2014年12月30日

12月30日 富岡町おだがいさまFM「除夜の鐘」(2)

福島県富岡町の臨時災害FM、「おだがいさまFM」から、大みそかに放送される〔除夜の鐘〕。


富岡町の方が避難生活を続ける、郡山市内の「おだがいさまセンター」から、町民向けの情報などを放送している「おだがいさまFM」では、去年に続いて、町のお寺の「除夜の鐘」を大みそかに放送します。
全国各地、離れ離れになって避難生活を続ける町民も、配布されたタブレット端末で、どこに居ても聞ける「おだがいさまFM」。故郷の「除夜の鐘」は、富岡町民の心をつなぐ特別な意味を持って届けられます。

郡山市内で避難生活を続ける富岡町の方に、故郷でのお正月の習慣、そして故郷の「除夜の鐘」への思いを伺いました。

ナミオカケイコ。富岡の駅前の「海遊館」というホテルの仕事をしていた。こっちに来て一度しか帰っていない。桜だけは見たい。誰もいないところで咲いているなと。習慣は特にない。鐘の鳴る前に神社に行ってお参りして年越しそば食べて・・・それが出来ないから、やっぱり鐘の音が聞こえるのは嬉しい。
富岡生まれで冨岡育ち、農家の次男坊で動物病院を経営しているワタナベタダミチ。そういう催しは嬉しい。財布と免許証を持って着のみ着のままで避難してきた。4年になるがその間に家内が無くなった。ストレスの蓄積と不眠症によって。先の見えない避難生活を暮らしている。
サンペイヨウコ。実家は農業で米とか野菜、繭を作る桑畑など。暮れから暮市があって、町が歩行者天国になって、お正月用品を買う。特別なおせちはない。けんちん汁のような具だくさんの雑煮くらい。うちは神社に行く。四十八社という神社。一番祈祷に間に合うように。餅をついたり新年会で集まってみんなでワイワイしたり。出来る事なら帰りたいけど実際には帰れない。ここに居ても鐘の音が聴けるのは心がなごむ。


いまなお郡山市で避難生活を続けている富岡町民、ナミオカケイコさん、ワタナベタダミチさん、サンペイヨウコさんのお話しでした。

ちなみに、ナミオカさんのお話しにあった「桜」は、富岡町の名所、「夜の森の桜」のこと。4月になると2000本以上の桜が咲いて、2500メートルにおよぶ桜のトンネルは、「東北一」と言われています。

全国各地、離れ離れになって避難生活を続ける町民の、心をつなぐ鐘の音は、12月31日の大みそか、午後7時半から、年明け午前1時にかけて放送される「おだがいさまFM」の年越し特番の中で届けられます。

郡山市内では、通常のラジオで聞くことができるほか、インターネットのサイマル放送でも聴取可能です。
「おだがいさまFM」オフィシャルサイト

2014年12月29日

12月29日 富岡町おだがいさまFM「除夜の鐘」(1)

福島県富岡町の臨時災害FM、「おだがいさまFM」から、大みそかに放送される〔除夜の鐘〕。

「おだがいさまFM」は震災当初、郡山市内の避難所「ビッグパレットふくしま」の館内放送としてスタート。その後、町民からの要望とスタッフの尽力で、臨時災害FMの認可を受けて、現在は、富岡町の方が避難生活を続ける、郡山市内の「おだがいさまセンター」から町民向けの情報などを、放送しています。

そんな「おだがいさまFM」が、去年に続いて準備を進めているのが、大みそかの「除夜の鐘」の放送です。去年は、龍台寺の鐘の音を収録して、故郷を思う町の皆さんに届けられました。この時、震災で傷んだままの龍台寺の再建を願っていた住職のお話しもお届けしましたが、あれから1年、ようやく来年1月から取り壊しがはじまり、寺の再建がスタートするという事です。

そして今年、「おだがいさまFM」から届けられるのが、同じく富岡町の、西願寺の「除夜の鐘」。先日、「おだがいさまFM」の久保田彩乃さんが西願寺を訪ね、鐘の音を録音、住職の吉田信さんにお話を伺いました。

◆西願寺の「除夜の鐘」
寺は今から180年前。浄土真宗ではこの辺ではいちばん新しい寺。吉田さんは6代目。生まれも育ちも富岡。帰還困難区域になっている現状は悲しい。ここは町内としては線量の高さはベスト3くらい。現状はそのレベルではないが平成29年2月までは帰還困難区域なのは変わらないので、そのあとはバリケードは取ってもらいたい。檀家の方が自由に墓参りできるのが望ましい。片づけはしていない。
本堂が歪んでいて正面から入ることは出来ない。お飾りは持ち出していわきの仏壇屋さんに預けている。除夜の鐘は前は撞いていた。震災後は今日初めて撞いた。これから先、壊してここに本堂を建てたい。


この日に録音された西願寺の鐘の音は、12月31日の大みそか、午後7時半から、年明け午前1時にかけて放送される、「おだがいさまFM」の年越し特番の中で届けられます。

全国各地、離れ離れになって避難生活を続ける町民の、心をつなぐ鐘の音、郡山市内では、通常のラジオで聞くことができるほか、インターネットのサイマル放送でも聴取可能です。

「おだがいさまFM」オフィシャルサイト

2014年12月29日

12月25日 みんなで伝える富岡キッズステーション(2)

今日も福島から、子どもたちがつくるラジオ番組の話題です。

原発事故の影響で「全町民避難」が続く、福島県富岡町。臨時災害FM「おだがいさまFM」も郡山市から放送を続けています。

「みんなで伝える富岡キッズステーション」は、そんな富岡の小学校5年生がつくるラジオ番組です。自分たちで番組の企画、取材、そしてパーソナリティをこなす活躍ぶり。地域のお年寄りに取材する「富岡今昔物語」というコーナーは、番組のメインコンテンツです。
子どもたちの番組づくりをサポートしているのは、「おだがいさまFM」の久保田彩乃さんです。

◆富岡今昔物語
仮設のおじいちゃん、おばあちゃんも子どもたちのことが孫のように可愛いみたいで、わたしたちFMスタッフがマイクを向けると「いやあいいよ、おれは恥ずかしい」と断られるのに、子どもたちが聴くと喜んで答えてくれる。だからおじいちゃん、おばあちゃんにとっても久し振りの感覚だったのかなという印象。で、子どもたちの声はやっぱりいいよね、と。「おだがいさまFM」でも大人の声がほとんど。そこに子どもたちの声が入ると、安心する、よかった!という声が多い。かつての冨岡には小学校が二つあって、近所の人達がこういうことをやっているとか、子どもの登下校の声が聞こえるという当たり前の環境があった。いまは子どもたちの声がふと聞こえる、という環境がほとんどない。特に仮設に暮らしている方には。なので、ラジオを通してでも、子どもたちの声が伝えられるのはすごく喜んでもらえているのかな、とわたしも感じています。


福島県富岡町の小学生がつくるラジオ番組「みんなで伝える富岡キッズステーション」。ツバサ君、コウシ君、サクラちゃん、3人が作ったラジオ番組。
震災前、富岡には第一第二小学校あわせて、およそ900人の児童がいましたが、それが現在は23人になってしまっています。そんな中で、子どもたちの声は、地域の人達の「希望」につながっています。

また、「みんなで伝える富岡キッズステーション」は三学期に第三弾をつくる予定で、すでに準備を進めているそう・・次回の放送にも期待したいですね!

富岡町の「おだがいさまFM」は、インターネットのサイマル放送で、全国各地で暮らす町民も聞くことができます。故郷を離れて暮らす町の方にとっては、貴重な情報源になっています。

富岡町「おだがいさまFM」

2014年12月29日

12月24日 みんなで伝える富岡キッズステーション(1)

今日は福島から、子どもたちがつくるラジオ番組の話題です。

原発事故の影響で「全町民避難」が続く、福島県富岡町。富岡の臨時災害FM「おだがいさまFM」も、郡山市の仮設住宅にある「おだがいさまセンター」から放送を続けています。
そんな「おだがいさまFM」の「みんなで伝える富岡キッズステーション」は富岡の小学校5年生がつくるラジオ番組。8月にご紹介しましたが、今回はその第二弾が届きました!子どもたちの番組づくりをサポートしているのは、「おだがいさまFM」の久保田彩乃さんです。

◆「みんなで伝える富岡キッズステーション vol.2」!
富岡町は現在原発事故からの避難で、町民が全国でちりぢりばらばらに暮らしている。その中で学校昨日は福島県三春町に集まっている。幼稚園、富岡第一/第二小学校、第一/中学校が、三春町の工場跡地の中に、ぎゅっと詰まっている状態。なので、子どもたちが思ったこと、言いたいことを、「おだがいさまFM」を使って全国の冨岡町民に発信できる番組ができるといいなと思って、校長先生に相談し、番組づくりが始まった。その後、番組名も企画内容も子どもたちが先生と相談して、自分達で自由にやってくれたので、わたしは子どもたちの自由な感じを出せればいいなと思ってやっている。クラスは4人いて、今回は3人参加。女の子一人、男の子二人。女の子が長身で男の子は小柄。それぞれ個性があって、女の子はアニメが大好き。しっかりしたサクラちゃん。もうひとりコウシ君は3人の中で落ち着いていて、静かで勉強がすきな感じの子。元素が好きで最近「菌」にはまっている。ツバサ君はやんちゃで妖怪ウォッチやポケモンが好き。この子の喋り方が、非常に大人に響くものがあって、ちょっとたどたどしい喋り方ではあるが、大人にとっては心地がよくて、孫のようで、いつまでも聞いていたいという気持ちになるみたい。


富岡町の「おだがいさまFM」は、インターネットのサイマル放送で、全国各地で暮らす町民も聞くことができます。故郷を離れて暮らす町の方にとっては、貴重な情報源になっています。

富岡町「おだがいさまFM」

2014年12月23日

12月23日 今も続いている、津波と捜索と、原発事故(6)

福島県南相馬市の上野敬幸さんの自宅は、南相馬市の原町区萱浜という場所にあります。福島第一原発からは22キロ。海沿いの地区です。
上野さんは、震災の津波で、ご両親と長女の永吏可ちゃん、そして、長男の倖太郎君を津波で失いました。お父さんと倖太郎くんはいまだに行方がわからないまま。地元の消防団や、ボランティアの皆さん「福興浜団」のメンバーと一緒に、自分たちの手で今も捜索活動を続けています。

上野さんら福興浜団メンバーは、震災があった2011年から、この季節になると自宅の前に、大がかりな「クリスマス・イルミネーション」を設置しています。「明かりがなくなってしまった沿岸部に少しでも明かりを灯したい。」そんな想いで始めました。


◆「ありがとう」を伝えていない。すごく後悔している
イルミネーション、あれ僕の自宅の前なんですが、震災の年は「ありがとう」と描いた。「ありがとう」というのは、捜索を手伝ってくれている人へのありがとうではなく、震災で亡くなった方へのありがとう。
当時僕も、息子としてはあまりいい息子ではなく、両親にも一言も「ありがとう」を言ったことがなかったので、それをすごく後悔している。息子と娘に対しても同じ。いま生きている人達も、後悔をなくすことはできないけれど、減らすことはできると思うようになって、「ありがとう」という親に対する感謝の気持ちや、奥さんやあ旦那さんや子どもや友達に、僕も木村さんも、家族が生きているのが当時当たり前と思っていたけど、生きているのが当たり前という生活を、ちょっと目線を変えたら、「もしかしたら」ということが誰にでも起こり得る。後悔を減らす努力をしてほしい。明日やればいいじゃなくて、今日ありがとうと言おうとか、子どもに対してもそう。そういうことをやってもらえればなあと考えている。


上野さんの自宅前のイルミネーションには、ツリーやエンジェル、そして「ありがとう」などの文字が描きだされていました。
そして今年のテーマが「笑顔」。笑顔をかたどった顔文字も、萱浜の夜を明るく照らしています。

◆上から心配している人たちに「笑顔」を届けたい
笑顔にこだわるようになった。その笑顔というのも、亡くなった人たちが、上から心配して見ているんじゃないかなと。子どもたちが「パパ大丈夫かな」と心配して見ているんじゃないかなと。それで「安心してください」という気持ちで、今年も笑顔でいっぱいにこちゃんマークをつくりながらやった。
集まった人が亡くなった人の話になるなかで、涙しかなかったところに、いろんな迷路をつくったりして、子供達が集まって笑っている姿があって、すごくいいなと。涙からなかったところが笑顔に。菜の花の時でも花火のときでも、そういう時を少しでも増やして。灯りが亡くなった沿岸地区に少しでも笑顔が戻れば、という気持ち。



上野さんを支えるボランティア団体「福興浜団」では、毎週末、土・日と土日につながる祝日に捜索活動を行っています。
南相馬の「道の駅」に9時に集合すれば、そのままメンバーとともに活動に参加できます。

「福興浜団」フェイスブックページ

2014年12月23日

12月22日 今も続いている、津波と捜索と、原発事故(5)

福島県南相馬市の上野敬幸さんの自宅は、南相馬市の原町区萱浜という場所にあります。福島第一原発からは22キロ。海沿いの地区です。
上野さんは、震災の津波で、ご両親と長女の永吏可ちゃん、そして、長男の倖太郎君を津波で失いました。お父さんと倖太郎くんはいまだに行方がわからないまま。
地元の消防団や、ボランティアの皆さん「福興浜団」のメンバーと一緒に、自分たちの手で今も捜索活動を続けています。

南相馬市では、2015年度までに、11カ所350戸の「災害公営住宅」の建設を予定しています。上野さんの住む原町区にも220戸を建設予定です。
けれども上野さんは、海のすぐ目の前の、もとあった場所の隣に自宅を再建することを選択しました。

◆また一つ屋根の下に暮らしたかった
いま映っているのが僕の自宅。この隣に新しい家を建てた。ここを離れる気は全くなくて、家族で暮らし場所に帰るんだと思っていたので、自分のなかでは当たり前のことだった。だけど行政のほうではここは危険区域。津波でまわりが全部なくなって、僕の家は全壊扱いで、家は建ててはだめですよ、という地区に指定されていた。行政と半年ぐらい話をしているなかで、市のほうもいろいろ考えるようになって、建てていいよということになった。新しい家の引き渡しは去年の3月だったが、去年の3月は亡くなった家族の3回忌のタイミング。そのときは僕もまだ仮設だったので、親父と長男は見つかっていなかったが、お葬式をした。母と長女と4人のお葬式。それ(お骨など)を狭い仮設には持っていくことができなかったので、お寺さんに預かってもらっていたので、新しい家で一緒に生活したいという気持ちがあった。3回忌には家族が一つの屋根の下に戻るんだと思っていたので、3月には間に合わせてもらって、亡くなった家族4人と自分と嫁さんと新しく生まれた娘と家族みんなで、戻った。
亡くなった人達を安心させて、恥ずかしくないように、という気持ちがどちらかというと強いです。



上野さんを支えるボランティア団体「福興浜団」では、毎週末、土・日と土日につながる祝日に捜索活動を行っています。
南相馬の「道の駅」に9時に集合すれば、そのままメンバーとともに活動に参加できます。

「福興浜団」フェイスブックページ

2014年12月23日

12月19日 サポートアワーキッズのシンポジウム「リユニオン」

今朝は、復興を担う被災地の子どもたちの、自立支援に取り組む団体「サポートアワーキッズ」の活動を紹介します。

サポートアワーキッズは、2011年から被災地の子どもたちを海外語学留学に派遣。すでに200人を超す子どもたちが海外を経験しています。帰国後の子どもたちの次のステップが『ハバタキプロジェクト』。子どもたちが、今度は“支援する立場になる”ため、自ら復興のアイデアを企画する動きです。

お話伺ったのは、ハバタキプロジェクトのメンバー、奥山瑠捺(るな)さん。仙台市泉区にある自宅は地震で半壊、いまも修理が必要な状態です。まず、奥山さんにとって、海外での体験はどんなものだったのか伺いました。

◆海外の体験が変えてくれた
アメリカに行きました。現地の学校に行ったりホームステイしました。震災についてのプレゼンテーションをしたんですが、あっちで報道されていることと私たちが伝えていることが結構大きく違ったみたいで、聞いていた方々から、「こんな壮絶な経験をして、でもここに来て話してくれていることにすごく感謝します」と涙を流しながらおっしゃって下さった。それはすごく良かったと思っています。積極的になったということと、なんでもチャレンジするようになったのが、自分の中で変わったことだと思っています。


これが2年前のこと。来年春には大学生になる奥山さんは、今ではハバタキプロジェクトの中心メンバーに成長しています。あさって21日(日)に開かれるプロジェクトのイベントでは実行委員も務めるんです。

◆海外を経て、復興のために
12月21日に東北福祉大学のケヤキホールで、サポートアワーキッズで海外派遣された子どもたちが、「HABATAKIプロジェクトで復興のためにやりたいこと、できること」というテーマで、シンポジウムや、今年海外に行った子たちが海外の経験を発表する機会を設けています。HABATAKIプロジェクトは元々8つのプロジェクトがありました。例えば「ワールドグッズプロジェクト」というプロジェクトは、防災グッズを作って販売することを目標に。「HABATAKI村」を作って国際交流や避難所になる場所を作ろうというグループもありました。8つあったグループを一つのグループにする方向転換をしてました。色々プランはあるので海外へ行きたいと思っている子だけじゃなく、色んな人と話す機会があるので、震災について考えていることがある人、自分の意見を発信したい同世代の人に、多くの意見が飛び交う機会になると思うので、明日来て頂けたらすごく嬉しいです。



ちなみに奥山さんが関わったグループは、震災の影響で、離ればなれになった中学生たちが再会できるイベントを企画しています。

そして奥山さん、これからもハバタキプロジェクトを続けるため、大学は宮城県内にこだわったんだそうです。来年の春からは、この活動とともに、大学の勉強にも励むことになります。

◆教育で子どもたちの力になりたい
私自身は教育に興味があって、被災した子どもたちの心のケアを遣って行きたい。多くの子どもたちが色んな目標、将来の夢を持つことが大切だと考えていて、一緒にそれを作るきっかけ作りができる先生になりたい。それを発展させて、復興に終わりは無いが、多くの子どもたちが元気になったら、海外の発展途上国などで子どもたちの支援をしたいと考えています。


ハバタキプロジェクトのメンバーが集まる、年に一度のシンポジウム「REUNION・翔(はばたき)」は、東北福祉大学・けやきホールを開場に、12月21日(日)午後1時から行われます。
一般の方も参加可能。子どもたちの東北復興へ向けた活動報告、クリスマスライブなども行われます。大人から子どもまで、誰でも参加可能だということです。

詳しくは、こちらをチェックして見て下さい↓
サポートアワーキッズHP

2014年12月19日

12月18日 今も続いている、津波と捜索と、原発事故(4)

先日行われた対談「3.11は続いている・津波と捜索と原発事故」。
対談のスピーカーは、福島県大熊町出身の木村紀夫さんと、 南相馬市の上野敬幸さん。 木村さんは、避難先の長野県から月1〜2回、故郷に足を運んで、行方不明の次女、汐凪ちゃんを、一方上野さんは、父親と長男の倖太郎君を、いまも探し続けています。

震災からまもなく4年。2人はそれぞれ、新たな状況に直面しています。国は、木村さんの故郷大熊町に「中間貯蔵施設」を建設する方針を明らかにしました。今週、大熊町の渡辺利綱町長も、町として、施設の建設を容認する考えを表明しています。

◆唯一、家族と繋がれる場所
自分の自宅が国の買い取りの対象になっている。先日その説明会に行ってきた。わたし自身は売る気も貸す気もない。そこを人にやるということ自体、ちょっと考えられない。あそこが(震災で犠牲になった)3人の家族と繋がれる唯一の場所。説明会のときにそう宣言したら、環境庁の方が「ハンコをもらうまで通います」と言った。強制執行はしないと言っているが、半ば強制執行のようなもの。もうちょっと、それぞれの事情に配慮してほしいと思うが、非常に冷たく、そこには非常に憤りを感じる。


 一方、上野さんが住む南相馬市では、復興街づくりに向けた工事が進んでいます。

◆足の速いひとは、足のゆっくりな人を待ってあげることができれば。
復旧復興という名のもとにいろんな計画が進んでいる。防潮堤、防波堤、テトラポットなどの工事が進んでいるのは、僕も大事なことだと思っている。だが、今年の初め、テトラポットが震災による津波で全部流されてしまったところが、少しずつ置かれるようになったのを見たときに、長男はもう見つからないんじゃないか、という気持ちになった。テトラポットの間を歩いていても、動物の骨が見つかったりするので、行方不明者がいまでも見つかる可能性はゼロではないと思いながら、自分の中では探しつづけようと思っている。
ただ、なんでも急がされる。防波堤であったり、僕のところは農地の基盤整備が進むなかで、みんな立場が違う。家だけが流された人、家も家族も無事で農地だけ津波で被害を受けた人など。そういう人達をみんな一緒くたにやらなきゃいけない。
復興がすすむスピードは人それぞれ違う。足の速いひと、ゆっくりのひと。なんでも早く進めたがるのはわかるが、そこは優しくない。僕の近所でもなくなった人がたくさんいて、そんな中で全然前を向くことができない人もいる。そういう人を見ていると、足の速いひとは、足のゆっくりな人を待ってあげることができれば。自分ができることはなにかなと、最近考える。


2014年12月17日

12月17日 今も続いている、津波と捜索と、原発事故(3)

先日行われた対談「3.11は続いている・津波と捜索と原発事故」。
対談のスピーカーは、福島県大熊町出身の木村紀夫さんと、 南相馬市の上野敬幸さん。お二人はともに、東日本大震災の津波で行方不明となったご家族を、いまも探し続けています。

木村さんは、避難先の長野県から月1〜2回、故郷に足を運んで、行方不明の次女、汐凪(ゆうな)ちゃんを探しています。一方上野さんは、父親と長男の倖太郎(こうたろう)君を、いまも探し続けています。

木村さんの故郷大熊町は、原発から20キロ圏内。町の9割以上が「帰宅困難区域」に指定され、捜索もままなりません。放射性物質による汚染を防ぐため、捜索の際には防護服を着用。捜索ボランティアに負担をかけることを、木村さんは心苦しく思っているといいます。

そんな木村さんの捜索を支えているのが、上野さんら「福興浜団」の皆さんです。
   
◆自分の手で探すことができない
(木村さん)手伝ってほしいし、一緒に(捜索に)入りたい。いまもボランティアの方には本当に申し訳ないが、捜索に入って手作業で探すというのは、一生かかっても終わらない。そんな中で防護服を着て作業してもらっているのは、自分としては心苦しいんだけど、その都度見つかる流出物があるし、遺骨についても去年ほかの地区で見つかっている。
(上野さん)南相馬でも公表されていないが5体見つかった。ガレキ置き場じゃないところじゃないところで見つかった
(木村さん)一回自衛隊が全部見て、きれいに片づけてくれたわけだけど、やはりどこか見落としているところもあると思うので、それを思うとやっぱり捜索しないということは考えられない。それだけに、(中間貯蔵施設の建設で)捜索ができなくなるということは許せないこと。
(上野さん)僕は20キロ圏外ということで、自分の手で探すことができたので、永吏可(えりか)のことも抱きしめることができたし、お袋や永吏可の火葬に立ち会うこともできた。捜索に関して国の助けが遅れた地区ではあるが、自分の手で探すことができたというのは、すごく大きいと思う。
一方、20キロという線をひかれて、自分の手で探すことができなかった人がたくさんいる。うちの嫁さんも当時妊娠していたので、お袋や永吏可の顔をほとんど見ることなく避難してしまった。火葬にも立ち会うこともできずに。そういう人達の気持ちがすごくわかるので、自分は自分の手で探すことができたが幸せだと思っている。
その中で、ずっと待つ生活というのがどれだけつらいのか。家族が行方不明のまま、避難所でただ待つ生活。そういった部分で、木村さんに会ったときに、できる範囲でなんでもやろうというふうに思った。家族を探すことに対して、木村さんがそういう(ボランティアの人達にリスクを追わせて悪いなあというような)想いを持たなきゃいけないこと自体、世の中がおかしいと思う。初めて木村さんと捜索に入ったとき、すごく怒りを震えた記憶がある。
自分の娘を探したいなんて、親として当たり前のこと。僕も同じ。そういう人が、他の人に気を使ってしまう状態が本当に許せない。そういう世の中や国に怒りを覚えた。



大熊町の渡辺利綱町長は12月15日、町として「中間貯蔵施設」の建設を容認する考えを表明しました。これに対し、施設建設のために土地が国に買い上げれると、自由に立ち入ったり、捜索することができなくなると、木村さんは危惧しています。

「福興浜団」フェイスブックページ
木村さんが長野県で展開するワークショップ「深山の雪(みやまのゆき)」

2014年12月17日

12月16日 今も続いている、津波と捜索と、原発事故(2)

先日行われた対談「3.11は続いている・津波と捜索と原発事故」。
対談のスピーカーは、福島県大熊町出身の木村紀夫さんと、 南相馬市の上野敬幸さん。お二人はともに、東日本大震災の津波で行方不明となったご家族を、いまも探し続けています。

上野さんの自宅は、南相馬市の「萱浜(かいはま)」という地区にあります。福島第一原発からは22キロ。海沿いの地区です。

◆自分の手で探す
3月11日は仕事をしていたが、どうしても家が心配だったので、一度自宅に戻った。親父とおふくろと長男が家にいて、学校に避難すると。お姉ちゃんが通っていた学校が避難所になるということで、地元の消防の活動で避難などしているうちに、津波が来た。
他に流されている人達がいたので、その人達を助けていた。夕方になり、状況があまりにもひどかったので、子どもたちの顔を見て安心したいなと思い、避難所になっている学校にいったら、いないと。
当時嫁さんが病院で仕事をしていたので嫁さんを迎えに病院に行って、嫁さんを避難所に置いて、懐中電灯を持って海辺を捜索した。暗闇の中、発見はできなかったが、次の日からは地元の人と、行方不明の人がたくさんいたので、捜索にあたった。原発の爆発で皆が避難することになって、僕たちも萱浜には僕ひとりになったこともある。自分ひとりで歩いていて、それでも若い子たちが僕が残っているので、避難先から戻ってくる。10人くらい戻ってきて、地区での僕等だけの捜索というのが続いて、自分たちだけで40人くらいは見つけたと思う。
そんな中で3月終わりごろ、初めて海を見に行った。それまで陸地の捜索で精一杯で、海にまで目がいかなかった。初めて萱浜の海に行って(行方不明者を)7人見つけた。それは僕らのところは自分たちの目でみることができたので、7人発見できたと思う。木村さんのところもそう。原発から半径20〜40キロにも同じようにたくさんの人が揚げられていたのではと思う。
自衛隊が僕らのところに捜索に来たのは4月20日ぐらい。自衛隊が来て捜索は終わるんだ、これでみんな見つかるんだと思った。(行方不明の)親父と長男もみつかる、地区の人達もみんな見つかると思ったが、自衛隊の捜索で見つかったのは2名だけだった。GWには自衛隊もいなくなって、また自分達だけの捜索となった。重機も自分達で買って、それがいまも続いている状態。



上野さんは、ご両親と当時小学校2年生だった長女の永吏可(えりか)ちゃん、そして幼稚園入園を控えていた、長男の倖太郎君を津波で亡くしました。お父さんと倖太郎くんはいまだに行方がわからないまま。地元の団体「福興浜団」のメンバーやボランティアの皆さんと一緒に、いまも捜索活動を続けています。

「福興浜団」フェイスブックページ

2014年12月17日

12月15日 今も続いている、津波と捜索と、原発事故(1)

先日行われた対談、「3.11は続いている 津波と捜索と、原発事故」。
この対談のスピーカーは、福島県大熊町出身の木村紀夫さんと、南相馬市の上野敬幸さん。ともに、津波で行方不明のご家族を探し続けています。

木村さんの自宅は福島第一原発から3キロ地点。震災当時、木村さんは大熊町の隣町、富岡の養豚場で仕事をしていました。大きな揺れに襲われ、家族のことが頭にありましたが、夕方までは職場で仕事を続けたといいます。

◆あの時入っていれば
ラジオから3メートルの津波がくるという知らせがあった。3メートルなら、自分の自宅は海岸から100メートルぐらいで、海抜5〜6メートルぐらいだから、自宅は大丈夫だろうと後回しにしてしまった。残念ならが津波は3メートルどころではなく、自宅は全く流されてしまって、帰ったときにはなにもない、という状態だった。
それでも、家は流されたけど、家族が無事ならいいと、あまり暗い気持ちではなかった。とこが避難所に行って母から、父親と妻と次女が見当たらないということを聞いて、そこで焦って、最初は避難所とか病院とかを探して回ったが、結局いなくて、暗い中自宅周辺の海岸などを探して歩いたが、結局見つからず。次の日の朝7時ごろ、原発の様子がおかしい、避難しろ、生きているもののほうが大事と言われ、本当に後ろ髪をひかれる思いだったが、長女と母を連れて、妻の実家の岡山に向かった。どうしても心にひっかかっている。あのとき(地震の直後に捜索に)入っていればと。
その後ずっと安置所などを回った。父親が4月29日無人のヘリコプターで発見された。自宅の前100メートルぐらいの田んぼの中で倒れているのが見つかった。服も脱げず、非常にきれいな状態で横たわっていた。妻は4月10日に自宅から40キロぐらい南のいわき市の海上でみつかった。DNA判定で、6月1日に妻だと判定された。
次女の夕凪(ゆうな)は全く手がかりがなく、5月19日から自衛隊がわたしの部落の捜索に入ってくれたが、見つからなかった。自衛隊が捜索してくれたとはいえ、どうしても納得できず、なんとか自分で探すことはできないか町と話をして、ときどき一時帰宅をしながら、自分で探し続けてきた。
長女と長野県白馬で暮らしつつなので、福島に足を運ぶ機会も月に1〜2回ぐらいで、なかなか十分な捜索ができないでいる。


木村さんは津波で父・王太朗さんと妻の深雪さんを亡くし、次女の汐凪(ゆうな)ちゃんは、いまだに行方がわからないまま。震災直後、原発事故からの避難で十分な捜索ができなかったのが本当に悔しいと話しています。
現在は、長女と二人、長野県白馬村に移り住み、いまも月1〜2回、大熊町に足を運んで次女汐凪ちゃんの捜索を続けています。

2014年12月10日

12月11日 被災地に年賀状を届けるプロジェクト「元気メール」(4)

阪神淡路大震災のときに始まった「元気メール」。
被災地の仮設住宅で暮らすお年寄りに励ましの手紙を贈るプロジェクトです。

活動の中心は、神戸のNGO「アセック」の理事長、瓜谷幸孝さん。東日本大震災以降は、毎年お正月に、東北の住宅に年賀状を直接手渡しています。

瓜谷さんは、阪神淡路大震災のとき、福島県相馬郡の女性から届いた一通の「手紙」を、ずっと大切に保管してきました。

『神戸の皆様へ

突然ラジオから流れてきた深夜放送で、震災にあわれた方々への元気メールのことを知り、ペンをとりました。

私は今、福島に住んでいます。テレビで神戸の震災のニュースを見ましたが、身体を患い、ほとんど外出できません。ボランティアに参加できず、悲しい思いでした。
メディアから流れてくる、復興へとがんばっている人たちは、本当にすばらしいと思っています。ですがその一方、まだ仮設住宅でこの寒い冬を何度も過ごしてきた 一人暮らしのお年寄りもいらっしゃるのを知り、私には何も出来ない自分が悔しいです。

何をつづったらいいのかわかりませんが、どうか希望を見いだしてください。小さなことでもいいから。

もし悲しい時、やりきれない時がきたら、私に吐き出してください。はげますことしか今の私にはできません。私も早く外で自分の足であるけるようがんばります。

寒くなるのはこれからですね。体に気をつけて、風邪などひかないように。』



瓜谷さんがこの手紙をもらったときは、神戸の震災から1年目を迎えるときで、瓜谷さん自身も被災し、ボランティア活動に疲れ果てていた時期。この手紙を何度も読み返しては涙していたといいます。

その後、この手紙を仮設住宅に住むお年寄りに朗読するようになり、お年寄りから、「観音様みたいやなぁ」「元気が出てくるわぁ」と喜ばれ、 元気の出る手紙から「元気メール」と呼ばれるようになったそうです。

☆★☆★

アセックでは今年も東北の仮設住宅へ贈る「元気メール・年賀状」を募集しています。

宛名は「被災された方へ」としてください。内容は季節の言葉や、自分の趣味や日常のことなどなんでもOK。被災された方への気持ちを込めて、綴ってほしいということ。
また書かれた方のお名前と、年齢、住所もお書き添えください。

年賀状は、封筒に入れて、アセックの事務局あてに送ってください。
瓜谷さんたちアセックのメンバーが、来年の正月、宮城、福島の仮設住宅に直接届けます。

<送り先>
〒655−0046
神戸市垂水区舞子台8丁目16番16−604
NPO「アセック」宛

締切は、12月27日。
詳しいお問い合わせはアセックまで。
お問い合わせ
TEL&FAX 078−798−6764
携帯 090−6735−4253

また今回の宮城、福島、長野に行く交通費・宿泊費等のカンパ支援もお願いしています。今回は瓜谷さんはじめ、不登校の中・高校生を連れて直接手渡すということです。

<カンパ支援について>
郵便振替
口座番号:01190−6−15837
口座名 :アセック
□摘要 :元気メール年賀状 活動支援

2014年12月10日

12月10日 被災地に年賀状を届けるプロジェクト「元気メール」(3)

阪神淡路大震災のときに始まった「元気メール」。
被災地の仮設住宅で暮らすお年寄りに励ましの手紙を贈るプロジェクトです。

活動の中心は、神戸のNGO「アセック」の理事長、瓜谷幸孝さん。東日本大震災以降は、毎年正月に東北の住宅に年賀状を直接手渡しています。

昨年のお正月には、福島県の相馬にも足を運びました。そこで、17年の時を超えた「不思議な出会い」があったそうです。

◆福島から神戸、再び福島へ
去年は福島県のほうにも回った。福島からは阪神淡路大震災のとき、わたしに「元気メール」を送ってくれた方がいた。この方は自宅で寝たきりで、「遠く離れていても、手紙一枚はがき一枚で被災者を励ますことができるのなら」ということで「元気メール」を送ってきてくれていた。
わたしはその住所を訪ねて、彼女のところを訪ねていった。出てきたのがお父さんで「この字はうちの娘です」と言われて、一時間ぐらいすると本人が帰ってきて、「今度はあなたがこれを読む番です」ということで、彼女にオリジナルの手紙を手渡した。
なんでこの手紙をもらってから17年持ち続けていたのかと考えたら、自分は阪神淡路の震災のときいろんな仮設にお邪魔したときに、彼女の手紙を朗読していた。この手紙に書かれている文章の中で「自分は家で寝たきりだけど、いろんなつらいこと、やりきれないことがあったらわたしに全部吐き出してください。励ますことしかいまのわたしにはできません」と書いてあって、「元気メール」の原点は全部この手紙にあると思った。それは、自分のことより相手を思いやるということ。彼女は、自分も寝たきりなのに、会ったこともない、仮設住宅で一人で暮らすお年寄りのために手紙を書いてきてくれた。仮設住宅でこの手紙を読んだら、お年寄りからすすり泣きが聞こえてきた。「あったかいなあ、なんの縁故もないのにわたしたちを心配してくれてる。わたしが返事を書きます」と今度は仮設のお年寄りが元気メールに参加してくれた。こうして、元気メールはいろんな神戸中の仮設住宅に広がっていった。


17年前に瓜谷さんが受け取った「元気メール」は、達筆な縦書きの文面。文章もとても上手だったので、瓜谷さんは、手紙の差出人はてっきり高齢の女性だと思ったそうです。

◆元気メールの原点がこの手紙にあった
こんな手紙がかけるんだから、年配の女性なのかと思っていたが案外若い人だった。手紙を書いたときは10代後半だったらしい。小学校のときにいじめられて不登校になって、当時引きこもっていたらしい。
彼女のお父さんお母さんは、この手紙を見て「娘がこんな手紙を出していたんですね」と涙ぐんでいた。わたしは「この手紙でたくさんのお年寄りが元気もらったんですよ」と言った。手紙を渡したあと、2〜3日でお礼の手紙がきた。「先日はわざわざ福島まで来てもらってありがとうございます。今度は自分が被災者になって、元気メールをもらう側になった」と。元気メールを通してこんなつながりができるのは不思議。


阪神淡路大震災のとき10代後半だった女性は、いまでは30代。一児の母になっていたということです。

東北から神戸に送った元気メールが、17年の時を経て、再び本人の手元に届けられました。瓜谷さんが相馬を訪問したのち、女性から瓜谷さんのところにお礼の手紙が届きました。

『3.11の震災で、今度は自分が被災者になるとは、あの時 考えてもいませんでした。

震災では、多くの人が、大切な人や大切なものを失くしました。私の心の中にも怒りに似た悲しみが残っております。

そんな中、瓜谷さんが私を探して訪れてきて下さったことは、大きな救いになりました。あの手紙を大切にして下さったことはもちろん、皆様に届けて頂いた瓜谷さんの優しさに感謝し、悲しみを、生きる力にかえていきたいと思います。』


☆★☆★

アセックでは今、来年のお正月に東北に届ける「年賀状」を募集しています。
このプロジェクトに参加したい!東北の被災地に年賀状を送りたい!という方は、年賀状を書いてそれを封筒に入れ、アセックの事務局あてに送ってください。

宛名は「被災された方へ」。書かれた方のお名前と、年齢、住所もお書き添えください。

<送り先>
〒655−0046
神戸市垂水区舞子台8丁目16番16−604
NPO「アセック」宛

締切は、12月27日。
詳しいお問い合わせはアセックまで。
お問い合わせ
TEL&FAX 078−798−6764
携帯 090−6735−4253

また今回の宮城、福島、長野に行く交通費・宿泊費等のカンパ支援もお願いしています。今回は瓜谷さんはじめ、不登校の中・高校生を連れて直接手渡すということです。

<カンパ支援について>
郵便振替
口座番号:01190−6−15837
口座名 :アセック
□摘要 :元気メール年賀状 活動支援

2014年12月9日

12月9日 被災地に年賀状を届けるプロジェクト「元気メール」(2)

今週は、東北の仮設住宅に年賀状を届けるプロジェクト「元気メール」です。

活動の中心となっているのは、神戸のNGO「アセック」の理事長、瓜谷幸孝さんです。始まりは、阪神淡路大震災のとき。国内外から届いた手紙は3万通を超えました。

東日本大震災以降は、東北の仮設住宅に送る「元気メール」を募集。毎年お正月に、瓜谷さんらが東北に足を運んで、仮設住宅のお年寄りに、年賀状を直接手渡しています。
「元気メール」をきっかけに、送る人と送られた人の間で交流が始まることもあると言います。

◆手紙だけではない、心の交流が始まる
「元気メール」がなぜこんなに長く続いているかというと、子どもたちは最初は手紙でお年寄りを励ますが、次第に親や友達、先生に言えない悩みを(文通相手の)お年寄りに相談するようになる。
いま困っていることやつらいことなど。すると仮設のおじいちゃん、おばあちゃんは時間がたくさんあるから、子供たちが悩んでいることに対して一生懸命返事を書く。そこに家族愛のような絆ができる。
今回は、神戸や岡山のひきこもりの子供達に年賀状を書いてもらおうと思っている。そして一緒に東北の仮設に行って自分が書いた元気メールの年賀状をじかに、おじいちゃんおばあちゃんに手渡してもらいたいと思っている。宮城なり福島なりに自分で行って、お年寄りが頑張っている姿を自分でみると、ボランティアはしているほうが実はされている、ということに気が付くと思う。自分は一生懸命仮設のお年寄りを励まそうと行く。ところが、元気なおじいちゃんやおばあちゃんががんばっている姿に、自分が励まされる。だから足を運んで、現場行って、手紙を手渡して、帰ってきたときに、喜んでくれた「ありがとう」の一言がずっと耳の中に残るだろう。子どもたちから悩みを相談されることによって、お年寄りは自分の生きがいにする。自分を頼りにしてくれる子どもがこの世にいるということが自分の支えになる。


アセックでは今年も「元気メール・年賀状」を募集しています。このプロジェクトに参加したい!東北の被災地に年賀状に送りたい!という方は、年賀状にはどんなことを書いたらいいんでしょうか。

◆元気メールの書き方
「元気メール」は自分が思ったことを書けばいい。東日本大震災で災害を受けた人は仮設住宅での生活が4年目になるが、3年間または4年間苦しい生活をしてきた人たちがどんなことを書いたら元気になるか、希望を持てるか、自分で考えてほしい。
漫画を好きな子なら漫画を描いてもいい。思いがこもっていれば、どういうことを書いてもその人の気持ちが相手に伝わると思う。こういうことを書けという決まった定番はない。自分で相手を思いやって書いてくれたらいい。2行でも3行でもいい。絵の得意な人は絵を描いたらいい。自分はサッカーが好きですとか、趣味のことを書いてもいい。相手のことを聞いてもいいし、それぞれ、こんなこと書いたら(被災地の方が)元気や勇気がでるんじゃないかと、自分で考えるのも楽しいんじゃないか。
宛名は「被災された方へ」と書いてほしい。ランダムに配っていくので、どの方の手に届くかわからない。おじちゃん、おばあちゃんかもしれないし、子どもに届くかもしれない。だから宛名は「被災された方へ」としてほしい。で、書いた人の名前を書いてほしい。名前を書かないで名無しの権兵衛だと、気持ちが伝わらないと思う。だからそれぞれの名前を書いてもらって、年齢とか、中学生とかを書いてくれてもいい。もらった人はお礼を伝えたいと思うから、できたら名前と住所を書いてもらうといいと思う。


☆★☆★

アセックでは今、来年のお正月に東北に届ける「年賀状」を募集しています。
このプロジェクトに参加したい!東北の被災地に年賀状を送りたい!という方は、年賀状を書いてそれを封筒に入れ、アセックの事務局あてに送ってください。

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また今回の宮城、福島、長野に行く交通費・宿泊費等のカンパ支援もお願いしています。今回は瓜谷さんはじめ、不登校の中・高校生を連れて直接手渡すということです。

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2014年12月8日

12月8日 被災地に年賀状を届けるプロジェクト「元気メール」(1)

今週は、東北の仮設住宅に年賀状を届けるプロジェクト「元気メール」です。
これまでもこのコーナーで何度かご紹介してきました。

活動の中心となっているのは、神戸のNGO「アセック」の理事長、瓜谷幸孝さん。阪神淡路大震災のとき、全国から「励ましの便り」を募集して、仮設住宅のお年寄りに届けたのが「元気メール」の始まりです。

東日本大震災以降は、東北に向けた「元気メール」を募集。 毎年お正月に、瓜谷さんたちアセックのメンバーが東北に足を運び、仮設住宅で暮らす方々に、年賀状を直接手渡しています。
   
◆年賀状から文通へ、そして「会いたい」に変わる
「元気メール」は阪神淡路大震災のとき、仮設住宅でお年寄りが自殺したり孤独死したりしたのがもとになっている。知らない土地で知らない人たちの間で仮設の部屋でこもりっきりになり、話し相手がいない。そういう人達に、遠く離れていても心配してますよ、という便りを届ける。それが「元気メール」。
阪神淡路大震災のとき、わたし自身自宅が全壊し2時間生き埋めになった。震災の2日目に事務所にいったところ、事務所にFAXが届いていた。わたしは国際ボランティアをやっていたから、(以前)支援した海外の人達から「困ったときに助けるのが真の友」「わたしたちはあなたたちを助ける準備があります」というメッセージを受け取った。日本全国のボランティアからも「瓜谷さん無事ですか」というメッセージが次から次へと入ってきたときに、この一枚のメッセージからわたしは生きる気力をもらった。瞬時にして、家も財産も仕事も失った無気力なわたしが、たった一通のメッセージで「頑張ろう」と思えた。だから、わたしは「元気メール」を仮設住宅の一人暮らしのお年寄りに配って、その年賀状が文通につながるような活動になればと思ってやっている。1995年の阪神淡路大震災からずっと続いている活動。
東日本大震災のあとは宮城県石巻の開成仮設住宅に通って年賀状を届けている。震災から一年目のときには「まだ震災から間もないのに」とか「喪に服している」という人もいた。家族を亡くした人もいた。でも「だから持っていくんです」とわたしは言った。神戸で経験しているから。
新しい年に誰からも便りがこない、電話一本かかってこない、誰一人仮設住宅を訪ねてくる人もいない。そんな寂しい正月が一年の始まりだったら、俺はその一年耐えられない。だから、遠く離れた小学生、中学生があなたを心配してますよ、という便りが来たときに、受け取ったお年寄りの中にはその手紙を朝から晩まで何十回も読み返すという人もいた。やっぱり寂しい。そのとき世界中の誰か、日本の誰かが一人でも自分を心配してくれる人がいたら、なんか元気や勇気が湧いてくるじゃない?自分が元気に生きていくということが、便りをくれた人への答えにもなるでしょ。で、返事を書くでしょ。便りが一回で終わらずに、文通へと続いていく。文通がつながったら、一度会いたい、となる。半年、1年文通したおじいちゃん、おばあちゃんに実際に会いたい、となって、子どもたちは電車に乗ってやってくる。


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アセックでは今、来年のお正月に東北に届ける「年賀状」を募集しています。
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また今回の宮城、福島、長野に行く交通費・宿泊費等のカンパ支援もお願いしています。今回は瓜谷さんはじめ、不登校の中・高校生を連れて直接手渡すということです。

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2014年12月4日

12月4日 登米市の「はっとフェスティバル」

今朝は、今週末に宮城県・登米市で開かれる、食のイベントご紹介します!

12月7日(日)、登米市の市役所、迫(はさま)庁舎の前の公園で開かれる、「はっと」のイベントです。



「はっと」は、登米市近隣の方なら、誰でも知っている食べ物なんですが・・・分からない方のために、登米市 商工観光課の高橋敏幸さんに教えてもらいました。

◆地元の人ならみんな知ってるご当地グルメ「はっと」
「はっと」は簡単に言えばすいとん。小麦粉を練って摘んで平らにしたもの。それを汁ものに入れて食べるのがはっと汁。登米地方を中心に江戸時代に始まったと言われている。江戸時代の年貢取立てで農民があまりお米が食べられず、かわりにはっとを食べていた。ところが、あまりに美味しかったので、はっとばかりを食べるようになり、農民が米作りをしなくなるという心配が出てきた。そこでお殿様が、小麦粉料理を「ご法度(はっと)」にして、はっとという名前がついたと言われている。



これが、はっとです。そして!今週末7日(日)、様々な「はっと」が食べられるグルメイベントが行われます。

◆はっとの美味しいメニュー大集合!
タイトルは第11回日本一はっとフェスティバル。登米市を中心に郷土料理のはっとの料理を各出店社が工夫して、色々なはっとが食べられるフェス。11回目ということで、はっと料理が認知されており、福島や山形、岩手からも40種類が出店。割り箸を投票して重さで順位を3位まで決める。去年優勝したのが、牛すじ入りモロヘイヤ塩はっと。モロヘイヤがはっとの生地に練りこんであって、ほんのりモロヘイヤの香りがするはっと。それに登米産の牛筋煮込みがトッピングしてある美味しい塩味のはっと。そのほか人気はあずきはっと、カレーはっと、海鮮はっとというところ。




あずきはっとは、要するにお汁粉。お餅のかわりに、はっと がはいってます。
カレーハットは地元の豚肉業者が開発した、文字通りカレーのはっとです。

そして、震災前から続くこのイベントは、沿岸部で被災された方も楽しみにしているそうです!

◆「はっと」するほど美味しいよ!
登米市は内陸なので倒壊家屋もそれほど被害は沿岸部に比べ少なかった。南三陸からの避難者を受け入れていた。現在も仮設住宅があり入居者もいる。そういう方もお祭りにきて楽しんでくれるので良いのではないか。11回目のはっとフェスティバル。登米地方はじめ各地方からはっと40種類。ぜひお越し頂いて、はっとビックリするようなはっと勢揃いなのでお越しください。


第11回日本一はっとフェスティバルは12月7日(日) あさ10時から午後2時まで。会場は登米市役所 迫庁舎前となっています。



登米市はそのほか、とよま町の 明治時代にタイムスリップできる町並み、そしてB1グランプリでも有名は「油麩」の料理なども楽しめます。ぜひ週末、はっとと登米市の魅力を堪能してみては?

2014年12月3日

12月3日 被災地で「働く」という選択3

岩手県山田町で、町づくりに関わる「やまだ復興応援隊」。メンバー4人はそれぞれ。元々の仕事を辞めて山田町に移住。町の復興のため、忙しい日々を送っています。



そのメンバーの一人が今年6月から参加した、服部真理(はっとり・まり)さん。彼女が東北で働く選択肢を選んだ理由は何だったのでしょうか。

◆「いたね」と言われるようになりたい
木の家など自然住宅に関する雑誌の出版社に勤務していて、田舎を取材してアウトドア系の記事を書いていたので、田舎暮らしに憧れていた。友人が宮城県山元町で津波を受け、その家のリフォームを手伝ったり、仕事やプライベートで被災地に関わることが多く、常に何かできることはないかと考えていた。震災から2年が経過して往復してボランティアをする復興支援は無理があった。ある程度の収入がもらえるなら東京にいる必要はないと思ったのがきっかけ。主な仕事としては観光と物産、エコツーリズムのツアー作りの手伝い。物産では水産加工業者の販路開拓の手伝い、山田町のブランドづくりの手伝いをしている。仕事自体が全て手探りで、求められることがとてもハードルが高いので、今までの経験をもっと活かせると思っていたが毎日撃沈している。今まで生きて来た中で生かされているのは、私が人が好きでコミュニケーション取るのが好きだということだけ。何一つ町の人のために出来ていることがないので、5年でも足りないと思う。ここに来たからには、「いたね」と町の人に言われるような存在になるまでは続けると思う。


服部さん、素直に気持ちを打ち明けてくれました。きのうお伝えした、同じメンバーの若田謙一さんも、会社員時代より収入が減ったと話していました。誰も経験したことの無い仕事。やはり大変なことも多いようです。

それでも、服部さんはこの町で働いていきたいと考えています。

◆受け入れてくれない現実もあるけど
食べ物があっている。魚を頂いたり野菜を頂いたりしている。最近の思うのは、毎日が小学生の頃の夏休みみたいな感じ。ワクワクしたりドキドキしたり悲しかったり楽しかったり、喜怒哀楽が毎日あって一日一日がとっても長くて、子どもの頃の長く感じた夏休みのように、何年もいるくらい充実している不思議な感覚がある。もし被災地の方々のために何かしたいと思っているなら、まず来てどういう状況なのかを見て頂きたい。来たら一人ぼっちのことも多いし、町の人がすぐに受け入れてくれない現実もある。その中で町の人にとって何が一番大事かを常に考えられる気持ちになった方は復興支援の仕事が向いていると思う。えいっと来てしまうのもいいかと思う。特に若い方はここで学べるものは多い。チャレンジしてほしいと思う。


「町の人がすぐに受け入れてくれない現実もある」。
復興という重要な仕事は、それなりの覚悟も必要です。でも一方で、「えいっ!」と来てしまう思い切りも必要なのかも知れません。被災地で働きたいと考えている方、参考にしてみてください。

そして、この4人が山田町で働くきっかけとなった『WORK FOR 東北』は、
来週8日(月)に東京・赤坂の日本財団ビルで、個人向け説明会を行います。
興味のある方、詳細は以下リンクから。
WORK FOR 東北 個人向け説明会

2014年12月2日

12月2日 被災地で「働く」という選択2

東北で復興のために「働く」という選択肢を選んだ方の声を、お伝えしています。

高橋 お話を伺ったのは、「やまだ復興応援隊」の、若田謙一さん。東京のコンサルティング会社を辞め、岩手県山田町の町づくりに取り組んでいる方です。

現在、「やまだ復興応援隊」は、3人が加わり4人体制。それぞれ、被災地の自治体と そこで働きたい人をマッチングするプロジェクト『WORK FOR 東北』を通じて、移住してきた方です。メンバーを増やすにあたり、何を重要視したのか、若田さんに伺いました。

◆地域とともに実現する意識
募集する側としての共通認識としては、地元の人々と一緒に実現する、育てるという意識を持っているかどうか。「私は産業を興すために商業地にこういうものを持ってきた方がいいと思います」とか「こういう事例があるので実現した方がいい、IT企業を置いた方がいいと思います」など、自分が思いつくままのアイデアをあげる人が多かったが、そういうのも大切なんだが、まずは山田町で各住民が考えていること、課題をちゃんとヒアリングして整理して、そこからやるべきことを探していきたいという想いを語ってくれた人が、今来ている3人だと思っている。どうしても外から入ってきた人は、その地域が分からずギャップが生まれなじめず帰ってしまう人も多い。
地域に入って地域の方と話ができることが重要なポイントだと思っている。最近強く感じるのは、4名に増えたので課題に対して今まで一人で悩んで資料作って説明に回っていたが、まずはみなさんにざっくり意見を聴こうということをやっている。そこで議論ができるのが楽しい。4人になったので幅広くつながりができて、それぞれが住民からの意見を持ってくるようになり、やりやすくやりがいもある。


4人の「やまだ復興応援隊」は、陸中山田駅周辺に計画されている商店街、ショッピングモールの実現に向けた業務 さらに水産加工物のブランド化、観光に関する企画などを、分担しています。様々なキャリアを持つ4人、それぞれどんな形で町づくりに関わっているのでしょうか。


◆それぞれが得意技を活かす
一人は証券の営業を長らくやっていた男性なのでフットワーク軽く色んなところにコミュニケーションを取って課題の改善策を探り提案していくことができる。課題分析・対応策に強い。女性陣は編集の仕事をしていたので、人のインタビューが得意。地域の人とコミュニケーションを取っては入り組むのが旨い。私はコンサル出身なので、そこで学んだ、上がって来た課題を分析・整理して改善方法を提案するのが得意。3つの得意技を兼ねそろえて対応している。口の悪い人もいて(笑)思っていることをぶつけてくるので、それを受け止めながら話をしていると色々と受け入れてくれる。松茸の山を持っている人が誘ってくれたり、海に船で出る人が誘ってくれたりということもある。人の良さを感じている。リアス式海岸という特徴的なところなので、海や山、川という自然環境にあふれていて、それが魅力かなと。その2つを活かして産業を考えていくべきだなと思っている時期。

        
今朝は、岩手県山田町で、新たな町づくりに取り組む「やまだ復興応援隊」の、若田謙一さんのインタビューお届けしました。

そして、この4人が山田町で働くきっかけとなった『WORK FOR 東北』は、
来週8日(月)に東京・赤坂の日本財団ビルで、個人向け説明会を行います。
興味のある方、詳細は以下リンクから。
WORK FOR 東北 個人向け説明会

明日は、やまだ復興応援隊のメンバーのおひとり、元出版社の女性のインタビューをお届けします。

2014年12月1日

12月1日 被災地で「働く」という選択

今週は、被災地支援のボランティアではなく、東北で復興のために「働く」という選択肢を選んだ方の声を、お伝えします。

お話を伺ったのは、岩手県山田町で、町役場と連携して町づくりに取り組む「やまだ復興応援隊」の、若田謙一さんです。

若田さんは現在32歳。去年6月から山田町でお仕事をされています。きっかけは何だったのでしょうか。

◆自分のスキルを活かせる場所
元々は東京で企業向けのコンサルタントをしていて、キャリア4〜5年目に東日本大震災があり、当時コンサルタントとして一通り仕事を経験して次の展開を考える時期だった。東北に足を運ばないといけないなと、週末にボランティアでいわきや陸前高田や大船渡で様子を見ている中、自分のコンサルタントとしてのコミュニケーションスキルや課題解決スキルが東北の各地域で活かせるのではないかと考えた。このまま30代を迎えて仕事を続けていくときにどういうキャリア、人生になるかと想像していた時期で身を投じて頑張ってみようというのがきっかけで東北へ飛び込んだ。


実は若田さん、「スポーツ雪合戦」が趣味で、震災前から大会を通じて岩手に行く機会も多かったそう。特別な想いも感じていたと言います。そして若田さんは山田町の人材募集に応募。 会社を辞めるにあたり、引きとめもあったそうですが、山田町へ飛び込みました。

とはいえ、町づくりという大きな仕事。まだまだ人材が必要だということで、
メンバーを追加することになったんです。

このメンバー募集に関わったのが、被災地の自治体と、東北で働きたい人・企業のマッチングをするプロジェクト『WORK FOR 東北』です。

◆“想い”だけでなく、地元の方のために動ける人材
当初は山田町のどこに商業拠点を置くかなどの計画作成をするため、住民の意見をヒアリングしていた。仮設店舗の商業者、ほかの地域で商売を続ける人など合わせて400の業者をくまなくヒアリングして、どこでどう再建するか、生活再建についてまとめる仕事をした。
この仕事は、当時所属していた水産商工課の課長と連携しながらやっていたが、そこで人材が必要に。産業振興は商業、観光、水産加工・水>産業など様々な分野から活性化に取り組まなければいけないため人を募集。山田で新しい組織を立ち上げて、4人体制で事業を進めるにあたって、WORK FOR 東北と連携して採用する人を決めていった。募集する側の共通認識としては、田舎の海辺の土地に入るのだからどういう相手でも対話できるコミュニケーション能力、適応能力が必要。復興の仕事は自己実現ではなく、そこにいる人々と一緒に何かを実現するのが大切。「復興をやりたいです」という想いも大切だが、プラスアルファ各地域での課題を冷静に分析して改善策を考えて実行することを大切にしている人、というのを念頭に募集した。

  
   

現在、若田さんは『WORK FOR 東北』を通じて集まったメンバー4人とチームを組み、山田町の町づくりに取り組んでいます。

以前に一度紹介した『WORK FOR 東北』は、被災地の自治体と、そこで働きたい人・企業をマッチングするプロジェクト。実は12月8日(月)に東京・赤坂の日本財団ビルで、個人向け説明会が行われます。東北で復興のために働きたい、と考えている方、詳細は以下をご覧ください。

WORK FOR 東北 個人向け説明会

明日も、やまだ復興応援隊 若田謙一さんのインタビューをお届けします。

パーソナリティ 鈴村健一

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