2017年2月28日

2月28日 映画「新地町の漁師たち」2

昨日に続き、3月11日に公開が始まる映画「新地町の漁師たち」についてご紹介します。

東日本大震災による津波で被災し、さらに福島第一原発の事故によって操業自粛を余儀なくされた福島県新地町の漁師たちの姿を追ったドキュメンタリー、「新地町の漁師たち」。映画の中には、新地町で受け継がれてきた伝統行事、「安波祭(あんばまつり)」が出てきます。困難な状況にあっても新地町の人たちによって守り続けられているこの行事について、監督の山田徹さんに、お話しを伺いました。

♪「安波祭」のお囃子
僕の映画のフィニッシュが、2014年11月3日の「安波祭」の日にあった「進水式」の日なんですけど、とうぜん安波祭っていうのは漁師さんたちにとってとても大事なお祭りで、大漁祈願、航海安全を海の神様である安波さまに祈願するお祭りなんですけど、ずっと昔から続いてきたお祭りで、震災があって御神輿も流されましたし、担い手も不足している中で消滅の危機というのは有ったんですけど、2014年の安波祭の時に、まだその時は神事だけだったんですけど、浜にたくさんの人が来ました。漁師の奥さんであったり子供たち、みんな笑顔なんです。その光景を見た時に、漁師町の、新地町の安波祭っていうのが、どれほどこの土地に大切なものなのかというのを感じましたし、その姿を見て、まだ試験操業で本格操業ではない時ですけど、1つの復興のポイントかなと思いました。福島県全体に言えることなんですけど、若い担い手が全国で2位なんです。水産業に関しては。で、新地町もとても多くて、やっぱり水産業に関わらずこれからの時代を作るのは若い人ですから、新地町の高齢の漁師さんたちも思ってますし、漁民全体が若い人を応援してますから、その姿がちゃんと映像でとらえられたってことは一つの希望がこの映画で記録に残せたかなと思っています。


映画の締めくくりが「安波祭」の日に進水式を行なった若い漁師を町のみんなで祝う光景でした。それは困難な状況に、地域で力を合わせて立ち向かっていく姿が象徴されているようでしたが、そんな新地町の漁師の「生き方」について、山田さんはこう言います。

◆漁師の芯のある生き方
安波祭っていうのは「例祭」と「本祭」があるんです。「本祭」というのは御神輿を担いで漁村を回って、最後は海に入るお祭りなんですけど、それは5年に1回なんです。で本来であれば震災の年の2011年に本祭があったはずなんですけど、震災で流れてしまって、2016年、去年の11月3日に、震災前を考えると10年ぶりに本祭があったんですね。御神輿を担ぐのは若い漁師さんで、初めて参加した漁師さんも多かったんですけど、「これで海の復興を感じられた」とか、「やっと自分も初めてお父さんと参加することが出来て感慨深いものがある」というのを聞いた時に、若い人がこれから新地町の漁業を担っていくという意味と、お祭りの大切さがよくわかりました。彼らは震災があってもやることは変わらなくて、漁をすることだけなんです。で、年に1回、「安波祭」という神事をあげると。とてもシンプルな生き方をしていて、何か生き方に芯があるなと思いました。そうした芯のある漁師さんの生き方というのを多くの人に知ってほしいなと思ってますね。


ドキュメンタリー映画「新地町の漁師たち」の公式サイト
3月11日、東京の「ポレポレ東中野」で公開。
3月3日には、「ポレポレ坐」を会場に、詩人の和合亮一さん、映画の音楽を担当した「3日満月」などが参加する劇場公開記念コンサートも行われます。

2017年2月27日

2月27日 映画「新地町の漁師たち」1

今朝は、3月11日に公開が始まる映画、「新地町の漁師たち」についてご紹介します。
東日本大震災による津波で被災、そして福島第一原発の事故によって操業自粛を余儀なくされた福島県新地町の漁師たちの姿を追ったドキュメンタリー「新地町の漁師たち」。操業自粛で生活が一変した漁師たちや「地下水バイパス」をめぐって葛藤する様子を3年半にわたる長期取材で描き出しています。
監督の山田徹さんに、お話しを伺いました。

◆「新地町の漁師たち」は、2011年6月から、2014年11月3日の漁師たちの祭り「安波祭」の日までを撮影したドキュメンタリー映画です。震災後、放射物質の海洋汚染で漁師たちは仕事が、漁業が出来なくなってしまったんですが、その記録をこの映画では追いかけています。主に震災後2年間くらいは海のがれき撤去作業ですとか、魚のモニタリング調査の仕事をしていたんですけど、それも週に仕事がある回数は1〜2回くらい。ほとんど何もやることがない状況で、ただ新地町では2013年の3月くらいに小女子の試験操業が始まって、やっと震災後2年目にして試験操業という形ではあるんですけど漁が出来るようになりました。その漁をする漁師さんの姿を見て、“あ、本当にこの人たちは、漁をすることが生きがいなんだ”と思って、同時に原発から漏れる汚染水問題が公表されるようになって、2013年の9月くらいにシラスの試験操業が始まる予定だったんですけど、その汚染水漏れの報道が東京電力が正式に公表をその時にしたんですけど、ダメになってしまって、でその後すぐに廃炉対策である「地下水バイパス計画」、原子炉建屋に入るまえに地下水を海にバイパスで流すという対策なんですけど、もちろん海に流す前は汚染されてないか検査は入るんですけど、汚染されてないとは言っても風評被害に直結する話ですから漁業者たちの判断が必要になってくる、そこで安全とはわかっていてもなかなか判断の是非が取れなかったんですけど、その記録を、だいたい映画の半分くらい占めて仕上げた作品になっています。

この「地下水バイパス計画」、福島県内の各漁協を交えて話し合いが行われ、苦渋の決断で合意。2014年の5月から排水が始まりました。

◆撮っていて感じた漁師の本能
漁師さんは震災後、漁が出来なくなってしまって、ただ陸の人と比べると賠償金が東京電力から出るので、陸の人よりは悪い言葉で言うと悠々としてはいたんですね。で当然、陸の人もそれは思っていて、浜と陸の分断というのは肌身で感じてはいました。ただそうは言っても漁師さんは漁をすることが仕事でしたから、その生業を出来なくなったというのはとても大きな問題だったんですね。そういう漁師さんたちの葛藤を目にしていたんですけど、試験操業が始まって、漁師さんがやっと仕事が出来る姿を見て、漁師さんは漁をすることが生きがいで、同時に仲間と一緒にやるという事が大事なんだと。で地下水バイパス計画での漁師さんたちの“海を守りたい”という発言を聞いて、その姿っていうのは本当にとても感情的な気持ちの吐露なんですよ。メディアで報道されるのは地下水バイパスの合意形成が取れて地下水を流してもいいという事になったという事実関係だけなんですよね。でもその中で計画の説明会ではいろんな葛藤があって、漁師さんたちの“海を守りたい”っていう気持ちがあってこその合意形成だったというのを多くの人に知って頂きたいと思いました。


ドキュメンタリー映画「新地町の漁師たち」公式サイト
3月11日、東京の「ポレポレ東中野」で公開です。
3月3日には、「ポレポレ坐」を会場に、詩人の和合亮一さん、映画の音楽を担当した「3日満月」などが参加する劇場公開記念コンサートも行われます。

『LOVE&HOPE』、明日も山田徹さんのインタビュー、お届けします。

2017年2月24日

2月24日 女川町「地元市場ハマテラス」のお土産5「三陸石鹸工房KURIYAのアロマ石鹸」

今週の『LOVE&HOPE』は、宮城県女川町から『ハマテラスからの贈り物 お土産ベストセレクション』
女川の美味しいもの、特産品を毎日プレゼントしています。

今朝は、三陸石鹸工房KURIYA「手作りアロマ石鹸9個セット」を3名様にプレゼント!

サイコロ状の可愛いアロマ石鹸。三陸の産品などが練り込まれたオリジナルな石鹸です。シルク、わかめ、はちみつ、ほや、竹炭などの石鹸9個を詰め合わせしてお届けします!

当選者は
★かれん さん
★いちご さん
★てすく さん
以上3名さまです。

おめでとうございます!
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「ハマテラスからの贈り物 お土産ベストセレクション」!今日で最終日!
このハマテラス、入っているお店はほぼ飲食店、鮮魚、水産加工品のお店なんですが、一軒、壁を隔てたスペースにちょっと変わったお店があります。石鹸のお店です。ということで、そのお店からのレポート・・・どうぞ!

◆地元食材のアロマ石鹸で、女川から世界へ!!
高橋:三陸石鹸工房KURIYAへやってきました。お店に入ってきたのですが・・・すごく石鹸の良い香りがします。かわいいサイコロ状の石鹸がたくさん置いてあって、これは女子心がだいぶくすぐられるんじゃないでしょうか。ということで代表取締役 厨勝義さんにお話伺います。よろしくお願いします。
厨:手作りの石鹸を作っています。天然素材でしかも近隣のものを主に使って作っています。
高橋:すごいですね、石鹸の名前が「アカモク」「ニンジン」「米ぬか」「ヨモギ」「はちみつ」「わかめ」もあります。これはどういうことですか。
厨:わかめはこちら三陸の漁師さんが獲っているわかめです。
高橋:じゃあこの石鹸、わかめが入っているんですか。
厨:入っています。パウダーにして入れています。
高橋:わかめの香りはしない・・・。ライムと書いてありますよ。
厨:香り自体はアロマオイルを使ってつけています。
高橋:なぜわかめやアカモクなど地元の物を使った石鹸を作ろうと思ったんですか。
厨:出身は福岡県で、たまたま震災後にボランティアとしてきて、仮設住宅で石鹸作りのワークショップを見て、その時に参加していたお母さんたちのテンションがめちゃくちゃ高くてですね、こっちでもわかめや、養蚕をやっているところもあるので、そういう材料で始めてみようと。それが2年半前になります。
高橋:ハマテラスにオープンする意気込み、想いは強いものがありましたか。
厨:町が新しく出来る時に一緒に参加できるということで、僕以外にも日本製のギターを作る工房があったり、以前話題になったダンボール製のランボルギーニ「ダンボルギーニ」という強化ダンボールを扱う社長さんとか、新しいことをやる人たちが好意的に受け入れられていて。町の出身かどうかをあまり意識しないですし、地方ですと「よそもの」扱いされることもあると思うんですが、そういうことも全然無くて、あっさり入って横並びで一緒にやっているという。受け入れられているのでこっちも頑張ろうという気になりますよね。
高橋:この石鹸を女川から国内へ、そして世界へも広めたいと思っていますか。
厨:元々翻訳業をやっていたので英語がある程度できるのと、日本のライフスタイルってもっと世界に通用していいなと思っているんですよね。素材も地元の人が丁寧に作った食材を主に使っているので、そういう部分をメイド・イン・ジャパンの安全性のイメージに乗せて、海外にも出して。一つ考えているのは、地方からでも海外に出せる、都市にも負けていないということで運営していきたいなと。
高橋:本当に女性は石鹸に興味があって、直接肌につけるから安全性が一番求めているところなんですよね。そういう意味では全身に使える石鹸?
厨:全身使えますね。いまは僕らの方では許可申請を出しているので化粧石鹸ではなくあくまで雑貨の部類で販売していますが、中身としては食べられるものを使用しているのでアレルギーの心配も低いと考えています。



★三陸石鹸工房KURIYA 公式サイト

2017年2月23日

2月23日 女川町「地元市場ハマテラス」のお土産4「蒲鉾本舗 高政の ホタテとわかめのぷちあげ」

今週の『LOVE&HOPE』は、宮城県女川町から『ハマテラスからの贈り物 お土産ベストセレクション』
女川の美味しいもの、特産品を毎日プレゼントしています。

今朝は、蒲鉾本舗 高政 の 『季節限定 「ホタテの笹かま」と「わかめのぷちあげ」を含む詰め合わせ』を3名様にプレゼント!

当選者は
★しろぶんチュンチュン さん
★ゆきの姫 さん
★papanda さん
以上3名さまです。

おめでとうございます!
産地直送でお届けします。お楽しみに☆


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ハマテラスからの贈り物 お土産ベストセレクション,今日ご紹介するのは・・・女川のお土産物の代表! 『蒲鉾本舗 高政』の、「季節限定の 海鮮いりさつまあげ」その名も「"ぷちあげ”」です!ということで高政・四代目の高橋正樹さんに伺いました。

◆旬な食材の新商品も色々登場!
万里恵:去年12月にオープン。いかがですか。
高橋:寒い時期だったのでどうかと思ったが、思った以上にお客様がいっぱい来て好調ですね。
万里恵:女川の駅から歩いていける距離にこれだけお店があるのって、喜ばれたんじゃないですか。
高橋:我々も町づくりの中心は駅前にあると考えてこのエリアを作ってきたので、利便性というところもそうだし、うちの店(高政)は元々駅から離れたところにあるので、「買いやすい場所にできてありがたい」というこちらもありがたいご意見を頂いて良かったです。
万里恵:たくさん試食したんですけど、すごく美味しかったです。今のおすすめは。
高橋:新商品がでまして、笹かまぼこは今まで吉次、石持、クリームチーズの入ったチーズ笹かまがあったんですが、もう1種類新たに販売がスタート。ホタテ入りの笹かまぼこが2月新商品としてでました。4月末までの期間限定。
万里恵:私も頂きましたがホタテの味がしっかりしてすごく美味しかったです。これって売れていますよね。
高橋:おかげさまで発売当初から美味しかったよと感想をもらって、売上も好調なので定番化していきたいなと。他には2月に入って「ぷちあげ」のわかめがでました。ぷちあげというのは小さいさつま揚げが10粒入ったもので定番品なんですが、毎年春になると新物のわかめが美味しいので、その茎の部分を入れて、シャキシャキの茎としっとりもちもちのかまぼこのハーモニー的なやつですよね。これは人気商品で毎年待っている人が多いんですよ。また始まりましたとなると、一斉に買ってくれるものなので。
万里恵:あとはものすごい賞をとった商品がある?
高橋:2月あたまに宮城県水産加工品品評会があったんですけど、なんとうちの「御膳蒲鉾 牡蠣」というのがあるんですけどこれが最優秀賞の農林水産大臣賞を受賞しまして、このあとは全国の品評会に宮城県の代表としてうちのかまぼこが出品されることが決まりました。ありがとうございます。やった!

※こちらがその御膳蒲鉾 牡蠣です↑

万里恵これだけ聞いておいてなんですが正樹さんは牡蠣食べられるんでしたっけ(笑)
高橋:牡蠣食えないの・・・自分が食えないから売らないというのは無いんです。愛されるのは何なのかを周りの人と一緒に考えて作って、それが商品になるという手法を考えたら全然ありじゃないですか。という言い訳をするわけですよ。社員に恵まれています(笑)



★各商品は【蒲鉾本舗 高政】公式サイトから直接注文することもできます!

LOVE&HOPE、「ハマテラスお土産ベストセレクション」。あすピックアップするお土産は・・・ちょっと変わり種。
「女川の海の幸を使った・・・なんと、石鹸」のプレゼントです!

2017年2月22日

2月22日 女川町「地元市場ハマテラス」のお土産3「サンマ昆布巻き リアスの詩」

今週の『LOVE&HOPE』は、宮城県女川町から『ハマテラスからの贈り物 お土産ベストセレクション』
女川の美味しいもの、特産品を毎日プレゼントしています。

今朝は、マルキチ阿部商店のサンマの昆布巻き「リアスの詩」を3名様にプレゼント!

当選者は
★タニー さん
★海老カツ さん
★烏賊釣り金ちゃんマン さん
以上3名さまです。

おめでとうございます!
産地直送でお届けします。お楽しみに☆
(一度住所確認のため、スタッフからご連絡を差し上げます。)

*当選者掲載初出時、火曜日の当選者が表記されていました
 お詫びして訂正いたします。

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今朝ハマテラスからご紹介するのは・・・大正14年創業、この町でずっと水産加工品を扱っている「マルキチ阿部商店」です。

◆ハマテラスでは釜飯も提供
高橋:マルキチ阿部商店、代表の阿部淳さんに伺います。こちらのお店はハマテラスにありますが震災前は?
阿部:マリンパル女川という商業施設があってそこに出店していました。海の目の前の建物だったので工場の家も店も全部流されて、助かったのは人だけ。唯一残ったのは看板だけですね。
高橋:「リアスの詩」と書いた木彫りの看板がありますけど、これは?
阿部:前の店舗にずっと飾っていたものが津波で流されずに残っていたんです。無事というより瓦礫の中に埋もれていて、これを見た時に、ああ商売をやれということなんだろうなと、希望を持ったというのはあります。

高橋:去年12月にハマテラスがオープン、こちらにお店を構えて新しく商品も開発されたんですよね。
阿部:海鮮浜めしという、容器ごと持ち帰れる釜飯の弁当にして、電車の中で食べたり持ち帰って食べたり、もちろんその場で食べてもらって。ウニとカニとエビとカキとホタテとタコ。タコは季節によってメカジキに変わったりします。なるべく出汁の出る食材を使ってご飯に染み込むようにしていますので、すごく美味しいと思いますよ。
高橋:写真を見るとたまらないんですが、本日分の海鮮浜めしは終了しましたと書いてあるんですね(笑)平日ですけど売り切れちゃうんですね。
阿部:そうですね、売り切れちゃいました。
高橋:牡蠣浜めしもありますね。
阿部:季節の浜めしということで、今は穴子浜めしです。美味しいですよ。脂の乗った穴子を使って釜飯を炊き上げるという。
高橋:それも売り切れですか!?
阿部:すいません、申し訳ないです(笑)



◆日本有数の水揚げを誇るサンマを、昆布巻きに!
「リアスの詩」もオススメですよ、昔から作ってますので。女川は昔からサンマの水揚げで有名で、水揚げ量も日本では本州1〜2位を争うほどで。そこで上がった新鮮なサンマを三陸の昆布と一度鍋で煮込んで、ちゃんと味を出してから真空パックするので他とは違う味が出せるのが一番の強みです。自分が美味しいと思わないものは売りたくないので、自分が美味いと思うものを店に並べるのが嬉しいし、なるべく女川のものを使って、醤油も宮城県登米市のものです。


取材した「ハマテラス」は、マルキチ阿部商店はじめ色んなお店が提供する女川のグルメを、その場で食べるイートインスペースもあるんです。ということで高橋万里恵、仕事を忘れて色々と実食しました♪


LOVE&HOPE、「ハマテラスお土産ベストセレクション」。あすピックアップするお土産は・・・「女川の期間限定めかぶ・ホタテのぷち揚げかまぼこ!」!

マルキチ阿部商店のサイト

2017年2月21日

2月21日 女川町「地元市場ハマテラス」のお土産2「三陸のウニ」

今週の『LOVE&HOPE』は、宮城県女川町から『ハマテラスからの贈り物 お土産ベストセレクション』
女川の美味しいもの、特産品を毎日プレゼントしています。

今朝は、ウニ・ホヤの専門店「片倉商店」の殻付き「お造りウニ」を3名様にプレゼント!

当選者は
★モグチャン さん
★まかぷうぷう さん
★ラン丸 さん
以上3名さまです。

おめでとうございます!
産地直送でお届けします。お楽しみに☆

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女川のグルメを食べられて、お土産も買えちゃう食のワンダーランド!ハマテラスから、今日は、「片倉商店」をご紹介します。こちらの絶品おみやげは・・・
いよいよ旬を迎えた、三陸のウニです!

◆三陸の殻付きウニ!!
高橋:片倉商店 岩渕葵さんに伺います。たくさんのお客さんで賑わっていますが、片倉商店さんはどういったお店ですか。
岩渕:自社ダイバーが潜ってウニやナマコなどの海のものを取ってきて、工場で加工して店舗で売るというお店ですね。
高橋:イチオシ商品は?
岩渕:2月から始まったウニですね。金華山沖で取っています。今から夏にかけてはウニが美味しくなる時期ですので、炊きたてのご飯なんかに乗せていただくと甘みがましてとても美味しいです。
高橋:とっても濃厚で美味しかったです。無添加と書いてありますが。
岩渕:生うにを扱っている水産会社ですと、長く持たせたり色を良く見せるために薬品を使うところもあるんですが、うちはそれも無しでそのままの味、無添加です。
高橋:なかなか東京だと無添加、ミョウバンに使っていないウニは手に入りにくいんですが女川だとおみやげに持って帰れますね。
岩渕:大丈夫です、無添加のウニ食べられます!
高橋:他にオススメの食べ方は。
岩渕:もちろん生で食べるのもそうですが、私が好きなのはじゃがいもとキャベツとめんつゆで味付けした煮物ですね。それが大好きで、ウニの時期はよく食べています。本当に美味しいんですよ。ご飯にかけて食べると最高です。時期によっては殻付きのウニもあります。お作り生うにと、生うにパックですね。お作り生うには殻に入っていてすぐ食べられるようになっているものです。目でも楽しめて食べて美味しいものです。スプーンですくって食べて頂けると。もちろんそれも無添加です。お歳暮の時期はそれがメインの贈り物として注文も多いです。忙しい時だと1〜2週間待ちということもあります。



★殻付き「お造りウニ」はウニ・ホヤの専門店「片倉商店」でお取り寄せ可能です。
「片倉商店」へ直接お問い合わせください。
 TEL 0225-54-4589

LOVE&HOPE「ハマテラスお土産ベストセレクション」。あすピックアップするお土産は・・・「リアスの詩」という名前の絶品グルメです!

2017年2月20日

2月20日 女川町「地元市場ハマテラス」のお土産1「たこのやわらか煮」

今週の『LOVE&HOPE』は、宮城県女川町から『ハマテラスからの贈り物 お土産ベストセレクション』女川の美味しいもの、特産品も毎日プレゼントしています。

今朝は、昭和22年創業「岡清」の【たこのやわらか煮と、たこ・牡蠣・ホタテ・ほやの4点アヒージョセット】を3名様にプレゼント!


当選者は
★ロアッソん さん
★ウサギの花 さん
★呑んだくれヒツモエ さん
以上3名さまです。

おめでとうございます!
産地直送でお届けします。お楽しみに☆

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高橋「女川駅から海に向かって真っ直ぐ伸びるプロムナードを歩いてきたんですが、良いお天気で海もキラキラしてます。とっても綺麗。そのプロムナードの先にあるのがこのハマテラスです。去年12月オープンですごくウッディなログハウスのような雰囲気で、とっても可愛らしいお店です。この中がスゴイことになっています。地元のお魚屋さんもありますし水産加工品も売っていますし、お世話になっている女川丼の岡清さんも入っていて本当にテーマパークのようなところなので今から中にはいるのがすごく楽しみです。たっぷり堪能してみたいと思います。では行ってきます!。

ということで今週は宮城県女川町にオープンした、食のワンダーランド「地元市場ハマテラス」からのレポート!
まずは女川グルメの王様「女川丼」という海鮮丼を提供するお魚屋さん・岡清の絶品お土産をご紹介します!


◆女川の腕利き鮮魚店が作った『三陸たこのやわらか煮』!
高橋:では岡清の店長、岡芳彦さんにお話伺います。よろしくお願いします。単刀直入に言いますが私、女川丼を愛してます〜。
岡:ありがとうございます。私も愛しています。
高橋:こんなこと言ったらあれですけど日本で一番美味しいんじゃないかというくらい食べた時に感動したんですけど、女川丼に込めた思いってどんなものがありますか。
岡:女川の海の幸、旬ですね。毎日違う食材が丼に乗っています。私達の仕事は本来飲食店ではなく、昔からの魚屋さんということで地域のお客様に生かされてきていますので、とにかく私達が出来ることはその素材の良さの見極め、目利きですね。必ず生きている状態で来るので素性がわかりますよね。それから私達の勝負というか目利きというか。あとは一番自分たちが食べて美味しいところ。ただやたらに新鮮で上がりたてで美味しいものもありますが、その魚が本当に花開くときというのはそれぞれタイミングが合って、良い意味での熟成がある。熟成の温度や水分率、ネタごとの温度管理。女川丼はだいたい14種類から年20種類くらいなんですが、赤身、白身、青魚、甲殻類、貝類バランスよく入るように、何一つ欠損がないようにバランスよく配置しています。
高橋:なぜこんなに毎回感動するのかと思っていたら、今全部謎が溶けました。岡さんの真剣な思いとこだわりが詰まっているから食べた人が感動するんですね。新鮮なお魚もありますが同じくらい加工品があります。オリーブ漬けのタコだったりやわらか煮だったりたくさんあるじゃないですか。この加工品にもこだわってらっしゃいますか。
岡:加工品というのは震災としては岡清としては初の試みで、震災が来て日にちが立つに連れて魚が食べられなくなってきた。水産の町の魚屋の役割として若干悔しい想いもあって。そこから、震災後に加工品も充実させてやっていきたいというのがありますね。
高橋:目の前に「三陸たこのやわらか煮」が宮城県知事賞とありますが。
岡:つい先日、水産加工品の品評会があって岡清の三陸たこのやわらか煮が賞を頂いたということで、嬉しくもあり身が引き締まる思いもあります。これは感で口の中でとろける柔らかい食感で、たこ飯にしていただくなり、甘じょっぱくて優しい味なのでそのままお酒のお供にしていただいたりね。


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★キーワードを聞き逃した方は、ラジコのタイムフリー機能でも聞き返せます!(放送1週間)
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★LOVE&HOPE、「ハマテラスお土産ベストセレクション」。
あすピックアップするお土産ものは・・・三陸の「殻付きウニ」です!

2017年2月15日

2月15日 女川のグラフィティライター D-Bonsさん3

昨日に引き続き、宮城県女川町のグラフィティライター・D-BONS、通称ボンちゃんのインタビューです。

ボンちゃんは現在、女川駅前プロムナード「シーパルピア女川」のバー、「シュガーシャック」のオーナーやデザインの仕事をしながら、スプレー缶のアート「グラフィティライター」として活動を続けています。

震災後の町に描かれたボンちゃんのグラフィティは、女川、石巻、牡鹿半島に50箇所以上。さらに、女川の恒例行事、3月の「復幸祭」でも、ライブペイントという形でその作品を見られるようです。
<br />

◆復幸祭で描くものは・・・
高橋:作品もそうですしスプレー缶で描いているのを始めてみて、どんどん色がついて作られていくのに感動したんですけど、やっぱり女川の復幸祭で発表を。
ボン:今年3月にあるので、復幸祭があリ、瓦礫ストックという女川のイベントもそうですし、女川のイベントでは結構絵を描かさてもらっていますね。
高橋:今年の復興祭はどんな作品を。
ボン:それも来てのお楽しみじゃないですかね。
高橋:ラジオで伝わりにくいんですけど、ボンちゃんの描く絵は、ヒップホップのアーティストだけど描くのがすごく繊細な桜の絵で。
ボン:本当は繊細なんです。

***
◆子どもたちに夢の選択肢を
ボン:子どもたちをもっと充実した生活にさせたいなと思っていて、それは何かというと、被災地だと言われてどこも工事現場で窮屈な中で、夢の選択肢というか希望や夢を持ってほしいし。夢もありきたりじゃなくていろんな夢を見られる環境を作ってあげたくて。ヒップホップに女川にいながらハマったのと一緒で可能性を広げてあげたい。俺がグラフィティで女川で食っていっているというのを証明することができれば、グラフィティというのは町中で違法なものですから、イメージもマイナス。でもそんなことでもやり方次第で食べていけるというのを見せることができれば、女川の若い子たちも、あのおっちゃんができるなら俺も出来るなというのを見せたい。子どもたちについては協力できることはしたいなと思うし楽しく生きてほしいと思いますね。
中学生を対象にそういう文化に触れる、そのときだけ一階触れるのではなくて継続的に出来る仕組みを考えていて、グラフィティだけじゃなくてダンスやラップ、DJ、ストリート文化に触れる場作りをもくろんでいます。この店はDJブースもあってなんでもできる店というのがテーマ。バーをやっていない時はそういうやつが練習したいなら全然OKという自由な空間として作ったので、そういうのが増えていけば面白いかなと思っていますね。



B-BONSさんグラフィティは、シーパルピア女川のバー「シュガーシャック」にもあるほか、希望の鐘商店街、金華山に行く船の桟橋の待合室、牡鹿半島の 各浜の漁師さんの漁具などを置くコンテナにたくさん描かれています。女川散策するならぜひ探してみて下さい!

そしてボンちゃんのライブペイントが行われる女川復幸祭は3月19日(日)となっています。

2017年2月14日

2月14日 女川のグラフィティライター D-Bonsさん2

昨日に引き続き、宮城県女川町のグラフィティライター・D-BONS、通称ボンちゃんのインタビューです。
女川や石巻で、スプレー缶のアート「グラフィティ」による表現活動を続けていたボンちゃん。

東日本大震災後でご自宅を流され、避難生活をする中、「師匠」である東京のグラフィティライターにボンちゃんがリクエストした支援物資が、スプレー缶でした。そして、女川へ駆けつけた師匠から受け取ったスプレー缶で、再びグラフィティを描きはじめたと話します。

◆色がなくなった町に色を
高橋:スプレー缶が届いて、そこから一番最初に描いたものはなんですか。
ボン:9月か10月くらいの石巻の野外イベントでのライブペイントだったんですけど、よく使われた言葉ですが「絆」という漢字をスプレーで書いたんですね。その人のことがやっぱり頭に浮かんだし、俺が18才で出会って10年位の関係があって、俺がダメになりそうな時にスプレー缶を持ってきてくれて絵が描けるようになったというのは、本当にすごい繋がりというか絆を感じると思ったので、あまり意識せずにできたなというのはありますね。ライブペイントのときって見られて描いているので、描いている過程もすごく大事にしていて。普段 絵を描く時はボードを真っ白に下塗りするんですが、あえてその時は黒く下塗りしたところから初めて、どんどん色がついていくという。真っ黒だったキャンバスがどんどん色が明るくなっていくというイメージで描いたのを覚えていますね。
高橋:町は瓦礫というか色が無くなったところに色を付けていくイメージだったんですかね。
ボン:俺の気持ちもあっただろうし、あの当時はただ明るい絵というのは描けなくて。リアルなところは大事にしなきゃなと。あの当時はみんな気を張って行きていたからそれをちゃんと表現したかったなと。震災から1年〜3年くらいは画風が今までで一番変わった時期かもしれないですね。悲しみとかネガティブな部分もある絵をどんどん描いていて。でもそこじゃないなと。それでどんどん明るい色が増えていって。2年めくらいに牡鹿半島の大漁旗プロジェクトというので依頼されて参加したんですけど、その時に漁師さんが使っているコンテナにボランティアさんたちと一緒に絵を描くという。大漁旗をモチーフにして魚や七福神を描くという。俺はそれまで全然魚なんて描いていなくて。ずっと女川にいたのに。逆に言うと当たり前すぎて、魚なんて描く必要ないと思って、というかそれすら考えていなかった。でもこれって「オリジナル」なんじゃないかと。俺が女川で生きてきて、そこから自然に出るものってそういうものだと思うし。これだ!と思って魚を描くようになって。大漁旗には描かせないのは波なんです。当時の波っていうと津波を連想しちゃうし最初は躊躇したんですけど、漁師さんに相談したら「全然かまわないから描いてくれ」と。「俺らは別に海を憎んでいない」と。やっぱりそうなんだよなと。そこから波を描くようになって、そのプロジェクトはいい経験が出来たと思っていますね。




そしてボンちゃんは、震災後に「本当に自分がやりたいことをして生きていきたい」と、会社をやめ、グラフィティ、デザインなどを本業にすると決意。女川駅前のプロムナードに、「シュガーシャック」というバーもオープン。バーの経営者であり、グラフィティライターとして活動を続けています。

2017年2月13日

2月13日 女川のグラフィティライター D-Bonsさん1

今朝は、宮城県女川町から、あるカルチャーを発信する人物に焦点を当ててお届けします。

それが「グラフィティ・アート」です。スプレー缶を使って町の壁などに絵を描く、アメリカで生まれたアートです。実は、女川を始め、石巻、牡鹿半島には、本当にたくさんこのグラフィティが見られます。

その多くを手掛けたのが、女川のグラフィティライター、D-BONSさんです。

◆グラフィティとの出会い
高橋:以前、女川のイベントで拝見したときにすごくきれいな桜の絵を書かれていて感動したんですが、名刺には「グラフィティライター」と。
ボン:スプレー缶で絵を描く、いわゆる町中にあるようなものをちゃんとお金を頂いて仕事でやっている、というところですね。
高橋:町の方がが「ボンちゃん」と呼んでいたので私もボンちゃんと呼んで良いですか(笑)ボンちゃんは元々女川のご出身ですか。
ボン:女川生まれ女川育ちです。元々10代の時にヒップホップという文化に触れて、ヒップホップの中にはグラフィティという絵を描くことがあるというのを知って、その東京のT0MI-Eさんという方と隣町の石巻で出会ったのがきっかけというか。プロジェクトで1ヶ月くらい石巻に滞在して作品を描いていたので、絵を見させてという感じで。
高橋:それは何歳くらいですか。
ボン:あれは18才、高校生でした。高校生の夏休みかな。その人の描いているのをずっと見てて。面白くて面白くて夏休みは毎日朝、電車に乗って行ってましたね。


こうしてこのカルチャーにのめり込んでいったボンちゃん。学校を出たあとは、石巻で会社員をしながら、グラフィティを描いていたそう。そんな生活を続ける中、あの地震と津波が町を襲いました。

◆被災地に届いたスプレー缶
高橋:震災当日は?
ボン:石巻の会社にいました。それで空いた時間に絵を描いていて。そこから日和山に避難して一夜を明かしました。次の日は歩いて女川まで帰ってきて。自宅は流されました。
高橋:師匠から「支援物資は何がほしい」って言われた時のお話が印象的でした。
ボン:震災から2週間経っていない頃に連絡が来て、「いまそっちに向かう準備をしていて、物資は何が欲しい」と尋ねられて。その人は俺の中で本当に心の支えというか人生の目標で、その人からそう言われた時に、スプレー缶が欲しいということを言って、そしたら物資と一緒にスプレー缶を持ってきてくれて。避難所であった時はすごく力が抜けたのを覚えていますね。最初にハグしてくれて、その人が着ていたジャンパーをかけてくれて。ハグされて、やっぱり気を張っていたのがホッとしたというか安心感というか、そういうのはすごくあったですね。普段持っていたスプレー缶ですけどすごく重みを感じたのを覚えていますね。スプレー缶なんだけどその奥に見えるその人の思いや背景を余計感じて。一番良い状態で再スタートできたかなと。重みを大事にしなきゃなと言う意味では。


ボンちゃんはこの時の、支援物資のスプレー缶があったから、もう一度グラフィティライターとして、絵を描く気持ちになれたといいます。そして震災の年の秋には、石巻のイベントでライブペイント…描く様子もライブで見せるパフォーマンスをするのですが、これについては、明日のこの時間にお伝えします。

2017年2月9日

2月9日 自主避難者たちのいま4

引き続き、福島第一原発事故によって、自主避難という道を選ばざるを得なかった人たちの「いま」をお伝えします。

福島県による、自主避難者むけ借り上げ住宅の無償提供は来月3月いっぱいで打ち切りとなります。そしてその影響を受ける方の数は、去年10月現在で2万6600人。自主避難者の方々は、自分たちのお金で避難を続けるか、福島の元の町へ戻るか、来月までに決めなければいけない状況です。

そして、「子どものために念のため避難を継続したい」と考えるお母さんたちにとって、もっとも重要なのは、実際の放射線量です。今回お話を伺ったライター吉田千亜さんは、郡山市で 子どもたちの通学路などの放射線量の測定を定期的に続けています。

◆我が子の健康被害は確率では測れない
郡山のお母さんたちと測定させていただいています。打ち切り発表した頃に政府が言っていたのが「もう避難する状況にない」という言葉。ただ実態がそうであるかどうか。状況を見る限りもちろん全体的な数値は下がってきている。放射線の半減期があるので2年後からがくんと落ちている。子どもが生活する環境に関しては行政も真っ先に除染を始めたが、例えば通学路は除染されていなかった。実際に測ってみると未だにホットスポット、局所的な汚染はすごくあちこちに点在している状態で、それは測ってみないと分からない。たまたまマップ化して1秒毎に線量を測定する測定器があるから1歩歩くだけで放射線量が違うことは分かる。モニタリングポストが各所に置いてあって、それがそこ一体の放射線なのかと錯覚してしまう。でも実際はそこから1歩2歩動くだけで違う。全体が高いとはいいませんが子どもが生活する環境では、例えば水の集まる場所、こっちからの水とこっちからの水が流れてきて貯まるようなところは線量が高い所が点々とあって、一緒に測っているお母さんはそれを見つけると行政に報告して対応してもらうというのを繰り返している。本当はあってはいけない汚染があるのは事実。発信はしています。冊子にしたりしているし、SNSやブログで発表しています。元々の理由は被爆をできるだけ避けたいという想い。それは一緒に測定したお母さんも同じ思いで、被害を認定されていない地域でもやっぱり被害はあった。その被害からできるだけ子どもを遠ざけたいという思いなので、例えばもう一つは初期被爆がどれくらいかわからないということがある。当時、きっと線量が高かったであろう時期に子どもを外で水汲みに並ばせてしまったことを公開している方もいて、あの時の被曝量を考えたらもうこれ以上の追加被爆をさせたくないという、とにかく色んな放射線の健康影響は確率で言われるけど、どのお母さんにとっては、自分の子供に何かあったらそれは100%なんですよ。確率では語れない問題で、だからできるだけそれは避けたいという想いで、それは避難している方も私が関わっている住み続けている方も同じ思いなんだと思います。それを周囲に理解されずに責められるというのは本当に辛いと思います。


ライター吉田さんはこうもおっしゃっていました。「自主避難者の方たちは、故郷への愛着を捨てたわけじゃなくて、原発事故さえなければその土地が大好きで暮らしていて、むしろ逃げたことに罪悪感を感じていらっしゃる。でも今は子どものために念のために避難を継続したい。そしていずれは戻りたい。だからこそ“避難”を続けているんだと思います」

★ルポ 母子避難――消されゆく原発事故被害者

2017年2月8日

2月8日 自主避難者たちのいま3

引き続き、福島第一原発事故によって、自主避難という道を選ばざるを得なかった人たちの「いま」をお伝えします。

避難指示は出ていないものの、放射線の影響を考え福島県内/県外へ避難したいわゆる自主避難者。その中で、福島県からの借り上げ住宅で生活している方はおよそ2万6600人に上ると言います。しかし、その借り上げ住宅の無償提供は、今年の今年3月いっぱいで打ち切りに。去年11月時点で、4月以降の住まいが決まっていない方は、2万6600人の7割・およそ1万8000人というアンケート結果が出ています。自主避難者の多くは、夫を地元に残し、母親と子どもで避難する「母子避難」なのですが、この7割という数字は、子どもの将来を考える母親の、ごく普通の意識の現れだと言います。母子避難を取材してきたライター吉田千亜さんに伺いました。

◆避難者を理解してほしい
特にお子さんですよね。例えば子どもが20才まではこっちにいようかな、と決めてらっしゃるお母さんもいる。一律で2017年3月でみなさん引っ越せというのは乱暴だと思う。一人ひとりの違いがある中で、子どものタイミングを見計らって生活を計画していきたいという方が本当に多い。そういう意味では何年スパンで猶予があるならわかりますが、全員一律でここですよとなった場合本当に困る。来年小学校はどこに入れればいいのか分からない。特にお子さんは、周りのお友達から「●●ちゃんは一緒の小学校行くの?」って聞かれても答えられないという話も聞きました。避難直後なんてお子さんにも精神的な負担がかかっている。3回くらい引っ越してようやく今の借り上げ住宅にたどり着いたという方も、お子さんがチックや夜尿症、夜驚症という夜叫んで頭を打ち付けるようなことや爪噛みが始まったり、子ども自身も大変なときをやっと乗り越えて生活しています。

それからもう一つ、この問題は承認の問題だと思う。自分が認められるか認められないかの問題。そこにいていいんだよ、避難してもいいんだよ、ここにいることを周りの人が受け入れる、歓迎するくらいの、支えるようなこと。原発事故ってそういうものだと思う。理解してくれることが重要だと思うんですね。


一方、母子避難というケースでは、収入を得るため地元に残って働く夫・父親も、大変な苦労を続けています。

◆子どもの成長を見られない父親
金曜日の夜に仕事が終わって、そのまま毎週通っているお父さんもいますね。クルマで高速を飛ばして郡山から埼玉県へ。片道2時間半から3時間かかる。それをお仕事で疲れた後に本当に毎週必ず、欠かさず土日は子どもと一緒に寝て。何より往復が肉体に負担だと思うし、でもお父さん自体は、「子どもたちのことを考えるともう少し避難を継続したい、母子避難しているお母さんをサポートする」ということなので、離れ離れは本当に辛いと思う。お父さんが子どもの成長を見られなかったのがかわいそう、と泣かれるお母さんもいる。そういうのを聞かせて頂く度に取り返しのつかない事故だったというのは改めて思うし、本当に二度と会ってはいけないと感じます。そういう方たちの中には自分たちと同じ思いを二度としてほしくないと話す人もいて、ちゃんと考え続けなきゃいけないなと思ったりしますね。


母子避難・・・パパが福島で仕事を続け、ママと子どもは避難先という生活は先ほどのようなケースばかりではないそう。中には、離れ離れの生活が続く中で、夫婦関係・家族関係に亀裂が入ってしまうケースもたくさん聞いていると、吉田さんはおっしゃっていました。

明日も自主避難者の今についてお伝えします。


2017年2月7日

2月7日 自主避難者たちのいま2

引き続き、福島第一原発事故によって、自主避難という道を選ばざるを得なかった人たちの「いま」をお伝えします。

避難指示は出ていないものの、放射線の影響を考え福島県内/県外へ避難したいわゆる自主避難者は、把握できているだけで2万6600人に上ります。特に多いのが、父親は仕事のため地元に残り、母親と子どもだけで避難する「母子避難」です。

こうした方々は、これまで福島県の借り上げ住宅で暮らしていましたが、今年3月いっぱいで、無償提供が打ち切られます。つまり4月以降も避難を続けるなら、「実費」。そうでなければ転居という選択を迫られているわけです。


これが何を意味するのか。母子避難を取材してきたライター吉田千亜さんに伺いました。

◆「また一からはじめないといけない」
こちらで避難してきた方っていうのは、避難の暮らしを6年間積み上げてきている。子どもも同じ。いじめの問題もあったが最初そういうことがあったのを乗り越えてやっとここまで来た、先生がやっと理解してくれたという、精神的負担から始まって立ち直って、やっと慣れてきてここで生活するにはどうしたらいいんだろうと、ようやく考え始めた方もすごく多い。それなのに、また一からはじめるのかという。また再選択を迫られてしまった。これからだと思っていたという方が結構多いんですよね。母子避難の方は特にそうですけど、私がお会いした方は、極端な話8割くらいが不眠や鬱になってしまった、難聴になった、円形脱毛症になった、持病が悪化してしまったと、精神的に追いつめられた方が多い。それは自主避難が周りに理解されにくいから。政府による避難指示がなくて放射能汚染の問題なので共通の認識が得られない。いろんなことを説明しないと相手にわかってもらえないという経験もたくさんしてきている。例えば「なんで避難してきているの」「帰らないの」と聞かれる。それは投げかけた人が悪気がなくても、彼女たちは常にそれを問われ続ける。なぜここに自分がいるのかを常に正当性を問われ続ける。それは辛い。何気ない言葉ならまだよいが攻撃的な言葉を受けることもある。特に避難直後は、避難指示があった方たちは突然家を追い出されたので喪失感を抱えて「帰りたい」と思ってらした。それは当然ですが、区域外避難・自主避難の人たちは放射能汚染を避けたいと避難した「帰りたくない」人たち。帰りたい人と帰りたくない人が一緒の場で話をするとやっぱり上手く合わない。特に避難直後のこの先が見えない状態で、帰りたいのに帰れないという年配の男性から、子どもを守りたいという想いで避難したお母さんが「帰る場所があるやつは帰れ!」と言われてしまったとか。それは1人2人ではなく何人かに聞いてきました。最近はお互いの状況がわかってきているので、そういう軋轢はほとんどない状態かと思う。


強制避難と立場が違うため、自主避難者はなかなか周囲への説明が難しいことが多く、避難先の町でも、精神的な苦痛を感じてきたといいます。例えば、気分転換にカーテンの色を変えただけで、近隣の住民から「賠償金がもらえていいわね」などと言われるケースもあるそうです。

◆自主避難者は「お洒落をしちゃいけない」?
よく言われるのが、「お洒落をしちゃいけないんじゃないかと思う」という話を聞く。避難しているのに贅沢な格好をしているって、本来なら自分らしくいられるのが一番いいのに、避難していることで周りから自分がどう見られているか常に気にしている。着飾ったりしたら「お金をもらっている」と言われちゃうんじゃないか、とか。実際 定期的な賠償をもらっていないことを理解されていないことで、カーテンをひとつ変えただけで「お金があっていいわね」と言われたり、引きこもりになって仕事ができず生活困窮に陥っている方に対して「仕事しなくていいなんて、いいわね」という声がかけられたというケースもあります。


「自主避難」という立場は周囲の理解が進まない、というお話でした。「だったら引っ越してしまえばいいのでは」という風にも考えがちですが、実はそれも難しい状況が続いていました。まず、借り上げ住宅は一度出てしまうと、避難終了とみなされ家賃が発生してしまうこと。また、住民票を福島から移してしまうと、福島の行政サービスが受けられなくなります。そもそも自主避難者も、避難したくてしたわけではないわけです。結果、人に気づかれないようひっそり暮らし、ストレス蓄積する方が多いそう。しかも、この3月でその借り上げ住宅も、なかば強制的に取り上げられてしまうことになります。

明日も、福島からの自主避難者の現状、お伝えします。

2017年2月6日

2月6日 自主避難者たちのいま1

今朝は、福島第一原発事故によって、生活を大きく変えざるを得なかった人たちの「いま」をお伝えします。


お話を伺ったのは吉田千亜さん。原発事故による放射能汚染と向き合う母親たちの取材を続けるライターです。昨年2月には、『ルポ 母子避難ー消されゆく原発事故被害者』という新書も発表。この中で吉田さんは、いわゆる「自主避難者」と呼ばれる母親たちが置かれている状況を伝えています。

自主避難。つまり、政府から避難指示は出ていないものの、放射線の影響を懸念してそこから避難した人たち。いま、こうした人達の生活が、再び大きな岐路に立たされています。

◆借上住宅の打ち切り
「自主避難」という言葉で広まっていますが、実際には原発事故がなければ避難していなかった方たちなので、けして自主的に好き好んで勝手に避難したわけではない。ただ政府による避難の指示がなかったというだけで「自主」とつけられている。別の呼び方だと「避難指示区域害避難者」と呼んでいますが、政府が非難の指示を出す出さないの基準が年間20ミリシーベルトと平時の20倍の基準を設定したんですね。
これは原発事故後に設定されていて、でも20倍というのを許容できないと思った方たちが、子どもを守りたいという想いで避難されている。自主避難の方というのは定期的な賠償をもらっていない方たちなんですね。よく、避難している人=賠償をもらっている という誤解があるが政府の避難指示がなかった地域には定期的な賠償がないので、例えば母子避難で二重生活にかかるお金は全部自分で負担している。お父さんが被災地に残ったまま
母子だけで避難するケースがあるが、その場合は家のローンを払いながらの生活費が2重になる。さらに新しい生活をする中で現地に残ったお父さんが会いに来るための交通費の負担を6年続けているので、ちょっとずつちょっとずつ経済的に逼迫していく中で、これまで災害救助法に基づいて借り上げ住宅は家賃の支払いが無かった。住宅は提供されていて家賃を払わずに済んでいたから避難が続けられていたという方たちが多い。そういう方たちが、2017年3月に今住んでいる住まいを追われるということになる。今回打ち切りになると家賃が発生する。そうすると経済的に逼迫している中で「とどめ」を刺される感じになる。それに対して福島県は、民間賃貸に入居する場合は収入21万円以下の世帯は住宅家賃の支援をすると言っているが、それも結局、1年後までは●●円、2年後までは●●円、それ以降はあげません、という施策なので、根本的な解決にはなっていない。打ち切りの対象は、去年の10月時点で2万6600人いらっしゃる。そのうち11月アンケートで、4月以降の住まいが決まっていない人数が7割。26600人中の7割は18000人ちょっと。18000人規模の方々が、家を出てその先が決まっていない状態。


改めて説明すると、福島県は一昨年「自主避難者の方への、借り上げ住宅の提供を2017年3月で打ち切る」と決定しています。つまり家賃無しで暮らせていた避難先から、3月で出ていくか、自費でまかなうか、選ばなければいけないことになっている。その数が2万6000人。一方、県は、その際の引越し費用・住宅家賃の補助を打ち出していますが、このなかば強制的な決定に、大きな戸惑いを感じている人は少なくないと言います。明日以降は、その戸惑いの理由についてお伝えします。また、2万6600人の自主避難者というのは、あくまで借り上げ住宅の入居者の数。ご実家への避難者や自費で家賃払っている人は勘定されていません。実際にはもっと多くの方が故郷をやむなく離れて暮らしていることも知っておく必要があります。

★吉田千亜さんの著書『ルポ 母子避難 ー消されゆく原発事故被害者』(岩波新書)

2017年2月2日

2月2日 故郷・浪江で「浪江やきそば」再スタート!

2013年、B1グランプリで優勝し、一躍全国にその名が知れ渡った「浪江やきそば」。その故郷が、今なお原発事故による避難指示が続く、福島県浪江町です。

今年4月、町内の一部地域で避難指示が解除されるのを前に、町では昨年11月から「準備宿泊」が始まり、昨年10月末には仮設商店街の「まち・なみ・マルシェ」もオープンしました。その一角にお店を構えたのが「浪江焼麺大国」。お話は「浪江焼麺大国」の麺防長官、浅見公紀さんです。

◆避難指示解除となる前に
こちらは浪江町の仮設商店街ということで、4月に町内の一部地域が避難指示解除となる前に、町民の利便性をはかろうということでできた施設。飲食店4店舗とクリーニング店、コインランドリー、金物屋さん、雑貨屋さんなど10店舗が入っています。そのうちわれわれは「浪江太麺大国」ということで町おこし団体のアンテナショップとして、浪江やきそばはじめ、全国のB1グランプリの公認商品などを取り扱っています。10月28日にオープン。多くの浪江町民の「準備宿泊」が始まったので、そういった準備宿泊の方、あとは除染関係の作業員の方たちが昼ご飯を食べに来てくれたりしています。町民の方が、ここで懐かしい方と会ったり、コミュニティの場としても活用されています。


浪江町でお店を開店、「浪江やきそば」を提供している浅見さん。ご出身は福島市なんだそうですが、震災当時、浪江町で働いていたことが浪江やきそばとの縁を生みました。

◆福島民報から転身
仕事の関係で震災前から浪江町にいて、3月11日の震災を目の当たりにして、翌日からの原子力災害による避難をして、いまに至っている。当時の会社の事務所が役場の裏にあって、地元の新聞社「福島民報」の支局長だった。住所は浪江町にあるので、町民として浪江町の復興に携わりたいと思い、浪江やきそばをやっています。


より浪江町の復興に携わりたい・・・という思いから、新聞社の支局長を辞め「浪江焼麺大国」に参加された浅見さん。ご当地グルメの「浪江やきそば」は、通常の3倍のもある太い麺とうまみたっぷり濃厚なソース、そして豚肉とモヤシだけのシンプルな具が特徴。若者や働く大人の「チカラメシ」として長年、親しまれてきました。震災前はおよそ20店舗が町内で浪江やきそばを提供していましたが、原発事故の影響で全町民避難となり、この6年浪江町からやきそばの香りが途絶えていました。

◆5年8か月ぶりに地元で食べる焼きそばの味
われわれ浪江太麺大国はもともと町おこし団体として、地域活性を目的として、浪江やきそばをツールとして活動を始めました。活動から2-3年目に入ったときに震災が起きて、活動の継続事態が危ぶまれたときもあったが、町おこしをしよう!と頑張ってきたわたしたちだからこそ、震災後も浪江町から発信をしていこうと活動を継続してきました。
5年8か月ぶりに浪江町で浪江やきそばが食べられるというのは、本当にうれしいこと。町民の方々も浪江やきそばが町内で食べられるということで、来ていただいて食べていただけるのは、われわれも一番の喜び。一歩前進だし、これから新たな町づくりをしていく新たなスタートになると思います。われわれが先頭にたって浪江やきそばを提供して、4月に避難指示が解除されたときに、もともと商売をやられていた方たちに「浪江でもできるんだよ、また戻ってきてできるんだよ」という姿を見せることができれば。やきそばを提供される方が町内に戻ってきたら、それが集大成。そのときは、自分たちはまたほかでアンテナショップをやればいい。


◇仮設商店街「まち・なみ・マルシェ」は、浪江町役場のすぐ目の前にオープンしました。現在はまだ夜間の外出が制限されていることから、営業は日中に限られています。

2017年2月1日

2月1日 行健除染ネットワーク

福島県郡山市在住「行健除染(こうけんじょせん)ネットワーク」の代表、鈴木洋平さんは東日本大震災当時、二人のお子さんを、郡山市内の小中学校に通わせていました。原発事故の影響で、当初は郡山市内でも放射線量の数値が高い状態でした。学校や通学路の除染に不安を覚えた鈴木さんは、有志を募って、自らの手で除染活動を開始。また本格的な計測機器を入手して子どもたちの生活空間の放射線量を測り、随時ウェブサイトで公表する活動を始めました。現在は「地域の放射線量を測ってほしい」という依頼に応じてボランティアで測定に出かけています。この日は、全町民避難が続く、富岡町と浪江町に足を運びました。

◆富岡町〜大熊町〜浪江町と、郡山のほうからずっと来て、やはり帰還困難区域と呼ばれる地域については、車の中でも整数(2〜3マイクロシーベルト/毎時)が出るので、まだまだ放射線量は高いなあと。もちろん事故直後に比べれば下がっているが、まだまだ高いというのが実感。一方、ある町の中を測っていたが、除染の進んだ場所は0.1マイクロシーベルト/毎時を下回る数字も出て、除染をするとやはり線量は下がるなあと。逆に通り一本隔てたようなところ、たぶん除染はまだしていないだろうと思われるところでは数字はポーンと跳ね上がる。そういった場所が混在しているのが現在の状態です。

全町民避難が続く富岡町や浪江町でも、今年4月から一部地域の帰還がスタートします。浪江町ではすでに「準備宿泊」を実施。自宅やその周辺の放射線量はいま実際どんな状態なのか測ってほしいという問い合わせもあると言います。

◆「被爆しないにこしたことはない」
現在は学区内を超えて、郡山市全域、福島県内あちこちにも行っているし、福島県外でも放射線量を測ってほしいというリクエストがあればお伺いするようにしている。内容はウェブ上で公開、ほぼ毎日公開している。線量の状況は事故後に比べるとだいぶ変わったと思う。ただ、当時避難されて、いま戻ってこられた方とか、当時は結婚もされてなかった方がいまは結婚して、子どもができたという方は、いざ自分の子どもを目の前にして、放射線による影響などは大丈夫かしらという不安を持つかたも結構いらっしゃる。子どもたちが地べたに手をついて大丈夫なのか、砂遊びをさせていいんだろうかと、困っていらっしゃることもある。やはり年月は経っても、いつでもそういう情報を得ることができる環境はしばらくは必要なんだろうと思っている。
ここまで申し上げていいかどうかですが、いろんな立場の方がいて、専門家の方々もそれぞれ判断をされていて、「大丈夫」という立場、そうでないという立場があるが、双方の立場の方に共通していることは、「被爆しないにこしたことはない」という一点。その原理原則は外さないほうがいいと考えている。無用な被爆はしないという前提に立って教育をしていただくというほうが(保護者としては)受け入れることができるのではないか。またわたくしどものような活動も、本来は「必要ない」と言われたときが、一番状況が元通りに近くなったと言えるんだろうと思うが、それまでの間は続けるんだろうと考えている。


放射線の影響についての考え方は人それぞれ。問題ないと判断して、自由に外遊びをさせる親御さんもいれば、やはり不要な被爆は避けるべきと外遊びや外出を控えるご家庭も。鈴木さんは「非難や批判ではなく、とにかく考えるための情報やデータを提供したい」と活動を続けていらっしゃいます。

「行健除染ネットワーク」のサイト

パーソナリティ 鈴村健一

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