2015年10月30日

10月30日 ネパール地震で被災した方をサポートする東北の学生の取り組み

今朝は、4月25日起きたネパール地震から半年、今朝はそのネパールの高校生を日本に招こうという、東北の学生の取り組みに注目します。

この活動に取り組んでいるのは、このコーナーでも依然ご紹介した「サポートアワーキッズ」に参加した経験を持つ、約20人の学生たちです。街頭募金などを重ねて資金を集め、来年春に、ネパールの高校生8人を仙台に招き、メンバーの実家にホームステイしてもらって、東日本大震災からの復興に取り組む被災地の今を見てもらおうというものです。
メンバーの一人で、自分たちの経験を今度はネパールの人へ繋ごうとする福島県出身の麗澤大学2年生、米山結衣さんに、この支援にかける想いを語って頂きました。


◆今までたくさんの方から支援を頂いて、海外に派遣をしてきました。今度は今年被災したネパールの子供たちに素晴らしい経験を、日本、そして東北でしてもらいたいと思って、募金を始めました。いちばん印象に残っていることは、募金をしているとき、ネパール人の方と交流できたこと。本当に偶然通りかかった方が、「こういう風な活動してくれて本当に嬉しい」と言ってくれ、そのあとに「自分も参加したいから」と、一緒に声をあげて、「ネパールのために募金をお願いします!」と呼びかけてくれました。
私はこの支援を利用して行ったアメリカの滞在先で、現地の方に会って日本の魅力や東北の魅力を伝えるプログラムに参加してきました。最初は初めての海外で不安なことがありましたが、多くの方が一所懸命聞いてくれ、知ろうとしてくれたことが印象に残っていて、自分たちも東北の魅力を最大限に伝えようと努めました。



そして、プロジェクト実現のために学生たちは、ニュージーランドのはちみつを輸入販売しているはちみつ専門店、「Pbees」とコラボレーションして、蜜蝋でつくったロウソクをチャリティ商品として開発し、今日から後期日程がスタートする「東京デザインウィーク」の会場で販売します。ロウソクの拘ったポイントについて、再び、米山さんのお話です。

◆私たちは今回、「ダルマ」と「地球儀」をモチーフにしたキャンドルキットを作成しました。「ダルマ」はとくに東北の中で、「白河達磨」という有名な達磨があって、宮城県内にも「仙台達磨」という有名な達磨があります。お客さんの願いも込められるような必勝達磨を作りたいなと思ってダルマにしました。もう一つ地球儀については、私たちが海外に行って、世界の大きさや、自分たちが経験した素晴らしさを皆さんにも伝えたいと思って地球儀にしました。蜂蜜の蜜蝋のキャンドルの匂いがとてもいい匂いで温かみのあるものなので、ぜひ一緒に楽しんでいただければ嬉しいなと思います。


来年春の実現に向けて、米山さんたちの活動は続きます。「東京デザイナーウィーク」の会場では、チャリティ商品のロウソク販売の他に募金箱も設置されるので、ぜひ足を運んでください!

そして米山さんも参加した、東日本大震災の被災児童の自立支援プロジェクト「サポートアワーキッズ」の海外ホームステイは、現在、ポーランドとスイスに行く中高生を募集中です。
被災地に暮らしていて、ホームステイに参加してみたい、またはお子さんを参加させてみたいと思った方は、ぜひ「サポートアワーキッズ」のホームページを訪ねてみて下さい。
サポートアワーキッズ

今朝は、4月25日起きたネパール地震から半年、そのネパールの高校生を日本に招こうという、東北の学生の取り組みに注目しました。

2015年10月29日

10月29日 あすと長町仮設住宅のコミュニティづくり2

きのうに引き続き、仮設から災害公営住宅へ生活拠点を移す人たちの、新しい「地元作り」についてお伝えします。

宮城県仙台市太白区「あすと長町仮設住宅」。この、200戸を超える大規模な仮設住宅には、岩手・宮城・福島それぞれの避難者が入居したため、新たなご近所づきあい・コミュニティづくりが課題でした。

ただ、住民の方々が主体となって、様々なサークルを作り、自治会も立ち上がったことで、2012年には住民同士の交流も活発になったと言います。

そして現在。仮設で暮らしてきた住民の方たちは、新たな課題に向き合っています。この仮設住宅で、コミュニティづくりに関わって来た東北工業大学の准教授・新井信幸さんのお話です。



◆仮設から公営住宅へ
(震災から)1年後に、安心できるコミュニティ、楽しみながら関わり合い、支え合う関係ができたと言いましたが、今後どこに暮らすかが課題。みんなが災害公営住宅に住みたいという考えで一致するわけではない。被災したところの近くに集団移転して自力再建して住宅を建てたいという人もいっぱいいる。一方、地元の公営住宅に戻るよりも、あすと長町のとなり近所の関係でいられるほうが安心だという選択をした世帯が80世帯くらいいた。仮設住宅は233世帯なので3分の1。公営住宅は320戸くらいできたのでまだいっぱい余っている。(市外や県外など)外から来る状況になる。仮設住宅が始まった当初と同じような状況に、公営住宅がなっていく。。。


すでに、あすと長町仮設住宅のすぐそばには、3棟の復興公営住宅が完成。今年の春から入居が始まっており、この公営住宅には、また新たに、別の地域から避難者が入居してきています。つまり、再び「ご近所づきあい」をどうするかという課題が出てきたわけです。

そして現在。仮設で生まれた自治会のメンバーや、新井さんなどによって、新しいコミュニティづくりのための取り組みも始まっています。

◆集会所をカフェに
各復興公営住宅の1階の集会所ができたので、そこを閉めてしまうのではなくなるべくアイデアでどんどん使っていこうと。我々の方で先行して、こういう使い方ができるよというお見せしようと。先日から段ボールを使って棚を作るワークショップをやったりした。段ボールに絵を描いたりして作る棚。非常に楽しくオリジナルな棚ができるのだが、おじいちゃんおばあちゃんが来てくれたり小さい子供が自分のおもちゃ箱を作りたいとやってきたり、その「作る過程」がコミュニケーションの場になる。
ソフトとしての活動があるのは大事だが、やはりハード・空間としてみなさんがフラットより安い空間にしていくのは我々建築家の役割。そこでよく言われるのがカフェのような作りにしようというもの。例えばウッドデッキを作ってそこからスムーズに入れるとか、利用の仕方も靴を履き替えず土足で入れるようにすると車いすの方もそのまま入ってくれる。「町の縁側」のようなもの。古い農家には必ず縁側があり、そこでは隣近所の方々が玄関ではなく縁側から声をかけて座ってお茶を飲んだり。一番南側で日の当たる暖かいところ。そこで昼寝もできる。
縁側のように内と外を緩やかにつなぎ、スムーズに入っていけるような集会所が求められている。今までの集会する機能よりも、ちょっとした居場所として使える、ふらっと寄れる空間づくりも求められている。


LOVE&HOPE。今朝は、宮城県仙台市太白区のあすと長町(ながまち)仮設住宅のコミュニティづくりについて、お伝えしました。お話にあった「あすと長町の災害公営住宅」。すでに完成しており、実際エレベーター脇に縁側のようなベンチを置いたり、1階集会所には、オープンデッキができたり集会所にも工夫があるそう。

新井准教授によれば、「集合住宅で、集会所の役割は非常に大きい」という。私たちのイメージだと、コンクリートの四角い建物、クローズドなイメージですが、こちらの集会所は「縁側」のような、開放的でみんなが ちょっと立ち寄れる役割だといいます。実際最近は、集会所を「カフェのようにする」ところも多いとのこと。

その他、元自治会メンバーの方々は、「ご近所づきあい」を作るための様々な取り組みをしているようで・・・これはまた追ってお伝えします。

2015年10月28日

10月28日 あすと長町仮設住宅のコミュニティづくり

震災から4年と7か月。仮設住宅で暮らしていた人たちが、徐々に、生活の場を移し始めています。今朝は、そうした人々がこれから暮らす新しい町、新しいコミュニティの課題について、お伝えします。

お話を伺ったのは、東北工業大学の准教授・新井信幸さん。建築計画、まちづくりを専門とする新井さんは震災直後から、仙台市内の仮設住宅の コミュニティづくりに関わってきました。



◆東北3県の人々が集まった巨大仮設
「あすと長町仮設住宅」。仙台市で一番最初に出来た、一番大きな233戸の仮設住宅。仙台の副都心で結構な繁華街、すぐそばにIKEAがあり再開発用地が残っているところに仮設住宅ができた。
仙台にも沿岸地域があるので、すぐ近所の方が入居するのかと思ったが、沿岸地域から内陸に入っていて「遠い、そんな都会には住みたくねえ」と、最初はなかなか入居が無かった。
その後、仙台市街からも入居するようになり、岩手、気仙沼、南三陸、石巻、南相馬から原発避難者などバラバラの入居者によるコミュニティづくりが必要となった。
そこに何かサポートできないかと思ったが、自分は建築の人間でそういうプロではない。何ができるか考え、ハード面、例えば建物の形を孤立しないように、玄関を占めると中が見えないという環境では孤立してしまうのでそうではないものを提案しようとか、広場も何もない更地なのでそこに縁台を作ってちょっとしたコミュニティスペースを作ろうとか、屋台を作っちゃってカフェを週に1度やってりという、そういうことを居住者と一緒にやってきた。


「あすと長町仮設住宅」、JR東北線・東北新幹線の線路沿いにあるので、ご覧になったという方もいるかも。200を超える仮設住宅が並ぶ本当に大規模なもの。 そこに、岩手・宮城・福島からたくさんの人が避難してきたわけです。ほとんどの方が初対面。そして昨日のお話ではないですが、方言や文化の違いもあり、当初は、様々なトラブルが起きていたようです。そんなバラバラの状態を解消しようと、住民の方々は自発的に動き出したと言います。


◆新しいコミュニティ作り
我々の取り組みもそうだし、お茶会も始まり徐々にはじまり、さらに集会所でも毎日何かがイベントをやる。我々も大工仕事をしていると知らない人がフラッとやってきて、そうして小さなコミュニティが出来て行った。そんなことをしながら夏(2011年)には住民による自治会を作ろうという機運が高まり、自治会の準備会が8月後半に立ち上がり、楽しみながらコミュニティを作ろうということになった。一気に大きなコミュニティを作るのではなく、ペットクラブやカラオケクラブ、ラジオ体操クラブなど小さなクラブが自然発生もあって出来てきた。ブドウの房のような小さなグループができて、それを束ねて2012年3月に正式な自治会となり、顔見知りになった。そこまでは時間がかかったが、円滑に活動的に取り組んで、一人暮らしのおばあちゃんなどはここに住み続けたい、ここが安心なのでほかに写れない。孤立する環境が怖いという人も多く出てきた。仮設から出たその先に公営住宅ができるのは想定していたので、この新しいコミュニティを維持する次のステップを目指せないかと2012年3月くらいから新たな活動が始まった。


LOVE&HOPE。今朝は、宮城県仙台市太白区(たいはくく)のあすと長町仮設住宅のコミュニティづくりについて、お伝えしました。

こうして、あすと長町仮設住宅では、住民が主体となって、ご近所づきあい・コミュニティ作りを
積極的に行う流れができたと言います。そして、復興が進むにつれ、この仮設の町も次の段階へ。復興住宅、災害公営住宅などでの、「生活再建」です。
 
そこで問題になるのは、せっかくこの土地で生まれたコミュニティを、 また崩してしまうこと。これまでご近所づきあいのあったお年寄りが、   移転先で、また孤立してしまう懸念があるということです。
これは全国の仮設住宅で問題になっています。

この続きは明日のこの時間にお届けします。

2015年10月27日

10月27日 東北方言オノマトペ用例集2

昨日に引き続き、東北の方言・オノマトペをまとめた本「東北方言オノマトペ用例集」についてお伝えします。

東日本大震災の直後、全国から被災地に集まった医療チームが東北の方言やニュアンスを理解できず対応に苦労した・・・ということを受けて作られたのが、この本です。今回は、この本に紹介されている様々な方言のオノマトペを、本を作成した方言研究者の竹田晃子さんに解説していただきました。竹田さんご自身、東北・岩手県ご出身です。

◆いかいか、うらうら、はかはか
例えば「いかいか」というオノマトペ。これは鋭くさすように痛む様、炎症の不快感。例としていろんな方言集に挙げられている例文をあげると「くびたー、いかいかっと、針でもさすたみてえに、いでえ」という言い方。くぴた=首。首がチクチクと針でも挿したみたいに痛い・・・という意味。これは岩手の言葉。めまいを表す「うらうら」という言葉がある。岩手県ではこんな例がある「あだま、うらうらってわかんねあ」・・・頭がふらふらしていけない、という意味。その他「はかはか」というオノマトペは、息切れや動悸で胸が苦しい様を表すもの。共通語では「はあはあ」。例としては「坂あがってきたっけ、はかはかになったやあ」。意味は、あの坂を上がってきたらドキドキになったよ。はあはあが付け加わったようなニュアンス。この本の最初の方に序文を書いてくれた大船渡県立病院の先生は「他の地域からお医者さんや看護師さんがチームでやってきてくれて、診療を手伝ってくださったが、通役を付けないと診療が回らないという現実があった」そう。最初は事務職員や地元の方が通訳をしながらやっていたが、だんだん落ち着いてくると訪問診療が始まる。そうなると1対1でしかなくて誰もついてきてくれない。最初に挨拶をして名前を確認したあとは、もう言葉がなにも分からないという状況になった方々がたくさんいらっしゃったそう。みなさん薬や食事などいろいろ医者に質問するのだが、そこにもたくさんの方言が出てくるので、なにを聞かれているのか、質問されているということはわかってもそれに応えることができない状況が続いたという。


実はこの本、医療に関わる人だけでなく、一般の人もこれをきっかけに、東北や、各地の方言に興味を持って欲しい・・・という想いもあるそうです。

そして、方言は東北だけではありません。竹田さんは、こうした方言をまとめる動きが全国に広がることも期待しています。

◆全国に、オノマトペ用例集を広げたい
印刷して、公立病院や大きな病院には1冊づつ配った。何件からは非常にありがたいという言葉ももらい、研修で使いたいので残りがあればもうちょっともらえないか、とか、地元版のもうちょっと詳しいものを作り直して欲しいという依頼があったり、そういう声をいただいた。なんとかしなければと思っている。我々はよく方言は県単位で理解したくなるが、だいたい日本の方言は江戸時代の藩で分かれている。一つの県の中に方言が3つ、4つあるのが普通。それに合わせたものを作らないといけないということだと思う。


竹田さんによれば、この「東北方言オノマトペ用例集」をきっかけに、少しずつ、研究者もこうした活動に参加するようになってきているそう。そして、この用例集は国立国語研究所のウェブサイトアップルのiPad用のアプリで読むことができます。

国立国語研究所のウェブサイトでは、この用例集のpdfをダウンロードできます。
また現在は、アップルのiPad用のアプリも配信されています。

2015年10月26日

10月26日 東北方言オノマトペ用例集

今朝は、東北の「言葉」をめぐる、ちょっと興味深い取り組みをご紹介します。

東北各地にそれぞれ存在する「お国言葉・方言」。
この番組では各地を取材する中で、それぞれの地元の方の豊かな方言に出会ってきました。時には共通語には存在しない表現に「???」となることも多いのですが、実は東日本大震災の直後、これが笑い事では済まない状況がありました。そして、これをきっかけに、方言を研究する人たちの間で、ある取り組みが始まったんです。方言研究者の竹田晃子さんに伺いました。

◆非常事態で「方言が通じない」
震災が起こった時に、地元で方言をずっと研究している人たち、我々が方言を教えてもらいに出かけて教えてくれた一般のたくさんの方々が被害にあわれていて、何かできないかと思った。そんな中、弘前学院大学の今村かほる先生が、「医療現場では方言が通じなくて困っている(※参考 今村かほる方言研究チーム)」ということを言っていた。医師の方言が分からない場合もあるし、患者・看護師の方言が分からない場合もあるという。いろんな場合があるので、それらをつなぐ役割を我々研究者はするべきじゃないか、ということをおっしゃっていた。それで何かするべきではないかと思った。調べるとこれは医療現場だけの話ではない。例えば、愛知県のヘリコプターが被災地へ救援に来てみたら、「どこかでヘリコプターが落ちた」という情報があった。そこで仲間のヘリコプターを探して延々とヘリコプターの捜索活動をしたが実はそれは仙台市の方言で、「降りる」のことを「落ちる」と言うということがわかった。汽車から落ちる、というのは降りるという意味。他にも、有名なテレビ局が地元でインタビューをして、地元の方言に共通語の字幕を付けたがそれが明らかに間違っていた。「水がなくて困っていた」という字幕が付いていたが、それは「困っている」という意味。窮状を訴えているのに、過去形の字幕が出たことで、それをみた人は、もう終わったんだな、良かったんだねと思ってしまう。そういう事態が散見されて、なにかしなければという思いもあって、今まで方言のオノマトペを集めていたが、そこに体の調子を表すものもあったので、医療現場向けに私が集めていたオノマトペから体に関わる表現を集めて資料を作り、配布できないかと始めたのが、この本「東北方言オノマトペ用例集」ができた。


というわけで方言研究者の竹田さんが、国立国語研究所の研究者だった当時、2012年に作成したのが「東北方言オノマトペ用例集」。



オノマトペ・・・いわゆる擬音語・擬態語。鈴虫が「りんりん鳴く」とか、背中が「むずむずする」といった表現のこと。

震災直後、全国から被災地に集まった医療チームが、方言で混乱したことを踏まえ、特に、医者と患者のやりとりで必要な、105のオノマトペを集めた本です。表紙はお医者さんがおばあさんを診察している絵柄となっているのですが、これについて伺いました。

◆患者の「表現」がが分からない
この表紙はお医者さんが患者さんに、どうしたのと聞くと患者が「喉がぜらぜら」と答えている。ぜらぜら、は共通語には存在しないオノマトペ。この表紙のおばあちゃんは「喉に痰がからまって気持ちが悪い」「呼吸がしにくい」と説明するのだと思う。こういう共通語にないオノマトペで説明することが方言の中にはたくさんある。のちのちに伺った話だが、お医者さんが「患者さんが背中がざらっとする」と診察を受けに来た」というので、背中を触ったがなんともないので、全然ざらざらしていませんよと説明して帰ってもらったが、その後、患者さんが熱を出してまた来院した。どうやら「ざらっとする」は土地の方言で悪寒がするという意味らしい。患者さんは大事には至らなかったが、「もしそれが分かっていれば」とその医者はおっしゃっていた。


この用例集、すでに東北各地 およそ2000以上の医療・介護・福祉関係の機関に配布され、役立てられています。
国立国語研究所のウェブサイトでは、この用例集のpdfをダウンロードできます。
また現在は、アップルのiPad用のアプリも配信されています。

明日も東北方言オノマトペ用例集」についてお伝えします。

2015年10月23日

10月23日 東北復興グルメシリーズ −陸前高田  奇跡の醤

10月23日(金) 岩手県陸前高田 八木澤商店の「奇跡の醤」の当選者は…
ラジオネーム
☆滋賀県 とっちさん
☆兵庫県 きっくんさん
☆秋田県 ぽんぱんさん

以上の3名様です! おめでとうございます!!
たくさんのご応募ありがとうございました!

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今週は、大好評の『東北復興グルメシリーズ』!
食を通じて、復興、地域活性に貢献する人たちにスポットを当ててお送りしています。

ラストの今日ご紹介するのは、江戸末期創業、200年を超える歴史を持つ、岩手県陸前高田の醸造業、「八木澤商店」の「奇跡の醤(ひしお)」です。歴史を感じさせる「なまこ壁」の建物と、町にただよう味噌や醤油の香り。作り出す醤油は、たびたび農林水産大臣賞を受賞するなど八木澤商店は地域を代表する存在として、伝統を守り続けていました。

そして2011年3月11日に起きた東日本大震災による津波は、お店や蔵、さらに代々守り続けてきた大事な醤油の原料となる「もろみ」まで、流してしまいました。そこからどう復活を遂げたのか?「八木澤商店」9代目社長、河野通洋さんのお話しです。

◆震災で社員が一人犠牲になった。社屋、工場、すべて津波で流され、全部なくなった。で、そのあと同業者の方の協力や、金融機関、政府の協力をいただいて、陸前高田はどうにもならなかったので、隣の一関で大東町に醤油の工場を建て、そこで製造を再開してやっている。醤油の絞る前の「もろみ」の中に、乳酸菌や酵母菌とか、その蔵のDNAが息づいているが、その「もろみ」が、たまたま一か月前に、釜石にある微生物研究所で共同研究用にサンプルとして預からせてくれと言われ、釜石の研究所に行った。で津波で全流され、釜石も津波で被災したが、公共の建物でコンクリートだった。中は大変な状況だったが、密閉容器に入っていたので「もろみ」が守られた。でそれを震災直後、こちらもわちゃわちゃしてたので、釜石の研究員の方が岩手県の工業技術センターに持ち込んで、うちの「もろみ」を守ってくれた。しかも160キロの「もろみ」に拡大培養してくれ、その「もろみ」が生きて、新しい工場の初めての仕込みの時に使うことが出来て、うちの元来の味が守られた。

じつは河野さんが、父である8代目に代わって社長に就任したのは、震災直後の事でした。総被害額2億2000万円。残ったのはトラック2台だけ。そんな状況の中、「9代目社長になって、全員の雇用を守って、給料も全額支払う!」と宣言して2011年4月1日に、社長に就任しました。河野さんの背中を押したのは、どんな思いだったんでしょうか?

◆モチベーションの原点は「怒り」
モチベーションの原点は、あまりいいものではないが、「怒り」だった。ものすごく自分たちの町が好きで、自分たちの町を何とかしようと言っていた仲間が社員を含めて亡くなってしまったので、それに対するどこにぶつけたらいいのか分からない怒りがこみあげて、絶対何とかしてやると思った。で自分一人では何もできないので、身近にいる社員に協力を頼んで、いまそれが続いている。まあきずなが深まったのか、こいつ一人だと死んじゃうからみんなで協力しようってなったのかは分かりませんが、社員同士の絆は強かったのでそこが強くなった印象はある。


力を合わせて困難に立ち向かい、2012年10月、陸前高田で本社兼店舗を再開。2013年2月には、念願の自社工場による製造を再開しました。看板商品は、奇跡的に見つかった「もろみ」から作った、「奇跡の醤」。いったいどんな味わいなんでしょうか?

◆料理の仕上げにスッと。
大事にしているのはこの土地で採れる原材料、大豆とか小麦とかすごくいい材料が採れるので、そういう厳選された原材料を使って、誰を喜ばせるかというのがすごく大事で、これは料理を作る人だろうと。料理を作って料理を楽しむ人が、調理をした時に83度という温度帯を初めてすぎるように、火入れという仕事があります、過熱をする仕事なんですが、その火入れの温度を低くして、少し時間はかかるんですけど、一番いい香りをお客様が一番先に嗅いで頂きたいという思いで、作っています。なので、もちろんつけ醤油、かけ醤油にしても美味しいんですが、私は火を使う焼き物とか煮物の一番最後にスっとたらして頂くと、際立つ醤油に仕上げているつもりです。

 
醤油のいちばんいい香りが出る83度以上にしないように、時間をかけて丁寧に作っているということ。ちなみに河野さんは、肉好きで、ステーキの仕上げにさっとかけて食べるのが好きなんだそうです!

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今朝は!そんな「八木澤商店の『奇跡の醤(ひしお)』(500ml2本セット)を3名の方にプレゼントします。
ご希望の方は、メッセージフォームからご応募ください。このあと9時まで受け付け。当選者はブログの中で発表します。

直接購入したい!という方は、「八木澤商店」のサイトをご覧ください。

2015年10月22日

10月22日 東北復興グルメシリーズ −南相馬市「前田美豚」

10月22日(木) 福島県南相馬市の「前田美豚」の当選者は…
☆あいあいびと さん
☆ラベンダートルゥー さん
☆ハル さん

以上の3名様です! おめでとうございます!!

明日は、岩手県陸前高田市の「奇跡の醤」をご紹介します!

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今週は、大好評の『東北復興グルメシリーズ』!
食を通じて、復興、地域活性に貢献する人たちにスポットを当ててお送りしています。

今朝ご紹介するのは、福島県、阿武隈山地の裾野で育った究極の豚肉、「前田美豚」です!細かい「さし」が入った赤身に、まろやかな脂を持ったこの豚肉は、複雑な配合から生まれた三元豚で、コレステロールが少なく、コラーゲン豊富、美味しいうえに美容にもいいということで、「前田美豚」と名付けられています。

この豚肉を生み出したのが、南相馬市で畜産にたずさわって半世紀以上という名人、前田光男さん。抗生物質を一切使わない飼料や、育成環境などの徹底した管理のもと、生産しています。
元は「前田ポーク」という名前で限られた販売店にだけ卸していましたが、ある日この「前田ポーク」を見つけて「前田美豚」と名付け、全国に売り出したのが「福島県食肉卸売株式会社」代表の長沼修次さん。

はじめてこの豚肉を口にした時のことを、こう振り返ります。
『なんて脂が甘くて美味しいんだろうって。懐かしい感覚があった。昔ながらの美味しかった豚肉が出てきて、久々に脂身の美味しい豚肉を食べたなと。で後々食べてみると、しゃぶしゃぶとかすごく旨い。で、灰汁が出ないんですよ。』

地元の美味しい肉を探し出しては、全国へ出荷していた目利きの長沼さん、何度も足を運んでは前田さんと会話を交わし、ついに取引を始めます。

高級和食店やホテルなど徐々に全国に流通を広げ、長沼さん自身も福島市内に「BITON」というレストランをオープン。そして満を持して「前田美豚」という名前を商標登録した翌月に、東日本大震災が発生しました。

南相馬・小高区にあった前田さんの自宅や豚舎は警戒区域となり、前田さんも育てていた豚を置いたまま市外へ避難。前田さんはそれでも、避難先から毎日豚舎へ通って、豚の世話をしていましたが、ついに行政から、「全頭殺処分」という判断が下されます。

◆前田美豚にお別れを
最後に前田美豚にお別れを、という事で、前田さんと私、それにここの料理長と前田美豚にお別れをしに行った。で次の日からは一切入れなくなり、その後、何千頭という豚が殺処分になった。で、なぜ復活できたかというと、前田さんの豚肉の評判が良くて、種豚、親豚が、宮崎、新潟、静岡、福島に居た。それを皆さんの好意で戻してもらって、復活することが出来た。戻ってきた親豚を前田さんのお弟子さんの白河の牧場を借りて育てている。いまは解除になったので小高の方で親豚を育てていろんなところで育てている。


何十年もかけて磨き上げ、「福島の財産」とまで言われるようになった「前田美豚」を全頭殺処分しなければならなくなった時のお気持ち・・・でもそこから立ち上がって「前田美豚」の育成を再開させた前田さんと、それを支える長沼さんたち。次に立ちはだかったのは、風評被害です。

◆お客さんの言葉に支えられ
たとえば旅館でも使ってもらってたが、お客さんが“福島のものは食べたくない”という方が多くて。福島県内に住んでいる人もいくら豚肉は汚染されにくいと言っても食べたくない・・・ものはあるけど売れないという状況はけっこう続いた。一年以上は風評被害には苦労した。そこでうちの料理長が前田美豚を使って料理してPRしたり、つい最近も旅館で食べて美味しかったお肉だったので、と注文をもらったり、そういったことはある。「頑張って下さいね」「いっぱい食べますよ」というお客さんがたくさんいて、風評被害もあったが、温かい言葉をかけてもらった。だんだんこういう話をしていると言葉がつのってきますね。ついつい前を思い出して・・・あの時は本当につらかったから。


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今朝は福島から、前田さんが手塩にかけて育てた【前田美豚しゃぶしゃぶ用ロース肉(1キロ)】を3名の方にプレゼント。
※応募受付は締め切りました。ご応募ありがとうございます。

直接購入したい!という方は、「前田美豚」のサイトをご覧ください。


「Global Kitchen Biton びとん」はこちらから


『東北復興グルメシリーズ』、
明日は津波で壊滅的な被害をうけた陸前高田で奇跡的に蘇った醤油、「奇跡の醤」をご紹介します。

2015年10月21日

10月21日 東北復興グルメシリーズ −東松島市の新米 かぐや姫「きむら米」

10月21日(水) 東松島市のかぐや姫「きむら米」の当選者は…
☆あまみのくろうさぎさん
☆りーさん
☆じゃむさん

以上、3名様です! おめでとうございます!!

明日は、福島県南相馬市の「前田美豚」をご紹介します!
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今週は、大好評の、『東北復興グルメシリーズ』!
食を通じて、復興、地域活性に貢献する人たちにスポットを当ててお送りしています。

今朝ご紹介するのは、秋の味覚「新米」・・・それも、「かぐや姫」と呼ばれる幻のお米です。

産地は宮城県東松島市。平成5年の大冷害の中、突然変異したたった3本の稲穂から生まれたのが、この「かぐや姫」。6年後の平成11年、品種登録され、東松島の名物となりました。最盛期には「かぐや姫」を育てる農家も13軒にまで増えたそうですが、じつは今、「かぐや姫」を育てている農家は、たった一軒だけ。その状況に至ったいきさつを、「かぐや姫」を守り続けている39歳の若き農業家、木村正明さんに伺いました。

◆大冷害が生んだ「かぐや姫」
平成5年の大冷害の時は東北のお米が全然取れない。日本全国で米不足に見舞われた年だったんですけど、宮城県といえばササニシキという東の横綱と呼ばれるお米がほぼゼロに近い、収量が見込めない中、たまたま小野寺さんというおじいちゃんが自分の田んぼを観に行ったら、たまたま3本の穂が立っていた。それが雲の切れ間から光が差し込んで輝いてみえたと。「竹取物語」の竹林の中で光る竹から連想されて「かぐや姫」というお米を6年かけて一人で品種登録までした小野寺さとしさんというおじいさんがいる。それをきっかけに地元でも特産物にしようという動きがあって、ここ東松島でも11月にならないと稲刈りができないというすごく遅い品種。世の中の新米シーズンが通りすぎたあとの収穫なのでなかなか認知度が上がらず、最高で13人まで生産者がいたが徐々に減って、震災を機に、生産者は私一人となりました。


震災当時35歳だった木村さん。実家の田んぼは無事でしたが、作業受託していた田んぼは全滅。両親からは農家を辞めて会社勤めをするよう勧めらましたが、ここで〔「かぐや姫〕で見返してやろう!」と奮起、「かぐや姫」を「きむら米」として、全量、自家販売することを決意します。

◆「美味しいですよ〜 好きなだけなんですけどね、美味しいご飯が」
奥松島にある宮戸島という大きな島があるが、そこで作業受託ということで田植えや稲刈りをして収入を得ていたという特異的な専業農家だった。宮戸島の農地54ヘクタールの総面積の半分以上、27ヘクタールうちで手掛けていた。震災でそれがすべて流されて、震災前年度と比べると約9割赤字経営です。今回の震災補助の線引きが地権者にある。作業受託者なのでそれに対してなにも支援がない。それに対して、うちのお米美味しいって言ってくださるお客さんも抱えていたのでいろいろ悩んだ結果、専業農家でやれるところまでやってみようと。その影にもかぐや姫という大きな力があったので、一回途切れてしまうのとまた地元の特産米として起き上がるのは不可能だなと思っていたので、じゃぁかぐや姫を自分責任で作らせてくださいって小野寺さんに言ったら「木村くんに全部任せっから!」というので、自分で作った袋につめて、(農協を通さず)個人のお米屋さんに直接持って行って「こういうお米です!」って説明して置いていただく。新米とれたらそれを持って行って、震災後ずっとそういう営業をしています。美味しいですよ〜自慢じゃないですけど、作ってて美味しいんですから。生産者がいうのもヘンなんですけど自分たちが食べて疑う余地がなかったというか。好きなだけなんですけどね、美味しいご飯がね。


★ ★ ★ ★ ★


今朝は!木村さんが手塩にかけて育てたお米、「かぐや姫」の「きむら米」(5キロ袋)を3名の方にプレゼント。11月初旬に収穫したての新米を直送でお届けします!

※応募は締め切りました。


直接購入したい!という方は、東松島市特産米 かぐや姫生産組合「竹取倶楽部」にお問い合わせください。
電話番号 0225-82-4651
かぐや姫を取り扱う各店舗の情報は「お米 かぐや姫」で検索してください。


『東北復興グルメシリーズ』、明日は、福島から、幻の豚、コラーゲンたっぷりの、「前田美豚」をご紹介します。

2015年10月20日

10月20日 東北復興グルメシリーズ −南三陸 秋鮭のいくら

10月20日(火)にご紹介した「生いくらの醤油漬け」も含む『はらこ飯セット』の当選者は・・・
★りさ さん
★げんごろー さん
以上、2名様です。おめでとうございます!!
たくさんのご応募、ありがとうございました。

そして、明日10月21日(水)は幻のお米「かぐや姫」ご紹介します。
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今週は、東北の「美味しいもの」を作る人たちや、食を通じて「復興・地域活性に貢献する人たち」にスポットを当てる、大好評!『東北復興グルメシリーズ』をお届けしています!
今朝ご紹介する復興グルメは、南三陸町の秋サケの「いくら」です❤

南三陸町は、「銀鮭」でいえば養殖発祥の地であり、町に流れる3本の川を上ってくる「秋サケ」は、全国でも有数の水揚げ量を誇る「鮭の町」としても知られています。

そんな「秋サケ」で地域の町おこしを、と考えているのが南三陸で60年続く、鮮魚店・水産加工会社の「山内鮮魚店」。3代目、山内正史さんに伺いました。

◆家の窓から鮭の上る音が聞こえた
八幡川。鮭上ってくるんだよね、ここ。昔は最高のとき川がまっ黒くなるくらい上ってきたんだよ。うちは川のすぐ脇だったから、座敷からハゼ釣り、鮎釣りができた。お風呂に入ってたり寝てたりすると、鮭が上るバシャバシャという音が聞こえるんだ。その鮭で町おこししたいなと思って昔からいろいろやっててね。やっぱり街の真ん中の川に鮭遡上するってないよね。それをみんなで大事にして、自慢にしたいよね。


お話にあった「八幡川」は、津波で骨組みだけが残った防災庁舎のすぐ目の前の川。その川を挟んで真向いにあったのが、山内鮮魚店です。町にあるお店や事務所、工場、自宅、4か所全てを津波で失いました。

しかしそんな中でも、「全滅した町を再起させなければ」と、震災からわずか5か月後の8月、高台に仮設の店舗をオープン。その年の秋、まだ瓦礫が残るふるさとの川に、秋鮭は帰ってきました。

◆震災の年に帰ってきた
みんな大喜びした。震災の年に鮭来たときみんな拍手した。市場で鮭のはじめての水揚げの時、みんな大拍手だった、みんなうれしくてね。意外と獲れたんだ、なんでこんなに帰ってくるんだよって思ったんだ本当に。
ただ今年はまだ若干少ない。それは震災から4年半経っているから、だいたい鮭上ってくるの4年周期だから、震災の時稚魚を放したばっかりだったから、あのシケの中生き残ったかどうだかわかんないけど。10月末〜12月中頃まで上るんだけど、でも川に上ってきたやつは産卵で疲れ切ってるからあまり美味しくないの。だから私らが食べるのは川に入ってくる前の、海で獲れたあまり疲れてない鮭を食べる。鮭というのは川に上ってきて子どもを産むときは、他の外的から攻撃されないように、簡単に壊れないよう防護するからこっこ(子ども)の殻が固くなる。脂っぽくないしおいしくないんだけど、産む前の子どもをだんだん熟させているこっこは 栄養分がたくさんつまってるのね。脂っぽくて中身がはじけるようで。うちは手作り、鮮度がいいやつをすぐ処理。しょう油漬のタレは自家製。いろんな添加物を普通は使ってるけど、うちは無添加でしょう油もこだわり、お酒は一ノ蔵のお酒を使ったり、防腐剤やアミノ酸とか入れない。鮭の子の味がストレートに伝わってくるように、だって元気が出るように作らないと。食べて元気がでるように健康的なものをつくらないとやっぱりよくないから、そのように心がけている。(お孫さんも食べる?)もちろん孫も食べるよ。「じいちゃん美味しい!」っていうね(笑)


この秋は新しく、鮭のふ化場が完成するそうです。

★ ★ ★

そして震災から4年半、震災の年に放した稚魚が、今年南三陸にかえってきました!
ということで、今朝は獲れたての秋サケから、生いくらの醤油漬け、切り身などをセットにした【はらこ飯セット】を2名の方にプレゼントします!
※プレゼントの応募は締め切りました。
※現地から直送します


また11月からは「キラキラいくら丼」をぜひ食べに南三陸町へでかけてみてはいかがでしょうか。


山内鮮魚店のサイト

『東北復興グルメシリーズ』、明日は、宮城県・東松島市から、幻のお米、「かぐや姫」の新米をお届けします!

2015年10月19日

10月19日 東北復興グルメシリーズ −唐桑潜水ウニ

10月19日(月)の復興グルメプレゼント!
「唐桑天然潜水ウニ」の当選者は、

・みーちゃん さん
・彦岳rock★ さん
・ひでっち さん

以上、3名さまです!おめでとうございます!

明日は、宮城県南三陸町より、旬のいくらを使った
「生・いくらの醤油漬け」です。

6時30分からお聞き逃しなく!

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今週は、東北の「美味しいもの」を作る人たちや、食を通じて「復興・地域活性に貢献する人たち」にスポットを当てる、大好評!『東北復興グルメシリーズ』をお届けします!

もちろん今回も、毎日日替わりでプレゼントもあります!
初日にご紹介する復興グルメは、宮城県気仙沼市・唐桑の「天然潜水ウニ」です。「とろろ昆布」の原料となる「細目昆布」で有名な、唐桑の豊かな海。その細目昆布を食べて育ったウニは、濃厚な甘みと旨みが特徴の「特上品」として知られています。

そんな「唐桑ウニ」を、「南部潜り」という伝統的な手法で採り続けているのが、この道50年のベテラン潜水士・熊谷勝夫さん。76歳。時には30メートル以上も深く潜り、鋭い目利きで身の詰まったものだけを採り続けています。この「南部潜り」で漁をしているのは、唐桑でも熊谷さんただ一人だけ、という事なんですが、「南部潜り」で獲れる唐桑ウニとは、いったいどういうものなんでしょうか?

◆唐桑ただ一人の南部潜り 深海35メートルの世界
南部潜りで、35mぐらいは潜るね。空気で上がり下がりする、下がる時が一番危険。だから命綱という綱を下がる時に持って沈んでいくんです。重りの鉛と足とヘルメットを足すとだいたい60キロだから、深水30mで一升瓶が裂けるような圧力がかかる。深くなればなるほど圧迫されるから疲れちゃう。私50mまで潜ったんだよ、ダイバーなら潜れるけどヘルメットで50m潜る人は滅多にいないですよ。だから皆に怪物だって言われるの。ギネスブックに載るかと思って頑張ってるんだけど(笑)
9月になったら浅いところのウニだと普通卵を持ってるんだけど、深いところだと卵を持ってない。卵を持っていると軽くなる。卵を持ってないと実が重いんだよね。宝の山ですよね、やっぱり。


潜水病になってしまったり、潜水服と船をつなぐケーブルが切れてしまったり、危険な場面もあったそう。常に万全の体調でいなければならないので、トレーニングと管理は完璧。A4のノートにはその日の血圧、脈拍、睡眠時間、気持ちの状態などがびっしり!

こうして自分の健康管理をきちんとするようになったのは、震災後から。現在、唐桑の仮設住宅に一人で暮らしていますが、熊谷さんは長年、生活のパートナーであり漁のパートナーでもあった奥さまを
震災による津波で亡くされています。漁を再開したのは1年4か月後のことでした。

◆仕事のパートナーを亡くしても潜り続ける理由
「熊谷さん、6〜7mの津波がくるから早く逃げろ」というからすぐ沖へ逃げたんです。うちの家内も海岸さ車置いてっから、人を助けに行ったんだね、それで亡くなったんです。だけどやっぱり3年も4年も同じだね。毎朝顔を見ながら拝むんだけど、やっぱり辛いね。仕事のパートナーだったからなおさらね。みんな任せっきりだったから。それでも私はやっぱり働かなくちゃ、動かなくちゃと思って、翌年24年から潜ったんだけど、その時のウニはトゲが抜けたやつばっかりだった。だけど津波の前は少なかった場所も多くなったの。前は300kgだったところが1トン獲れたり、いないところはいないんだけど、いる場所は結構変わったね。
(自分で獲ってきたウニをどうやって食べるのが好きですか?)
私はあったかいご飯にウニをのせて、味噌をちょっとのせて食べるのが一番美味しいね。それをご飯と一緒に食べるの。浜の人は私の手伝いしてる人はみんな味噌を持ってくる。(漁に)いけば毎日食べられるもんね、最高だね。生きがいを感じるね。おかげさんで体もどこも悪くないしさ、腕立て伏せも300回ぐらいやることもあるしね。


★ ★ ★ ★ ★

宮城県気仙沼市・唐桑 潜水士・熊谷さんが南部潜りで採ったウニを、漁協女性部の皆さんが手作りで加工した塩ウニ、『唐桑天然潜水うに』として販売しています。


もちろん購入も可能です。「三陸特選市場」のサイトを訪ねてみてください。

『東北復興グルメシリーズ』、明日は、宮城県南三陸町から、新物の「生・いくらの醤油漬け」をご紹介します。お楽しみに!

2015年10月15日

10月15日 南相馬市小高区 藤島昌治さん(4)

作家の渡辺一枝さんが主催する『福島の声を聞こう』は、福島で生きる当事者の方を東京に招いて、その話を伺うトークイベントです。

今回の語り手は、福島県南相馬市小高区出身の藤島昌治さん。
小高区は、原発事故の直後から「警戒区域」に指定され、全住民およそ1万1千人の避難生活が続いています。全住民の避難生活が続く中、藤島さんは避難先の仮設住宅で自治会長を務めながら地域のお年寄りの見守りを続けています。

また藤島さんは、仮設住宅の様子や現状を「詩」にしたためています。

◆詩でつづる福島のいま
もっともっと福島の現状を伝えていくのがわたしの務めかなと思って、いま少し書いているものがある。それを読みます。近くに姉がいるので、その姉とのやりとり。

『泣かせるじゃないか』

久しぶりに姉に会った。
「もう少しだね」とポツリ。
なんのことかと思ったら、僕の先行きのことだった。

「まだ避難解除にはしばらくあるから」と答えると、
「うちに来れば?」と言ってくれた。

姉のところは年寄夫婦だけとはいえ、とんでもないことです。

そんなところに行けるわけもなく、行くはずもなく。
「どこか探すよ、どうにかなるよ」とお気楽ぶって言ってはみてもあてもなく。

帰りに持たせてくれた茄子のからし漬けをつまみに、
居酒屋四畳半は焼酎の涙割りの客が一人だけです。


『90歳のお正月』

なあ、ばあちゃん、歌でも歌うべ。
息子もいねえ、嫁もいねえ、孫もいねえ。

この歳して二人して、仮設住宅でお正月だなんて。

おっきな声張り上げて、北国の春でも歌うべ。
ばあちゃんは美空ひばりでも歌え。

死ぬ間際になって、地震だ津波だ原発事故だなんて、とんでもねえ。
ひどい目にあったけど、俺はここの仮設でよかった。

せまっこいとこさ押し込められて、ばあちゃんはしんどかったかもしんねえが、
みんながよくしてくれてさ。

90も過ぎてしまえばこのままここで死んでしまうかもしれね。

楽しくいくべ、仲良くやるべ、歌でも歌うべ。

もし何年かして、まだ元気で、もどるうちさ帰ったら、
みんなに来てもらって、ごちそういっぱいつくってさ、
花見でもしてさ、酒っこ呑んで歌ったり踊ったり、
どんちゃん騒ぎをしてみてえもんだ。

そしたら死ぬのも楽しみだべ。



※藤島さんが綴った詩は、詩集としても出版されています。
 「なんじょすっぺ」、そして「仮設にて」の2冊。

※トークイベント「福島の声を聞こう」次回は11月11日(水)夜7時から東京・神楽坂の「セッションハウス」で行われます。

2015年10月15日

10月14日 南相馬市小高区 藤島昌治さん(3)


作家の渡辺一枝さんが主催する『福島の声を聞こう』は、福島で生きる当事者の方を東京に招いて、その話を伺うトークイベントです。

今回の語り手は、福島県南相馬市小高区出身の藤島昌治さん。
小高区は、原発事故の直後から「警戒区域」に指定され、全住民およそ1万1千人の避難生活が続いています。避難先の仮設住宅で自治会長を務める藤島さんは、来年の春を目途に進むふるさとへの「帰還」に向けて高齢者への配慮が欠かせないと言います。

◆高齢者のシェアハウスが求められている
来年4月に避難解除の予定になっている。田舎だから普通は三世帯、四世帯で暮らしているところが多かったが、震災の影響で子どもさんとお年寄りがばらばらに暮らすようになった。子どもさんは放射能の影響が心配だから、若いお父さん、お母さんは遠くに離れて4年も5年もたった。生活の基盤も避難先に移って、仮設住宅にはお年寄りだけが残った。わたしのところの仮設住宅には174世帯、およそ360名の居住者がいるが、平均年齢が65歳(2015年6月現在の数字)。そういう人たちが来年4月になって、また以前と同じように暮らせるかというと、それは大変な問題。お年寄りだけがもとの原発から20キロ圏内の避難準備区域に戻ることになる。戻ったら戻ったで、土をいじることもできない。放射能で汚染されているので農業ができない。高齢者は戻っても、ただ古い家で、ただぼんやり毎日暮らすことになる。行き場を失った高齢者をこれからどうするのかという、大きな問題を抱えている。個人個人が自分の行き先を案じながら暮らしているが、その受け皿を「シェアハウス」のようなものをつくることができないかと、いま模索している。


来年4月の避難指示解除を目指して、除染作業やインフラ整備などが進む小高区。けれども、住民の心境は複雑です。

◆子どもたちの帰らない選択
こんな話がある。もともとお父さんが仮設から毎日元の家に通って、一生懸命家を修復してきれいにしていた。ある日お彼岸に息子さんとあって、お父さんが息子さんに「あんたたちがいつ帰ってきてもいいように、もとの家は準備できてるよ」と、こう言う。そうすると息子さんは「うん」という。でもこの「うん」は「イエス」ではない。もうほかの場所で暮らしていて、そちらに生活基盤ができているから、帰る意思があるわけではない。でも、お父さんやお母さんには「帰らないよ」とは言えない。仕方なく「うん」と言う。わたしは「そろそろはっきりと「帰らない」という意思を伝えたほうがいいんじゃないの」と言うんですが。そういったことがざらにある。
子どもたちには迷惑をかけたくないと思うと、やはりさっき言った「シェアハウス」のようなものが必要になってくるのではないか。いまそういったことで、来年の4月に向けて選択を迫られている。帰るか帰らないかの二者選択。これが非常に厳しい状況。わたしはいつもへらへら笑っているが、仮設の空気も重い。


9月上旬、小高区の住民グループが南相馬市の桜井市長に「帰還後の街づくり案」を提出。「高齢者向けのシェアハウスの建設」や「高齢者の生きがい、働ける場の確保」などを提案しました。市長も住民のアイディアを政策に取り込む意向を示したが、具体的な取り組みはこれからです。

2015年10月13日

10月13日 南相馬市小高区 藤島昌治さん(2)

作家の渡辺一枝さんが、2012年3月から続けているトークイベント『福島の声を聞こう』。一枝さんは、震災直後から毎月福島に足を運び、各地で聞き取りをする一方、福島で生きる当事者の方を東京に招いて、トークイベントを続けています。

今回の語り手は、福島県南相馬市小高区出身の藤島昌治さんです。
小高区は原発事故の直後から「警戒区域」に指定され、全住民およそ1万1千人の避難生活が続いています。藤島さんは、避難先の仮設住宅で自治会長を務め、仮設で暮らすお年寄りの暮らしと健康に気を配っています。

◆4畳半1つにベッドを押し込んで
仮設住宅は想像以上に大変なところ。85歳で4畳半がひとつ。高齢になると起き伏しにベッドが必要だが、4畳半1つのところにベッドを押し込んで暮らしている。学生さんのように昼間は外出して寝に帰るだけならそれでもいいのかもしれないが、お年寄りは朝から晩までそこで暮らしている。24時間暮らすには大変なところ。そういう人たちを、なるべく部屋に置かずにみんなと一緒にお話ができるようにと、いろんな方法を考える中で、空き地を借りて公園やお花畑をつくって、土いじりをしてもらうとか。子ヤギを飼ったところ、あんまり集まりには出てこられない方も、ヤギに餌やりをしたいがために出てくるとか、そういう方法を模索しながらやっている。

(一枝さん)でも、藤島さんのご自宅があったところは、小高区でも津波の被害がなかったところ。でも小高区でも津波の被害があったところもあるし、原町区や鹿島区でも津波の被害が大きかったところがある。津波の被害があって、ご家族を亡くされて、ご主人一人が遺されたという方も何名かいらっしゃるが、そういう方は本当に大変。

実際のところわたしたちは「核災害」と言われているが、実は津波の被害も大きいところだった。南相馬市だけで569名。これはダントツに大きい。また原発事故のせいで避難地域になったことから、誰もそこに入ることができなかった。1年間放置され、復興そのものがまるまる1年遅れた。津波で亡くなった方も、そのときすぐに探せば見つかったものを、1年間そのまま誰も探しにいかなかったことから、見つからなかった遺体もたくさんある。
それに加えて、非常に多いのが、震災関連死。南相馬市だけで460名ほどある。なおかつ自死なさる方がまだいる。去年も90歳を過ぎた方が自ら命を絶った。90歳を過ぎて、自らの命を絶たなければならない、この苦しさはなんなんだろうと思う。


※現在、来年4月の避難指示解除を目指して、除染作業やインフラ整備などが進められている。
※一方、小高地区周辺は、除染した廃棄物の仮置き場になっていて、近くには仮設の焼却施設もあるということ。
※放射性廃棄物の処理やそれらの施設が今後どうなっていくのかも、地域の方たちにとって心配なところ。

2015年10月13日

10月12日 南相馬市小高区 藤島昌治さん(1)

作家の渡辺一枝さんが、2012年3月から続けているトークイベント『福島の声を聞こう』。一枝さんは、震災直後から毎月福島に足を運び、各地で聞き取りをする一方、福島で生きる当事者の方を東京に招いて、トークイベントを続けています。

今回の語り手は、福島県南相馬市小高区出身、現在は南相馬市鹿島区の仮設住宅に入居し、自治会長を務める藤島昌治さん。仮設住宅で暮らすお年寄りの様子など中心にお話されました。

仮設住宅の80歳のつぶやき
わたしは福島県南相馬市の小高区の出身で、原発にほど近い15キロぐらいのところに住んでいましたが、震災後避難を余儀なくされて山形に移り住み、7回ほど引っ越しを繰り返して、いまの南相馬市鹿島区の仮設住宅に入居しました。そこでなんの拍子か自治会長になり、一緒に入居されている方たちとお話をするようになり。その中に85歳のおばあさんがいて、こういうことを言う。
「わたしは戦争を体験したが、そのときよりも今度の震災のほうがはるかに苦しい」と。一番の苦しさは家族と離れ離れになったこと。仮設に入るときに子供たちと別れなければならなかったと。「お母さんはもう85歳だからこの仮設でもう死ぬかもしれない。でもあんたたちは心配しなくていいよ。わたしはわたしなりにやっていくから」という話を気丈にしてくれて、「80歳のつぶやき」として、集会所の壁に張った。それをボランティアに来てくれた「日本の伝統食を守る会」の方が、もしほかにも書いてあるものがあれば本にしましょうと言ってくれて、それで本にした。

「80歳のつぶやき」
例えばここでこのままわたしが死んだとしても 
驚かないでください、あわてないでください
あの日別々の暮らしが始まったとき、わたしには覚悟ができています
仮設に移ってから2回目の冬が来て
一人暮らしは思っていたよりはるかにつらいものです
明かりを消してもぐりこんだ布団の中で
わけもなく涙がこぼれたり、大声で叫ぶ苛立ちもある

それでも仮設住宅は嫌なことばかりでなく
80歳すぎのきたないばあさんに
やさしく声をかけてくれる人がいたり散歩に誘ってくれたりもする
カラオケが年甲斐もなくうれしかったり楽しかったり
心が弾んで、臆病者のわたしが身の上話をしたり
ここでの暮らしもまんざらでもなく
確かに先の見えない不安がないわけではないが
まあこんなものか、と


このようにおっしゃてくださって、これは書き留めておかなければいけないなあと思って書き留めた。そういったことを何度か繰り返すうちに、こういった仮設の現状や核災害の恐ろしさを、ここから発信していかなければいけないんじゃないか、と思うようになりました。


藤島さんは仮設住宅の自治会長さんとして、入居者のお年寄りの相談相手となったり、心のケアにあたったりしてきました。一方、藤島さんは「詩人」でもあって、詩集「仮設にて〜福島はもはやフクシマになった〜」には、藤島さん自身の想いや心の叫びが綴られています。

2015年10月8日

10月8日 福島県飯舘村「かーちゃんの力プロジェクト」(2)

今日も、福島で農業を営む、渡邊とみ子さんのインタビューです。

渡邊とみ子さんは震災後、原発事故の影響で福島県飯舘村から福島市内に避難。避難先で土地を開墾して、飯舘村オリジナルの野菜を作り続けています。また、ふるさとの「おふくろの味」を継承しようと、「かーちゃんの力プロジェクト協議会」も立ち上げました。県内外の「かーちゃん」たちとネットワークを結んでお惣菜、お菓子、漬物、お餅などの製造・販売に取り組んでいます。

一方、飯舘村は来年4月の帰村を目指して作業を進めているところ。避難後、生活の基盤を福島市内に設けたとみ子さんの想いは、複雑です。

◆帰村宣言でまたバラバラに
飯館村もいずれ、来年、再来年には「帰村」ということが言われている。その中で、復興住宅が建っているところもある。借り上げ住宅に入っている方、家を建てた方、それぞれの道を歩み始めている。帰る人、帰らない人。わたしのように福島市内に家や加工場を建てたりすると、そこからなかなか離れることができない。気持ちの整理がつかない人もたくさんいると思う。そういう人たちが、行政による「帰還宣言」によって、住所を村なのか避難先なのか、決めなければいけないというのが、精神的に自分の中で消化できるかなというのが、いまわたしの中でつらいところ。「かーちゃんの力プロジェクト」では、自らが避難者でありながら、そういった同じ避難者を支援している。もっともっと次世代につないでいくということを意識してやっている。「あぶくま食の遺産継承事業」というのがあって、それぞれのかーちゃんたちの生き方、どういうときにこの料理ができたかということが、(震災後の)避難で、失われてしまいつつある。味噌ジャガにしても、いかにんじん、ひき菜炒り、凍み大根。本当に「凍み文化(しみぶんか)」というものができなくなってしまった。そういう文化を遺したい。そこで、「ふるさと・かーちゃんの味を伝えます、広めます、届けます」という三本柱でやっている。
わたしの場合は、食と農に関わるところでやってきて、「広める」という思いはあっても社会はそんなに簡単なものじゃない、世間はそんなに甘いものじゃないということを肌で感じているので、村に戻ってすぐに生産をしても、おそらく除染をしたところでは(放射線量は)国の基準以下になるとは思うが、いまようやく、こうやってイベントもできますが、それが本当にこれからのスタートのプラスできるかどうか。(ここからまた村に)戻る、そのエネルギーはない。時間もないしエネルギーもない。だから本当に「帰村宣言」が出たときに、もう一回飯舘村の荒れた土地を耕してというのは、相当覚悟のいることだと思う。であれば、自分の最初の夢や目標のためには、いまある環境で頑張ってやるしかない、というのがわたしの答え。



お話に出てきた、福島県阿武隈地方の「凍み文化(しみぶんか)」。
例えば「凍み餅(しみもち)」は、よもぎなどを餅に練り込んで、軒先につるし冬の寒気にさらした地域の伝統食。保存食としても重宝しました。味が凝縮した「凍み大根」や「凍み餅」は田植えの時のごちそうでもあったと言います。

「かーちゃんの力プロジェクト」の商品は、福島市内にある「あぶくま茶屋」で販売しているほか、プロジェクトのオフィシャルサイトでも購入できます。
またプロジェクトは、10月17日(土)東京の国際フォーラムで行われる「ふくしま大交流フェア」にも出店します。

2015年10月7日

10月7日 福島県飯舘村「かーちゃんの力プロジェクト」(1)

今日は福島で農業を営む、「かーちゃんの力プロジェクト」渡邊とみ子さんのインタビューです。

渡邊とみ子さんは、福島県飯舘村の出身。嫁ぎ先で農業を手伝ううちに、地域の活性化にも関わるようになり、 飯舘村オリジナルの野菜をつくる研究会も立ち上げました。品種改良の取り組みが実り、
プロジェクトが軌道に乗った矢先に起こったのが、2011年の東日本大震災。原発事故の影響で飯舘村は全村避難となり、とみ子さんも福島市内に避難。福島市で農業を続けています。

◆種をつなぐ=飯舘をつなぐ
飯館村は平成の大合併で自立を選んだ村。飯館出身の菅野元一さんが、「イータテベイク」というじゃがいもと、「いいたて雪っ娘(ゆきっこ)」というかぼちゃの研究会を立ち上げて、世の中に広めよう、世界に広めようと仲間たちと頑張ってきました。その中で「イータテベイク」は品種登録され、「いいたて雪っ娘」も2011年3月15日に品種登録、11月11日に商標登録された。震災後も種をつなぐのが自分の仕事だと思って、福島市内に移り住み、土地を借りて農業を再開し開拓というような感じで頑張ってきて今につながっています。


避難先の福島市内に土地を借りて畑を開墾。飯舘村オリジナルの野菜を作り続けるとみ子さんですが、新たな土地での畑づくり、土づくりには大変な苦労がありました。

◆飯舘の土の良さに気づいた
休耕田、耕作放棄地だった田んぼ20枚ほどを1枚にして、1ヘクタールの畑に「いいたて雪っ娘」を作って、種をつないでいる。ただ超粘土質なので、飯舘の土とは全く違って、畑にするのには苦労の連続。飯舘の家々にはたいがい牛がいたので、飯舘の土は牛の堆肥をふんだんに使って耕していた。だから本当にサクサク、フカフカで、いま考えれば、とてもいい土地だったなと。いまは避難先の福島市で毎年毎年有機質の堆肥を入れながら、土づくりをしながら。いままでと違い、まったく未知の世界です。


渡邊とみ子さんが福島市内の畑で作り続ける飯舘村オリジナルの品種、 じゃがいもの「イータテベイク」と、かぼちゃの「いいたて雪っ娘」。「イータテベイク」は、冷害に強いこと、また味わいとしては、ホクホクとして甘味とコクがあるのが特徴です。一方かぼちゃの「いいたて雪っ娘」は、いまがまさに収穫のピーク。野菜としてだけでなく、さまざまな商品に姿を変えて、販売されています。

◆飯舘「までい」という精神で作りつづける
「いいたて雪っ娘」に関していうと、飯舘の冬は寒い。その寒い時期においしいかぼちゃが食べられるということ。それから切った身が夕張メロンのようなオレンジ色をしていて、皮の部分が少なく、独特のかぼちゃくささがない。もちろん甘くて、しっとり感もある。(「いいたて雪っ娘」を使った商品としては)かぼちゃマドレーヌが一番最初にできて、その後かぼちゃのカレー、かぼちゃのスープ、かぼちゃのラスクができた。ラベルには「福島」「飯館」「までい工房」の文字を必ず入れたい。飯舘は「までい」という精神でずっとやってきた。よく「あの人の仕事はまでいなんだ」「子育てもまでに」というように使うが、「丁寧に」とか「心を込めて」という意味。そういう思いで商品開発をしている。


とみ子さんは震災後、県内外に避難するお母さんたちとネットワークを結んで、「かーちゃんの力プロジェクト協議会」を立ち上げふるさとの味を届けています。お惣菜、お菓子、漬物、お餅などの製造・販売に取り組んでいて、商品は、福島市内にある「あぶくま茶屋」で販売しているほか、「かーちゃんの力プロジェクト」のオフィシャルサイトでも購入可能です。

2015年10月7日

10月6日 いわき海洋調べ隊・うみラボ(2)

今日も、福島県いわき市在住、小松理虔さんのインタビューです。
原発事故の影響で、いまも操業自粛を余儀なくされている、福島沿岸の漁業。小松さんはそんな福島近海の魚を、自分達の手で釣って、調査する民間の取り組み、「いわき海洋調べ隊・うみラボ」の中心人物です。
プロジェクトには放射線測定の専門家も加わっていて、釣り上げた魚は後日、放射線量を測定。結果をブログで公表しています。

普段はウェブマガジンの編集などを通して、地元いわき市小名浜の情報発信を行っている小松さん。地域のPRを考えるとき、「風化」と「風評被害」という言葉が常に付きまといます。


風化という言葉は僕たちには存在しない言葉だと思っている。いつ魚屋にいっても福島の魚があるが、並んでいる魚があれば、並んでいない魚もある。そこに思いをはせる。たまに県外の方に話を聞くと、福島の震災のニュースは最近全然やらないし、たまに福島のニュースを見ると原発のニュースばかりで、なにが起きているのかがわからないんだよねと聞かされることが多い。一番の風化に対する抵抗というのは、震災のニュースをおどろおどろしく伝えることではなく、僕たちの日常だったり、僕たちが普段食べている美味しいものだったり、一見震災とは関係ないんだけども、そういう情報を発信していくことが重要なんじゃないかと思う。
僕は風評被害という言葉は嫌いで、売れているところは売れている。風評被害っていう言葉を使ってしまうと、すべての問題点を原発事故のせいにしてしまいがち。僕がいわき市のかまぼこメーカーに勤めていたころは、風評被害を問う以前に、パッケージデザインは消費者の手に取ってもらえるものだったのか、流通の状況とかお店に並べられている陳列の仕方とか、もっともっと改善すべきところがあるんじゃないかと(苦心した)。そういうものを解決しようと動いているときは、風評被害という言葉はできるだけ頭の中に入れないように動いていた。目立たないものを、それでも忘れられないように売っていかなくちゃいかないので、頑張って情報発信をして、いい商品をつくっていく、これしかないと思う。


小松さんが関わるプロジェクトは「うみラボ」だけではありません。
●地元、いわき市小名浜の魅力を詰め込んだウェブマガジン「tetoteonahama(てとて、おなはま)」
●地元の発酵食品にスポットを当てたブックレット「IWAKI HAKKOU TRIP」
●地元の商店街を舞台にしたちいさなアートフェス「小名浜本町通り芸術祭」など
その活動は多岐にわたります。

◆2万人の犠牲者が望んでいること
結局誰のために未来をつくるかといえば、自分のため。震災があって、社会のためとか地域のため復興のためとか、ちょっと大上段に構える言葉がでてきたが、僕は実はそれがすごく窮屈。
今回の震災で2万人近くの方が命を落とされていて、その2万人の方がそれぞれ、夢や希望やこんなふうに人生を歩みたいという気持ちをかなえられずに逝ってしまって。きっと天国から、いま生き残った東北の人間は、ちゃんと人生を全うするかどうか見ているんじゃないかといつも思っている。なので、とにかく自分のやりたいこと、自分がこういう地域になったらいいな、こういうふうに暮らしをしたいなということを全力で取り組んで、後悔のないように生きていくことが、勝ってな言い方かもしれないけど、(亡くなった方たちへの)なによりの供養になるというか。たぶんみなさんすごく悔しかったと思う。なので僕たちは自分の夢や希望をちゃんと叶える人生を歩んでいかなくちゃいけない。そうしないといけないと僕は思っている。


※福島沿岸の海で実際に魚をつる「うみラボ」。次回は10/17(土)に開催。
※また「うみラボ」とアクアマリンふくしまとの、共同企画「調べラボ(たべらぼ)」も始まりました。福島近海の魚の放射性物質をオープンな形で計測して、魚について学べるイベント。さらに試験操業の魚をおいしく頂くこともできます。「アクアマリンふくしま」にて開催。次回は10/25(日)。

2015年10月5日

10月5日 いわき海洋調べ隊・うみラボ(1)

今日は、福島の海を見守る取り組みをご紹介します。

東日本大震災後の原発事故の影響で、福島沿岸の漁業はいまも操業自粛を余儀なくされています。現在は、モニタリング調査で安全が確認された魚について試験操業を行っていますが、対称になっている魚は、わずか64種類。そんな中、福島近海の魚を自分たちの手で釣りあげて、自分たちで調べる民間の取り組みが、「いわき海洋調べ隊・うみラボ」です。

活動の中心になっているのは、福島県いわき市在住の小松理虔さん。2013年にこの活動をスタートしました。東北有数の水揚げ港として知られた、いわき市小名浜の出身です。

◆福島の海を自分たちで調べる
当時いろんな数字が出てきた。ベクレルとかシーベルトとか。でも、その数字がどういう意味を持っているかがわからなかった。だったら自分たちで調べられるところまでは自分たちで調べてみようよ、という単純な動機で始まった。船主の方が協力してくださって、近づくことできるギリギリのところ原発の1.5キロ沖まで行って、そこで海水と海底の土を採取。さらにその海域で魚を採取して、放射性物質を測っている。僕がそこで感じたのは、ずっとイメージをアップデートできなくて、福島はきっとこうだとか、原発はこうに違いないと、情報が震災直後のまま止まっている人が少なくないんだろうなと思うが、現場に行くと、空間線量も低いし、(原発内の)工事も粛々と行われていて、海から見ると、なにごともなかったかのように見える。現場の状況をどんどんアップデートしていくことが、しっかりと数値を見極めていく上での判断材料になる。さらにすごく大事なのは、やっぱり釣りって身体を動かして魚の重みとか、身体感覚によって体験していくと、いままで平面的だった数値が、どんどん立体的に見えてくる。例えば沖合の海底にいる魚と近海の海底にいる魚では線量が違うし、魚の寿命や成長速度によっても違う。今日現在64種類しか流通していないが、海の資源もだいぶ回復してきていて、(放射線量が)計測下限値以下になる魚はたくさんいる。
福島の漁業の問題って、例えば汚染水が出ました、漁業者が東電と交渉しましたというニュースを見ると、別に漁業の問題だから僕たちには関係ないやと思ってしまいがちだけど、いまヒラメとかスズキとかアイナメって震災前は高級でおいしい魚だった。その地元の魚が食べられないというのは、僕が本来持っていた豊かな食文化が傷つけられたということ。漁業者の問題ではなく、僕自身の問題なんだと。あの事故によって、本来持っていたものが傷つけられたんだと考えるようになったら、他人事でないし、自分事のように考えないといけないなと。僕は(福島のおいしい魚が)また食べられるようになってほしいので、一人の消費者として関わっていかなきゃいけないんだろうなと考えて、ずっと活動している。


小松さん。普段はウェブマガジンの編集などを通して、地元いわき市小名浜の情報発信を行う一方、
街おこしイベントの企画などにも携わっています。
また「うみラボ」には、放射性測定の専門家も参加していて、釣り上げた魚を後日測定し、その結果をブログで発表しています。

次回の「うみラボ」は2015年10月17日(土)開催予定。
参加希望の方は小松さんに直接お問い合わせください。
小松さん携帯 090-4887-1119


いわき海洋調べ隊「うみラボ」

ウェブマガジン「tetoteonahama」


2015年10月2日

10月2日 宮城県女川町公認 『明神丸』@門前仲町

今朝は、東京の下町・門前仲町に現れた、女川の食材が満喫できるお店をご紹介します。



8月にオープンしたお店の名前は『産直鮮魚とマグロの 明神丸』。実はこのお店、宮城県・女川町公認の “アンテナショップ居酒屋”なんです!
 
◆由来は女川のマグロ船“明神丸”
女川に有名なマグロ専門の業者があって、そちらの船の名前が「明神丸」。何隻も持っていてその名前を頂いた。うちの社長の佐々木が女川と色々つながりを持ちまして、女川をメインとしたお店をやりたいと。一緒にやりましょうとなって、どうせなら女川の誰もが知っているマグロ屋さんの船の明神丸でいいんじゃないかということで名前を頂きました。1店舗目を人形町に出したのですが、これから東京に宮城の食材をもっと届けたい。震災で漁師さんや魚屋さんが大変な目に合われたので、それをバックアップするために何かできないかと、まずは宮城の方で盛り上げようと10店舗、そして東京人形町に1店舗、1年が経過して女川で行こうということで始めた。


伺ったのは料理長の荒谷さん。お店の母体は、仙台で飲食店を展開している会社で、女川町長から直接、公認を受けています。


こちらがお通し!


そして分厚いマグロが3種類に、ムール貝のバター蒸し。


サンマのお刺身に焼きサンマ


そしてシメは、中西哲生も絶賛の女川名物・サンマのつみれ汁!



サンマは焼きも刺身も脂のノリが極上。唸るほど美味しかったですよ♪
そしてとにかくこのお店、食材の鮮度が抜群。そのわけを伺いました。

◆女川の名に傷をつけないために!
鮮度はもちろん、朝獲れ。生きたままで活締めして神経を抜いて、そのままの状態で氷詰めしてすぐ運んでいただくので自信を持って提供しています。(現地で食うのと変わらない)それができなければやる意味がない。それを目指しているし、そのつもりで営業させて頂いている。例えば一つ例にとると、ホヤ。ホヤは獲れたてが一番おいしい。女川はホヤの養殖で有名だが、養殖方法はロープにホヤ玉というホヤが何個も密集した玉状のものがある。そこからもいで食べるのが一番おいしい。ですからうちの店はホヤ玉ごと仕入れて持ってきて、注文を頂いてホヤ玉からホヤを取って洗ってさばいて召し上がって頂く。本当に海から上がったのと同じような状態で召し上がっていただけます。時期が限られるので今はないが、そこまで同じような形でやりたい。美味しくない状態で出してしまうと女川の名前に傷がついてしまう。


このお店、場所は門前仲町・永代通り沿い。富岡八幡の向かい。年中無休。営業時間は夕方5時から12時まで。そしてお店の1階は「三陸カキ小屋 ザ・オイスターマン」という牡蠣のお店!宮城県松島の焼ガキスタイルで、鉄板で蒸し焼きにした牡蠣を、スコップで豪快に運んでもらって、つるんつるん食べる・・・というスタイル。



今月からは、いよいよ宮城の生ガキが解禁!県内各地の生ガキの食べ比べなども企画しているということです。

2015年10月1日

10月1日 廃炉作業員の現状を伝える団体AFW 4

今朝も、一般社団法人・AFW代表・吉川彰浩さんのインタビューです。

福島第一原発の廃炉現場で働く人たちの、実情を伝える団体 AFWは、
福島県で復興に関わる人たちを対象に第一原発の敷地内の視察・勉強会を続けています。

この視察では、敷地内にある膨大な数の「汚染水タンク」についても説明を受けます。




タンクはこれまで、“2日で1個”増えており、それはつまり、地下水が、原子炉建屋に流れ込んで発生する汚染水が、毎日300トンずつ増えていることを意味します。
 
◆管理下にあるが、見通しは立っていない
まず課題として、増え続ける汚染水に対してどういう方策がとられているか。それを現地でも見させて頂いているのだが特に注目したのが凍土壁。山側の(原子炉建屋に)地下水が入ってくる側の凍土壁の施設はだいぶ進んでいると聞きましたが逆に、原子炉建屋からみて海側の凍土壁については社員の方がはっきりと「地下に汚染水が入っていますので、氷らせることが非常に困難だ」と、現場で働く方から「困難」と言われてしまうと、不安感を住民の方も持たれたと思う。また地上にため続ける汚染水タンクについても、それを置く場所が無限にあるわけではなく有限。発電所の中に入ると分かるが、起伏が激しい構内。周りは林。その木を伐採してタンクを作る場所を作っていく。しかも2日に1個ずつ作らなければいけないという話も聞き、タンクを作って入れていくということは自転車操業に近い形。そういう危機感と不安がある。整然とした現場を見ながら、ある程度管理下には置かれているとはいえ将来への見通しがなかなかうまく立たないんだなと。東京電力の方々から「30年、40年廃炉にかかる」と聴くと、私はいま35歳だがおじいちゃんになった頃に終わるかもしれない。それまで続くと思うと、なんて大変な取り組みなんだろうとため息ですよね。ようやく4号機の使用済み燃料にあった比較的取り出しが簡単なものが終わったけれども、本丸というか、溶け落ちた燃料について聞いても「技術革新が必要だ」。世界の叡智が集まっている、現代の技術と知識が行かされている現場でも、技術革新が必要だと言われてしまうと、本当にできるのかなと。それを、やりませんとかあきらめるとは現場の方も絶対に言わないし、そこはチャレンジしていくものなんだろうなと。一緒にお連れした住民の方、南相馬市で避難生活を送る方と行ったのだが、その方にすると、将来が見えないくらいのがっかり感を感じていた。現場で働いている方に対する「よくここまでやってくれた」という想いもありながら、まだここまでなんだという不安と感謝の入り混じった現場だったなと。



※凍土壁の設備

この汚染水の問題は、今月から「サブドレン」と呼ばれる井戸を使った対策が始まっています。これは山側から建屋に流れ込む前、つまり建屋内で汚染される前の地下水をくみ上げ、そこからさらに放射性物質を除去。WHOが定める飲み水の基準より10分の1まで浄化し、第三者機関のチェックの上で、海へ放出するもの。
安全を厳しく求める地元漁協は、これを厳守することを条件に合意。すでに、海への放出が行われています。これで、建屋に1日300トン流れ込んでいた地下水を、およそ半減できるとしていますが、まだ数値は出ていません。「効果はこれから明らかになる。」と吉川さんは話しています。

一方、建屋内に溶け落ちた核燃料を取り除くには「技術革新が必要」、つまり、いまの最新の技術でも、まだできないということ。汚染水の大元を取り除くには、まだ膨大な時間と膨大な人の力が必要です。

★AFWウェブサイト

パーソナリティ 鈴村健一

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