2017年5月31日

5月31日 「たたみかた −福島特集−」3


今週は、雑誌「たたみかた」の編集長、三根かよこさんのインタビューです。
雑誌「たたみかた」は、「30代のための新しい社会文芸誌」。創刊号のテーマは「福島」です。
クリエイターや起業家、哲学者、僧侶と、執筆陣はバラエティ豊か。デジタルメディア「BussFeed Japan」の記者、石戸諭さんは「言葉を探している」というタイトルで編集長の三根さんと対談しています。

◆「あなたはどう思う?」
石戸諭さんの記事は「みんな言葉がないというが、僕は言葉を探さなきゃいけないと思う」とおっしゃっていて。まさにわたしは震災から6年間言葉を探していた。自分が「この件について話す言葉や文脈がない」ということを生まれて初めて経験して、迷って、言葉を探して、編むという活動をして、まさにこの「たたみかた」ができたということがある。石戸さんの「言葉を探している」というのは、「自分が話していることや考えていることは、実は人の言葉ということがありませんか」いう問いでもある。普段自分が話したり、考えたりを話そうとしたとき、誰かの言葉だったり考えだったりに自分が憑依しちゃうことってあると思う。自分の純粋な言葉って意外と少ない。その言葉をわたしも探していきたい。わたしの二つの目から見えているもの、聞いたことしか自分は語れないんだということに立ち返ることの大切さを、まさに石戸さんから教わったこと。

この雑誌で一貫して問いたいことは一つ。それは「あなたはどう思う?」この雑誌に「答え」や「主張」があるわけではなく、主義があるわけでもなく、わたしはわたしの主張しか語れないが、読んでいるあなたはなにを思ったか、なにを考えたかと聞いてみたいというのがあって。世の中でいろいろななことが起こっていると思ったときに、自分がそれをどう見ているのか、心はどんなことを言っているかを聞こうよ、というのがひとつの提案。だから、一人ひとりの言葉を頭からお尻まで全部読んだときに、自分の心の中に沸き立つものや言葉を発見してもらいたいなと思っている。


『LOVE&HOPE』明日も、三根かよこさんのインタビューをお届けします。

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2017年5月30日

5月30日 「たたみかた −福島特集−」2

今週は、雑誌「たたみかた」の編集長、三根かよこさんのインタビューです。

三根さんが創刊した雑誌「たたみかた」のコンセプトは、「30代のための新しい社会文芸誌」。三根さんは、創刊号のテーマに「福島」を選びました。
創刊号の巻頭には、福島県いわき市の小松理虔さんのエッセイを掲載。タイトルは「千円の大トロ」です。

◆「千円の大トロ」
小松理虔さんに関しては、震災から3年ぐらいたったとき、ようやく東北の地にはじめて足を踏み入れたときに迎えてくれた人。小松さんは6年間に渡って、福島だけでなく東京などでも福島のことをずっと語ってこられた方で、すごいこの人の話は安心して聴いてよさそうだな、という兄貴のような人。その方が6年越しで見出した答えが「千円の大トロ」というエッセイに詰まっていると思う。「千円の大トロ」は端的にいうと、福島のことを考えろとか、福島のものを食えとか俺は言わないけど、あなたの日常の足元を問い直してみると福島につながるかもね、ということを伝えているエッセイ。いつも食べているランチとかに福島のコメが入っているかも、電気は福島で作られているかも、というように東京の人が「あ、わたし福島とつながっているかもしれない」と、福島とのつながりを自然に見出すために自分の日常を問い直してみることは誰でもいつでも今日からできること。なので、創刊した雑誌「たたみかた」の巻頭に持ってきたいと思ったエッセイのひとつでした。


また雑誌「たたみかた」には、清水公太さんなどITや医療の分野で東北と関わる、3人の男性の鼎談も掲載。それぞれ出身は福島、横浜、そして千葉。話題は「支援の在り方」や「地域の自立」に及びます。

◆「よそ者だった僕らの視点」
「たたみかた」の中で、「よそ者だった僕らの視点」という鼎談があるが、これはまさに東京から福島や宮城に支援にいった人たちが、なにを思っていたのかを棚卸ししてもらおうかなと思ってたてた企画。誰がを助けたい、とか一丸となってなにかと挑むとき、人は「ひとくくり」になったほうが「団が組みやすい」という側面があるけれ、団になったゆえに、微細な声が見えにくくなってしまうということをこの3人から教わったと思っていて。例えば同じ津波を経験した人たちでも、それぞれの経験は全く違ったもので。それをどう6年間で自分の言葉として落とし込むとか、言葉にさえならないとか、いろんな状態があるというのが見えなくなってしまっている。「一つの地域としてどう考えるのか」という視点と、「地域の中の解像度をより高めたときにどういう声が存在しているのか」を両方見ることが必要なんじゃないか。これが、この3人が経験から語れた言葉なのかなと思いますね。


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2017年5月29日

5月29日 「たたみかた −福島特集−」1

今週は、雑誌「たたみかた」の編集長、三根かよこさんのインタビューです。

三根さんはリクルートで情報誌のディレクターを経験。その後夫とともに出版社を立ち上げました。今回創刊した雑誌「たたみかた」のコンセプトは、「30代のための新しい社会文芸誌」。その創刊号のテーマに選んだのが、福島です。創刊号の表紙には、「福島特集〜ほんとうは、ずっと気になってました。」という文字もあります。ひらがなで「たたみかた」。その雑誌のタイトルに込めた想いとは?


◆福島の当事者性を探っていた
「たたみかた」という雑誌は、わたしが6年間考えていたことを凝縮した雑誌。「たたみかた」という言葉をリスナーの方が聴いたらどういうことをイメージするかなと考えると、「なにかを終わらせる」とか「縮小していく日本」みたいなことをイメージされる方もいるかもしれない。
わたしは「たたみかた」に「方向性」という意味を込めた。「たたみかた」「ひとがなにかをたたむ」というときは、「次の人に気持ちよく使ってもらうためにたたむ」ということもあるのかなと思っていて、(たたみかたにも)いろんなたたみかたがあるのかなと思って、それを個々いろいろ考えていくということをイメージしてつけた名前。
「たたみかた」の創刊号は福島を絶対選びたいと思っていた。自分は福島や東北に全く縁がなくて、あの日東京のビルの37階で地震を経験して、歩いてなんとか家までたどり着いたという経験があるが、この6年間自分の当事者性というものをずっと探っていた。「福島の当事者」というと、福島になんらかの関わりがある人が、直接的な当事者としてわかりやすくあると思うが、わたしたち東京とか全然違うエリアに住んでいたとしても、福島に対して当事者性を持ちたいという願いをずっと抱いていた。その「とっかかり」というのがなくて、どうしたら福島に自分が当事者性を持てるのかを考えていたので、創刊号では絶対福島特集をつくり、福島とのつながりを見いだせたらと思っていた。


今回の福島特集では福島の人はほとんどでてこない。福島の方は(「うみラボ」の)小松理虔さんくらい。福島の人があまり出てき過ぎてしまうと、東京にいる人たちはそこに対して同じような経験や景色を見ていないと思って、距離を感じてしまうのではと感じた。そこで、今回も人選としては「福島で活動しています」「福島に移住しました、住んでいます」という人はあえて避けて、福島になんらかつながる、示唆のある話をしている、というような内容になっている。

三根かよこさん。30歳の女性編集長が創刊した雑誌「たたみかた」。
以前この番組でご紹介した「いわき海洋調べ隊・うみラボ」の小松理虔さんほか、福島を取材する記者やクリエーター、起業家、哲学者など、多彩な顔ぶれが登場。それぞれの想いについては、明日以降お伝えします。


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2017年5月26日

5月26日 物理学者・早野龍五さんが考える「福島と放射線のいま」?

ひきつづき、福島における放射線の「いま」について、東京大学名誉教授 早野龍五さんのお話しです。


早野さんは2011年の福島第一原発の事故直後から、ツイッターで放射線に関する情報を発信、現在も福島の放射線に関するデータを分析し、科学的根拠に基づく情報を伝えている方です。水曜日から福島の放射線量の現状、そして福島で生活する人たちの「不安」について伺ってきましたが、最後は、この春、避難指示が解除された地域に関する早野さんの見解です。

◆避難指示解除を受けて
この春にかなりの地域で避難指示解除が出されまして、待ち望んで帰還する方もいますしこれから帰ることを検討する方もいると思います。政府の基準としては〔年に20ミリシーベルトを超えないこと〕というのが基準になっていますが、まず第一に避難指示解除をされたような地域は、今戻って最初の年に20ミリシーベルトになるような地域な無いと断言できます。1ミリシーベルトは超えるかもしれない、あるいは5ミリシーベルトは行く方があるかもしれない。だけれどもちょっと注意して暮らすと2ミリシーベルトくらいに収まるかなという相場観ではあります。食べ物についてはよほど極端な食生活、常に山の中に入って食べるというような食生活をしなければ、食べ物によって目立つ内部被ばくをすることは無いと分かっています。まずは個人線量計を持ってどのくらいの生活をすればどのくらいの線量になるのか。それは本当はあそこまで行きたいんだけどちょっと我慢しているからこれくらいなのか、それとも自分が行きたいところまで全部行ってもその程度なのかをだんだんにわかっていく、そういうプロセスが必要なのではないかと思いますね。


この、年間被ばく線量をどこまで許容するかについては、いまも様々な意見があります。本当に安全なのか。そして安心できる状態なのか。この「安全と安心」の違いについて、早野さんの考えを伺いました。

◆安心と安全
よく「安心と安全は違う」と言われる。私はやっぱり安心と安全は違うと思います。科学をやって来た人間で測定をする、正しく測る、データを積み上げる、それによって十分に安全かどうかの判断をするための資料を積み上げてきた。それに基づいて個人的に私が判断すれば、いま福島に住むことは「安全である」と私は言います。ただしそのデータを見て納得されるかどうか、それは個人個人の問題で、多くの方は必ずしも納得はされない。「科学の問題としてはそうなんでしょうけど、やはり・・・」のあとに様々なことが続くと思うんですよ。政府の対応に対する不信、東電に対する不信であったり、私も含めた専門家という方々への不信であったり。それから、「そうはいってもなんとなく気持ち悪い」という。例えば私がよく2011年ごろに言われたのが、“入れ歯をトイレに落としたとしなさい”と。“それを良く洗いました”と。十分に消毒もしたし。だから口の中に戻すかというとなんとなく戻しにくい。そこのところが科学だけでは割り切れない様々な問題があるんだろうと思いますし、それを科学だけで押し切るわけにはいかないなとは思っています。


震災から6年2カ月を経た、福島第一原発近隣町村の現状。
今回、水曜日からの3日間の放送をお聴きになって、あなたは何を感じましたか? 番組あてにご意見を頂きたいと思います。このブログのメッセージフォームまで、ぜひあなたのご意見、送ってください。メッセージを送ってくれた方の中から抽選で5名様に、3000円分の図書カードをお送りします。

2017年5月25日

5月25日 物理学者・早野龍五さんが考える「福島と放射線のいま」?

今朝はきのうにつづき、福島と放射線の「いま」です。

お話を伺ったのは、東京大学名誉教授 早野龍五さん。2011年の福島第一原発の事故直後から、ツイッターで放射線に関する情報を発信、現在も福島の放射線に関するデータを分析し、科学的根拠に基づく情報を伝えている方です。

早野さんはこれまで、行政に直接かけあって、福島の学校給食の線量計測を実現したり、「ベイビースキャン」という子どものためのホールボディカウンターを製作するなど 継続的に活動をしています。そして、活動の中で感じたのが、「福島の若い世代」が正しい知識をいかに持つか、ということでした。

◆福島の若者の将来を見据えて
福島の高校生、主には県立福島高校の高校生とのお付き合いで、2013年の終わりくらいからずっと継続しています。今までやったことで一番大きかったのは、「世界の高校生の外部被ばく比較プロジェクト」というのをやったことです。これは福島県内の6つの高校、県外6つの高校、海外ではフランス、ポーランド、ベラルーシの高校生200人以上の高校生に外部被ばく線量計を持ってもらって、かつ自分が毎日、何時にどこにいたかの記録をつけてもらった。それを回収して高校生たちがデータ分析をして、私の指導のもとに論文を書く。最後はイギリスの放射線防護の専門雑誌に採択されて論文として世に出たのが2015年の12月くらいですかね。結果は福島の高校生たちの外部被ばく線量というのは世界と比べても特に高くないと。もちろん福島は事故由来のガンマ線も浴びていますが元々の自然放射線というのも浴びている。他のところは事故由来の放射線は無くて自然放射線を浴びている。比べたところ福島は事故による上乗せがあるにも関わらず、トータルとして浴びている外部被ばくの線量というのは世界各地と比べて高くない。いちばん高かったのはフランスのコルシカ島の高校生。これは現地に花崗岩がむき出しになっていて自然放射線が高いからということが分かっています。どういう狙いでやっているかというと、いちばんはやはり不幸にして起きてしまった福島の事故で自分の周りに放射線があるという環境で暮らす中で、その環境を自分で測って自分でよく理解し、自分たちがここで暮らしていって大丈夫なのか、あるいはここで育ったことによって将来結婚するようなときに自分の子どもに放射線の影響があるのかどうか心配する必要があるのかないのか、自分で調べて自分で納得していくということがとても大事だと思ってやっています。


早野さんは、これまでのデータ分析や知見から、
「居住が許されているところに住む限り、世界の自然放射線に比べて、福島が放射線が特に高いことは無いことが分かっている」「遺伝的な影響が及ぶことがないことも多くの論文で知られている」としたうえで、それでも、不安を感じている人は多いという事実、福島の若い世代が他の地域で差別や偏見をうけることは絶対にあってはならないという思いから、学生たちが知識を身につけるためのプロジェクトを実施したということです。

あしたも早野さんによる、福島と放射線の「いま」をお伝えします。

2017年5月24日

5月24日 物理学者・早野龍五さんが考える「福島と放射線のいま」?

きょうから3日間は、福島における放射線問題の「いま」を取り上げます。

お話を伺ったのは、東京大学名誉教授 早野龍五さん。

2011年の福島第一原発の事故直後から、ツイッターで放射線に関する情報を発信、現在も福島の放射線に関するデータを分析し、科学的根拠に基づく情報を伝えている方です。物理学者で、放射線の知識も備えた早野さんのツイートは、事故直後、人々が最も知りたい裏付けのある情報だったことで、フォロワー数は震災前の3000人から、一時は15万人以上にまで広がりました。

早野さんのこれまでの取り組み、そして福島の「いま」を伺いました。

◆「水道水を飲んでも大丈夫か」は未だ変わらない
本職は東大で物理を教えて、原子核や素粒子、原子物理の研究の実験グループ、国際チームを率いるということを20年間やってきました。放射線を測り可視化することについては知識も技術もあったので最初はそういうところから取り組んでいきました。主にはツイッターで様々な情報を提供する。それをグラフにしたり可視化をしてみなさんにシェアをする、最初はそういう取り組みでした。徐々に「内部被ばくが心配だ」とツイッターでお母さんたちが言っているのが見えてきて、2011年の夏くらいですね。それなら給食を測ればどれくらい汚染された食品を食べているかが分かるのではないかということで給食を測りましょうと最初は文部科学省に提案しました。文科省はそれをとりあげなかったので、副大臣のトコロへ行ってやりませんかと説得して、国の事業として始めるということを2011年の夏くらいからスタートしました。そうこうしているうちに福島の医療現場、お医者さんたちから「助けてください、一緒にやりましょう」というメールが来るようになって、2011年秋くらいから一緒に福島の現場で内部被ばく、そして徐々に外部被ばくのことにも手を伸ばすようになって活動は現在まで続いています。2013年にベイビースキャンという内部被ばくを測る子供専用の装置を作りました。それを福島県内に3台(南相馬、いわき、平田村)に設置しました。ちょうど福島第一原発を取り囲むように3台あります。それを作った意味というのは、図ることの重要さ以上に、心配しておられるお母さんお父さんがお子さんを連れて来た時に、お話をする場所として作りました。来て頂いた方には結果の説明の時にもいろいろな質問を受けるようにしています。その中でいまだに一番多い質問は「水道の水を飲んでも大丈夫ですか」「子どもを外で遊ばせても大丈夫ですか」。これは2014年からベイビースキャンが稼働していますが、ほとんど変わらずその二つに尽きる。それは2011年に子育て世代の方々がなさっていた質問と変わらないんですよね。だから2011年から今までの間に人々のリテラシが変化した部分はあるんだけれども、根強く不安がそのまま残っている部分もあるんだなということを思います。



早野さんは、科学者としての社会的責任から、自分の持つ知識を還元しようと原発事故直後に、ツイートによる情報発信を始めたといいます。そして今も福島と向き合う中で感じるのが「福島の人たちの根強い不安はまだ残っている」という事実。みなさんはどう考えますか。

明日、明後日も早野さんによる、福島と放射線の「いま」をお伝えします。

2017年5月23日

5月23日 LINEの災害時の活用法?

きのうに引き続き、災害時のLINEの活用方法です。

・LINEの「グループ」を緊急時の連絡網に使う
・「ノート機能」で大事な情報を保存する。
・「位置情報機能」で自分のいる場所を周りに伝える。

きのうはこうした機能をお伝えしましたが、これらはすでに、実際の災害現場でされています。去年の熊本地震における事例を伺いました。


※LINE株式会社 公共政策室 兼保圭介さん

◆「普段使い」していることが大切
熊本地震の時にはLINEでのトークが通常時の2倍くらいに増えました。NPOやNGO、災害医療チームの間の連絡ツールだったり、現地の役所の中での情報共有ツールとしても使われたと聞いていて、例えば電話で言葉ではなかなか伝えきれない状況をスマホで写真を撮ってLINEでみんなに送るということで状況がすぐにわかるという使い方もされていました。職場の中で自然発生的にできているグループの中で各自が情報を持ち寄って次にどうしたらよいかをやり取りするのに役に立ったと聞いています。役場に来る前に、避難所に行けと指示が出る前にLINEのグループの中である程度の情報が出そろうんです。それで自分の空いている時間にそれを全部確認すれば現地に行った時にレクレーションを受けなくても動き出すことができる。先ほど申し上げましたが、●●課の中でグループを普段から作ってらっしゃるんです。そういう普段使いの中で普段のコミュニケーションをしているから、いざという時にそのコミュニティが役に立つんです。災害時のツールって少し特別なものになってしまうのでいざという時に使い慣れていないとか、いざという時に思い出せないということがありますけど、LINEは普段から使えるツールなので、位置情報やノート機能などを普段から使っておくということが必要だと思います。


つまり、普段から使っているSNSを使うのが良いわけです。Facebookしか使わない人やインスタグラムの人もいると思いますが、大事なのは、それぞれ普段使っていて、災害時に簡単に操作ができるということ。LINEとしても、「それぞれ補完しあって使えばよい」という考え方だそうです。

そしてLINEでは熊本市との連携もはじめています。

◆自治体との連携も
熊本市とは情報活用に関する連絡協定を締結しました。4月に熊本市で防災訓練があり、LINEを使った防災訓練というのをやって頂きました。それは職員の方がLINEを使って安否確認をして上司に報告、市長まで報告するという使い方をされていましたね。2011年の東日本大震災をきっかけに機能を作りましたけど、その後の大規模な災害はやはり熊本だったと思うので、LINEを使って本当にどう活用したのかは協定を結んで色んな情報を頂きながらサービスに活かしていきたいし、気づいていなかったであろう機能をこちらからお伝えしていきたいと思っています。
                                          

改めてですが、あなたの環境に応じて、LINEに限らずFacebookやインスタグラム、ツイッターなど災害時の使い方をチェックしておく。自分が普段使っているものが災害時も使いやすいはずです。スマホをもたない方。電話会社の災害用伝言版や、電話番号171の災害伝言ダイヤルなどもあります。

今後、番組ではTwitterやFacebookの活用法も、お伝えする予定です。

2017年5月22日

5月22日 LINEの災害時の活用法

今朝は、多くの方が使っているスマホのSNSアプリ、「LINE」の話題です。
LINEには、災害に見舞われた時に役立つ機能 があります。でも、意外と知らない方も多いかもしれません。
そもそも、LINEというアプリが生まれたきっかけ、ご存知でしょうか。実はあの大災害がきっかけだったんです。
LINE株式会社 公共政策室の兼保圭介さんに伺いました。



◆「既読」が生まれた理由
2011年3月の東日本大震災で、特に家族や友人、身近な人に自分が無事だと伝えたり家族の無事を伝えることがなかなか難しかったんですね。電話やメール、色んなツールがありますがどれも使いずらい。そういう中でもう少し自分の大切な人たちと密にコミュニケーションを取れるものが必要だなということで、そこから3か月というスピードでLINEを作りました。当初のLINEはまず大切な人と繋がることを大事にしたので、友達や友人家族と繋がる工夫を色々しました。それからテキストのメッセージ、写真や動画を気軽に送れるインターフェースを目指しました。それからメールやTwitterだと相手が見たかどうかが分からないという経験から、相手が確認したら「既読」がつくような特徴を持たせてみました。こちらからメッセージを送っても相手が今は返信できない状態かもしれない。そういう時でも「既読」がつけば簡単な安否、彼は彼女は無事なんだということが確認できるように「既読」を作りました。それからスタンプは表情があるものが多い。スタンプ一つでコミュニケーションができる。ですので災害時など多くの文字が送れないときにスタンプ一つで相手に返信ができたり、トークの中で自分の位置をあげられるとか、トークで情報が流れないように「ノート」という保存できる機能を作っています。


おさらいすると・・・
・LINEを使っている方は、だいたい「グループ」を作っているはず。家族・友達・職場など。これはそのまま緊急時の連絡網で使えます。一部学校や地域では保護者同士などの連絡網を作ってるそうです。
・グループの画面で指を左に滑らせると「ノート」機能。ここに避難場所など大切な情報を保存できます。
・「位置情報」をタップすれば、自分の居場所をトーク画面で伝えることもできます。

そしてLINEでは今年の3月から、新しい機能が追加されています。LINE災害連絡サービスです。

◆自動的に安否を知らせる機能
LINE災害連絡サービスはLINEで繋がっている友達や家族に自分の状況を知らせるための機能です。これは大規模災害が発生した時に自分のLINEにメッセージが届きます。そのメッセージには「被害があります」「無事です」「被害地域にいません」という3つの選択肢が表示されて、それに近しい自分のステータスを選択して自分のタイムラインに投稿して自分の友だちや仲間に知らせるという機能です。これも被災地の人たちの声で、知り合いや知人、家族から「無事かどうか」と安否を確認されることが多いと。それに応答しているだけですごく時間がかかってしまうので、大切な人に繋がっているLINEであればそこで無事だと知らせておけば、わざわざ確認しなくても自分が無事だと確認してもらえるだろうと。そういうつもりで作りました。


この「LINE災害連絡サービス」これは、特に設定が必要なものではありません。大規模な災害があると、自動的に自分のLINEに安否確認メッセージが届き、周りに知らせることができるということです。

ちなみにLINEはじめスマホのSNSアプリのメリットは、
簡単に言えば「電話回線がつながらなくてもネットに繋がれば使える」。そして「電話がつながり“にくくても”情報をやりとりしやすい」ことです。
ぜひあなたの環境に応じて、LINEに限らずFacebookやインスタグラム、電話会社の災害用伝言版、電話番号171の災害伝言ダイヤルなど活用しやすいものを利用しましょう。

★LINE公式ブログ「災害時に役立つLINEの活用方法」


2017年5月19日

5月19日 震災の記録絵本「なべになった鐘」


今朝は、宮城県石巻市長面を舞台にした、ある絵本についてお届けします。
先日、『LOVE & HOPE』宛てに一通の手紙と「絵本」が届きました。差出人は石巻市の堀込亘さん。堀込さんは、お母さんの光子さんと共同で、「なべになった鐘」という絵本を自費出版。遠のく震災の記憶を後世に語り継ごうと活動されています。

石巻市長面は、南三陸国定公園の一部で、長面湾という静かな入り江に面した自然豊かな集落。そのほとんどが海抜0メートルで、しかも東日本大震災で1メートル以上も地盤沈下。集落を飲み込んだ津波によって全住民504人のうち、死者・行方不明者は、108人にのぼりました。この時、山に避難した人たちは寒さと空腹をしのぐために、お寺の鐘を鍋がわりにしておかゆを作り、救助が来るまでの3日間を過ごしました。
6年前にあったこの実話を描いたのが「なべになった鐘」。今朝は作者のお一人、堀込亘さんに電話でお話伺います。


なおこの本の収益は、東日本大震災の震災遺児のために寄付されるということです。
詳しくはコチラをご覧ください。

2017年5月18日

5月18日 2020年・聖火トーチを福島から3

引き続き、2020年東京オリンピックでの採用を目指し「聖火トーチ」の開発を続けるメーカーのインタビューです。

1964年の、あの東京オリンピックのトーチを製作し、2020年も採用を目指している火薬メーカー・日本工機。
その工場は、福島県・西白河郡にあり、東日本大震災では工場の一部が大きな被害を受け、さらに福島第一原発の事故による、除染も経験しました。

復興のシンボルとして、福島で作られた聖火トーチを2020年の大舞台に使って欲しい。日本工機 白河工場の工場長 佐藤公之さんは、その思いが、日に日に強まっていくのを感じています。

◆当然採用されると思われています(笑)
社員は当然なんですが、64年の聖火トーチの開発に携わった方、すでに退職された方からのエールがすごく強かったですね。ぜひ採用して欲しい、採用に向けて活動しろというエールが多かったですね。それと福島県知事が当社を訪問して、ぜひ採用へ向けて頑張ろうと後押ししてくれたのも頑張ろうという気持ちを強めることになった一つですね。実は我々のアピールが足りないのかわからないのですが、福島県の企業で聖火トーチを作っているということを知っている人があまりいなかったというのがありました。今はもうすごいですね。当然使われるものだということで言ってきていますが・・・ハードルは高いですよね(笑)


採用されてほしい〜と思いますが、実際はまだ「全く分からない」のが本音だと、佐藤さんおっしゃっていました。ちなみに日本工機以外にも、いくつか聖火トーチの採用を目指している企業・団体があるそうで、とにかく、「いまはちゃんとしたものを作って、待つしかない」ようです。

◆復興への感謝を伝えたい
64年の東京オリンピックで使われたトーチの特徴というのが、雨にも風にも絶対に消えないトーチであるということと、明るいオレンジの光、白いたなびく煙が特徴でした。白い煙というのは当時はランナーの走っている場所がひと目で分かるというコンセプトで採用されたのですが、近年は開会式の時間帯が夜間になっているということと、最近は「クリーン」というイメージがあるので煙は煙たがられる、あまり良く思われないんですね。ですから今開発しているのは煙が少ないもの。ただ最終的に組織委員会でコンセプトが決められて、それを元に、作る業者を指名をすることになると思うんですが、まだコンセプトが決まっていないということなので、まだ状況としては横一線だと思いますね。やるだけやるしかないので、我々の今の開発しているものが順調に完成品になること。あとは待つだけですね。ただ、福島の復興に協力していただいた方に対する感謝の気持ちを伝えるということと、オリンピックの当日にまだ避難している方がいるかも知れませんが、その方たちに対しての勇気も与えられるかなと思いますね。


ちなみに、日本工機は地元の小学校の運動会なんかに、聖火トーチを提供したりしているそうです。
もし、そのトーチが五輪で採用されたら、子どもたちに大きな夢を与えることができそうです!!

2017年5月17日

5月17日 2020年・聖火トーチを福島から2

きのうに引き続き、2020年東京オリンピックでの採用を目指し「聖火トーチ」の開発を続けるメーカーのインタビューです。

1964年の、あの東京オリンピックのトーチを製作し、2020年も採用を目指している火薬メーカー・日本工機。その工場は、福島県・西白河郡にあります。

そしてこの工場、6年前の東日本大震災では、一時、稼働停止に追い込まれたといいます。当時について、日本工機 白河工場の工場長 佐藤公之(まさゆき)さんはこう振り返ります。

◆震度6強の地震
震度6強というかなり強い揺れに見舞われまして、工場も道路の陥没があり、建屋は300棟以上あるのですが大きな被害を受けたのはそのうち22棟。電気はかろうじて落ちなかったんですが水が一切出ない大変な状況になりました。私は当時技術部にいて会議中に震災にあったと。従業員を安全な場所に誘導すること、そして当然ながら地震対策委員会は招集されていたので、どうするか会議をしました。地震の復旧だけなら良かったんですが、原発事故の影響が出ました。復旧に必要な重機の燃料、必要な資材が全く入ってこない。福島県に入ってこない。それを運ぶタンクローリーなどは福島県を迂回して別の県に行ってしまう状況で、復旧が殆どできませんでした。ただ指を加えてみているわけには行かなかったので、県外の協力会社のご好意で燃料を確保し、市内の工事業者さんもガソリンや経由がないということなので燃料を分けてあげて工事をやってもらって、なんとか6月いっぱいで全面操業開始となりました。原発事故があって浜通り、沿岸の方々が大変だという話になり、当社の従業員にも沿岸部に家がある人がいたものですから、当社の寮に避難させました。原発から80キロ圏内です。直接放射能を浴びるということではなく、一旦北上したものが南下してきた。ですから爆発してから1日、2日遅れて白河市の線量が上がったと。通常は100分の1以下ですが、当時は7〜11マイクロシーベルトまで上がりました。当社は80万坪という広大な敷地があるので除染は2年間まるまるかかり、全て基準値以内に線量は収まっているという状況ですね。


そして、この経験から2年後の2013年、東京に、再びオリンピックがやってくることが決定。このニュースを佐藤工場長は、どんな想いで受け止めたのでしょうか。

◆復興のシンボルとして聖火トーチを!
これには、色々な思いがありますが、2011年の大震災に見舞われて、福島の復興のシンボルとして聖火トーチを世の中にぜひ出したい、という強い気持ちになりましたね。


あしたも日本工機 佐藤工場長のインタビューです。

2017年5月16日

5月16日 2020年・聖火トーチを福島から1

今朝は2020年へ向け、大きな目標を掲げる、福島県 西白河郡の、「ある工場」に注目します。

「日本工機」という会社です。本社は東京ですが工場は古くから福島県白河市にあります。火薬の製造メーカーで、あの小惑星探査機「はやぶさ2」にもこの会社の技術が採用されているそう。そしてこの会社はいま、2020年東京オリンピックで聖火ランナーが持つ、あの「聖火トーチ」の採用を目指し開発を続けているんです。

実は日本工機は、1964年の東京オリンピックの聖火トーチを製造した会社でもあります。

今回は特別にお貸し頂きまして、スタジオにその「本物の」トーチがやってきました!持ち手の柄の部分には「OLYMPIAD TOKYO 1964」の刻印が!感動!!

その当時について、日本工機 白河製造所の所長・佐藤公之(まさゆき)さんに伺いました。

◆64年東京五輪の聖火トーチを製造
昭和33年、東京で第三回アジア大会が開催されたんですね。そこで当社の聖火トーチが採用されました。それが当社のトーチが初めて世の中に出たんです。その採用実績を評価されて、オリンピックが東京で開催されると決まった翌年の昭和35年に五輪組織委員会から製造してほしいとの申し出がありました。当社は元々火薬の製造メーカーですので、発煙筒や煙・光を出すものは製品として出していたので、それもあって採用されたんだと思います。(当時の)組織委員会からは「雨にも風にも絶対に消えないトーチを作れ」という命題を与えられたと聞いています。私は8才だったんですね。白河市に聖火トーチのリレーが通った時も間近に見ています。世紀のイベントで、その中で聖火トーチのリレーはオリンピックを華やかにするシンボルだと思うので、それを納めている会社というのは鼻高々というか、誇らしいと思いましたね。


ちなみに日本工機の聖火トーチはその後、1972年札幌、84年のサラエボの冬のオリンピックでも採用されています。そしていま。2020年に再びやってくる東京大会での聖火リレーへ向けて日本工機は新たなトーチの開発をしています。

◆復興のシンボルとして
1964年、戦後復興のシンボルとして我々の作ったトーチが使われたということですが、2011年の東日本大震災からの復興のシンボルとして、ぜひ福島県で作ったトーチを使っていただきたいという気持ちにはなりましたね。


LOVE&HOPE、明日も聖火トーチ採用を目指す日本工機についてお伝えします。

2017年5月12日

5月12日 相馬・大槌の子供たちで結成 オーケストラ

今朝は、福島県相馬市、そして岩手県大槌町の子どもたちで結成されたオーケストラが行なったコンサートの話題です。

4月29日、東京・渋谷の「大和田さくらホール」で行われた「“エル・システマジャパン”オーケストラフェスティバル2017」での「相馬子どもオーケストラ」「大槌子どもオーケストラ」などによる演奏、モーツァルトの「ディヴェルティメント」。「エル・システマジャパン」は、約40年前にベネズエラで始まった教育プログラム、貧しい家庭の子供たちにも等しく音楽教育を・・・という「エル・システマ」の理念に基づいて、東日本大震災後の2012年に設立され音楽を通じて被災地の子どもたちの成長を支えていこうというプロジェクトです。これまでもその成果は国内外で披露されてきましたが、今年もお聴きの通り、堂々の演奏が奏でられました。

代表理事の菊川穣さんに、この5年の手ごたえについて伺いました。

◆最初の頃はですね、震災から1年でとくに福島は原発事故の影響が強くて、人によっては「ここに居ていいのか」ですとか、ひじょうに重い雰囲気がありましたね。そして子どももその頃に外遊びをするなと言われていて、でも小っちゃい子なんかは遊びたいじゃないですか。だから覚えてますが一人の子なんかは(お母さんから聞いたんですが)、帰ってくるときにふつうに帰ってくるんだけど、ようは外で遊んでた服を家から少し離れたところに捨ててくると。着替えて帰ってくる、汚れてたら怒られるから着替えを持って行って・・・だからなんか服が減ってると思ったら捨ててある、みたいな。そんなことがあった中で言われたのは、音楽の活動はインドアだからいいと。でインドアでみんなで出来るし、みんなでやるというのはそれだけで楽しい、とくに合奏して合わせるなんていうのはそれだけで誰でも経験があると思いますが楽しいんですよね。しかも地域のつながりが薄くなってる中で、こういうオーケストラ、合唱の場で集まって、新しい友達も出来るみたいな、そういう子どもたちが塞ぎこむ要因が多い中で希望になるような場だったんじゃないかなというのは感じますね。

そして今年4月のフェスティバルでは、相馬と大槌の子どもたち、さらにこれまでプロジェクトを支えてきたボランティアたちによって結成された「フェローオーケストラ」なども加わって演奏が披露されました。今年の大一番の舞台、どうだったんでしょうか?

◆そうですねやはりなかなか不安が・・・。とうぜんですけどそれはそれなりに準備は出来ている、ただ子供たちは多様ですので、相馬にしても大槌にしてもいわゆるオーケストラとかバイオリンをやっているという世間一般のイメージとは程遠いワイルドな子もいます。で、いかんせんそこがみんな心配な部分だったんですね。ただエルシステマの理念というは誰もが同じステージに立って音楽を共有できるということなので、今回、相馬大槌から子供たちが一緒に参加して曲を演奏するという、それはやっぱり子供もそうですし保護者の方が喜んでおられたのが印象深かったと思います。それ以外にもすごくみんな一生懸命頑張ったと思います。集中力途切れずですね、一体感がすべて音に出てたんじゃないかなと思いますね。

M パッヘルベル : カノン ニ長調                                        

お届けしたのは、浅岡洋平・指揮、「大槌子どもオーケストラ」、「相馬子どもオーケストラ」、そして「フェローオーケストラ」と「Hands On オーケストラ」による、パッヘルベルの「カノン」でした。

じつはこの“エル・システマジャパン”、去年は相馬の子どもオーケストラがドイツに渡ってあの“ベルリンフィル”との共演を果たしているんです。次回、来週月曜日の『LOVE & HOPE』では、その時の秘蔵音源をお届けします。お聴き逃しなく!

2017年5月11日

5月11日 3.11後の霊体験を聞く(4)

ノンフィクション作家、奥野修司さんの著書「魂でもいいから、そばにいて 3.11後の霊体験を聞く」。この本は、奥野さんが東北の被災地で聴きとった、いわゆる「霊体験」をまとめた一冊です。

今回この本に綴られているのは16のエピソード。でも、同じような霊体験を経験しながら、人に語ることができずにいる人がまだまだたくさんいると奥野さんは話します。

◆霊体験を語ることが心の復興のきっかけになれば
いま復興というと、街が復興するとか道路が復興するということに重ねてしまうが、心の復興というのもある。心の復興というときに、家族や親しい方を失くしていない方は心の復興が比較的時間とともにできると思う。でも大切な人を失くした方は永遠に戻ってこないわけだから、永遠に復興できない。でもどこかで折り合いをつけられるはず。折り合いをつけられるような場所もきっかけもないまま、ましてや自分が霊体験をしたということを誰にも聞いてもらえないまま、悲しみと一緒に抱え込んで生きているという状態。せめて、家族を失った方たちが集まって話ができる場を設定するとかができればいいと思います。いま陸前高田で「拝み様」「霊媒師」的な方で、震災をきっかけに霊感が強くなったという女性が何人かいて、そういう方たちはいままでの「拝み様」とは違い、亡くなった方の魂を降ろしてくるのではなく、子どもたちを津波で亡くした方への集団カウンセリングを行っています。本当はそういう場所があちこちにあればすごくいいと思うのですが、それがないまま、霊体験をしながらそれを誰にも語れず悲しみだけが積もっていくという方がすごくたくさんいると思うんです。
実は僕が取材をお願いして、霊体験の聞き取りを予約したままになっている方が4人ぐらいいるんです。その方たちはまだ語ってくれていない。結局本の出版の締め切りに間に合わなかった。なぜ間に合わなかったかといえば、今回この本で紹介した方たちは、二人お子さんがいたら一人は助かっているとか、家族の誰かは助かっているとか、生き残った家族が生きる支えになっている方たち。だけど、僕が約束して結局語ってくれなかった方というのは、家族を全部失くしてしまっている。ご主人も子どもも全部。生きる支えがないものだから、どこかで喋ると全部それが崩れていしまうという恐怖感があるんだと思う。霊体験を体験した人が喋れないというのは、東北でもすごく多いんじゃないかと思う。それを認める社会になれば、と感じています。


奥野さんの著書「魂でもいいから、そばにて 3.11後(さんてんいちいちご)の霊体験を聞く」は新潮社から発売中です。こちらは、2012年から昨年まで4年をかけて、およそ30人の方に「霊体験」の聞き取りを行いその一部が収められています。

2017年5月10日

5月10日 3.11後の霊体験を聞く(3)

今週はノンフィクション作家、奥野修司さんのインタビューです。
奥野さんの著書「魂でもいいから、そばにいて 3.11後霊体験を聞く」 この本は、奥野さんが東北の被災地で聴きとった、いわゆる「霊体験」をまとめた一冊。
「津波で亡くなった兄からメールが届いた・・」
「亡くなったはずの息子のおもちゃが突然動き出した・・」
こういった、まさに不思議としか言いようのない霊体験が16エピソード綴られています。奥野さんが聞き取りをして感じたのは、亡くなった家族の霊体験を通じて語り手の皆さんが「生きる希望を得ている」ということでした。

◆「側にいてくれるあの子の魂のために」
最初はインタビューは1時間ということでお約束するが、1時間で終わることはまずありませんでした。いやいや語るのかなと思っていたら、そうではなくて、実は会ってみたら語りたくてしょうがないというか、霊体験だけじゃなく、霊体験にまつわる話を聞いてもらいたい、という感じでした。例えば亡くなったお子さんの話だったら、子どもとどんなことがあったかとか、生きているときはどんなだったかなど永遠と話をして、そして「その子が出てきてくれたのよ」とう感じ。また、ほとんどが一番落ち込んでいるときじゃなくて、一番どん底に行ってからちょっと頑張ろうかなという気持ちになったときに出てきてくれる、というケースが多かった。どん底のときに出てきたらたぶんお母さんは死んじゃうんじゃないか、ちょっと頑張ろうという気持ちになったときに出てきたのは、子どもが子どもなりにお母さんを励まそうとしているんだと、とかいろいろな意味づけも語ってくれる。語り始めると止まらないですね。
決してつらいというのではなく、霊体験をすることで「亡くなった家族がそばにいる」という気持ちになる。皆さん、津波に対しては不可抗力だが、特にお子さんを失くした方がそうなんだけど、後悔がずっと続いているんです。それが2年経ったから、3年経ったから時間で癒されるというものではなく、永遠に続いていくものだと思います。後悔は続いていく。それが亡くなった方がそばにいてくれるのなら、自分が頑張らないとどうするんだ、と。自分が頑張る姿を見れば、あの子も喜んでいてくれるはずだ、という感覚になる。もうどうなってもいいやと思っていた人が、側にいてくれるあの子の魂のために、自分が頑張る姿を見せてあげよう、という気持ちになる。そういった霊体験を通して生きる力を得たという感じをお話を聞いた人のほとんどの人に感じました。


奥野さんの著書「魂でもいいから、そばにて  3.11後の霊体験を聞く」のお話。
霊体験というと「怖い」と思ってしまいがちですが、そうではなく「側にいてくれる」「がんばらなくちゃ」と霊体験が生きる希望や生きる力につながっているお話が印象的でした。また奥野さんは「大切な家族との別れや悲しみは忘れられるものでないが、語ることで少しずつ癒されていく部分もある」とも話してくださいました。

『LOVE&HOPE』明日も奥野さんのインタビューをお届けします。

2017年5月9日

5月9日 3.11後の霊体験を聞く(2)


奥野さんの著書「魂でもいいから、そばにいて 3.11後の霊体験を聞く」。この本は奥野さんが、東北の被災地で聴きとった、いわゆる「霊体験」をまとめた一冊です。

「津波で亡くなった夫が枕元に現れた・・」 
「亡くなったはずの息子のおもちゃが突然動き出した・・」
語られるのは、まさに不思議としか言いようのない体験の数々でした。その中から、今日は「携帯電話にまつわる霊体験」のエピソードです。

◆亡くなった方の携帯にまつわる霊体験
携帯にまつわる霊体験の話なんですけど、どういうわけか岩手県大船渡とか陸前高田に携帯にまつわる霊体験の話が多くて。一つは陸前高田の熊谷さんの話で、お兄さんのご遺体が見つかって、お墓に納骨して、市役所に死亡診断書を出しに行ったところ、メールが届いて、なんだろうと思ってあけてみたら、亡くなった本人から「ありがとう」とメールが届いたという。驚いて他の家族に転送したが、履歴から消えてしまったという。
もう一つも陸前高田で吉田さんの話。亡くなったのはその方の伯父さんで、津波に流されたとき携帯も流さた。ある日その伯父さんの携帯に電話をしてみた。寂しいからなにげなく電話をしてみただけなのに、呼び出し音がなって、その後「もしもし」と3回声が聞こえたと。びっくりして切ったが、またかけると「もしもし」と答える。その声は亡くなった伯父さんの声に間違いない。夜に夫に電話してもらったらそれには応答がなかったという。
もう一つは夫が津波で流されて、携帯はさびて使えないが、亡くなったご主人のお骨と一緒に仏壇に上げていた。そうしたら、震災からしばらくたって、マグニチュード7くらいの大きな余震があったが、家族でどうしようと言ってるときに、仏壇の携帯が光って、足元を照らして外に出れたという。そういう方もいらした。


『LOVE&HOPE』明日も奥野さんのインタビューをお届けします。

2017年5月8日

5月8日 3.11後の霊体験を聞く(1)

今週はノンフィクション作家、奥野修司さんのインタビューです。

東日本大震災では、死者、行方不明者が1万8000人以上に上りました。そんな東北で、失くした家族を身近に感じるといういわゆる「霊体験」を取材しまとめたのが、奥野さんの著書「魂でもいいから、そばにいて 3.11後の霊体験を聞く」です。
奥野さんは大宅壮一(おおやそういち)ノンフィクション賞など、数々のノンフィクションを手がけてきたベテラン。当初、この取材にあまり乗り気ではなかったといいます。ノンフィクション作家として、これまで「事実の検証や客観性」にこだわってきたからです。そんな奥野さんが、それでも「東北の被災地の霊体験」を取材しようと思ったきっかけを伺いました。

◆魂がそばにいて自分を見られている感覚
2012年当時、東北被災地の各地にお化けが出るという噂がたくさんあり、それを取材してみないかといった話があったんです、石巻に津波で流されたおじいちゃんの霊が出ると聞いたおばあちゃんが、夫の霊がでてくれるなら会いたいといって、じっと十字路で待っているという話があり、その話にすごく感動して、幽霊じゃなくて霊体験を一つのきっかけとして、亡くなった方と生き残った方の霊体験の物語を書いてみたいと思って取材をスタートさせました。
例えば石巻の遠藤さんは、一番可愛がっていた3歳のお子さんを津波で流された。亡くなったことが受け入れられず、普通は骨になって49日過ぎたら納骨するわけだが、なかなか納骨できない。納骨すると縁が切れてしまうように感じて、そういう状態が続いていた。震災の後、もう一人お子さんが生まれて、しっかりしなきゃと思ったときに、食事をしているときに、仏壇の前に(津波で)亡くなった子どもが座っている気持ちがしたと。それで、頭の中で「おもちゃを動かしてほしい」と思ったら、動いたという。遠藤さんはそれまですごく落ち込んで、生きるか死ぬかという瀬戸際の状況だったときに、「(失くした子どもに)見られている」という感覚、魂の存在を感じ、魂がそばにいて自分たちを見ていると感じたら、亡くなった子どものために、自分がしっかりしないといけないと生きる希望が湧いてきたという。亡くなった人と霊体験した人の間に物語があれば、霊体験は全然怖くないんですね。子どもや奥さんや旦那さんが出てきても、怖くないどころか、むしろ何度も出てきてほしい、とおっしゃるんです。


ノンフィクション作家、奥野修司さんの「魂でもいいから、そばにて 3.11後の霊体験を聞く」。津波で亡くした家族の霊体験を取材しまとめた本です。
この本の中には、お話に出てきた遠藤さんのエピソードなど、16人の方たちの「不思議」としか言えないような霊体験が綴られています。

2017年5月5日

5月5日 阿蘇「森のレンガ館」

今朝は熊本県、阿蘇山を望む高森町の宿「森のレンガ館」のレポートです。

風光明媚な阿蘇山周辺訪れる観光客に人気のあった「森のレンガ館」。去年起きた熊本地震では建物への被害はなかったものの、道路や鉄道の寸断や風評もあって客足が途絶えたまま。熊本地震から1年余り。オーナーの谷口雅裕さんに、現在の状況について伺いました。

◆「予想以上に客足は遠のいている」
あんまりよくない状態ですね。昨年は「ふっこう割」が起爆剤となって一時予想以上に良く年末まではお越し頂いていたんですけど、今年に入ったらひじょうによくない状態が続いてますね。それは予想してたんですけどふっこう割が無くなって落ちるだろうなと思っていたら、予想以上に客足は遠のいている感じですね。やっぱり開通した道が2本、ミルクロードと俵山とありますけどどっちも山道ですので。あと不評なのがナビで来られるお客様が多いのですので、迷われるんです。橋が落ちた立野地区まで行かれて、ナビはそっちに誘導しちゃうもんですから。それで「いま立野に居るんですけどどうしたらいいですか?」っていう電話が結構かかってきますね。やっぱり道がないというのがいちばんネックになってますね。


大動脈である国道57号線は不通のままですが、俵山トンネルが去年末に開通して、熊本空港や熊本市からのアクセスはかなり改善しています。それでもふっこう割が終わってから客足は激減のようです。

4部屋のみの小さな宿で、行き届いたおもてなしが自慢という「森のレンガ館」。

ちょうど草原や周辺の森も青々と色づいて、最高の観光シーズンを迎えている阿蘇。この場所の魅力と「森のレンガ館」の楽しみについて伺いました。

◆「赤牛のシャトーブリアンを安く提供できる強み」
草原の緑と山の空気ですね。「凛とした空気」ってよく言うじゃないですか?ああいうのを肌で感じられると思うんですけどね。たとえば今からでしたら「青の時間」というのがあります。青いんです。外が。そういう時間が夕方にあるんです。とにかく他にはない景色がいちばんの売りだと思うんですけど、その中でゆっくりして頂いて、うちではなるべく美味しい料理を召し上がって頂くっていうのがいちばんいいかなと思うんですけど。地元の食材が安く手に入りますし、赤牛はシャトーブリアンを使ってるんですけど、やっぱちょっとお高いんですけど、宿屋なので安く提供できるっていう強みもありますね。



このGWは盛況だった「森のレンガ館」ですが、この先も客足が戻るかどうかは分かりません。熊本地震からここまで、そしてこれからについて谷口さんの思いを聞きました。

◆「全壊のペンションに比べたら悲観的になっちゃいけない」
正直、自然のものだったのでなるようにしかならないなっていう、割と悲観的にならないようにっていう感じではあります。ほかのペンションとかもじっさいひどい状態だったんで。それに比べたらウチなんかぜんぜん被害無いようなものだったんで。全壊のペンションもたくさんありますのでね。悲観的になっちゃいけないな!っていう感覚ではいました。もちろん大変は大変なんですけどね。だから正直、阿蘇はたくさんファンがいて頂けるところですので、あんまり心配はしてません。道さえつながればまた来て頂けるかなとは思ってますので。


「道さえ戻れば・・・」という期待は、阿蘇周辺の事業者、住民、皆の願いでもあるはずです。夏ごろには「長陽大橋」が開通の予定。阿蘇山の北側を通るルートがもう一つ増える見込みです。



くつろぎと料理の宿「森のレンガ館」公式サイト

2017年5月4日

5月4日 南阿蘇村 地獄温泉の今(4)


今週は 熊本地震により大きな被害を受けた南阿蘇村から、ある温泉宿の「再起にかける想い」をお伝えしています。
お話を伺ったのは、阿蘇の南山麓で二百年以上にわたり、湯治の湯として愛されてきた「地獄温泉 清風荘」の代表、河津誠さん。旅館は熊本震災と、豪雨による土砂災害で今も復旧困難な状況が続いています。

しかし、「地震はマイナスばかりではない」「南阿蘇村の人々は、観光復興への想いと共に、力強く固まりつつある」と河津さんは語ります。

◆「元気なところも、動けないところも、両方知ってもらいたい」
マイナスばかりじゃないんですよね、同じ村にいても疎遠だった人も、この地震のおかげでものすごい近くなって、南阿蘇盛り上げていこう!と今までなかったことが出来てますし。名前が長いんですが「南阿蘇村観光復興プロジェクト交流協議会」というのをつくっています。これは地獄温泉・垂玉温泉の2軒が手をあげさせてもらって、今100社が参加しています。この南阿蘇村でもいろんな立場があるんですよ。全然前と変わらない生活が出来ている人と、ちょっと被害を受けている人と、全くうちみたいに動けない人と。そうすると気持ちがどんどん離れていくんですよね、それでもまだ離れきってはいないのでとりあえず手が触れる位置まで近寄ってみましょう、集まってみましょうという作業が1つ。若い人材、リーダーを育てようというのが一つ。40歳以下の若いリーダーが自由に話せる場所を作ってあげて今まで知らなかった南阿蘇の引き出しをいっぱい開けてもらって、今まで埃かぶってたけどこれ磨けそうだね、というのを見つけてもらうというのが1つ。もう1つがモノづくりに対しても提案しましょう、という3つを掲げて頑張っているところです。ペンションのオーナーですけど地震があってこの協議会で知り合って、その方も土地ごと全部ぶっ壊されて、九州第一号のペンションですけど解体され、うちと同じく時が止まっている方など、時が止まった5人ぐらいがめちゃめちゃにやられて自分のことに手がつけられないメンバー5人で執行部を作って、どんなに自分のところにピカピカなもの建てたって村にお客さんが戻ってきてなければつぶれますよね、と。じゃ今は南阿蘇の元気なところをさらに元気にしてどんどん注目してもらうとか、真実を知ってもらう。めちゃくちゃにやられて動けないところも、元気なところも両方知ってもらうことをやりましょう、と進めているところです。一年目の目標はとにかくイベントをやろうと。そこに少しずつ共感するクリエイターさんやプロデューサーとかが無償でお手伝いいただいて、そういう支えがあって1000人ぐらいの集まりを開催しようと思っています。


被災した旅館やペンションなどでつくる「南阿蘇村観光復興プロジェクト交流協議会」主催で熊本地震から1年目の4月16日、地元の中学校体育館で復興イベントが行われました。まずは地元の人の心をつなげたい、と開催されたこのイベント。来年も4月16日に開催したいと河津さんは話しています。

南阿蘇村観光復興プロジェクト交流協議会 Facebookページ

2017年5月3日

5月3日 南阿蘇村 地獄温泉の今(3)

今週は 熊本地震により大きな被害を受けた南阿蘇村から、200年の歴史ある温泉宿の「再起にかける想い」をお伝えしています。

阿蘇五岳の一つ、鳥帽子岳に湧く「地獄温泉」。古くから湯治場として栄えてきた【清風荘】では、湯船の底からボコボコと源泉が湧き出すなど3つの源泉を楽しむことができる人気の宿でした。しかし、昨年4月の地震で周囲の山が崩れ道が閉ざされ帰宅困難なエリアに。また6月の豪雨で旅館に土石流が押し寄せ、1年が経った今もほとんど手つかずのままです。

阿蘇山麓で200年を超す歴史をつなぐ「清風荘」。
2重の災害にもめげず、“2年計画”で旅館の再建を目指します。

◆「過去200年の歴史と、これから200年先の未来をつなぐ」
8月には解体作業を始めて、それが始まれば生き残った1つの温泉の営業をはじめます。これも道路の修理が進んで車で自由に来れるようにならないと無理ですけどね。それがうまく進めばこんどは来たお客様のためにお食事を出す場所を作る。それをふまえた上で2年目に宿泊施設を少しずつ直していく2年計画ですね。この130年の本館の修理も含めてです。地震で倒れそうになってますので、いっぺん裸にして立て直す必要があります。壊して新しく建てれば安く済むんですけど、2度と取り戻せない歴史がありますので丁寧に解体しながら材料しっかりとって復元します。せっかくなら昭和の後継ぎ達が、その時流行りのサッシにしてしまったのを木の窓に戻したり、お得意さんがこの建物大好きなのでそのお得意さんが、さらに古くなったね!みたいな感じにしようかなと思ってます。本館がギリギリ土石流本体にかからないでいてくれたことが奇跡的にこれを活かそうと思うもとになってます。(諦めちゃう方が楽かな?とこの状況見ると思うんですけど・・)そこはありがたいことに、気持ちの納め方は、血でつながった感覚なんでしょうけど二百十数年やってますんで、僕の立っている位置の過去は213年あるんですね、立ってる次の責任は次の213年にあるわけです。420−430年のスパンで考えると、こういう事はあるということに心をおさめるんです。諦める理由は何もないということになります。ここの歴史は神話レベルからあります。ただ二百何年と言っているのは書き物に残っている年号の一番古いものが江戸の末期です。それを考えるとやめる理由はないわけです。過去の人たちもこういうことにあってますし、実際に母も昭和28年の熊本大水害があってその時もここ本館1階土石流にのまれています。それも立ち直ってますからね。


LOVE&HOPE、明日も河津誠さんが語る、南阿蘇村の今をお伝えします。

2017年5月2日

5月2日 南阿蘇村 地獄温泉の今(2)

今週は 熊本地震により大きな被害を受けた南阿蘇村から、200年の歴史ある温泉宿の「再起にかける想い」をお伝えしています。

阿蘇五岳の一つ、鳥帽子岳に湧く地獄温泉。古くから湯治場として栄えてきた【清風荘】では、湯船の底から源泉が湧き出す露店風呂をはじめ3つの源泉を楽しむことができる人気の宿でした。しかし、昨年4月の地震で周囲の山が崩れ、道が閉ざされ帰宅困難なエリアに。また6月の豪雨で旅館に土石流が押し寄せ、今もほとんど手つかずのままです。

阿蘇山麓で200年を超す歴史をつなぐ「清風荘」。
2重の災害に、旅館の代表 河津誠さんは何を想うのでしょうか。

◆130年の本館と1つだけ残った温泉を復興のシンボルに
6月20日から21日未明の雨で旅館の東側を流れている川が溢れて土石流がきて、岩も木も全部混ざった状態だから家の半分、敷地の半分埋まってる状態ですね。でも不思議なものでものすごく気持ちが折れるようなことは、地震で全然営業できていないのでそこでゼロと思ってたので、僕らこの旅館兄弟3人でやってるんですけど3人で「ゼロに何掛けてもゼロだから」というとこで気持ちおさめました。2重にやられて気持ちが萎えるのが一番まずいので。まずは整理しようと、守るべきものと捨てていいものと。でこの130年の明治中期の建物と唯一残った温泉、これをシンボルに立ち直ろうと。地獄温泉には3つの泉源が離れた場所にあるんですね、一番西側の泉源は山の崩落で半分埋まった状態に。もう1か所、ちょっと離れたところにある泉源も埋まってます。もう1つだけある泉源が湯船もお湯もちゃんと沸いた状態で入れると。足元から沸く温泉なので、地面掘っただけに入る感じなので、それとこの130年の歴史が壊されなかったので、やり直そうという気持ちになったんです。
今日も雨ですけどこれが6月にものすごい雨が降るんですね。山の状況は去年の地震の時のままなので何の対策もされてないのでまた起こる可能性があるわけです、土石流が。僕は経営者なので悪い方へ考えてますけど、起きると考えると今あるこの大量の土砂をよそに移すお金をかけられない、置いとかないといけない、打つ手がなくなる。ピタっと時が止まったようになってますけど・・・。


◆唯一残った「すずめの湯」
いわゆる源泉に直接入るという。これが身体まで入って「ボコ」って音を聞きながら入ったらもう、めっちゃ気持ちいいです! この音と湯が沸く対流を感じながら入るお風呂です。

南阿蘇の山並みを見るとたくさんの土砂崩れの跡が見られ、これは熊本地震で地盤が緩み、そこに6月の豪雨で土砂が崩れ二次災害を引き起こしているのです。こうした土砂災害の危険性は、もう間もなくやってくる梅雨でまた高まるということ。
明日も、地獄温泉 再起にかける想いをお伝えします。

2017年5月1日

5月1日 南阿蘇村 地獄温泉の今(1)

今週は熊本地震により大きな被害を受けた南阿蘇村から、200年の歴史ある温泉宿の「再起にかける想い」をお伝えします。

阿蘇山の南山麓に位置する、鳥帽子岳に湧く「地獄温泉」。古くから湯治場として栄え、旅館【清風荘】は二百年も前から人々に愛されてきました。しかし、昨年の4月の熊本地震で宿に通じる道が閉ざされ、6月の豪雨で土石流が押し寄せ旅館を直撃しました。震災から1年経った今も、宿の再建のめどは立っていません。

あの日、何が起こったのか。地獄温泉「清風荘」の代表、河津誠さんに伺いました。

◆自衛隊のヘリから見た我が宿に「帰ってくるぞ!」
揺れた瞬間は動けなかった。この辺で6強だったと思います。部屋から出ようとしてもドアが開かない状態で、なんとか蹴破って出たらもうお客様が玄関の前におられて、ある車全て(駐車場に)おろしてみんなで夜を過ごしたという感じです。その間もひっきりなしに余震がきますので、その度に山が崩れるわけです、ガーーー!と音を立てながら。その度にお客さんはパニックですよね。すぐそばの垂玉温泉のそばも完全に山が崩れていましたのでそれを見た瞬間に、これは動き回っちゃいけないと思いまいした。「家に帰ることはまずあきらめてください。車で動き回るのもあきらめてください。とにかく避難所に行きましょう、これを1つの目標にしましょう。それ以外は考えないでください」と言って一晩明かしたんですね。ものすごく興奮状態の人をどうやっておさめようかと皆で話し合って、僕も料理人なんです実は、社長なんですけど。弟も料理人で、これは食べさせるしかないぞと、まだ冷凍庫にはカチカチの食材がたくさんありましたのでそれを引っ張り出してきて、炊き出しレベルではないのを食べてもらえれば落ち着くだろうと、旅館レベルのものを駐車場で作って食べてもらったら落ち着いてもらえました。食料はあったんですが、水が地震で濁ってしまって飲み水がなくて、備蓄していた水で夕方がギリギリだったんで水無しで大丈夫かなーと思ってたら、まず陸上自衛隊の方が無茶苦茶な道を下から歩いてこられて、地上隊として準備されて。そこにヘリが4機来て変わりばんこに乗って皆さん避難できました。僕が最後に乗ったのは16日の午後4時半ぐらい。自分の家を俯瞰して見たことがないので俯瞰してみると、ここの被害だけじゃないのが見えちゃったんですよね。阿蘇大橋の方が見えて、あぁ本当だったんだって。飛びながら不思議なんですけど思わず「帰ってくるぞー!」って叫んでました。なぜかわからないんですけど、泣けましたね、あの時は…。帰れないって感じたんでしょうね…。



地獄温泉「清風荘」への道は今なお閉鎖され、帰宅困難な地域となっています。建物は大きな被害を受けましたが、3つある源泉のうち「1つ」が今もコンコンと沸き旅行客の帰りを待っているそうです。復旧にかけた想い、明日も引き続きお伝えします。

パーソナリティ 鈴村健一

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