2018年3月30日

3月30日 長面浦はまなすカフェ(2)

昨日に引き続き、宮城県石巻市、長面浦「はまなすカフェ」のレポートです。

北上川の河口にある周囲8kmの湾、長面浦に面したはまなすカフェ。ここの売りは、オーシャンビュー!長面湾を一望できる広いテラス席が特徴です。

そして高橋万里恵さんが “人生でいちばん美味しいスープ”と感動した、生クリームを使った牡蠣スープ。その牡蠣スープが入った新メニューがあるということで、はまなすカフェの濱畑千代子さんに伺いました。

◆牡蠣づくしのワンプレート
新しい試みで、ワンプレートで牡蠣のスープや牡蠣のディップ、あとスパゲティやパン、野菜を入れて、あと生ハムに牡蠣の蒸したやつに麹みそをアクセントに入れて包むと、それなりに美味しさがあるんで。(え?それはいつ来たら食べられるんですか?って完全に個人的な質問になってますが。(笑)でも毎回来ると、心地よくて眠くなるんですよ。縁側の方にいると。私たちも憩いの場所になってますが、おかあさん達にとってもそういう場所ですか?)そうですね、ここはゆっくりできる場所であってほしいと思って。毎週来る人がいるんですけどやっぱりあそこの海が見える席に座って、ご飯を食べてコーヒー飲みながら横になっている人がいて(笑)忙しくなくてお客さんも来なけりゃ、どーぞどーぞと言って。(堤防できるけど、今私たちが見ている海の景色が変わらないのはうれしいですね。)できたら、眺めて良い桜を植えたいなと思って。ここから、ピンク色に染まってたらきれいですよね。(すごい景色ですね)


震災から7年。ようやく防潮堤の工事がはじまった長面地区。ここで生まれ育った濱畑さんは、現在も仮設住宅暮らし。長面には人は住めないため、離れた場所で自宅再建に向けた地鎮祭が行われたばかりです。そんな濱畑さんに、改めて “7年目の春だより” を伺ってみました。

◆濱畑さんの7年目の春だより
7年経って、たくましくなったなと思って(笑)。
(それ、心もタフになったんですよ)だってあの震災の時はもう少しやせてたワッハッハッハ!あの時は本当にね、心もそうだったんだけど、この家どうしよう。とかって感じだったし。だけど今はカフェもやるようになっていろんな人と話もするし、だからカラダもたくましくなったし心もたくましくなった!
(体が資本ですからいいですよ! あったかい春だよりだ。うれしいな。また来るの楽しみだな。)



「はまなすカフェ」は日曜日のみ営業。場所など詳しくは、はまなすカフェのfacebookをご覧ください!

2018年3月29日

3月29日 長面浦はまなすカフェ(1)

今朝は宮城県石巻市、長面浦の「はまなすカフェ」のレポートです。

場所は、北上川の河口のそばにある入り湾、長面浦に面しています。前回おじゃましたときは、目の前の海で水揚げされたばかりの牡蠣で作った牡蠣パスタと牡蠣スープをいただきましたが、今回は1年でぷっくり育った牡蠣をフライにした、牡蠣カレーをいただきました!

◆ようやく防潮堤の工事がはじまった
まり:お母さんお久しぶりです!今日は牡蠣カレーをいただいてすごく美味しかったんですけど、今年の牡蠣はどうですか?
はま:今年は甘味も強いし美味しいってみんなに言われますね。本当は生でも食べられる牡蠣なんですけど、ここでは牡蠣フライとして出しています。(お母さんは生で食べます?)私は生で食べます。むきながら食べてます。小さくてもコロンとしていると、これは美味しそうだな〜と思って自分でむいて食べちゃいます。歯ごたえがあって甘味もあって美味しいです(笑)

まり:震災から7年になりますけど、この辺り長面浦周辺で変わったことはありますか?
はま:変わったことと言えばやっと工事が始まったというくらいで。今からここは8mの堤防ができるんです。今そのために土を盛ったり堤防に置くコンクリートブロックを作っているんです。(だいぶ景色変わっちゃいますね)変わりますね。だからこっちだけ(店内から見える)正面の海だけ見てもらえれば。はやり堤防ができるってことは景色が変わるから嫌ですよね。生まれ育ってずっとここですから、この景色がなくなるのは嫌です。今海の仕事をしている長面浦の人たちは、こんなに高くしなくてもいいんじゃないかって言ってるんですけども。


お話しは、はまなすカフェ代表、濱畑千代子さんです。
長面浦を望むこのエリアは、津波で200戸を超える家が流出し、現在は住んではいけないエリアに指定されています。濱畑さんの、「ふるさとの景色が変わってしまうのは寂しい」 という言葉…四方を囲む山と、穏やかな海。水面に浮かぶ漁船や、筏。すべてがふるさとの景色。そこに8mの防潮堤ができると、確かに景色は変わってしまいます。ただ、はまなすカフェは防潮堤より海側に入るので、店内から眺める長面浦の景色は変わらない、とおっしゃっていました。

この景色を見ながら美味しい浜の料理を楽しんでもらおうとオープンした、はまなすカフェ。まもなく3周年を迎えます。
この日、旧大川小学校の語り部ガイドに参加してから、こちらのカフェを訪れていました。

◆景色の良さが売り
ま:はまなすカフェはオープンして3年?
そうですね。
ま:すごくたくさんの方がいらっしゃったと思うのですが
今日もそうだったんですけど、大川小学校には「カフェはこちらにありますよ」などの看板は何もないし、あそこに集まる人を利用して私たちがカフェをやってるって思われるのも嫌だし。私たちはそうじゃなくて、ここにカフェがあるからこの景色を見ながら食事をしてほしいなということでやってるんですけども。語り部の話を聞きながらあそこをぐるっと回っていると、あそこにいると涙出てくるし。
(でも今日は大川小学校で語り部の話を聞いた後に皆さんこちらのカフェに来て、それぞれ想いを噛みしめながらお母さんたちと話をしたり、そういう時間はすごく意味のある時間だなって私感じました。でもここでご商売するのは難しいですよね。向こうから来ると大川小を過ぎてはまなすカフェに来るのでね)あそこら辺に看板があればまだしも、語り部やっているところに食券なんてちょっと渡せない。(そうじゃなくて美味しいものも食べてもらって、こういう良いところもあるんだよって思って帰ってもらえるのが一番いいですよね。私いっぱい宣伝しますから)



大川小の先にあるはまなすカフェ、防潮堤ができる前の景色をぜひご覧いただきたい
「はまなすカフェ」は日曜日のみ営業。場所など詳しくは、はまなすカフェのfacebookをご覧ください!

明日も「はまなすカフェ」、濱畑さんのお話お送りします。

2018年3月28日

3月28日 環境再生プラザ(3)

今朝は引き続き、福島市にある「環境再生プラザ」の取り組みについてお届けします。

震災による津波を引き金に起こった、東京電力福島第一原発の爆発事故から7年。いまの福島の現状や前例のない除染事業の詳細、環境回復の歩みなどを伝えている拠点が「環境再生プラザ」です。館内では、VTRの放映やパネル、模型展示、専門スタッフによる解説や相談も行われ、県内外はもちろん、海外からの来館者も少なくないといいます。さらに「環境再生プラザ」では、市町村や町内会、学校などへ専門家を派遣して講習会も開いています。詳しいことを「環境再生プラザ」ディレクターの渡部拓哉さんに伺いました。

◆県内の放射線の学習
福島県では年間2時間から3時間程度、“「放射線学習」を実施してください”と、これは義務ではないのですけれども、実施が好ましいと県の義務教育課から言われておりますので、各学校は授業だったり、いろんな時間を割いて授業をしております。そこに対して我々が今までの放射線や除染の知識などを蓄積したものをプログラム化したものがありますので、そちらを提案させて頂いております。いちばんは放射線に対する正しい知識と情報を理解して頂きたいということと、風評払拭に繋がって頂ければと考えております。いちばん最初に取り組んだのが、まず学年別に考えていかないと理解度が違う。なので低学年、中学年、高学年という形でプログラムを考えました。低学年に関しては紙芝居を多用しております。中学年に関しては霧箱というものがあるんですけれども霧箱というのは放射線の飛跡・・・飛んだあとを観察できる、どのように放射線が飛んだのか観測できる実験をやっております。高学年に関しては、線量計を使った測定だったりとか、あとは風評被害について学んで頂いたものを、どういう風に発信していくかっていうことを学習して頂いております。話を聞く前に、“放射線は怖い”とか、悪いイメージがあったということが多々あったんですけれども、専門家による講義だったり、市町村の方にも入って頂いて、町の取り組みとしてお話しを頂いているんですが、その話を聞いたうえで、やっぱり怖いものだけではないという形で理解して頂いてると思っております。他の県では実際に放射線の学習というのは行われておりません。なのでそこでやはり県内と県外の温度差というものは非常にあるかと思います。そこでどうしても福島県では当たり前のことが、福島県以外では当たり前じゃないということが、いじめなどに繋がっているのではないかと考えております。ご紹介させて頂いた低中高学年のプログラムのツールは、環境再生プラザのホームページから全てダウンロードできるようになっております。そちらをご参考にして頂ければと思います。


環境再生プラザのホームページでは、低中高学年向けのプログラムをダウンロードできるようになっています。学びの参考にして貰えれば、ということ。
一方、国が直接行っている除染と、市町村が行なっている除染は違う。「環境再生プラザ」では市町村が行なっている除染の地域に対して学習の提案をしている。除染する地域の状況によって学習内容も変わってくるので、そこは今後の課題という。つまり“不必要な不安”じゃなくて、除染してない森や林など、線量の高い場所についての“必要な不安”の学習や情報提供が出来ていない、ということでもあります。環境再生プラザで教育活動を担う渡部さん。どういう思いを持って活動に向き合っているのでしょうか。

◆まず福島県内の今の状況を知って頂きたいと思います。県内の情報を正しく知った上で、どう考えるかというのは個人個人違うと思いますし、我々がそれを押し付けることではないと思っています。ただ間違った情報が入ってしまいますと、どうしても偏った考え方になってしまったりということが、いろんなことで風評被害になってしまうかと思っておりますので、そこは正しい知識と情報をいかに得るかっていうことが大事ではないかと思っております。

「環境再生プラザ」のホームページでは、学習プログラムのほか、放射線や除染などの資料や教材をダウンロードすることが出来ます。

福島の現状や課題を知ることが出来る「環境再生プラザ」。10:00〜17:00オープン。月曜が定休日。
詳しくはオフィシャルサイトをご確認ください。
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また、今日までお届けした「環境再生プラザ」の取り組みについて、あなたが聴いて感じたこと、ブログのメッセージフォームから送ってください。抽選で5名様に3000円分の図書カードをプレゼントします。

2018年3月27日

3月27日 環境再生プラザ(2)

今朝は引き続き、福島市にある「環境再生プラザ」の取り組みについてお届けします。

震災による津波を引き金に起こった、東京電力福島第一原発の爆発事故から7年。いまの福島の現状や前例のない除染事業の詳細、環境回復の歩みなどを伝えている拠点が「環境再生プラザ」です。去年の春、復興への大きな一歩を記したのが、双葉郡の4町村で帰還困難区域を除いて避難指示が解除されたこと。ただしどの地域も住民の帰還は思うように進んでいません。「環境再生プラザ」アドバイザーの青木仁さんのお話です。


◆避難先で積み上げてきた生活基盤を元に戻すことの難しさ
除染は終わりましたけれども、除染だけではやり人はそこで生活できないということ。雇用機会もなければいけませんし、高齢者の方は案外気楽に戻りたいと思っておられる方多いと思うんですけど、今度は医療施設の整備があまりまだ進んでいないと今度はそれが不安だということで、皆さん事故からこれで7年経ちましたけれども避難先で様々な生活基盤というものは整えてきておられると思うので、それをまた元に戻るのはなかなかハードルが高いと思います。そういった社会的な条件とかを一歩一歩築き上げてきながら、いろんな方が戻ってくるだということだと思います。


住民の帰還と街の整備、どっちが先か・・・これはどの地域も抱えている問題。一度、人の往来が途絶えた町、しかも住民の帰還がなかなか進まない町に雇用機会や医療など、町の機能を取り戻すのは簡単ではありません。この状況を打開するためにも、正しい知識を得ることが重要で、そのための情報発信を行なっているのが「環境再生プラザ」です。館内では、VTRの放映やパネル、模型展示、専門スタッフによる解説や相談も行っています。県内外の子どもたちが研修で訪れたり、海外からの来館者も少なくないといいますが、ここで何を学んで感じて貰いたいか、あらためて青木さんに伺ってみました。

◆福島の現実を知って風評を払拭する
ここに来られる方は福島のことを知りたいし福島に何か貢献したいという方が来て頂けると思うんですね。そういう方々がいちばん知りたがっておられるのは、福島の実際の姿はどうなのか?実際に福島に住むとことはどれくらい放射線リスクのあることなのか?っていうこと。例えば今の放射線量の状況だとか、それから食べ物に含まれている放射線の量。そういったものをデータに基づいてご説明する中で、皆さん福島で暮らしている・・・今190万人近く暮らしてるんですけれども・・・それが本当に無謀のことをしてるとか、自らの健康を犠牲にしてそこに住んでいるということではなくて、もうほぼ避難エリアを除いては、日常生活をきちんと送れるようになってきているんだなってことが分かって頂けるということで、とくに外国の方なんかは、自分たちがいかにデマとか誇張された情報とかに惑わされてきたのかってことが分かって頂ける。農業もそうですし水産業もそうですし、林業もそうですけれども、対策を講じているので、例えば農作物であればカリウム肥料きちんと農地に与えることで、土の中にセシウムが残っていても作物がそれを吸い込まなくて済むようにできるということがわかってきていて、実際にできたものを検査してみると放射性セシウムが含まれている量は本当に少ないということが分かって頂けるので、そのことをデータをもってご説明するのと、あとは食べ物の中にセシウムがどれくらいあるのか測ることもできる機械があるので、そういったものを実際に自分で測ってみると、本当にそうなんだってことが分かって頂ける、それで納得して帰って頂ける。最初は除染の情報を提供でしたけど、今は福島の現実を知って頂いて、福島の風評を払拭すると、それが最重点課題かな思っています。放射線に関する間違った理解に基づいた不必要な不安というものを抱えているということは、福島県外に人にとっては、それは無用なストレスを感じていることですし、福島にとってみれば、たとえば福島の食べ物、美味しくて安心なのに買って頂けないとか、それから子供たち、福島県外に出て行くといじめを受けるとかいったことになるので、福島県にとっても非常に残念な状況なので、この風評払拭というのはとても重要な課題だという風に思っています


福島の現状や課題を知ることが出来る「環境再生プラザ」オフィシャルサイトはこちら
10:00〜17:00オープン。月曜が定休日。月曜祝日の場合はその翌日がお休み。入場無料。
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「環境再生プラザ」の取り組みについて、あなたが聴いて感じたこと、メッセージフォームから送ってください。抽選で5名様に3000円分の図書カードをプレゼントします。

2018年3月26日

3月26日 環境再生プラザ(1)

今朝は、福島市にある施設「環境再生プラザ」の取り組みについてお届けします。

震災による津波を引き金に起こった、東京電力福島第一原発の爆発事故から7年。現地では今なお、廃炉に向けた懸命の作業が続いていますが、一方、去年は双葉郡の4つの町村が一部の帰還困難区域を除いて避難指示解除になるなど地域再生への歩みも進んでいます。そうした福島の現状や、例のない除染事業の詳細、環境回復の歩みなどを伝えている拠点がこの「環境再生プラザ」です。この施設でアドバイザーを務めている、青木仁さんにお話しを伺いました。

◆不必要な不安を取り除きたい
「環境再生プラザ」って名前が変わったのは去年の7月。その前は「除染情報プラザ」っていうことで除染という作業を日本で初めて始めるにあたって、やはり皆さんお住いのところを除染しますので、除染というものがどういうものなのか理解して頂いて除染にご協力していただいて、円滑に除染、皆さんの環境の改善が進むようにそのPRを中心にこの施設を立ち上げたということです。除染が進んできましたので、除染に関する情報だけではなくて、より広範な環境再生に渡る情報を提供しようということで、名前を変えて「環境再生プラザ」になりました。当初から除染だけではなくて、皆さん基本的には放射線に関する知識がほとんどの人は乏しい状態ですので、放射線に関する不安も本当に大きくあったので、そういった放射線に関する知識とか、放射線から受ける健康影響のことに関してもご説明をしてきたということで、除染を円滑に進めながら皆さんの“不必要な不安”を取り除いて、一刻でも早く福島の環境再生に貢献したいということで、この施設があるということになります。


施設内には、除染作業で削り取られた汚染土を入れるフレコンバッグ「フレキシブルコンテナバッグ」も展示されています。徐々に福島第一原発周辺の中間貯蔵施設に運び込まれてはいますが、今なお多くの地域、人が生活している地域に、このフレコンバッグが置かれています。この現状についても、青木さんに聞いてみました。

◆除染した汚染土の現状
事故の直後は本当に大変な状況だったわけですけれども、環境の汚染が起こってそれに対処するために除染を始めて、除染の枠組みができたのが2011年事故の年の8月なんですね。それからいろんな準備を重ねて、2012年になってから福島でも除染を始めるということになって、それから大まかには去年の3月の末、事故から6年経った時点で、除染を終えることができたということで、スタートしてからそういう意味で言うと4年半で除染をすることができました。除染というのは、空から降ってきたセシウムが主には土壌の表面にある土の粒子とくっついた状態で私たちの環境中に留まっていますので、セシウムを取り除くということはセシウムが付いた土を取り除くということになります。こうして除染をしてきた中で、今までにもう1600万立方メートルの土、汚染された土を取り除いたということで、それを今1100カ所の仮置き場というところに分散して置いてあるわけですけど、この1600万立方メートルを今までにだいたい70万立方メートルくらいは中間貯蔵施設という原発の周りにいま作ってる施設に運び込んでいるんですけども、あと3年ぐらいかけてその残りの1530万立方メートルの大半を大熊町・双葉町に作ってる中間貯蔵施設に持っていくというふうに考えておりまして、そうすると、ほぼ福島県内の除去土壌というのは原発の周りで、安全に一括に管理できるということになります。全部終わる目標時期をまだ定めてはいないです。


中間貯蔵施設は〔最長で30年間保管〕する場所であって、そのあとにこれをどうするか?という大きな問題も残っています。
こうした福島の現状や課題を知ることが出来る「環境再生プラザ」。オフィシャルホームページでも情報発信をしています。

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今日から3日間お届けする「環境再生プラザ」の取り組みについてあなたが聴いて感じたことを『LOVE & HOPE』ブログのメッセージフォームから送ってください。抽選で5名様に3000円分の図書カードをプレゼントします。

2018年3月23日

3月23日 女川復幸祭2018

今朝は、明日とあさって、宮城県女川町で行われる「女川復幸祭2018」をご紹介します。

「女川町復幸祭」は、東日本大震災による大きな被害から新たに立ち上がる女川の姿を全国の人に見てもらいたい、という思いを託して2012年から行なわれている町をあげての一大イベントです。今年で7回目を迎えます。

今朝は、女川の蒲鉾本舗「高政」の4代目、高橋正樹さんにお話し伺います。

そもそも「女川復幸祭」は、震災2か月後の5月、女川高校グラウンド(のちの「きぼうのかね商店街」)で開催した「おながわ復幸市」がはじまり。
2013年からは津波が到達した午後3時32分に合わせて坂を駆け上がる「津波伝承 女川復幸男」も開催しています。逃げろ!の掛け声で坂を駆け上がる「女川復幸男」は明日24日開催。町外からの参加もOK。ただし定員250名になり次第締め切り。参加料は無料。トップでゴールすると「女川復幸男」に認定され、認定書が贈られるほか、開会式で「きぼうのかね」を鳴らすことが出来ます。

「女川復幸祭」オフィシャルサイト

2018年3月22日

3月22日 東北風土マラソン&フェスティバル

今朝は今週土曜日曜に開催される「東北風土マラソン&フェスティバル」についてご紹介します。

2014年に開催が始まったこの「東北風土マラソン」、宮城県登米市の長沼フートピア公園を会場に、春の湖をぐるっと回るコースで行われています。2015年度にはマラソン大会では初めて「グッドデザイン賞」も受賞。ただ走るだけでなく、給水所=エイドステーションでは、東北各地の名物グルメを食べたり、樽の薫りがする日本酒の仕込み水を飲んだり。楽しみながら走って、東北の魅力を全身で感じてもらおう!というファンラン大会です。

今朝はこの「東北風土マラソン&フェスティバル」の仕掛け人で、実行委員会副委員長の竹川隆司さんにお話しを伺いました。

◇開催は3月24日・25日、今度の土日。
◇会場は、宮城県登米市の、「長沼フートピア公園」。
◇サンプラザ中野くんのライブ等もあり。
◇食べ物のブースは9時、お酒のブースは10時オープン予定。

「東北風土マラソン&フェスティバル」オフィシャルサイト

2018年3月21日

3月21日 浪江町請戸・漁師見習い 鈴木綾乃(3)


今日も福島県浪江町出身の26歳。漁師を目指す、鈴木綾乃さんの挑戦です。「漁師になる」という夢を胸に、父広行さんの反対を押し切って気仙沼に漁師修業に行った綾乃さん。

昨年ふるさとの浪江町に戻り、今年の2月から広行さんとともに、新しい船「海生丸」で漁に出ています。この日は、福島県浪江町請戸の漁港から出航しました。魚の通り道に網を仕掛けてからませて獲る古くからの漁法「刺し網漁」。時より雪がちらつく、寒い朝でした。


◆夢は父と一緒に漁に出て一人前になること
この時期の刺し網をやる。カレイを獲るんですけど、朝2時半とかに起きて。本当に手がこおるというか、ちぎれそうなくらい痛い。それで弱音履いていたらお父さんにまた文句言われるなあと思って。我慢しながら、ちょっと嫌だなという気持ちもありますけど 笑
(制限がある、なかなか難しい中での出航だと思うがそれでも頑張っていこうという意思は固い?)
まだ試験操業で稼ぎも少なくて、生活できるかも不安だし、風評被害で魚がすごく安く売られてて、そういう不安もあります。でも漁に出れるというところまで来ているので、それだけでも希望なのかな。やりつづければいつかは大丈夫になるんじゃないかと思って。周りも認めて魚を買ってくれる人が増えるんじゃないかと思って、それに向けて毎日頑張ろうと思います。(それだけ請戸の港から出てとった魚は美味しいって自信がある?)小さいころから本当に請戸の魚が大好きなので、それを無くしたくないなって思います。(綾乃さんの今いちばんの夢は?)夢はお父さんと一緒に漁に出て、後を継ぐので、早く仕事覚えて一人前になりたいというのが今一番の目標です。漁師は一生勉強だと気仙沼の漁師さんに言われたので、それを忘れずに頑張っていきたい。



『LOVE&HOPE』3日に渡り、福島県浪江町請戸出身、鈴木綾乃さんの声をお届けしました。
福島の漁業の現状。出荷制限のかかる魚は10魚種まで減少。先日は、震災後初めて、福島沖で獲れた魚が海外に輸出されたこともニュースになったばかり。一方、試験操業が続き、福島の魚介類の出荷量は震災前の1割程度にとどまっています。綾乃さんの先輩漁師さんも「綾乃は相当苦労すると思う。ゼロからの出発じゃなく、マイナスからの出発だから」と話しています。

***
LOVE&HOPE、明日は・・走らなくてもOK!郷土料理、郷土のお酒が味わえるイベント「東北フードマラソン&フェスティバル」をご紹介します。

2018年3月20日

3月20日 浪江町請戸・漁師見習い 鈴木綾乃(2)

今日も福島県浪江町出身、漁師を目指す、鈴木綾乃さんの挑戦です。

福島県浪江町請戸地区出身の鈴木綾乃さん、26歳。漁師の父、広行さんの背中を見て育った綾乃さんは、子どものころから「漁師になりたい」という夢を抱いていました。でも「漁師は危険を伴う男の仕事」というのが、漁師の世界の常識。震災も経験し、一度は栄養士として就職しますが綾乃さんは「漁師になる夢」をどうしてもあきらめきれません。もちろん、父の広行さんは、娘が漁師になることに大、大、大反対です。そこで綾乃さんは広行さんに認めてもらうため、ある行動にでます。

◆全部やめて気仙沼に修行に行った
最初はどうしたら漁師になれるのかなと「漁師」「求人」で調べたんですインターネットで。そしたら漁業の求人サイトが出てきて気仙沼の新人教育をやっている漁師さんのところが出てきて。全部やめて気仙沼に修業に行くと決めてからお父さんに伝えたら、ものすごく怒られて、反対された。お父さんがキレながら「女にできるんだったら男はいらねえだろう」と。漁師は男の仕事という頭があるから、あと危ないということもあってすごく反対されました。
でもどうしてもやりたかったのと、あとおじいちゃんが病気で亡くなったので海生丸の後を継ぎたいという想いを伝えました。言い出したら私も聞かないほうなので、お父さんに似て。半ばあきらめて「じゃあ勉強だから行ってこい」と。でも気仙沼からたまに帰ってくるたびに「危ないんだからな」とすごいケンカになって。でもだんだん認めてくれて、漁の話をしたり。「どんなことやってんだ」「どんな魚とってんだ」と聞いてきたのがすごい嬉しかったです。


一方、福島の海は放射性物質の検査のため、長く試験操業が続いています。それなら船の再建は諦めて、漁師を廃業してしまおうか、と父・広行さんは考えていました。そんな広行さんの心を動かしたのが、綾乃さんの 「漁師になりたい」 という熱い思いでした。

◆漁をあきらめていた父が新しく造船した「海生丸」
お父さんも震災後はもう浪江とかは30年ぐらいはだめなんじゃないかと言われてたから、船やる気もなかったみたいで半ばあきらめていた。(でもお父さんは綾乃さんが戻ってくる前から船を作り出していた?)内緒で船をつくっていたみたい。わたしもお父さんも決まったことをぎりぎりまで言わないので知らなくて。お父さん的には跡継ぎがいないので続けるつもりはなかったみたいだけど、わたしが戻ってくるってなってから、やる気になってくれて、あとはお前たちに任すからと。(海生丸はおとうさんから綾乃さんへのプレゼントという意味合いもあるのかな)うれしくて本当に大切にしていきたい。お父さんと一緒に漁に出るのが小さいころからの夢だったので、死に物狂いで頑張りたいと思ってます。


気仙沼での漁師修業を終えて、綾乃さんは昨年福島県浪江町に帰ってきました。そして、広行さんと綾乃さんは今年の2月上旬から新しい船「海生丸」で一緒に漁に出ています。その様子は明日のLOVE&HOPEでお伝えします。

2018年3月19日

3月19日 浪江町請戸・漁師見習い 鈴木綾乃(1)

今日からの三日間は、福島県浪江町出身、漁師を目指す鈴木綾乃さんの挑戦です。

◆「海に生きる」と書いて、海生丸。この名前が好きだった
(今日はいいお天気で風も全然なくて。こんな真新しい船に乗せていただいて嬉しい!)去年の10月に進水式があって、すごいピカピカで。前の船はぼろぼろだったのでうれしい。船の名前は「海生丸」。(以前の船も同じ名前?)そうです。この船の名前がとても好きだったので。


お話を伺ったのは、福島県浪江町請戸地区出身の鈴木綾乃さん26歳。
「前の船」というのは、父・広行さんの船のこと。綾乃さんの実家は5代続く漁師の家で、震災で港近くの家は津波で流さ、広行さんの船も津波で使えなくなりました。また原発事故のため、広行さんは福島市に避難しました。

◆漁師の夢をあきらめきれず、震災後に決断!
(出身はどちら?)浪江町の請戸というところです。いまは更地というかなにもない状態。家もなにもなくて。(綾乃さんの中のふるさと請戸は震災前どんな風景でした?)家と田んぼしかない田舎町だったけど、生まれ育ったところなので、住みやすいというか居心地のいい場所でした。(お父さんのお仕事が?)漁業をやってました。小さいときから手伝うのが好きで。船には乗せてもらえなかったけど陸で網仕事とかを手伝っていました。
(綾乃さんはいま漁師を目指していると。)見習いなんですけど。(実際あったらかわいらしい女性でびっくり!漁師になりたいと思ったのはいつから?)ほんとに小さいころからいつかなりたいと思っていたけど、お父さんも反対で。大学のとき震災にあって、一回は無理なのかなと、普通に別の仕事について。でもどうしても諦めきれなくて、お父さんに認めてもらうために一回修業してから。そうしたら認めてくれるかなと思って。震災後に決断して漁師を目指し始めました。


綾乃さんは中学のときにお母さんを亡くし、栄養士になるために大学に進学。卒業後、一度は栄養士として病院で仕事を始めたものの、子どものころからの夢、「漁師になりたい」とい想いが消えることはありませんでした。

そこで、綾乃さんはお父さんに反対されるのを承知で、ある「行動」にでます。続きは明日、お伝えします。

2018年3月16日

3月16日 富岡の子供たち ふるさとを訪ねる(4)

今日も、福島県双葉郡富岡町からのレポートです。

今週は、原発事故の影響で、富岡町から三春町に避難している小学校5年生の男子3人組が、自分たちのふるさと、富岡を訪ねる様子をお聴きいただきました。それぞれ3〜4歳で震災を経験し、富岡を離れた、原田蒼史君、横田空君、根本広夢君。富岡の風や空気に触れ、富岡の人に出会い、富岡の味を楽しんだ3人に改めて、「富岡町はどんなところか」、聞いてみました。

◆富岡町は「想い出の場所。ふるさと。」
あ)思い出の場所かな。4年くらいしか住めなかったけど、富岡町にいて記憶にもないけど、海を見たり、散歩したり、中央商店街で買い物したりとかしていたので、大人になったらでもいいので、富岡町がもっと復興して、さっき話した思い出のように一人で歩いてみたりとか、中央商店街がもし復興していれば買い物とかしてみたいです。

ひ)まず出てくるのは故郷ということ。僕も行ったとき人通りが少なかったのでいろいろな建物やお店が増えたらいいなと思います。人々も戻ってきてほしいと思いました。

そ)僕も新聞では新しくなった建物ばかりで、それ本当かな?と思っちゃったんで、行ってみたら崩れた建物が多かったのでできれば崩れているところがなくなってほしいですね。悪い思い出が蘇らないように早く撤去してほしいと思うんですけど、10年後ぐらいにはたぶんみんな忘れると思うけど、この災害とか地震を忘れないでほしいと思います。富岡町は住んでいたところなので故郷かなって思います。



横田空くんのお母さんがインタビューに答えてくれました。
   
◆空は富岡に帰ったことで、夢が変わった
空は地震以来去年初めて富岡に入った。実際学校を見に行ったあとに、「うちの近く通った?」と聴いたら「通ってない」というので、「じゃあ一遍家を見てみる?」ということになって、震災後初めて家族で富岡に入った。家の様子とかを見て、まだ取り壊しとかはしてなくて、中はもぬけの殻で、「まだ家が残っていたね、よかったね」なんて話した。「ここで僕自転車で遊んだんだよね」とか。当日のことは覚えているみたいで「ママが外に出ろっていったから外に出た」とか。ちょうどわたしも家にいて一緒だった、当日は。(空君が富岡をとても大切に思っていると聞いてどう?)そんなふうに考えていることを知らなかった。たまに(空が)夢で町役場の職員になりたいと言っているのを聞いて、もともと夢は違ったような気がするけど、いつから変わったんだろうと考えたり。やっぱり(震災のことを)見たりいろんな人から聞いたりして、そう思うようになったのかなと。すごくびっくりして。うれしい。



『LOVE&HOPE』来週は、福島県の浪江町で漁師を目指す26歳、鈴木綾乃さんの挑戦です。

2018年3月15日

3月15日 富岡の子供たち ふるさとを訪ねる(3)

今日も、福島県双葉郡富岡町からのレポートです。

原発事故の影響で福島県富岡町から三春町に避難している小学校5年生の男子、3人。原田アオシ君、横田ソラ君、根本ヒロム君が、自分たちのふるさとを訪ねました。

子供たちが中でも印象に残っているのが、通うはずだった、富岡第一小学校です。3人が現在通っている避難先の三春校は、工場の敷地を間借りした仮校舎。一方、富岡にある第一小学校は、グラウンドやプール、さらに理科室などの特別教室を備えた3階建ての校舎です。

◆通うはずだった校舎で見たものは
先生:こっちは南校舎っていいます。校舎が2つあります、北校舎と南校舎。
蒼史:地震が起きたときにここに座っていた生徒たちはどんなふうになりましたか?
先生:さようならして、みんながちょっと教室を出始めたときに地震がきました。でみんなもどってきて、机の下に頭入れろっていって、だいたい3〜4分くらい地震がずっと続いて。その間は一言も誰もしゃべらなかった。きゃーもなかった。泣く子は泣いてたけど。で、大津波警報が出たので外に出て、全学年で高台に避難しました。
蒼史:初めてここ(富岡にある自分が通うべきだった小学校)に入ったけど、「何年」はわかるけど「何組」とか初めてなので。わーひろい!
先生:ここが家庭科室、ここが理科室・・

◆大室先生&校長の感想
大室:震災後初めてですかね。やっぱりこの草とかががっかり。子どもがいないというのも寂しい、学校なのに。
校長:ここで子供たちと一緒に勉強したかったですね。前は500人くらいいました。子どもたちから「僕たちが通うはずだった学校を見たい」、という声があったから、今日ここに来ました。この子たちにそういう思いが残っているんだなと思って、うれしかった。(〜学校の鍵を閉める音)


今はこの校舎は閉鎖中ですが、机や黒板は震災当時のままです。

富岡町ではこの春、町内で小学校と中学校が再開します。震災前は、小中学校あわせて、合計1500人程の児童生徒が通学していましたが、4月に再開する町内の小中学校に進学するのは、あわせて16人。アオシ君、ソラ君、ヒロム君は、引き続き仮設の三春校で6年生に進級するそうです。
ふるさと富岡を訪ねて、3人はなにを感じたのでしょうか。明日、お伝えします。

2018年3月14日

3月14日 富岡の子供たち ふるさとを訪ねる(2)

今日も、福島県双葉郡富岡町からのレポートです。

原発事故の影響で福島県富岡町から三春町に避難している小学校5年生の男子、3人。原田アオシ君、横田ソラ君、根本ヒロム君の3人が、自分たちのふるさと、富岡を訪ねています。富岡町では、昨年4月から町役場の機能が町に戻り、10月にはJR常磐線の富岡駅も運行を再開しました。商業施設「さくらモールとみおか」もオープンして、町に帰還した方たちの生活を支えています。

店内のフードコートに出店した「浜鶏(はまどーり)」は、鶏ガラを使ったラーメンが人気のお店。3人は、「浜鶏」の藤田大さんに話を聴きました。

◆富岡町民のお客さんは10人に1人
空:こんにちは!僕たちは富岡第一、第二小学校の5年生です。将来自分の言葉で富岡町の復興の様子を伝えることができる大人になりたいと思っています。20年、30年経って、子どもができたころには、富岡町はいまよりもずっと復興が進んで素晴らしい街になっていると思います。それは富岡町の復興を信じて多くの方たちが努力したり、工夫したりしてくださったからだということを伝えていきたい。そのためにいまの富岡町の様子を自分の目で見たり、自分の耳で聴いたりしたいと思った。今日はよろしくお願いします。
藤田:すでに泣きそう
大夢:お客さんで富岡町民の方はどのくらいいますか?
藤田:10人に1人ぐらい。だんだん増えてきている。富岡町はまだまだ復興の途中で解体工事が行われている。復興に向かって新しい仕事もできていているので、そういった仕事に携わる人たちが利用してくれている。
そら:10年後、20年後はどんなお店にしていきたいですか?
藤田:もっとラーメンを美味しくして、富岡の人はもちろん、外からも食べにきてくれるようなラーメンを提供したい。

3人:いただきま〜す!チャーシューがとろける。ああ、うめえ!AOS。甘くておいしい!

藤田:子どもって地域の未来だなあと思っていて、またこの街で子どもの声が聴けるようになるのはいつかなあと思っていて。だから今日はとってもうれしい機会だったし、富岡の子どもたちも、こういう思いを持っている子たちがいるんだなあというのを改めて知ることができた。わたしもますます頑張らないと、彼らに引き継ぐまでのバトンを。街は必ず復興していくので、信じて頑張っていきたい。


「浜鶏」は、藤田さんの祖母と父が、昭和24年に創業した精肉店「鳥藤」が土台。震災後は、仕出し弁当やコンビニ経営など、できることはなんでもやったという藤田さん。全町民避難の間も、「いつか富岡で商売を再開する」という強い思いがあったそう。

アオシ君、ソラ君、ヒロム君の3人。
明日は、自分たちが通うはずだった富岡の小学校を訪ねます。

2018年3月13日

3月13日 富岡の子供たち ふるさとを訪ねる(1)

今日から4日間は、福島の小学5年生達による、「ふるさと」のレポートです。

福島県双葉郡富岡町。震災後、全町民避難が続いていましたが、昨年4月から一部の地域を除いて町民の町への帰還が始まりました。ただ、町で生活を始めたのは、もと町民の3%にも満たないのが現状です。

また震災前、町には二つの小学校に、あわせて800人以上の児童が通っていましたが、震災後は県内の三春町にある仮校舎で授業を行ってきました。現在、仮校舎の児童は、6学年併せて11人です。

今回、そんな富岡第一・第二小学校三春校に通う、小学5年生の男子、3人が授業の一環として、自分たちのふるさと、富岡町を訪ねることになりました。この3人です!

◆仲良し3人組!
こんにちは!僕たちは富岡第一第二小学校の5年生です。僕は原田蒼史です。最近のマイブームはプロレスごっこです。僕は横田空です。好きな食べ物で二番目に好きな食べ物はカレーライスです。僕は根本大夢です。最近のマイブームはアークサバイバルエボルブドのゲームです!


3人はそれぞれ3−4歳のときに震災を経験。家族とともに三春町に避難して生活しています。「自分たちのふるさとを自分たちの目で見て、町の人に話を聴きたい!」そんな3人の想いが、大人たちを動かしました。

◆今の富岡町を自分の目で確かめたい
富岡第一小学校5年担任の大室けいじろうと申します。最初1学期は富岡町について覚えていることをみんなで書き出したが、震災当時はまだみんな4歳ぐらいでほとんど記憶がなくて。富岡町のことをどうやったら調べられるかなということで、新聞記事、町の広報誌などを集めて、そうすると富岡町に電車が通るようになったとか、ホテル、スーパーができたとか、1年の間だけでこんなに変わってきている、じゃあ僕らが大人になったときにはもっと賑やかになっているはずだけど、いま僕たちが子どもときにしか見れない富岡町があるはずだということで、僕たちの目で実際に見たり聞いたりしておこうかと考えていたところですね。


3人がまず向かったのは、昨年10月に運行を再開した、JR常磐線の富岡駅です。

◆「海が見える〜!海だ!」
蒼史:いま富岡駅に来ています。 わあ〜!海見えた!海だ!海だすごい!
校長:あそこに岩が見えるのわかるかい?あれがローソク岩だったんです。あれが津波で折れちゃったんです。この海が荒れ狂ったんだな〜3.11の時には。この風を味わってほしかった、浜風。三春町では味わえない風です。
蒼史:なんか潮の匂いが。
校長:さすが、それを感じてほしかった。落ち着きますね。校長先生の大好きな匂いです。
蒼史:鳥の鳴き声もする・・


3人はさらに、富岡町で街でお店を再開した人、そして自分たちが通うはずだった小学校を訪ねます。その様子、明日以降、お届けします。
 

2018年3月12日

3月12日 「あなたはそこに〜小野寺翔君」

多くの命と、故郷の風景を奪った東日本大震災。
あの日から、昨日で7年が過ぎました。

震災直後から現地へ足を運び、被災地の「生」の声を伝え続けてきたこの番組も、間もなく放送開始から7年を迎えます。

現地で聞いた、たくさんの声。
震災後、辛い想いをされた中でも、前を向いて歩いている姿…
本当にたくさんの「笑顔」に出会いました。
でもその笑顔の裏に、“あの日亡くなった、あの人の分まで”
という想いを、たくさんの方から感じさせていただきました。

そこで『LOVE&HOPE』では、
“忘れない、1人1人の7年を。あの日亡くなった、あなたのことを”
をテーマに、番組オリジナルのキャンペーンスポットを制作しました。

これまで番組が取材を重ねてきた方にあらためてマイクを向け、今なお胸の中に生きて、背中を押してくれる人のことを話して頂きました。そこへ、谷川俊太郎さんの詩、「あなたはそこに」が寄り添います。

今日はその中から、南三陸町戸倉出身、小野寺翔くんの回をお届けします。
戸倉中学2年の時に被災した小野寺翔くん、“忘れられない人は誰ですか?”


谷川俊太郎 作 「あなたはそこに」

本当に出会った者に別れはこない
あなたはまだそこにいる

小野寺くん 
「あなたの名前は、猪俣さとし先生。
南三陸町の戸倉中学校の理科の先生でした。
とにかく暑苦しいぐらい、誰よりも戸倉が大好きっていうような先生で・・。

当時の中学生の僕としては、なんかかっこいい職業につきたくて、自衛官かパイロットになりたいって話を、まあこっそり先生にはしてて、それをなんかこう、真剣にきいてくれて・・」


7年前のあの日、南三陸町戸倉で恩師を亡くした、小野寺翔君。
中学生だった彼は今、ふるさとの木、南三陸杉を守り伝えようと
林業を学んでいます。
小野寺君。猪俣先生が、今、君を見たら、なんて言うかな?
    
小野寺くん  
「今そうですね、上から見てるとしたら
『戸倉はやっぱいいべ』みたいな。 
あとは 『あれ?パイロットじゃないの?そんな田舎臭い仕事にしちゃったの?』っていう、ビックリもあるかもしれないですねー。」


本当に出会った者に別れはこない
あなたはまだそこにいる
目をみはり私をみつめ くり返し私に語りかける
あなたとの思い出が私を生かす
                 
復興支援番組「LOVE&HOPE」。
今日も被災地の声をお届けしています。

忘れない。ひとりひとりの7年を。
あのとき亡くなった、あなたのことを。

詩/谷川俊太郎 朗読/益岡徹
ナレーション/大後寿々花 音楽/古澤巌
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このキャンペーンスポット、この他に、見つからないご主人に宛てた手紙が恋文大賞を受賞した、気仙沼「すがとよ酒店」の菅原文子さんのバージョンがあります。これからもシリーズを増やしていく予定。

『LOVE & HOPE』、明日は、福島県富岡町から、元気な子供たちの声をお届けします。

2018年3月9日

3月9日 大川伝承の会 語り部ガイド(5)


東日本大震災の津波で、児童ら84名が犠牲となった、宮城県石巻市、旧・大川小学校。被災当時のままの姿を遺す校舎では「大川伝承の会〜語り部ガイド」が継続的に行われています。

先週末行われた会では、津波にのまれながら奇跡的に助かった当時小学5年生、只野哲也さんも語り部として参加。校庭から逃げて津波にのまれるまで。そして気絶から目が覚め、山で過ごした寒い夜について淡々と語ってくれました。けれど只野くんが伝えたいのは、こうした悲劇ばかりではありませんでした。

◆「大川がすごいいいところだっていうのを少しでも多くの人に伝えたい」
今ここは砂利ですけれども、当時芝生があって、一輪車にみんな乗れたっていうんですけど自分は苦手で、なかなか練習したけどあんまり(笑)まあそこそこ乗れて。そこの野外ステージの前で鬼ごっこして鬼から逃げて昼休み終わったのにいつまでも教室に戻っても“まだあいつらやってるよ”みたいな。あと土俵で隠れて泥団子を作っていて、ここ粘土なんでいい泥団子できるんですけど、本当はしちゃいけないんですけど(笑)そういう昔の楽しい思い出がここに来ればふっとすぐ出てくるんで。震災遺構として残る、震災の教訓とか、これからの防災に対して何が必要なのかって伝えていくのが必要なんですけれども、自分はそれ以上に、大川がすごいいいところだっていうのを少しでも多くの人に伝えていきたいなって思います。(この春から大学生になるわけですが目指すところは?)まだまだ大学に今から入っていろいろまた勉強することもあると思いますし、将来の夢もまだまだ決まってないんですけれども、やっぱり震災直後から、警察官か消防士、直接カラダを張って助ける仕事に就きたいという思いを、そこは変わらない思いなので、どういう仕事に着くかわかりませんが、やっぱり人を助ける、人の命を救うような仕事に就きたいなって思いはあります。


只野くんは、同じ大川小学校に通っていた妹、そしてお母さんとお爺さんを亡くしました。お母さんは只野くんにヘルメットを届けに来た帰りに、津波に襲われたといいます。現在は、お父さんとお婆ちゃんの3人暮らしの只野くん。この7年を振り返って思うのは、“お婆ちゃんへの感謝” でした。

◆「お母さんに親孝行できなかった分、おばあさんにしっかりしていきたい」
小さい頃から自分はおばあさんに育てられてたっていうか、妹が母親のお腹にいた時に母は体調悪くて、なのでどっちかというとおばあさん子で、おばさんが自分にとっては母親みたいな感じで。今は免許も取ったので、おばあさんを乗せてご近所回りしたり、今まで乗せてもらった分こき使われてるんですけれど(笑)。逆に自分のお母さんに親孝行できなかった分、おばあさんにしっかりできるよう、ま、親父にもしなきゃいけないんでしょうけれども、まずはしっかりおばあさんにできるよう時間を大切にしていきたいと思います。今年で72になりますけど、結構まだ活発で、喧嘩でも口が強いんで俺がすぐ折れちゃうんですけれども。おばあちゃん自分で運転もやりますけど、○○行くよ!とか言われて、“はい、わかりました〜”みたいな。頭が上がらないすね。震災後もずっとご飯作ってもらったりお弁当作ってもらったんで、家事とか家の事をやってもらったんで71歳という年で・・・本当におばあさんに頭が上がらないですね。


今回ご紹介しました、大川小学校の「語り部ガイドと勉強会」、あの場所で起きたことを自分に置き換え、考える機会にして頂けたらと思います。
大川伝承の会 facebook
小さな命の意味を考える会

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震災から7年を迎える、3月11日、午後1時から、一部の放送局を除いて
『LOVE&HOPEスペシャル 7年目の春だより〜ふたつのふるさと』をお届けします。

福島県富岡出身の小学校五年生の男の子たちが見た、自分たちのふるさととは?
そして福島県浪江町では、父と娘が漁を再開します。

政治学者の姜尚中さんとお送りする「7年目の春だより」3月11日 午後1時から。ぜひお聴きください。

2018年3月8日

3月8日 大川伝承の会 語り部ガイド(4)

今日は、3月4日に行われた、宮城県石巻市、旧・大川小学校での語り部ガイドのレポートです。

東日本大震災の津波で、児童・教職員84名が犠牲となった、旧・大川小学校。被災当時のままの姿を遺す校舎では、悲劇と教訓を後世に伝える「大川伝承の会〜語り部ガイド」が継続的に行われています。

会を主催する一人、佐藤敏郎さんは、女川町で中学校の先生をしていましたが、当時、大川小学校6年生だった次女のみずほさんを津波で亡くし、その後教職を離れて「小さな命の意味を考える会」を設立、ほかの遺族とともに全国各地で講演やワークショップを行っています。

あの日から間もなく7年を迎えますが、今の思いを、あらためて伺いました。

◆自分の中に大川小学校がまだあるし、娘も胸の中にいる
自分としては3.11は“溶け込んでる”感じがして、7年目だから、とかでもなく、娘のことに関しては、何かこう一体化してる感じがしますね。この場所で話し始めるとスイッチが入るところがあります。それはきっとスイッチを押してくれてるんだろうなってすごく感じます。それから今日は卒業生も来てくれて話しましたけれども、ここで走り回った思い出があって、ここには子供たちが笑顔で毎日通っていた学校があったということ、やはりこの場で感じてほしいですよね。幸いなことにこの校舎は残ることになったので、今はこの通り廃墟になってますけれど、このくらい残っていればイメージできますよね。せっかく来てただ可哀そうだねって、悲惨だねって帰ってもらうだけではなくて、それが今こうなってるっていうことで考えてもらえるのがいいのかなと思います。

(でも私もそのみちゃんに案内してもらうまではこの景色しか見たことがなかったので、すごく悲しい場所っていうのが第一印象だったんです。でもそのみちゃんは、“ここ凄かったんですよ!桜が、とかこんなふうに遊んだんです!って言ってくれて、それを聴くと景色が変わるというか少し色がつくというか、みんなすごく楽しい生活をここで送ってたっていうのが多分皆さんに伝わってる気がします。)

私はよくそのみに案内してもらうんですけれど、あいつは本当にそういうのをねニコニコ話しますよね。“ここはかくれんぼで見つかった場所”とか、“ここは○○先生の秘密の部屋なんだ”とか、“1年生のトイレには必ずうんちが残ってるとか”そういう話をします。そうなんだなと思うんですよね。それと一緒にここには町があったということ。地元の人たちはそれを言いますよね、大川小だけしかも悲劇の場所としてクローズアップされて、多分訪れる人はそれを目的で来ると思うんですけれども、ここには俺たちの暮らしがあったんだ町があったんだってこと、そういうことも、知ってもらいたいってよりも、自分で確認したいんだなと思ってます。言葉にしたり発信することによって、自分の中に大川小学校がまだあるし、娘も胸の中にいるということ、それを確認してるんだと思います。でこの震災遺構も、未来の人のためですよね。今日も訪れている人は地元以外の人が99%です。その方たちにとってどういう価値を持つか、どういう意味を持つかっていうのを、みんなで考えたいと思っていて、やっぱり50年後60年後の未来の人は、きっと思うんですよ、“なんで昔の人はここを残したのか?”って。簡単に遺したわけじゃないですよ、と。それも伝えたいなと思っています。


佐藤さんたちが継続している、大川小学校の「語り部ガイドと勉強会」、あの場所で起きたことを自分に置き換え、考える機会にして頂けたらと思います。
大川伝承の会 facebook
小さな命の意味を考える会

『LOVE&HOPE』、明日は津波にのまれながら奇跡的に助かった生徒の一人、当時小学5年生だった只野哲也さんのお話しです。



2018年3月7日

3月7日 大川伝承の会 語り部ガイド(3)

今日は、3月4日に行われた、宮城県石巻市、旧・大川小学校での語り部ガイドのレポートです。

東日本大震災の津波で、児童・教職員84名が犠牲となった、旧・大川小学校。被災当時のままの姿を遺す校舎では、悲劇と教訓を後世に伝える「大川伝承の会〜語り部ガイド」が継続的に行われています。

校舎の裏に反り立っていている山は、一見子供が上れる角度ではありませんが、じつは一部緩やかな登り口があり、子供たちはシイタケ栽培などの実習でよくそこから山へ登っていたといいます。上級生たちは先生に、“山へ逃げよう”と訴えますが、聞き入れては貰えず、その安全な場所は生かされることがありませんでした。

語り部の会・主催者で、娘を亡くされた遺族でもある佐藤敏郎さんが、その山から校舎を見ながら語った言葉です。

◆「仕方がない」ではない。考えなければならない
もし津波が来てもここがあるから大丈夫だろう、ここに逃げてるだろう、と多くの人が、私も思っていました。その山です。ここは毎年3月に椎茸栽培の体験学習をしていました。それからこちらの方は低学年の授業が行われています。ここまで登っていれば助かっています。ここを案内して、“ここは登りにくい山だね”、という人はいません。逆に、“こんな近いところにこんなに登れる山があったんだ”、っていうことにびっくりする人が多いです。でもね、立派な救命ボートがあっても、それに乗らなかったら助からないっていうのと同じです。それは救わなければならなかった命です。学校の先生ってのは・・・じつは私も教員なんですけれども・・・学校の先生というのは、たまたまそこに居合わせた大人じゃないです。子供の命を預かり守る、そういう仕事の大人なわけです。それはあの時の先生はみんな知っています。“果たせなかった”ということ、そこに向き合わなければダメです。“仕方がなかった”なんて言っちゃだめだと思います。やっぱりここに来るたびに、7年前のあの日の風景とかぶせて、私たち考えなければならないと思っています。あの日の命の代わりに、皆さんに焼き付けてほしいと思います。この景色が見えてればよかったんです・・・

(大川小学校の裏にある山に登ってきたんですけれど、登り始めて緩やかな坂を、走ったら10秒程度で登れるところだと思います。およそ高さが7〜8メートル。津波の高さがきたっていう大川小学校の 2階部分くらいの高さということなんですよね。この景色が見えてれば助かったっていう話がありましたが、なんでこっちじゃなかったのかなっていうのは純粋に思ってしまいます。悔しいですよね。)

・・・最後にですけれども大川小学校は閉校になっても名前もなくなります。ですがこの学校が震災遺構として防災教育を勉強する場として残ります。皆様また機会がございましたら是非来て頂いて、そして持ち帰っていただいて、ここでの教訓、皆さんの住むところへ持ち帰って頂いて、話をしていただければ、我々もありがたいなという風に思います。


佐藤さんは14日の朝、娘を探しに船で大川小学校へ。橋のたもとに子供たちの遺体が並べられていた光景が、いまも忘れられないといいます。

大川小学校の校歌は「未来をひらく」というタイトル。ここで起きた悲劇を、自分のことに置き換えて考え、何かを持ち帰って欲しいと会を結んでいました。明日は佐藤敏郎さんのインタビューをお伝えします。


2018年3月6日

LOVE & HOPE スペシャル
7年目の春便り〜ふたつの故郷(ふるさと)〜

7年目の春便り〜ふたつの故郷(ふるさと)〜

7年目の春を迎える今年は、福島県に焦点をあて、『LOVE & HOPE special 7年目の春だより〜ふたつの故郷〜』を、3月11日(日)13:00〜13:55に放送いたします。パーソナリティは、朝の生ワイド番組『クロノス』のパーソナリティとしておなじみの高橋万里恵と政治学者の姜尚中。
震災後すぐに強制避難となり、いまだ故郷を見ることなく育った小学生の男の子。いち早く家業の漁を再開しようと奮闘する20代の女性…。2018年4月、福島県富岡町や浪江町をはじめとする避難解除エリアをかかえる地方自治体が、震災後はじめて地域の学校を再開させるなど、大きな分岐点を迎えます。『LOVE & HOPE』が追い続けてきた人々を通じ、2018年3月の風景を切り取ります。

震災から7年。避難により故郷を知らない子どもたちが伝える福島県富岡町の今。
原発事故の影響で震災後、全町民避難が続いていた福島県富岡町では、昨年4月からは帰還困難地域を除く地域で、町民の町への帰還が始まりました。ただ、町で生活を始めたのは、元町民の3%にも満たず、今年2018年4月には地元での小中学校再開も決定していますが、富岡町に戻る児童の数はとても少数であるというのが現状です。
震災前、町では富岡第一第二の2つの小学校に合わせて800人以上の児童が通っていました。しかし震災後は、町民が県内外に避難。子供たちは県内の三春町にある仮校舎で授業を行ってきました。現在、仮校舎の児童は6学年併せて11人。
番組では、富岡第一第二小学校三春校に通う小学5年生の3人に密着しました。

「自分たちのふるさとを自分たちの目で見て、町の人に話を聞きたい。将来自分の言葉で富岡町の復興の様子を伝えられる大人になりたい」。震災後初めてふるさとの富岡町を訪ねる彼らは、震災当時はまだ3,4歳。当時の記憶はほとんどありません。通うはずであった富岡第一小学校も訪ねます。仮校舎しか知らない3人は、自分たちの通うはずだった小学校の理科室や図書館、家庭科室の大きさに驚きます。ショッピングモールでカレーやラーメンを食べ、富岡駅、富岡ホテルの復興に係る大人たちにインタビューしていく過程で、彼らは何を感じたのでしょうか。


震災から7年。いつか故郷・浪江町で父と漁を再開したいと願う女性の決意。
浪江町で生まれ育った漁師の娘・鈴木綾乃さんは、原発事故の影響で避難生活を余儀なくされ、漁師である父は家業である漁を休業せざるを得ませんでした。幼少の頃から父に憧れ、いつか自分も漁師になりたいと思っていた綾乃さんは、反対する父を押し切り、気仙沼の漁師に弟子入り。“いつか故郷の浪江で父と漁を再開したい”という思いを胸に漁を学びます。

そして浪江町の避難指示が解除となった2017年春、そんな娘の情熱に動かされ父も浪江で漁を再開することを決意。ふるさとに戻り、いま再び海へ漕ぎだすための準備を進めています。そんな鈴木綾乃さんの胸にある「ふるさと」への一途な想いを伺います。
そして、番組の最後には、彩乃さんがお父さんに向けて書いた手紙を紹介。どんな気持ちを込めて手紙を書いたのでしょうか。


転勤族や、上京する人、移住をする人。誰にでもあるようで、ないような、聞く人すべてにあてはまる「ふるさと」の話。震災から8年目の「ふるさと」について、番組は考えていきます。

2018年3月6日

3月6日 大川伝承の会 語り部ガイド(2)

今日は、3月4日に行われた、宮城県石巻市、旧・大川小学校での語り部ガイドのレポートです。

東日本大震災の津波で、児童・教職員84名が犠牲となった、旧・大川小学校。被災当時のままの姿を遺す校舎では、悲劇と教訓を後世に伝える「大川伝承の会〜語り部ガイド」が継続的に行われています。

今回12回目の語り部ガイドには、主催者であり、ともに娘を亡くされた遺族でもある、佐藤敏郎さんと鈴木典行さん。そして、津波にのまれながら奇跡的に助かった生徒の一人、当時小学5年生だった只野哲也くんも参加しました。

あの日、この大川小学校で、いったいどんなことが起きたのでしょうか。

◆当時、津波にのまれて、山で気を失った
(先生と子供達は県道に出ようとした時、津波の気配がした。その途中まで行った男の子、当時5年生だったんですけれども、それが只野君。その状況をちょっと話してくれますか?)
はい。皆さん今通ってきたと思うんですけど、いま車が走ってる県道の方に民家の細い道を通って小走りで走っていた時に、県道に差し掛かった時に前の木造建ての民家が爆発するというか、砕け散るように壊れて土煙のようなものが上がったので、これはやばいって恐怖を感じて、すぐに引き返してこっちの山に向かいましたが、自分達は気づいて山に向かうんですけど、あとから避難してきた低学年の子達は「なんで戻ってきたんだ?」みたいな感じでゴタゴタした状態になって、自分はもうそれどころじゃないのですぐに山に駆け上って急な斜面なんですけれど自力で上って、学校の方に振り返ったんですけどまだ津波のようなもの見えなくて、もう少し登れば助かるなと思って、もう一回前を向いて登ろうとした時に、後ろから水とか波よりも、すごい何十人にも押しつぶされる圧力が体にかかって、そこで気絶しました。(哲也はそこで一晩過ごした感じに?)はい。津波に飲まれて気絶したんですけれども、ずぶ濡れで目が覚めたのが多分もうちょっと三角地帯側の山の斜面なんですけれども、そこで目が覚めて役場の人が山の上から降りてきて、こっちの竹やぶというかそっちに移動するしかなくて、その移動してる最中にもまた大きい津波が来て、またのみ込まれるという恐怖があって震えたりとかもしたし、目覚めたあたりから雪がすごい降ってきて、夜も寒くて、顎がミシンのようにずっと震えてる状態で、、多分あんな寒い夜は二度と経験しないでしょうし、したくもないなって思います。


津波にのまれ、気を失いながらも奇跡的に山に身体を押し付けられ、助かった只野くん。目が覚めたあと、裸足のまま足場の良い竹やぶに移動して一夜を過ごしますが、夜になっても押し寄せる津波、雪が降る凍えるような寒さといった、思い出したくないはずの当時の状況を話してくれました。
只野くんは奇跡的に助かりましたが、同じ大川小に通っていた妹、そして母と祖父を津波で亡くしています。

明日も「大川伝承の会 語り部ガイド」のレポート、お伝えします。

2018年3月5日

3月5日 大川伝承の会 語り部ガイド(1)

今日は、3月4日に行われた、宮城県石巻市、旧・大川小学校での語り部ガイドのレポートです。

東日本大震災の津波で、児童・教職員84名が犠牲となった、旧・大川小学校。当時の避難対応が問われ、「子どもたちを助ける方法があったのでは」という疑問がいまも解決していない場所です。遺族の一人、「小さな命の意味を考える会」代表の佐藤敏郎さんは、2016年「大川伝承の会」を立ち上げて、語り部ガイドを主催。参加者に、震災当日の大川小学校の状況を伝え続けています。

昨日4日は、12回目の語り部ガイドと勉強会が行われ、私も参加してきました。被災した当時のままの校舎、津波が襲った時刻3時37分で止まった時計、
2階の天井に残る津波のあと・・・
その場所で語られた、佐藤敏郎さん、そして鈴木典行さんの声です。

◆あの日、子供たちはどう避難行動をしたのか
「あの日」の話をします。2時46分に大きな地震があって、ほどなく大津波警報が出ます。で、この通り山に囲まれていてですね、それを受けて山に逃げればよかったんですけれども、ずっとここに止まってしまいます。動き出したのは最後の1分。残念ながら最後の1分で、向かったのはあそこの土手です。信号機のところを目指します。結果的には津波に向かって一分間行進した形になります。避難行動については鈴木から説明します。
先生の指示によって校庭に避難します。そこで子供たちはちょうどこの場所に並びました。全校生徒ここに集まるんですけれども、6年生だけは別の行動をとったんです。ここの学校にいた教務主任、自然災害に詳しい先生がいたんです。その先生は津波警報が出る前に、地震の時点で“この地震だったら津波が来るから山へ逃げなさい”っていう指示を出したんです。それを聞いた6年生は向こうの山、なだらかなところへ駆け登ったんです。ところが別の先生から“6年生だめだよ、戻りなさい”ということで、この校庭へ戻ってきたんです。何十分もここに。その間先生たちは“どうしようか”と。子供達は寒くて寒くて雪が降るくらいの気温だったのですが、ジャンバーを持ってきてないんです、急いで逃げてるから。低学年の子は具合悪くなって嘔吐する子、泣き出す子。お漏らしする子もいたと言います。その間いろんな警報が鳴ります。子供を迎えにくるお母さん方の声も聞こえます。“津波くっから早く逃げなよ先生”。そんな言葉を聞いて高学年の子は危機感を感じてくるわけです。“先生、山さ逃げっぺ、ここさいたら死んでしまう”。だけども先生は子供の発言を聞き入れることはなかった。その間、石巻市の広報車が海の方へ向かって確認しに行ったんですね。状況を。そしたら松林を超える津波が見えた。Uターンして戻ってきたんです。そして拡声器で、“津波が来てますから逃げてください”、町を通って行ったんです。学校にも聞こえたそうです。それを聞いた先生方はやっとそこで避難行動を開始するんです。やっと動こうという風になるんです。それで向かったのはさっき説明があったあそこの信号機があるところ。三角形だったので三角地帯と言われてるあそこへ避難しようとなったんです。そして子どもたちは途中で津波に遭う。その避難経路をこれから歩いて行きたいと思いますのでついてきてください。


地表から8.6メートル、海抜1メートルの場所なので10メートル近い津波が、一度でなく二度三度、くりかえし大川小学校を襲いました。
どうして・・・という疑問、二度とこの悲劇を繰り返してはならないという思いが伝わってきます。

「LOVE&HOPE」、明日も「大川伝承の会 語り部ガイド」のレポート、お伝えします。

2018年3月2日

3月2日 中西哲生の漁師体験・戸倉で牡蠣剥き編2

近曜日のプレゼント、中西さんが取材してきた
【戸倉のむき牡蠣(300g入り×2袋)】3名さま。

たくさんのご応募ありがとうございました。
当選者は、、、
・かぼすまる。 さん
・おその さん
・赤いカイロ さん
以上の3名様です。
おめでとうございます!


「やったよ、2個目にしてこのクオリティー!」と見事キレイに牡蠣を剥いた中西に、後藤さんも「オイスターバーのマスターになれますね」と、上手なお世辞(?)

ということで中西哲生さんの、東北・漁師体験取材も今日でラスト!もちろん東北の美味しいプレゼントもあります!
宮城県南三陸町・戸倉地区にある直売所「タブの木」の加工場にお邪魔した我らが中西哲生!こんな感じで、牡蠣剥き作業を体験しました。
こちらタブの木では、こんな感じの、子どもむけ・漁師体験企画もやっているそうです。

そして、そんな取り組みを続ける中、地元の子どもたち・若い世代に変化が起きたと言います。地元の牡蠣漁師・後藤清広さんに伺いました。

◆若い世代に繋ぎたい職業に変わった
――――子どもたちが牡蠣むきに来てくれたり体験をされている中で、ここ3年連続で戸倉で漁師になりたいと入ってきた子がいたんですか。

「そうですね。津波前や直後は若い子、30代は1人もいなくなってしまって50代60代の親父ばっかり残っちゃったんですけれども、今は半分ぐらいは20代から30代。高校卒業してすぐ入ってくれる子もいますし、この春入ってくる子もいますし、去年、一昨年も来ています。」

―――――後藤さんの目から見て今の子どもたちは何に魅力を感じて了承やろうと考えられるんですかね。

「いろいろ新しい取り組みをはじめまして、ASCと言う持続可能な養殖業の認証、国際認証をとって、労働環境もものすごく改善したんですね。時間や条件を改善したり、私たちは以前は若い子に漁業は辛いしきついし、競争して奪い合うものだという意識を求めていたんですが、そんな価値観は全然古くて、今の子どもたちが辛いことやきついこと、力仕事で朝早いのが嫌ということではなくてむしろそれを進んでやっている。漁業は楽しいもの、やりがいがあるもの、むしろ儲かるもの、今の若い世代はFacebookやSNSですぐ発信できますしそれで発信して、一次産業だけではなく商売に変えたり、いろんな可能性がありますんだね。そういうようなことも自由にできたり楽しい作業、未来のある産業と言うような捉え方をしている若い子も結構いるんですよね。そういう価値観を逆に我々親父世代が教えられるというか。」

――――後藤さんとしてはそういう若い世代が入ってきて嬉しいですか。

「やっぱり嬉しいし、うちの長男もいるんですね。活性化するというか、若い子が結婚したりしてその子どもが生まれますんでね、若い世代がまた次の世代へ。100年後の持続可能な漁業考えることによって、今が向上するという。」

――――嬉しいですね

「そうですね。最初は若い子が増える、後継者が増えると言うことを狙っていたわけじゃないんですよ。狙ったわけではないんですけれどもどんどん増えてきて、嬉しいことなんですよね。これまでは親が、自分の子どもに"漁師を継がせたくない"と考えていたけどいまは"継いでほしい"と考えるようになったんですね。それは漁業が衰退産業ではなく将来性のある仕事だと思えるようになったからでしょうね」


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そして!今朝は中西さんが剥いた…わけではありませんが、、戸倉の直売所「タブの木」からASC認証を受けた、戸倉のむき牡蠣(300g入り×2袋)を3名様にプレゼントです!欲しい方は、住所・お名前・連絡先を忘れずに、LOVE&HOPEのメッセージフォームからご応募ください!

2018年3月1日

3月1日 中西哲生の漁師体験・戸倉で牡蠣剥き編1

木曜日のプレゼント、中西さんが取材してきた
【戸倉のむき牡蠣(300g入り×2袋)】3名さま。

たくさんのご応募ありがとうございました。
当選者は、、、
・あーみちゃん さん
・みあ さん
・ハートリボン さん
以上の3名様です。
おめでとうございます!
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きょうは、またまた場所を移動しまして、宮城県南三陸町・戸倉地区からのレポートです。
戸倉にある、「タブの木」という、海の幸の直売所の加工場にお邪魔しました。

体験したのは・・・三陸のでっかい牡蠣を、殻から剥く作業です。

◆カパッとあけて、つるっと食べたい!
牡蠣剥きの先生をしてくれたのは、地元漁協で牡蠣を担当する漁師・後藤 清広さん。
「海水温も低くなって栄養がひとつひとつにより溜まってとってもおいしい時期です」と、これから牡蠣剥き体験に使う牡蠣を用意してくれました。
こちらがその牡蠣!かなり大粒!!


これでも1年もの。戸倉は1年でも牡蠣が立派に大きく育つ自然に恵まれ、国際的なお墨付きもついています。
「震災より前は、過密養殖していたので成長に2年、3年かかったんですね。津波の後は過密養殖の反省から、いかだの数を減らしました。そしたら1年でものすごく立派な牡蠣が育つようになったんです。環境に負荷をかけない養殖方法に変えましたので、私たちもその環境を大事にしようと思って、ASCという持続可能な養殖業を認証する国際認証を取得しました。」と後藤さん。

1年で成長するので甘味も抜群。牡蠣は夏場に産卵を繰り返すたびに渋みがでるのですが、1年で成長するため産卵の回数は1度だけ。ということで、より甘い、ぷりっとした牡蠣になるのだそうです。

と、戸倉の牡蠣の美味しさの理由を知ったところでいよいよ牡蠣剥き体験スタート!まずは後藤さんのお手本。牡蠣にナイフを入れて、貝柱を探って・・・


あざやか!中西も「芸術的!」とオドロキつつ牡蠣向きに挑戦!


時間はかかりましたがキレイに剥けました。後藤さんからも「さすが元一流アスリート!」とお褒めの言葉が。
ちなみに、地元のお母さんたちは朝4時から7時間で、1人3000個くらい剥いちゃうそうです・・・すごい。

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そして!今朝は中西さんが剥いた…わけではありませんが、、戸倉の直売所「タブの木」からASC認証を受けた、戸倉のむき牡蠣(300g入り×2袋)を3名様にプレゼントです!欲しい方は、住所・お名前・連絡先を忘れずに、LOVE&HOPEのメッセージフォームからご応募ください!

パーソナリティ 鈴村健一

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