2016年7月29日

7月29日 今週末は「石巻STAND UP WEEK2016」と「Reborn-Art Festival × ap bank fes 2016」


今年も宮城県石巻市が一番盛り上がる夏がやって来ます!
ちょうど100年前に始まった夏祭り、「川開き祭り」が日曜月曜に開催される石巻。これに先立つイベント週間、「石巻STAND UP WEEK」は23日から始まっています。さらにこの週末は、音楽プロデューサー 小林武史さんの呼びかけで行われる「Reborn-Art Festival × ap bank fes 2016」が今日から3日間開催と、石巻はまさに一年でいちばん盛り上がる時を迎えます。

これらすべてに関わっているのが、2011年以降「世界で一番面白いまちを作ろう」をテーマに様々なプロジェクトを仕掛けている、一般社団法人 ISHINOMAKI2.0 代表理事の松村豪太さんです。今朝はその松村さんにお電話でお話を伺いました。

◆石巻を代表する夏祭り「川開き祭り」は、7月31日(日)8月1日(日)開催。
「石巻STAND UP WEEK」も、8月1日(月)まで。
◆豪華ゲストが一堂に集う「Reborn-Art Festival × ap bank fes 2016」は今日から3日間開催。

2016年7月29日

7月28日 岩手県陸前高田市の夏の風物詩「うごく七夕」(2)

今朝も昨日に引き続き、岩手県陸前高田市の夏の風物詩、「うごく七夕」に山車を出す森前組有志会、佐藤徳政さんのインタビューです。

きらびやかに飾られた巨大な山車がお囃子にあわせて町を練り歩く、高田町の「うごく七夕」。震災後も有志の皆さんの手で守られてきました。そのうちの一つが、森前の山車。震災で町が無くなり、残った人たちも別々の仮設住宅で暮らすなどして一度は町の山車は途絶えてしまいますが、それを復活させたのが2012年に就職先の東京から帰郷した、佐藤徳政さんです。親しんだ故郷の風景、そしてお母さんと妹、おばあさんを亡くして、もうこれ以上何にも無くしたくないという思いから、森前の山車を復活させました。「うごく七夕」じたいも、かさ上げ工事が続く中で、開催場所が変わったり、中止がささやかれたり、毎年ぎりぎりのところで開催されていますが、今年はいったいどうなるのか・・・
いま8月7日の本番に向け、佐藤さんも寝る間を惜しんで準備をしていますが、高田町の山車の製作部屋でお話しを伺いました。

◆かさ上げ工事した後の映像をみているんです
(かさ上げ工事も進んで場所は変わる道は変わるという中で、今年はいかがですか?)今年は今まででいちばん走行距離がそうとう短くて400〜500メートルくらいしか動けない状態なんです。まあ10メートルでも動けるならやろうって思いはあったので、やることにしてますね。(かさ上げされた造成された町に新しい町が出来る、そこでこの祭りをやりたいという気持ちは?)ありますね。まさにそこの映像を見てるんです。そのために今続けてるっていうイメージですね。かさ上げしたあとの新しい地域を素晴らしいものにしたいという、そのためにはなるべく森前という地名は残したいですけど、どうしても森前じゃなくなったとしてもあの場所でPRしていきたいなと。もちろんウチもそこに家を建てるつもりなんです。震災後に100世帯くらい残ったんです。その100世帯の中の97,8の世帯は高台に移るか新しく土地買ってそこに建てるかっていう状況なんです。だからウチと、もう一軒か二軒くらいの人しかかさ上げのところには建てないんです。だからかなり踏ん張っていろんな記憶をもとに残しておかないと、ただ無くなるだけなんです。だから無くならないように出来るのであれば、なんでもやりますってことなんです。それはこれから生まれてくる子供たちとかにもなにか伝わるものあるかなって思いますし、その場所にこだわっていきたいんです。一人くらいこだわってちょっとめんどくさい奴がいないと、その場所の大事なものは継承しないだろうなって思って。森前のエリアを中心に笑顔の花が咲き続ければいいなっていう願いがあって、いろんなアクション起こしてるって感じなので。(そこまで自分をかきたてるものは何?)やっぱり母親がここで死んだことですね、ストレートに。それがいちばんです。自分のいちばんの理解者だったし、愛情をいっぱい受けたので、キャッチボールしてたつもりでいましたけどいきなり居なくなったので、それが出来ないとなったときには自分も終わりかなって思ったけど、でもやっぱり母親の願いとすれば、生き生きしてる姿、見るのがいちばんの幸せって言ってたので、あ、じゃあやりたいことぜんぶやろうかなって思ってますね。


8月7日の本番まであと1週間あまり。今年の「うごく七夕」について聞いてみました。

◆毎年変わっていく中の「今」を見てほしい
毎年違う景色、引っ張る場所の中で、今年はいちばん距離的には短いはずなんですけど、終結って言って全部の地域、11台が集まるのも今年はない。本来であればそこが集まってずらっと並べばそれだけでもすごく良くて、なおかつ夜やればすごい明りできれいなんですけど、たぶん今年はほとんどが夜やらないですし。だからこの先1年2年3年、毎年変わっていく中の「この一年」っていうものがある。今しか見れない今年の動く七夕(8月7日)をぜひ来て頂きたいなと思います。


「うごく七夕」は、8月7日開催。山車を引く距離は短くても、そして周りに町の面影は無くても、かさ上げで埋まってしまう前の元の高さの道を歩くのは、たぶん今年が最後。それだけに山車を引く町民の方にとっては、特別な「うごく七夕」になるのではないでしょうか。

2016年7月27日

7月27日 岩手県陸前高田市の夏の風物詩「うごく七夕」(1)

今日と明日の2日間は、岩手県陸前高田市の夏の風物詩、「うごく七夕」に山車を出す、森前組有志会、佐藤徳政さんのお話しです。

『小さいころから高田町のうごく七夕まつりにはずっと関わってまして、山車に乗って、太鼓を叩く人と、笛を吹く人で、ぜんぶで15人くらい乗って、お囃子に合わせてヨイヤサーヨイヤサーって感じで声掛けをして、山車と山車がすれ違ったときに竹と竹をぶつけあったりするような、それはうごく七夕まつり、高田町のお祭りの方ですね。』

勇壮に山車をぶつけ合う気仙町の「けんか七夕」と、きらびやかに飾られた巨大な山車がお囃子にあわせて町を練り歩く、高田町の「うごく七夕」。陸前高田では古来、ふたつの七夕まつりが夏の華として愛されてきました。

東日本大震災による津波で大きな被害を受けた陸前高田市。町が無くなり、残った人たちも別々の仮設住宅で暮らすなど、町内会の結びつきが難しくなる中、佐藤さんのような有志の尽力で祭の灯はなんとか守られ続けています。

高田町の森前に生まれ育った佐藤さんも、子供のころから「うごく七夕」に親しんでいました。震災当時、佐藤さんは就職して東京にいて、すぐにでも故郷に戻って復興の力になりたいと考えましたが、父や兄から「お前が帰って何になる」と反対され、帰れずにいたそうです。故郷に帰って、地元・森前の山車を復活させるまでのいきさつを、佐藤さんに聞きました。

◆家族も実家も町も流されて・・・七夕は無くしたくなかった
朝方、映像が見れたんで、「ああこれはもう終わったなって」思いましたよ正直。被災したのは、母親と、ばあさんと、あと妹ですね。妹に関しては当時19歳だったんで、大学生で、東京に来たんでしょっちゅう会えるようになって。東京から一回帰るねって言って、春休みに帰ってまた来たらじゃあ今度いいカフェ見つけたからいくべな〜みたいなメールをしてて。それきりになった訳です。3月11日で流されてしまったから。で妹の名前から、アリナっていうから、「ARIY」っていうブランドも作って、Tシャツとかブレスレットとかも、一緒になにかやっていきたいと思っていたので、まあそういう約束は小学校2年生くらいにしてたんです。大人になったら一緒に何かやろうかと、お店でも何かやりたいねという話をしてたので、それを自分、忘れたくないし、妹の友達も忘れてほしくないしってことで作って。そんなこんなしてて親父も調子悪くなったし、いよいよやっぱ戻ってこなきゃまずいかなって思って、まあ奮起して、ようは家族も実家も町も流されて、これ以上何も無くしたくないっていう気持ちが強くて、「帰ります」っつって。そしたら兄貴も「わかった」っつってくれました。(でじっさいこのうごく七夕を守るということで地域を活気づけようとされていると思うんですが具体的にはどうされている?)年に一回、8月7日に七夕まつりに参加するための山車の準備が、けっこうなウェイトが有るので、本当であれば、森前という地域が有って、そこの地域の人たちが公民館に5分10分でも夜に集まってこれるんですけど、いまはもういろんな仮設に散らばってますし、新しく森前でない山の方に建てた人も何人もいて、なかなか集まるのが厳しい状態です。そもそも2011年の夏、森前の町内会が解散したって話を聞いたんです。すごい淋しいというかがっかりしたというか、そっか・・・という感じでしたね。ただ私は当時、東京にいた身ですから、なんとかやれることはしなきゃっていうのが有って、だからみなさん無理してやりましょうよって気持ちでスタートさせたわけじゃなくて、第二ステージと言いますか、新しい生活とか、今後の展開が有るじゃないですか?だから本当に祭りはウェイトがでかいので、来れるんであれば来てくださいって気持ちなのでなかなかこちらからも前もって手伝いお願いしますっていうのは、なるべく言わないようにしてます。自分らでやれるだけのことはやるってことで、1年目2年目3年目はなんとかやり切ってきたんです。


2012年3月に陸前高田に帰った佐藤さんは、森前の山車で「うごく七夕まつり」に参加することを考えました。それは、たくさんの町民が亡くなって、残った人もバラバラになって、町内会も解散して、町の名前が残せるのは「うごく七夕」に参加する、“森前の山車”だけだと思ったから。毎日、仕事が終わったあとに、山車の製作部屋に通って、飾りつけをしています。

「うごく七夕」は、8月7日開催。その日まで、佐藤さんの眠れない夜は続きます。
『LOVE&HOPE』、明日も、佐藤さんのお話し、続きます。

2016年7月26日

7月26日 陸前高田の記憶「波のした、土のうえ」

今朝も昨日に続いて、現在、東京・お茶の水の「Gallery蔵」で開催中の巡回展、「波のした、土のうえ」を手掛ける2人の女性、
映像作家・小森はるかさんと、画家で作家の瀬尾夏美さんのお話しです。

お二人は学生時代の2011年、ボランティア活動で陸前高田市へ行ったことが縁で、その後陸前高田へ移住。小森さんはおそば屋さん、瀬尾さんは写真館で働きながら、変わりゆく風景や地元の皆さんが語る言葉を写真や映像、絵、文章に書き留め、復興に向かう中で失われていく記憶の痕跡や、住民の心の揺れをこの巡回展で伝えています。

あらためてこの巡回展、「波のした、土のうえ」の内容について、伺いました。


◆陸前高田の記憶「波のした、土のうえ」
この展覧会は二部構成になっていて、一部目は絵とか写真とか言葉が中心で、もう一つが映像の作品です。その映像作品は、陸前高田の記憶の痕跡がかろうじて残る2014年の秋から冬にかけて撮影したものになります。この映像というのは陸前高田の3人の方にお願いして、町のあった場所とか、思い出のあった場所を一緒に歩きながらたくさん話を聞かせてもらい、その声をもとに小森が今まで撮りためた映像を声に当てていくような三部の映像作品で、これは観てください!みたいな感じです。今回トークイベントもたくさん企画しているんですけど、今まで巡回していく中で出会った福島とか神戸とか仙台の方々をお招きするというのは企画しています。


この映像作品、かさ上げ工事で間もなく埋まってしまう、もともとは町だった場所に地元の女性たちが、“最後の思い出に” と〔お花畑〕をつくる場面が描かれていて、むきだしの土色の中に色鮮やかに咲く花々が印象的ということでした。

町の復興が進むなかで、かすかに残る町の面影や、思い出の痕跡が失われていくのを胸を痛めながら見守っている人がいる・・・ふとそのことに気づかされるのが、「波のした、土のうえ」。お二人が陸前高田で活動を続けた理由について伺いました。

◆ここからまた物語が生まれる
(小森)やはり私たちが陸前高田にいた時間に、聞かせてもらったことや見せてもらったことって、新しい町が出来ていく前でもあり、かつての町がまだ残っているっていうそういう時間に居させてもらって、でそこで暮らしながら見させてもらったものっていうのを何とか受け渡していきたいっていう気持ちがすごく強くあって、どこか導かれているようなところもあって、どこまでたどり着くのか分からないんですけど歩んでいきたいと思います。
(瀬尾)もちろん私にとって高田っていう場所は重要だし、たぶんこれからもずっと見続けていく重要な場所になるんですけど、ああいう大きな出来事があって震災があってたくさんの人が亡くなったっていう場所で、ここから何かが生まれないと淋しいなって思ったんですね。亡くなった人とか無くなってしまった思い出とかが無かったことになるのは悲しすぎるっていうのが有るんです。ていう時に、きっとそこから物語が生まれるって思ったんです。でその物語が立ち上がりそうなところに私が居てみたいっていう非常に身勝手でもある気持ちとしてあるなって、いま話してて思いました。


陸前高田市の津波のあとに残された痕跡と、そこにある住民の記憶を絵、写真、映像作品にした巡回展「波のした、土のうえ」は現在東京・お茶の水の「Gallery蔵」で行われています。会期は7月31日まで。トークイベントもまだ今日と土曜日に予定されています。詳しくはオフィシャルサイトをご覧のうえ、お近くの方はぜひ足を運んでみてください。

2016年7月25日

7月25日 「移住」という選択 小森はるか・瀬尾夏美


今朝は、現在、東京・お茶の水の「Gallery蔵」で開催中の巡回展、「波のした、土のうえ」を手掛ける映像作家・小森はるかさん、画家で作家の瀬尾夏美さんのお話しです。お二人は美大の学生時代の2011年、ボランティア活動で陸前高田市へ行ったことが縁で、その後陸前高田へ移住。小森さんはおそば屋さん、瀬尾さんは写真館で働きながら、変わりゆく風景や地元の皆さんが語る言葉を、写真や映像、絵、文章に書き留めてきました。

「移住」を決意することになるそのきっかけとは、どんなものだったんでしょうか?

◆陸前高田へ住むことはすごく簡単なこと
瀬尾夏美>きっかけは一つはすごく明快で、私は絵を描く作家なんですけど、絵を描くには場所=アトリエが必要で、高田の風景をきちんと描きたいと思ったときにアトリエを持つことが第一条件だったので引っ越すというのはすごい簡単な、必要な要件としてあったと思います。もう一つはずっと私たち、2011年に東北で見聞きしたことを報告する会みたいなことをずっとやってたんですけど、確か2011年12月にやった京都での報告会で、なかなか伝わって行かないなって感覚を覚えたんですね。それは時間が経ってきた、いま思えばたった9カ月しか経ってないんですけど、時間が経ってきたということと、例えば都市圏の人とかは、メディアが作っていく物語みたいなものにも飽和状態みたいになっていて、もう分かったから、報告って次元で何かされても何も伝わってこないよっていうようなことだったんだと思います。どうやったらこの東北っていう場所で、震災の大きな悲しみのあとでなんとか立ち上がってる人たちの姿みたいなこととか、彼らが作ってる弔いの所作みたいなこととか、風景のすごい細かい変化みたいなことを、もうちょっと違う次元で伝えたいんだって思ったときに、自分たちがもともと向き合っていたアートっていう方法をこの陸前高田っていう場所から実践しなきゃいけないって思って、じゃあもう小森もいるし一人で引っ越すよりぜんぜん気楽出しって思って引っ越してみたっていうのが2012年の春のことでしたね。


震災から一年も経たないうちに、報告会で「風化」を感じたふたりはこうして生活の場を陸前高田に移して、移り変わる風景や、痛みと向き合う人たちとふれ合いながら、その様子をアートという手法で「記録」してきました。ただ、急にはじまった不慣れな田舎生活には、戸惑うことも少なくなかったようです。

◆陸前高田での生活
(瀬尾)私は市街地で流されてしまって仮設で再開した写真館で働き始めました。(小森)私は市街地にあったお寿司屋さんで店主の方も亡くなられて、その弟さんがお蕎麦屋さんとして復活したお店でアルバイトしていました。(瀬尾)でそれは家族経営なのでふつうはあり得ないんですよね。でも家族とか従業員がたくさん亡くなっているということがありました。だから高田で働くということが、この町の人がいまどうやって暮らしを立てているのかというのを実感させてもらう、させてもらうというか傍に居させてもらう、非常に重要な時間だったなと思っています。家賃5600円の町営住宅に二人で住んでいました。コンビニふたつ、水道からサンショウウオが出てきたね(笑)


津波のあとに残された痕跡とそこにある住民の記憶を、絵、写真、映像作品にした「波のした、土のうえ」。会期は7月31日まで。
詳しくはオフィシャルサイトをご覧ください。

2016年7月22日

7月22日 相馬野馬追

福島県相馬市と南相馬市で、あすから開催されます「相馬野馬追」。

旧相馬藩の時代から1000年以上続く、国の重要無形民俗文化財「相馬野馬追」。東日本大震災の年も、伝統の灯を絶やすことなく続けられてきました。勇壮な出陣式に始まって、騎馬武者による行列、旗をなびかせて疾走する「甲冑競馬」、数百騎の騎馬武者が旗=御神旗を奪い合う「神旗争奪戦」と、壮大な歴史絵巻が繰り広げられます。

今朝は、相馬市企画政策部長、宇佐見清さんに相馬野馬追の魅力をお話うかがいました。

◎あす土曜日は、相馬中村神社、相馬太田神社、相馬小高神社の各・妙見神社で「出陣式」。
 とくに総大将を擁する相馬中村神社の出陣式は荘厳。そのあと騎馬が町を練り歩きます。

◎日曜日の「本祭り」では、全軍で「雲雀ヶ原祭場地」を目指す「お行列」から、白い鉢巻を締めた武者たちが旗をなびかせて疾走する「甲冑競馬」、打ち上げた花火から落ちてくる旗=御神旗を奪い合う「神旗争奪戦」が行われます。

◎月曜日は、南相馬市の相馬小高神社で馬具を取った裸馬を素手で捕まえて奉納する「野馬懸」が行われます。

【相馬野馬追公式ページ】

2016年7月20日

7月21日 陸前高田市 バンザイ・ファクトリー(3)

今朝は、昨日に引き続き岩手県・陸前高田市のベンチャー企業「バンザイファクトリー」についてお伝えします。

「バンザイファクトリー」は、盛岡市出身の代表・高橋和良さんが東日本大震災をきっかけに岩手県陸前高田市に本社を移転。地元の特産品をブランディングした、様々な商品を開発しているベンチャーです。元々、ITやプログラミングの技術で起業した経験のある高橋さんはその技術を活用して、陸前高田の木材による木工製品も手掛けています。そして高橋さんは、40代で三重大学に入学し、ユニバーサルデザインを研究。研究で積み上げた成果を、新たな商品として 世に広めようとしています。

◆究極のユニバーサルデザイン、i Phoneケース
iPhoneケースです。究極のユニバーサルデザインってなんなんだろう、それを探し出そうというのが三重大学に入る目的で、それを5年間研究してきました。ある程度、数字的にも良いスマホケースが完成した。まずイタヤカエデという材質を使っている。岩手県はイタヤカエデの産地でカエデとモミジの良いところを持って固くてしなやか。バイオリンの名器ストラディバリウスに使っている樹種と同じだと分かってカッコいいなと。そして一番の特徴は何千と言うデータをとって握りやすい指のカーブを数値から導き出したラインを、3次元のコンピューターを使って削っている。そして色は岩手県産の漆を塗った最高級バージョンがあり、四季が選べる。陸前高田の椿レッド、広田湾のブルー、秋のカエデそのものの色。そして牡蠣が日本で一番高額で取引されているので牡蠣の白の4色があります。



このバンザイファクトリーのiPhoneケース。このデザインは、実際に筋肉の動きを計測。普通の半分の力でiPhoneを持てるようになっています。すでに出荷もスタート。雑誌でも紹介され評判も良いそうです。

そして高橋さんは、こうした「ものづくり」の力こそが、いま陸前高田に必要な力だと考えています。

◆陸前高田、地元の人を育てるのではなく、外からモノ作りの移住者を増やしたい
まず自分の中では地元の人を育てようというのは限界があるなと思っている。今から私が現役でいる15〜16年の間は出来る限り中央から人を連れてきたい。ここ出身じゃない人。出来る限り地元の若い人は一度東京や大阪や名古屋などに出て行ってほしい。経済をゼロから作り出している人たちのところで、大学で勉強して就職して5年から10年はいてほしいと思う。そして帰ってきて、才能ある人が会社を大きくすればいい。それで自動的に会社で働く人が増えるので陸前高田の雇用のためになる。会社が大きくならなかったら雇用は生まれないので高田のためにはならない。事業を大きく発展させる、良質なモノにするにはどう考えるか。真珠のミキモトに鳥羽出身の人しか働いていないわけじゃない。こういうものを作ろうということにみんなが集まっていて、会社の製品に誇りを持っている。俺は陸前高田市にこういう会社がある、ということはやりたいけど、陸前高田市の“ために”はやりたくない。製品を作りたい。そして陸前高田にこんな会社があるのか、こういう人間があるのかと思われたい。そのためには人材をどこから呼ぶか。東京から着てもらえれば増えるじゃないですか。だけど陸前高田にいま移住している人たちは役所に絡んだりNPOだったりする。役所に籍を置きながら何かをやりたいという人はいる。工業系の移住者は少ない。モノ作りの移住者は少ない。名古屋がスゴイのはトヨタがある、ヤマハがある。それはモノ作り。だから工業系が移住してほしい。工学部出身者にここに来てほしいというのはありますね。


いまも、東北では東京の「人材」を求める声があります。身に着けたスキルを、地元に還元してほしい。そして、工学系の技術を学ぶ学生は、もしかしたら東北に「チャンス」がある、という見方もできます!

2016年7月20日

7月20日 陸前高田市 バンザイ・ファクトリー(2)

今朝は、昨日に引き続き、岩手県・陸前高田市のベンチャー「バンザイファクトリー」についてお伝えします。

「バンザイファクトリー」は、東日本大震災をきっかけに岩手県陸前高田市に本社を移転。地元の特産品をブランディングした様々な商品を開発してるベンチャーです。代表・高橋和良さんは、自分を起業家として育ててくれた陸前高田の恩人への思いから、この土地でビジネスを始めようと決意。様々な商品の開発に挑戦しています。

◆「椿茶」と「三陸甘茶煮」の誕生
町が無くなるということは、人が出て行って商業が成り立たなくなる。何が足りなくなるかというと仕事先。ものづくりで事業が生まれてくると、触発される人たちも出てくるだろうなと。そのさきがけを残された人生で少しやれば喜んでもらえるかなと。何かやらなきゃいけないと考えたのが椿の葉っぱを使うアイデア。陸前高田や大船渡は太平洋側の藪椿の北限で、椿油を作っていた。その椿の葉っぱをなんとか加工して椿茶というお茶を作ろうと。椿ってそもそも何なのか。椿は学術的にはツバキ科のトップにいて、その下に「ツバキ科のお茶(緑茶)」がある。つまり椿はお茶の先祖ということになる。だったらお茶にしようと。こんなに葉っぱがあるんだし。いろいろやったが椿の葉っぱだけではダメだという話になり、岩手県の九戸村が甘茶の産地で、震災後の風評被害でメーカーに嫌われて困っていたという。甘茶はノンカロリーノンカフェインで甘い。紅茶に近い味。甘いんだけど自然の甘さ。2年半かけて開発したが、いまは間に合わないくらい飛ぶように売れています。最近は津波が来た土地を借りて椿の植樹をやっています。社会貢献的にも良いし、ここに椿茶の看板を掲げれば、20年後ー30年後を考えてやっているんだなという話にもなりますし。
あとは開発当初は甘露煮だったが、今は「三陸甘茶煮」と呼ぶ商品。海産物を中心にしたギフトをここで作ろうと考え、漁師さんに、捨てるところはないですか?と尋ねたら、捨てるところはあるのだが加工業者がやりたがらないことが分かったんです。その捨てるところをお金にすれば漁師もよろこぶし、うちもいい。だけど付加価値が必要。日本は高血圧の国で糖尿病大国と言われています。白い砂糖や食塩が体に良くないのは最近は誰もがわかっている。一大ブランドにするなら難易度の高い砂糖と食塩を使わない煮物を作ろうと。でも甘くて日持ちするというのに挑戦しました。無謀だと言われ、案の定大失敗した。2年間どれくらい金をつぎ込んだかわからないくらい失敗した。でもこの煮物に関しても去年末に復興庁の最高賞をいただいて。人と違うことをするには、何年我慢できるか、どれだけ自分たちの成功を信じられるかだと思うんです。うちのスタッフはとにかく『高橋さんが来てくれたんだから」と言っている。そして賞をとると誇りを持ってやる気になってくれる。そういうのを体感できるのが起業家の醍醐味だと思います。



◇この「三陸甘茶煮」に使われるのが、ホタテにくっついたつぶ貝、わかめの固い茎部分など漁師さんが捨てていた「未利用部分」。2年かけて開発した、食塩・砂糖を使わず甘茶で甘みをつける特別な料理法で作られています。
◇バンザイファクトリーの工場では、80代のおばあちゃんから 20代の若者まで 22人の地元の方を雇っています。増えていく高齢者、そして夢を持って働きたい若者、両方が働きたい現場を作っていきたい、と高橋さんは語っていました。

バンザイ・ファクトリー高橋さんのインタビュー、明日へ続きます。

2016年7月19日

7月19日 陸前高田市 バンザイ・ファクトリー(1)

今朝は、東日本大震災をきっかけに、被災地に拠点を置き、ビジネスで地域に貢献するベンチャー企業についてお伝えします。お話を伺ったのは、「バンザイファクトリー」代表の高橋和良さん。岩手県陸前高田市に本社を置き、地元の特産品をブランディングした様々な商品を開発しています。震災前は、岩手・内陸部や秋田県に拠点があったこのベンチャー企業が、沿岸部・陸前高田に移転したきっかけ。それは代表・高橋さんの「恩返し」でした。

◆岩手県の大手スーパー「マイヤ」さんとの出会い
私は内陸出身で盛岡市周辺で生活してきたが社会人になって東京へ出て、サラリーマンをやって起業しました。25才の終わりくらいにゼロから会社を作ったんですが、当時のお客さんで陸前高田市の大船渡にスーパーマーケットを展開している「マイヤ」さんの当時専務だった米谷春夫さんにすごくかわいがってもらったんです。岩手出身ということもあって大事にしてもらった。その人に「独立したらどうだ」と言われ、お金も自信もないと言ったら、資本金を「ほれ使え」って出資してくれたんですよ。それで私はコンピューターシステムを開発していって、全国の大学病院の過半数以上に入るものを開発したんですが、そういう恩があって、励ましてくれて、起業するのを手伝ってくれたご縁でここに私が震災後にやってきたという感じなんです。


30代で医療関係のベンチャーを成功させた高橋さん。「純粋に人の役に立つ開発がしたい」と40代後半でこの会社の経営から退き、木工とITを組み合わせた“趣味のような”小さな会社を新たに起業。2006年ごろから、岩手県の漆、木材、南部鉄器を活用した商品開発をスタート。第二の人生を順調に築いていたといいます。


◆究極のユニバーサルデザインの追及
2009年に一人ひとりの手の握り方の「木のコップ」を作るというのを3次元コンピューターシステムを使って開発して、注文が来た中に「脳溢血で手に力が入らない、いつ死ぬかわからない親父にコップを作ってやりたい」というお客さんに納品して数カ月後に連絡が来たんです。「コップを親父が気に入って、朝は牛乳を飲んで夜はビールを飲むんです。究極のユニバーサルデザインじゃないですか」という手紙をもらって。それでお付き合いのあった三重大学でその話をしたところ、「そのユニバーサルデザインを大学で研究しませんか」という話になり、2010年に三重大学を受験。合格通知が2011年2月に届きました。米谷春夫さんも喜んでくれて。でもその1ヶ月後に震災が来たんです。だから自分は大学へ行かないつもりでしたが、会社も家族も被災している状況の米谷春夫さんから電話があり、「大学に行けばのちのち何か人の役に立つ商品を生み出すから、絶対に入学しろ」といわれ、震災2ヶ月後に入学。その成果が5年後、ユニバーサルデザインのスマートフォンケースの開発に成功したので。コツコツやっててよかったと思っています。


こうして高橋さん、秋田県にあったバンザイファクトリーの工場やご自宅を全て売却。2012年には住まいも工場も陸前高田に移転。起業家としてお世話になった恩人の地元で、腰を据えて新たなビジネスを生み出していこうと、挑戦を続けています。バンザイ・ファクトリーはお話に出てきた「握りやすいオーダーメイドの木のコップ、その名も「我杯」(わがはい)、同じく、握りやすいスマホケースほか、様々な商品を開発・販売などの展開をしています。

バンザイ・ファクトリー サイト

2016年7月15日

7月15日 南三陸「ホヤフェス」

今日は、宮城県南三陸町、歌津で開催中の「ホヤフェス」をご紹介します。

今月1日から、海のパイナップルとも呼ばれる旬な「ホヤ」を存分に味わってもらおう!というイベント「ホヤフェス」が絶賛開催中です。今朝は南三陸町観光協会の、山田虹太郎さんにお話を伺いました。

“7月はホヤホヤ月間” ということで伊里前福幸商店街を中心に歌津のいろんな場所で新鮮ホヤホヤ!のホヤを食べて、学んで、遊んで、おみやげに持って帰ってもらって・・・という趣旨のスペシャル企画を数々開催!

明日16日(土)は、伊里前福幸商店街が“ホヤ仕様”になって、屋台の「ホヤメニュー」を食べ歩き。
7月23日(土)は、平成の森で、「ホヤ講座」を開講。海の生き物ホヤの生態について学んでいただきます。ホヤの身体の中を見てみたり、どういった生態をしているのか?など。自由研究におススメ
7月24日(日)は、「ホヤ漁業体験」を開催。現役の漁師と一緒に海に出て、ホヤの養殖を見学。ホヤの収穫の様子を目の前で見て頂きます。ほか、フェス期間中は、みなさん館の「ホヤうどん」など、飲食店でホヤメニューを販売。お土産のホヤも、生のものから加工品まで揃っています。伊里前福幸商店街では、ホヤハカセと一緒に「ホヤレプリカ」を作る講座も毎日開講しています。

「ホヤフェス」は今月31日まで開催中。
「ホヤフェス」の特設サイト

2016年7月14日

7月14日 陸前高田 カフェフードバー わいわい 太田明成さん(2)

今朝も昨日に引き続き、岩手県陸前高田市の“商店街のいま”。「カフェフードバー わいわい」の店長、太田明成さんのインタビューをお伝えします。

現在、13店舗がお店を構える仮設商店街「つどいの丘商店街」は2012年にオープン。来年の春に「5年」という期限を迎えます。その一方、中心市街地のかさ上げ工事が完了するのは、計画通りにいっても2018年度末。商店街の事業主さんたちは、仮設商店街を出て再建するのか、このまま仮設に残るのか。現実と理想の狭間で揺れています。

◆みんなの力でやってきたんだっていう、そのみんなの一人に入りたい!
(このつどいの丘商店街は維持していくのか、たたまなければならないか?)
つい最近も商店街の会議でその話をしたんですけど、この仮設商店街としては5年間を期限としているんですね。今13の事業主のうち約半数の7つの事業主が出ていく予定をしているんです。ただ出ていく先の土地はもう市から借りたけど、いつ建設が始まるのか全然見えてこないんだそうです。今住宅もそうですけど遅れることが当たり前のようになってますので、平成30年になれば建てられる状態になってるらしいんですけど、実際に30年中に完成しているかわからない。そうするとまだここの仮設商店街にいなきゃいけないわけですよね。結局ここを5年過ぎても存続させるということになるんです。仮にここを3〜4年後に全員が出るとなるとここを取り壊さないといけない。市は3年だったら待ってくれる、市が取り壊す費用を負担してくれるんですけど、もっと長く中途半端に4〜5年いると、今度は自分たちで壊さなければならない、費用を負担しなければならない。その制度がやっと決まってきたかなというところで、その2年後3年後ってすごく中途半端な時期なんですよね今の現状でいくと。ここで続けるかの判断をしなきゃいけないのがちょうど今から2年後3年後なんで。この商店街を存続させると今動いてますけども本当はそれがベストな選択ではないと思っています。街に店を建てるというのが一番かなとは思いますね。
(そこに戻るということを使命として捉えてる部分はありますか?)
やっぱり自分に出来ることといえば街をつくる、街の一員になる、街をつくるための事業主の一人なんですよ僕は。そう思えば、街に行って陸前高田市のために未来の子どもたちのために街を作って、賑やかしく再スタートさせる、復興させる、それを日本の人達世界の人達に見てもらって、あれだけの被害があったのに頑張って復興してきたんだ、みんなの力でやってきたんだっていう、そのみんなの一人に入りたい!それは思いますね。ただ、出来るかな〜という不安はだんだん出てきたかなーと思いますね。


太田さんの力強い言葉。でも‘気持ち’だけではどうすることもできない、現実問題、金銭面や体力的な問題もあって、仕方なく街にはいかれない方たちもたくさんいらっしゃるようです。

太田さんには、お子さんが2人いらっしゃいます。そんな子どもたちのため、「どんなふるさとを残したいか」、聞いてみました。

◆当たり前の日常を取り戻したい
どんなというか、普通に遊べて、普通に買い物ができて。なかなかJRさんも鉄路がもどらない状態で、高速道路も1時間半くらいかけてやっと内陸に行ってから高速道路に乗るという本当に田舎ですけど、東北にいながら気温もいいですし。やはり街をつくって、当たり前の風景があの時無かったですから。周りに公園もないですし、そういう普通の当たり前に子どもたちが遊べる場所があって買い物する場所があって、自分たちもお酒飲む場所があってっていう。それを普通に街の中に作れればいいなって思いますね。本当に高望みはしてないです。


太田さんは、商工会のまちづくり会議にも参加されているそうですが、5年4か月が経った今も、新しい街が見えてこない、とおっしゃっていました。でも一方で、「スピード感を速く」とよく言うが、そのスピード感を加速させるのは、市民だと。「行政のせいにしたがるけど、自分たちのモチベーションが大事だ」ともおっしゃっていました。

カフェフードバー わいわい

2016年7月13日

7月13日 陸前高田 カフェフードバー わいわい 太田明成さん

今朝は、岩手県陸前高田市の “商店街のいま” をお伝えします。

今回中西さんがお邪魔したのは、13店舗が集まる仮設商店街「つどいの丘商店街」にお店を構える「カフェフードバー わいわい」。大人から子供に人気のメニュー、震災後“3万本”も食べられているという「なっちく」からいただきました。

「なっちく」です。ちくわの中に納豆を入れてフライにしたものです。
いただきま〜す。合う!こんなに合うと思わなかった! 3万本以上売れるわけがわかりました!


納豆とちくわで「なっちく」。とろけるまで煮込んだワカメが入った、タルタルソースを付けるとさらに美味です!考案したのは、飲食店を営む「カフェフードバー わいわい」の店長、太田明成さん。実は太田さん、この番組では以前にもご紹介しています。

震災前、陸前高田の駅前通りに飲食店を構え、軌道に乗った1年と4か月後に津波で店舗が流されてしまいます。しかし、自宅が残った太田さんはすぐに立ち上がります。4か月後、いち早く高台に仮設の店舗をオープンさせ、さらに翌年の2012年6月には、「つどいの丘商店街」で本店を構え、現在はまちづくりにも尽力されています。

常に町の復興のため走り続けている太田さんに、5年前を振り返っていただきました。

◆仮設商店に残るか、街に移動するか
あの当時は1店舗だけ出来てもハッキリ言って何も意味がない。何店舗かの店が出来上がって買い物客が来ること。どこかで仕事して稼いでそれで飲みに来るということをしないと、1店舗だけ建っても経済が動かないことには復興にはならないので。だからオープン当日も市役所に行って仮設商店街の建設に関する会議をしていた。(もっと先を見ていた?)僕にとっては仮設商店街が出来上がったたぶん周りも出来上がってるし人の動きも出来てくるし、より復興に近づいてくるんじゃないかなと思ってたので。飲食店組合に入ってるんですけど、今年25店舗が飲食店組合に入ってるんですけど、これって震災前とほとんど変わらないんですよ、数からいえば。組合に入ってない方達を入れると30〜40店舗は陸前高田に飲食店がある状況なので、数的には戻ってきているのかなと。ただここからですよね。新しい街がどう出来上がるかというのと、たしか陸前高田には500〜600のお店があった。それが震災で流されてしまって、今街にもう一度移って商売をしたいという人たちが約100なんですよね。さらにその100店舗が一斉にお店を開店して、はいオープン!ってわけではないので、来年建てる人再来年建てる人、徐々に建っていきますから、それらを見据えてから街にいくか考える人たちもいますから。そうなると、やっぱりここにいた方がいいのかな、って思うこともある。現実的に街にいって 30坪くらいのお店を作ろうとすると、、毎月の支払が20万〜30万くらいになる。今(仮設商店)だと5万以下なんですよ。単純に純利益を今より15万〜20万近く上げないといけない。それはかなり厳しい。それを10何年続けていくのは。1〜2年はいいと思う街が出来上がって。長い目で見て観光客が少なくなるとか、人口の減少、高齢化もありますし。今のとこといい材料が見いだせない。そう言ってて僕たちが一歩引いていると何も始まらないので、そういう不安材料はたくさんあるんですけど、街ができないと僕らの下の代、子供たちや孫たちが生活していくわけですから、市がどんどん廃れていってしまうのは困るので、なんとか移り住みたいなとは思いますけどね。


太田さんほか、仮設商店街に入っている方の葛藤が今回うかがえました。「未来を描くうえで、いい材料が見いだせない」とおっしゃっています。もともと陸前高田のまちは観光の街でした。海岸線にあった観光資源「高田松原」が津波で流され観光客の戻りも見込まれない中、街に戻ってお店を再開させるのは、相当難しい選択なのではないでしょうか。

あすも陸前高田市「カフェフードバー わいわい」太田さんのお話お伝えします。

2016年7月12日

7月12日 岩手県陸前高田市「サイコウ勉強会」(2)

今朝も昨日に引き続き、岩手県陸前高田市の高田地区に立ち上がった「サイコウ勉強会」を主宰するお一人、菊池純一さんのお話しです。

陸前高田市の中心地、高田地区にあった川原集落。いまは15の地域に分かれてそれぞれ仮設住宅などで生活をしていますが、市街地をかさ上げして住民を元の場所に戻そうという市の復興計画に対し、住民みんなで意見を出し合い“震災前よりいい町にしよう” と話し合っているのが「サイコウ勉強会」です。

菊池さんの家は代々続く畳屋さん。震災前は菊地さん夫婦と、父母、3人の子供の、家族7人で暮らしていました。菊池さんと息子さんは、町の消防団員も務めていました。

◆消防団員で避難誘導していて
高田の町は海が近くて自然も豊かで人と人のつながりがすごい強い町でした。で、あの忌まわしい津波によって、町内会の半分の方が亡くなってしまったんですね。自分と息子は現役の消防団だったので、すぐ半纏を持って、自分は町内会に「逃げろ!逃げろ!」って言って回ったんですね。で息子は陸前高田市の体育館の近くで避難誘導してて、で体育館に逃げて、帰ってきませんでした。遺体が見つかったのはそれから一カ月半ですね。ぜったい帰ってくると思って探してたんですけど、どっかにいるんだろうと。もう、夢を見てるみたいな。立ち直れなかったですね。なんでこんな試練を受けなきゃいけないんだろうって。うちもそうですけど、陸前高田市では、消防団は52名亡くなってます。消防署員は1名。52名中の後輩なんですけど、1名まだ見つかってないです。行方不明のままですね。海に行っちゃったんでしょうね。まあ息子だけじゃなくて、仮設で亡くなってる人いっぱいいるんですよ。はやく新しい家つくって、そこで住まわせたかったなって、うちの親父もおふくろも仮設で亡くなったので。それだけが悔いが残ってて。だから今亡くなってる人たち、震災関連死だなって思ってますよみんな。無かったらもっともっと長生きしたと思うんですよね。震災でも亡くなってるし、そのあともっと亡くなってますから。そういうのはなかなか表に出てこないから。うち7人いたのにもう3人亡くなったんですよ。娘二人と4人で。うちだけじゃなくて悲しい思いをしていますよ。みんなね。


津波で息子さんを、そして長引く仮設住宅での生活の中で、お父さんとお母さんを亡くしながらも、勉強会を立ち上げ、町の復興に尽力する菊池さん。それは命を落とした家族に、背中を押されているから、なんでしょうか?

◆息子の分までやりたい
背中を押されてるんですかね(笑)。いや供養っていうのは、自分たちいま生きてる人たちが元気にやってる姿を見せることだと思ってるので。何やるにも息子の分までやりたいなと思ってるので。それがやっぱり、押されてるんですね。一生懸命やることが供養だと思ってるので。交流人口増やそうとか言ってますけど、やっぱり地元の人たちがいろんな思いを入れて作んないと、思いが入らないと、元気にならないと来ないですよ高田に。だから、こんなに楽しくやってるよ!ああ元気だな!高田に行ってみっかな!みたいな町になればいいかなと思いますね。
いちばん好きなところ・・・やっぱり潮の香り。海のそばっていうのが好きなのかな。うちらの前のサッカー場、海のそばだったんですよ。松原の中にあったんですよ。なのでそこでずっとサッカーやってたので。終わるとすぐに泳ぎに行ったりとか。やっぱり海無いのは考えられないですね。津波に遭うともう負けられっかってなるじゃないですか。もう逃げたいとかいう思いは無くて反対に、絶対まともな町にしてやるっていうのはありますね。

2016年7月11日

7月11日 岩手県陸前高田市「サイコウ勉強会」(1)

今朝は、岩手県陸前高田市に立ち上がった「サイコウ勉強会」についてお伝えします。

東日本大震災から5年4カ月が経った今も、陸前高田市の沿岸部では最大で12メートルかさ上げ工事が続いています。山を切り崩した高台に住宅地を造成、低地は盛り土をして、宅地を含む中心市街地を整備するという市の復興計画は2018年度末の完了を予定。その上で【換地(かんち)=土地交換でかさ上げされたその土地に戻ってもらい、家を建て、生活を再スタートしてもらう】という方針です。

高田地区の川原集落もその一つ。川原の出身で「サイコウ勉強会」を立ち上げたお一人、菊池純一さんにお話を伺いました。

◆家が建ちました、じゃ復興じゃない
これから高田の町をどうするか計画が出た時に、その計画事業の説明会があったんですね、で自分たちの土地がどうなるのか説明されたんですが、聞いてわかりましたか?わからないと。俺もわからないから町内の人もみんなわからないだろうなってことで、勉強会が始まりました。今いろんな町に仮設住宅ができてみんなバラバラにされたんですね、15ヵ所も。1軒というところもあって。つまり、これから高台へ換地されるわけですけど、その換地された先のこれから一緒に住む人達の顔がどんな人なんだろうかとか、どういう町にしたいのか、公園はどうするとか、コミニティについて話したいなと思ってて。今じゃないとできてしまってからは言えないので。 一番大きいのは高台ごとに行政区ができると言われてて、行政区の名前はどうなるんですか?というのは興味があるとみんな言ってます。昔の町内会の名前、例えば「河原」っていう名前がイイよね、っていう人もいるんです。それ自分たちで考えられるよねと思ってる。夢のある話をしているんです。そうやって作っていけばコミニティが早く出来上がっていい町になるんだろうね。それが復興だと思ってるので。家が建ちましたじゃ復興じゃないので。そこに住んでいる人達が毎日笑顔あふれる、幸せを感じられるような町になれば、それが復興だなって思ってるので。それが目標ですね。
ちゃんと住民が話し合って行政に言えばちゃんと受け取ってくれると思いますよ。個人の一人の意見じゃなくてみんなで決めたんだからってことで。それがみんな出来ないと思ってるから。もうすでに出来上がってる高台の行政区の人達にも声をかけて一緒に勉強しませんか、って声をかけてるんですけどなかなか来ないです。全然動き出そうしてなくて。だから家を建ててそれで精一杯なんだろうなって。だからもっといろんな人に話をしたいんですけど。一番聞きたいのは若い人達の意見なんですよ、20代30代の。これからの人達が新しい町に想いを入れてくれれば絶対にいい町になって繋がっていくと思うんですよ。うちら前の町は先人たち作った歴史ある町を維持していくって感じでしたけど、これから新しい町を作るのに新しい人たちの声を入れないとね。これから歴史を作っていく人達。うちらはその場所を提供したいだけなんです。意見どうのこうの言うんじゃなくてね。


地域住民がバラバラに暮らさないといけない現状の中で、少しでも意見を聞いて、もともと町にあった結びつきを取り戻したい、より良い町にしたいというお気持ちで菊池さんは活動を続けています。また、菊池さんは親子で町の消防団員を務めていましたが、津波で長男を亡くされています。いま菊池さんの背中を押すものとは。あすも菊池さんのお話しをお届けします。

サイコウ勉強会 ブログ

2016年7月8日

7月8日 陸前高田の記憶「波のした、土のうえ」

今日7月8日から、東京・お茶の水の「Gallery蔵」で「波のした、土のうえ」という巡回展が始まります。これを手掛けるのは、映像作家・小森はるかさんと、画家で作家の瀬尾夏美さんです。

お二人は学生時代の2011年、ボランティア活動で陸前高田市へ行ったことが縁で陸前高田へ移住。小森さんはおそば屋さん、瀬尾さんは写真館で働きながら、変わりゆく風景や地元の皆さんが語る言葉を、写真や映像、絵、文章に書き留めてきました。

陸前高田との出会い、この地に通うようになった理由について伺いました。

◆ひとりのおばあさんとの出会い
(瀬尾)私たちは2011年の震災の時に学生だったんですけど、ふたりでレンタカーを借りてボランティアに行ったというのがきっかけです。北茨城に最初行ったんですけど、いろんな町を転々としながらその中で陸前高田であるおばあちゃんに出会って、2011年の4月5日とか6日だったと思います。私たち初対面だったんですけどとにかく猛烈にたくさんのお話しをしてくれたんですね。で高田なので海の方はもちろんやられているんだけど、でもなんか、全部流してしまったと言いつつも、ここにあった町はすごく好きな町だった、ここにあった町は本当に本当にきれいだったんだっていう話を彼女がしてたんですね。で高田の町がなくなって歴史も無くなったっていうのはあまりに淋しいなってその時に思って、そこからここに何が有ったかっていうの見たいなって思い始めて、それがいちばん最初のきっかけで、そこから高田に通うようになりました。
(小森)私たち美大でとくにその美術というのは役に立たないというか、災害の時に何をしたらいいんだろうみたいな、でそういうなかで、避難所で会ったおばあさんに、故郷がもう少し北の小さな集落でそこに行くことが出来ないけれど、もしあなたたちがカメラを持っているんだったらかわりに行ってきて、撮ってきてくれませんかっていうことがあって、そこから「記録」ということが一つ大きな軸となって、続いていると思うんですけれども。


はじめは“カメラを向けることはとても出来なかった”そうですが「記録」をすることで陸前高田との関わりを深めていった小森さんと瀬尾さん。

その一つ一つを積み重ねて完成した「波のした、土のうえ」とは、どういった展覧会なのでしょうか?

◆「波のした、土のうえ」
この展覧会は「波のした、土のうえ」という展覧会で、2014年の秋に出来て、そこから自主企画的に日本全国を巡回してやっと東京に来たという形なんですけど、この2014年の夏から秋にかけてというのは陸前高田で復興工事がめちゃくちゃ本格的になった時間だったんですね。復興工事っていうのは、新しい町が出来てきれいな町が出来てっていうイメージしかなかったんですけど、野山を削ってそこから土を運んできて、そして市街地のあった場所に土をどんどん重ねていくっていう工事だったんです。つまり、思い出のあった山々の形ががどんどん崩れてしまって、そこにみんな花を手向けにいったりとか、弔いの花畑を作ったりしていた、自分たちの記憶の痕跡が有った市街地を埋めていくっていう作業でもあった。そうなったときに私たちはやっと一つ気づいたことがあって、私たちが2011年から2014年にかけて見せてもらっていたその土地っていうのは、つまり記憶の集積のほんの最後の痕跡が残っているそういう薄い皮膜のようなものだったっていうことにやっと気づいたんです。だから「波のした、土のうえ」というタイトルは、波が去ったあとに土のうえの残った薄い層みたいなイメージで作っていて、そこに何があったか、どんな思いがあったっていうのを提示したいと思ったんですね。


◇津波のあとに残された痕跡と、そこにある住民の記憶を、絵、写真、映像作品にした、「波のした、土のうえ」。会期は今日から7月31日まで。詳しくはコチラから。

◇ギャラリーのある「御茶ノ水ソラシティ」のイベント会場「お茶ナビゲート」でも会期中、陸前高田の伝統行事「うごく七夕」を守り続ける男性などを迎えてトークイベントが行われます。

2016年7月7日

7月7日 内牧温泉「いまきん食堂」のあか牛丼(2)

今朝も昨日に引き続き、被災地・熊本から、阿蘇の赤牛をつかった「あか牛丼」が名物!「いまきん食堂」のレポートをお届けします。

阿蘇市内にある内牧温泉街にお店をかまえるのは明治43年創業の大衆食堂「いまきん食堂」さん。
四代目、今村 聡さんが考案した、地元の赤牛をつかった「あか牛丼」が広く知れ渡り、平日で2時間待ち、連休だと5時間待ちの看板メニューとなりました。

しかし熊本地震の影響で観光客は激減。震災前の半分のお客さんに留まっているといいます。

◆震災後2週間で再開。先頭きって再開させないと。
自宅は半壊。お店も2週間ぐらい営業できなくなったんですけど、やっぱりお店までの道のりがスムースではなくなりましたので。そしてうちで働いているスタッフのうち3人が家が全壊ということで、早く店を開けてよかったなと思っています。少しでも昔みたいに普通にいい阿蘇を取り戻したいという気持ちで早目に開けさせていただきました。再開できたのは4月29日、2週間後ぐらいですかね地震から。内牧温泉自体もお湯が出なかったり、いちばん大きい旅館が傾いて営業できてない状況ですし、一般のお客さんを入れているのは今、半分ぐらいなんじゃないでしょうか。その辺大変なんですけど、やはり先頭きって開けなければいけないのは感じてましたし、親父がしなさい、ということで。
オープンした時は初日に商店街や地域の人達が並んで、久々に知った顔ばかりのいまきん食堂というか、観光客も一人もいませんし、ある意味ホッとするというか、僕にとっては懐かしい食堂に戻れたな〜といういい経験だったような気がします。


震災の影響は建物や道路だけではありません。肝心の「赤牛」にも、影響が出ています。

◆災害を乗り越えて阿蘇をもう1回よくしたい
震災の影響で農家の方も地震で牛の納屋がつぶれて牛も何十頭と死んでるんで、赤牛の数も減って農家をする人も減って、エサ代も高くなってるし僕たちの想像の及ばないところで値段が動いているので、うちは定食屋なんで今もあか牛丼だけが1つだけ千円超えてるんですよね、なるべく安くしていきたいなと思ってるんですけど、普通は(今の値段も)無理なんですよ、うちが百年続いていたから駐車場も建物も親父が出してくれているんでね。そういうところで(今の値段で)出せるんですけども。地震の後親父の時代のメニューを入れてるんですよ、高菜チャーハンとかパリパリ焼きそばとか。どうしても今は観光客の方も多いんですけど地元のお客さんも結構来ていますので。毎日来られる方もいるので昔に戻らにゃいかんなーと思って。一時調子こいてたんで。阿蘇って書いておけば売れていた時代だったんで。阿蘇という名だたる観光地が全部壊れてしまって、そういうのが無くても生きていけるような、自分の技とかそういうのを磨いてなかったツケがまわってきてるのかな、もう一度感覚を見直すいい機会なんじゃないかなと思って。僕自身も3回避難所暮らしなんですよ、ここで3回災害があって、九州北部豪雨の前にも平成2年にも水害があってたくさんの方が亡くなられたんですよね。で災害乗り越える度に阿蘇はだんだん良くなっていったんですよね。今回ももしかしたらもう1つ良くなるんじゃないかなと思っています。
  

スタッフいわく、名物の「あか牛丼」だけでなく、先代のメニューを復活させたちゃんぽんがめちゃめちゃ美味しかった!と。

営業時間は11時〜午後2時まで。ぜひ阿蘇のドライブ兼ねて、内牧温泉目指してでかけてみては。温泉も少しずつ復活していますので!
いまきん食堂 HP

2016年7月6日

7月6日 内牧温泉「いまきん食堂」のあか牛丼

月曜日にお届けした、阿蘇市内にある内牧温泉。熊本地震の影響で温泉の湧出が止まり、一部の旅館で営業が再開できないままでいます。そんな内牧温泉に、震災後も行列のできるお店があります。阿蘇の赤牛をつかった「あか牛丼」を目当てに、震災前は平日でも “2時間待ち” は当たり前!創業して“百年余り”の大衆食堂「いまきん食堂」です。

『明治43年創業。初代が今村金三で「いまきん」食堂ということで、キムタクの走りみたいなもんです。僕で四代目になります!』

得意の「ジョーク」でおもてなしをしてくれたのは「いまきん食堂」四代目、今村 聡さんです。
明治43年創業。地元に愛されてて百年余り。名物赤うし丼は現在広く知れわたっていますが、最初からメニューにあったわけではありません。創業当時のお話しを伺いました。

◆赤牛を食べることが、阿蘇の自然を守ることにつながる
もともとこの地区は馬車の停留所で、阿蘇山の上で牛を飼っていて、その牛たちの牧草とか荷物の運搬の馬を停める場所が目の前で、その前で食堂をしてました。メインではキジとかハモとかハトを利用していた時代ですね。働く人のための食堂だったんですね、観光向きではなく。僕が継いでから赤牛を使い始めたのは。それはうちの前が役所や農協で働く人たちに向けて商売してたんですけど、平成の町村合併で役所や農協がなくなり、お客さんも減ってきたんで、じゃぁ観光客相手にってことで、この辺りの旅館の先輩方たちが赤牛を使ってみないかってことで。この町で赤牛を名物にすると、阿蘇の自然を保てるということを勉強しはじめて、それから赤牛を使わなければと思ってやっています。阿蘇といったら草原なんですよね、この草原は千年間守られているんですけど、草原は草を牛が食べる、その草原を見に観光客がお見えになるんですけど、その草原を維持するのにものすごい手間がかかるんです、年に何回も草を刈って冬には焼いて。そこで育つ牛がいることで農家さんが潤って草原が保てる、ようやく循環できる。本当は田んぼのための農耕牛だったんですね、今でいうトラクターの代わりの牛だったんですけど。ですので赤牛を食べていただくことで阿蘇の草原が守れて、そのおかげで観光客が来てくれますし、一度は走ってみたい道路とかで世界中からドライブに来られる方、自転車にのって、バイクに乗ってきていますので。


いまきん食堂 四代目の聡さんが、ふるさとに帰って店を継いだのは二十三歳の時。阿蘇の素材のよさをそのまま生かすため、4〜5回の改良を重ねて、現在の「赤うし丼」の味にたどり着いたといいます。

◆百年やってようやくたどり着いた味
赤牛という阿蘇の牛のもも肉を使ったステーキ丼みたいな感じ。赤牛自体が放牧されている牛さんなので黒牛より硬くて、さしもなくて。でも今そういう牛の方が健康で運動している筋肉質の部分を食べて「あ、肉食ってんな」という感じで。その辺を目指しています。最初はじめた頃はずっと1年ほど赤字だったんじゃないかな。普通に味を突き詰めればどうしてもステーキ屋さんと焼肉屋さんのほうにたどり着いてしまうんです。にんにくや玉ねぎとか、バターを使ったほうがおいしく感じるのかもしれないですけど、この地元の赤牛の味を出していって、引き算をずっとしていって、余分なものを抜いてたどり着いたんですね。基本しょう油とみりんぐらいになってるんですけど、下にお漬物が敷いてある。やっぱり赤牛プラス阿蘇のご飯、地元の温泉でつくった温泉卵と一緒に食べていただいております。ようやく百年やってきて、ようやくうちのお店に「行列」とか雑誌に載って、家族では毎日がフィーバーだったですね。いまきんがとうとう!百年かかってようやく!という感じで。おかげで街にもそれなりの経済効果も出てると思うし、この町で赤牛が神様みたいになっております。


『LOVE&HOPE』、今朝は熊本からのレポート。阿蘇の赤牛をつかった「赤うし丼」が名物、創業から百年余りの「いまきん食堂」についてお伝えしました。

「いまきん食堂」がお土産に販売している「あか牛味噌」もあります。少し大きめに切ったあか牛を、ゆっくり煮込んだ肉味噌です。ごはんと共にお召しあがりください。

いまきん食堂さん、水曜日は定休日です。
震災の影響など、明日も引き続きお送りします。

いまきん食堂 HP

2016年7月5日

7月5日 岩手県陸前高田市 戸羽太市長

今日は、岩手県陸前高田市の戸羽太市長のお話です。

先日の日曜日、陸前高田市では「高田スマイルフェス」が行われました。陸前高田市や川崎フロンターレなどが主催したイベントで、地元の子供たちを招いてのサッカー教室や川崎フロンターレとベガルタ仙台によるスマイルドリームマッチ、ナオト・インティライミのライブステージなどが行われ、約3000人の方が集まりました。その会場となった「上長部グラウンド」は、
震災の時津波に沈んで、人の住めない地域になった場所。そこに2012年、日本サッカー協会が協力をして地元の皆さんと一緒に作った芝のグラウンドです。もともと陸前高田はスポーツがとても盛んなところだったそうですが、こうした特別な場所に出来たグラウンドにたくさんの人たちが集まってにぎわう様子を見た戸羽市長、どんな感想を持ったんでしょうか?

◆いまだに小中学校の校庭が使えない状況
そうですね、もともとマリンスポーツも盛んですし、陸上スポーツも盛んですし、とにかく子供たちがスポーツやってない子はいないくらいスポーツが盛んなところだと思います。ですが、いまどこの小学校中学校の校庭もまだ仮設住宅が建っていて使えない状況で、もう震災から6年目に入りまして、いまの6年生は自分の小学校で運動会しないで卒業するというような状況なんですね。ですからJリーグの皆さんとかいろんな方々にお世話になって、ここの長部という所にグラウンドを作って頂いて、そこでまさかプロの試合を見れるなんていうのは、子供たちにとっても大人にとっても本当に有り難くて有り難くてしょうがないですね。


ここはそうした子供たちに、伸び伸びとスポーツをしてもらおうということで作られた場所でもあるんですが、この場所で、震災前畑をやっていた地元の方に話を聴いたところ、“元気に走り回る子供たちを見ているとこちらも元気になる” と嬉しそうにお話しされていました。

高台に家があって、津波の浸水域に公園やスポーツ施設がある、という上長部。これはいま復興工事を急ぐ陸前高田の≪町の将来図を象徴したカタチ≫でもあります。その場所に立って思うことを聴いてみました。

◆最後に仮設を出られる方、平成31年中
グラウンドがある場所は津波が来た場所で、そのすぐ脇の山には家が建っていて、陸前高田を象徴する場所だと思います。陸前高田の場合は人の住める場所と住めない場所を完全に分けてますので、町全体もこういう感じになっていくのかと思います。陸前高田市の場合は、被災地の中でもいちばんひどい部類でありまして、復興計画の通りにいっても最後に仮設住宅を出る方は平成31年になります。しかし実際には少し遅れが出ているということで、我々の目標としては31年中に出られればいいなというくらいになってますので、まだまだ大変な状況、3000人以上が仮設住宅に住んでいるという状況です。高齢化率も高いですし、生まれてくる子供の数も少ないということで、まさに日本がこれから直面する課題がぜんぶ山積している場所だということですから、我々は先駆けてそれにチャレンジしていかなければならないということが大きな課題かと思います。


戸羽市長ご自身も、津波で奥さまを亡くされています。あの日からこれまで、市長としての公務に全力をかけているその根底にあるものとは、どんな思いなのでしょうか?

◆悔しさをバネに
いちばんには「悔しさ」ですよね。私と同じような思いをしている人はたくさんいます。このままへこたれて潰されてしまうんだとすれば、これはもう人生生まれてきた意味もないわけですし、我々は大変なこと辛いことがありましたけど、でも一方でこうやってたくさんの方に支えて頂いたり応援を頂いたりという喜びも知っていますから、我々がしっかりとした町を創ることで、残念ながら犠牲となられた方の思いというものを含めて、納得は出来ないかもしれないですけど、お前らよく頑張ったな!と言ってくれるような町を創りたいという思いでいつも仕事をしています。


岩手県陸前高田市は最大で12メートルかさ上げして、宅地を含む中心市街地を整備する復興計画の事業完了予定は、平成30年度末。
ほかの場所で事業を再開した人たちが、どのくらい中心街に戻ってくるのか?土地交換=換地でかさ上げされた場所に家を建てる人がどれくらいいるのかも不透明です。

2016年7月4日

7月4日 阿蘇市・内牧温泉「蘇山郷」の“源泉かけ流しの名湯”復活

熊本地震の影響で、阿蘇市内にある内牧温泉では一部の旅館で温泉の湧出が止まってしまいました。その中の一軒で番組が取材した老舗旅館「蘇山郷」では、三代目館主・永田祐介さんが狄靴靴源泉を掘って、夏の行楽シーズン、7月中の再開を目指したい” とおっしゃっていました。

はたして温泉は出たのか?先日、再びスタッフは「蘇山郷」を訪ねました。

◆毎分220リットルに!温度もバッチリ!
6月17日に以前と同じ深さ、152メートルのところまで掘って頂いて、18日の朝から掘削の機械をいったん抜いて、そこの中にきちんとした配管の施工をします、という話があって、その前段階で、超音波検査というか、ここら辺はこのくらいの温度の泉脈があって、というのは管の中でやって頂いて、いちおう目途はついていたんです。で、そこに横にスリットの入った配管を埋めていくんですけど、その工事が18日一日かかって終わって、明日朝からエアコンプレッサーで圧をかけてどこら辺まで上がってくるかっていうのを図りましょうかね〜って言ってたらなんか自然と上がってきましたよ〜っていう話になって、僕もなんかすぐにバーッと出て止まるもんだろうと思ってたら、だんだん湯量が増えて、じゃこのまま一晩、出してみましょうか〜って言って一晩ずーっと自噴している状態です。一晩経って、きちんと温度と湯量を測ったら、だいたい1分間に220リットルくらい出てて温度が44.5度くらいあると。ほぼ同じ、か、もうちょっといいくらいの温度が確保できそうです。(おかえり!って感じ?) いやなんかもう、出るだろうっていうのはもちろんあったんですけど、ただやっぱり地下の事なんで、どうしても掘ってみないと分からないっていう状態だったんですよね。なので正直、上がってきたときはホッとした(笑)ああよかったホッとした、もうこれで、みたいな。


ということで、蘇山郷の “源泉かけ流しの名湯” 復活です!!!
お湯に触れたスタッフ曰く、“微かに硫黄の匂いがあって、少しとろみがある滑らかなお湯で、触った手がしっとりすべすべになった”ということ。

ひかえめに「ホッとした」と永田館長はおっしゃっていましたが、喜びはひとしおだったのではないでしょうか?7月1日から、九州への旅行がお得になる「九州ふっこう割」も始まりましたので再開を急ぎたいところだと思いますが、今後の予定について伺いました。

◆7月16日から営業再開へ
7月16日、夏休み、連休のスタートまでには形を整えて、その日を再オープンの日に見込んでいます。どれだけクーポンがつこうがどれだけ温泉が出ようが、やっぱり57号線があの状態である、あとは豊肥本線が動かないし目途が立たないっていう状態の中で、正直、どれだけのお客様が戻ってきてくれるか、まったく未知なんですけども、でも前に進まないと始まらないんで。なのでもちろん先に営業を始めているお宿さんと一緒になりながら、今まではどちらかというと、復興支援者がメインで、受け入れをされてこられていますし、避難している方たちの受け入れをされています。で、まだまだ観光客の受け入れ受付というところまでは至っていないので、国の支援、そういう追い風を受けて観光客の受け入れを始めながら、観光地・阿蘇の復活、復興に少しでも貢献できればと思ってます。


新しく掘った源泉からは、お湯がこんこんと湧き出て、3連休と夏休みのスタートになる16日までには、建物の修繕を終わらせて、
蘇山郷は再オープンする予定です。

ただ、お話しされていた通り、国道57号線は、開通の目途が立たず、豊肥本線も止まったまま。アクセスの面では厳しい状態が続きます。大分や福岡からのルートは大丈夫です。熊本市内からも風光明媚な「ミルクロード」を通れば、少し遠回りだけど行けます。

また7月1日からスタートした「九州ふっこう割」、いちばん割引率が高い熊本県、大分県では、たとえば1万円の宿泊料が、3000円になるなど最大7割引きになります。

内牧温泉「蘇山郷」HP
「九州ふっこう割」HP

2016年7月1日

7月1日 阿蘇・高森の宿「森のレンガ館」

きょう7月1日からスタート!
お得に旅行して九州を応援できるクーポン券『九州ふっこう割』発売!

「九州ふっこう割り」のキャッチコピーは「あなたの旅が九州を元気にする」!
熊本・大分なら、最大で7割引きになる、かなりお得なクーポンです。

今朝はこのクーポン券が利用できる、熊本県阿蘇郡高森町の料理が自慢の宿「森のレンガ館」についてお届けします。高森観光協会の理事で、森のレンガ館オーナー 谷口まさひろさんは平成3年にこの宿をオープン。およそ20年前に大阪から阿蘇に移住してきました。

◆カルデラ内の野焼き 4つの景色が楽しめます
20年ほど前、こっちに遊びに来てたんですね、全く縁のない土地だったんですけど。バイクに乗ってツーリングによく来ていたんですね。大阪からだとフェリーで別府について阿蘇までツーリングに来る定番のコースがあって。唯一無二の景色ですよね。カルデラ(火口)の中に人が住んでいるってのはここしかほぼないので、何百年も前から草原を人の手を加えて維持してきた土地ですので、野焼きといって山を焼くんですね、そうすることで草原が維持できる。だから阿蘇は四色に変っていくんですね、まず燃やして真っ黒になるんです。それから奇麗な新緑の緑。その緑が深くなって、枯れて冬枯れの茶色ですね。この四色の景色が楽しめます。
熊本ほんとうに食材が豊富なんですね、まずうちは阿蘇名物の赤牛の認定店なので、赤牛の一番柔らかいステーキ、あとは熊本の野菜を使ってフレンチベースのコース料理、あと天草のお魚も手に入りやすいので全て手作りで作らさせてもらってます。





そんな森のレンガ館、高森町自体は地震の影響はあまりないものの、阿蘇大橋の崩落で客足は一変します。

◆北・東・南から、道は通じています
お客さんの出入りは一変しています。正直全くない状況ですね。ほぼ無収入の状況です、今は。もう阿蘇大橋が落ちた、57号が崩れたって状況で、これはかなり厳しいなとすぐ想像できました。それだけ重要な交通路だったので、「阿蘇行けるの?」という声が聞こえるんですけど、道が通じてる。そういうルートマップを作って配ろうかというような話は出ています。熊本からは、阿蘇ミルクロード、グリーンロードという北からと南からのルートが、今きれいな景色を見ながら通ってこれますので。あと大分方面からは九重を通って山なみハイウェイを通ってこれますし、宮崎方面からは高千穂などを通りながら観光しながら来れるので、景色を楽しみながらぜひ阿蘇まで遊びにいらっしゃってください。


「森のレンガ館」にぜひ足を運んでほしい!
ということでここで、今日7月1日からクーポンの発売がスタートする『九州ふっこう割』についてお知らせします「九州ふっこう割り」は、お得に旅行して九州を応援できる観光復興のための制度で九州の旅行商品を“割引価格”で購入できます。熊本・大分だけでなく、九州全県で利用できますが、割引率が県によって異なります。

いちばん割引率が高いのが、熊本県と大分県。
例えば1万円の宿泊料が、3000円になったり、航空券+宿泊のツアーも本来5万円のツアー料金が2万円になったりとかなりお得!じゃらん、楽天トラベルなどのインターネット上の予約サイト、または旅行会社の窓口などで、7月1日以降、順次販売されます。

詳しくは「九州ふっこう割」の公式HPをご覧ください。

くつろぎの料理の宿「森のレンガ館」HP
森のレンガ館 facebook

パーソナリティ:中西哲生・高橋万里恵

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2017 東日本大震災から5年 LOVE&HOPE 2016年3月11日(金) 特別企画放送

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