2016年2月29日

2月29日 宮城県女川町 梅丸新聞店1

東日本大震災から、まもなく丸5年です。日常、だんだん思い出さなくなってきたあの震災を、改めて考え、次の世代へ語り継ぐための節目の日が、今年もやってきます。

今週は、月曜から4日間にわたり、宮城県女川町にある、一軒の新聞販売店をめぐる東日本大震災です。お話を伺ったのは、梅丸新聞店の阿部喜英さん。おじいさんの代からおよそ80年、女川の人々に新聞を配り続けている方です。

◆振り返らない過去・薄れていく記憶
病院のある高台のちょうど真下だったんですね、あのあたりに新聞店があって、自宅がそこです。どちらも津波ですべて流されて、残っていたのは新聞の折込の機械だけですね。機械自体がものすごく重たいので横倒しになって残っていました。あと残っているものはなかったです。去年からようやくこちらのエリアで工事が始まったのですが、それまでのあいだはほぼそのままの状態で残っていました。自宅にせよ店のあった場所にせよ、割とずっと機械だけは残っていたので、フラッシュバックが起きることはありましたね。5年間、町作りになり自分の商売を続けるためには、いちいち振り返っちゃうと前に進めなくなっちゃうので、忘れていることのほうが多くなっているんですよ。
なので、いまこうやって町や自宅や店舗のあったところが無くなりつつあるのを見ると、ますます記憶が薄れちゃっているなと思うところはありますね。


阿部さんは震災当時、新聞店の事務所で作業をしていたといいます。奥さんと3人のお子さん、そしてご両親は結果として無事だったのですが、まだその時点でそれを知らない阿部さんは、海の近くまで当時小学1年の三男を探しに出かけ、津波と鉢合わせる経験もしています。その高さは15メートル以上。女川町民の多くが避難した、病院のある高台を超える高さでした。

◆たまたま水が止まったから
ちょうど病院の1階まで浸水。ここで海抜16mくらいの高さなので、およそ17〜20mの津波がきた。ほぼ町が全て津波に襲われた形。ここが避難所になっていたので、妻は病院の駐車場に逃げてきて、近所のお母さんたちと一緒に津波が来るのを見ていたそうです。だんだん水位が上がってあふれだす形で水が入ってきて、海岸近くの建物が少しずつ流され始めているのまで見て、そのままでいると高台の病院まで来るだろうと言う危機感で病院の中に逃げたんですよね。ただ人が避難して殺到していたので、2階へ逃げようとしても階段も人で一杯で、逃げられないうちに津波が病院の中に入ってきてしまい、そこで流されてしまったのだが、病院のエレベーターホールに流されたので、袋小路だったのでそれ以上はどこにも流されなかったんです。そして「たまたま」あと天井まで30cmというところで水が止まってくれたので命は無事だった。避難所になっていた場所とはいえ、ここもけして安全ではない場所だったんですね。自分が死にかけた町なので、最初は出たいと思ったし、今もそういう気持ちがある。妻の実家の栃木に行こうという思いもあったが、子どもたちが残りたいというので、最終的にはそれが女川に残る理由になった。


阿部さんも、チリ地震などの話で津波の存在は知っていたそう。ただ、「町が無くなるとは思わなかった」と話しています。震災当日、小学1年生の三男を無事保護した阿部さんは、高台にある高校のグラウンドで、一夜を過ごしたそうです。家族全員の無事が確認できたのは2日後のことでした。そして阿部さんは、ご自身の仕事である新聞を、避難所などに配り始めるのですが、これは明日のこの時間にお伝えします。

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阿部喜英さんの体験をモデルにした、「失われた命」と「生きている命」を描き出すラジオドラマ、Date fm(エフエム仙台)・TOKYO FM共同制作『ライターのつぶやき〜河北新報の5年〜』
3月6日(日) 19:00〜19:55 TOKYO FMをはじめとするJFN38局ネットでお送りします。(※FM沖縄のみ、同日21:00〜21:55放送)
★『ライターのつぶやき〜河北新報の5年』サイト

2016年2月25日

2月25日 宮城県名取市ジェラート専門店「Natu-Lino」(2)

先週、『東北復興グルメシリーズ』でご紹介して大好評をいただいたジェラート専門店「Natu-Lino(ナチュリノ)」。オーナー、鈴木知浩さんの声を改めてお届けします。

震災後、地元のこだわりの食材を使ったジェラート専門店をオープンした鈴木さんですが、もともとは名取市で昭和42年から冷凍物流業を営む「図南商事」の2代目。震災後の津波で会社は流され、4人の社員を失いました。

◆震災からの数日間
弊社は海岸から600メートルのところにあった。仙台空港の北側。出先から会社に戻ろうとしたら地震がきて渋滞で動けず、なんとか渋滞を抜けて、車を運転しながら映像確認をしてカーナビを見るということをやっていたら、仙台空港が津波で飲まれている映像を見て、そのとき仙台空港まで1〜2キロのところにいたが、「もしかしたら、俺が向かっている方向じゃないかな」と。遠くを見たら土埃みたいなものが巻き上がっているのが見えて、仙台空港の滑走路に水がわーっと来ているのが見えて。そこからは「このままじゃ死んじゃうかも」と思ってすぐUターンして、高台に逃げた。
そのとき会社は実際津波にのまれていた。自分の命とスタッフの避難のことが心配になって。わたしの実家は山手なので、親父が創業者だが親父と一緒にカーナビのテレビを見ながら「会社ももうだめだな」と。事務所にいたスタッフもやられたのではと心配していたら、スタッフがやってきて「事務所にいた人間は全員避難させました」と。まずはよかったよかったと。
次の日会社をみに行こうとしたら、その時でも会社の周りは場所によっては水深が背丈を超えるくらいのところがあって。会社までの道のりで生の世界と死の世界を見た。リアリティのない世界。それが2日目も同じで、3日目にようやく水が引いて。めちゃくちゃになった会社をみて、やっぱりという感じだったがなにができるわけでもなく。社員の安否確認作業をするなかで、連絡がつかないのが4人いて。ご家族も連絡が取れないと。それからは毎日市役所に安否を確認する日が続いた。おかげさまで4人とも(遺体を)見つけていただいて、ご家族のもとに返すことができたが、結果的には4人の尊い命を失してしまった。その一連の流れは、ぼくの人生において価値観を根本から正された瞬間だった。


震災を機に、創業者のお父さんから事業を本格的に任されて、会社を復興。一方で、避難するなかで気づいた「アイスの力」を信じて、震災後ジェラート専門店をオープンした鈴木さん。明日はそのお話です。

2016年2月24日

2月24日 いわて国体フューチャーアスリート 岩手県4位と大躍進!

月曜日からの3日間は「LOVE&HOPE いわて国体 フューチャーアスリート」と題してお送りします。
「希望郷いわて国体・冬季大会」は、昨日スキー競技の表彰式が行われ、スケート、アイスホッケー、スキー合わせて開催地・岩手県は総合4位の成績と大躍進!大活躍のうちに幕を閉じました。

今朝は、92年アルベールビル冬季オリンピック・スキーノルディック複合団体の金メダリストで、岩手県教育委員会事務局・スポーツ健康課の、三ヶ田礼一さんにいわて国体・冬季大会について、振り返っていただきます。

中西:きのうまで行われた、「いわて国体・冬季大会」。東日本大震災後、被災地域で初めて行われる国体ということで選手の皆さんと県民の皆さん、改めて一体感高まったんじゃないですか?

三ヶ田:「復興のシンボル」として、岩手の復興の力になるべく開催された今大会でしたが、たくさんのお客さんが足を運んでくれましたし、たくさんの声援に後押しされて選手たちも力を発揮してくれました。スキーの開始式で地元出身の永井健弘選手の選手宣誓では、「甚大な被害をうけた状況で震災の復旧・復興と並行して国体を開催していただいた関係者の皆さんに感謝し、最後まで力いっぱい競技することを誓います」と宣誓し、あきらめないという想いが被災地の皆さんへ届いたのではないでしょうか。

中西:力を発揮してくれたといえば、なんと三ヶ田さんの息子さん、三ヶ田泰良さんがノルディック複合(少年男子の部)で優勝されましたね!おめでとうございます!!お父さんの三ヶ田さんが果たせなかった国体優勝を、達成されたということで、やってくれましたね!?

三ヶ田:私は2位が最高です。追い越されてしまいました。ホッとしております(笑)

中西:そんな息子さんの活躍もあって、今回の「いわて国体・冬季大会」スケート、アイスホッケー、スキー合わせて、開催地・岩手県は総合4位の成績と大躍進でしたね!これは秋の本大会に向けて、良い結果を残せたんじゃないですか?

三ヶ田:お蔭さまスケート競技会では入賞ラッシュだった!スキー競技会では2つの優勝と入賞と好成績を残すことができまして、現時点で4位というのは過去最高です。この勢いをさらに秋の本大会につなげたいし、あの東日本大震災から復興に向けて頑張っている岩手県へ、全国の皆さんからぜひ大きな声援をよろしくお願いいたします!

中西:まさにパフォーマンスであきらめない、という姿を体現してくれたんですね。三ヶ田さん、ありがとうございました。

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スポーツの力を心の力に
―「2016希望郷いわて国体・2016希望郷いわて大会」を支援する
トヨタ自動車 総合企画部 藤井郁乃グループマネージャー インタビュー ―


「乗っていただくために作られた車が、津波に流され、みなさんの家を壊している。
あの光景は、もう観ていられなかったです。」

2011年3月11日。東日本大震災の際に自宅のテレビで目にした光景について
トヨタ自動車総合企画部の藤井郁乃さんは静かに振り返りました。

あれから間もなく5年が経とうとしています。
震災後、それまでの東北での自動車事業を再編し、「トヨタ自動車東日本」を立ち上げるなど、ものづくりを通じた復興・地域振興に尽力してきたトヨタが、今年取り組んでいるのが「希望郷いわて国体・希望郷いわて大会」サポート。

この取組に関して、企画段階から携わってきた藤井さんをはじめとするメンバーが、活動を企画する上で一番大切にしたものとは。

「今回は、震災後、被災地で開かれる初めての国体です。我々もこれまで様々な復興、被災地支援に取り組んできましたが、この5年、一生懸命、復興に取り組んできた被災地の方々の思いを、しっかりと受け取る形で、全国発信できるようなお手伝いをしていきたいと考えました。
復興の支援にはいろいろな形がありますが、今回は、国体ということで、スポーツ交流を中心としたものになります。改めてトヨタグループとして“スポーツの力”を確認しあって“心の力”にしていければと考えています。」

被災地の方々へ、藤井さんから伝えたいメッセージを伺いました。

「5年という月日は、被災地のみなさんにとって本当に長かったと思われるかもしれないし、一方で短かったと感じることもあるかもしれません。私たちは岩手、宮城に生産工場があって、大変深いご縁をいただいているので、これからも寄り添っていきたいと思っています。
1年目2年目というのは多くの支援の輪が広がっていて、支援活動も活発でしたが、やはり年を追うごとに減ってきているという現状もあると思います。
我々の場合、毎年3月に社長の豊田が被災地を訪問していることもあって、その機会をもって、従業員自身ももう一度リマインドされ、これからも心を寄せていこうという思いを新たにしています。」

「希望郷いわて国体・希望郷いわて大会」は昨日をもって冬季大会が閉幕。
藤井さんの言葉通り、トヨタはスポーツの力を心の力にしていくため、大会のPRイベントをはじめ、岩手県内小学生を対象とした一流アスリートによるスポーツ教室、トヨタグループ運動部によるスポーツ交流や、ボランティアの皆さんへのグッズ提供などを通じて大会を盛り上げてきました。

釜石市・唐丹小学校での「スポーツ笑顔の教室」(写真・左)、スケート大会開始式でボランティアを務めた盛岡市の城北小学校(写真・右)でのひとコマ。キャラクターグッズのプレゼントに笑顔がこぼれます。

本大会の開幕まであと200日余り。冬季大会の興奮冷めやらぬ中、復興国体の完全成功に向け、現地では既に準備が進められています。
9月4日から始まる水泳大会、そして10月1日から始まる本大会に向け、トヨタはこれからも、スポーツ交流を中心とした様々な活動を通じて、大会を盛り上げていきます。

こうした取組を含め、トヨタの様々な社会貢献活動の様子は、トヨタのソーシャルアクション「トヨタマゴ」のサイトから発信されていきます。詳細を知りたい方は、「トヨタマゴ」で検索してみてください。

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2016年2月23日

2月23日 いわて国体フューチャーアスリート 阿部友里香選手2

今週前半は「LOVE&HOPE いわて国体 フューチャーアスリート supported by TOYOTA」と題してお送りします。

いわて国体・冬季大会は、20日(土)にスキー競技が開幕。今日が最終日となります。

今朝も引き続き、岩手国体のスキー競技、デモンストレーションに参加した選手に注目。ソチ・パラリンピック クロスカントリースキー日本代表、岩手県・山田町出身の、阿部友里香選手です。

中学3年の時に障害者スポーツとしてのスキー競技と出会い、その直後に震災を経験。自宅も流され大変な状況ではありましたが、それでも阿部選手は、スキーを続けたいと考えたといいます。

●それでもスキーを続けたい!
「本当にやるの?ほんとうに大丈夫?」って言われました。でも、やるよって。やりました。あんまり考える暇が自分も親も無くて、「好きにしていいよ」って言われて。でも高1、高2くらいは本当に下手くそだったんですけど、高2の後半くらいからは徐々にスキーにも乗れるようになって体力もついてきたので、そこからは結構上達していったと思います。両親は反対もせず、家に帰ったら美味しいご飯を準備してくれていつも応援してくれています。


ご両親はいま、仮設住宅で生活しながら阿部選手を見守っているそうです。そして阿部選手は今まさに、ドイツで開催中のパラ・ノルディックスキーのワールドカップ・第2戦を戦っている最中。その先に見据えるのは、もちろんあの大舞台です!

◆目指すは平昌!
今はやっぱり、2年後のピョンチャンパラリンピックへ向けて練習しています。いまは主要な選手も産休とか引退で抜けて、新たに選手が沢山出てくる。今年は大会に出て自分がどの程度のところにいるのか知る上でもすごく大事なレースだと思っています。最終がフィンランドのワールドカップなんですけど、そこでメダルを取れるように頑張っていきたいと思っています。次のシーズンに繋げれるようにしっかり結果を出していきたいと思っています。


最後に、パラリンピアンとして、故郷・岩手県山田町への想いを伺いました。

◆山田町に遊びに来てね!
山田町という町が全国に知られることはすごく嬉しいですし、美味しいものや、名物がたくさんあるので、そういうのを知ってもらえる良い機会だと思ってどんどんPRしています。すごく良い所だと思っているので、道の駅立ち寄って下さい。お父さんは道の駅の支配人です(笑)


『LOVE&HOPE』、今週は「いわて国体・冬季大会」にゲストとして招かれ、デモンストレーションを行なった、岩手県山田町出身、ソチパラリンピック クロスカントリー日本代表の、阿部友里香選手のお話しでした。

「希望郷いわて国体冬季大会」、最終日の今日は、スキーの「ジャイアントスラローム」、「クロスカントリー」、そして表彰式が行われます。

「LOVE&HOPE いわて国体 フューチャーアスリート supported by TOYOTA」、明日も、岩手国体・冬季大会についてお届けします。

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夢を叶えるということは一人では達成できないことを学んだ
―「スポーツ笑顔の教室 in 岩手・釜石市」レポート その2―


これまで、「いい町・いい社会」づくりを目指し、みなさまと共に取り組んできたトヨタ自動車。ひとつひとつの社会貢献活動が、豊かな社会の未来の「タマゴ」となることを願い、笑顔が生まれるソーシャルアクション「トヨタマゴ」の活動を展開し、Webサイトにて取り組みの様子を発信しています。今年2016年は、活動の一環として、現在冬季大会が開催中の震災復興のシンボル「いわて国体」をサポートしています。

今日は昨日に引き続き、そんな活動の1つ、トヨタグループのチームに所属するアスリートが夢先生となり、被災地の子どもたちとスポーツを通じて交流を深める、釜石市の唐丹小学校で開催した「スポーツ笑顔の教室」をご紹介します。

先日2月3日、ラグビートップリーグ、日本代表として2011年開催ラグビーワールドカップに全試合先発出場を果たし、現在はトヨタ自動車「ヴェルブリッツ」に所属する「北川俊澄(きたがわ・としずみ)」選手が唐丹小学校を訪れ、「スポーツ笑顔の教室 in 岩手・釜石市」が開催されました。

今回の教室では、北川選手が夢先生として、5年1組の13名に向けて、3時間目には体育館で一緒に体を動かす「ゲーム」の時間、そして4時間目には先生のこれまでの道のりや、それを支えてきたものを話す「トークの時間」の授業を行いました。

◆楽しみにしていた子どもたち
先生によると、現在震災の影響を受けた校舎は建て替え工事中。普段は1つの体育館を中学校と小学校で譲り合って使っているとのこと。さらに校舎工事中ということで校庭も狭いので、思い切り体を動かしての体育の授業は出来ないそうです。そんなわけで、先生も子どもたちも、夢先生と思いきり体を動かせる授業をとても楽しみにしていたそうです。

身長195センチ、日本を代表するラグビー選手である北川先生と、「だるまさんが転んだ」や、ボールを床に弾ませて、ボールがバウンドしている間だけ前に進んで、ゴールを目指すゲームを全力で楽しむ子供たち。その明るい姿に、北川先生も自然と笑顔になります。

◆トップアスリートの貴重な話に子どもたちは夢中
続く4時間目。教室に戻ると今度は北川先生がラグビー選手として活躍している現在までの道のりを、クイズを交えながら、わかりやすく子どもたちに伝えていきます。最初こそ、笑い声があふれた教室も次第に静まりかえり、子どもたちは、真剣な表情で先生の話に引き込まれていきます。

今でこそ、日本代表としてラグビーのワールドカップの大舞台に立つなど大活躍をしている北川先生の小学生の頃の話や、大きなけがをしたときなど、一人では諦めて投げ出しそうになった時に「辞めるのは簡単だけど、お前はそれでいいのか?」と考え直すきっかけをくれた仲間や、両親、恩師の話など、なかなか聞くことができない話の数々は、きっと子どもたちにとって貴重な体験になったことでしょう。

先生の授業が終わると、子どもたちがそれぞれの将来の夢をシートに書き込んで発表。何になって、何をするのか?そのためにできることや、やってみようと思うこと。次々に書き込まれていく熱い思いに先生も、みんなしっかりした夢を持っていると感心しきり。

最後は子どもたちから歌のプレゼント。澄み切った歌声に北川先生も目を潤ませながら聞き入っていました。

◆一人では達成できない
2時間にわたる授業を終えた児童に感想を聞きました。

「(一緒にゲームをした)3時間目は全部が楽しかったし、(話を聞いた)4時間目では北川先生のいろいろなことを知ることができて楽しかった。“一人では達成できない”という言葉が印象に残っていて、北川先生の話からも伝わってきた。」

一緒に授業を聞いていた先生の感想はどうだったのでしょうか?
「自分の弱さを見つめながら、それでも這い上がって、立ち上がっていこうという力強さを全身で感じることができた。スポーツというと、子どもたちはどうしても勝敗にこだわってしまうが、試合に勝つことももちろん大事ではあるけれど、スポーツを通して自分に勝つということを、北川先生を通して学ぶことができたように思う。」

今回の取組を含め、10月の本大会まで様々なサポートをしているトヨタの様々な社会貢献活動の様子は、トヨタのソーシャルアクション「トヨタマゴ」のサイトから発信されていきます。詳細を知りたい方は、「トヨタマゴ」で検索してみてください。

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2016年2月22日

2月22日 いわて国体フューチャーアスリート 阿部友里香選手

今週前半は「LOVE&HOPE いわて国体 フューチャーアスリート supported by TOYOTA」と題してお送りします。

いわて国体・冬季大会は、スキー競技が20日(土)から開幕しました。今朝は、東日本大震災を乗り越え、東北各県から戦いに臨む、若きアスリートにスポットを当ててお届けしています。

今朝、注目するのは岩手県・山田町出身の、阿部友里香選手。

この選手は2014年ソチパラリンピックのクロスカントリースキーで「8位入賞」を果たした、日本のホープ。現在20才の阿部選手は、左腕に障害を持っているのですが、小学生の頃からバレーボールなどスポーツに積極的に挑戦。中学生で障害者のスキー競技と出会いました。

◆震災後本格的にスキーをはじめた
2010年バンクーバーパラリンピックをたまたまテレビで見た。障害者スポーツを見るのが初めてだったのだが、こういうこともあるんだなと思って、やってみたいなと思って始めました。本当にたまたまテレビをつけた時に映っていたのがクロスカントリースキーで、もともと小学校の時はゲレンデスキーをやっていたがクロスカントリースキーは初めてでした。スキー協会に電話をしたら今の監督さんを紹介してくれて、監督さんが直接地元に話をしにきてくれた。ジュニア発掘をしていたそうで、それで参加しました。最初は全然できなかったです。初めて体験したのが中学3年生の冬で、地元山田町の高校に進学するつもりだったが震災で家が流されて通えなくなり、その時に被災者を受け入れしている盛岡南高校に、スキー部もあるということで入れさせてもらいました。そこでスキー部に入って本格的に競技を始めました。


スキー競技に本格的な挑戦を考えていた矢先に起きた震災。阿部選手は、こう振り返ります。

◆家が流されただけ
震災はまだ中3だったんですけど、卒業式の練習をしたりと学校にいました。すごい揺れでした。私は職員室にいましたけど職員室のものはすべて落っこちていました。一度校庭に集められてそこから体育館に移動したんですが、町で火事があり山を伝って火が来る可能性があるということで、さらに上の方にある山田高校に移動して一夜を過ごしました。わたしの場合はお家が流されただけで、ショックはショックだったがみんな流されていたのでそこまでは。みんな一緒なので。でもその当時の1週間程度のことはあまり覚えていないです。お父さんが仕事が道の駅なんですけど、そこから迎えに来てくれて親戚の家が山の方にあるので、そこに帰りみんなそこにいました。役場の下に家があったんですけど、みんな火事でやられたのでなかなか近づけなくて、徐々に火が消えたりしてから家のものを探したり、近づいたんですが、ほとんど焼けたり流されたりしていました。今は両親は仮設住宅に住んでいます。


そんなご両親の支えもあって、阿部選手はいま、東京の大学に通いながら、企業の障害者スポーツのジュニアチームに所属。クロスカントリーだけでなく、バイアスロンの選手としても活躍していて、岩手国体のデモンストレーションにも招待されています。

◆バイアスロンの普及につなげたい
岩手国体は完全国体を目指している。もともとバイアスロンは国体種目だが実弾を撃つため銃の免許が必要。一般でも出来る主に自衛隊の選手。そのため何年か前に国体からなくなってしまったんですが、岩手国体は完全国体を目指しているということで、電子銃(レーザービーム)でミニバイアスロン大会という形で小中高、大学生、一般でゲームをやりまして、それにゲストとして出場して楽しくやりました。バイアスロンの普及にも繋がると思いますし、実際に出場した人たちもすごく楽しかったと言ってくれたのでやってよかったと思っています。


「いわて国体・冬季大会」に出場する東北の若きアスリートに注目。きょうは岩手県山田町出身、ソチパラリンピック クロスカントリー日本代表の阿部友里香選手でした。

ちなみに阿部選手、昨シーズンはワールドカップでも表彰台を経験!
今シーズンも、今まさにドイツでワールドカップに出場している最中!次のピョンチャンへむけて注目される選手の一人でもあります。

明日も、阿部友里香選手のインタビューをお届けします。

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夢を追うために大切なこととは
―「スポーツ笑顔の教室 in 岩手・釜石市」レポート その1―


これまで、「いい町・いい社会」づくりを目指し、みなさんとともに取り組んできたトヨタ自動車。ひとつひとつの社会貢献活動が、豊かな社会の未来の「タマゴ」となることを願い、笑顔が生まれるソーシャルアクション「トヨタマゴ」の活動を展開し、Webサイトにて取り組みの様子を発信しています。今年2016年は、活動の一環として、現在冬季大会が開催中の震災復興のシンボル「いわて国体」をサポートしています。

今日はそんな活動の1つ、トヨタグループのチームに所属するアスリートが夢先生となり、被災地の子どもたちとスポーツを通じて交流を深める、釜石市の唐丹小学校で開催した「スポーツ笑顔の教室」をご紹介します。

先日2月3日、日本代表として2011年開催のラグビーワールドカップに全試合先発出場を果たし、現在はトップリーグ、トヨタ自動車「ヴェルブリッツ」に所属する「北川俊澄(きたがわ・としずみ)」選手が唐丹小学校を訪れ、「スポーツ笑顔の教室 in 岩手・釜石市」が開催されました。

東日本大震災の時、約20メートルの大津波に襲われたにも関わらず、災害前からの震災時の行動についての授業により、74名の生徒全員が助かったことで知られている唐丹小学校。今回は5年1組、男子7名、女子6名。欠席もなく、全員参加してくれました。

◆まずは「ゲームの時間」
「唐丹小学校」では、3時間目と4時間目の授業を開催。3時間目は「ゲームの時間」。体育館での体を思い切り動かしての授業です。先生のニックネーム、「トッシー!」と、みんなで呼んで北川先生がみんなに紹介されると、その背の高さに生徒たちみんなから驚きの歓声があがりました。先生の身長は195センチ。体重110キロです。トップアスリートの体格に、みんな興味深々です。

◆「うまくいかないときはみんなで話し合おう」
体を動かしての授業は、先生と一緒に全員で「だるまさんが転んだ」をしてみたり、ボールを床に弾ませて、ボールがバウンドしている間だけ前に進んで、ゴールを目指すゲームで遊びました。先生と13人全員の息が合わないとゲームはクリアできません。そこで、全員で作戦会議を行い、知恵を出し合い、チームワークを高め、ゲームをクリアすることができました。

◆4時間目、「トークの時間」北川先生のこれまで

「先生は子どもの頃、どんな子どもだったでしょうか?1番、のびたくんみたいな子。2番、ジャイアンみたいな子、3番、出木杉くんみたいな子、4番、進撃の巨人だった。」

子どもたちからは大きな笑い声。時折こんなクイズを交えながら授業で、北川先生は自分がいかにして夢を叶えてきたかを子どもたちに語りかけます。子供の頃、体が大きくて気が強く、すぐケンカをしてしまうジャイアンのような子供だったことからはじまり、ラグビーとの出会い、実は、ラグビースクールを何度も辞めようとしたことなど、失敗談やダメだったことも包み隠さず話していました。

さらには、スポーツで感動を届ける大切さ、いろいろなポジションがあっていろんな人が楽しむことができるラグビーの素晴らしさ。自身がスポーツを通じて培ってきたものを伝えようと、着慣れないスーツ姿で子どもたちの前に立つ北川先生は熱のこもった授業を進めていきます。

今では日本代表としても活躍し、ワールドカップという大舞台で世界の強豪と戦うなど華々しい経験をしている北川先生の、決して順調ではなかった道のり。そんな中で、何度も夢を諦めそうになった時に支えてくれた仲間や恩師、家族の言葉の存在や、自分自身が辛い状況から抜け出すために、自分のいいところを見直しながら前向きに立ち直ってきた経験はきっと子どもたちの心に届いたのではないでしょうか?

授業を終えた北川先生は一日を振り返ってこんな感想を聞かせてくれました。

◆子どもたちにどんなことを伝えようと思っていましたか?
「自分は小さい頃に特に夢を持っていたわけではないけど、ラグビーと出会って、ラグビー選手になりたいという夢を持つことができて、その夢を追いかけることで前進することができた。今は夢が無いかもしれないけれど、夢を持ったときにはすごい自分のエネルギーになるし、みんなに夢を持ってもらいたいと思って話しに来ました。」

◆一緒にゲームをやってみての感想はどうでしたか?
「元気なことはもちろんなんですが、ゲームへの理解力、解決力は本当に素晴らしいと感じた。僕が言う前に子どもたちから作戦会議しようと言ってきてくれるくらい活発な子たちだったし、その作戦の解決法もかなり的を射ていたので、本当に感心しました。」

◆講義を聞いている子どもたちはいかがでしたか?
「ゲームの時間の明るさをそのまま教室にもっていくのかなと思っていたんですけど、話を聞いている顔がものすごく真面目で、何か一つでも盗んでやろうという眼差しがすごくて、一生懸命聞いてくれているのがすごくわかったのでとっても嬉しかったです。」

◆子どもたちの夢を聞いて感じたもの、得たものはありますか?
「本当に明確な夢を持っている子もいたし、自分が子どもの頃にこういう授業を受けていたらまた違ったかもしれない。子どもたちのしっかりとした夢を聞いて、この子たちに負けないように自分も大人としてしっかりとした夢を追わないといけない、と改めて思いました。」

授業の後には、北川先生から実際にトヨタ自動車「ヴェルブリッツ」の試合で着ているジャージとサイン色紙のプレゼントがありました。子供たちはその大きさにまずビックリ!笑顔で受け取りました。

今回の取組を含め、10月の本大会まで様々なサポートをしているトヨタの様々な社会貢献活動の様子は、トヨタのソーシャルアクション「トヨタマゴ」のサイトから発信されていきます。詳細を知りたい方は、「トヨタマゴ」で検索してみてください。

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2016年2月19日

2月19日 復興グルメシリーズ 宮城県名取市の「ジェラート」

2月19日(金)の復興グルメ「Natu-Lino」の美味しいジェラート、8つの味をセット」プレゼントの当選者は、
・ヒゲおやじ さん
・まり子 さん
・サチコ さん
以上3名さまです。おめでとうございます!
今週の復興グルメにたくさんのご応募いただき、ありがとうございました!


※「Natu-Lino」から直送でお送りいたします。
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東北の「美味しいもの」を作る人たちや、食を通じて「復興・地域活性に貢献する人たち」にスポットを当てる『東北復興グルメシリーズ』。最終日の今日は、宮城県名取市「Natu-Lino」の美味しい〔ジェラート〕です。

東日本大震災で甚大な被害を受けた、宮城県名取市。ここで震災後、地元のこだわりの食材を使ったジェラート専門店、「Natu-Lino(ナチュリノ)」をオープンさせたのが、鈴木知浩さんです。鈴木さんは、名取市で昭和42年から冷凍物流業を営む「図南商事」の2代目。でも、ジェラートの製造と販売を始めたのは震災後のことです。きっかけは、あの日の忘れられない出来事でした。

◆余震の中で食べたガリガリ君
当日名取市内の別の場所で仕事をしていて、すごい揺れが来て、自宅に近かったので自宅に戻り、妻、子ども、近隣のご家族と一緒にワゴン車で山手側のグラウンドまで逃げました。コンビニがあったので飲料水とパン、お菓子などを購入し、お店から出ようとしたときに、職業柄アイスクリームのケースが目に入ったので「このアイスクリームどうするの?」と聞いたら「返品か捨てるしかないよね」という話だったので、「それじゃあもらっていきますね」とお声掛けをして、「ガリガリ君」を10本いただいて、グラウンドに走って戻りました。食糧を配っているときに余震が来て、揺れるたびにみんな顔もひきつって、子どもも不安がって。そのとき子どもたちにガリガリ君をあげたんです。妻からは「こんなときになにガリガリ君配ってるの!」と言われたが、アイスを見せたら子どもたちが一気にはしゃいで。それで、アイスってすごいなと。


“アイスが人を元気にする力”を、極限状態で実感した鈴木さん。一方、鈴木さんの会社は大切な社員4名と、社屋そして倉庫を津波で失います。
事業の復興を進めるなかで、鈴木さんの心に芽生えたのが、「ふるさと名取で生き抜く」という決意。そして、「地域で踏ん張る生産者さんたちと一緒に、この地域を震災前より輝かせたい」という強い想いでした。それが、ジェラート専門店「Natu-Lino」の開業につながります。


◆地元の農家さん、酪農家さんと一緒につくるジェラート
津波で社員や仲間を失ったのも悔しかった。原発のこともあったし、いろんな風評の話なんかも聞くなかで、なんとかもう一回この地域を元気にできないかと思っていた。そんなときに震災のあの日のガリガリ君のことが思い出されて、そうだジェラートつくっちゃおう!と。この名取には美田園ファームさんという農場がある。美田園ファームさんは震災後農場を津波で全部やられた。除塩をして、田んぼをつくって、お米ができて。自分と同じように、このままじゃ終わらせられないと感じていらした。また宮城県加美郡の小松牧場さんは近くに薬莱山という山があって水がおいしいところだが、その湧水だけではあきたらず、地下50メートルまで井戸を掘って、その井戸に与那国のサンゴを突っ込んでいる。サンゴのミネラルたっぷりの井戸水を牛たちに飲ませたり。飼料も乳酸菌発酵だとかなんとか、とにかくこだわりがすごくて。そこまでこだわっているのに「東北」というひとくくりで見られて、憂き目を見たので、「じゃあ社長の牛乳使わせて」と。それで、いまその酪農家さんの牛乳を牧場に直接取りに行って、ここのお店で加工している。あとはこの近くの「なごみいちご」さんのいちごを使わせてもらったり。本当にこの地域の頑張っている農家さん、酪農家さんと一緒になって、ジェラートを作っている。


◇「Natu-Lino」では、「ミルク」「ずんだ」「お米」「濃厚抹茶」「きなこ」「キャラメル」など、季節に応じて毎日20種類近くのジェラートが販売されています。どれも地域の恵みがたっぷり入ったジェラートです。

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今朝はこの「Natu-Lino」の美味しいジェラート、8つの味をセットにして、3名の方にプレゼントします!
ご希望の方は、メッセージフォームからどうぞ。(受付は終了しました!当選者はブログで発表します。)

「Natu-Lino」は、現在は店頭販売のみ。仙台からも車で30分程度ですので、ぜひお店を訪ねてほしいですが、近々通信販売を始めるために、いま準備を進めているそうです!

「Natu-Lino」のホームページ

2016年2月18日

2月18日 復興グルメシリーズ 福島県相馬市の「いちご」

2月18日(木)の復興グルメプレゼントにたくさんのご応募ありがとうございました!
福島県相馬市の『朝摘みいちご さちのか 特大サイズを2パック』の当選者は、
・ヘリオン さん
・えくりゅ さん
・JAZZyなおやじ さん
以上、3名さまです。おめでとうございます!


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『東北復興グルメシリーズ』。
きょうも、生産者が自信を持ってお勧めするプレゼントご用意しています。今日は、この時期たまらない、甘くてみずみずしい「いちご」をプレゼントです!



ということで今朝は、中西哲生もごひいきにしてる、福島県・相馬市!震災からまる5年。こちらの内陸部にある いちご園は、津波の被害を乗り越えほんとうに賑わいを見せているんです!

◆リピーターもいっぱい!
(客の声)
・福島市内からです。毎年来ていますね。ここじゃないところも行ったことあるけど甘さが違うです。練乳をつけなくてもそのままでも十分。みずみずしくて甘いです。
・きょうは買えなかったから食べて帰ろうと思ってね。毎週買っているんですけど買えなくてね(笑) 毎年3〜4回はイチゴ狩りしています。
・美味しいですね。恒例で毎年来ているんですが、一番寒い時期に大きいいちごを食べるのが習慣になっています。


本当にここのいちごって、練乳もいらない美味しさ!いちごは、茎についた状態で栄養をしっかり吸収しながら真っ赤に完熟したものが、一番おいしいそうです。東京のスーパーにあるのは、色がまだ白いうちに摘み取って、輸送過程で赤くなったもの。ですから味は絶対に、この「現場で」 積んだものの方が美味だと言います。


和田観光苺組合の岩本孝さんに伺いました。

◆港の復興が必要
ここでいちごを作って50年になります。まだまだ震災前まではいかないけども、徐々にお客様は増えてきております。風評被害もそんなに苺に関してはないですね。作っているのは土じゃなくてヤシ殻。ヤシの実を砕いて作っているやつ。それをベースに作っているのでセシウムの問題もないです。震災前は17〜18軒ありました。その半分が(津波で)流されてお年寄りはもう辞めてしまった。今は9軒が残っている。直売所の天井まで津波が来たんです。うちは流されなかったが、3分の1が海水40センチ〜50センチほど、ハウスに入って全部枯れてしまった。どうしようもないし、いちご生産を辞めるかなという感じがありましたが、ここに相当のボランティアさんが入ったんですよ。ヘドロを取ってもらったりハウスを片付けてもらったりすごいパワーなんですね。ヘドロを取ってもらって片づけてもらって、勇気をもらって現在に行っている。あのボランティアさんの力が無かったらまだまだこんな復興はできなかったね。やる気が無かったからね。もう辞めていたかもしれないね。それで相馬はいちごじゃなくてやっぱり魚なんです。アサリ、潮干狩り、青のり。この3つが回復すると、みんな向こうに(港の方に)魚を食べに、お土産を買いに、潮干狩りに、海水浴に行きます。帰りにここに回っていちご狩りする。それが無いもので、いちごだけで観光客のツアーを引っ張ってくるのは大変なんだね。本来の意味での観光地の復興はまだまだ。これから桜でも植えて、そのうちに魚も良くなるだろうから。潮干狩りもできるよな形になるんじゃないかなと言われている。やっぱりアサリが戻らないとダメです。魚が戻らないと。相馬は。

もちろん相馬の港では、極上の海鮮丼を出すお店もあるし頑張ってますが、本当の復興はまだまだこれから。そんな中地域のために奮闘する、和田観光いちご。いちご狩りは5月末まで楽しめます。おすすめのいちごを教えて頂きました!

◆子どもより可愛いいちごたち!
おススメは「あきひめ」「さちのか」「紅ほっぺ」「やよい姫」。味的にはあったかくて順調に育っているので、葉っぱも大きいし天候にも恵まれているから美味しいのかなという感じはしますね。もうね、可愛いなんてもんじゃないです。俺も子どもが3人いるんだけど子どもなんか、忙しい時は投げっぱなしだったんで、一人で育つんだけど。いちごは一人じゃ育たないんですから。いまだとこのハウスは8度にセットしています。8度以下になったら暖房機が回って、常に観察していないと状態は上手くいかないんです。初もぎという12月の頭にあるのだが、それでいちごを観た時はなんとも言えないな。一生懸命頑張った買いがあったなと。そして一番最初に一つ食べるんですけど(笑)美味しいんですよね。



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ということで、今日のプレゼントは『福島県相馬市・和田の 朝摘みいちご さちのか 特大サイズを2パック』こちらを、3名様にプレゼントします!

さちのかは、身が締まっていてほどよい甘みと酸味が特徴。粒もでっかい!欲しい方は、LOVE&HOPEのブログ、メッセージフォームからどうぞ。(※受付は終了しました!当選者はこのページで発表します。)

和田観光苺組合の情報は、こちらから。いちご狩りは5月末まであります!

東北復興グルメシリーズ、明日は、宮城県名取市から『生産者が力を合わせ作るジェラート』をプレゼントします! 以上、LOVE&HOPEでした。

2016年2月17日

2月17日 復興グルメシリーズ 岩手県大船渡の「春いちしぼり 純米生貯蔵原酒」

2月17日(水)の復興グルメプレゼントにたくさんのご応募ありがとうございました!
岩手県・大船渡市『酔仙酒造』の春の純米初しぼり『春いちしぼり』の当選者は、
・リコ さん
・たく66 さん
・地酒大好き さん
以上、3名さまです。おめでとうございます!


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東北の「美味しいもの」を作る人たちや、食を通じて「復興・地域活性に貢献する人たち」にスポットを当てる『東北復興グルメシリーズ』。毎日日替わりで、生産者の想いの詰まったプレゼントもお届けします(※ご応募は一番下)

今朝は岩手県・大船渡市です。5年前の震災では、米どころ岩手の酒蔵も、大変な被害を受けました。当時、陸前高田市にあった『酔仙酒造』も、その一つです。
陸前高田市の、4階建て庁舎屋上まで津波が襲ったあの日、酔仙酒造・代表の金野連さんは、東京に出張中でした。社員からの電話で被害を知った金野さんが酒蔵に戻れたのは、震災から3日後だったと言います。


◆「復活する」 言葉の力
土曜日の日に、知り合いにクルマを貸してくださいという話をして現地に入ったのは月曜日の朝ですね。あの時はもう、ダメだな、全部ダメだよなと思って。ちょっとだけ希望があったのは、酔仙の心臓部だけは鉄筋の二階建てで鉄板でおおわれているし、そこだけなんとかなればいいかなと思っていたんですけど、見た時に絶対だめだなと。2階建てのさらに上に人様の家が乗っているような状況でしたね。現状はパニックで、マスメディアとか色んな人が来て、「どうですか」という尋ねられた時に、酔仙は復活しますと言ったんですけど、とにかくそういう話でもしておかないとと思って。でも実際は、もう終わりだよねと。それが現実。心の中ではそう思ってました。でもおかげさまで周りの人たちが「酔仙復活するんだろ」ってみんなが言ってくるわけじゃないですか。そうすると・・・そこで、できませんとは言えませんよね。だからその言葉が無かったら今は無かっただろうなと。周りの人たちがそういう風に言ってくれなかったら。


金野さん、本当に心中は複雑だったそうです。実際、酔仙酒造は壊滅といって良いほどの被害を受け、従業員7人を失っています。そんな中、金野さんは、酒蔵のがれきから突き出た鉄骨に、見慣れた「あるもの」がぶら下がっているのを目にしたと言います。

◆酒樽が希望をくれた
高台に入ったら酔仙の敷地が一望できるわけですよ。その時に、樽みたいなのがかかっているような形で。見た人たちの話だと、酔仙のところで川からの波と海からの波がぶつかり合って渦が巻いていたらしいんですね。だからそこにたまたまこの樽が乗っかっていて。「酔仙がんばれよ、という意味だよ」と言ってもらったりして。そうなのかと思いながら、じゃあ負けないように頑張ろうと思ったんですけど。岩手銘醸さんの蔵を、酔仙のために貸して下さるということを言って頂いたので、それがなかったらその年の10月に「雪っ子」を出荷するということもありえなかったわけですし、これがまずありがたいお話だった。でも私はその段階では嬉しいとかは無かったですね。とにかくうちの杜氏もそうですけど必死だったので。これが終わったら次はこれ、次はこれと。思う以上に次の難題がエンドレスでしたから。


こうして酔仙酒造は震災の年の7月、一関市千厩(せんまや)の酒造を間借りして、10月には『雪っ子』という日本酒を出荷。翌年夏には、大船渡に新たな酒蔵を完成させました。

周りの応援に応えるため、「復活する」と言い続けた金野さん。今の想いを伺いました。

◆希望を与えられるなら
今でも地元の人たちには、飲んでて美味しいとか不味いという評価が無いんですよ(笑) このへんではスタンダードな味なんですね。だから、千厩から大船渡の蔵に来て杜氏と二人で話したのは、地元の人たちに、おこがましいが、「酔仙だってこういう風にできるんだから」というところを見せるため、アピールのためにやってきた。なんとか七転び八起きでここまで来たのだから、希望を少しでも与えられるならそれでいいじゃないのと想いを込めて酒を造っているの。一つだけ言えるのは、普通に機械で作っていれば同じ味だけど、さらにそれにプラスアルファと言う杜氏の想いがあれば、酒の味にも深みが出ると思っているので、ぜひそれを感じながら味わって頂ければなと思っています。


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今日のプレゼントは酔仙酒造の、春の純米初しぼり、『春いちしぼり』!!
一升瓶で、3名様にプレゼントします!

岩手の米100%で仕込んだ純米酒を搾りたてのまま瓶詰め火入れ。フレッシュな美味しさの逸品。「粗削りな力強さと、純米ならではの酸味が融合した」極上の早春らしいお酒です。

欲しい方は、このブログのメッセージフォームからどうぞ。このあと9時まで受け付けます!(当選者はブログで発表します。)
酔仙酒造のウェブサイトはこちら

2016年2月16日

2月16日 復興グルメシリーズ 南三陸歌津の「さんまの昆布巻き」

2月16日(火)の復興グルメプレゼントにたくさんのご応募ありがとうございました!
宮城県南三陸町歌津の名物「歌津小太郎」の「さんまの昆布巻き」&「めかぶ漬け」のセット、当選者は、
・イッコー さん
・パラダイス さん
・たうりん さん
以上、3名さまです。おめでとうございます!
美味しく召し上がってください!

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今週は『東北復興グルメシリーズ』お届けしています!東北の「美味しいもの」を作る人たちや、食を通じて「復興・地域活性に貢献する人たち」にスポットを当てる『東北復興グルメシリーズ』。今回も毎日日替わりでご紹介しています。もちろん、それぞれの生産者が手塩にかけた「美味しいもの」のプレゼントもあります!


今朝スポットを当てるのは、宮城県南三陸町歌津の名物「歌津小太郎」の「さんまの昆布巻き」です。創業者の千葉小太郎さんは、代々家業としていた漁師を続けながら、1975年に水産加工品を製造販売する「橋本水産食品」を立ち上げ「めかぶ漬け」や「さんまの昆布巻き」をはじめ、さまざまな商品を通じて豊かな歌津の海の恵みを全国に広めてきました。

そして2011年3月11日の東日本大震災。押し寄せた津波は、歌津小太郎の生産施設すべてを飲み込みました。

◆工場を全てのみ込んだ
「ちょうど、仙台から帰ってきて、うちの1キロぐらい手前で地震にあって、クルマから降りて、すぐ感じたのは津波来るなぁって。で、地震が収まるのを待って、工場に行った。工場に行ったら全員避難していて、うちのちょうど2番目、事務をやっている息子がいて、「お父さん、皆帰ったら心配ない。俺も帰る」って車乗って、逃げようと言うことで上がったんだけども、当時町の方針で7.5メートルぐらいの津波が来ると。所々、7.5メートルの印が付いていた。うちは12?3メートルぐらいの高さだから来ないなぁと思って、そこに車上げたんですよ。ところがどっこい、そうはいかなかった。1回、家に避難して、工場が海岸にあったもんだから、顧客を管理しているデータが、工場に残っているから、それを取りに行こうとしたとき、ちょうど落ち合いに大きな大砲?地雷みたいな、底なりの音が2回ぐらいなった。するとおかあちゃんが、「あーおとうさん、これ今、津波がプレート入った音なんだ」って。だから何分もかからないで来るから、工場行ったら死んでしまうから、高台避難しようと言うことで、そうして上がっていったら、津波がドンドン押し寄せてきて、海の表情を言うと、日光の華厳の滝が横に流れているような状態だったね。これが自然なのかなぁ。工場の方行ったら、もう工場見えなくなって、あっ、これはなんだなぁ、みんな無事で収まったのが奇跡だね。」


海辺に会った会社はすべてが流され、はじめ津波が来ないと思われた海抜12〜3メートルの千葉さんの家も、1階が浸水、車はすべて流されました。千葉さんは家族に、取引のある仙台にもマンションの部屋を持っているので、とりあえずそこに避難をしようと提案しますが、長男で二代目の千葉孝浩さんは、お世話になった地域のために、寸断された道を作って、町を、そして会社を再興したいと宣言。

全国から訪れる支援者の力も借りながら、町につながる避難道を作ったり、インターネットを復旧させたり、家族全員で地域の復旧作業に尽力しました。

そして2年後の2013年、工場を再開し、一度は解雇せざるを得なかったスタッフのほとんども会社に戻ってきました。二代目の孝浩さんを突き動かしたもの、そして2013年の、再開の時の喜びについて、伺いました。

◆待ってるからね。の一言で
頑張ってね。とかいろいろもうちょっとそんとき言われたんですけど、一番心に響いたのは、「待っているからね。」って言われたのがスゴく心の中に待っててもらっているんだみたいなのがあって、「待っているよ」を一番大きく言ってくれたのが、仙台の百貨店の「藤崎デパート」さんなんですけど、そこの当時の担当の方にその方にも本当、叱咤激励を受けながら、ダメになりそうなとき「なんだっけ、待っているんだから、やんなきゃねーぞ」みたいなことで、いろいろと引っ張ってもらったんですけど、また、私たちのスペースもそこを
結局テナントに貸せば良いところを貸さずに季節商品だとかそういうもので運営してもらっていたので、「2年は待てるけど、2年以降はさすがに、空けているわけにも行かないからさ」と言われたんで、2年後を目指して私たちも今回のこの工場も、間に合うようにと言うことで、百貨店さんからは粋な計らいをしてもらって、3.11に戻ろうという。丸2年後の3.11に私も2年ぶりに「いらっしゃいませ」やったんですけど、かなりグッと来ましたねその時はね。ええ。


宮城県南三陸町、歌津の名物「歌津小太郎」の創業者、千葉小太郎さんと、長男で二代目の千葉孝浩さんのお話しでした。

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“生まれた時から船に乗っている”という生粋の漁師の小太郎さんが品定めした極上のさんまを、肉厚な三陸の真昆布を使って、小太郎さんの奥さんの秘伝の味付けで仕上げているのが、「歌津小太郎」の「さんまの昆布巻き」です。口の中で昆布とさんまが“トロっ”ととろけます。

ということで、今日のプレゼントは、この「さんまの昆布巻き」を2本と、「歌津小太郎」創業時からの人気商品「めかぶ漬け」をセットにして、3名様にプレゼントします!
ご希望の方は、『LOVE&HOPE』のブログ、メッセージフォームからどうぞ。
このあと9時まで受け付けます!(当選者はブログで発表します。)

また「歌津小太郎」の美味しい商品の数々は、歌津の本店、そして仙台の藤崎デパート、オフィシャルホームページでも購入できますので、是非チェックしてみて下さい。

東北復興グルメシリーズ、明日は、岩手の地酒、「酔仙」をご紹介します。
もちろんプレゼントも有りますよ!

2016年2月15日

2月15日 復興グルメシリーズ 東松島市東名の「ひと粒牡蠣」

2月15日(月)の復興グルメプレゼントにたくさんのご応募ありがとうございました!
東松島市東名の幸漁丸水産の【ひとつぶ牡蠣 殻付き10個/むき身300g×2本】の当選者は、
・なかっちさん
・みっちゃんさん
・リオカカナタさん
以上、3名さまです。おめでとうございます!
幸漁丸水産からの直送となります。美味しく召し上がってください!


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今週は、東北復興グルメシリーズを、お届けします!

東北の「美味しいもの」を作る人たちや、食を通じて「復興・地域活性に貢献する人たち」にスポットを当てる『東北復興グルメシリーズ』。今回も毎日日替わりでご紹介。もちろん、それぞれの生産者が手塩にかけた「美味しいもの」のプレゼントもあります!

今日のプレゼントはこちら!

ということで今朝スポットを当てるのは宮城県東松島市・東名(とうな)という地区の牡蠣漁師、木村幸喜さん。おじいさんの代から東名の港で漁師をしている三代目。ですが、牡蠣漁師歴はまだ6年。若き牡蠣漁師さんです。

◆牡蠣漁師を継いだ直後に起きた震災
松島のホテルで和食の料理を出していたんですけど板前の仕事を辞めて、牡蠣の仕事をもう一回やりたいと戻って来たんですけど、その年の3月に震災があって・・・


ということで木村さんは、家族との時間を作るため、そして幼い頃から親しんできた海の仕事をしたいという気持ちから2010年9月に牡蠣漁師に。屋号であり、祖父の代から受け継ぐ船の名前でもある「幸漁丸水産」の後継者になる道を選びました。
しかしその直後、東日本大震災が発生。木村さんも、大変な経験をされています。

◆体育館を襲った津波
アパートの近く、野蒜小学校が避難場所だったので体育館に避難したら入口の方からすごい黒い水が校舎の方に向かってくるのが見えて、それを見た瞬間に、体育館の上のギャラリーまで行こうと思ったんだけど、水がギャラリーの足元まで来た。ステージの垂れ幕があるのでそれにしがみついて、そこでなんとか息子を抱えながら。渦を巻いているのが10分くらい続いて、それが落ち着いてから上の方に泳いで息子を挙げたんですけど、その時にいろんなものが体育館に入って来たんです。クルマだったり松の木だったり。そういうのに巻き込まれている人もいたので、何人かを助けたり・・・。


この津波で、木村さんの職場である東名も壊滅状態となりました。ただ、東名では牡蠣養殖を辞めた漁師さんは20軒中2軒にとどまり、水揚げもかなり回復しています。木村さんの幸漁丸水産も、震災直後に牡蠣養殖を続けることを決めたと言います。

◆食べる人の笑顔のために!
養殖のいかだも全部だめになって、松林の木が海にほとんど流れているし、これで漁業できるのかな?と俺は思ったんですね。でも唯一、種牡蠣・カキの赤ちゃんが残ったんですね。それで親父が「やろう」って。やっぱり親父が前を向いている限り俺も下を向けないので。
でも、牡蠣を食べている人の顔を見ると作っていてよかったなと思いますね。松島だと松島湾内で作るんですけど、東野だと松島湾内で小さい牡蠣からある程度大きくなった状態のものをまた外洋に出すので、そこで味も違ってくるんですね。「沖出し」って言うんですけどね。牡蠣のまわりってふたがついているところがあるんですけど、ここら辺ってやわらかいんです。水揚げした時に壊れちゃったりして、そのまま出荷するとその間から水分が抜けてしまう。そのまま出荷している人もいるんですけど、うちは1度水揚げして、下の殻が深いというのを基準に1個ものを選別するんですね。そこから選別したやつをネットに入れておきのいかだに吊るしておくと、2週間くらいで壊れていたところががっちり再生するので、蒸した時に牡蠣のエキスが殻にたまって、プリッとして、貝柱も甘味が出てくる。そういう風に美味しいものを追求して、東野のブランド、東野の牡蠣の味ができているのかなと思います。
  


※取材した日も木村さんはストーブで蒸し焼きした牡蠣をふるまって下さいました。みてこのプリプリ感!
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ということで、今日のプレゼントは震災を乗り越え、最高の牡蠣づくりを続ける木村幸喜さんが作った【幸漁丸水産のひとつぶ牡蠣 殻付き10個とむき身300gを2本】! こちらをセットで3名様に!

ご希望の方は、このブログのメッセージフォームからどうぞ。(受付は終了しました。当選者はこの後ブログで発表します。)

そして、幸漁丸水産のひとつぶ殻は、ヤフーショッピングの『東松島オンライン』でも購入できますのでぜひチェックしてみて下さい。


写真提供:東松島食べる通信

東北復興グルメシリーズ、明日は、宮城県南三陸町から、『秋刀魚の昆布巻』をプレゼントします!

2016年2月12日

2月12日 エル・システマ子ども音楽祭2016 in 相馬

今朝は明日あさっての2日間、福島県相馬市で行われる、「第2回エル・システマ子ども音楽祭2016 in 相馬」についてお届けします。

主催するのは、「エル・システマ ジャパン」。40年前にベネズエラで始まった教育プログラム「エル・システマ」の理念に基づいて設立され、音楽をはじめとした芸術活動で子どもの成長を支えていこうというプロジェクトです。
その活動の一環である「エル・システマ子ども音楽祭2016 in 相馬」。

そして今年は、3月11日に、相馬子どもオーケストラが、ドイツに渡り、ベルリンフィルと共演することに!
明日あさっての「エル・システマ子ども音楽祭2016 in 相馬」は、大舞台にのぞむ子供たちの練習の成果を見せる場にもなります。

「第2回エル・システマ子ども音楽祭2016 in 相馬」
13日(土)、14日(日)ともに相馬市民会館で開催。午後1時半開場、2時開演。
全席自由で入場無料。

ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。

2016年2月11日

2月11日 MADE IN 女川のギター作り4

宮城県女川町、ギター工房「グライド」のオーナー、梶谷陽介さん。梶屋さんにとって、もともと女川は縁もゆかりもない場所。東日本大震災をきっかけに東北との絆が生まれ、この1月にはついに女川に移住して、正真正銘の女川町民になりました。

震災から5年を迎える女川町。でも、梶屋さんが目指すのは、一過性の「復興プロジェクト」ではなく、女川の未来と世界を見据えた事業です。

◆3年後には海外への販売をメインに
事業を行う目的としては地域の活性化、雇用の創出、地域の文化レベルを上げるとか観光で人を呼び込むなどがあるが、商品に関しては単純に「いい商品」でないと後に続く商品になっていかない。「復興のためにつくったギター」というように復興のイメージで売っていくと、一時的に復興のために同情したり応援したりする気持ちでしか買ってもらえないものになる。事業を拡大していかないと雇用も増えないし街も活性化していかないので、そのためには売れるギターでないといけない。そのためには単純にいいギターでないといけないと考えている。なのでギターに関しては一切復興というエッセンスは使わずに行きたいと考えている。
それは木についても一緒で「女川の木を使っています」「東北の木を使っています」と発信していっても、それで音がよくないと買ってもらえないので、クオリティを管理するために国産や近隣の木を使っているとしっかり発信していかないと。とにかくいいギターをつくるために(木の選定や技術的な開発を)突き詰めているという感じ。
今後については「できるだけ遠くで売る」ということをやっていきたい。3年後には海外での販売をメインにしていきたい。地域の活性化のためには人とお金が循環していることが大事で、近隣の木材や貝殻など地元の資源を使いつつ、それを外に売るという資源の循環。そしてお金も地元で作ったものをできるだけ遠くで売って外でお金を作って中に戻すと言う、人とお金を遠いところから引っ張ってきて回していく、そういう循環ができるようになりたい。そのためには製品(ギター)を海外で売れるように、特に今後ギター市場は東南アジアで伸びるとされているので、早く東南アジアで売れる規模をつくりたいと考えている。


女川町の土地や人に惹かれ、そしてなによりギターが大好きな梶屋さん。
お店の名前「GLIDE(グライド)」は「Guitar Life Design」=「ギターのある生活」の頭文字です。

◆ギターでライフスタイルをより豊かに
イメージしているのは、タイの田舎の少年が普通にギターを弾いているという、それくらい東南アジアで普及しているという状況にしたい。それがアメリカでもドイツでもいいが、田舎に行ってもギターを持っているという。ライフスタイルをより豊かにするということをテーマにやっているので、(ギターを)持つことでいままでになかった喜びや弾く楽しみを実感してもらって、生活が豊かになるところにつなげていきたい。


いまグライドの女川工場を訪ねても、まだ内装工事中でお店に入ることはできません。本格稼働は今月下旬を予定。詳しいスケジュールはぜひ「グライド」のオフィシャルサイトやブログを確認の上、お出かけを。
梶屋さん。当面は販売拠点がある仙台と工場を構える女川を行ったり来たりする忙しい日が続きそうです。

2016年2月10日

2月10日 MADE IN 女川のギター作り3

今週は、宮城県女川町にオープンした、ギター工房「グライド」の話題です。

女川町の駅前商業施設「シーパルピア女川」に店舗を構えた「グライド」。今月下旬の本格稼働を目指して、いまオリジナルのギターとベースの試作品づくりを進めています。オーナー、梶谷陽介さんがこだわるのは、とにかく「いいギター」を作ること。そのために目を付けたのが、ニッポンの宮大工の技術です。

◆陸前高田の宮大工の技術を生かして
斬新でクオリティの高いギターをつくりたい。クオリティを高めるという意味で宮大工さんの技術を生かせないかと考えた。もともと大手楽器店でギターの販売をやっていたときからあったアイディア。ギターは大半が木でできているので、宮大工さんはものすごく高いレベルで木を扱っている方々なので、そういうレベルの技術をギターに生かしたら、絶対いいギターができるのではと前々から思っていた。
実際今回つくろうとなったときに、東北には「気仙大工」という陸前高田の宮大工さんの集団があると聴いて、ぜひお願いしたいと思って会いに行った。試作品のギターやパーツを持って会いに行ったところ、3分ぐらい沈黙が続いた。ギターを挟んで二人で沈黙。それから「やりましょう!」と言ってくれた。おそらく45歳ぐらいの宮大工さんで技能グランプリで全国で優勝したこともある方で、非常に繊細な仕事をされる。組木だけでなく木の見立てがすごい。木をぱっと見ただけで、どれくらい曲がるのかがすぐわかる。木には表と裏があるが「これは表を外側にしたほうがいい」とか、木を切る前に方角を見るとか。今回試作を行う上でも設計図は全くなしでがんがん木を削っていく。頭の中でイメージして、木をどうカットする、つなげるかが宮大工さんはすぐわかる。すごいなあと。宮大工さんサイドも後継者不足という課題があり、入り口としてギターはキャッチ―なのでギターを入り口に若い人たちが宮大工技術を学ぶ場に呼び込めないかなというふうに話している。例えば、若いギターの制作者が週に2日宮大工さんのところで研修するなど。木の見立て、見方扱い方など。それが宮大工技術の伝承になると。ギターのように日常にある製品に宮大工の技術を変えて、そういう技術を繋いでいけたらと考えている。


陸前高田「気仙大工」の発祥は江戸時代にさかのぼると言われています。神社仏閣の建設から民家の建具や彫刻までこなす技能集団。その技術力は全国的にも高い評価を得ています。

そんな気仙大工の「匠の技」をギターに応用したグライドの試作品。詳しいノウハウは「企業秘密」ということですが、でもその秘密、ちょっとだけ教えていただきました。

◆宮大工、組木の技術を活用 いい音にこだわる!
ギターは大きく「ネック」と「ボディ」のパーツにわかれる。その2つが一つになって、モノとしての一体感が強くなると、音の均等性、均一性が生まれる。そのためにギターとしての一体感を出すというところに、宮大工の組木の技術を活用している。自信はあります。クリア感の強い音、ギターとしての音をよくするというところに、いま宮大工技術で近づいている。


現在エレキギター、エレキベース、それぞれ2本の試作品が完成。エレキなんだけど木目そのままの、やさしい表情で、ぷーんと木の香りがするそうです。

「グライド女川工場」は3月にお披露目会そしてグランドオープンを予定。5月から6月ごろに商品の受注を開始する見通しです。また4月以降、ギターの制作体験会も開いていきたいということです。

2016年2月9日

2月9日 MADE IN 女川のギター作り2

今週は宮城県女川町から、ギターの話題お届けしています。

昨年12月、女川町の駅前に誕生した商業施設「シーパルピア女川」。その一角に、梶谷陽介さんがオーナーを務めるギター工房「「GLIDE(グライド)」の女川工場があります。いまはまだ内装工事中ですが、今月中旬から下旬に内装工事も終わって本格的に稼働する見通しです。

◆女川の文化を発信していく場所に
ここがギターの生産を行うグライドガレージという建物。ほんとに素敵な建物ができあがった。ここが女川の文化を発信していく場所になることを実感。ここで音楽文化を発信し、町外、県外から訪れる人を引き付けられる場所にしたい。


お店の名前「グライド」は「Guitar Life Design」「ギターのある生活」の頭文字。梶屋さんは女川工場に先駆けて、2014年11月。仙台に販売拠点をオープンしました。

目指すのはクオリティの高い、国産のエレキギターづくり。現在いろいろな木材を使って、グライドオリジナルギターの試作を続けています。

◆地元の木材だからできる音へのこだわり
斬新でクオリティが高い、いいギターをつくりたい。クオリティは素材のよさと木工技術の高さをギターに入れ込みたいと試作中。材料に関してはできるだけ近場の木を使いたいと考え、東北とか国内の木を使っていきたい。もともと日本でつくるギターのほとんどは輸入木材でつくられているが、大量に輸入した中から選定するのではなく、伐採の段階から選定してクオリティ管理した木材を使うという発想。なぜかというと、伐採から乾燥、加工までできるだけコントロールされた材木を使いたい。生えている場所、木どり(木をカットする段階でどこの部分をどう使うかを想定してカットする)、木の表裏をどう使うなど、カットの段階から想定してその場所に適した木材を使っていきたい。それがギターのクオリティをあげてくれる。いま試作品を作っていてだいたいどの木を使っていくか決まってきた。木のことをしっかり知らないといいギターは作れないですから。
南三陸は杉が有名なので、ボディトップの装飾に杉を使えないかなと考えている。杉は柔らかいので全部まるまるは使えないが、柔らかさを逆に見た目の質感などに生かせるのではと。あといま試作しているのはヒノキ(桧)、ホオノキ(朴の木)、ハンノキ(榛の木)、カエデ(楓)。女川産はミズナラという木が女川に生えていると聞いて、それが使えるなら使いたい。ミズナラは堅い木で高級家具などに使われている。ウィスキーやワインの樽とか。日本のミズナラは明治時代に伐採されつくしたが、もしそれが使えるなら使っていきたい。


地元の木材も積極的に使っていきたいというお話。木だけではありません。女川のアワビの殻をギターの装飾に使った試作品もあります。
「グライド女川工場」は3月12日のグランドオープンを予定。5〜6月めどでギターの受注に入れるよう準備を進めています。

2016年2月8日

2月8日 MADE IN 女川のギター作り1

今週は宮城県女川町から、ギターの話題です。

◆グライドガレージ
ここがギターの生産を行うグライドガレージという建物。ここでギターの生産を行いつつ、ギターの制作を見たい人見学したい人も見学できるように、また簡単なギターの制作体験、簡単な削り出しなどもできる場所にしていきたい。


昨年12月、女川町の駅前に誕生した商業施設「シーパルピア女川」。その中に、ギターの製造と販売を行うギター工房「GLIDE」を構えたのが、いま聴いていただいた声の主、梶谷陽介さんです。

鹿児島県種子島出身で、もともと東北とは縁もゆかりもなかった梶屋さん。2011年3月、東日本大震災が起こったときは、東京の大手楽器店で販売の仕事をしていました。

◆彼らが残れるよう地元に産業を
震災が起こったとき自分は東京の楽器を扱う小売店で働いていて、楽器店としてできることはないかなと考えた。現地に行ってまわる中で、ウクレレがあれば幼稚園や小学校の歌の時間に使うことができると言う声があり、東京でウクレレを集めて東北に持ってきた。それが東北とかかわった最初の出来事。支援活動を続けていく中で、バンドやダンスを頑張っている中高生が一流の場で演奏したり一流のものに触れる機会が少ないなと感じ、東京の大会に彼らが出場できる仕組みをつくることができたが、彼らがそこ(東北)で育っても、後々は都会に行ってしまうんだなと思ったときに、彼らが残れる産業が地元にないといけないと感じた。産業と音楽、そして地域の発展を考えたときになにがあるかなと考えたときに、東北で「ギターの製造と販売」というふうに思い至った。
どこでやろうかと考えていたときに紹介されて来たのが女川。それまで来たことがなかった。女川特異の官民連携の仕組みにより、いろんな事業がスピーディに行われていると聞いていて、自分が始めるのは全く新しい事業なので受け入れてもらえるかどうか心配だったが、町長がぜひやろうと言ってくれた。人口が7千人ぐらい。人口に比して音楽に対する熱量がすごく高い。そういう土壌もすごく大事。音楽に関心が高い人が多いところのほうがギターを作るうえで上がると感じた。
実際ここでやると決めてから建物を建てるまで1年以上あったので、月に1〜1回、仙台の事務所からギターを持ってやってきて「ギターナイト」と称して飲み会を開いた。そこに町長も来てギターを弾きまくるという。町長は大のメタル好きでメタラー。速弾きなんかもやって、非常に楽しい会を開いていた。


東京の楽器店で働いているときから、メーカーの工場を訪ねたり、作り手の思いを聴いたりと、「ただ売るだけ」でなくギターづくりに積極的に関わっていたそう。だからこそ「オリジナルのギターをつくる!」という発想が生まれたんですね。

「グライド女川工場」は12月のプロムナード開業に合わせてプレオープン、2月中旬から下旬をめどに、本格的に稼働を始め、3月にお披露目会とグランドオープンを目指しています。(まだ訪ねていっても、ギターの展示や販売は行われていません)
グライドで製造するのは「エレキギター」と「エレキベース」。国産の木材へのこだわり、また宮大工の技術を生かしたギターづくりのお話など、今週さらに詳しく伺っていきます。

2016年2月5日

2月5日 映画「大地を受け継ぐ」

今朝はまもなく公開となるドキュメンタリー映画、「大地を受け継ぐ」に注目します。

さまざまなドキュメンタリー作品を手掛けてきた井上淳一監督による、「大地を受け継ぐ」。映し出すのは、福島第一原発から65キロ離れた福島県須賀川市。去年の5月に、16歳から23歳までの学生たちがこの地を訪れ、一軒の農家の母子に、震災から4年の間に起きたことを聴くという内容です。

◆『正直なところ、この汚染されたところで採れたやつ、食いたくねえもん。そりゃ測って放射能でないとしたって、それは人間そうでしょ?それ風評じゃねえんだよ現実なんだよ、それが。あの福島原発がああいう状態である限り、いま言う風評被害ってやつはずっと続くから。』

映画の中のひと場面、農家・樽川和也さんの声です。
樽川さんは大学卒業後、父が手がけていた農業のあとを継ぐため、須賀川に戻ってきました。その一年後に震災が起き、福島第一原発の爆発事故の影響で、育てた作物は出荷停止。その知らせが届いた翌日、父は自ら命を絶ちました。

語られる厳しい現実と、それに耳を傾ける学生たち・・・映画を手掛けた、井上淳一監督に、その狙いを伺いました。

◆『可能性を秘めた子たちに伝えたい』
樽川さんのお話しを伺いにいって、僕はひどく心を揺さぶられたので、この話をどう伝えられるかという、それがきっかけでした。それがたまたま樽川さんが須賀川だったということです。誰に聞かせたいかと思った時に、やはり心が柔らかい若い子達に聞かせて、放射能に汚されちゃった大地を、なぜ樽川さん、福島の方々だけが受け継がなきゃいけないんだろう、それは、この国に住む我々全員が受け継がなきゃいけないんだろう。特に若い子たち。大地にずっと染みついた歴史だったり記憶だったりが、樽川さんが農地に種を撒いてそれを芽吹かせる様に、樽川さんの話が、若い子たちに種となって、それが芽吹くかどうかはわかりませんけど、そういう可能性を秘めた子たちに伝えたいと思いました。


◆最後の晩に・・・
ほうれん草とか柿菜っていう摘んで食べる野菜が出荷停止になり始めたんですよ。で、だんだん出荷停止の品目が多くなってきて、結球野菜の出荷停止のファックスが来たんで、キャベツとブロッコリーで8000個が全滅しました。で、晩御飯を食べ終わったときに親父にそのファックスを見せたんですけど、したら私に、「おめえのこと間違った道に進めた」って言われたの。農業を継がせて失敗したと思ったんですね。


この会話をした翌朝、樽川さんの父は命を絶ちました。
元の値で売れることが無くとも、父が愛した、代々受け継いできた土地を捨てるわけにはいかない・・・樽川さんはいまも、須賀川で苦悩と戦いながら農業を続けています。これも、私たちが知っておくべき、福島の現実の一部です。

このドキュメンタリー映画、「大地を受け継ぐ」を、監督の井上淳一さん、そして映画の中の樽川和也さんの声と共にご紹介しました。

映画「大地を受け継ぐ」は、2月20日から〔ポレポレ東中野〕、27日から〔名古屋シネマスコーレ〕ほか、各地で公開。
◇また明日6日から、「フォーラム福島」で限定1週間、先行上映されます。

2016年2月4日

2月4日 1000年先へ伝えたい 南三陸町 「高野会館」4


屋上に避難した327人全員の命を救った、南三陸ホテル観洋の関連施設、結婚式場の「高野会館」。その建物は所有する会社の「自費」で保存され、今後もホテル観洋の語り部バスツアーのコースとして、震災を伝える役割を果たします。

その一方、いま南三陸町はかさ上げ工事の真っ只中です。いたるところに見上げるほど大きな盛り土があり、前回来た時と様子は激変していました。「朝、通った道が、夜には別の迂回路に変わっている」こともあるそう。

語り部バスを運営する、ホテル観洋・支配人の小野寺浩さんの話です。

◆地域全体を10m上げる
ちょうどいま、こういうような姿。土が盛られているような形になっています。平均しますと10.6m、部分的には20mを超えるところはありますけれども、簡単にお話すればこの地域全体を10−10.6mの高さに土を盛ってならして、それから次に建物が作られるという段階に移る。住居としてはもっと高台の方に、大きく三か所に分けられるよう造成中だが、それも来年なのか再来年なのか、相変わらず遅れている。まだまだ時間はかかるばかりという状況ですね。


そして、これから大きく変わる町で、残されることになるのが今回お伝えしている高野会館ともう一つ。最後まで津波のアナウンスを続け、職員43人が命を落とした南三陸町の防災対策庁舎です。

◆100年後、ここから南三陸の街を見る
防災庁舎は長い間、解体するか残すかの議論がされておりましたが、方向性としては今後20年間、2031年まで残して解体はしない。その20年の間に、その先をどうするかを決めましょうということなんですね。今は色んな方の想いがあります。すぐ壊してほしい、残すべきだという方々。いろんな思いがありますから一概には決められない。ただ時間が立てば色んな状況が変わります。人の心も気持ちも変わる。そういった中で、みんなでもう一回、一番良い形で話し合いながら結論を出していきましょうと。それがこれからの20年ですね。それと合わせて高野会館は民間ベースですから、どういった形で残すかは問われるところですが、我々が現在やっている語り部バスの巡行と合わせて、やはり語り継ぐしかないです。それを使命としてやらせて頂いていますので、一人でも多くの方、大勢の方に話していく。
来て頂いて実際の場所を観て頂くであるのが高野会館。そしてここから50年後、100年後に出来上がっている南三陸町を、この場所から見て頂く。2011年の場所から50年後、100年後の南三陸町を見て頂く。もしかするとそれが必要なことだと思うし、それが一番分かりやすいことなのかなと思いますね。そう考えると、50年、100年、200年が繋がってしまうんですね。
昔の話だからとか、そういった話ではないです。そういうことが、風化させない・次に繋いでいくということになると思う。未来の子どもたちに。来年や再来年ではなく100年後を見据えて。
ましてや今回は1000年に1度の震災と言われていますから。まさに1000年後まで同じことが繰り返されないようにしないといけないわけですよね。正直申し上げて非常に、現実問題として高野会館を維持するのは厳しいです。でもそれはやらなければいけないんだなと。我々ができることとしてやるんだなと考えていますね。


今日は、津波から300人以上の命を救った、宮城県南三陸町の「高野会館」についてお伝えしました。
報道でもよく伝えられる、骨組みだけとなった南三陸の防災庁舎。いまも訪れる人が花を手向ける様子が後を絶ちません。こちらは国の復興予算がつくことで、20年間の保存が決まっています。ただ、震災遺構に予算がつくのは一か所だけ。そのため高野会館は、所有する会社がお金を出すことで保存されることになります。





ホテル観洋 震災を風化させないための「語り部バス」

2016年2月4日

2月3日 1000年先へ伝えたい 南三陸町 「高野会館」3

昨日に引き続き、宮城県南三陸町、「高野会館」が私たちに伝える記憶について、お届けします。

屋上に避難した327人全員の命を救った、南三陸ホテル観洋の関連施設、結婚式場の「高野会館」。その建物は保存され、被災地の語り部バスツアーのコースとして、今後も震災を後世に伝える役割を果たすと言います。

一方、東北沿岸部のほかの地域がそうであるように、南三陸も、津波を受けた建物のほとんどは取り壊されました。高野会館のすぐそばにあった、公立・志津川病院もその一つです。語り部バスを運営する、ホテル観洋・支配人の小野寺浩さんの話です。

◆高野会館屋上からみた、志津川病院
ちょうどこの道路を挟んだ向かい側なんですね。4・5階建の病院がありました。この病院の患者さん、職員の方々も屋上に避難しようとします。そして近所の方々や町民の方々も病院の屋上に避難しようとするので、外からどんどん入ってきますよね。だから全員が全員階段を上がれるわけではないです。一部の方々がやっとやっと上がる。入院されている患者さんも全員が上がれません。手助けが必要な方がほとんどですから。最終的には病院で七十数名が亡くなられています。3階より下に入院されていた患者さんは全員が亡くなられています。こういう話もあります。病院の病室からベッドに乗ったまま、天敵をつけたまま流されていった方もいらっしゃいました。それを病院や高野会館の屋上に避難した方々、大勢がみんな見ているんです。助けを求めてくるんですが、どうすることもできないんですよね。手を差し伸べようもない。なんとすることもできない。その時に病院の屋上で避難している中の誰かが叫んだんです。「見るな!」と。流されていく人を見るな、助けを求めている人を見るなと叫んだんです。その時にどういう思いで叫んだのか。周りの人たちがどういう思いでそれを聞いたのか。それを思いますと本当に胸が締め付けられます。人によっては、どこどこの誰々さんだとわかる人もいたわけです。それでも助けられない。30分、40分経つともう姿も見えなくなってしまった。そういうこともあったそうです。病院の建物もそれからしばらくはありまして、ご遺族の方や関係者の方が時折訪れて、手を合わせて思いを寄せる場面がたくさんありました。ところがその病院も解体されましたから、そういったことももうできないんですね。本当に町内にはそういう形でことごとく建物が解体されていますから、そういうみなさんの思いも無くなってしまう。みんな無くなってしまう。本当に残念です。町内で現在は、この高野会館と防災庁舎が、建物として残っている場所になっています。大勢の方がおかげさまで、防災庁舎には手を合わせていただいています。あのあたりとか、高野会館もそうですけど、こういった実際の場所を目の当たりにすると、その場所に立ちますとそれぞれの方が感じるものがあるようです。見たり聞いたり触れたり、匂いだったり、五感で感じるものがある。それが「本当のこと」なんですね。それをまたみなさんそれぞれが、戻られた時にいろんな方に伝えていただきたい。それをこれからずっと続けていく、今はこれしかないのかなと思います。途中でやめてしまったら、途絶えさせてしまったら、悲しいことや残念なことがただただ繰り返されるだけ。そういったことがないように、話続ける、語り続ける。これも聞いてくださる方がいないと、無いものになってしまう。できるだけ地域の大勢の方が、継続的にいらっしゃっていただくという流れを続けなければいけない、作っていかなくちゃいけないと思いますね。


LOVE&HOPE、あしたも、高野会館の保存を巡る南三陸のいまをお伝えします。


ホテル観洋 震災を風化させないための「語り部バス」

2016年2月2日

2月2日 1000年先へ伝えたい 南三陸町 「高野会館」2

昨日に引き続き、宮城県南三陸から「高野会館」の保存をめぐる動き、お伝えします。

南三陸ホテル観洋の関連施設、高野会館は現在、ホテル観洋が企画する被災地の語り部バスツアーのコースになっています。「語り部バス」を運用する、南三陸・ホテル観洋 支配人の小野寺浩さんは、たくさんの方をこの建物に案内して、ここで起きたことを伝え続けています。

◆327名の命を守った建物として残すことを決めた
当日はこの建物に、お客様としては330名。当然、中でイベントに参加していた方々の他に、ご近所、周囲の方々も避難して上がってきましたね。だから一時的には500人くらいがこの建物に入り込んだ。それぞれ避難された方もいらっしゃいましたけど、翌日の朝に向けてここにいた方、327名とワンちゃん2匹のこの場所で命を守られ、全員が助かった。一人の犠牲者も出さなかった場所なんです。これから時間が経てばたつほど、どうしてそれだけ多くの人が助かったのかということをみんなで考えていかないといけないと思うんですよね。ですから我々はそれを伝えるために、やはり残すべきだと。この建物がずっとあればいろんな形でそれを後世に伝えていくことが、もしかするとしやすくなるのかなという思いはあります。


こうして15メートルとも言われる大津波から多くの命を救った高野会館は、国の予算に頼らず、所有する会社の「自費」で保存されることが決まっています。

そこまでして保存する理由は、この建物がつなげる「記憶」の中に、たくさんの教訓があるからです。屋上へ避難した人たちの厳しい環境や、その中での助け合いについて、小野寺さんはこう語ります。

◆助け合いの中で1晩過ごした
まずこの建物は備蓄ですとか非常用設備を整えておりました。実は各フロアに、飲み水や食料などを備えておりました。ところが3階までにあったものは全部流されましたから、この屋上に残されたほんの数本、一部が残っておりました。それをその夜300人で、500mlのペットボトルを、50人から80人に1本が分けられた。キャップに1杯ですよ。それを分け合って飲んで喉の渇きをしのいだんですね。そうやって本当にみんなで協力しあって助け合ったんです。それから、ほとんどが演芸大会に参加した高齢者でしたが、若い方々、周りから避難してきた方も含めて、中には高校生もいたそうですが、そういった方々が非常にみんなのお世話をした。みんなでできる限り、限られたスペースの隙間を塞いでいたそう。高校生なんかは一晩中、震えているおじいさんおばあさんが寒くならないように隙間を手で塞いだそうです。そういったこともされたそうですし、あとはどうしても、327名が守られたと言いましたけど、数名の方がそれぞれで避難したんですね。実際わかっている限りでは4名の方がそれぞれのご自宅に帰られたそうです。ご自宅は今までの地震や津波で一度も被害がなかったので、「家にいれば安心だ」と思ってみんな帰ったんですね。結果的にその4名は全員津波で流されました。今まで大丈夫だったことは、全然大丈夫じゃない、安全でもなかった。今回はことごとくいろんな場面でそれが見られました。だから絶対に忘れることはできない。今回のことを風化させるわけにはいかないんですね。余計にね、830名の方の無念を思いますとね、やっぱりやるべきことは、我々生き残った者、町民の方も含めて使命として、必然的に与えられた役割。それをやっていかなくちゃいけない。子供や孫につなげていく、それより先にもつなげていくだけだと思います。


東日本大震災による、南三陸町の死者は620人。そして212人が、未だ行方不明のままとなっています。

ホテル観洋 震災を風化させないための「語り部バス」

あしたも、高野会館の保存を巡る南三陸のいまをお伝えします。

2016年2月1日

2月1日 1000年先へ伝えたい 南三陸町 「高野会館」1

南三陸・ホテル観洋の語り部バス
『右側に「高野会館」という結婚式場がございますが、みなさん、ここも屋上まで波が到達しました。ただ、屋上にいた方は助かりました。当日、高齢者の方の芸能大会がありまして地震発生時は閉会式をしていました。その瞬間に「帰るな!」とあそこにいたスタッフがおじいちゃんおばあちゃんを押し停めて、屋上にあげたのがあの場所です。』

東日本大震災で被災した建物を、次の世代へのメッセージとして残すのか、それとも、つらい記憶を呼び覚ます建物は取り壊すべきか。この「震災遺構」を巡る議論は、東北各地で今も続いています。そんな中、宮城県南三陸町の一つの建物が、保存へ向けて動き出しています。「高野会館」です。高野会館は、南三陸のホテル観洋の関連施設で、冠婚葬祭はじめ、地域の催しを行う会場として親しまれてきました。

現在、高野会館は、ホテル観洋が企画する語り部バスツアーのコースにも含まれています。ツアーではこの建物が300人以上の命を救ったことが伝えられています。「語り部バス」を運行する、南三陸・ホテル観洋 支配人の小野寺浩さんに
今回は特別に、建物を案内して頂きました。

◆4階の屋上にも波が
ここがロビー周りで、ここが玄関だったんですね。当日はこの建物にお客様が約330名、中で催しが行われていた。高齢者による芸能演芸大会が行われていて、まもなく終演という時刻、2:46に地震が発生しました。当然南三陸町の人たちには地震=津波というこれまでの経験、度重なる訓練、学習によって、大人から子供まで地震=津波なんです。なので津波だ、逃げろ!ということでここから出て行こうとする人がいました。その時にこの会館のスタッフと、南三陸町の役場の方々が手を広げて止めたんです。「生きたかったら残れ、出るな!」と全員を止めたんです。その結果300人以上の人たちがこの建物に残って、2階、3階、屋上へと避難誘導をはじめました。ところが高齢の方々ですのでなかなか思うようにはいかなかったそうです。高齢者の方々一人ひとりを屋上まで上げるには何人もの手が必要で、やっとみんな屋上へ上がっていくという状況でした。その間第2波、第3波、4波とどんどん勢いを増してくるんです。
こちらが4階部分が屋上になります。さらにその上にも階段があって小さいスペースがあるんですが、より高いところへ上げなきゃいけない状況があったんです。その際波がものすごい勢いで屋上まで入り込んでひざ元まで水が溜まってしまう。15メートルを超える高さです。だから平均すると南三陸町内では平均すると15m〜16mの波が上がったといわれます。この人たちはその夜をここで過ごさなきゃいけなかったんです。ここもそうですが、町内の避難するところはやはり屋上なんです。屋上に避難した人も寒い中夜を過ごさなきゃいけない、ということでせっかく津波から避難して助かったにもかかわらず、夜の寒さに耐えられず亡くなられた方も数名いらっしゃいました。この建物の中にも体調がかなり厳しくなった方もいらっしゃったんですけど、皆様方のお世話やお力、協力のおかげで、一人の犠牲者も出さなかったです。全員命を守られた。この建物にいた327名とワンちゃん2匹がこの場所で助かった。一人の犠牲者も出さなかったというような場所なんです。



現在、この高野会館は、所有する会社が「自費」で保存することを決定しています。国の復興予算には限界があり、町もこの建物の保存に予算を出すことに難色を示しているからです。

あしたも、高野会館の保存を巡る南三陸のいまをお伝えします。


ホテル観洋 震災を風化させないための「語り部バス」

パーソナリティ 鈴村健一

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