱の話しだけで、もし事故になったらどうするのか。どう逃げるのか。原発事故後最低でも30キロ圏内は避難区域にしなくちゃいけないが、そこの住民がどうやって逃げるのかを計画しなきゃいけないし、準備しなきゃいけない。
福島の教訓を踏まえるなら、避難計画だけでなく、双葉町のように避難生活が長引いたときにどこに住みのか。騎西高校のように学校に住むのか。川内のどこに住むのか。避難生活の計画も立てなければいけないし、除染計画、賠償計画、帰還計画、さらには中間貯蔵計画も作らなければいけない。そういう話をし始めたら(原発を)動かしたがらないのは目に見えているから、できるだけもしもの話をしようとしない、という新たな安全神話が生まれた。
一番はっきりさせなければいけないのは賠償。今回の福島で明らかになったのは、とても裕福な暮らしをしたり、金銭では測れないけれども豊かな暮らしをしていた人たちが、全部はぎ取られて、賠償のお金だけもらって、それも十分でなくて、慣れない土地の小さなアパートに住まわされているという、生活のグレードが100あったら50ぐらいまで落とされているという形になっている。
事故が起きたら、自分たちの生活設計が全部くるって、生活のグレードが半分になってしまうというのがいまの福島の現状。鹿児島、川内の方がそこまで覚悟しているんだろうか。契約書を作るべき。九州電力と地元の方が、(事故が起こったら)100%賠償するということを飲ませないとだめだと思う。
まさしく双葉町と大熊町が東京電力と結んだ契約というのがある。モニタリングポストはどこに設置してどれくらい放射能漏れがないか検知するとか、燃料棒の安全対策とか。でも肝心なもしものときの項目は一項目だけ。そこには「東京電力は誠意を持って対応する」とある(笑)。それだけ。いまの状況が「誠意」ということ。
だから性善説はだめ。性悪説でいかないと。人間はどっかでちょろまかそうとうする。どっかで賠償をちょっとでも少なくしようとする。日本人のお人よし体質は捨てなきゃいけない。川内原発を動かすんだったら、地元と電力会社がはっきりと契約書を結んで、もしものことがあったらここまで賠償しろよというのを具体的な数字まで出すべき。そうすると、原発を動かすことにものすごくリスクがあるんじゃないのと、九電も考えると思う。こんなリスクをしょってまで動かしていいのかと。



映画「フタバから遠く離れて【第二部】」は現在、東京・東中野の「ポレポレ東中野」で公開中です。
舩橋監督のトークイベントも予定されています。詳しくは「ポレポレ東中野」のオフィシャルサイトで確認してください。

『フタバから遠く離れて 第二部』 公式サイト

2014年11月20日

11月19日 映画『フタバから遠く離れて 第二部』(3)

今週は、映画「フタバから遠く離れて【第二部】」、舩橋敦監督のインタビューです。舩橋監督は震災直後から、双葉町の町民の避難生活を取材。今回映画の「第二部」が完成し、先日公開が始まりました。

双葉町役場によると、現在町民の避難先は、全国47都道府県におよびます。福島県内だけでも、28の市や町に居住。この数字から見えてくるのは、町民が慣れ親しんだコミュニティを失い、ちりぢりになっている現状です。舩橋監督が度々口にしたのは、「コミュニティの分断」という言葉でした。

◆時間と共に重くのしかかる、コミュニティの分断
いままで持っていた町を全部はぎ取られた痛みが、彼らの日常。家に帰れないこと、自分の田畑を耕せないこと、いつも会っていた友達に会えない、一緒にやっていた運動会ができないなどコミュニティの喪失、歴史や風土がある双葉町の日常を感じることができないこと。風景無形のいろんなことがはぎ取られてしまった。仮設住宅というプレハブに住んで、人間性を全てはぎとられた感じ。そこの痛みが、一番彼らが感じていること。それが時間と共にどんどん重くのしかかっている。
日本人は時間軸上の被害の見積もりが下手。決めない。宙吊りのまま放っておく。いつ帰れるか言わない。言うと責任が生じるからみんなだんまりを決め込む。たとえば80歳のおばあちゃんは「最低6年帰れない」と聞いたら、「6年後には帰れるかもしれない」と思う。なのにばあちゃんが86歳になったときに官僚が「やっぱりあと10年帰れません」と言ったら、そのばあちゃんの6年はどうなるのか。若い世代にしてみたら、最低6年帰れないけれどもその後はわからないと聞いたら、まるごとやめよう、福島には寄り付かないでおこう、ということになる。トップの決めない態度、あやふやな態度が、コミュニティを分断している。はっきりどこまでが大丈夫でどこまでがだめだとか、最低限50年だめだとかだけどと言われれば、一緒に移動できるからコミュニティは一緒にいられる。でもトップがふわふわしていると、コミュニティが分断される。それが僕はおかしいと思う。


そんな中で、「双葉の絆を保とう」という取り組みも行われています。

◆双葉だるま
双葉町のコミュニティのきずなを保っていこうということで、双葉町で行われていたことは仮設でもやろうとしている。例えば正月のだるま市。双葉町の皆さんはだるまをたくさん買う。「双葉だるま」というのがあって、赤いだるまに青い顔を描く。それが開運につながるというのがあるみたい。正月にだるまをたくさんかって、それをみんなに配る、というのが、正月の儀式。仮設住宅でもだるま市をやっている。(避難などで住民が)遠くに離れても、やっぱりだるま市があるということで、正月は仮設住宅がすごい人口密度になる。そういうときはうれしそうにしているな、という感じがある。それは年に一回のことで、なかなか心のよりどころと言えるかどうかは難しいが。一年間に一度だけ同窓会をやるとか。そういったことは行われている。



映画「フタバから遠く離れて【第二部】」は現在、東京・東中野の「ポレポレ東中野」で公開中です。
舩橋監督のトークイベントも予定されています。詳しくは「ポレポレ東中野」のオフィシャルサイトで確認してください。

『フタバから遠く離れて 第二部』 公式サイト

2014年11月18日

11月18日 映画『フタバから遠く離れて 第二部』(2)

今週は、映画「フタバから遠く離れて【第二部】」、
舩橋敦監督のインタビューです。

舩橋監督は震災直後から、双葉町の町民の避難生活を取材。今回は映画の「第二部」を完成し、先日公開が始まりました。町は現在「帰還困難区域」と「避難指示解除準備区域」の2つに分かれていますが、96%は帰還の見通しが立たない「帰還困難区域」です。
さらに今、問題となっているのが、「中間貯蔵施設」の建設。
町や町民の思いを無視して、福島県が、大熊町、双葉町での「施設受け入れ」を表明し、波紋が広がっています。


◆中間貯蔵施設をめぐる報道
福島県は8月30日に中間貯蔵施設の受け入れを表明した。その後に、双葉町の伊澤町長と大熊町の渡辺町長を連れて、安倍晋三首相の前に行って「福島は受け入れます」と表明、がっちり握手をしている。その写真を見ていただくとわかるが、首相と県知事はがっちり視線を合わせて握手をしているが、伊沢町長と大熊町長は視線をはずして、宙を見ている。なぜかというと、彼らははめられたから。彼らは中間貯蔵施設の件で「話し合うために」安倍さんのところのに行っただけ。これは町長から直接聞いた話だから間違いないと思うが、二人の町長は「地権者と国が直接交渉するのは構わない」ということを言いにいった。結局そこの土地を明け渡すかどうかは、地権者に権利がある。これは日本国憲法の財産権の問題で、町や県が土地を召し上げるのを許可するとはいえない。国が直接地権者と交渉するのは構わない、町や県が間に入ることはできないと、ごく当たり前のことを言っただけ。だけど、県知事はなんと「受け入れます」と言った。つまり二つのレイヤーがある。
受け入れるかどうかの判断は自分たちですべきじゃないという人達がいて、一方は「受け入れます」と言っている。その引きで写真をとって、メディアでどう流れるかというと、首相と県知事ががっちり握手をしているし、「福島は中間貯蔵施設を受け入れ」と出ている。
これが、メディアがおおざっぱすぎるところ。そういった文脈をつくってしまって、国と県の思惑の片棒を担いでしまっている。でも町も町民もまだ受け入れはOKとは言っていない。
これは沖縄の基地問題なんかと共通するところ。トップダウンで権力が下の人を踏みつぶす。こういったことが少しずつ進んでいて、その間に挟まれて町民が苦しんでいる、という状態。


また、この「中間貯蔵施設」の受け入れに関しては、東京に住むわたしたちも、決して他人事ではないと、舩橋監督は言います。

◆原発は遠く離れた方に犠牲を追わせるシステム
福島はこんなに汚れているんだから、福島や双葉に放射能のゴミためをつくるのは、それは仕方ないでしょ、という意見もあるが、ちょっと待ってほしい。これは東京が使った電気のためにでたゴミ。東京に持ってきてもおかしくない。百歩譲って東京と大熊と双葉で分け合うかもしれない。段ボールで宅配便で除染の土が各家庭に送られてきたらどうするか。なぜならあなた方も福島で作った電力をつかったでしょと。自分の庭に送られてくると、みんな怒る。逆にいうと、自分の庭に送られてこないと、そこまでは忘れている。だけど、原発というのは、遠く離れた方に犠牲を追わせて、それが見えない状況になるシステムでもある。東京の人間はそれに依存して寄りかかってきた。なのにさらに、犠牲を強いるような中間貯蔵施設を双葉、大熊の方に押しつけていいのかという倫理の問題がある。



映画「フタバから遠く離れて【第二部】」は現在、東京・東中野の「ポレポレ東中野」で公開中です。
舩橋監督のトークイベントも予定されています。詳しくは「ポレポレ東中野」のオフィシャルサイトで確認してください。

『フタバから遠く離れて 第二部』 公式サイト

2014年11月17日

11月17日 映画『フタバから遠く離れて 第二部』(1)

今週は、映画『フタバから遠く離れて 第二部』の舩橋敦監督のインタビューです。

原発事故の影響で、全町民避難が続く、福島県双葉町。 その住民の避難生活の様子を綴ったのが、映画「フタバから遠く離れて」です。舩橋監督は震災直後から、双葉町の町民の避難生活を取材。今回は映画の「第二部」を完成し、先日公開が始まりました。
【第二部】では、避難生活とともに、町長と町議会の対立、町長の辞任と選挙、そして旧騎西高校の避難所の閉鎖なども描かれていきます。

◆町に帰れないという烙印
「フタバから遠く離れて」という映画は、最初福島県双葉町の皆さんは原発事故があった後に、埼玉県にある旧騎西高校に移ってこられたが、その最初の9か月間を描いたのが第一部。その直後10か月目から今年の8月末まで、2年半ぐらいを追い続けたのが第二部。
最初、旧騎西高校という廃校になっていた高校の教室に、プライバシーもないまま間仕切りだけで、布団を敷いて、10人〜20人くらいで寝ていて、3食お弁当の生活が続いていて、いつ帰れるかの目処もなにも見えない中で、やはり人間には限度があって、若い人達は独立して、働かなきゃいけないし、子供を育てなければいけないから出ていくし、高齢の生活弱者の方が騎西高校に居続ける形となった。
その中で戻れないなら戻れないとはっきりいって欲しい、と言う方がどんどん増えてきた。かつ今、中間貯槽施設を双葉町に作ろうという計画がある中で、双葉になんか帰れない。帰れないのはわかってる、それなら次の人生を模索しようと、いう方が出てきている。
一つ比べていただきたいのは、公共事業で高速道路ができる、ダムができるということで、人々が立ち退かなきゃいけないというのがあったとして、村ごと引っ越すとなるときの保障に比べて、いまの原発避難の補償金は約40%ぐらいだと言われている。半分以下。なぜそんなに少ないのか。それは、国は「帰れる」という前提があるから。でもいつ帰れるんですか、というと「わからない」と。中間貯蔵施設をつくるというのは「帰れない」という烙印を押すようなもの。そんなところに帰ろうと思いますかというと、若い人は帰ろうとは思わない。
つまりダブルスタンダード。町に帰れないという烙印を押しておきながら、いつかは帰れるかもしれないという前提で賠償を続ける。全く逆の状態が起きていて、先行きが見えなくて人生設計ができないまま、ずっとほったらかしにされるという、そのこと自体が非常につらいことだと思う。



映画は現在、東京・東中野の「ポレポレ東中野」で公開中。
今後、京都大学の小出裕章教授や、ジャーナリスト田原総一郎さんとのトークイベントも予定されています。詳しくは「ポレポレ東中野」のオフィシャルサイトで確認してください。

『フタバから遠く離れて 第二部』 公式サイト

2014年11月13日

11月13日 南三陸町出身 田畑祐梨さん4


宮城県南三陸町出身、田畑祐梨さん。
中学の終わりに東日本大震災を経験し、 高校時代は、自ら立ち上げた語り部団体「まずもって」で活動。 現在は、静岡県内の大学で国際関係を学びながら、「Action is a Message Project」と通じて、東北の情報を世界に発信しています。

そんなユウリさん、「将来の夢」について話してくれました。

◆子どもたちの集まるツリーハウスを作りたい!
将来の夢はもう全部決まっていて。東北に「ツリーハウス」をつくって、そこを拠点に地方の子どもたちと都市部の子どもたちと外国の人達が交流する機会をつくりたい。地方の子どもたちに国際交流の機会を提供しようと思っていて、英会話を習うのではなく、サッカーとかスポーツを通してお互いに、きっと最初は日本人同士、外国人同士で固まると思うけど、それをチーム編成で変えて、しゃべらなきゃいけない状況をつくって、頭をひねらせる機会を提供したい。
そういう機会を提供したら子どもたちはきっといっぱい考えると思う。どうしたらもっと伝わるのか、きっと頭をひねって、ジェスチャーを使ったり絵を描いたりすると思う。人生において、そういう柔軟な発想って大切じゃないですか。相手の立場に立って考えることも大切な感情だし、そういった思いを育むことも大事なことだと思っているので。そういった刺激を受けたら、もっと英語が喋れれば、もっと英語の勉強を頑張らきゃと思うかもしれないし、もしかしたら視野が広がって外国に住みたいとか、外国の人と友達になりたいと思うかもしれない。そういったきっかけを地方の子どもたちに提供したい。
ほかの都市部の子供達には、東北の産業を経験してほしい。日本は残飯が多いし、「ありがとう」以前に「いただきます」という言葉を全然聞かなくなった。「いただきます」は食べ物をつくってくれた人へのお礼の言葉でもあるし、やいまからいただく命へ話しでもある。そういうのってほんとに大事なこと。わたしは小さいときから、わかめの種付けとかサケの稚魚の放流とかを見てきた。命の営みを見てきたから、食べ物は残しちゃいけないとか、これはすごく手間ひまがかかっているとかがわかる。でも都市部の子どもたちはそういう機会がないのかなと。
もっと東北の産業と提携して、子どもたちに経験してもらって、自分たちの食べ物は「ぽん!」と生まれるわけじゃない、ということを知ってほしいなと思って。そこで提携してくださった方々にお金を回すことで、地域も活性化するから、そういう機会を提供するのがわたしの夢。


プロジェクトの名前も、すでに決まっています。

◆「チャンスハウス」
「チャンスハウス」です。子どもたちが自分の夢を追い続けられる社会をつくること。それがわたしのほんとに大きな目標。大人が「無理無理」「絶対できない」「将来お金にこまる」とか言うんではなく、「いやできるじゃん」「あなたならディスニープリンセスになれる」とか、夢を後押ししてあげられる社会、背中を押してあげる社会。無理とかじゃなくて「行ける」という言葉を自然に発することができる社会をつくりたい。


語り部ボランティアのご相談は、「Action is a Message Project」のオフィシャルサイトまでご連絡を。

2014年11月13日

11月12日 南三陸町出身 田畑祐梨さん3

中学の終わりに、東日本大震災を経験した宮城県南三陸町出身、田畑祐梨さん。
地元の高校に通っていた昨年春に、語り部団体「まずもって」を設立し、いまも語り部として活動しています。
また、今年4月には、静岡県内の大学に進学。新たな組織「Action is a Message Project」を立ち上げました。

◆会いに来てほしい!
静岡に行くのが決まったときに、いや待てよと。南三陸を出るということはわたしは東北を離れるわけで、わたしは何ができるんだろう?と。何もしないということに嫌悪感を抱いて。何ができるんだろう?と考えたときに、語り部をして「またわたしに会いに来てください」と言って、たくさんの人がわたしに会いに来てくれたり、何度も同じ話を聞きに来てくれたりした人が何人もいて、じゃあわたしと同じように頑張っている後輩たちに会いにきてもらおう!と思って立ち上げたのが、「Aciton is a Messsage Project」。
会いに来るってすごく自然なこと。食べ物に出会いにとか、人に出会いにとか。(日常生活でも)皆がしていること。そこに定義づけると、例えばボランティアに行くということになると、すごく重いことになってしまうので、もっと簡単に「人に会いに行」ということで東北に来てほしいなと。
AIMPでは東北の学生団体を取材して英語に翻訳して、海外に発信する活動をしている。わたしが英語で語り部をしたときに、ワシントンDCから来たアメリカ人の子がいて、その子は「いま東北でどんな活動をしているのか知りたい」と。その子達にもわかるように英語のサイトを作って、そしたら東北に行く外国の修学旅行生が、もしかしたらわたしたちが取材した記事を見て東北にいくかもしれない。東北に外国の方が来られるというのはほんとに珍しいことだったので、そういう生の国際交流があるのはすごくいいことだし。そういうことも一つのきっかけにしてほしいと思って。


「Action is a Message Project」。
メンバーはユウリさんと同じ、故郷を離れて暮らす被災3県出身の大学生たちです。「地元を元気にしたい」という想いが活動の原動力。東北で展開されるさまざまな活動を取材し、サイトで発信しています。

また、ユウリさんは現在、大学で国際関係を勉強中。
頭の中にはすでに、次の「夢」の設計図があります。

◆南三陸を国際交流の場に
大学なんて考えてもいなかった。アメリカに行って自分の英語力の低さにショックを受けて、ずっと塾で英語を習っていたのにセカンドとミニッツを間違えたり。日本に帰ってきてからも、なんで自分は英語ができなかったんだろう?と考えて。そしたら実際に使ったことがない!ということに気が付いて。
生の国際交流をする機会もなかったし。それはすごく問題だと思って。地方によって「学習の格差」や「不平等」があるのは問題だと。もっと身近で実践したいのに、外国の人が南三陸に来ない!とか。その解決のために、いま大学で国際関係や英語、フランスを学んでいて、異文化理解を勉強している自分の国のことをわからないと異文化なんてわからないので、日本のことと異文化を学んでいて。地方の子どもたちにも、昔のわたしみたいに「マジ南三陸だめだ、でたい」とか思うんじゃなくて、南三陸にも独自の文化があって、すごくいいところなんだということを知ってもらうきっかけにもなるし、英語を学んだり自分の夢が変わるきっかけにもなるかもしれないし、そういう機会をつくりたい。

故郷南三陸については、イオンがなくても全然いいところだと実感したし、南三陸が日本で一番素敵なところだと思っていて、わたしが好きな街をほかの人にも好きになってもらいたいと思うようになった。


宮城県南三陸町出身の大学生、田畑祐梨さん。現在は南三陸の高校生語り部団体「まずもって」を後輩たちに託して、「Action is a Message Project」で活動しています。語り部も要望に応じて引き続き継続中。若い世代への語り部、英語による外国人への語り部などを行っています。

2014年11月11日

11月11日 南三陸町出身 田畑祐梨さん2


今週は、宮城県南三陸町出身、田畑祐梨さんのインタビューです。
中学校の卒業式の前日に、東日本大震災を経験したユウリさん。地元の高校に通っていた2013年春に、語り部団体「まずもって」を設立、大学生になったいまも、語り部として活動を続けています。

◆大人には任せてられない
わたしが「まずもって」という団体を立ち上げたのは、それまでは大人に任せておけば復興が進むと思っていて、大人に任せておけば神戸のような素敵な街が広がるのではないか、あんなおしゃれな街が広がって、カフェずらずら並んでみたいに思っていたんだけど。
わたしが高校2年生の冬に、あるきっかけがあって南三陸町のことを見直してみようと思って。南三陸町のことを見直したときに、全然復興が進んでいなくて。ガレキだけが撤去されて、更地が広がっているのを見て、「なにやってきたんだ大人は」とすごく疑問に思って。ダメじゃん、と。すごく腹が立って。もともと南三陸が嫌いだったのが、もっと嫌いになって。田舎だし、隣の石巻、登米、気仙沼にはイオンがあるのに、南三陸にはないし、もうほんとに田舎だなあと。イオンは結構田舎の子たちにはすごくおっきいもので、東京の109みたいなもので。いつできるのかみたいに思っていたんだけど。すごく嫌で、大人はなにもしてくれないし、口だけだし、なんなの!と思っていたんだけど、発想の転換で、「じゃあ、自分はなにかしたの?」と思って。自分はなにもしていなくて、ただ大人に責任を押し付けてなにもしていないことに気づいて。このままだと、他の大人と一緒になってしまう、すごく嫌だと思って、自分でできることを探し始めた。
最初に思いついたのが、子どもたちに勉強を教えようかと思ったんだけど、自分はまず九九ができないのに、子どもたちに勉強を教えるなんてできないなあと。いまでもまだ九九が怪しいし、それは無理だと思って。最近まで1メートルは60センチだと思ってたし。。一番最初になくなった案で。
自分の好きなことじゃないと続かないということを知っていたので、勉強はまずなくなって、自分の好きなことってなんだろうと考えたときに、「おしゃべりだ!」と思って。誰よりも口が達者だし、すぐに語り部を思いついて、語り部の団体を立ち上げて、メンバーを集めて、「まずもってかだっから聞いてけさいん」「とりあえずお話をするので聞いてください」という団体を作った。


「まずもって」の主要メンバーは5名ほど。南三陸の街を歩きながら、震災のときの様子や南三陸の街について話をします。対象人数が多い場合は、会議室やホールなどで語りを行うこともあるそうです。また希望があれば、全国各地にも出張します。受け取るのは交通費などの必要経費だけ。語りに関しては全員ボランティアです。

◆同世代に届けたい想い・・
修学旅行生とか来てるし、しかもこれからの日本を担っている存在の若い世代が防災意識が低いことはすごく問題だと思って、同じ世代として伝えられることがあるんじゃないかと思って。それで、外国の方に向けた英語の語り部と、若い世代への語り部をしたいと決めた瞬間に、知り合いの大学生に企画書を作ってもらった。
その企画書を持って南三陸の観光協会さんに行って。でも観光協会さんは大人だから、反抗心むき出して行ったんだけど、企画書を出したら「すごいね!応援するよ」と言ってくれて。「おかしいぞ、大人って頼りにならないと思ってたのに」と。でもそれがすごく大きな変化で。すごく親身にしてくれて、相談に乗ってくれて、大好きになって。いまでは観光協会さんのHPを毎日見ているくらい。毎日のように恋しく想っている。

                 
語り部団体「まずもって」を立ち上げて、1年半ほどですが、これまで、1万人を超える人に語りを行ってきたそうです。またユウリさんは今年3月高校を卒業して、4月から大学生に。現在は、「Action is a Message Project」 という団体の代表として、語り部を続けています。

「まずもって」についてのお問い合わせ、語り部ボランティアのご相談は、「Action is a Message Project」のオフィシャルサイトまでご連絡を。

2014年11月10日

11月10日 南三陸町出身 田畑祐梨さん1

今週は、東日本大震災を語り継ぐ、大学生の取り組みです。

静岡県内の大学に通う大学一年生、田畑祐梨さんは、宮城県南三陸町の出身。
ゆうりさんは、地元の高校に通っていた2013年春に、高校生による語り部の団体「まずもって」を設立しました。「まずもって」とは、地元の言葉で、「とりあえずお話するので、聞いてください」という意味。活動の原点は、中学3年の終わりに起こった、東日本大震災の経験です。

◆中学三年の卒業式前日に・・・
2011年3月11日はわたしの中学校三年生の卒業式の前の日で、その日も卒業式の練習をしているときに地震が起こった。みんな、叫んだり、泣いている子もいれば倒れている子もいて、お互い励ましたり気づかったりしていて。その後体育館の中に入れられて、そのとき初めて、卒業式に座るはずだった一人の時間を持つことができて、その時に「お母さん大丈夫かな、家は大丈夫かな」と思って、過呼吸になってしまって。そしたら、さっきまでわたしを励ましてくれていた友達が、今度はわたしを励ましてくれて。わたしはその友達の声を聞かずにずっと「お母さん大丈夫かな」と言っていて。
電気も通っていなかったので、校長先生が拡声器で「津波が来ました」ということを伝えていて。津波がどういうものかもわかっていなかったし、ほんとうにパニックになっていて。その間も友達はずっと励ましてくれいて。その友達の声が変だなと思って友達の顔を見たら、友達も泣いていた。その時に初めて「わたしだけじゃない、みんながそうなのに、わたしだけがこんな迷惑をかけていたらダメだと思って、ようやく我に返って、落ち着きました。
そのときにお母さんが来て、お母さんは普段は本当に怖い人で、鬼母というか魔女というか、本当に怖い人なんだけど、そのお母さんが泣きながら来て抱きしめてくれて。わたしが物心ついてから始めて抱きしめてくれて。「どうしたの?」と聞いたら、「おじいちゃんが死んだかもしれない」と。わたしが通っていた中学校は南三陸の志津川地区が全部見えるところで、その高台からお母さんは津波が押し寄せてくるのを見ていて、おじいちゃんは志津川病院の4階に入院していたんだけど、身体が不自由で人の助けがないと動けない状態だったから、お母さんは病院に津波が押し寄せてくるのを見て、ただおじいちゃんの名前を叫ぶことしかできなかった、と。それを聞いてわたしもショックで泣いてしまって。でもお母さんがすぐに「お母さんは家からお米を持ってきたから、お米を食べさせる。だからあなたはちゃんと先生の言うこと聞いてなさいよ」と言って、すぐ家庭科室で炊き出しを始めて。そこからわたしの避難所生活が始まった。
そんな中で、わたしを励ましてくれていた友達が街を出て行ってしまったり、すごくショックだったけど、その後、たくさんのボランティアの方や自衛隊の方が入られて、道がきれいになって、ライフラインも通るようになって、安否確認もできるようになって、おじいちゃんが助かっていることを知って、ほんとに家族全員で喜んだ。
でも、わたしの恩師は亡くなってしまった。わたしはその恩師に、伝えたいことをなにも伝えないまま別れてしまったので、それを後悔していて。本当にいまでも毎日後悔しているので、ほかの人には同じような後悔はしてほしくないなあと思って、語り部ではそのことを話している。


田畑さんは中学3年の終わりに東日本大震災で被災。
高校生のとき「まずもって」の活動を始めて、大学生になった現在は、「Action is a Message」という団体の代表として、語り部を続けています。

震災当時、何が起こったのか、改めて震災の記憶をこうして語り継いでいくことは大事だと気付かされるお話でした。その語り部を、大学生になった今でも続けている、そのモチベーションはどこにあるのか、明日以降、お伝えします。

南三陸町 高校生語り部「まずもって」ブログ

2014年11月7日

11月7日 松島・浦戸桂島の牡蠣小屋

今朝は三陸、塩竈から、美味しい牡蠣の話題をお届けします。

日本三景「松島」の一部でもある、宮城県塩竈市の浦戸桂島の海水浴場、「マイビーチ鬼ヶ浜」では、明日8日から、「ふるさと愛ランド〜自然体験で牡蠣三昧〜」がスタートします。

ビーチに建つ牡蠣小屋で、美しい日本三景の風景を見ながら、離島生活を体験。浦戸産の美味しい牡蠣を味わって、漁師さんに牡蠣のむきかたや養殖について学んだり、自然の中で豊かな時間を過ごしてもらおう!というプログラムです。

ちなみに浦戸産の牡蠣は、以前、「種牡蠣」として全国に出荷されるほど、三陸でも指折りの美味しい牡蠣なんです!そんな浦戸桂島の魅力について、プログラムを主催する「浦戸・夢の愛ランド」の、三浦勝治さんに伺いました。

『日本三景のど真ん中で、人の住んでいる島が4島あって、そこを浦戸諸島と呼んでいます。日本三景ですから景色は良いし、絶景であることは間違いないです。大きな海原に島々が点在して、島々には松の木が生えていて、海の青さと空の青さ、素晴しい眺めです。食べ物もいっぱい。春先にはシロウオ、夏場はアナゴ、ワタリガニ、今だとハゼなんかも釣れる。魚はいろいろ獲れます。しかも新鮮で美味しい。』

美しい景色と美味しい牡蠣の島、浦戸桂島。今はたくさんの人を迎えられるようになりましたが、震災と津波被害からの復興には、語り尽くせないほどの苦労があったといいます。
     
『震災前はだいぶにぎわっていたんですが、震災で観光施設や海水浴場など、ずいぶん破壊された。だいたい80戸くらい桂島には家があったが、半数以上の42戸が流された。壊滅的な被害だった。牡蠣棚、海苔の網、それらは全滅。流されてしまった。それでも桂島の人たちは、やっぱり産業を復興させるということで、牡蠣屋さんは牡蠣棚の作りから始まって、牡蠣を生産するために一生懸命取り組んで、おかげで震災の年はある程度、収穫があった。ただし翌年から、震災の影響で海の環境が変わったのか、牡蠣が死滅する、育たなくなる、それから種牡蠣も去年あたりは半分くらいしか獲れないという状況が続いていた。おかげさまで今年は心配していたんですが、立派な牡蠣が育って、プリプリの牡蠣が皆さまに美味しく召し上がって頂けると思う。』

そんな浦戸を元気に復興させるために立ち上げられた、「浦戸・夢の愛ランド」の「ふるさと愛ランド〜自然体験で牡蠣三昧〜」。どんな楽しみがあるんでしょうか?

『皆さんの自然体験、それから海の環境を守る一環としての牡蠣棚を設置している。そこへご案内して、牡蠣がどのように育っていくか、実際に自分たちの目で見て頂いて、また持ち帰って、牡蠣むきの体験をして頂くという自然体験、それから獲ってきた牡蠣をご賞味頂くという事で、牡蠣むきをした牡蠣を食べる、焼き牡蠣として食べて頂くというのが今回のイベント。もしよければ「浦戸夢の愛ランド」で検索して頂ければ情報が出ているので、よろしくお願いします。』


◇プログラムは3月31日まで開催。
参加費は、自然体験コースが3000円、焼き牡蠣コースが牡蠣15個つきで2000円となっています。
ただし、シーズン中でも牡蠣が無くなったら終了になりますので、参加してみたい!と思った方は、お問い合わせをしてからお出掛け下さい。   

プログラムへの参加は、「浦戸・夢の愛ランド」へお問い合わせください。

2014年11月6日

11月6日 南三陸自習支援 『TERACO』3

今朝も、宮城県南三陸町で子供たちの自習支援を行う「TERACO」のレポートです。

仮設住宅など、学習スペースを確保しにくい子供たちのために、「自習室TERACO」を立ち上げた、代表の小楠あゆみさん。活動を支えるのは、個人支援者からの支援金と保護者の会費ですが、運営は決して楽ではありません。それでもTERACOを続ける小楠さんには、「南三陸の未来をつくるのは子どもたちだ」という、熱い想いがあります。

◆「環境のせいにしてほしくない」
自分の可能性をあきらめずに、環境のせいにしてほしくないなというのが根底にある。もしこういった場所(TERACO)がなくても、学校の教科書と家の片隅でできることもあるのかもしれないが、将来家が流されたからとか、自由な場所がなかったからできなかったんだというような大人になってほしくないと思っていて。
いま来ている子たち含めて、生活に密着した、保母さんになりたいとか、看護師になりたいとか、おばあちゃんをなくした子だったのかな、マッサージや整体など老人のケアをする仕事をしたいとか、いう子たちが、3年たって、明確にそっちの道に歩き始めた。
小中学生のときは将来についてぼんやりしていたものが、具体的に受験だとか、専門学校にいくだとか、歩き始めたから、それをあきらめてほしくないなというのがある。

わたしのキャッチコピーが「行動する子供を育てよう」。10年後20年後30年後。行動というのは「考えられて動ける子」。考えるには人の意見を聞くことが必要だし、動くためには勇気が必要。勇気はなにから出てくるかといえば、ある程度の自信だとかも必要になってくるのでは。そういう子供たちが増えて、そういう大人が増えることが、この被災地については、ゼロ以下になってしまったわけだから、とっても必要だと思う。子供たちがけん引車になって、その道のスペシャリストになって誰かを触発するようなスパイラルになったらいいなと。
復興ではなくてわたしは再生だと思っている。彼らは再生を担う種ですからね。


これまでTERACOに通った児童・生徒は、およそ250人。
震災から3年半あまり。
子どもたちは、それぞれの目標や夢に向かって、いま歩き始めています。
TERACOに通う、南三陸の高校生にも聴きました。

◆看護師になるため進学したい
わたしは3年前の中学3年生のとき、TERACOがまだホテル観洋の一室でやっているときから、通っています。避難していたときもそうだけど、最初はみんな一緒で勉強するスペースがなくて、最初はロビーとかでやってたんですけど、小楠さんが自習場所を作ってくれたので、そこでやるようになりました。テスト期間は毎日通って、あとは受験勉強のときは毎日来ています。わたしは看護師になりたいと思っているので、専門学校に進学するために、いま勉強しています。
◆夢はウェディングプランナー
いまは仮設住宅。勉強を教えてくれる人がいないので、ここにくると教えてくれる人がいるし、友達にも教えてもらえるので、集中して勉強でる。ウェディングプランナーの専門学校に通う予定。進学後は南三陸町を離れて仙台のほうでやりたいと思っています。


自習室TERACOブログ
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2014年11月6日

11月5日 南三陸自習支援 『TERACO』2

宮城県南三陸町で子供たちの自習支援を行う「TERACO」。

お話は「TERACO」の代表、小楠あゆみさん。地元の小中学校から徒歩5分ほどのところに「自習室TEREACO」を開き、子どもたちの学習支援を行っています。対象は小学生から高校生。震災をきっかけに、南三陸では、進学や就職に対する意識が大きく変わったと、小楠さんは言います。

◆TERACOスタッフになりたい!
進学意識がすごく低い地区だった。地元の高校は一校しかないし、中学や高校を卒業したら、父ちゃんの船に乗るとか、地元の郵便局に勤めるとかで、偏差値を意識することはあまり必要なかった。でもいまそういった地元の雇用がなくなってしまった。事業の再開率も5割に満たない状態だと思うので、就職先もない。地元に就職先がなければ、仙台や石巻、東京に行って、就活などで戦うようになると負けちゃうじゃないですか。それで、進学意識はかなり高まって、大学進学率もだいぶ高くなった。
地元の高校のセンター試験受験者数が0人だったのが、去年7人、今年15人と上がってきているのは、お子さんもご家庭も含め、上を目指そうということが表れた数字なんじゃないかと。そういった意味で進学や就職のために学ぶ、ということをイメージさせるには、わたしたちみたいな外からの力ないとまだまだ地元の力では難しいのかなと。
ただうれしいことに、中学校の卒業直前に震災の津波に会って、その後TERACOに来ていた子供が、今年センター受験を受けて大学生になったという子が出てきた。東京と山形と仙台の大学。彼らが夏休みに南三陸に戻ってきて、TERACOに教えてきてくれた。いまは外から大学生スタッフがサポートに来てくれているが、地元の子供たちがそこに入ってくれたら、いろんなものが変わっていくんじゃないかなとも。
あるとき小学生がかわいいことを言っていて、一生懸命勉強して、早くわたしも大学生になって、TERACOスタッフになりたいなあと。東北大に行くんだとか言って。東北大、東大、早稲田、慶応とか名前はすごい。「俺、早稲田にしようかな、慶応にしようかな」とポケットに手を突っ込みながら言っていて(笑)。「ああ、いいじゃんいいじゃん」って(笑)。


地元志津川高校のセンター試験の受験者数が、3年でゼロから15人に。
進学・就職への意識向上を表す数字なのは確かですね。

また小楠さんは、大学進学を目指す南三陸の高校生たちを連れて東京に。実際のキャンパスライフや研究現場を見学する「リアル大学見学」を行っています。

◆リアル大学見学
大学に行きたいという気持ちが強い子供たちを「リアル大学見学」という名前を付けて大学に連れていった。いわゆるオープンキャンパスって授業参観みたいにフェイクなところがあって、わたしはあまり好きじゃない。うちはサポートスタッフに早稲田の理工学部の研究室の大学生たちも結構来ているので、人工心臓とか3Dプリンターとかいろんな研究現場を見せてくれて、教授が案内してくれた。さっき言った(大学に進学した)3人は、そのとき「リアル大学見学」をした3人。結局は3人とも大学生になった。
次の年は弁護士になりたいという女の子がいたので、早稲田の法学部の教室、図書館、弁護士事務所、あと東京地裁に行って傍聴してきた。彼女は今年高校受験で、この地域では進学校と言われる高校を目指している。
町全体でボトムアップするにしても、勉強するのは楽しいよ、進学や就職の選択肢が広がるよということを見せることができるので、しばらくTERACOの活動は継続しなくちゃと思っている。


地元の子どもたちが進学して、また南三陸に帰ってきて、次の世代を育てる。これが理想と話してくれました。

自習室TERACOブログ
NPOグランドラインズ

2014年11月4日

11月4日 南三陸自習支援 『TERACO』1

今朝は、宮城県南三陸町で子供たちの自習支援を行う「TERACO」の活動です。

代表を務めるのは、小楠あゆみさん。震災のとき、救援物資を届けに南三陸に駆け付けた小楠さんが 避難所で目にしたのは、やることがなく手持無沙汰な子供たちの姿でした。そこで、大学生ボランティアを集めて、避難所の片隅で子供たちの学習支援をスタート。
2012年7月には、地元の小中学校から徒歩5分のところに、「自習室TERACO」を開きました。


◆TERACOが必要なくなる時期がやってこない
最初は体育館、避難所の中で始めた。それが二次避難所のホテルに移ってからも、これからの暮らしがどうなるんだろうという不安の中にいた。その中での希望が、プライベートを確保できる仮設住宅に早く入りたい。それが2011年の夏ですよね。
仮設住宅ができた当時は2年の耐久性で作っていたはず。だから2年以内に、まったく元の街が戻るとは思っていないけれど、元の家には戻れるだろうと期待していた。ところが2年たっても、南三陸は高台住宅用の造成が終わっていない、買収さえも終わっていないところすらある。いま3年半たっても、仮設住宅の入居率は7〜8割ぐらいいるはず。そのくらい、まだ次のところに行けていない。2年以内と始めは思っていたのが、住民の方の背景と同じように、TERACOをやめる、TERACOが必要なくなる時期がやってこない。
子供たちは次々成長して、震災の時小学校の卒業だった子供たちが、もう高校1年生になる。TERACOを必要とする子供たちが次々出てきてしまうので、やめるタイミングがなくなってしまった。


これまでTERACOに通った子供たちは、延べ250人。小学生から高校生までを受け入れています。学習指導に当たるのは、東京からくる大学生ボランティアスタッフと小楠さんです。
基本的には、子供たちの「自習」をサポートする「自習支援」の場。 学校が終わって放課後になると、子供たちが次々とTERACOに集まってきます。

◆第三の居場所に
親御さんからはやはり「助かります」という声をよくいただく。家で勉強できないし、もともと勉強をしなかった子供たちが勉強をし始めたという声もよく聞く。家に帰ってきて勉強している姿を始めてみた、という親御さんも。勉強が楽しいという気持ちもついてきていると思う。今日も大学のサポートスタッフの方たちがきてくれているので、勉強の効率は上がるのではないか。
でも、みなさん同じだと思うけど、中高時代って、学校と家があればよかったかといえばそうじゃないじゃないですか。塾の帰りにとか、部活の帰りに友達の家やマックに寄ってとか。それが成長の糧になると思う。そういった立ち寄り場所、たまり場的な場所が、いま街づくり計画が進んでいる中で、まだまだ見通しが立っていない。子供たちのための「第三の居場所」が必要なんじゃないかと思っている。


仮設住宅では、自分の部屋はおろか、勉強机も置く場所がない状況当然、勉強を集中してできる環境は整っていません。それが、Teracoの自習支援がきっかけで「家でも勉強するようになった!」というのはうれしい知らせですね。
明日もTERACOについてお送りします。

南三陸 自習支援「TERACO」 小楠さんによるブログ

2014年11月3日

11月3日 今年も帰ってきた!女川町サケの遡上ツアー!

今朝は、宮城県・女川町から、「サケの遡上ツアー」のレポートです。

このツアーを企画しているのは、宮城県・石巻のダイビングショップ『ハイブリッジ』。「ダイビング」、というだけあって、海から帰ってきたサケたちの産卵を、ダイビングスーツを着て、“川の中から”覗いちゃおう!という珍しいツアーなんです。

『ハイブリッジ』代表の高橋正祥さんにご案内いただきました。

◆川に寝転んでサケの遡上を見るツアー!
秋に白鮭の遡上が海から川に戻ってくるので、それをシュノーケルで、ドライスーツという首から下が濡れない格好で、みんなで寝転んで見るというツアーを組んでいる。震災前に放流した白鮭の稚魚が4年かけて、アラスカ、ベーリング海を回って戻ってくる。川に戻ってくるのは0.2%くらいと言われている。戻ってきた鮭はまたこの川で産卵をする。生命の神秘、感動する。東北は鮭が遡上するのでツアーを組んだら面白いと思い、はじめました。


実はこのツアー、去年のこの時期にもお伝えしているんです。そして今年も、サケの産卵のピークを迎えようとしています。




サケの遡上ツアーは、11月中旬に産卵のピークを迎え、〜12月頃まで楽しめます!
ハイブリッジまでお問い合わせください!

High bridgeのサイト

パーソナリティ 鈴村健一

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