2015年9月30日

9月30日 廃炉作業員の現状を伝える団体AFW 3

福島第一原発の廃炉現場で働く人たちの、実情を伝える団体 AFW。
代表の吉川彰浩さん自身、元々東京電力の社員で、原発事故以降も1年以上、福島第二原発の作業に関わっていました。

そして現在、AFWでは、福島県で復興に関わる人たちを対象に今年2月から、第一原発の敷地内の視察・勉強会を行っています。

◆だからこそ知らないといけない
住民の方に、福島第一原発を実際に見てみませんかというお声がけをすると、だいたいの人が「行きたくない、放射能が怖い」という話をする。実際に行くと、その入り口では普通に作業員の方が歩いているわけです。ものすごくショッキング。「ここまで大丈夫なの」「本当に大丈夫なの」と行かれた方のほとんどがそういう感覚を持つ。そのあと実際にバスに乗って視察が始まると瓦礫も片づけられているしタンクも整然と並んでいる。数は多いけれどもなにか緊迫感は伝わってこない。ただ見ただけでは、非常に「(復旧・廃炉作業は)うまくいっていると感じた」というご意見をたくさんいただいている。第一原発で爆発を起こした原子炉建屋なんだ、じゃあそれが私たちの暮らしにどういうインパクトを与えていて、だからこそ知らなくちゃいけない。そういう取り組みを分かりやすくやらなくちゃならないんだなと。1、2回の学習会を開いただけでは通じないんだというのはどう改善するべきかと悩んでいるところですね。




※実際の視察で撮影された福島第一原発 敷地内の様子


※視察参加者に配られる資料

この視察、福島で復興に関わる人が対象なのは、誰かに原発のことを聞かれた時、「ちゃんと説明するため」と吉川さんは説明しています。ニュースではなく現場を見て、初めて説明できることがあるからです。

そしてもう一つ。現場を見ることで、いま廃炉作業に取り組む方々が、「どういう人達なのか」を周りに伝えてほしいから、だと話します。

◆7000人の作業員のことを
現在、東京電力の社員・作業員を含めて1日に約7000人の方が働いている。そのうち約45%が福島県民の方。これを聞いた時に私が思ったのは、やはり福島第一原発の廃炉は被災した福島県の方々にお世話になる取り組みなんだなと。私も海側・福島県に住んでおり、子どもや孫世代が将来、この3500分の1になるという考えで現場を見なければならないと思っている。そういう目で見ると、6月1日に大型休憩所というものがようやく現場に完成して、今年6月1日からようやく暖かいご飯を食べられるようになった。当たり前の食事ができるようにまで4年以上かかった。そういった目で見ると働く場所の環境としては良くない。東京電力の方々にも職場環境の改善に力を入れて頂きたいし、人がやりたくない仕事を、安心と安全を作るために努力されている方々に対しては感謝と怪我なく無理なくやって頂きたいという想いがあります。


2月以降、視察が実施された回数は5回。実は明日10月1日も、南相馬市の住民を対象とした視察がある予定です。そして現場を見た感想は、地域によって大きく違うと言います。

例えば、2012年にいち早く帰村宣言を出し、故郷の再建に取り組む川内村の方々。視察の直後にお話を伺いました。

◆現場を見て、伝えること
・川内村の商工会の方:川内村をこれから見ていくためには知っておかないといけない内容。目も背けられない。近隣にある村としてどういう方向で行くのかということで現場を見てみないと分からないということで誘われてきた。
・「いわなの里」というところで塩焼きを焼いたりしている。自分の目で現実の世界を見させてもらいたいと思った。今後で言えば廃炉作業へ向けて、難しい課題もたくさんあると聞いた。世界で初めてのことをする部分もある。そこは危険性はもちろんあるがその中で真摯に取り組まれている姿もよく分かりました。そういう人達に支えられているということを僕自身は感じた。私自身が伝えられることもあるかと思うので、そういうことはできるかと考えています。


AFWの視察、今後も実施される予定です。実は今後は、原子力を専攻する大学生を対象とした視察会も検討していると言います。廃炉作業には、原子力の専門知識・技術を持った若い世代が必要ということで、ある意味「将来の職場見学」の意味もある、とAFW代表・吉川さんは話しています。

明日も、AFWによる福島第一原発 敷地内の「視察」についてお伝えします。

★AFWウェブサイト

2015年9月29日

9月29日 廃炉作業員の現状を伝える団体AFW 2

今朝も、一般社団法人・AFW 代表・吉川彰浩さんのインタビューです。



福島第一原発の廃炉現場で働く人たちの、実情を伝える団体 AFW。代表の吉川さんご自身も、あの原発事故から1年数か月にわたり、東京電力の社員として、福島第二原発の作業に関わっていました。

そして2012年6月。吉川さんは東京電力を退社。過酷な環境にありながら、ほとんど報じられない作業員の現実を伝えようと、最初はひとりで活動を始めたと言います。

◆福島第一原発の「いま」を伝えるため
募金を集めて、現場の作業員さんたちに支援物資を届けましょうと。夏場と冬場に現場で使う機能性インナーを7000着送ることができました。その活動を通じて、第一原発で働く方の現状をようやく伝えられるようになったんです。
その時にようやく町の方々と毎日のようにお話をするようになりまして、第一原発についてものすごい不安を抱えて暮らしてらっしゃるんですね。福島第一原発の情報って福島県で暮らしていてもほとんど入ってこない。ニュースで「こういうトラブルがありました」ということは入ってきても、じゃあ今どういう状況まで良くなったのか、どういう課題があるのか、働く人はどうなっているのかというのは日常の暮らしでは全く感じられないんです。
私がそこで思ったのは、やはり原発事故の被災地域で暮らしていくには、自分たちが第一原発のことを知れる環境がないとまずいんだなと。メディアに頼るのではなく、自分の暮らしなのだから自分たちがアプローチできる、正しい生の情報をとれなくちゃいけないんだと思いました。
その方法としては、実際に見てみるというのが一番分かりやすいのかなと。ただものすごくハードルが高い。相談するのは当然ながら東京電力。その窓口へ相談へ行って、「私たちはここで暮らしていくために学びたい。ぜひ第一原発を観る機会を住民の方にいただけませんか」とお願いをしに行きました。
東京電力としても、現実を知ってほしいという想いは強いのでOKが出て、今年の2月には住民の方と福島第一原発を実際に見ることができた。そこで見るだけでは足りないと思った。一度お連れした方々が、原発を視察し終わった後に、そもそも第一原発を知らないので「理解できなかった」という意見がたくさん寄せられた。
「継続的に見れるようになりたい」「第一原発の設備、廃炉の取り組みについて学べる場が欲しい」というご意見をたくさんいただいて、地域の学習会を開くようになった。学習会で学んだことを視察に活かすという意味で、東京電力に継続的に住民の方が視察できる環境を作って下さいとお願いをして、OKをもらい、南相馬市・双葉郡川内村・いわき市で少人数ながら、勉強会と視察をセットにした福島第一原発を学ぶための学習会。それを暮らしに活かすということで進めています。


こうして現在、AFWでは、福島県で復興に関わる人たちを対象に第一原発の敷地内の視察・勉強会を行っています。これは実際に、福島第一原発の敷地内へ入るものです。


※Jヴィレッジでの視察前の学習会の様子

ただ、あくまで視察は「バスの中から」。被ばく線量は「健康被害は認められない」程度ということですが、 バスに乗るまでは頭と靴を覆うカバー、バスの中ではマスクをつけた状態となります。

第一回が行われたのは今年2月。すでに5回を超える視察が行われています。これまで、いわき市、双葉郡川内村、南相馬市などの住民の方々がこの視察に参加しているということです。参加する人たちは、廃炉についてちゃんと知識を持たないといけない、という意識を持つ人です。

明日も、AFWによる、福島第一原発 敷地内の「視察」についてお伝えします。

★AFWウェブサイト

2015年9月28日

9月28日 廃炉作業員の現状を伝える団体AFW 1

今週は、福島の人々・そして我々が、
廃炉まで40年とされる福島第一原発と、どう向き合っていくべきなのか。
この重要なテーマを、社会に問いかける団体について、お伝えします。

一般社団法人・AFW。アプリシエイト・フクシマ・ワーカズの略です。
アプリシエイトの意味は、「価値を認める。感謝する」。福島第一原発の廃炉現場で働く人たちの、実情を伝える団体です。代表は、吉川彰浩さん(35)。


福島県浪江町出身、いわき市で避難生活を送っています。そしてご自身も震災当時、原発作業員として、“その場所”を職場としていました。

◆福島第二原発の復旧作業
震災前は、福島第一原発・第二原発で東電社員として働いていた。震災当時は第二原発で復旧対応をしていた。原子炉を冷やす水「冷却水」は通常、川から第二原発へ引き上げるが、川の設備が津波でダメになってしまい、数十年前に使用をやめていた井戸水を先輩に教えて頂き、設備の復旧・修復をした。一度入れた熱くなった冷却水を冷やすための設備も同時に復旧するということを延々と朝から晩までやっていた。


吉川さんはこうして、事故から1年数か月にわたり、福島第二原発の復旧作業に従事していました。第一原発から距離にして12キロ。3月11日の揺れの後、すべての原子炉が自動停止した第二原発も、安全を確認できるまで、1年以上がかかったと言います。

そして2012年6月。吉川さんは東京電力を退社。その理由は、ほとんど報じられない、作業員の実情を伝えなければという想いでした。

◆作業員が辞めていく・・・
3月・4月は第二原発も第一原発も厳しい状況。自分たちの家族も避難生活をしている中で、原子炉の状況を維持するため、人間的でない生活。泊まり込みで朝から晩まで働いていた。それが続く中で、精神的に疲れてくる人間も増えた。当たり前だが、社会からの厳しい目もあった。人格を否定するような、特攻隊のような。「死んでもやれ」「やってあたりまえ」という状況に耐えきれなくなり、東京電力の社員も、協力企業も作業員の方も、もう続けられないから辞めるねと、毎週毎週のようにお別れ会があった。命がけで作業をして頑張ったはずなのに、誰に褒められるわけでもなくひっそりと。でも仕事を辞めるというのは人生が変わってしまう。人生を棒に振るというか。そういう方をずっと見てきて、現地から声を挙げたかったが働いているうちはなかなかそういうことができない。現状はこんな状況で頑張っている、ということだけは伝えたい。これが伝わればもしかしたら辞めていく方に対して、社会が感謝・敬意を持つのでは。そうすれば人知れず辞めるなんてことが減るのではないかと。

もう一つは、社員として「廃炉」をしていかないといけない。将来的に信頼できる仲間がいなかったら無理だと実感した。絶対にできない。特にベテランの現場を知り尽くした人が重要。
大きな設備で重要な機器がどこにあるか長年の経験で覚えているところもある。第一原発は水素爆発も起こしているわけで、高線量の作業場所になってしまう。短時間で効率よく作業をするということが非常に求められる。その時に長年働いてきた方がいらっしゃらないと与えられた仕事が上手くできない。そうなると高線量被ばくをして作業する方が危険な状態になるということもある。職歴で言えば30年とか現場で働いてきたような生き字引のような方が、この状況下で「辞める」と言う。この状況を改善しないと取り返しがつかないことになる。ならば(自分自身が)辞めて、一刻も早くこの状況の改善を訴えないと取り返しがつかなくなるという想いで、辞めればなんでも言える。外から支えたいと思って、東電を離職した。


実際、事故の後、復旧作業に関わる作業員に対する偏見は、本人たちだけでなく、その親族の方にまで及んだ、ということも言われています。

そして吉川さんは退社後、廃炉作業に取り組む人たちの実情を伝えるため、ひとりで活動をスタート。これがAFWという団体へと繋がることになります。明日はその活動についてお伝えします。

★AFWウェブサイト

2015年9月24日

9月24日 富岡レインボーステーション(2)

今日も福島から、〔子どもたちがつくるラジオ番組〕の話題です。

原発事故の影響で全町民避難が続く、福島県富岡町。避難先の郡山市で放送を続ける、町の臨時災害FM「おだがいさまFM」では、富岡町の小学5年生たちによるラジオ番組づくりをサポートしています。

5年生は現在7名。10代から80代まで、富岡出身のさまざまな世代の人に直接インタビューするのが今年の目標です。

今日は8月に放送された、第二回目の放送分の一部をお届けします!

◆レインボーステーション第二回の一部

こんにちは!僕たちは富岡第一第二小学校の5年生です。僕たちの番組「いまこそ発信☆富岡レインボーステーション」の始まりです!

最初は30代の代表、イシイヒロカズさん。イシイさんは漁師さん。メインインタビュアーのミツヒコ君、ユウマ君、ネオちゃん、よろしくね!

Q「毛萱海岸」とはどこにあったんですか。
イシイさん「みなさん、第二原子力発電所の場所はわかりますか。そこのすぐ隣にありました。
そこは近所の子たちとよく遊んだところ。夏になると遊泳禁止なんだけど、よく泳いだり釣りをしたりしました」
Q「いままでどんな魚を釣ったんですか」
イシイさん「ヒラメ、メバル、アイナメ、ソイなどいろんな魚が富岡の海では連れる。ちなみに福島では200種類ぐらいの魚が
釣れるんですよ」

二人目は40代の代表、エンドウトシユキさん。エンドウさんは「観陽亭」の社長さんです。メインインタビュアーはショウタ君とマユちゃんです。

Q「富岡町のことでよく覚えていることはなんですか」
エンドウさん「トムトムってあったじゃないですか。ヨークベニマルですよね。野球をやっていたので、トムトムの中のスポーツ店でバットとかグローブとかスパイクを買った想い出があるし、トムトムにはいろいろな想い出があるかな」
Q「いまはどんなお仕事をしているんですか」
エンドウさん「観陽亭」という名前のお弁当の工場を経営しています。富岡町では除染の作業をいっぱいやってますよね。またいろんな工事をやっているので、そういった現場で働く人たちにお弁当を届ける仕事をしています」



そして今年度は、ラジオ番組づくりとともにインタビューをした町民一人一人の、「思い出の場所」を地図にマーク。「富岡町思い出スペシャルマップ」を作成しています。
                                                              今日は、8月に放送された第二回目の放送分の一部を聞いていただきました。
現在の5年生は、震災当時、幼稚園の年長組だった子どもたち。ふるさとの記憶が徐々に遠くなる中で、町のことを知る大事な機会になっている。インタビューを受ける大人たちにとっても、富岡のことを思い出す貴重な体験になっている様子でした。

これから2学期、3学期も番組づくりは続きます♪

2015年9月24日

9月23日 富岡レインボーステーション(1)

今日は福島から、〔子どもたちがつくるラジオ番組〕の話題です。
原発事故の影響で「全町民避難」が続く、福島県富岡町。臨時災害FM「おだがいさまFM」も、郡山市の仮設住宅にある「おだがいさまセンター」から放送を続けています。そして「おだがいさまFM」では、富岡の小学5年生のラジオ番組づくりをサポート。このLOVE&HOPEでもご紹介してきました。

昨年度、番組づくりを担当したのは当時の五年生、ツバサ君、コウシ君、サクラちゃんの3人。自分たちでタイトルを考えたり、街の人にインタビューしたり、〔番組をつくる〕という経験を通して大きく成長したようです。

富岡第二小学校、伏見伸一郎校長のお話です。

◆マイクを通して成長した3人
『とってもシャイだったり、はっきりしゃべれなかったり、言いたいこともあるんだけど言うまでにすごく時間がかかったりする子供たちだったが、二学期の放送を聞いたときにそれがすごく解消されて、フリートークがうまくなっていた。ずいぶん成長したよねと担任の先生と話していた。しゃべり方ひとつにしてもうまくなったし、自信を持ってしゃべれるようになった。番組づくりの過程において、地域の方とお話したり、たくさんの人たちの前でマイクを出したりと、そういう活動を通して彼らが自信をつけてくれたのかなと。本当に成長した。』


そして迎えた新年度。今度は、新しく5年生になった7人のメンバーがラジオ番組づくりにチャレンジしています。今年度の目標は、富岡出身の10代から80代の各世代の人にインタビューすること。番組のタイトルは、「いまこそ発信☆富岡レインボーステーション」です♪

♪「富岡レインボーステーション」♪
それでは記念すべき第一回目のインタビュー。一回目は富岡町の50代の代表、イトウヤスユキさんです。

ネネちゃん「わたしが(富岡町で)一番思い出に残っているのは幼稚園です。幼稚園はいまどうなっているんですか?」
イトウさん「最初のころは、幼稚園だけでなく富岡町に誰も入れなかったので、草が生えたり、避難した当時倒れたものがそのままになっていたりした。いまもなかは変わらないが、外側はきれいに草を刈ったり、除染をしたりして、きれいになっています」

ハルトくん「ではイトウさんの(富岡町の)想い出はなんですか」
イトウさん「昔はゲームとかがあんまりなかったから、いろんな遊びを考えた。かなり危ない遊びをしました。みんなはマネしちゃだめなんだけど、海が荒れているときに砂浜を走ったり、稲刈りしたあとの田んぼに稲を積んで秘密基地をつくったり。外で走ってばかりいました」


富岡町では震災前、町内の2つの小学校におよそ900人の児童が通っていましたが、現在、避難先の富岡小学校 三春校に通うのは、15人。
ラジオ番組づくりは、そんな子どもたちが、富岡町の人たちと交流し故郷のことを知る機会になっています。

2015年9月22日

9月22日 「91歳の語り部」小野トメヨさん


昨日は敬老の日でしたが、今日は「91歳の語り部」小野トメヨさんを紹介します。
小野トメヨさんは、大正13年8月26日生まれの、満91歳。福島県相馬市に生まれ、20歳のころ福島県新知町にお嫁に行って以来およそ70年間、新知町で暮らしてきました。

新知町は、福島県と宮城県の県境にある海沿いの街。
東日本大震災当日、トメヨさんは、海から数百メートルの自宅から役場に避難し無事でしたが自宅は津波で流され、新知町でも多くの町民が津波の犠牲になりました。

トメヨさんは30年ほど前から、地域で民話の「語り」をしていましたが、震災直後は一時その意欲さえ失ってしまいます。でもある時、「わたしには語りがある」と思い返したトメヨさん。忘れられる震災の記憶や津波の恐ろしさを、いま「語り」で伝えています。

今日はそんな小野トメヨさんの「震災語り」です。

◆記録できない話を語り継いでいきたい
『地震が来て、その後津波が来ますよと放送しているのに、みんな津波が来たことはない、見たこともない、ここさ津波が来たなんて話聞いたことがない、津波の話なんてどこかあっちのほうの話だとばっかり思っているから、みんなが津波がここまで来ないと思っていた。それが今回は来たから、驚いてしまったのね。役場の広場に津波が来るなんていう頭がないから、(役場に避難した人たちは)みんながやがや「いまの地震はおっかねかったな〜」なんておしゃべりしていた。そしたらいきなり「津波が来たぞ〜、早く3階に上がれ〜!」という声がした。それなら最初から3階に上がっていればいいものを。役場に避難すると言われてるから、役場の庭に避難していた。「3階に上がれ〜!」と悲鳴のような声がして、それから無我夢中になって3階に上がった。それほど津波に対して理解がなかったんだな〜と思うのね。やっぱり自然はばかにしてはいけない。大自然のことだから、思いがけないことが起こるので。
わたしは見なかったけどね、線路のそばにお墓があって、海の近くの高台に避難していた人が津波の様子を見たそうで、津波が来ると波が海岸で盛り上がるんだって。遠浅の海水浴にいい海だったけど、その砂を巻き上げて、土手みたいになって、真っ黒になった波が海岸にあった家を屋根を超えて、瞬きした瞬間にわーっと、屋根を超えたんだと。そしたらそのすごさ、波の音、波にまざって家が壊れる音、渦巻きになった波が荒れ狂って次の家に押し寄せて、さらに田んぼを超えて、田んぼの真ん中にある家をまた木からなにから倒していって、もうめちゃくちゃ。あの波の渦なんか、この世のものではない。ほんとあれは地獄の音だった。あんた聞かなくてよかったよ。あの波の音は耳から離れないって言ってた。
だから避難するときには、決してものを取りに戻ったりしてはいけない。戻っていったらだめ。戻っていった人がみんな死んでいるんだから。人の命には代えられない。そういうのはやっぱり教えておかないと。子供だって体験しないとだんだんに忘れてしまうから。みんなに語り継いでしまわないと。記録しておくことも大事だけど、記録できない話もいくらもあるから、そういうものは語り継いでいかないとね。津波の様子や逃げた状況は一人一人違う。それを丁寧に聞き取って伝えていきたい。』


今日は福島県新知町の91歳語り部、小野トメヨさんの「震災語り」をお届けしました。
トメヨさんは、いまもリクエストに応じて「震災語り」を行っています。語りのご相談は「さとばたけ報徳センター」までお願いします。

2015年9月21日

9月21日 陸前高田×川崎フロンターレ 友好協定

今朝は、岩手県陸前高田市と、J1チームの川崎フロンターレが結んだ友好協定についてお伝えします。

震災からちょうど4年半にあたる、9月11日。陸前高田市の仮説市役所で行われた会見から、戸羽市長のあいさつです。

『この友好協定がこれからの陸前高田市の復興の大きな弾みとなると思いますし、4年6か月経って、今厳しい状況の中で仮設住宅で暮らしている人たち、子ども達のモチベーションを更に高いところにもっていける大きな喜びではないかなと考えているところでございます。協定を結ばせて頂く喜びを市民の皆様と共に分かち合いたいと思います。』

陸前高田の戸羽市長のあいさつに続き、川崎フロンターレの藁科義弘社長は「支援から交流へ」と発言。いつまでも支援する側・される側という関係ではなく、今後は同じ目線に立って共に歩んでいこう、と強調しました。

これまでの4年間の取り組み、そしてこれからの歩みについて川崎フロンターレのキャプテン、中村憲剛選手に伺いました。

◆支援はブームじゃない
―今回友好協定を結んだ そもそもフロンターレが陸高に支援するきっかけは?
陸前高田で教材が流されてしまって、フロンターレが作っている算数ドリルを持って行ったのがきっかけ

―実際これまでどういう支援をしているんですか?
サッカー教室や被災地の訪問。また陸高のみなさんにも川崎にきてもらってフロンターレの試合をみてもらったりしている。
はじめて行った時はショックでどうしたらいいかわからなかった。でもサッカー教室で子どもたちは笑顔で楽しそうにやっていた。その子どもたちの笑顔に僕らが勇気や元気をもらうことが実際にありました。それから4年が経過したが、子どもたちの成長も毎年みれるので個人的には子どもたちに会いにいくのが楽しみになりました。

―支援は長く続けていくことが大事?
フロンターレも「支援はブームじゃない」といっている。はじめて訪れた時も復興にはすごい時間がかかるなと思ったし一過性ではなく継続的に支援していかなければと感じた。毎年ぼくらが行くことでニュースで取り上げてもらったり、いろんな人に被災地はまだまだ復興していないと知ってもらえるきっかけになると思う。4年経ってぼくらが行くことの意義というのは出てきてるんじゃないかなと。

―友好協定を結んで、今後どのような活動になっていけばいい?
お互いが交流するようになって、お互いがお互いを思いあうという気持ちが年々増えていったからこの協定に繋がった。これから先も僕らが陸高へ行って試合できたらいいと思うし、逆に来てもらって一緒にボール蹴ることもそうだし、一緒に行動していければと思います。


先日結ばれた陸前高田市と川崎フロンターレの友好協定『高田フロンターレスマイルシップ』。
この協定では、川崎でのホームゲーム時に陸前高田市の観光・物産PRイベント『陸前高田ランド』を開催。11月22日に等々力陸上競技場で開催されるホームゲームで、第1回の『陸前高田ランド』が予定されています。

このほか来年には、震災後陸前高田市内にJFAの支援によりつくられた天然芝のグラウンドで『スマイルドリームマッチ』という、J1クラブ同士の試合を計画しているとか。実現できれば、陸前高田の人々も喜ぶだろうし、それを目当てにたくさんの人が集まれば市のPRにもつながるのでぜひ実現してほしいと思います。

陸前高田×川崎フロンターレ『高田フロンターレスマイルシップ』について
詳しくはこちらから。

2015年9月17日

9月17日 関東・東北豪雨 栃木県日光市 観光への影響

今朝は、記録的な大雨で、秋の行楽シーズンを前に観光の足に影響がでている、鬼怒川の上流、栃木県日光市の様子をお伝えします。

日光市観光協会 事務局長 塩谷弘志さんに伺いました。

Q:川の両岸に並ぶホテルの一部が濁流にのまれて、露天風呂が崩れる被害のあった「鬼怒川温泉」。あれから1週間が経過しますが、現在の川の様子、ホテルの営業状況はいかがですか?

水量がずいぶん減りました。ただ水が濁っている状況 それは上流のダムでまだ水量を調整しているから。まもなく落ち着くと思います。
ホテルのほうですが被害のあった鬼怒川プラザホテルのほか数件は浸水しましたが、鬼怒川温泉全体では、ほぼ無傷で通常営業をしております。お客様の足である東武鬼怒川線が運転を見合わせていましたが、あす18日に再開する見込みです。


Q:鬼怒川温泉より北に位置する、川治温泉、さらにその先の湯西川温泉にも影響が出ていると聞きましたが

実は、こちらのほうが被害が甚大。道路の崩落など…復旧に時間がかかりそうです。現在は、鬼怒川温泉、川治温泉、日光温泉の間を、無料送迎バスなどでつないでいます。
そんな中、鬼怒川温泉より先の鉄道「会津鬼怒川線」があす18日(金)より再開を予定しています。これで川治温泉には行けるようになりますが、湯西川温泉には、駅から温泉郷までの道路が崩落していて復旧が見通せていません。湯西川温泉そのものは元気なのですが、現状別ルートで迂回していくしかない状況です。


Q:そんな中でも、常連のお客様からの励ましの言葉もあったのでは?

応援の声やお問い合わせがたくさん届いております。計画通りいきますよと心強い声もいただきたいへん心強く思っております。

Q:来週は、シルバーウィーク、そして紅葉の季節がやってきます。例年、紅葉はいつ頃楽しめますか?

栃木は山の標高差があるので、紅葉が長く、9月末〜11月上旬まで楽しめます。日光の「いろは坂」も有名、キレイな紅葉スポットがたくさんあるのでぜひいらしてください!
また、日光市は宿泊施設、レジャー施設、日光江戸村や東照宮など観光スポットが充実しています。1日では周りきれないので、2泊、3泊と楽しんでいただければと思います!


鉄道各線の詳しい情報は、日光市観光協会のホームページでも確認できます。
ぜひチェックしてからお出かけください!

2015年9月16日

9月16日 関東・東北豪雨 水田被害の現状

先週 関東・東北を襲った記録的な豪雨・水害の現場からのレポートです。

きのう、行方不明とされていた全員の無事が確認された茨城県常総市。取材したのは常総市 北西部にある「石下総合体育館」の避難所です。こちらで、赤ちゃんを抱えた30代の女性に伺いました。

◆4年前宮城で被災して、また・・・
防波堤のすぐわきだったんですけど、決壊したのがお昼くらいでその前にはもう夜中のうちに避難して。元々こっちに住んでいたわけではなく宮城で震災を経験している。避難しろと言われたらすぐ避難するというのが頭にあったので、あの時の東日本大震災に比べればモノもいっぱいありますしありがたい。お店も空いていますし。
(お子さんがいると大変では)夜中にいきなり泣いちゃったりすると周りに迷惑がかかるなと思うが、でも「大丈夫だよ」と言ってくれるからそういう面ではありがたい。でも本当は自宅に戻れると一番いいんですけど。ただライフラインが全部だめなので戻ってもどうしょうがない。近所に住んでいる方が家を片付けたりしているのでその人からいろいろ情報は聞いているが、水もないので床も流せない状況らしく。きのういったん家の様子を見に行ったが土埃がすごくて。子どもがいるので外には出せないし、電気もないからエアコンをかけることもできないし、でも部屋を閉め切るわけにもいかないし。しばらくはここにいるしかないかなという感じですね。


このライフラインの復旧ですが、常総市の情報によればきのう現在、
・電気は、16日には全域で仮復旧する見込み。
・ただ水が問題。常総市の北側・石下地区は仮復旧していますが、南側・水海道地区は冠水のため、復旧時期は不明となっています。


そして農業への被害です。鬼怒川の決壊による冠水は、かなり南の方まで広がっています。昨日の夕方現在、まだ調査できない常総市を除く県内の被害は、田んぼだけでおよそ2000ヘクタール以上。お米の被害総額は推計13億円です。
農家の方に伺いました。

◆稲刈りした米が全て浸水
稲刈りは進んだんですけど、長屋に収めてあったのが全部だめですね。一部は農協に出しているが、あと食べる分は買うしかないですね。ここは床上50センチくらい浸水。築40年で、以前は低かった。鬼怒川と小貝川の間なので親父が土盛りして建てた方がいいとかさ上げした。でも今回の鬼怒川の反乱は、このへんの地域の人は誰も考えてなかったと思うんですよ。小貝川はなんどか切れていますから。災害保険と同じように、被害者は家が無くなっちゃった方もいるので、国や行政がどのくらいやってくれるのかは分からないけど、状況に応じて助けてもらえればと思います。


JA茨城県中央会によれば、常総市では農作物の調査はこれから始まるとのことで、まだかなり被害の数字は増えそうです。

そして今後、二次災害への注意が必要です。国交省やJAは一度水に浸かったクルマや農業用の機械の、エンジン・スイッチを入れないよう呼びかけています。故障に繋がるだけでなく、感電や火災に繋がる恐れもあります。必ず整備点検を依頼するようにして下さい。
こうした情報は、県や常総市のホームページで確認できます。

茨城県情報サイト
常総市常総サイト

2015年9月15日

9月15日 関東・東北豪雨 被害の現状

今朝も、先週 関東・東北を襲った記録的な豪雨・水害の現場からのレポートです。

常総市を流れる鬼怒川の決壊。これが大きな被害を出したわけですが、今回、決壊場所にほどちかいところにお住まいの方にお話を伺うことができました。


◆決壊現場
(現場を見ながら)砂でいっぱいになっちゃった・・・斜めになっているだろ。
ここのお家の人が屋根に乗って流されちゃったんです。傾いている家があるでしょ。栗田さんっていうんだけど、物置・車庫に乗っていたら水で流されて落ちたらしいんだけど、もう姿が見えない・・・。


中澤忠夫さん。ご自宅は鬼怒川のすぐそば。決壊した地点から200mほど上流付近に、ご自宅があります。中澤さんの自宅は元々、高く土盛りをした土地にあるため自宅の床への浸水は、かろうじて避けることができたそう。ただ、1〜2軒おとなりの民家は床上まで浸水しています。また中澤さんの奥さんが語っていた、「栗田さん」という男性は、13日に遺体で発見されています。この方のご自宅は決壊地点のすぐそばでした。中澤さんは本当に 「数軒の距離の差」で助かったということになります。


※決壊地点の様子

鬼怒川が決壊したのは、10日のお昼1時前。中澤さん夫妻はご自宅から出られず、夕方頃にヘリコプターで救助されています。その時の体験を中澤さんはこう話します。

◆決壊の瞬間
そのうち、「あれ、これは鬼怒川が増水しているんだな」と思って、すぐそこが土手だから堤防になっているから、あがって様子を見た。うちの方は堤防が高くて、まだ30センチくらいは水が溢れるまではあった。ただ決壊したあたりは5センチか10センチくらいだった。それから何時間か経過したら水がざあざあと、家の玄関の外にもたまってきた。これは越水が始まったと思って、物好きだからまた堤防を見に行った。そしたら水が越水していた。そのうちに、1時すぎくらいになるとすぐそこまで水が渦巻いて入って来た。水の勢いがすごかったから、それが決壊した時だろうなと。ここの集落の人が次々とヘリコプターでつり上げられて行き、ベランダで待っていた。俺が救出されたのは5時過ぎくらいかな。


また中澤さんは、鬼怒川上流にある「五十里ダム」などがあることで、「大丈夫だ」と言う先入観があったと話します。

◆考えが甘かった
当時は、まさか堤防が決壊するとは思っていなかった。軽い気持ちだった。やっぱり甘く見られないな。鬼怒川が決壊するなんてねえよ、と甘く見ていたから。ハザードマップなんていうのは、ここは弱い地点ですよなんて分かるかも知れないけど、研究している人は少ないんじゃないかな。先入観じゃないかな。ましてや、栃木の五十里ダムが出来る前は台風だ大雨で増水したというのはあるが、ダムができて調整できるという先入観を持っていた。だから越水しても、それで終わりだなという感じ。考えが甘いということ。結果論だけど。




お話を伺った中澤さんご夫妻は、生活インフラが復旧次第、ご自宅に戻ると話していました。常総市は現在も、水道が使えない地区、電気の通っていない地区があります。冠水している地域があり、インフラの完全復旧は、まだメドが立っていません。

そしてボランティアについて。現在、茨城県、そして常総市が災害ボランティアセンターを開設しています。ボランティアはあくまで県内・近隣市町村の方のみ受け入れをしています。持参が必要なものもありますので、それぞれHPをしっかり確認して下さい。
★県災害ボランティアセンター
★常総市災害ボランティアセンター

あしたも茨城県常総市の状況、お伝えします。

2015年9月14日

9月14日 関東・東北豪雨 茨城県常総市のボランティア受け入れについて

今朝は予定を変更して、先週 関東・東北を襲った記録的な豪雨・水害の現場から、ボランティアに関する情報をお伝えします。

取材したのは、鬼怒川の決壊でおよそ4000人が各避難所で避難している茨城県常総市です。きのう13日(日)、「県」のボランティアセンターが開設。“県内の方”に限り、ボランティア受け入れがスタートしています。ボランティアセンターがあるのは、避難所のある常総市石下総合体育館です。
受け入れの状況について、県の担当者に伺いました。

◆いま必要なボランティアは
やはり住めるところがないと避難生活は解消できないので片づけのニーズが一番大きい。水はどんどん引いているが引いていないところもあるので、水の引きをみながらみなさんが帰っていかれて、その時に家の片づけが必要になる。長期の取り組みになると思う。現在は県内からの受け入れとしている。200名くらい。これを徐々に増やす予定ではあるが、現時点ではまだ200名くらいしか受け入れ能力が無いということと、現場はまだ相当混乱していて、みなさんが押し掛けるのはありがたいことではあるが、交通渋滞も問題になっており、全国から来て頂くにはなかなか現場の受け入れ態勢が整っていないのを分かって頂けるとありがたい。


すでに今日・月曜日の受付は茨城県HPにも出ています。
・「支援物資の仕分け」200名⇒石下総合体育館のボランティアセンターで受付
・被災した家屋の片付けなど300名⇒水海道総合体育館で受付
・ほか避難所の運営支援も40名ほど受付けています。
・マスク、軍手、長靴、食事や飲み物など、持参が必要なものもあります。
 詳しくは県HPをしっかり確認して下さい。
★茨城県災害ボランティアセンター

繰り返しますが、あくまで「県内の方」を対象とした募集だということです。

そして支援物資について。食べ物・飲み物・日用品はかなり「足りている」ようです。これから必要になるものは、避難された方の聞き取りをして情報整理しています。ただし、個人の受付はしてません。個人の方が物資を送るのは控えましょう。

さて、そのボランティアセンター、きのうもあさ9時から受付があり、近隣の方が大勢 ボランティアに参加していました。

◆何かしなければ。自分に出来ることを・・・。
●40代男性
となりのつくば市から来ました。つくば市内はほとんど無傷で、隣は被災された状況なので何かしないとというただそれだけ。朝一通り被災した場所を見てきたがまだ危険な場所はたくさんあるみたいなので気を付けて作業したいと思います。
●下妻第一高校の女子高生
・ボランティアに参加しようと思ってきました。友達や知り合いの人たちが被災して、家が浸水してしまったり避難所にいたり。きのう一日家にいたんですけどテレビなどの報道を見て自分に出来ることを探そうと思って今日のボランティアに参加しようと思いました。
・床上浸水をしてしまって畳を出さなきゃいけない人のお手伝いをしてきました。高齢の方が住んでいるお家だったので自分の力だけでは片付けができないので、私たち若者ががんばらなきゃいけないなと感じました。


詳しくは県のHPのボランティアセンターの情報、そして、常総市も今日からボランティアセンターを開設するので、それぞれHPをしっかり確認して下さい。あくまで県内・近隣の方のみ、受け入れをしています。

★県災害ボランティアセンター
★常総市災害ボランティアセンター


また、13日(日)の時点で鬼怒川の東側は道路が冠水しているところも多く、広い範囲で冠水は広がっています。

クルマが通れない道もたくさんありました。使える道路も、ボランティアのクルマ、処分する家財道具などを運ぶトラックで、渋滞が多く見られたので、とにかく情報を確認して行動する必要があります。

2015年9月10日

9月10日 4年半ぶりに避難指示解除 楢葉町の今(4)

9月5日(土)に避難指示が解除された、福島県・楢葉町の町民達の「声」をお伝えしています。

お話を伺ったのは、高原カネ子さん。
楢葉町の職員を経て、震災前は着物の布を使った民芸品の教室を開きながら、地元の子どもたちのために、太鼓の指導者もしていた女性です。原発事故の後は、各地を転々と避難し、ここ数年はいわき市で娘さん夫婦やお孫さんと暮らしていました。

避難指示が解除される前の、楢葉のご自宅の様子を高原さんはこう話します。

◆この家に戻れるとは思っていなかった
我が家がもうジャングルなんですね。あの時おっこったどんぐりの実が、直径5−6センチに育っています。それが至るところで私の知らない樹木がいっぱい育っているのね。そこにツタが絡み込んで屋根まで上っていた。例えればトトロのめいちゃんが最初のシーンで引っ越した家がありますよね。あれくらい。これをもとに戻してこの家に住むのはできないと思ったんです。それが町、国の本格的な除染が始まったら、周りの草は刈ったし、土も3センチか5センチに取り換えたでしょ。そうしたら見違えるぐらいきれいになって「戻れる」と。そうなったら帰りたい気持ちは募ってきますよね。


そして今年4月、楢葉町では解除に向けた『準備宿泊』が始まり、高原さんはいわき市から楢葉へ通うように。最初は「楢葉に行ってくる」と言っていたのですが、徐々に「楢葉へ帰ってくるね」と家族に声をかけて出かけるようになったと言います。

◆この4年半はなかったに等しい
今年の4月3日、「準備宿泊」の開始日。お布団と炊飯ジャーを玄関に運び込んで夫の位牌とともに帰ってきて、仏さんを仏壇に安置した時はすごくうれしかった。それからこれはひいき目なんだろうね、4月だったのでウグイスのさえずりが始まった時で、「いわきのウグイスよりも鳴き方が上手!」って思ったりね。どんどん増していきますよね。この4年半はなんだったのって。無かったに等しい。もう忘れたいのか思い出したくないのか分からないけど、ここにずーっと住んでいて何事も無かったみたい。例えば坂を下りてきて、目の前に中間貯蔵施設に行くべきゴミがあっても、別にそれが真に迫って不安だったりしないし。帰ってくるにあたって私はすべてを信じようと思ったんです。例えば木戸ダムの水も、国が大丈夫だと言えば大丈夫なんです。線量がなんぼですよと言われても、だから何?っていう感じ。


高原さんは、着物の布を使った民芸品・和布細工の教室を楢葉のご自宅でも再開。お買い物など不便なことは多いようですが、「それも苦にはならない」と言います。67歳になった高原さんは、なにより、故郷で生活ができることを、本当に喜んでいる様子でした。

◆次に帰ってくる人のためにも元気に楢葉で暮らしたい
それぞれの事情が違うんだと思う。例えば仕事の基盤ができた、生活の基盤も4年半も経過すれば非日常から日常に戻っているはずですからね。でも帰れる時が来たら必ず帰りたいという人は多い。
その日のために私みたいな誰かが帰っていなかったら、私みたいなものが300人でも500人でもいて、3年5年すぎればこそ、その人たちが帰ってこられる町になるんだと思っているので。それには先人がいなければダメですよね。その帰って来た先人が、「やっぱり楢葉ってさみしくて怖くてダメだわ」と発したら、もう次は続かないと思うんです。楢葉に帰って来た年寄りの人たちはなんだかみんな元気そうで、なにやってんだか笑って暮らしていて病気もしなくなっちゃったよ、とそうなればこそ、世話もすっことねんだら帰るかと。だから私たちがいつまでも元気でね、なんとかコロリといくまでね(笑)元気で良い見本を見せなきゃいけないんだなと話しながら縫物をしています。


実は高原さんは、楢葉に帰ってからずっと美容室に行かずにいるそう。それは、楢葉町に理髪店が再開するのを待っているから。隣町に切りに行くことはできますが、あえて切らずに待っているそうです。周りの人に「髪の毛のびたねえ」と言われても、「シャンプーと毛染めが大変なの」と、笑って話しているそうです。
最後に高原さんは、「もう被災地じゃない。胸を張って生きていきたい」と力強く語ってくださいました。

2015年9月10日

9月9日 4年半ぶりに避難指示解除 楢葉町の今(3)

今朝も、9月5日(土)に避難指示が解除された、福島県・楢葉町の町民達の「声」をお伝えします。

きのうは、お子さんを持つ2人のお母さんたちの声をお届けしました。今すぐ帰りたい気持ちはあっても、子どもや家族のことを考えると「帰れない」というお母さんと、幼稚園が再開したら「帰りたいです」というお母さん。どちらも子どもや家族、今の生活など複雑な環境をかかえ、心境は複雑です。

一方で、「やはり故郷に戻りたい」という気持ちで、この「解除の日」を迎えた方もいらっしゃいます。

◆特に不安はない
私たちの場合は、一番最初に避難したのはいわき市なんですけど、避難して一週間か10日くらい経過して会津美里町に移転しまして、そちらで避難生活を今でも続けてらっしゃる方もいますし、そちらは気候的に厳しいのでいわきに現在は町民の8割が戻っていますね。私も震災の年の10月に一旦は会津に行ったんですが仕事の関係でいわきに戻って来た状況。仕事の関係でどこに住むかは決めていないけど、楢葉町の社会福祉協議会の職員ということで、楢葉町で最終的には仕事をする気でいるので戻ることを考えています。一応奥さんがひとりいるだけで子どもはいないのでいつ帰っても大丈夫なんです。特に不安は私は無いですね。妻は買い物、医療、そして防犯の不安はあると思いますが、まずは誰かが戻らないと。次から次へと戻ってくる方はいないのかな。高齢者の方が戻るのであれば、高齢者の方が不自由しないような環境を作れば、少しずつ戻ってくるのかなとは思います。


「不安はない」、楢葉町 社会福祉協議会の職員フクイコウジさんはそうおっしゃっています。

ご高齢の方にも伺いました。

◆避難で亡くなった旦那が「帰りたい」と言っていた…
「どんな想い」って言われてもね。やっぱり何にもできていないでしょ。帰ると行っても「じゃあすぐ帰ります」というわけにはいかないんですよね。だからある程度、お医者さんができたり買い物ができるところが完成したら帰りたいなというのはあるんですよね。家もまだ直している最中なんですよね。10月一杯はかかるかなと思っていて、そしたらちょこちょこ泊まりに行ったりという状態は続くと思うんですよね。まるっきり帰るのはなかなか大変かなって思うんですけどね。隣近所がみんな帰ればね、私も帰りたいというのはあるんですけど、なかなかね。だってポツンと私ばっかり帰ったってねえ。隣近所がいなかったら。昼間はいいよ明るいから。夜は寂しいもんねえ。(避難解除と聞いてどう思いましたか?)それは嬉しいよ。だってずっと仮設に入って四畳半二部屋しか無いんですよ。そういうところで暮らすのはやっぱり大変だった。だって隣近所のいびきだって、私らのいびきも聞こえる状態で暮らすのはやっぱり大変だった。うちの人もこの避難で亡くなったもんですから、やっぱりこっちには仏様は仮設においてあるんですけど、うちに帰りたいと行っていたから、やっぱり早くつれて帰りたいというのはあります。一緒に帰ろうという感じですよね。息子は孫ができるから、戻って生活するというのは無理かなと言っている。だからいわきに残るようになるわけ、若い人らはね。私一人は帰りますけど・・・。


避難指示が解除された、福島県楢葉町の町民の方々の「声」をお伝えしました。

先祖代々の土地で、ずっと暮らしていた家で人生を全うしたい。そう考えるお年寄りの声。胸が痛くなります。一方、子どもがいるから楢葉にはもどれないという若い世代もいます。避難指示の解除が、元々一緒に暮らしていた家族をバラバラにしてしまうケースもあるということです。

LOVE&HOPE、明日も、楢葉町の住民の声をお伝えします。

2015年9月8日

9月8日 4年半ぶりに避難指示解除 楢葉町の今(2)

9月5日(土)、福島県・楢葉町の避難指示が解除されました。原発事故以降4年半に渡り、故郷から引き離されて来た楢葉の人々は、この避難指示解除を、どう受け止めているのでしょうか。

町民7300人のうち、現段階で楢葉に戻るという人は 1割程度。中には、インフラなどが整ってから検討するという方もいますが、その心中は複雑です。今朝は、楢葉町の町民達の「声」をお伝えします。

◆正解が分からないから難しい
いまはいわき市です。まだ子どもの幼稚園が始まらないし、再来年の4月に幼稚園が再開する時に帰って来ようかなという。最初は会津に避難していたんですけど、会津からいわきにくるのは、原発に近づく感じがあって怖かった。実際に来て見ると普通にみんな生活しているし、すぐ慣れたというか。こっち(楢葉)に旦那の仕事があるから通うのも毎日たいへんだし、そう考えると近くにいた方がいいかなと考えたんですね。それでも、、、いいのかなって考えちゃいますよね。「子どもがいるのに帰るの?」って思われるじゃないですか、普通に考えたら。小さな子どもがいるのに帰って大丈夫かなとか。楢葉出身ではない、いわきの友達とかには「帰る」と言えなくて。線量的には変わらないんですけど、離れている分そっちのほうが安全だという印象があるらしくて。帰ると言っている本人にも分からないから難しい。正解が分からない。


コヤマユリカさん(25歳)は現在、いわき市の仮設住宅で暮らしているということです。一方、帰りたい気持ちはあっても、現実は厳しいと話す方もいます。同じく20代の母親・サトウユキコさんは、避難指示解除をこう捉えています。

◆いまさら、という感じ。
「そうですか」って感じですかね。嫌いな方じゃなかったんですよ。こののんびりした町が。なので突然こういう封になって、戻りたい気持ちはあるけど現実的に放射線の不安はあるので、子どものことを考えると戻れない状況。私自身だけだったら戻っていたかなと思います。というのも、来たくて来た場所に住んでいて、嫌いなわけじゃないけど窮屈感を感じているので、疲れてしまったというか。そういうのもあったり。(ご主人は避難先でお勤めして生活環境が出来上がってしまった?)そうです。正社員で雇って頂いていて軌道に乗って来ています。そうなんですけど・・・波があるんですよね。今のままでいいんじゃないか、というのと、やっぱり戻りたいというのと。子どものことを考えると、その選択はないなと。(小さなお子さんを抱えている楢葉出身のママ友達と話し合うことは)ありません。たまたま私の周りはそうだったのかも知れないですけど、楢葉の話し、放射線の話しは、なかったことじゃないですけど・・・(ちょっと触れちゃ行けない)そういう感じ。震災当初からそういうのはあったんですけど、それが普通になっちゃったというような。私は話したい方だったんですけど、そういう話しが出ると終わっちゃうんですよね。いまさら、という感じなのかな。それぞれ生活ができて来て。


取材に答えて下さった女性のように、すでに避難先で生活の基盤を整えた方も大勢います。
実際、楢葉の集落によっては、3割の世帯が避難先で自宅を再建して新たな生活を始めています。

また、町のアンケートによれば、楢葉の町立小中学校に「通学する」という児童・生徒数は、全体の7%程度にとどまるということです。

明日も、楢葉町の住民の声をお伝えします。

2015年9月7日

9月7日 4年半ぶりに避難指示解除 楢葉町の今(1)


◆楢葉町町長の帰町宣言
『本日、9月5日午前0時をもって、楢葉町に出されていた避難指示が解除され、町で止まっていた時計の針が再び動き始めたところであります。』

今朝は、9月5日(土)に避難指示が解除された、福島県楢葉町からのレポートです。
楢葉町は、町の大半が福島第一原発から20キロ圏内。原発事故直後から、すべての住民が 町外で避難生活を続けていました。あれから4年半が経過した先週末土曜日。政府はこの地域の避難指示を解除。全町民が避難した7つの町村では初となります。この解除を受け、町では式典も行われました。

ただ、、楢葉町の町民およそ7300人のうち、実際に避難先から帰ってくるのはその1割程度だと言います。町の復興推進課・猪狩充弘さんに、今後について伺いました。

◆少しずつ明かりが増えてくることを願って…
4月6日から準備宿泊をしていて、実際に登録されている人は780名ほど。夜の電気がつくのは120世帯弱。きょうの解除を契機として、その明かりが少しずつ増えてくるのかなと思っています。今回の解除では、町民の方のお話を聞いていて色んな不安の声もあった。病院の問題、買い物の環境など町民の方が満足する状況ではないが、仮設商店街や診療所のオープンの時期も見えてきた。一方で子どもの声が聴こえない町に将来は無いということで、これは解除と同時であれば良いのだが、単純にハードが整えばよいという話ではない。ご家庭ごとの事情もあるので解除になればすぐ、ということにはならない。環境をしっかり整えて子どもの受け皿を作る。解除になればすぐ何割という目標値を目指したいが、これは焦らず時間をかけてしっかり環境整備に務めていきたい。29年春ということで先日決定したところ。29年春に小中学校が。解除で預かり保育などは親御さんのお仕事の都合によって再開することになる。


お話に合った、診療所の再開は10月を予定。当面は隣町の医療機関への無料バスを利用する形となるようです。またお買い物。スーパーが1軒のみですが、高齢者のための「宅配サービス」があるそう。また、小中学校の再開は、再来年の4月。まだまだ再生までの道のりは遠く感じます。

そしてもうひとつ。「雇用」の問題についても伺いました。

◆原風景を取り戻したい
震災前から、原発関連で働いている方も多くいた。以前にあった雇用も、企業が避難しているため失職者もいるので新たな企業立地にも取り組んでいる。漁業についてはシャケ、平成5年か9年には本州一の遡上があった。11万匹ほどの銀鮭・白鮭と呼ぶもの。しっかり復旧して今年から稚魚を買い付けて少ない数だが放流をした。震災前の形に徐々に戻ってっくると思う。あとは風評対策をしっかりとっていく。そういうこと一つ一つが原風景をとりもどすということなんでしょうね。


◆住民の声
・となり近所がみんな帰れば私も帰りたいが、ぽつんと私だけ帰ったってね。昼間はいいよ明るいから。夜は寂しいもんね。
・私の場合は仕事の関係で戻ることを考えています。子どもはいないもんですからいつ帰っても大丈夫なんです。
・私は嫌いな方じゃなかったんです、こののんびりした町が。でも現実的に子どものことを考えると戻れないという状況なんですけど。。。
・まだ子供の幼稚園が始まらないし、だから再来年の4月に幼稚園が再開する時に帰ってこようかなと。


あすも楢葉町から、住民の声、その想いをお伝えします。

2015年9月3日

9月3日 「3.11を学びに変える〜あの日を語ろう、未来を語ろう」(3)

キッズナウジャパンが主催する講演会 「3.11を学びに変える〜あの日を語ろう、未来を語ろう」。宮城県東松島市出身の3人の高校生が、震災の記憶を語り、首都圏の学生たちと「震災や防災」について一緒に考えるプログラムです。

石巻高校1年の雁部那由多(ガンベ・ナユタ)君は、震災当時小学校5年生。すぐ目の前に津波が押し寄せるという壮絶な経験をしましたが、当時の小学校には「震災の話はタブー」という雰囲気が広がっていました。

ようやく震災体験を語り始めた雁部君。そこには、「震災の記憶を風化させてはいけない」という、強い想いがあります。

◆一番風化が進んでいるのは、被災地の子どもたち
『いま最も知ってほしいこと。「風化」という言葉はメディアでも報道されにくくなって考える機会が減ってくること。その風化について、大多数の方が考えるのは、被災地以外、例えばここ東京や沖縄などで、どんどん震災の話をせずに教訓を得ずに終わってしまうと思いがちだけど、僕が一番風化が進んでいると心配しているのは、被災地のこと。なぜかというと、被災地ではあんまり震災のことを語る、ということをしない。なぜなら自分たちの体験を持っているから。もう語る必要がないと思っている人も多くて、自分の体験があるからもうこれでいいんだと。でもそうすると、考える機会が減ってしまって、そこから学ぶことができないという状況になってしまう。
これから問題になってくるのはやはり「防災教育」。「釜石の奇跡」などを見ると、いままでの防災教育を無理やりでもなんでもやっていたから全員が助かった。そこにはやはり、被災地の体験を話すこと、災害を体験した人から二度と(同じ経験を)繰り返してほしくないというメッセージを繰り返し考えさせていたことが、あの結果につながったんだと思う。だから、これから大切になってくるのは語り継ぐこと。最終的には語り継いで、それを考えて、もっと広げていくこと。ぜひ今回語って出たことを自分自身で考えて、ぜひほかの人に伝えてもらいたい。親でも友人でも構わない。どんな小さなことでも構わないので伝えてほしい。』

また、プログラムには首都圏の高校生、大学生が参加。グループセッションを行い、「震災からなにを学び、伝えていかなければいけないのか」を一緒に考えました。
 
首都圏から参加した、文教大学4年の顆ひかるさんは教師を目指しています。
◆心の復興には時間がかかる
『文教大学教育学部社会専修4年の顆ひかるです。わたしがここに来たのは、自分が教師になったときに、やはり防災教育に力を入れていくべきだと思ったから。震災について子供たちが自分のこととして受け止めていけるのが一番いいことなんじゃないかと思って、「東日本大震災がありました」ではなく「東日本大震災があったから自分はどうするのか、被災地と呼ばれる場所でどう生きていくのか」というのを子供たちに考えられるような授業ができたらいいなと思っている。
(雁部君たちの話を聞いて)一番衝撃的だったのは、被災した方はあんまりそういう被災体験を語りたくないのかなと思っていたが、今回話をしてくれた3人が、「話すことで気持ちが楽になった」とか「伝えるという活動が自分の心の支えになっている」と。3人もすごく心が傷ついていて、自分でもまだ整理ができていないけど、徐々に人に話していける段階になったというのが大きいと思って、「心の復興を急ごう」とか思っちゃいけないんだなと。やっぱり時間が必要で、それを見守ってあげる人が必要なんだなと。その子が話したいときにそばにいてくれる誰かだったり、環境だったりを整えていくことが大事なんだなと。モノとかカウンセラーとか、そういうことじゃないんだと感じました。

今回の司会を務めた「小さな命を考える会」の代表、佐藤敏郎さんは、「“あの日”を語ることは決して過去を語ることではない。未来を語ることなんです」と話していらっしゃいました。


キッズナウジャパンのサイトでもレポートの様子がご覧になれます。

2015年9月2日

9月2日 「3.11を学びに変える〜あの日を語ろう、未来を語ろう」(2)

昨日に続き、東北の震災を語り、そこから学ぶ取り組みをご紹介します。
キッズナウジャパンが主催する講演会 「3.11を学びに変える〜あの日を語ろう、未来を語ろう」。宮城県東松島市出身の3人の高校生が、震災の記憶を語り、首都圏の学生たちと「震災や防災」について一緒に考えるプログラムです。
  
今日はその中から、石巻高校1年、津田穂乃果さんと、石巻西高校1年、相澤朱音さんの震災体験です。震災当時、二人はともに、大曲小学校5年生でした。

◆津田穂乃果さん
東日本大震災のとき自分は授業中で、音楽室にいた。でっかい揺れが来てピアノの下に隠れたが、そのピアノが車輪付きで動いて。あれは危ないからピアノの下に隠れるのはやめたほうがいいです。
弟が二人いて、当時は小3と小1だった。実家が沿岸から200メートルのところにあったので、そのまま内陸の祖母の家に逃げました。あとで「家が津波で流された」というのを聞いて、自営業をやっていたので、会社も家も流されて、家の中がごたごたして、お父さんとお母さんは忙しそうで、弟たちも不安そうで、その狭間でいろいろな葛藤があって、そのストレスを小学校でぶつけていました。
震災を受けていないところからメッセージをもらったが、「頑張ってください」と書いてある。その「頑張ってください」が素直に受け取れなくて。「頑張っているのにこれ以上なにを頑張ればいいの」という気持ちに当時なったりしました。

◆相澤朱音さん
わたしの母もすぐに迎えに来てくれて、当時住んでいた家が海から100メートルもないところにあったので、すぐに避難しました。二日後ぐらいに、家もすべてなくなったと知って、さらに3月の下旬ぐらいに、一番仲が良かった友人が死んだと聞かされて。自分が生きていて親友が死んで。自分が生きていても意味ないのになあとか。それが中学校2年生の前半ぐらいまで続きました。
わたしがこうして人の前に出てこられるようになったのは、仲のいい友人に話すことができたからというのが大きい。話していくうちに、自分の中でも整理ができてきて、いま生きているのは自分だから、前を向いて生きて行こうと思うようになれたんだと思います。


親友を亡くしてふさぎがちだったアカネさんの話を聞いて、励ましてくれたのが、ホノカさんだったそうです。

そして、東松島の高校生3人の震災体験を聞いたあとは、首都圏の高校生、大学生を交えてトークセッションが行われました。「東日本大震災の教訓からなにを学び、なにを伝えていかなければいけないのか。」みんなで自由に話し合いました。

◆自分の命は自分で守れ
(なにを一番伝えなきゃいけないかな?)
穂乃果さん「うちの家訓は、自分の命は自分で守れです。そのとき大人がいるとは限らないので。自分達は授業中だったけど、弟たちは帰宅中で歩いている最中だった。小学3年生だったが、本能的に学校に戻ってきたからよかったけど。」
朱音さん「大曲浜の保育所に通っている妹がいた子が、その妹を迎えにいって亡くなってしまいました。それがわたしの親友だったんですけど。家族みんなで迎えに行くとかはしちゃだめだと思う。」
穂乃果さん「そのときになると冷静な判断とかができなくなるよね。うちの母親も自宅に戻ってしまって。通帳を取りに行ったのに、持ってきたのは母子手帳で。そういうこともある」


セッションでは「自分の命は自分で守る」というキーワード以外にも、「命を守るために地域のことを調べること」「震災を語りつぐこと」などが出てきました。

明日も、「3.11を学びに変える〜あの日を語ろう、未来を語ろう」の模様をお送りします。

2015年9月1日

9月1日 「3.11を学びに変える〜あの日を語ろう、未来を語ろう」

今日は「防災の日」です。
そこで今日は、東北の震災を語り、そこから学ぶ取り組みをご紹介します。

昨日インタビューをお届けした、宮城県石巻市在住の佐藤敏郎さん。児童と教職員、84人が犠牲となった石巻市大川小学校で次女みずほさんを亡くした佐藤さんは、震災体験を語り継ぎ、防災に役立てる活動を続けています。その一つ、「キッズナウジャパン」が主催する講演会が、先日東京で行われました。
「3.11を学びに変える〜あの日を語ろう、未来を語ろう」
 
宮城県東松島市出身の3人の高校生が震災の記憶を語り、首都圏の学生たちと「震災や防災」について一緒に考えるプログラムです。

まず、震災の経験を話してくれたのは、現在、石巻高校に通う高校1年生、雁部那由多(ガンベ・ナユタ)君。震災当時は小学校5年生。まさに九死に一生を得る経験でした。

◆当時学校で震災の話はタブーだった
僕たち3人が卒業した小学校は海から2キロ弱離れたところにあって、海抜マイナス2メートル。実は海面より低かった。当時の東松島市立大曲小学校では、津波被害を含む防災教育はあまり重要視されていなかったので、実際あの大きさの地震があっても、なにをどうしたらいいのかわからないまま、情報を得られないまま校庭で待機していた。そんな中で、僕は(地震から)15分ほどで親に引き渡されて、一旦帰宅して家の中の掃除を初めていた。当時防災無線もすべて電源が切れていて、一切の情報が入らない。どこにも電波がつながらず、携帯も使い物にならないという、そんな状況だった。父親が持っていた消防の無線で「女川に6メートルの津波が来た」という情報が入ったので、もう一度家族全員で学校に避難した。最初は体育館に避難していたが、そのときまだ上履きを履いていたので、外靴を取りに昇降口に行った。そこで津波の襲来に気が付いた。わたしの後ろに5人から6人の避難者がいたが、実は助かったのは自分だけだった。(彼らは)僕から30センチとか40センチも離れていないところで(津波に)のまれてしまった。僕も手を伸ばされたが、波に足を取られたらその時点で助かる確率がほとんどない、波は全部ヘドロで重油なので、ちょっとでも触れたら動けなくなってしまう。それで僕はなにもできず、(彼らが)波にのまれていくのをずっと見ていた。いま考えれば「仕方がなかった」で片づけられるかもしれないけれど、実際は「自分が殺してしまった」という感覚にずっと襲われていた。避難所生活ではみんな生きることに精いっぱいで、誰かに話すこともできず、自分の中で自問自答を繰り返しながら暮らしていた。
4月21日から授業が始まったが、(学校では)震災の話や津波を連想させるようなワードはすべてタブー視されていた。震災体験を誰にも話さず、自分の中で自己完結させて、フラッシュバックや震災関連の言葉を聞くと心臓がバクバクしたりという症状が起きたりしていた。先生にそのことを相談すると「震災の体験に関しては、いま学校で話すべきことではない」と言われ、そのまま小学校を卒業した。
(震災について語る)きっかけとなったのは石巻西高校で開催されたシンポジウム。パネリストのみなさんが言っていたのは自分の体験を人に話すことで、それが「価値のある情報になる」と言っていたこと。「自分の体験がほかの人の命を救うかもしれない」と言っていたことに心が動いた。そのシンポジウムをきっかけに、自分の気持ちと素直に向き合うことができるようになった。
結論として一番大切なことは「語り継いでいくこと」だと気付いた。実際その体験を誰にも言わなければ自分だけの情報として残るが、ほかの人に同じ体験をしてほしくないという思いから「語り継ぐ」ことにした。未災地(まだ災害が起きてない地域)の人を自分たちと同じ目に合わせてはいけない、そう思っていまこういう(語り継ぐ)活動をしている。


雁部那君の震災体験で話に出てきた「未災地(みさいち)」という言葉。
ガンベ君は「まだ大きな災害が起こっていない地域」を「未災地」と呼んで、被災地の経験を生かしてほしいと、震災を語り継ぐ活動を行っています。

同世代の言葉だけに、参加した首都圏の学生さんたちも心に響いた様子でした。
LOVE&HOPE、明日も同じイベントの模様からお届けします。

パーソナリティ 鈴村健一

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