2015年3月31日

3月31日 女川トレーラーハウス EL FARO(2)

宮城県・女川町のトレーラーハウス型宿泊施設『エルファロ』は震災後に開業し、4軒の旅館経営者によって共同運営されています。




理事長の佐々木里子さんは元々、女川の『奈々美や旅館』の娘として、旅館を手伝っていた方。生まれ育った旅館は、津波で流されてしまいましたが、佐々木さんは、それでも変わらない、女川の魅力をこう語ります。

◆女川の自然「あるある」
(元々の旅館は)女川地域医療センターの下だったんですけど、サンマ船や漁船が入ると甲子園球場のようにサイレンが鳴るんです。水揚げがはじまるよという合図なんですけど、それが聞こえるとトラックが待機して水揚げのシーンが始まる。それが女川の音だなと。海岸が現気になっている音だなと感じていました。ウミネコが山の方へ飛ぶともうすぐ雨。海岸の方に飛んで行くと晴れわたる。それを天気予報にしていた。子どもが「海水浴に行きたい」というと、ウミネコを見ておいでと。空を見上げてウミネコが山へ飛んで行ったら本当に雨が降るんです。女川あるあるですかね(笑) 夜は本当にこういう夜景なんですね、空が星が降るような風景で、背中に山を背負っているので裏で鹿が鳴いたり、タヌキがちょろちょろしたりリスが動いたり、そういう自然の中にいまこのエルファロがあって。鹿はピーンって鳴くんです。自分たちはここにいるからこないでね、という警戒の音らしいです。だんだん私も自然から学ぶことが多くなって。ウミネコもそうですけど。


一方、女川はJR石巻線の全線開通、女川駅の再開で、大きな変化の中にいます。佐々木さんは、震災後に芽生えたもう一つの魅力が 女川にはあると話します。


◆女川の「人」に会いにきて!
通過する町ではなく、やっぱり足を止めて頂きたいなと思う。ちょっと泊まって頂いて。女川町の魅力よりも町民の魅力がすごい町なので、震災前の女川も元々大好きなんですね。隣近所のおじちゃんに怒られたり、うちに帰ったら親にバレているんじゃないかとドキドキしながら家に帰ったり、下町みたいな魅力だったんですけど、震災後の女川町は町もそうですけど町民が好きなんです。すごく人付き合いのできる町になったかなって。一人がなにかをしようとすると職種関係なく、「自分たちはこれが協力できるよ」とか「これも面白いんじゃない」とか、どんどんアイデアを出してくれて形になるまで手伝ってくれて。そういう人の交流が強くなっている町だと思うので、それは震災前よりも今の方が好きですね。色んな方とお話をして、町を見ながら、あの人元気にやってるかなと立ち寄ってもらって、親戚みたいに第二の故郷みたいになればいいなと思っていますね。


明日も、女川町「エルファロ」 佐々木里子さんの声をお届けします。

★EL FAROサイト

2015年3月30日

3月30日 女川トレーラーハウス EL FARO(1)

再生へむけ歩み始めた宮城県・女川町からのレポート。この町で生きる人の声をお届けします。


お話を伺ったのは、佐々木里子さん。
佐々木さんは結婚を機に女川を離れ暮らしていたのですが、生まれ育った実家…旅館への想いが強く、2003年頃からはふるさとへ戻り、女川でご両親の旅館を手伝っていました。

そして現在。佐々木さんは女川で、新たな宿泊施設を運営しています。
ご両親にずっと言い出せなかったことを、実現するためです。

◆両親と交わせなかった一言
わたし個人の気持ちでいうと、両親と旅館をしている時に、手元に子どもがいて両親と旅館をやっている時がすごく幸せな時期だったんですね。主人が単身赴任している時に8年間女川でやらせてもらったんですけど、その8年間を津波ひとつで失いたくなかったというのかしら。両親と交わせなかった一言があって、「継いで欲しい」と両親も言わなかったし、私も継ぎたいと言えなかった。嫁に出た立場だったので。言いたいけど言えない。禁句じゃないんですけど、言っちゃいけないよなと。それを言えなかったけど実現したいなと切り替わったのが私の中での原動力になったのかなと思います。


いま佐々木さんは、旦那さん・お子さんとともに隣町・石巻で生活をしながら、女川の「エルファロ」という宿泊施設を切り盛りしています。旅館の仕事を再開できたのは、ご家族の支えがあったからだと話します。

◆再起のきっかけ
父親が震災で無くなって三月中に見つかり、でも母親はずっと行方不明で見つからなかった頃、なにをしていても涙が出てくるんです。子どもたちとご飯を食べて「おいしいね」と言ったとたんに涙が出たり、テレビを見ていて楽しいと思った瞬間に涙が出たり、どこにスイッチがあるのか自分でも分からなかった。ある日の夜、カーテンを閉めようとしたらお月様が見えた。ちょうど9月で。まんまるのお月様が見えて、そのお月様を見たとたんにお母さんはいまこの月をどこから見ているんだろう、その耳には何が聞こえるのかな。ガレキの擦れる音か、水のじゃぶじゃぶ聞こえる音かなという考えが、グッと一瞬にして自分の中に入ってきて、振り向いたら子どもたちが「おかあさん泣いていいよ」と。いつも泣いているのを見ていたからね。「お母さん、がまんしないで泣くといいよ」って。その時に、あれ、かわいそうなのは私じゃない。親の姿を見ている子どもたちだ、一番辛いのは子どもたちかなって。だから子どもたちに、お母さんが笑える場所を見つけていい?旅館がやりたいんだけどと話したんです。すると「お母さんがやりたいことをやるのが一番だから」と子どもたちが応援団になってくれた。両親に継ぎたいとは言えなかったけど、勝手に継いでやろうと思って。震災の都市の年末には決意していましたね。本当に子どもの存在は今の私の原動力で、継ぎたいという気持ちを思い出させてくれた存在ですね。


こうして、震災の翌年2012年12月。トレーラーハウス型の宿泊施設「エルファロ」が開業。佐々木さん含む、女川の4つの旅館経営者が共同運営しています。
場所は、女川駅を横目に、内陸へ1キロほど入ったあたり。40棟のカラフルなトレーラーハウスが、並んでいるとても素敵な宿です♪
  
明日も、女川町「エルファロ」 佐々木里子さんの声をお届けします。


★EL FAROサイト

2015年3月26日

3月26日 女川町 復幸祭 女川を担う若い世代


◆復幸祭 来場者の声
(男性)気の毒だな、しか言えないけど、あっちのはじっこのほうで景色を見たけど綺麗なところだったんだなと思いますね。いい港町だったんだなという感じがします。
(女性)電車をみて感動しました。再生へ向けてがんばっているんだなというのを実感できたので来られてすごく良かったと思います。


JR石巻線の全線開通、女川駅の開業。そしてそれを祝う復幸祭。女川町の、若い世代を中心とした町づくりは、ようやく芽を出し始めました。
復幸祭、本当にたくさんの人でにぎわい、ステージではももいろクローバーZのライブや、女川の伝統芸能・獅子舞いなど、ものすごく盛り上がっていたのですが・・・こうした企画も、やはり若い世代が実現させたもの。これから町の未来を創っていく人たちの声です。

◆若者が集まる町を目指して
<商工会青年部の赤間やすひろさん>
牡蠣汁をやっていたんですが午前中で完売しちゃいました。美味しかったですよ。自画自賛ですが(笑) きょうもリアスの戦士イーガーという青年部で制作からデザインから全部作ったご当地ヒーローのショーがありました。イーガーはベルトが赤白灯台になっていたり、足のパーツに笹かまがついていたり、剣は銀じゃ剣という銀鮭をモチーフにしたもの。イーガー自体がウミネコをモチーフにしていて、女川の色々なものを取り入れたキャラクターですね。敵もクララーゲというクラゲ。みんなにイーガーショーをやったんですが、みんなに見てもらえて、盛大に祝って。明日からは日常に戻るんですが、きょうはとりあえず色んなことを忘れてお祝い一色という。私はプロパンガスの燃料店をやっています。人口が半分以下になってしまってみんな経営面では厳しいものがありますが、だからこそこうやって女川に来てもらって、若い人ががんばっている姿を見せて、女川に住んでもらうことが一番の最終的な目標。何度も訪れてほしいと思っています。

<地元高校2年生・木村しゅんやさん>
(今日はどんなブースを?)高校生・大学生が考える女川町の課題解決というブース。もっと女川町に活気を取り戻そうというのと、女川町の特産品であるホヤの消費をもっと伸ばそう、最後は女川町に子どもたちの居場所を作ろうという三つです。今の女川町はすごい仮設に住んでいる人が多くて、家に遊びにおいでとなかなか言えない状況なので、「遊びにおいでよ」と言えるような場所を作りたいと考えています。活気を取り戻すという点では高校生がもっとイベントに参加して盛り上げよう、若者を町に呼ぼうということ。ホヤについてはマーケティングの方法を調査してやっていこうと勧めています。女川町自体はいつか出て行こうとかんがえていて、それは必然的だと思うんですけど、でもいなくなるからこそ今できることをしようと考えていて、故郷はここしかないのでそれは変わらない事実で、いつかは必ず戻ってきたいなと思っています。
(女川町の未来は明るいと思う?)この人の集まりを見ていると、今まで以上に笑顔あふれる町になるんじゃないかなと思います。


ちなみにお話に出て来たリアスの戦士イーガーは、ヤリイカの槍「ヤリイーガー」、養殖日本一を誇った銀鮭の剣「ギンジャ剣」、そして養殖ホタテの盾「ホ盾」を武器に、エチゼンクラゲ怪人クララーゲや、カラスガレイ怪人エンガーワと日々戦っています。


そして今後の女川!5月のゴールデンウィークには、地元 熊野神社の例大祭が開催。こちらの神輿担ぎは全国からボランティアを募る企画になっているということです。

2015年3月25日

3月25日 女川町 復幸祭・復幸男

今朝も、JR石巻線全線開通・女川駅舎開業に沸き立つ宮城県女川町からのレポートです。


先週末21日・22日の2日間、女川町は、真新しい駅前広場を会場に様々な催しが行われました。22日に開かれた復幸祭では、名物 焼きサンマの無料配布ほか、当地の食べ物ブースが立ち並び、県内・県外からのお客さんでにぎわいました。
そしてその前日21日に行われたのが女川の新たな恒例行事、『女川 復幸男』です。

◆復幸男は俺だ!!
・参加は2回目です。地元です。震災は風化してしまい語り継ぐのは難しいと思うんですがこういったイベントみたいな形でずっと続けていけば、防げるんじゃないかなと思って、なるべく参加を続けていきたいと思っていますね。(去年の成績は?)去年は7番だったのでなるべく3番以内にはいきたいなと思います。
・いきごみは・・・とりあえず完走します(笑) 去年は30秒くらいで足が動かなくなってしまったので、運動不足で。体を鍛えていない人間がそういう事態にいきなり陥った時にどれだけやれるものなのか、そういうのが分からないと怖さって実感できないと思いまして。


つまり復幸男は、「走る」イベントなんです。参加者は女川駅前から、300mの坂を上り女川小学校まで全力疾走します。同じように走るイベントとして有名な西宮神社の「福男」からも公認をもらったイベント。地元町づくり会議のメンバー、高橋正樹さんにコンセプトを教えていただきました。

◆津波避難の基礎を後世へ
平らな道を走るのではなくて長い坂路を駆け抜ける。本来のコンセプトは津波が発生した瞬間に逃げる。女川町に第一波が到達した3時32分をスタートに「逃げろ!」という掛け声とともに、100人以上が参加される。命を守るということを伝えることができる人。だから女川町民でなくてもよい。復幸男と言いながら女性でも関係ない。やっちゃってください。とにかく「伝える」こと。1位になった人が伝えるのではなく、今日走った100人以上が全員伝えることになる。津波は女川だけに来るものではないし、危機管理意識を喚起するという意味でも意義深いものだと思います。


津波から高台へ走って逃げる。いわゆる避難訓練を逆転の発想でイベントにする女川復幸男。今年の参加者は200名以上。高台にある女川小学校まで300mの坂をたくさんの参加者が一気に駆け上がりました。トップでゴールした人は「津波伝承一番復幸男」に選ばれます。


今年は千葉県松戸市で中学校の先生をしている高田さんが1位でゴール(40.6秒)高田さんには復幸男の認定証、マグロ3キロなどが授与されました。

明日も、女川駅の再開にわく、女川町からお伝えします。

2015年3月24日

3月24日 女川温泉「ゆぽっぽ」


21日(土)、宮城県女川町では女川駅舎が開業。その翌日には駅舎と一体になった「ゆぽっぽ」という温浴施設も同時に開業しました。「町のお風呂」の復活を喜ぶ、地元のお母さんたちの声です。

◆待ちに待った「町のお風呂」
たのしみだよ〜。しょっちゅう行ってたんだよ〜。ここでね、食堂からご飯を取って食べて。夜9時までだからもう1回入って、それから家さいって寝るの。
(みなさんお友達ですか)そうなの。いつも一緒にお風呂入っていた。4年ぶりだよ〜。ちょっとお湯がしょっぱいのね。入るの楽しみだね〜楽しみだ。楽しみだ。


女川温泉ゆぽっぽ は元々、駅のとなりにあった温浴施設です。津波で全壊となったあと、建築家・坂茂さんによって駅舎と一体になって復活。ですから女川駅改札を抜けると、すぐ入り口があり、女川に到着していきなりひとっ風呂!なんてことも可能なんです。
21日の式典に出席していた、坂茂さんのお話です。

◆町が広がる「点」を作らせてもらった
僕は被災地で20年間、神戸をはじめ世界中の被災地でボランティア活動として仮設建築や仮設住宅を作って来たんですけど、実は復興の建築をやるのは今回が初めてなんですね。ご縁があって仮設住宅をやらせて頂いて、須田町長から復興のお仕事を頂きまして、本当にこれが初めてなんですけどやってみて、やっぱりすごく意義もあるし、自分としても今まで建物をいっぱい作ってきていますけど、その中でもひとしお喜びが強いですね。町のシンボルですけどここから町がどんどん広がっていくのは楽しみですし、その最初のひとつの「点」を作らせて頂いたチャンスは、今までいろんな仕事をやった中でもよいけじめというかチャンスになったなと。そしてこれは町長さんのアイデアなんですが、僕がずっとボランティアの仕事を一緒にやってきた日本画家の千住博さんに思い切って、ボランティアで絵を描いて頂いて。これが町のひとつの宝になりましたよね。この建物を活かしてくれたと。初めてアーティストと組んでやったのですが、絵のおかげで建物が生きて来たなという気がします。


女川温泉ゆぽっぽは、天井からは自然の光が入るよう設計されています。実際は行ったスタッフによれば「柔らかい光と暖かいお湯に包まれます」とのこと。


また浴室の壁面タイルには、日本画家千住博さんの描いた見事な富士山の絵。休憩所にも、千住さんの描いた大きな樹木と、全国から公募した「お花」を組み合わせたタイル絵もあります。

最後にゆぽっぽ支配人 吉田雅さんのお話です。

◆みんなが集まるお風呂に
4年ぶりの復活なので、きょうは大人は入湯税だけ。小中学生は無料。友達連れてくる人もいるし復興祭を楽しみながら2回も3回もくるかたもいます。単純に復活してくれて嬉しいと。昔とおんなじ泉質だねと。源泉はやられていませんので全く同じ泉質でみなさん懐かしがってもらっています。建物は坂茂先生ですので世界的に有名な方が女川町のために規格に参画してくれたのが大きなことだと思います。半分は美術館的な感じになっていますので、建物は好きな方は建物を見て回るだけでだいぶ楽しめると思います。



女川温泉「ゆぽっぽ」は今月いっぱいは大人100円!小中学生は無料となっています。
ちなみに休憩室の左右は大きな窓になっていて、お風呂上がりにお酒やジュースを飲みながら、海を眺め、さらに、発着する石巻線の姿も眺めることができます。ぜひ一度、ひとっぷり浴びに行ってみてください。

明日も、女川駅の再開にわく、女川町からお伝えします。

2015年3月23日

3月23日 女川駅ついに再開


4年ぶりの「汽笛の音」が町に響き、列車は朝日を浴びながら走り出しました。
3月21日(春分の日)。震災の影響で一部運休が続いていたJR石巻線は「浦宿―女川」間の運転を再開。石巻線は全線が復旧し、女川駅も4年ぶりに開業しました。

女川駅の始発は、午前6時12分発 古川行き。早朝にもかかわらず、地元の方をはじめ大勢の方が完成間もない駅舎に詰めかけていました。ホームで待つ人たちの声です。

◆列車はそれぞれの想いを乗せて
(石巻高校1年男子)いつも代行バスを使って浦宿駅まで言って乗り継いで高校まで40分ー50分かかりバスもぎゅうぎゅうだったが、これを使えば便利だし朝がスムーズになります。
(仙台在住の男性)年に2度必ず来ていてその度にガレキも撤去され建物が建ち、景色が代わり復興が進んで行く。今日やっと駅が開業。始発に乗りたいと思って。
(復興支援チーム)女川の支援で兵庫・愛知・徳島・高知から来ていたOBたちが今日は集合しました。電車が来るということは町に動脈が通るということ。町づくりに関わる派遣の皆が今日は集まると前から計画していた。石巻まで言ってまた帰ってきます。
(埼玉男性)かれこれ20年近く釣りをしにこっちに来ていた。散々遊ばせてもらったので今度は恩返しだなと。ゆぽっぽもできるし、クルマできても1日楽しめてお風呂に入れて美味しいものも食べられる。いままさに朝日も昇っているが女川は景色もきれい。お魚はバンバンつれる。船に乗らなくてもつれる。みなさんぜひいらしてください。


この日の女川町は見事な快晴。朝日に照らされた石巻線は、たくさんの人を乗せ、時刻通りに出発しました。







このあと女川駅前では、駅の再開にあわせて「おながわ復興まちびらき」の式典が行われ、須田善明町長は、来場者へこう語りかけました。

◆「町びらき」はまだ道半ば
きょうは「町びらき」と銘打たせて頂いておりますけど、ご来賓の皆さんもぜひ周りをご覧下さい。絶賛 大造成中です。まだまだの中でも、4年を経てようやくここまでたどり着くことが出来ました。元々、みなさまがお座りになっている地面の場所はここから数メートル下です。ここは地元の皆さんのご自宅ですとか建物がいっぱいありました。4年前のあの日に本当に残念なことが起きてしまい、そこから未来へ向かわなければならないという中で、ここまでたどり着いたわけでございます。とはいえ町全体の造成の進捗率はまだ4割弱。そのような復興の現状ではございますが、まずはみんなで喜びあいましょう。そして大きな明日へ向かっていこうではありませんか。


開業の日、女川駅ホームにはカメラを構えた鉄道ファンもたくさん。大漁旗をふって電車を見送る地元の方も。そして翌22日(日)には駅舎に併設した温泉施設「ゆぽっぽ」も開業して、すでにたくさんのお客さんでにぎわっています。女川町は、これから復興事業がピークを迎えます。来年度中には、駅前の商業施設も 続々完成するということです。

明日も女川駅の再開に関するレポートをお伝えします。

2015年3月23日

3月19日 女川町づくり-須田町長4-

今週は宮城県女川町の町づくりについて、須田善明町長のインタビューをお伝えしています。

ま、女川町の高台からは、震災前より200m内陸側に建つ、新しい女川駅の完成した姿を見ることができます。21日(春分の日)、JR石巻線は、最後の不通区間だった浦宿―女川間の運転を再開。石巻線は全線が開通します。そして、新しい女川駅舎から、列車が走り出すのもいよいよ明後日です。

◆女川駅完成を前に
ようやく造成のグレーの色と土の色しかなかったところに、新しい女川駅と「ゆぽっぽ」という温浴施設が合築で、坂茂さんの設計で完成。お風呂部分には日本画家・千住博さんのタイルアートが。千住さんに、「お風呂だから富士山がいいんです」と頼んだら富士山を書いてくださった(笑)そして女川の子どもたちが全国から集めたタイルアートの「花」に、千住さんが木の枝を描きそれを張り付けた。千住さんとJR九州の観光列車 七つ星を手掛けた工業デザイナー水戸岡鋭治さんにやって頂いた。絶対に火事を起こせない施設になったなと(笑)
それは置いておいて、土色だったところに新しい色が付いた。これは我々にとって意味のあること。それと同時にそこは元々の被災跡地で住宅があった場所。そこに周辺の切土を盛り土造成して駅とJRの線路がある。その前面に商店街がこれから順次建築されていくことになる。今見ると区画道路や宅地ができつつあり、まさに町が立ち上がる姿が目の前に現れてきた。本当にこれは感慨深いこと。
その一方で、丸4年経ってここまできたという現実もある。町びらきは駅周辺で行うが周りは依然として造成中で、ダンプや重機がバンバン走っている。高台の団地についても、宅地供給率はまだ2割程度。公営住宅の入居率も3割程度という数字なのが現実。この27年にだいぶ加速するとは思っているが、町の再建・新生に向かってやっていきたい。そのうえで展開する、舞台の上でなにをなしていくか。我々の生き様や日常があってこそ始めて「町」になっていく。今回は町づくり会社が中心になって駅前近辺のエリアマネジメントを行っていく。にぎわいの核を作っていく。公民連携事業でスタートすることになる。ただ、どういう手法でやったら成功するのかは分からないわけです。そんな方程式があればとっくに使っている。だから我々のやることだって正解かどうかは分からない。それにチャレンジすることでちゃんと良い答えを出していかなければいけない。行政や民間が、ということではなくて、一体となってこれから新しい町がいいものになるように取り組んでいければと思っている。


女川では「復幸まちづくり女川合同会社」という会社が立ち上がり、水産など食のブランド化による復興を目指す動きも始まっています。この町づくり会社をはじめ、女川の町づくりの中心にいる若い世代。女川では「責任世代」と呼ばれ、これから10年20年と町を担う人たちです。その一人・須田町長が考える「20年後」とはどんなものなのでしょうか。

◆20年後・・・_
20年後・・・いまから数えると62歳になる。ここにずっといるのか、あるいは別の仕事に就いているのかは分からない。あるいは町づくり会社の社長になっているかもしれない。分からない中で、いまやっていることがいずれ、それぞれにとって将来への何かしらの糧になると思う。とにかく今は納得いくように全力を尽くすということ。というのはもう少し加えると、当たり前のものが4年前に一瞬にして奪われた。
きのうまで電話で話していた人間が、もう電話で話せない。あした自分がどうなっているか分からない。残念ながら私の同期は先般の交通事故で亡くなってしまったんですが、あしたが当たり前にあるかどうかは本当に分からない。だれにとっても。それを我々は最悪の形で経験させられた。だからこそ将来を見据えつつ、将来へ向かって「いま何をなすべきか」をとにかく全力で取り組むだけ。答えはあとから出てくるんだと思います。


21日に JR石巻線が全線復旧、駅舎が開業する宮城県女川町から須田善明町長のインタビュー、お伝えしました。

2015年3月18日

3月18日 女川町づくり-須田町長3-

21日(土)、津波で全壊した女川駅がいよいよ開業。
全国から注目を集める、宮城県女川町の町づくりをレポートしています。

女川町では、公募で集まった住民による「町づくりワーキンググループ」などを通じ、住民が主体となって、新しい町をデザインしてきました。このワーキンググループのメンバーは、半数が40代以下。女川の町づくりは様々な場面で、若い世代の意見が反映されています。須田善明町長の話です。

◆20年後の未来に責任を持つのは誰か
いま私を含めて、「青年」や「青年ちょい超え」「もうちょっと超え」の年代が色々やらせて頂いているが、その下地を作った出来事がある。震災1か月後に復興連絡協議会が立ち上がり、商工会長が会長を務め、観光協会や市場の組合の理事長が顧問となった。とにかく各産業界の代表的な方を50人くらい集めた。そこでこういう言葉があった。「みんな集まってもらったけど、私は今年で還暦です。還暦以上はみんな顧問。我々の年代は20年後にいるかどうか分かりません。50代より下は20年後にかなりの確率で生きているでしょう。だからお前ら(若い世代)の生きる未来。お前らが一生懸命中心になってやれ。頑張ってプランを作ってやれ」と。「我々の年代は君たちの弾除けになり、何かをなそうとしたら我々は金策に走ったり、君たちをちゃんと支え続けるから50代、40代、30代、20代のお前らが町を作れ」と震災の1か月後に言って頂いた。各団体・各事業所からそれぞれ主だったみなさんもいらっしゃっている。それが地域社会の中核になるメンバーであり、メッセージは全体で共有される。震災以後、それが各団体に共有されたことで色んな壁が取っ払われて、世代間の障壁も全部取っ払って70代から20代まで縦に1本の筋が通った。20代の連中が60代の方々に色んなリクエストをするし、先輩方は「おお、わか、分かった・・・」みたいな感じで(笑) じゃあそれをどうするか考えて、「お前らこれやってみろ」と。振られることもいっぱいあるが、「でも最終的にケツは持つよ」という風にちゃんとやってくれていますしね。震災後により強固になったという感じですかね。


これまで、女川という町を支えてきた 60代前後の経営者や、町のいわゆる“重鎮”と呼ばれる方々は、女川の若い世代をこう呼んでいます。「責任世代」。そして、現在42歳の須田町長をはじめ、「いまの責任世代」は、さらに、その次の「責任世代」へと、町を繋ごうと考えています。

●次の責任世代へ
我々は「残す」というより、今の子どもたちの世代が現役世代になった時に、自分たちが変えていく・作っていくための土台を残していきたいと思っています。今やろうとしていることが正解かどうかは分からない。10年後の世の中のトレンドや環境は今は予見できても当たるかどうかは分からない。今回、女川駅が新しくできて、海側に向かって出店ができてにぎわうような幅15mのプロムナードを作っています。でも誰も歩かなかったらどうしようと。そうなったら10年後は車道にするべき。例えば遊歩道として作っても、10年後にクルマが通れるような構造にすでにしてある。町は生き物だし、将来の答えも何が正解か分からない中で、環境変化に合わせて作り替えていく、使い変えていくことが必要になる場面はいっぱいでてくる。これまでの町のコンセプト、具体的に落とし込んだプロジェクトも、みんなで走りながら作って来たが、将来においてもそれは変わらないと思う。これが正解だとがちっと作り込むというより、若干の余裕というか遊びしろを持ちつつ、将来臨機応変に対応できるような仕込みを今からしておくべきだと思うし、子どもたち世代が大きくなった時に、そこを舞台として自由に対応できるような使い方、遊び方ができるようにしてあげられればと思っています。
             

女川の町づくりに関わるメンバーの一人(40代)は「自分の親父世代が、口を出したいのを、ぐっと飲み込んで、自分たちにまかせてくれている。その気持ちも分かるから、絶対に良い町を作ろうと覚悟も生まれた」。

これまで町を築いてきた世代から若い世代へ。次世代へ任せる覚悟と、そのバトンを受け取った人たちの責任が女川町を「新しい町」へと生まれ変わらせようとしています。

明日も引き続き、女川町の町づくりについてお伝えします。

2015年3月17日

3月17日 女川町づくり-須田町長2-

21日(土)、津波で全壊した女川駅がいよいよ開業。全国から注目を集める、宮城県女川町(おながわちょう)の町づくりをレポートしています。

女川町では、新しい駅舎周辺を「中心地」として町づくりを進めてきました。そしてそのデザインには、町民の意見が数多く反映されています。須田善明町長に、女川の町づくりの仕組みについて伺いました。

◆『口説ける水辺』を!
わが町の場合は7割以上の建物が失われ、中心部、漁業集落地区も含めほとんどやられつくしたわけですね。となるとわが町の復興まちづくりは「ゼロから線を描ける」ことが未来にとって唯一の糧だった。そのうえで「町づくりワーキンググループ」というのを設定させて頂いた。住民のみなさんに入って頂いて、これからの町づくりについて具体的に策定のプロセスに参画を頂いた。メンバーは20代から70代まで。比較的40代の層が厚かったが、中には30代のやんちゃ系のおにいちゃんもいて、「俺たちも議論に参加したい」と言ってくれて1年間入ってもらった。新しい人材発掘にもなった。これまで、商工会だとか漁協という活動がメインだったがそういうカテゴリじゃない人材がこういう風に新しい町づくりに入ってくれた。これはものすごくうれしかったですね。おおやれやれ!という感じで。そこで提言としてあったのが、「口説ける水辺を作りましょう」というもの。漁業・水産の町。海は仕事場。漁港でもある。
そうではなく、女川(おんながわ)という川もあるのだが、そうした水辺で若い世代が口説ける。あるいはカップルで来なければならない。口説ける水辺になるような素敵な空間がこの町全体に広がっていたらいいよね。おお素晴らしいキャッチコピー。いいセンスだなと思った。被災地復興の言葉の響きには悲壮感があるが、これはすごく未来志向。
なかなか街の復興で「口説ける水辺」というのは出て来ない。それを言っちゃえるのがおらが町のよさというか、また市の強さかな。みんなで作る町づくりです。


この町づくりワーキンググループは、住民と行政、さらに建設業者も同じテーブルで話し合うもの。いわゆる「住民のガス抜き」ではなく、アイデアを本当に「形にする」ための会議でした。

主婦や若者、経営者、そして行政の長。それぞれが役割をもって町を作っていく。須田町長はこれを「我々」という主語で表現します。

◆“我々”が、納得するため
何年後の将来を見据えるかは別にしても方向は一緒。リーダーという役割だが、あくまで女川全体がチーム。その一員、行政を担っているという意識は持っている。これからの取り組みに対して「我々」という表現を使っている。我々はこうしていくんだということ。だからこそ自分自身もこれからの道筋に対して納得したい。行政の長と言う立場ではあるが、わが町の復興というより新生。もう一度作る、生まれ変わる、新しく生み出す。納得したいからやっている。自分の生きる未来に対して。
還暦になった時に、ここまで出来たとなるか、ここまでしか出来なかったとなるかは分からないが、一緒にやってきた連中と「でもやったよ」と、ガル屋…東北で唯一10種類のクラフトビールが飲める店、ぜひお越しください。そこでビール飲みたいじゃないですか。

 
そのほか、町づくりワーキンググループでは、 「スナックなどがあって、ちゃんと“夜の楽しみがある町”じゃないと、人は集まらない!」という意見も出たと言います。行政の生真面目な会議ではおそらく出てこない住民の本音が飛び出す会議だったことが想像できます。

明日も引き続き、女川町の町づくりについてお伝えします。

2015年3月16日

3月16日 女川町づくり-須田町長1-

今週は被災地だけでなく全国から注目を集める、宮城県女川町の町づくりについて。

今週末21日、JR石巻線が全線復旧。女川町は、津波で全壊した駅舎が開業します。女川町はこの4年間「ほぼゼロからの町づくり」に取り組んできました。あの日、女川を襲った津波の高さは、およそ20メートル。8割の建物が失われたと言います。須田善明町長は、当時をこう振り返ります。

『地獄ですよね。みたまんまの。いままで当たり前だったものがなくなっただけじゃなく、これ以上ないくらいの姿。家の屋根に乗って、そのまま何キロも沖に流されて船で救出されたという方もいる。残念ながら犠牲になられた方は、女川町内で人口の1割・827名が失われた。家族は無事だったが、家は流された。うちの母の兄夫婦の亡がら、クルマの中で抱き合っているように眠っていた。それは本当に辛かったですね。』

須田町長は42歳。
震災直後・2011年秋の町長選で当選しています。当時66歳だった前の町長は、須田町長の出馬を受け、自ら身を引いたと言います。若い世代に、町の行政が託された形です。

◆「女川は流されたのではない。新しい女川に生まれ変わるんだ。」
当時 自分は県議を12年やっていて39歳。当時の前町長は全力を尽くして頂いた。街をどうするかということでリーダーシップをとっていた。ただ我々の年代、世代として、我々が背負うべき責任が20年後に待っているならば、復興の1歩目から将来背負うであろう責任を我々世代がちゃんとしょって行くべきじゃないのかと。そうすることで我々自身も未来に対して納得できる。
そして子どもたち。あの状況でたぶん色んな不平不満もあるはず。大人たちがそうやって下を見るしかなかった時に子どもたちが詩を書いたり絵を描いたりしていた。当時小学校5年生の男の子が「女川は流されたのではない。新しい女川に生まれ変わるんだ。人々は負けず、待ち続ける。新しい女川に住む喜びを感じるために」こういう詩を書いていた。大人たちがもしかすると下しか見られていなかった時に、子どもたちは未来を見ていたんだと。頭を殴られたような気がしましたね。政治家として以上にここに生きる人間人としてどうあるべきか、彼らの親世代である我々がどう行動していくべきか。そのことを改めて突きつけられた思いがした。彼らが未来を信じているのなら、我々大人がちゃんと未来へ至る道筋を作らなければ。泣いていられないということを突きつけられた気がしましたね。


今朝は、今週21日に JR石巻線が全線復旧、駅舎が開業する宮城県女川町から、須田善明町長のインタビュー、お伝えしました。明日も続きをお伝えします。

2015年3月15日

3月13日 長渕剛さんからのメッセージ

東日本大震災・被災児童自立支援プロジェクト「サポートアワーキッズ」の、3月のイベントに参加する長渕剛さんのメッセージをご紹介します。

「サポートアワーキッズ」は、数多くの困難の中、被災地で生活をしている子どもたちのために、出張授業や海外ホームステイなどを通じて、継続した支援活動を続けているプロジェクトです。
この春は、元ヤンキースの松井秀喜、デレク・ジーターを中心に、豪華メンバーが集う21日「春分の日」の「トモダチ・チャリティ・ベースボール」と、それに先だって来週月曜日に行なわれる「チャリティー・オークション・ディナー」、ふたつのビッグイベントが控えていますが、長渕さんはその両方に出演。ライブを行うほか、チャリティー・オークションにも出品をされます。

プロジェクトに参加されるその思い、こう語っていらっしゃいます。

◆君は独りじゃない
やっぱり子どたちは「未来」。で未来なき未来に遭遇したように思ったのが、震災の時だった。僕も初めてそれを体感した時、この先に未来はあるのだろうか、歌を唄ってる場合じゃないんじゃないかと混沌とした不安の中に突き落とされたのを今でもはっきり脳裏に焼き付いている。その中でも子どたちが一所懸命に風に吹かれながらも懸命に笑顔で無きグラウンドの中を走ってる姿を見ると、それが我々大人たちには希望になった。そういった意味では、何を信じたらいいか分からない、子供たちの不安というものに、我々大人が凛と立って、“こっちだよ!”“独りじゃないよ!”って、指し示してあげること、それが一番素晴らしことかと思って、僕は今回のチャリティーに心から賛同している。
“独りぼっちじゃないよ”っていうメッセージは、ずっとギターを持ち始めてから唄ってきたテーマ。いたいけない小さな命、子供たちの心の中に「独りぼっち」を作ったらいけないと思う。そういった意味ではひとつの空間の東京ドームにこういった方たちが、もちろん僕も参加しますが、子供たちのために一生懸命野球教室やったり歌を唄ったり楽しい祭典になると思うので是非来て欲しい。僕はギターを持って参じます。チャリティー・オークションでは使ったギターや新しく新調したギターを持って行くのでぜひ活用して欲しい。


3月16日、東京、ANAインターコンチネンタルホテルで行なわれる、「チャリティー・オークション・ディナー」では、長渕さんをはじめ、ボブ・ディラン、ブルース・スプリングスティーンの使ったギター、アンディ・ウォーホルの描いたミック・ジャガーのリトグラフ、元ヤンキースの松井、ジーターのサイン入りボールなどなど、びっくりするようなレアなアイテムが勢揃い。着席ブッフェスタイルのディナー付きイベントになっています。

一方、21日、東京ドームで行なわれる「トモダチ・チャリティ・ベースボール」は、巨人・原監督がプロデュース、日ハム・栗山監督や、松井、ジーター、大谷翔平選手らが参加する、夢のような野球教室「ベースボールクリニック」。そして、Teamジーター 対 Team松井による夢の対決も実現。両監督の指揮のもと、在日アメリカ人のジュニアユース選抜と、東北3県の中学生選抜が対戦します。「代打オレ!」という場面があるかもしれないそうです・・・

参加、観覧希望の方は、ぜひ「サポートアワーキッズ」のオフィシャルページを訪ねてみてください。

両方のイベントに出演され、ライブを行なう長渕剛さん。何度も足を運んでふれあってきた、東北の子供たちへ向けてのメッセージです。

◆君たちの事を忘れていない
とくに石巻は何度も足を運んだ。それから福島の子供たち、僕のふるさとの鹿児島に招いて、海につかったり魚追いかけたり・・・
ずっと君たちの事忘れていない。またチャリティーに参加して、また一所懸命唄う。会えるのを楽しみにしている!


「サポートアワーキッズ」の、3月のイベント、16日月曜日に行なわれる「チャリティー・オークション・ディナー」と、21日「春分の日」の「トモダチ・チャリティ・ベースボール」に参加されます、長渕剛さんのメッセージをご紹介しました。

「サポートアワーキッズ」サイト

2015年3月12日

3月12日 岩手県大槌町 小林寿美さん4

岩手県・大槌町の高校生語り部・小林寿美さん。

◆1年前・・・
‐ことみちゃん自身はこれから大槌で暮らしていく上でどんな町になっていってほしいと思いますか?

きれいなお店が欲しいとかは全く思わないんですけど、住民が愛着のもてる町、海が見えて海の匂いがするねとか、建物とかじゃなくて体で感じられる部分を失いたくないなって思います。

‐ことみちゃんの今の将来の夢を聞きたいな。

う〜ん、仕事とかは大槌に関われる仕事がしたいんですけど、ほかの町のこともあまり良く分からないんですけど、でもぜったい大槌ってなんかすごい場所なんだなって勝手に自分で思っているので、もっと勉強して多くの人を呼んで大槌の魅力を伝えたいなって思います。


1年前。小林寿美さんは、町と自分の将来をこんな風に描いていました。
あれから1年。
町は復興へ向け大きく姿を変えはじめました。
寿美さんはその変化に戸惑い、描いた将来に迷う時期もあったと言います。

そして今年3月1日。寿美さんは大槌高校を卒業。
町の魅力を伝えることのできる仕事に就きます。
いまの気持ち、未来の自分へむけた想いを、「手紙」に託してくれました。

『10年後の私へ。

あなたはまだ、大槌好きだって自信を持って言えていますか。言えていたらうれしいです。
10年前のあなたは大槌の祭りのことばかり考えたり、大槌弁丸出しで話したり、大槌で生まれた幸せを感じていました。そしてたくさんの人と触れ合いたい、大槌に人を呼び街の魅力を伝えられる人になりたい。大槌にかかわる仕事がしたい。そんな大きな夢ばかり抱いていました。

今のあなたは、自分の見ていた夢を歩いていますか?

10年前のあなたはたくさん悩み、もがいていましたね。本当に苦しい中で人生の選択をしてきましたね。でもあなたは、時には休みながらもゆっくり歩き、ここまでくることが出来ました。

もし道が見えなくなっていたら、夢を失いかけていたら、自分に言ってあげて下さい。
「大丈夫。あなたは一人じゃない。遠回りしたっていい。その時間は絶対に無駄じゃないから」。
10年前、苦しかった時に支えてくれた大切な人が教えてくれたよね。
「ドジョウは、鯉にはなれない」って。
あなたはあなたらしくあればいい。
その笑顔を忘れず、毎日を大切に過ごして下さい。

10年前の私より。 小林寿美』



寿美さんは、4月からは隣町・釜石のホテルで社会人として歩み始めます。
反対の声もあったようですが、大槌と、さらに釜石の魅力も案内できる、この仕事を選んだそうです。

震災の時、中学生だった子が社会人に。町の復興と、人の成長。これからも、両方を見届けていきたいと思います。

2015年3月12日

3月11日 岩手県大槌町 小林寿美さん3

岩手県・大槌町はいま、人の手によって再び姿を変えようとしています。津波の後、形をとどめていた建物も姿を消し、全国的に有名な湧水=わき水はかさ上げに伴い、その多くが姿を消しました。

おととし、高校生語り部として、津波の爪痕・町の魅力の両方を案内してくれた小林寿美さん。1年ぶりに会った彼女は、いまの町の変化に戸惑っているようでした。そして寿美さん自身も、人生の大きな転機を迎えています。

◆「やっぱり大槌が好き」
(1年前に寿美ちゃんにあったときは、高校生語り部として町を良くしたい、大槌は日本で一番良いところなのでそこを伝えたいと言っていたがその後活動は?)
やっぱり今までと違う環境に入ってしまったので、その分 人として成長できるということも多くあったんですけど、その分かかえきれなくなってしまって、疲れてしまった部分もあり、進路活動をどこか理由に、町に対する活動を控えていた時期がありました。やっぱり離れた自分に対する罪悪感もあったし、そういうのから目を背けているという自己嫌悪みたいな感情にもなったんですけど、進路活動とか高校生という自分で生活していたつもりでいたんですけど、周りの子とかが復興関係のボランティアに参加していると、どこかちょっと・・・「自分だったら」とか「私だったらこうできるのに」という気持ちが芽生えてきて、また新しい視野を見つけられた上で、語り部という形には戻っていないけど、外に出られる環境に戻ってきたので、何もできなかった・しなかった時期も大切だなと思ったし、離れてからやっぱりまた大槌のことを考えるし、大槌のことを聞かれるとウレシイし、やっぱり好きなんだなと改めて実感したので、就職してこの町で生活するという実感も出てきたので、よけいに愛着がもてたかなって思います。
(就職は高校卒業して釜石のホテル。いま率直にどう?)
大槌に関わりたいと思って、いましか見れない状況を見ながら社会で働きたいという考えになったので、隣町に行っても隣町のことをきちんと勉強して、その町の魅力を伝えて行ける人になれたらと思います。私をみて相手のお客さんが笑顔になってくれたらいいかなって思います。



この春、高校を卒業した小林寿美さん。
4月からは、いよいよ社会人となります。
今の気持ちを「手紙」にたくしてくださいました。続きは明日お伝えします。

2015年3月12日

3月10日 岩手県大槌町 小林寿美さん2

岩手県大津町で、「高校生語り部」として活動していた小林寿美さん。
あれから、1年と数ヶ月。
再び、大槌を寿美さんと歩いて感じたことは、津波で姿を変えた町が、今度は人の手によって変わろうとする、時間の経過でした。そして私たちは、寿美さんが震災前から一番好きな場所だという、町を見渡す高台へと向かいました。


◆人の手で大事なものが壊されていく・・・
(いま寿美ちゃんに案内してもらった高台。ここからだと大槌の景色がよく見える。さっき下にいた時は海がどこにあるか分からなかったが、ここから見ると、更地でかさ上げ工事がされていて民家は一軒も見えない。でもその先にキレイな海が見えますね。ここは?)
白山体育館とみんな呼んでいるんですけど、町の唯一の高台。311も避難所になった場所。色んな色の屋根がたくさんこの場所からは見えて、その先に川から繋がって海が見えて、そういう景色が広がっていました。
(以前から来ていた場所の景色がガラっと変わってしまって。いまこの景色を見て感じることはありますか?)
特に町への希望、将来への期待というのはこの町を見て何も感じないんですけど、津波でなくなってしまってしょうがないと割り切ったつもりでいたんですけど、やっぱり人が動かしている機械で残っていた建物や目印になっていたものが無くなってしまい、この町で生きて行きたいなと思っていたところが土で埋まってしまったので・・・さみしい・・・。どこかまだ夢から覚めていないような感じで、なぜ町がないんだろう、なんで壊されているんだろう、なんで重機がいっぱいあるんだろうとか、受け入れきれない部分が自分のどこかにあって・・・なんでだろうという気持ちがすごく強いです。

 
(出てない・・・全然だねこれが一応、湧水。1年前はこんこんと出ていたのに。これはかさ上げ工事の影響で?)
たぶんそうだと思います。一番町で大きく出ていたわき水がここだったので。あとは盛り土の下に埋まっているか、それでも湧水は止めることは出来ないので下から湧いているとは思うんですけど、唯一わかりやすい場所にあるのがここです。
(さみしいね)
そうですね。復興が進んでいるというのは分かるんですけど、失われて行くほうも多いので、やっぱり人の手で物をなくされて行くというのはちょっと気持ちがいいものではないなと感じます。
(去年は寿美ちゃんと一緒に、冷たいね〜と言っていた場所は工事の柵で入れなくなっちゃっているんですね・・・)


大槌町は、山が迫っているため、山から流れる地下水が高い水圧で平地でわき出します。住宅街の色んなところから湧いていて、生活用水に使われていて、「あそこのお家のとこの水は美味しい」なんて世間話するほど。湧水は人が集まり交流の場所だったといいます。
それが今回訪れた時には、すでに止まっていました。

こうして、大きく変わりはじめた町の姿。それを見つめてきた寿美さんも、人生の大きな転機を迎えています。明日は、小林寿美さんのこれからについてお伝えします。

2015年3月9日

3月9日 岩手県大槌町 小林寿美さん1


『あそこにみえるのがひょっこりひょうたん島と呼ばれている、蓬莱島です。大槌の人たちは蓬莱島と言っています。井上ひさしさんがひょうたんの形をみて、「ひょっこりひょうたん島」って言われています。なんか自慢になります。ひょうたん島のモデル〜♪って。
(海があってちょっと先にひょうたん島があって、そして山がある。リアス式の特徴ですよね。山も紅葉していてこんなきれいな景色があるんだなって、感動しちゃいます)』


今朝は、岩手県上閉伊郡 大槌町からのレポート。一昨年11月、大槌町のボランティアガイド「高校生語り部」として案内してくれたのが小林寿美さん。当時は高校2年生でした。

震災後、町の将来を真剣に考えるようになり、町への疑問を、町長に直接ぶつけるほどの行動派。語り部として、大槌町の津波被害を受けた建物や、様々な名所、観光スポットを教えてくれました。ひょっこりひょうたん島のモデル「蓬莱島」も、本当に誇らしげに楽しそうに、その由来や魅力を語っていました。雰囲気はあどけないのですが、いざ語り部になると、大人顔負けのトークで、被災地の抱える問題を鋭く指摘していたのが印象的でした。

あれから1年。再び寿美さんに会ってきました。場所は大槌町の旧町役場。津波で大きな被害を受け中にいた職員が多数亡くなった、震災の爪痕を残す建物です。


◆あれから一年。町役場は・・・
〜ちょうど一年前に寿美ちゃんが案内をしてくれた、元の大槌町の町役場に来ています。印象が変わりましたね。

そうですね。一部解体・一部保存ということで意見がまとまっているが、街の声としては「いらない」の方が私の耳には多く入ってきているので、この先復興が進んで行く中で、この建物の立場がどうなるのかははっきりとは決まっていない状態だと思います。

〜いらない、という声が多いのは、震災当時のことを思い出してしまう人が多いから?

そういう方も多いが、私たちにすると、いまは支援や補助で町が運営できているが、元々経済がうまくいっていない大槌町で、維持管理は私たちの世代が負担する。そう考えると、子どもたちのことを考えた親世代の反対もある。

〜琴美ちゃん自身は?

いまの段階だと、残っていてほしいし、たまに「風化」ではないが、なぜ今の状態になっているんだろう
なぜ町がないんだろうと考える時がみんなあると思って、そういう時に役場を見て、こういうことがあったのだと自分の中で思い直して、津波や地震に気をつけなきゃと思うことがあると思うので、そういう面で考えるとまだ残してほしいなと思います。


1年ぶりに大槌を案内してくれた小林寿美さんは、実は3月1日に大槌高校を卒業。現在は語り部の活動から離れています。そして、この春には就職を控えているのですが・・・寿美さんの「いま」と「これから」は、明日以降お伝えしていきます。

2015年3月5日

3月5日 震災からまる4年・福興浜団のいま(4)

いまも、行方不明者の捜索を続ける「福興浜団」上野敬幸さんのインタビューをお伝えしています。

上野さんは震災の翌年、元のご自宅のすぐ隣に一軒家を建て、そこで生活を続けています。元のご自宅

この大きなお屋敷は、津波を受けながら奇跡的に形をとどめたものです。ただ、行政から全壊判定を受け、暮らすことはできません。見渡す限り更地となった南相馬市萱浜に、このお屋敷は当時の姿のまま残されているんです。

「このお屋敷が残ったからこそ、福興浜団が活動するために集まることができた」と上野さん。

この地区の他の住民の多くは、別の場所で住宅再建・災害公営住宅への入居を進めていますが、でも上野さんは津波で失った家族と、一つ屋根の下に戻りたいという気持ちから、この土地を離れることを良しとしませんでした。行政と話し合い、家を建てることを認めてもらったと言います。
ただ、全壊と判定された 元のご自宅については、決断を迫られています。

◆壊さなければいけない
みんながいた、みんなが生活していた家なのでなかなか壊す選択、踏ん切りがつかない。でももう尻に火がついている状況。行政としても3月いっぱいに更地にしてください、というのが条件。そこまでなら市も予算があるので壊す費用は行政が出すが、自分で壊すとなると産業廃棄物扱いとなり500万円以上かかる。そんな余裕もないし、今はすごく悩んでいる時。僕もどこかでは手を付けなければいけないとは思っている。こういう状態になって、風もすごい。沿岸部はどこでもそうだと思うが、建物や防風林がなくなったことで風当たりがすごい。特に今の時期から春先にかけては全く前が見えないほどの砂埃になる時もある。風が強いので、この家を残しておけばどこかで朽ちて倒れてぶつかってくることもあるだろうし、取り壊さなければいけない時期は必ず来るだろうとは思っていた。まだ、2階には永吏可の荷物もあったりするので、それをなんとかしたいなと思っているけどね・・・ちょっと難しいですよね。
親父が建てたんです。だから僕が20歳すぎの時にできたのかな。親父はこの家を専業農家で建てたというのはすごいなと思う。けして専業農家が儲かる仕事でもないし、どちらかといえば一次産業なんていうのは一番下に見られて生活も大変じゃないですか。そんな中でこの家を親父が建てたのは、すごく頑張ったんだろうなということを今は思う。そういう部分ではすごく親父のことは尊敬していますね。だから僕にとっては宝。家族みんなでいたところなので、そこを壊すという選択を自分でしなければいけないわけじゃないですか。これを壊すのを自分では見ていられないし、でもどこかでやらなきゃいけない。それが行政に頼むしかないと今の状態で3月までと決められてしまっているので難しいです。


上野さんは元のご自宅をリフォームすることも検討したそうですが、数千万円かかるそう。また奥さんも、元の自宅で暮らすのは寂しすぎると反対したので断念しています。元のご自宅をどうするかは、今月中にご自身の中で決断しなければいけない状況となっています。


★福興浜団Facebook

2015年3月4日

3月4日 震災からまる4年・福興浜団のいま(3)

引き続き、福島県南相馬市から、福興浜団の上野敬幸さんのインタビューです。

震災当時、上野さんの長女、永吏可ちゃんは小学校2年生。長男の倖太郎君は、幼稚園入園を控えていました。2人を津波で失った上野さんご夫妻は、その直後に生まれた次女・倖吏生(さりい)ちゃんとともに暮らしています。倖吏生ちゃんはこの春、幼稚園に通うことになります。

震災からまる4年。この4年という時間の経過を上野さんは、何を感じながら過ごして来たのでしょうか。

◆止まってしまった時間
倖吏生の存在は僕ら夫婦にとってすごく大きいし今の支えになっているのは事実。倖太郎と永吏可と同じですごく大事。でも倖吏生の成長とともに、倖太郎と永吏可の短さを同時に感じるので、いまも倖吏生が3歳になってしまって、4月から幼稚園に行くんです。倖太郎は当時3歳で、幼稚園に入園する前に津波が来てしまって。倖吏生はお兄ちゃんを今から超える人生を歩んでいくんですよ。8歳、3歳という年齢を倖吏生はどんどん超えて行ってほしいけど、お兄ちゃんに追いついて追い越しちゃうことを考えると、倖太郎の(人生の)短さを感じるし、こんなに短かったんだ、こんなにあっという間に倖太郎はいってしまったんだと感じる。これがお姉ちゃんの年齢8歳になるといろいろ考えると思う。倖吏生が成長するのは当然親として嬉しい。どんどん変わっていって色んなことができるようになるのは嬉しい。それと同時に寂しさを同じように感じるのかなと思うんですね。
(黒いランドセルがお家にありますね)
あれは倖太郎のランドセル。去年の4月で1年生になっているので。こういう風になってしまったんですけど、少なくとも僕ら家族の中では、倖太郎と永吏可の成長を考えて全部なんでもやっている。誕生日もクリスマスプレゼントも。当時は3歳と8歳のプレゼントを考えていたが、倖太郎も6月で8歳。年齢も考えながらプレゼントも選ぶようにしている。でも少しずつ僕らのプレゼント選びも難しくなっている。永吏可は小学校6年生なので、6年生の女の子はどういうものが好きなのかなと。そういう子どもたちが周りにいないのですごく難しくなっているのも事実。そういうところでも成長していっているんだと思うようにしてプレゼントも買っている。正直、使うこともないものなんだけれども、そこでやっぱりどんどん大きくなっているだろうなと。今年も3月になるが、永吏可は小学校卒業なので、来年度は中学校。また入学式は家族だけでやろうと思っています。
(奥様は?)泣いてるよ、常に。そういうときは。思うところが当然あるわけだからね。だけど僕がやりたいようにやらせてもらっています。


上野さんのお父さん、長男の倖太郎くんを含む東日本大震災の行方不明者は、ことし2月現在で2590名です。


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2015年3月3日

3月3日 震災からまる4年・福興浜団のいま(2)

昨日に引き続き、福島県南相馬市から、福興浜団の上野敬幸さんのインタビューです。

上野さんは、ご両親と、長女の永吏可ちゃん、長男の倖太郎君を津波で失い、倖太郎くんと父親は現在も行方不明のままとなっています。

震災からまる4年。上野さんと、「福興浜団」は、あの日からずっと、行方不明者を探す活動を続けています。



南相馬市萱浜の、海にほど近いご自宅は津波で全壊となったのですが、上野さんはそのすぐ隣に自宅を再建。震災前と同じ場所で生活を続けています。

◆抱きしめて、謝りたい
おふくろと永吏可が見つかって、永吏可のことはすごく抱きしめる機会があって、倖太郎も早く戻ってきて抱きしめたいという気持ちがあった。元々この場所に残ろうと思ったのも、倖太郎の存在が強い。抱きしめて謝りたいという気持ちが強くて。親の一番の仕事は子どもを守ることで、それが僕はできなかった最低の親だと思っている。だから子どもたちに何もしてやれなかったからあやまならきゃいけない。永吏可は抱きしめて謝ることができたが、早く倖太郎も抱きしめて謝りたいというのがあった。
もし当時、倖太郎を抱きしめて謝ることができたとしたら、僕はここにいないと思う。たぶん自分で自殺していたと思う。当時 嫁さんがいて、その嫁さんのお腹に倖吏生(さりい)がいる状況だったが、僕は永吏可と倖太郎が全てだったので、見つけることがもしできていたら僕は死んでいたと思う。今でも、倖太郎に僕は生かされていると思う。倖太郎が僕の命を助けてくれたのだと思う。僕を救うために倖太郎は出てこなかったんだろうなと思う。いまは自分で命を絶つということをする気もない、精いっぱい生きなきゃいけないと思っているが、早く見つけて抱きしめたいという気持ちは変わらない。もう僕は大丈夫だから出てきてほしいと思っている。


すでにお伝えしていますが、上野さんの奥さんは震災当時、お腹に赤ちゃんがいました。震災後、無事に生まれた女の子の名前は、倖吏生ちゃん。この名前は、倖太郎くんと永吏可ちゃんから一字ずつもらったものです。まもなく幼稚園入園を迎える倖吏生ちゃんは、上野さんご夫妻の大きな支えになっています。

ただ一方、上野さんは、気持ちの整理がついたわけではないと話します。

◆気がつくと2人を探してしまう
気持ちの整理という部分では、倖太郎と永吏可に関してはやはり難しい部分があって、今でもやはり怖くてしょうがない部分がすごくあるんですよ。子どもたちと行ったところが僕はすごく怖いんですよ。
探してしまうので。気づくと永吏可と倖太郎を探してしまっているので、そういうのがすごく怖くて、もしかしたらその陰から永吏可と倖太郎が出てくるんじゃないか、パパって呼んでくれるんじゃないかとすごく感じる。今でも永吏可と倖太郎と遊びに行ったところだとかは、すごく怖くて行きにくいのは現実。それでも倖吏生がいるから同じところにいくじゃないですか。だから少しずつ自分の中でも慣らしていくって言ったらおかしいけど、そういうのも少しずつ超えていかなきゃいけないものがあるなと思っています。



「福興浜団」の活動について、詳しくはフェイスブックページでご確認ください。オリジナルパーカーやタオルを購入することで、活動を支援することもできます。
★福興浜団Facebook

明日も、福興浜団 上野さんのインタビューをお伝えします。

2015年3月2日

3月2日 震災からまる4年・福興浜団のいま(1)

震災から、まる4年。高速道路が復旧し、それぞれの町で、生活再建も徐々に進んでいます。
その一方、いまも、津波による行方不明者を捜索する人々がいます。
今朝は、福島県南相馬市から、福興浜団の活動レポートです。



福興浜団は毎週 土日に、南相馬市をはじめ福島県の海岸沿いで捜索活動を続けています。この日は、およそ1キロほどの海岸沿いを、テトラポッドをよじ登り、乗り越え、その隙間を覗き込むという捜索が行われました。参加者の数は現在10名程度。それぞれの想いで活動に参加しています。

◆打ち上げられるかも知れない遺留品
(福興浜団 メンバーの男性) ここの場所は南相場原町区の北泉海岸。上野さんのご自宅から数キロ。よく捜索にくるエリアです。今年は僕が来ただけで3回。波に打ち上げられたもので、遺骨がないか探したり、テトラポットの隙間にないか見たりとか。みんな思い思いにやっています。

◆「おかえりなさい」
(福興浜団 メンバーの女性) 私は福興浜団に震災の翌年5月から。やっと小高に入れるようになった頃から参加しています。その頃は側溝も流出物でいっぱいでしたし。側溝の泥上げをしながら行方不明の人たちを探したり、津波被害にあわれたお宅の床下を掃除しながら行方不明者の方を探したり、流出物の仕分けをしている時に帰って来た方の一部かな、というのもありました。今はもう「お帰りなさい」とだけ。本当はもっとたくさん帰ってきている人はいるはずなんですけど見つけられないのが悔しい。


番組が取材したこの日、捜索に参加していた女性は、今年の1月にも、遺留物の一部を見つけたそうです。ただ、それが人のものなのか、動物のものなのかは分からないと言います。女性は、「それでも 「おかえりなさい、ということに変わりはない」と話していました。

福興浜団は元々、南相馬市萱浜の上野敬幸さんの想いに賛同した人たちの集まりです。上野さんは震災当時、消防団として住民の避難誘導をしていて、混乱の中で、ご両親と、長男・倖太郎君、長女・永吏可ちゃんを津波で失いました。幼稚園入園を控えていた長男の倖太郎君と父親は、今も行方不明のままです。

震災から4年。あの日からずっと、上野さんはご家族や行方不明になった人たちを探し続けています。

◆可能性をゼロにしたくない
僕らはいけるところは行こうと思っていますし、いまは20キロ圏内で分別作業が進んできて、その中から見つかっている人がいるんです。発表はされないけど南相馬でもずいぶん見つかっているし、浪江でも(捜索が)はじまっている。まだまだ福島に関しては海だけでなく陸上でも、探せば見つかる人がまだまだいるはず。この場所から原発の反対側(南)の20キロ圏内の富岡であったり。行けるところはどこでも行きます。でも全然可能性はゼロではないなと感じています。テトラポッドが置かれ護岸工事が進んだとしても。探さなければ、誰もみなければ可能性はゼロになってしまう。可能性をゼロにしたくないという気持ちも自分の中にはある。当時、萱浜は20キロ圏内と一緒で、原発事故でみな避難してしまった場所。探す人が誰もいなくなり、永吏可とおふくろは見つかったが、親父と倖太郎は僕の中では行方不明。僕が残らなきゃ誰も見つからないという気持ちもあったと思う。誰もここを見なくなってしまったら、地区の人も誰も見つからなくなるというのが怖くて、可能性をゼロにするのが嫌なので。だから今でもやっています。


「福興浜団」は、毎週末、土・日と土日につながる祝日に捜索活動を行っています。福興浜団のフェイスブックページでは、活動情報が随時更新されていますので、関心のある方はこちらもご覧ください。

パーソナリティ:中西哲生・高橋万里恵

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2017 東日本大震災から5年 LOVE&HOPE 2016年3月11日(金) 特別企画放送

「LOVE&HOPE〜防災ハンドブック2015」PDF版ダウンロード配信中

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