2015年1月29日

1月29日 女川駅を始発の駅に〜建築家・坂茂4

建築家・坂茂さんの被災地支援についてお伝えしています。

紙を使った建築材による避難所の間仕切り、宮城県女川町の、2階建て・3階建ての“仮設とは思えない”仮設住宅など、東北の復興支援を続けている坂さん。

実はまもまく、坂さんが手がける本格的な建築も復興のシンボルとして女川町に登場します。先日 東京都内で行われたシンポジウムで、坂さんに伺いました。

◆女川を始発駅に
(※聞き手 高橋万里恵)
〜女川では支援が今も続いていて、この春に全線復旧するJR石巻線の女川駅の駅舎も。

坂:いま建設中。津波のために盛り土をしていて、その上に作っている。女川の復興の最初の建物となる。屋根が木造で、中に「ゆぽっぽ」という温泉施設がある。温泉の上を見上げると、木造屋根から自然光が入るような設計になっている。

〜屋根を見ると、木であみあみになっていてちょっと湾曲している?

坂:その方が構造上有利。構造材料が少なくて済むんですね。

〜温泉施設が2階にあるということですが、元々女川の駅前には温泉施設があったということで、地元の方も2階に復活したらきっと楽しみでしょうね。

坂:石巻線といっても乗客数は少ないので、駅と町の温泉施設を合体させて作ろうということになった。地元の人たちもそうですし旅行客も、駅についたらすぐに温泉に入れる。そして海が見えるんですね。

〜駅を背にすると真っ直ぐ先に海が見えますよね。

坂:日本で二か所しかないらしいです、終着駅で海が見える場所は。

〜先日女川の方にインタビューしたら、駅舎ができるのが楽しみで、「終着駅ではなくここを始発駅にするんだ」と目を輝かせていて印象的でした。




この、女川駅・駅舎と、温泉の複合施設は3階建てになっていて、屋根部分は木材。木を曲げて、大きな空間を作新しい技術が取り入れられています。そして今、この施設は完成へ向けて急ピッチで建設が進んでいます。女川町建築課 内村朋之さんのお話です。

◆復興のシンボルとして
計画としては、3月を予定しているが、駅前広場をオープンする。その中心となる施設として女川駅と湯ぽっぽという温浴施設を建てる。元々、駅のとなりにゆぽっぽという温泉施設があった。それは中学校の上あたりからひいてきている。津波で流されてしまい建て替えるにあたって、温泉と駅をくっつけようという発想になった。温浴施設・駅の事務室を合築する。
女川は坂茂氏が設計した3階建ての仮設住宅を作った。そういう流れから今回の駅舎機能をシンボルとして町として、町から依頼した。3月の街びらきの時に駅前広場がキレイに舗装されて、始発の駅がオープン、初めての電車が来る予定。いろんな方に来て頂いて、女川町の復興シンボルとして色んな人が訪れて町が活性化すればすごくうれしいと思っている。

                 


この女川駅・駅舎と温泉の複合施設は、駅から真っ直ぐ海までプロムナードが延びる予定。駅を出ると、道の向こうに海が広がります。そしてその海からは、「朝日が昇る」んです。また、プロムナード沿いに商店街や地域の人が集まれる施設が作られるということです。JR石巻線の全線運転再開、そして女川駅の開業は3月21日(土・春分の日)。この日は「女川駅周辺まちびらき」と題したイベントも開かれます。そして翌日22日には、「ゆぽっぽ」もオープン。終点ではなく、「始発駅の町」として女川が、復興への大きな一歩を踏み出すことになります。

2015年1月28日

1月28日 紙の間仕切りとコンテナ仮設が伝えること〜建築家・坂茂3

建築家・坂茂さんの被災地支援についてお伝えしています。
宮城県女川町には、坂さんが手がけた仮設住宅があります。野球場の敷地内に、2階建てが3棟、3階建てが6棟並び、ほかの地域のいわゆる平屋建ての仮設住宅とは、かなり印象が違いました。

このコンテナの仮設住宅には、どんな狙いがあるのでしょうか。

◆仮設住宅のクオリティ
(聞き手:高橋万里恵)
〜私も実際に見に行かせて頂いて一番驚いたのは、どこに仮設住宅があるんだろうということでした。3階建てにもびっくりしたんですがすごく窓が大きいですよね。



坂:実はこれ、ほかの一般的な、政府が作る仮設住宅と同じ予算で広さも同じ。予算と広さを合わせないと県の予算が下りないので、全く基準としては変わりません。だけどこれだけキレイになっているのは、
やはり愛情をこめて設計をしているから。コンテナの中は比較的狭いので、中にはユニットバスを作って、コンテナを市松模様に積んでいるがコンテナの入っていないところに大きな窓をつけて光がたくさん入って風通しが良いようにして。収納家具も作り付けで学生が作ってくれた。
収納家具も最初から入れて引き渡した。全く同じ大きさでもこれだけ違うし、「隣の音も上の音も全然聞こえない」と言ってもらえた。

〜コンテナを積み上げて3階建てにすることで、簡単に考えると同じ床面積でも三倍の人たちが暮らせるということですよね。

坂:それによって土地の有効利用も図れるし、お年寄りは1階、3階の人は「景色が良い」と言ってくださる。

〜実際に伺った時も、今までの仮設と何が一番違うのかというと、住民の方々が外に出て、窓から手を振って下さる。お子さんもいて。やっぱり愛される建築に住むと人の心は全く違うのだなと。格差があるのがすごく悔しいなと思いました。

坂:格差ができてしまった。いくら政府に訴えかけても実証しなければダメ。最低限、同じ予算でもこれができる。また震災はおこる。その時に避難所は最低限でも間仕切りがあり、仮設住宅も最低限これくらいのクオリティがないとダメだと実践して見せたかった。

〜本当に身に染みる。例えば東京で地震があった場合、(一般的な仮設の)平屋の1階建てでは土地が足りない。


※従来の仮設住宅

坂:平地はないからありえない。

〜普段よくいく仮設のお父さんのお家は、収納が少ない。そうなると下にモノを置かなければいけなくて居住スペースがどんどん狭くなっているイメージだが、元々こういうものを作るというのは、やはりある程度長く、心地よく住んでもらうための配慮ということですかね。

坂:政府は最初(仮設住宅の期限は)2年だと言ったが、それが4年になり、復興が遅れている。長く仮設住宅に残念ながらいざるをえない。それなら住み心地が良くないと。長く住むことを想定して作っています。



この仮設住宅、物流に使うコンテナを積み上げたものなんですが、積み方の工夫で、1階、2階、3階のリビングの位置が重ならないようになっている。だからリビングでくつろいでいても、上の階の足音が気にならない仕組みになっているんですね。

また、コンテナを積むという簡単な方法なので、建設に時間がかからず、2階建て・3階建てにすることで、建物同士の間のスペースを広く取れる上、
おかげで、敷地内には駐車場や 多目的スペースも設置することができたと言います。この多目的スペースには臨時的にカフェがオープンするなど住民が触れ合う場としての役割も果たしています。

そして、この仮設住宅で暮らす、自治会長の木村昭道さんはこう話しています。

◆マンションのような住み心地
この棚とこの棚はボランティアさんが作って取り付けてくださった。なかったら大変です。ここに棚があるということは布団を敷いてもばっちり。下にものを置くと部屋を狭めることになる。だから上に棚を取り付けてあることでこれだけの利用ができるということ。他の一般的な仮設住宅と比較して、人の声がしない。ほかの仮設は家の中でしゃべっているように隣の声が聞こえる。一般の仮設住宅は住宅と住宅の間がギリギリ。これだけの空間があることで日あたりも良い。女川にマンションはなかったので、これはマンション(笑)



       
東京都内で行われた坂茂さんのトークセッションの模様と、そして宮城県女川町の仮設住宅の様子、お届けしました。

明日は、この3月に復活するJR石巻線・女川駅の新しい駅舎について、坂茂さんのお話をお届けします。

2015年1月27日

1月27日 女川町のコンテナ仮設住宅〜建築家・坂茂2

紙の建築で被災地支援を続ける、建築家・坂茂さんの活動です。



坂さんは紙管、つまり、紙を何重にも重ねた分厚い筒で建築材を開発。阪神淡路大震災、ニュージーランド・クライストチャーチ大地震など、災害を受けた地域に、紙の建築を提供してきました。

そしてこの紙の建築という技術は東日本大震災による避難生活にも役立てられました。

◆紙と、コンテナで被災者を救う
(聞き手:高橋万里恵)
〜東日本大震災というお話があったが、50か所以上の避難所で、紙管を使った間仕切りを作り長引く避難生活を楽にされたというお話も聞きました。

坂:これは岩手県大槌高校の体育館。神戸の震災直後の避難所と言われても区別がつかない。なぜかというと神戸の時も問題になったが避難所のプライバシーがなく、避難者の方が精神的に苦痛を持たれた。これは神戸でも新潟でも同じことが繰り返されたが政府は全くそれを変えようとしない。それなら我々の手でやるしかないと思った。中越地震の時から同じ活動をしているのだが、
紙管で間仕切りを作って・・・

〜紙管で骨組みを作って、そこに布を垂らすイメージ?

坂:(新潟)中越地震の時からずっとやって分かったが、管理する行政は「(避難所に)あまり固定的なものは困る」と。であれば開けたり閉めたり出来る必要がある。家族の人数もまちまちなので大きさも自由に合わせられないといけない。そして簡単に安く誰でも作れて、使い終わった後はリサイクルできる。ということで試作を4回繰り返して、やっとここまで到達した、中越や色んなところで試してこうなった。避難生活が長引いて夏になっちゃった避難所もあるが、そこでは蚊帳を吊りにいったり。50か所以上の避難所に、1800人と作って回った。断られる避難所もあったがあきらめずずっと東北中を回って作った。




〜被災者の方の声は。

坂:「これでゆっくり眠れる」と。ひどい避難所だと更衣室すらない。プライバシーは人間の基本的な人権だと思うが、それが無視されていた。避難所に行ってびっくりしたのが、間仕切り作って陰で酒でも飲まれたら困る、、、と言う。自分たちは夜になれば家に帰って酒を飲むくせに避難者の方は間仕切りの影でお酒を飲んじゃいけない、という。でもみなさん精神的に苦労されているので最低限それくらいの(間仕切り)は当たり前だと思う。




〜こういった活動をする中、女川町で仮設住宅も作られたんですよね。

坂:予算も少ないが、精神的なダメージも負った人たちだからこそ、綺麗で住み心地の良いところに住むべきだと思う。ニュースにもなっているが結露の問題、断熱性能の無さ、となりの家の音が聞こえる、さらに今は基礎が腐ってきていて、もう何年ももたない。収納も無いから家の中は雑然とするし、もっと改善しなければいけない。住み心地も良くしなければいけない。それともう一つ、四月の時点で分かったことだが東北500キロの海岸線が津波でやられてしまい、平地が少ない。だから政府が作る平屋の1階建て仮設住宅では十分な戸数がとれない。それは予想していた。そこで3階建て、20フィートのコンテナでできた仮説住宅を考えた。模型を作る避難所に間仕切りを作りに行くたびに、町長さん市長さんにお会いして、もし土地が十分になければ
、こういうものもできるということを説いていった。その時たまたま宮城県女川の町長さんが、「うちの町はもう作る場所がない。あと190世帯分欲しいが土地は野球場しかない」という。その場所には政府の仮設住宅だと50世帯分くらいしか作れない。それじゃ足りないということで3階建てと2階建てのコンテナ製の仮設住宅の建設が始まった。




この、宮城県女川町(おながわちょう)の、コンテナを使った仮設住宅は、海上輸送など物流に使うコンテナに、ユニットバスや作り付け家具を設置。それを市松模様に、積み上げたものです。2階建てや3階建てにすることで、仮設住宅のひと棟・ひと棟の距離も広くて、圧迫感が少ないのも印象的でした。

明日も、この女川町の仮設住宅について、建築家・坂茂さんのお話をお伝えします。

2015年1月26日

1月26日 被災地を救った「紙の建築」〜建築家・坂茂1

今朝は、世界的建築家・坂茂さんの被災地支援について、お伝えします。

去年3月、建築界のノーベル賞と言われる「プリツカー賞」を受賞した坂さんは、世界各国で革新的な建築を手掛けながら、東日本大震災をはじめ被災地での支援活動を続けています。宮城県・女川町に、まもなく復活するJR女川駅の駅舎も、坂さんの設計によるものです。

今週お届けするのは、先日東京都内で行われたシンポジウムから、坂茂さんのトークセッションの模様です。坂さんの代名詞ともいえる「紙を使った建築」のお話です。

◆紙管で建築を作る
<聞き手:高橋万里恵>
〜坂さんといえば、阪神淡路大震災や東日本大震災の被災地でも活躍した「紙」を使った建築が有名ですよね。

坂:紙と言っても再生紙(紙管)。1986年、まだエコやリサイクルという言葉が言われていなかった時。faxの紙の芯や建築家が使うトレーシングペーパーの芯に紙管が使われていて、モノを捨てるのが苦手なのでそれを活かして天井や壁を作ったところ思った以上に強かったので、これを建築の構造として使う開発を始めた。

〜紙って燃えやすいし雨にぬれると柔らかくなるイメージがありますが大丈夫なのでしょうか。

坂:みなさんそう思われるが、オレンジジュースや牛乳のパックは紙。紙は木と違って工業製品なので防水や不燃の加工がしてある。家に使う壁紙も不燃加工がしてある。工業製品だから防水や不燃の加工は簡単にできる。木の建物でも地震に強いもの、紙で作っても地震で壊れないものは作れる。そう考えると建築の強度や耐久性は材料の強度とは関係ないことが分かる。論理的に、木よりも弱い紙を使っても構造計算をちゃんとすれば、安全な建築ができるということは理論上分かっていたのでそれを実践して、国交省の許可を取って実証している。より弱い、身の回りにある材料を使っても安全な建築を作れるという信念のもとに開発を始めた。


坂さんがおっしゃる「紙管(しかん)」。これは、何重にも紙をまいた堅い筒というイメージ。30枚の紙を使い15ミリの厚さにしたものです。

坂さんは、自ら開発した紙の建築材を使い、まず東アフリカ・ルワンダの難民キャンプのためのシェルター作りを手掛けました。そしてその翌年。紙の建築は日本の大災害でも活用されます。95年の阪神淡路大震災です。



◆難民たちのための教会を
坂:あれだけの大変な災害があって、何かお手伝いしたいと思ったがどこに行っていいか分からなかった。その時たまたま新聞で、日本政府が初めて受け入れたボートピープルと呼ばれるベトナムの難民の人たちの帰還センターが神戸にあった。キリスト教の人たちが多く、地元・長田区の教会には被災した信者たちが集まっているというのを知った。日本の一般の被災者も大変な思いをしているが、いわゆるマイノリティの人たちはもっと大変な思いをしているだろうと、長田区にあるカトリック教会へ行き、お金集めと学生集めをして僕らの手で教会を作り始めた。2〜3年使えればいいよということだったが、あまりに出来が良く信者たちも気に入ってくれて10年間使われた。その後は台湾で地震があり、解体して台湾の被災地で再建して使われている。今はパーマネント(永遠)な教会・兼コミュニティセンターとして神戸から20年が経過した今もみんなに愛されている。そこで考えたのが、何が仮設で何がパーマネントなのか。さっきのようにコンクリートで作っても地震で壊れる。でも紙で作ってもみんなが愛しさえすればパーマネントになりうる。何が仮設か何がパーマネントかというのは、コンクリートか紙かではなく建築が人に愛されるかどうか。それで長く残るか短期間で残るかの違いということ。


坂さんはこのほか、インド、トルコ、スリランカ、中国四川でも支援を行い、2011年2月の大地震で倒壊した、ニュージーランド・クライストチャーチの大聖堂も「紙の教会」として設計しています。

そして、クライストチャーチの大地震の直後に東日本大震災が発生。紙の建築はここでも大きな役割を果たすことになります。この続きは明日のこの時間にお届けします。

2015年1月22日

1月22日 阪神淡路大震災遺児 小島汀さんのメッセージ

今週は、阪神淡路大震災の遺児のメッセージです。

阪神淡路大震災の遺児・孤児をサポートしてきた「あしなが育英会」主催する講演会の模様から、昨日に引き続き、小島汀さんのお話です。震災当時は3歳だった小島さん。兵庫県芦屋市で被災し、お父さんを亡くしました。高校は環境防災科に進み、その後大学に進学。この春に就職することが決まっています。また、あしなが育英会を通じて、海外の災害の被災者とも交流を重ね、東日本大震災以降は、東北でもボランティア活動を続けてきました。

◆この20年の支えを今度は東北にいかしたい
東北には何回か行っていたが、1週間ぐらいが限度でなかなか仲良くなったぐらいに帰っちゃうという状態が続いて寂しくて。自分は長い目でサポートしてくれたのがうれしかったので、長期的に行きたいなという思いを持って、石巻の雄勝町の沿岸の地域で生活をしながら、中学生の授業の補助に入ったり、仮設住宅に行ったり、ボランティアの受け入れをしたりしていた。実際に自分に何ができたのかはよくわからないけど、「神戸から来たよ」というと、心を開いてくださるかたもいて、誰かを勇気づけるきっかけになったんじゃないかと、わたしも支えられている。またこういうふうに講演会の機会を作ってくださって、震災の経験や想いを語るというのはすごう勇気がいることだけど、繰り返し語ることで自分の想いが整理されていくことは、自分にとってよかったと思っている。
東北の震災も神戸の震災も、なかったらよかったなと思うけど、この20年間を振り返るとわたしにとっては出会いの連続で、支えてくれた人もそうだし、わたしがなにかをしたいなと思って動いた結果誰かが喜んでくれたり。(震災で亡くなった)お父さんが引き寄せてくれたというか、お父さんがくれた最後の宝物なんじゃないかと、いつも思っている。

わたしはこの春大学を卒業して、ウェディングプランナーになる。大学からは自分の好きなことをやろうときめて、自分のやりたいことを見つけた。自分はいままでの経験を通して、人と出会うこと、人と話すことが大好き。この人と出会ってよかったなと感じたり、この人と出会うために頑張ろうと目標を持ってやってきたりしたので、「出会ってよかったなと思える人になること」がわたしのいまの目標。ウェディングプランナーになっても、結婚式をするカップルだけでなく、まわりのお友達も楽しませることができるような、脇役ではあるけど笑顔を与えられるようなプランナーになりたい。自分がなにをどうしようでなく、自分が元気で働いていることが、お母さんやまわりの人に感謝の想いを伝えられることなんじゃないか、それが最大の親孝行なんじゃないかと。いまは残りの大学生活を満喫しつつ、頑張りたいと思っている。

  
今朝は阪神淡路大震災で親を亡くした、震災遺児のメッセージでした。

あしなが育英会では、仙台、石巻、陸前高田にそれぞれ「レインボーハウス」を設立。震災遺児・孤児の見守りや心のケアを行っています。また子どもたちの遊び相手、通称「ファシリテーター」も随時募集しています。関心のある方は、あしなが育英会のオフィシャルサイトをご確認の上、あしなが・東北事務所にお問い合わせください。

2015年1月21日

1月21日 阪神淡路大震災遺児 小島汀さんのメッセージ

今週は「あしなが育英会」が主催する講演会の模様から、阪神淡路大震災の震災遺児のメッセージをお届けしています。

阪神淡路大震災の遺児・孤児はおよそ600人。
「あしなが育英会」は「神戸レインボーハウス」を拠点に、子どもたちの遊び相手となり、成長を見守ってきました。

小島汀さんは、3歳の時に兵庫県芦屋市で被災し、お父さんを亡くしました。

◆東北に生き続ける理由
わたしは3歳のときに阪神淡路大震災にあって、わたしのお父さんは圧死で亡くなった。直後わたしは3時間後に救出され、斜め向かいに教会があって当時わたしの祖父母が住んでいて牧師をしていたので、教会は建物が無事で避難所になった。
お母さんは腰の骨を折って顔も血まみれで救出されたので、すぐに兵庫県の上の病院に運ばれた。なのでお兄ちゃんとわたしは震災後1年10カ月ほど、その教会で生活した。
自分のお父さんが亡くなったんだということを始めて自分の中で感じたのは、小学校1年のときの授業参観。お母さんがなかなかこなかったときに、「ああ、お父さんがいないからお母さんが働かなきゃいけないんだな」と気づいて。それから、友達がお父さんの話をしていたり、家族でどこかに行ったという話を聞いたときに、すごく寂しさを感じた。
震災を経験したのは3歳のときだったが、その時のトラウマが残っていて、トイレに一人で入れなくて扉を開けっ放しにしていたりとか、暗いところも苦手で映画館とかもいけない状況が続いていた。いまでも地震には敏感で不安に襲われることがある。小学生のときって皆簡単に「死ね」とか言ったりするけど、それが自分に向かって言われているように感じたり。恐怖感を感じて家に帰って、お母さんンの前で大泣きしたりしたこともある。そんなときにレインボーハウスに行くと、同じような経験を持つ友達に出会って、自分も頑張っていきたいなと思うようになった。
それからボランティア活動が楽しいことになり、環境防災科に通うことになってからも、どこかで震災や災害があると駆けつけるようになった。最初は行ったさきで自分になにができるんだろうと疑問を持ち続けていたが、東日本大震災の後釜石に行かせてもらって、そのときかけてもらった言葉が、「助けてあげないといけない、と負担に思わず、こうして東北に足を運んでもらうだけで、わたしたちも19年間経ったら、こんなふうに元気になれるんじゃないかと感じてそれが希望になり、支えになる」と言ってくれた人がいて、すごく元気づけられた。自分にしかできないことは、お父さんを亡くした経験を持って、寄り添うこと、隣にいてあげることだと思って、いまも東北に行き続けている。

  

阪神淡路大震災の遺児のメッセージ。今日は23歳、小島汀さんのお話でした。
小島さんは高校は環境防災科に進み、その後大学に。この春に就職することが決まっています。あしなが育英会を通じて、四川大地震など海外の災害の被災者とも交流を重ね、東日本大震災以降は東北でもボランティア活動を続けています。

2015年1月20日

1月20日 阪神淡路大震災遺児 浦田楓香さんのメッセージ

今週は「あしなが育英会」が主催する講演会の模様から、阪神淡路大震災遺児のメッセージをお届けしています。

阪神淡路大震災の犠牲者は、6434人。その中で、親を亡くした子どもたちは600人を超えました。そんな震災遺児・孤児をサポートしてきたのが、「あしなが育英会」です。「神戸レインボーハウス」を拠点に子どもたちの成長を見守ってきました。

神戸市の短大生、浦田楓香さんは、今年20歳の新成人。阪神淡路大震災のときは、生後4か月でした。

◆お母さんの歳を越して
わたしは20年前の阪神淡路大震災で母親を亡くした。アパートが全壊してタンスかなにかで圧迫死し、お父さんはわたしをかばって足にけがを負った。その状態ではわたしを一人で育てられないだろうと、母方の祖父母に養子として預けられ、いまも一緒に暮らしている。
お母さんは震災当時19歳で、1月25日が誕生日だったので、成人する直前に亡くなってしまった。わたしは今年成人したので、お母さんの歳を追いこしてしまったんだなあという思いがある。わたしは亡くなったお母さんのことをお姉さんだと聞かされて育った。小学校の3年生のとき、おばあちゃんから、亡くなったのはお姉ちゃんじゃなくお母さんだと聞かされた。小3はそこまで深いことは考えられないので「あ、そうか」という感じだった。わたし自身、おじいちゃんおばあちゃんに育てられて、本当の両親と思って育てられたので、お母さんが欲しいとは思わなかった。
いまもお母さんのことを「ともちゃん」と呼んでいる。逆にお母さんと呼べない感じ。お母さんの話を自分から聞こうともしなかったし、祖父母からも聴く機会がなくて。最近はおばあちゃんがたまに話してくれるので、普段の会話からそんな話になるので、成長したなと実感する。

  
阪神淡路大震災から4年目の1999年、「あしなが育英会」が、震災の遺児孤児の教育支援の拠点として設立したのが「神戸レインボーハウス」です。
子どもたちの遊び相手となり、成長を見守るボランティアは、「ファシリテーター」と呼ばれ、楓香さんもレインボーハウスで多くの時間を過ごしました。
また、東日本大震災の後、東北の震災遺児・孤児のために、仙台、石巻、陸前高田にも「レインボーハウス」が誕生しています。

◆隣にいてくれるだけで安心できた
神戸のレインボーハウスにファシリテーターの人達がいて、わたしは小学校のとき暴力的で、ファシリテーターの人に蹴る殴るしまくってた。それでも一緒にいてくれるのがすごくうれしかった。いま自分自身がファシリテーターをやっていて、子どもたちにめっちゃ殴られる。わたし自身もそうだったけど、やっぱりかまってほしいんだと思う。いまファシリテーターをやっていて、当時のことをよく思い出す。ファシリテーターの人達が隣にいてくれるだけで安心できるので、わたしはファシリテーターの人達と関わってすごく楽しかった。
わたしは東北に来るのがこれで4回目だが、また機会があれば着たい。震災が残してくれた出会いを大切にしていて、そういう出会いを今日来てくれた皆さんにも大切にしてほしい。


阪神淡路大震災で母親を亡くした神戸市の新成人、浦田楓香さん。将来は、自分と同じ境遇の子どもたちを少しでも笑顔にできる活動をしたい、と話しています。

あしなが育英会・東北事務所では、震災や交通事故の遺児・孤児をサポートする見守りボランティア、通称「ファシリテーター」を随時募集しています。関心がある方は「あしなが育英会」のオフィシャルサイトでご確認の上、あしなが育英会・東北事務所にお問い合わせください。

明日も阪神淡路大震災、遺児のメッセージです。

2015年1月19日

1月19日 阪神淡路大震災遺児 中埜翔太さんのメッセージ

1995年1月17日、兵庫県南部を震度7の地震が襲いました。阪神淡路大震災です。あれから20年。先日1月17日(土)には各地で「追悼の集い」が行われました。この震災の犠牲者は、6434人。また、親を亡くした子どもたちも600人を超えました。

そんな震災遺児・孤児をサポートしてきたのが、「あしなが育英会」です。「神戸レインボーハウス」を拠点に子どもたちを見守り、寄り添ってきました。

今週は「あしなが育英会」が主催する講演会の模様から、阪神淡路大震災の震災遺児のメッセージをお届けします。
今日は、神戸市東灘区在住の中埜翔太さん、23歳です。中埜さんは、震災でお母さんを亡くし、おばあちゃんに育てられました。

◆20年前のあの日・・・
20年前の阪神淡路大震災のとき、3歳でお母さんを神戸市の灘区で亡くしました。1月17日朝は僕とお母さんで朝4時ぐらいに起きて、灘区のおばあちゃんちに行って、おばあちゃんと話しているときに地震がきて。真っ暗になってなにも見えなくなって。怖くて。おばあちゃんと自分は近かったので、おばあちゃんが僕に手を伸ばして「耳ある?目ある?鼻ある?」って、身体をさわって聞いていたのを覚えている。どれくらい時間がたったかわからないが、上がぱーっと明るくなって、見たら、作業着来たお父さんが仕事の途中で駆けつけてくれて。そのときの作業着姿のお父さんの姿はいまでも覚えている。
お母さんとは遊園地とかいっぱい行ったと後から聴かされるが、お母さんの顔も写真でしか覚えてないし、遊びにいったのも覚えてなくて、それはちょっと残念。
震災が起きてお母さんが亡くなってからは、お父さんが精神的に参っていたので、それを見かねたおばあちゃんが無理やりお父さんから引き取ってくれた。おばあちゃんは4人子育てしてて、あと一人くらいは全然いけるやろと、僕を引き取ってくれた。いまになるまでずっと育ててくれた。放任主義で、やりたいことを後悔しないようにしなさいと常々言っている。それでも、いろんなところに行って、経験していろんな人と会ってこいといつも言っていて、とにかく外に出そうと、おばあちゃんはしてくれてた。東日本大震災の遺児になったお子さんの保護者さんも、とにかく楽しい経験をいっぱいさせてあげてほしいと思う。
震災から20年たって、区切りという人もいるかもしれないが、何年たってもあまり変わらないような気がする。1月17日の僕の過ごし方は、5:46の震災発災時間に合わせて、神戸の三宮の東遊園地の追悼式典に出て、そこでお母さんの名前が書かれている名板のところに行く。そこで産んでくれたお母さんに感謝を改めてする日。


今週は阪神淡路大震災、遺児のメッセージ。今日は神戸市東灘区の中埜翔太さんのお話でした。
中埜さんは東日本大震災のときには、「これまでの恩返しがしたい」と、「あしなが育英会」の派遣で何度も東北に。震災遺児の心のケアにあたっています

明日は阪神淡路大震災の遺児で、今年新成人となった、20歳の女の子の声をお届けします。

2015年1月15日

1月15日 成人の日特番『神戸に生まれて、二十歳の誓い』(4)

今週は、新成人・20歳の若者にスポットをあてて、神戸と東北の復興を見つめています。


神戸の新成人、出羽亮介君は、阪神淡路大震災の年に生まれ、神戸の復興とともに成長してきました。「震災の記憶」はありませんが、震災のときの様子をご両親や学校の授業で伝え聞いてきました。

将来の夢は「検察官」になること。小学校のころから温め続けてきた夢です。

◆せっかくある命、人のために使いたい
今は、神戸大学の法学部で法律を勉強しながら検察官を目指して勉強している。検察官として誰かのために、正義感と言ったら重くなるが、20年前、近くに三面鏡が倒れてきて、自分の命があったかどうか分からなかったのが、今20歳になってこういう生活を迎えられているので、せっかくある命なので人のために使いたい。人のために使っているのが、自分にとっていいものだと感じられたら幸せなことなので、自分が誰かの幸せに関わる、そういうことができればいいと思っている。 

  
今回初めて東北を訪れた出羽君は、被災した沿岸部を自分の足で歩いて、そこに広がる景色を心に刻みこんでいました。
また、東北の新成人、中津留裕人君との出会いもありました。中津留君は、ご両親が経営していた宮城県岩沼市内養豚長が津波で流され、いまは家族と離れて、仙台で一人暮らしをしています。「ホテルマン」になる夢に向かって頑張る中津留君との出会いも、出羽君にとって、大きな刺激になったようです。

◆神戸の復興は毎年毎年の積み重ね
将来のことを考えたときに、中津留君の話だと親に迷惑をかけずに、自分にできる最大限のことをやろうというのがあって、比べて同じようにしようというわけではないが、自分には、まだできる部分、力残した状態でやってるんじゃないかなと思わされて、シャンとしないとなと。自分にいい影響を与えてくれたと思う。
やっぱり仙台から帰ってきたときに、神戸がとげた復興というのは、なにげないもののようだけど、確実に意味のある成長だと感じた。毎年毎年いっこずつ積み重ねていって、いまの神戸の街があるんだなと。同じように一年一年の積み重ねが、いま自分が自由に過ごせている神戸のように、中津留君にとっての東北になるように、復興が進んでいったらと思った。



今週は、神戸と東北の新成人、出羽亮介君と中津留裕人君の声をお届けしました。
阪神淡路大震災から、あさってで20年を迎えます。

出羽亮介君と中津留裕人君が出演した特別番組のサイトはこちら。

2015年1月14日

1月14日 成人の日特番『神戸に生まれて、二十歳の誓い』(3)


今週は、今年「成人の日」を迎えた20歳の若者にスポットをあてて、神戸と東北の復興を見つめています。

神戸市長田区在住の出羽亮介君は、1995年1月2日生まれ。将来の夢「検察官」を目指して、神戸大学の法学部に通う大学2年生です。

出羽君は今回初めて東北の沿岸部を訪れました。そこで出会ったのが、宮城県亘理郡亘理町出身の中津留裕人君です。
中津留君は高1のとき東日本大震災で被災。ご両親が経営していた養豚場が津波で流され、家族は生活の糧を失って宮城県蔵王町に移住しました。中津留君も、蔵王町から故郷の高校に片道2時間かけ通学することになります。

◆他人を喜ばせる仕事に就きたい
引っ越してからは嫌なことばかりだった。何もかも不便で、地元の友達とも会えなくなったし、片道2時間で学校に通うのも本当に嫌だったけれど、我慢して生活していた。
(高2の9月だと進路を決める時期だと思うが、悩んだことは?)
元々、海外の大学に進学したくてそれに向けて頑張っていたが、それが一気にパーになった。高2の最後らへんに、元々親には伝えていたが、お金の問題で海外の大学はきついと言われて、それがすごく悔しくて、諦めきれなかった。一人で泣いたりして、思い悩んだりもして・・・。なるべくお金のかからない選択肢を選ぼうと調べていたら、宮城大学が国公立の大学で県内だし、自分のやりたい勉強もできるので、ここが一番いいと思った。ずっと自分との戦いで気合を入れていた。
(どうしてその将来の夢を持っているのですか?)
今の夢はホテルマン。優しさや、他人を喜ばせることが、実感できる仕事だと思っていた。人とのコミュニケーションは得意ではないが、そういう自分を改善することも含めてやってみたいと思った。人に何かしてあげるのが好き。相手の喜んだ顔をみると嬉しくなっちゃう(笑)


阪神淡路大震災の年に生まれ、神戸の復興とともに成長してきた出羽君。一方、中津留君は思春期に東日本大震災で被災し、ふるさと東北はいまだ復興の途上にあります。


◆震災は自分が成長できる大きなチャンス
(今震災から3年、もう少しで4年経つが、今どう受け止めていますか?)
今となっては、自分が人間として成長できる大きなチャンスだと思っている。震災があってからだいぶ生き方が変わったと実感している。やれば出来るようになったというよりかは、自信がないのは元々だけど、やらないと始まらない、やってみないと出来るか出来ないかわからないので、やるしかないと思っている。
(実際に高1で震災を体験した立場として、新成人に伝えたいことは?)
とりあえず両親に感謝をして、なるべく苦労をかけないようにして欲しい。一番偉大な存在だから。

2015年1月13日

1月13日 成人の日特番『神戸に生まれて、二十歳の誓い』(2)

今週は、今年「成人の日」を迎えた20歳の若者にスポットをあてて、神戸と東北の復興を見つめます。

神戸市長田区出身の出羽亮介君は、1995年1月2日生まれ。
阪神淡路大震災の2週間前に生まれ、今年「成人の日」を迎えました。

現在は、将来の夢「検察官」を目指して、神戸大学法学部に通う大学2年生。「震災の記憶」はありませんが、当時のことを両親や学校の授業で伝え聞いてきました。

そんな出羽君が、ここ数年心にわだかまりを感じていたのが、被災地東北のことです。今回出羽君は、初めて東北の沿岸部を訪ねることになりました。

◆東北への想い
明日、初めて東北に行くとなった時に、震災の傷跡を見た時に自分は無力感を感じると思った。作るのは時間がかかるけど、壊れるのはほんの一瞬。自分が物心ついた時には神戸は作り終えた段階だったので、全てを意識したことはなかった。壊れていくのを見た上で、そこにまた作り上げていくステップを見ていくのは、元を知っている以上、辛さとかもあると思うので、自分は明日、作り上げている途中の街を見に行くんだという気持ちがある。
これから東北を考える上でのキッカケになると思う。今までボランティアで仙台に行くとなった時に、行った自分に何が出来るのかとか、キッカケを見つけられずにいた。20歳になってできることも増えてきて、20歳が一つの区切りだと思う。0歳で起きた震災、20歳の時に見る東日本大震災の仙台というのは、意味あること。また、意味ある体験にしなきゃいけない。
 


出羽君が訪ねたのは、宮城県亘理郡亘理町出身の中津留裕人君です。
中津留君も今年「成人の日」を迎えたばかりの20歳。仙台市内の大学に通い、ホテルマンを目指して勉強とバイトに明け暮れる毎日です。

そんな中津留君が案内してくれたのは、ご両親が経営していた、宮城県岩沼市内の養豚場、跡地。津波で流され、いまは一面、土と雑草に覆われています。

◆岩沼市養豚場跡地へ
ここの敷地内には大きい建物が5〜6戸あった。そこに豚とかが住んでいて、1200匹位いた。子豚とこもいたのでもう少し多かった。
(震災以降にこの場所へは来ましたか?)
直後は水浸しで来れなかった。1年後に来て、初めて状況を見た。まだその時は、若干建物が残っていて面影があったので寂しい感じがする。今は本当に何もないので、何も感じない。
(ご両親の仕事をどう思っていましたか?)
中学生の頃とかは、夜まで家にいないこともあったので早く帰ってきて欲しいとずっと思っていた。何でこんな仕事しているのと。今となっては超大変な仕事だなと。そういう意味ではすごく尊敬している。


中津留君のご両親が経営していた養豚場は津波で流され、ご両親は仕事を失いました。中津留君は大学進学のため仙台市内で一人暮らしをしています。

明日は中津留君の将来の夢、そして同じ20歳の新成人に贈るメッセージです。

2015年1月12日

1月12日 成人の日特番『神戸に生まれて、二十歳の誓い』


今日は「成人の日」です。
そこで今週は、今年新成人となる2人の新成人にスポットを当てます。

いまから20年前の1995年1月17日。兵庫県南部を中心とした広い地域を、大きな揺れが襲いました。阪神淡路大震災。震度7の地震とその後の火災で、多くの方が命を落としました。

今日「成人の日」を迎える20歳の出羽亮介君は、被害の大きかった神戸市長田区の出身です。
誕生日は1995年1月2日。まさに、阪神淡路大震災の、2週間前です。

◆震災当日
1月2日に生まれて、7日が退院で、地震が退院の10日後に起こった。実家がすぐ近所で、自分とこの子(出羽君)、おばあちゃん、お兄ちゃんと寝ていた。彼が寝ていた真横に三面鏡が倒れて、数センチのところだったのでゾッとして、生きているのがビックリするくらいだった。泣きそうだった。あの地震の揺れは今でも忘れられない。この子が生まれてからは、生活に追われていた。


出羽君のお母さん、珠津子さん。震災後しばらくは、家族で親戚の家に避難し、避難生活と子育てに追われたそうです。そこで印象的だったのは、周囲の人との「助け合い」。折に触れてその時の様子を出羽君に伝えてきました。

そして出羽君は、現在神戸大学の法学部に通う大学2年生に成長。勉強とダンスサークルの活動で忙しい毎日です。出羽君が、神戸市内にある「神戸震災復興記念公園」、通称「みなとのもり公園」を案内してくれました。

◆20歳で鳴らす、復興の鐘
(鐘の音〜)ここには震災の時間で止まった時計と、神戸の復興の鐘がある。5時46分を刻んだまま震災から20年間ずっと止まっている。ダンスの練習などで使うときにこの鐘はよく目にしていたけど、今日はじめて鳴らした。簡単に鳴らしていいものではないと思っていた。自分の記憶として覚えているわけではないが震災で沢山の人が亡くなって、亡くなった人の数だけではない悲しみがあって・・・ちゃんとした気持ちで震災の記憶に向き合うのであれば鳴らしていいという気持ちがあった。
今、復興した街であったり、今の神戸の状態を思って、それを踏まえて自分が20歳になった時に、この鐘を鳴らすというのは、これからに向けての始まり、そういう意味のある鐘の音にしなきゃいけないと思いました。



JFN38局では、今日、成人の日に出羽君の成長を通して神戸の復興を見つめる特別番組を放送します。
「TOKYO FM/Kiss FM KOBE共同制作
『2015年成人の日特別番組・神戸に生まれて、20歳の誓い』


番組では、出羽君が宮城県の沿岸部を訪ね、東北の20歳の青年と語り合います。
放送時間など詳しくは、特設サイトをご覧ください

2015年1月8日

1月8日 東松島の一番詰み海苔

東北 沿岸部は、冬の旬・新海苔のシーズンを迎えています。 今朝は宮城県東松島市の若き海苔漁師から、旬の便りです。


相澤太さんは、東松島市・大曲浜でおじいさんの代から続く海苔漁師です。 震災からまもなく丸 4 年。相澤さんによれば、海苔の養殖も徐々に、収穫量が戻りつつあると言います。そしてこの冬もシーズン最初に収穫される海苔、「一番摘み」の時期がやってきました。



◆一番摘みで、海を感じて欲しい
今年の一番摘みは年末年始から刈り取っているが、気候も秋口からよくて育苗もちゃんとできた。海にも栄養があったので海苔も黒く柔らかく、風味も良い。さっそくストーブで炙って食べましたが、味も濃くて磯の風味もある。

自分が作る海苔に関しては海を感じてもらいたいというのがあるので、毎年海は違うし海苔の味も若干違うので、それをそのままお届けしたい。今年はそのとおりにできたかなと思っている。自分なりに良いものを食べてもらいたいと海苔を作っているが課題も見つかった。今回の海苔に関してはもうちょっと口どけが良ければインパクトを与えられるなと思う。来年はまたそれをクリアしたいと思えたので、そう思える時は自分が伸びる瞬間。そう感じられたのは良かったと思う。


そんな相澤さん、震災前には海苔の品評会で優勝も経験。高い評価を受けています。
実は先日も、年に一度の品評会があったばかり。結果はどうだったのでしょうか。

◆見た目ではなく旨さ
奉献乾海苔品評会という、宮城県内の生産者が塩釜神社に海苔を奉納して、その年一番自信のある一番摘みの海苔を出品し審査員が選ぶ。優勝と準優勝のみが皇室に献上される。自分は23 歳で準優勝をたまたま獲れて28 歳で優勝。今回は二等賞と三等賞の間の技術賞をもらった。昔からの品評の仕方があり、評価は色とツヤがメイン。黒くて光沢があるものが良いものという基準。 味ではない。食べておいしいのはちょっと違う。自分が選ぶ厳選の焼き海苔は見た目を重視していない。それでは味が落ちてしまう。品評会用に作るなら違う作り方をするし、焼き海苔として食べてもらう用に作るなら味を重視する。その境界線でやっていたので技術賞に収まった。



ひたむきに、"美味しさ"にこだわる相澤さんの一番摘み、1 月末には販売が始まる予定。 オススメの食べ方を教えていただきました!

◆醤油はいらない!
白いご飯に合う海苔なので、さらっと巻いて食べてもらうと米の温かさと甘味、そのあとに海苔の旨みがドンと追いかけてくるように仕上げている。料理とはいえないがご飯と海苔で食べて欲しい。醤油はつけなくてもいける。自分が作る海苔は塩分を全て抜かず、海に近い状態で仕上げているのでぜひそのままで一度試してほしい。それと、誰がどこで作ったのかを見て食べて欲しい。味を比べて評価を作り手に伝えてくれると我々も嬉しいしやりがいもある。今後の目標も増える。食べる人と作る人がつながってくれたらお互い幸せだと思っているのでよらしくお願いします。


相澤さんが収穫した一番摘み『厳選』は、 1 月末ごろから、インターネットショップのヤフー「復興デパートメント」、 東松島市のアンテナショップ「まちんど」で販売がスタートする予定です。

また、1 月10 日(土)から12 日(月・成人の日)までは、
東京都大田区東急プラザ蒲田で、東松島物産展が催され、 相澤さんの「バラ干し海苔」や、東松島の牡蠣やお米の販売もあるということです。

東松島 まちんど
復興デパートメント

2015年1月7日

1月7日 ギフトショップ「TOHOK」が伝える東北の手仕事3

東北各地に、古くから伝わる工芸品や、震災をきっかけに生まれた手仕事を、ストーリーとともに紹介。新たにブランディングして販売するギフトショップサイト「TOHOK」。

サイトを運営する友廣裕一さんは、震災後、半年かけて東北各地を回り、「よいもの」を探し回ったと言います。その中から、もうすぐ販売がスタートするアイテムを教えていただきました。

◆赤べこに新たな命を吹き込む
会津地域には「赤べこ」という民芸品があるが、これも衰退している。赤べこもすべて手作りする作り手は2軒しかいない。こだわりを持って作っているが評価と一致しないため、維持するのが大変になっている。それでも作り手の方は、この文化を絶やさないように続けていきたいという想いを持っている。そこで、作り手さんと話をして、ツートンカラー、鮮やかな2色の色合いで、「目」の部分を空白にした赤べこを考えた。10パターンのシールの中から赤べこに目を入れて命を吹き込むというもの。贈り物にする時にも、贈る相手に元気になってほしいという想いをこめて、その人に似た目をつけてプレゼントしたり、自分で描いてアレンジしても良い。新しい可能性を一緒に作るという意味で、一つ新しいものを出せたなと思っている。




東北のモノづくりと、それに関わる人たちに幾度も触れて来た友廣さん。復興に必要なもの、東北がもつ「力」について、こんな話をしてくれました。


◆モノづくりのDNA
震災のあと現地に入ってしばらくは、復興支援の意気込みがあったが、どこかのタイミングで「失われたものを埋める」作業だけでは限界があるし、突破できないなと感じていた。
プラスを描く中で自然とマイナスが引き上げられる、一緒に上がっていく展開をしなければダメだと思っていた。だから、みんなで良いものを作っていこう、知られてなかったものを届けようという動きを作りたいと思っている。
今の世の中で、手仕事を一つの生業にしようと普通は思わない。モノ作りは投資して規模感をもって大量生産・大量消費のモデルに入らないと成立しないと考えがちだが、そうではなくて自分たちの人生を豊かにしつつ、使ってくれる人も喜んでくれるものを目指して始まった。その背景には、雪深い東北で、冬になると家から出られない中、深々と雪が降る中で編み物をしたり細工をしたりという、阪神淡路大震災のあとの神戸には生まれなかったものがある。
たぶん東北にはそういうDNAがある。作ること自体が目的なのではなく、使う人を想像して、使ってくれる人の幸せを考え、思いを込めている。本来手仕事はそういうものなのかも知れないが、
そうやってモノを作るのは価値がある。小さなプレーヤーが、こんなことしたい、やろうとしている人が少しずつ前に進むのを後押しするようなことができればいいと思っている。

2015年1月6日

1月6日 ギフトショップ「TOHOK」が伝える東北の手仕事2

引き続き、東北各地の手仕事、工芸品を扱うギフトショップサイト「TOHOK」について、お伝えします。

サイトを運営する友廣裕一さんは、震災後、宮城県石巻市でボランティアをする中、復興のために「モノ作り」を始めた地元の方が数多く現れたことを知り、可能性を感じたと話します。そして、東北に根付く「モノづくり」の魅力を広めようと、活動を始めたんです。

◆チャリティではなく「よいモノ」を
工芸品もそうだし、震災後に新しく生まれたモノもそうだが、「よいモノ」がちゃんとそろっていて評価されるブランドや状況を作らないといけない。「チャリティだから買って下さい」ということでは、もし僕が消費者だったら買わない。良いものを選りすぐって集めたかったので、東北中を回り、色んな人がどういう風にモノづくりをしているのかを見て、ストーリーを拾った。その中で、これなら紹介したい、若い人たちにも評価してもらえるというものをセレクトした。ストーリーをまとめて、「贈り物」に特化してはじめた。

例えば岩手県久慈市の山間で、おじいちゃんおばあちゃんが作っている「ほうき」。これはほうき草という草を種まきして育て、収穫して干すというところからモノづくりが始まる。それを束ねてほうきを作るということを長い間やってきた。今までは各家々で好き勝手に好みで作っていたので、規格もサイズもまちまちで道の駅で細々と売られていた。これはもったいないと思い、サイズを小さくそろえ、会津木綿の布をつけて、赤・青・黄色の三色で販売したところ評判がよく、結婚式の引き出物にも使われた。「今まで日の目を見なかったものが祝いの席で使ってもらえた」と、地元のみなさんも喜んでくださった。そういう橋渡しができたことで、役割が見えたと思う。手ぼうきは網模様も特徴的で、カーペットなどですごく使える。縮れが強く埃もとれる。若い人も反応してくれて購入してくれたのが意外な反応でした。




そして、その手ぼうきにも使われている福島県の「会津もめん」。こちらも、新たなブランディングで商品化されています。

◆会津の伝統工芸をブランディング
会津地域で、原発事故の影響でお母さんたちがやることがない時期に、なにか仕事を提供できないか、作れないかと考えた。会津木綿は400年前から続く工芸品だが衰退を続けていて、織元は30軒から2軒に減っている。この両者を結びつけて新しい価値を作れないかとはじめたのが、会津木綿のストール、コースター、ブックカバー。若い人にうけるブランディングや見せ方をすることで、チャリティではなく一つのブランドとして評価された。背景のストーリーだけでなく「これかわいい」という感じで買ってくれている。



そして、ギフトショップTOHOKは、きょう1月6日(火)から12(月・成人の日)までは、東京新宿の「ルミネ新宿店」にて、期間限定のショップを出店するということです。

★ギフトショップ「TOHOK」
★ルミネ新宿店イベント

2015年1月5日

1月5日 ギフトショップ「TOHOK」が伝える東北の手仕事

お正月、里帰りした方の中には、故郷の「工芸品」に触れた方もいるんじゃないでしょうか。今朝は、震災後に芽生えた、東北の工芸品・モノ作りを見直す動きをクローズアップします。

ギフトショップサイト「TOHOK」です。このサイトは、東北各地の丁寧な手仕事、工芸品を、背景のストーリーとともに紹介。アイテムはネットを通じて購入することが出来ます。

サイトを立ち上げたのは、友廣裕一さん(30歳)。友廣さんは、震災前から東北に縁があったと言います。

◆東北でお世話になった人たちのために
大学を卒業したあと、地域に関わる仕事がしたくて農山漁村を回る旅をしていた。どんな人たちがどんな思いで、どんな風に仕事をしているのか、暮らしているのかを知りたいと、各地で手伝いをしながら泊めてもらい、北海道から沖縄まで70近い地域を回って来た。その時に、東北でお世話になった人との出会いがあった。旅で出会った醤油屋さんや農家の方がたくさんいて、震災後すぐに力になりたいと思ったが素手で行ってもなにもできない。そんな中、震災直後の3月17日に避難所の状況を把握するプロジェクトが立ち上がり、現地に入ったのがきっかけでした。



こうして友廣さんは震災後、宮城県石巻市でボランティア活動を始めたのですが、そこで出会ったのが、東北という土地が生んだ、 「手仕事」の文化でした。

◆震災後に芽生えた「モノ作り」
石巻に入って避難所を回ったところ、浜のお母さんたちが、船が流され漁業復旧のめどが立たないのを知った。何かやってみたいという話が出ていたので、最初は、ミサンガ作りが趣味だという地元のお母さんがいたので、漁網を使ったミサンガを作って販売。その売り上げを貯金して、お母さんたちは翌年2012年7月に、震災前から夢だった浜の海産物を使ったお弁当屋さんを立ち上げた。牡鹿半島の別の浜では地元資源でのモノ作りを考えていた。牡鹿半島はその名の通りシカがたくさんいる。そのシカの角を譲ってもらい、輪切りにして漁網の糸を巻いてアクセサリブランドを立ち上げて販売して来た。そういうプロジェクトをやってきた。そういうことをやっていると、震災後に新しくモノ作りを始めたという人がたくさんいることに気がついた。阪神淡路大震災の時はそういうことはほとんど無かったが、東日本大震災のあとは商品数では200以上、沿岸部で生まれて来た。これは何か面白いというか、日常じゃ起こらないことが起きている。これを応援できないかと思っていたところ、スイスの時計メーカー・ジェラールペルゴが日本のモノ作りを支援やりたい、と話を持ちかけてきた。そこで、東北に新しく生まれた手仕事の背景を紹介する、「東北マニュファクチュールストーリー」というウェブサイトを立ち上げた。しかし販売にはなかなか行けなかったので、ならば僕らが販路を持ち、買い取ることが出来れば、東北のモノ作りの次の展開ができるのではないかと考えた。また、東北には伝統工芸品が震災と関係なく、丁寧なモノ作りの文化が根付いていた。しかし今のライフスタイルには合わないため、良いものを作っていても居場所がない。それを一緒に磨いて行くことができたら、東北のモノ作りの次の展開を一緒にできるんじゃないかと考え「TOHOK」というブランドを立ち上げることになった。




ギフトショップ「TOHOK」では現在、牡鹿半島のお母さんたちの手仕事による「鹿の角のアクセサリ」、岩手県の「南部鉄器の鉄瓶」、福島県「会津木綿のグッズ」など、12種類のアイテムを扱っています。
★ギフトショップ「TOHOK」
★東北マニュファクチュールストーリー

また、ギフトショップTOHOKは現在、各地のイベント・催事場での販売も積極的に展開しています。1月6日(火)から12(月・成人の日)までは、東京新宿の「ルミネ新宿店」にて、期間限定のショップを出店するということです。
★ルミネ新宿店イベント

パーソナリティ 鈴村健一

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