2018年4月30日

4月30日 南阿蘇村 キッチンカー『minaaso マルデン』


今朝は、熊本地震で大きな被害を受けた、南阿蘇村からのレポートです。お話を伺ったのは、南阿蘇の玄関口“阿蘇大橋”のすぐ目の前でレストランを経営していた『まるでん』オーナー 増田一正さんです。赤い屋根のレストランで「赤牛ステーキカレー」が看板メニューでした。

しかし、熊本地震でお店は全壊。1年前の取材では「同じ場所でのレストラン再開は見通しが立っていない」と話していたんですが…今月再び訪ねると、とある場所で、キッチンカー『minaaso マルデン』で看板メニューが復活していました!

◆阿蘇のあか牛を使ったローストビーフカレー
おススメはこのローストビーフがのってるローストビーフカレーです。阿蘇の赤牛を使って、ランプという部位の肉をローストビーフにして、カレーもキーマカレーなんですけどそのひき肉も赤牛を使ってカレーを作っています。


あか牛ローストビーフが、3枚ドドン!とのったキーマカレー  

キッチンカーを切り盛りしているのは、増田さんの奥様です。お店だけでなく、自宅も被災したため、カレーを仕込む厨房がなく友人が経営するペンションの厨房を借りて仕込みをしているとのこと。

このキッチンカーがオープンしているのは、南阿蘇村の久木野キャンプ場。実は増田さん。震災前から阿蘇の自然を活かしたアウトドアのガイドをしていて震災後は、このキャンプ場を拠点に活動を続けています。


◆店舗兼自宅の再建に向けて再スタート
南阿蘇村の久木野キャンプ場というところでキッチンカーとアウトドアの活動をやっています。カブトムシやクワガタが好んでやってくるクヌギに包まれたキャンプ場です。キッチンカーはじめる前もだいぶ悩んでいたんですけど、お店の方はその場所での再建が難しいということで、土地自体が阿蘇大橋のすぐ近くで、崖のすぐ近くでちょっと恐くて、本当にいい場所だったんですけど、思い出のいっぱいある場所だったんですけど解体して、新しい場所で再建するのがベストかなと思って進めています。移転先が自宅の方で考えているんですけど、自宅も地震で壊れたんで今更地になっているんですけど、だから自宅とお店と一緒にできるような形で進めているんですけど、ただその土地に入っていく道路の問題があってなかなかすぐに復旧できないということで、その間にキッチンカーをはじめたところです。うちの集落すごくちっちゃい集落で、40軒ぐらいの内30軒ぐらい地震でやられてしまって、バラバラになっている状態。地域のコミュニティもどうにかしないといけない。それと地域に入ってくる水の問題も解決されていなくて、もともとあった水源は地震でやられちゃって湧き水をみんなで分けて使っていたんです。その湧き水の場所が地震で崩れてしまって水がない状態だったんですけど、ボーリングして水は出たんですけどみんなが戻ってきた時にそれを賄えるだけの量かどうかもわからないですし。用水路もダメだし。インフル的なことと、地域として成り立っていかないとそこのお店も出来ないかな、というのもあるし。それを考えるとキッチンカーとキャンプ場を盛り上げていって、また始めたんだね〜と言って遠いところから来てくれたり、このキャンプ場で赤牛のビーフカレーを食べていただきながら、自然ののんびりした過ごし方をしてもらいたいなと思います。



もとあったマルデンの場所から離れた所にある、久木野キャンプ場。取材していたこの日も、震災前のご近所さんがこのローストビーフカレー目がけてやって来ていました。一方、店舗を兼ねた自宅再建への道のりはまだまだ遠いようで、集落につながる道路、計画では “来年度中になおす” とされています。そこまで待って戻る住民がどれだけいるのか、そこで商売ができるのかなど心配はつきません。 

南阿蘇村 キッチンカー『minaaso マルデン』facebook

まるでん 増田さんのインタビュー、明日はGWのとっておき情報お伝えします!

2018年4月26日

4月26日 LOVE「今日ここライブ」相馬で開催(2)


今朝も昨日に引き続き、今週土曜日、4月28日に福島県相馬市で音楽イベントを行うシンガーソングライター LOVEさんのインタビューをお送りします。

LOVEさん。震災後の2012年から毎年、東京と大阪で音楽イベントを行ってチケット代の一部と募金を “文房具” に変えて、福島県相馬市の小学校へ入学式や始業式のときに贈ってきました。初年度から7年目を迎える今年、このライブは東京・大阪をはなれてはじめて現地、相馬市で行われます!

さらにこのイベントに先駆けて、LOVEちゃん現地の高校生と一緒に「SOMA BLUE」という新曲のレコーディングを行っているとのこと。「相馬ブルー」、いったいどんな想いが込められているのでしょうか、伺いました。

◆永遠の希望になる青
今回実は「SOMA BLUE」という新曲を現地の高校生ブラスバンドに音楽室でレコーディングしてもらったんですけど、例えばそういうご提案を「やってみよう!」という気質がすごい強い地域だなと思いました。(その新曲はなぜ、相馬ブルーなんですか?)今年相馬の海が7年を経てやっと海開きするんですよ。全国的にリスナーの皆さんは、きっと福島の海は課題があるってイメージあると思うんですけど、実は、特に北の方の相馬の数値は何年も前から安定していて、自分たちを育ててくれた海が一度は悲しい海になり、それでもやっぱり愛しい海で、全国の皆さんに向けて「海びらきしましたよ」って大きな声で言うことがはばかれることも含めて、気持ちが作られるのに7年かかっているんですよね。けど「やっと開く」というそこに至る相馬の皆さんの気持ちを想うと、改めて(震災直後は)大きな声では言えなかった「おめでとう」を、今年は盛大に贈ってあげたくて。それでこの「SOMA BLUE」って曲を書いたんです。
「インミンブルー」っていうアメリカのオレゴン州の新素材研究所ってところで発見された青の顔料なんですけど、コバルトブルー以来世界で200年ぶりに発見された青で、特性が100%紫外線をはじく(お〜じゃ色あせないってこと?)そう、色あせないから永遠の希望になる青だって言われていて、私このニュース見てこれだ!って思って、福島の子供たちにこの青で絵を描いてほしいと思って。この絵具で街を彩っていくことで日本全国に長い希望を発信するということを相馬の皆さんとやりたくて。ただあまりにも顔料が高くて私生まれてはじめて4月28日にクラウドファンディングを立ち上げてみようと思うんです。ちょっと抵抗もあったので、だったらこの青、このインミンブルーを「相馬ブルー」って呼んでいるんですけど、この相馬ブルーを手にしたお礼品として大堀相馬焼きの上絵薬としてこの青を使って陶器を作ったり、新しい青のガラスのアクセサリーを作ったので、ぜひライブ当日「今日ここライブ.com」でも発表しますからご覧いただけたら嬉しいです。3年かけて相馬を青くしながら日本全国に永遠の希望を届けてみたい。
(28日に行われるライブ、具体的に意気込みを最後にお願いします!)
私は音楽ライブをプロデュースしていてcobaさん、中村中さん、渡辺俊美さん、音速ラインなどミュージシャンが集まってきてくれている。地元の皆さんがワークショップとフードを出してくれて、利き酒ワークショップ、ハーモニカJazz奏者の方が子供たちにハーモニカ教えてくれたり、打楽器作れたり輪が広がっています。一日楽しんでください、最後音楽ライブでみんなでひとつになれたらと。(全国から足を運んでもらいたいですね)お待ちしています!(4月28日に相馬市で音楽ライブを行いますLOVEちゃんをお迎えしました。)ありがとうございました。全国の皆さん良い一日を!


LOVEちゃん主催の音楽イベントはあさって、4月28日(土) スポーツアリーナそうまで開催。朝の10時から夕方6時まで、ライブだけじゃなくワークショップ/マーケット/フードなど1日中楽しめる、町をあげてのイベントになっています!
詳しくは公式サイトをご覧ください。


2018年4月25日

4月25日 LOVE「今日ここライブ」相馬で開催(1)

今朝はTOKYO FMとFM OH!で、ラジオパーソナリティとしても活躍中、シンガーソングライターのLOVEさんのインタビューをお送りします。

LOVEさん。震災後の2012年から毎年、東京と大阪で音楽イベントを行い、チケット代の一部と募金を “文房具” に変えて、福島県相馬市の小学校へ入学式や始業式のときにお贈りしてきました。これまで6年間で受け取った小学生はのべ6800人。初年度に一年生だった小学生が、今年は中学生に進学しています。

そんなLOVEさん主催の音楽イベントが、今年はじめて相馬市で行われます!6年かけて、満を持しての現地開催。現在の想いを伺いました。

◆次は相馬で3年間続けることを目標に
もともとは震災後、相馬市から募金活動で来ていた女の子に「お姉さん相馬市に来てよ」って言われて「うん」と言ったのがきっかけで相馬に行くようになり。震災直後に迎えた入学式でいろんな方々が、大きい声で「おめでとう」って言えなかったんだよね、という声がずっと胸に残っていて、私は小さなおめでとうを贈る役割をやろうと決めたのがきっかけ。地元の大阪と東京の2都市開催で6年間、入学式始業式に合わせて文房具をギフトにしてその音楽イベントから寄付で贈るというのを続けてきた。6年続けることが小学校と同じで目標だったんですけど、6年の間に相馬の方々とご縁がまた深まって、次は相馬で中学と同じ3年間開催することを目標にやってみようかなと思って。(イベント自体が育っていってると)何より子供たちが育っていってるので、その過程を追いかけている親戚のおばちゃんの気分じゃないですけど。(でもこれまで6年間文房具をいただいていた子供たちがラブちゃんのライブを相馬で4月28日スポーツアリーナそうまで聞ける)実は子供チケットというのをもう学校で幼稚園から中学校までその地域には配っていたり、大人の皆さんも市役所とか会場に大人チケットを置いていたり、遠方からも来てほしいから一般チケットも用意したんですけど。7年経って思うのは、町づくりだとか外と協力しながら前向きに、アクティブに、っていう空気感ってやっとだと思っていて、今このタイミングで旅行だったり行かれるというのが改めてすごくパワーになるタイミングに来ていると思う(その通りだと思う。だから今回のラブちゃんのライブを観にいくという口実で存分に相馬を楽しんでほしい。相馬に行ったら美味しいものいっぱいあって、漁師の菊地基文さんともお知り合いということで、エネルギーの塊みたいな人ですよね)あれ、町づくり漁師ですね(両方やってますからね)あたしこういうイベントやってて、相馬でやろうって思ったんだけどアドバイスありませんか、って最初聞きにいったら「一発の花火じゃつまんないね」って言われて、継続的に町おこしになることをやろうってご提案を向こうからどんどんアイデアが出て「このチケットってこの一帯で使えるクーポンにならないの」とか、実際に町に本当にお役に立てる方法は何か全部菊地さんたちからいただいているようなもの。


LOVEさん主催の音楽イベントは3日後!4月28日(土)スポーツアリーナそうまで開催。
『LOVEの「今日ここライブ」が相馬に行くという事』
朝の10時から夕方6時まで、ライブだけじゃなくワークショップ/マーケット/フードなど1日中楽しめる、町をあげてのイベントになっています!チケットのお知らせなど詳しくは公式サイトでチェックを。

明日もLOVEさんのインタビューお送りします。

2018年4月24日

4月24日 ハッピーローズアワード受賞、中村雅俊さん(2)

昨日に引き続き、東京ビッグサイトで行われた、東日本大震災の復興支援イベント「フラワードリーム2018」で「ハッピーローズアワード」を受賞した中村雅俊さんのインタビューをお届けします。

「ハッピーローズアワード」は、“花キューピッド”で親しまれている一般社団法人JFTDが主催する「フラワードリーム」の一環として、社会で活躍する60歳以上の方を毎年選んで表彰しています。2011年からは、“東日本大震災の復興支援”というテーマも加わり、震災後継続的に被災地を訪ねて支援活動、応援活動を続けている中村雅俊さんが受賞されました。

ご存知、中村雅俊さんは宮城県女川町の出身。大学に進学するまで女川の町で育ちました。この番組でもたびたび、女川町の方には取材をしていますが「おたづもっこ」→(お調子者)と呼ばれる人たちが多い、ラテン気質の女川町、中村さんにとってはどんな町なのか、聴いてみました。

◆ヤンチャな人が多い!けど優しい
うわーもう怖い街ですよ。もうヤンチャな人が多くて、人口一万人くらいしかいないのに飲み屋200軒ぐらいある。やっぱりマグロ船とカツオ船、で俺が子供の時はクジラ獲れてたのでクジラの基地だったんですよ。だから解剖場があって、いつもチョコレート色したキャッチャーボートが両サイドに捕まえてきたクジラを解剖待ちでいるんですよ。基幹産業は水産業なので、とにかく船乗りさんとか漁業関係者の人みんな口は悪いし、そういう中で育ちましたね。やっぱり振り返るといい街だったなという、あんな風光明媚で、気性はみんな荒いんだけど、優しくて、小っちゃい街だから誰がどうしたってよくわかっていて、お袋がやっぱり飲み屋やってたんですけど、俺が大学を受かった時に近所の人とか、もうほんと町の人たちもみんな“雅俊どこの大学受かった!”ってお袋に言いに来たり、まあ本当に人情味あふれる街で育って良かったなあっていう風に思ってますけどね。


そんなふるさと女川が、2011年、震災による津波で市街地のほとんどが壊滅するという大きな被害を受けました。その時、そして今、中村さんの女川に対する思いは、どう変化してきているのでしょうか。

◆この町をずっと愛していたんだなって
人でいうと健康体だったやつがいきなり事故にあって重体だっていう、やっぱりその現実を食らった時に、初めて“生きていてくれ”とか“元気になってくれ”って思うのと一緒で、やっぱり震災後っていうのは、“ああやっぱり俺は地元なんだな”っていう自覚っていうか、やっぱりちょっと真剣に思って、それはやっぱり普段は会話にも出さないけど、この町をずっと愛していたんだなって、はっきりわかった出来事ですね震災ってのは。で復興のスピードは他の町とか市に比べると女川ってすごく早くて、別にお金があるって事じゃなくて、俺と同い年くらいの連中もものすごい頑張ってて、仲間集めて“よしやるぞ!”とかって、すごいんですよそのチーム力が。若い連中もちゃんとそれに刺激を受けてすごいその結束みたいなのがあって、すごい行動力があるんですよ。だから被災地いろんなとこ行かせてもらうんですけど、贔屓じゃなくて女川は本当にすごく進んでるなっていう実感は行くたんびにあるんですよ。でもあらためて問題は?って提起するとけっこう山積みですよね。それじゃなくてもウチの女川は過疎で少子化で高齢化であの石巻線っていうのが走ってんですけど終着駅で赤字路線だし、震災前なんかは“あの街もダメだな”みたいなところもあったんですけど、震災をきっかけに頑張ろうという意識がすごく高まってるんで、みんなでその気運をずっと持続させようっていうのは思ってるんですけどね。



『LOVE&HOPE』、明日は、復興支援イベント「LOVEフェス3.11」を主宰するLOVEさんとの対談をお届けします。

2018年4月24日

4月23日 ハッピーローズアワード受賞、中村雅俊さん

今朝は先日東京ビッグサイトで行われた、東日本大震災の復興支援イベント「フラワードリーム2018」で「ハッピーローズアワード」を受賞した、歌手で俳優の中村雅俊さんのインタビューをお届けします。

この「ハッピーローズアワード」は、“花キューピッド”で親しまれている一般社団法人「JFTD」が主催する「フラワードリーム」の一環として、社会で活躍する60歳以上の方を毎年選んで表彰しています。2011年からは、“東日本大震災の復興支援”というテーマも加わり、今回は、震災後継続的に被災地を訪ねて支援活動、応援活動を続けている中村雅俊さんが受賞されました。

じつは中村雅俊さん、2011年にも受賞されていて、今回2度目の受賞。宮城県女川町出身の中村さん、震災後は女川町はもちろん、東北の各被災地に継続的に足を運び支援活動を続けていること、そして被災した宮城県東松島市の2つの小学校が統合されて出来た新しい小学校、鳴瀬桜華小学校の校歌「花になろう」を作詞家の松井五郎さんと共に書き下ろしたことも評価されました。

今回再び「ハッピーローズアワード」を受賞したことについてまずは感想を聞いてみました。

◆震災後1年経って真っ黒な中で、パッと花が咲いている
こういうのって一回もらうとあとはもう縁がないのかなと。役者なんかの受賞もそうなんですけど、だいたい遠ざかるんですよね。やっぱりちょうど7年前なんであれからまた自分の行動ってっていうかちゃんと見てもらってそして評価をされてるんだなっていうことで素直に嬉しいですね。3月11日に震災があって、町じたいが茶色というか黒っぽい瓦礫だらけだったんですけれども、たぶん被災されたところはずべてそうだったと思うんですけれども、それが1年経って春になった時に芽吹いてきた緑とか、花のいろんなカラフルな色ってのは、すごく被災された方に勇気を与えたと思うんですよね。やっぱり花の持つ生命力っていうんですかね。あの茶色、真っ黒な中で、死んだように見えていた花たちが、春になるとまた芽吹いてくるっていう生命力ってのは、俺達もなんか行くと“花ってすごいなあ”とか、あの何もない野原にパッと花が咲いてるんですよね。それも誰の助けも借りずに。ああうゆうのってのはすごく勇気になるんじゃないかなっていう風にちょっと思いながら、被災地行ったりしてるんですけどね。



こうした「花」への思いも込めて、作詞家の松井五郎さんと中村雅俊さんが作った東松島市の鳴瀬桜華小学校の校歌「花になろう」。この日は東松島から生徒たちがやってきて、一緒に唄うという場面もありました。

◆子供たちの生き方を花に託す、そんな思いで
松井さんと一緒に校歌を作る時に小学校に行って、いろんなこと思ったんですけれども、花に子供達の生き方を託そうみたいな、あの強い生命力とか、そして周りには「キレイ」とか「可愛い」とか「癒される」っていう、そういういろんな顔を持ってる花みたいに、いま幼い子供達もこれから成長をしてく中で、花みたいになれたらいいんじゃないっていう松井さんの発想もあって、俺は俺で花と子供達の生き方ダブらせるのと同時に、ハモれる曲、つまり2つの学校が一緒になるので、そういう2つのハーモニーっていうか、あとは何とかって歌ったら追っかけみたいなメロディがあるとか、そういう2つの存在があるからハーモニーがあったりとか、そういうふうにやろうと。じっさい俺もそういう校歌らしい校歌って作れないんです。フォークっぽくなるんですけど、まぁそれもまた良しと思って、変な曲だったら俺に依頼した方が悪いなとそういう風に思いつつやらさせてもらいましたけど、じっさい今日は6年生が唄ってくれたけど、ああいう姿はいいなと思いながら、子供達26人に囲まれて歌う、すごい説得力違うと思いますよね、感じ方もね。



明日は中村雅俊さんに、ふるさと女川町について伺います。

2018年4月20日

4月20日 南阿蘇村・立野 ニコニコ饅頭(2)

南阿蘇村・立野地区の老舗饅頭屋さん、「ニコニコ饅頭」の4代目、眄ヂ臺紊気鵑里話しです。

立野は南阿蘇村の北西にあって、JR豊肥本線、南阿蘇鉄道が接続する「立野駅」があり、また熊本市と阿蘇を結ぶ動脈、国道57号線も通るアクセスの要所。地震とそのあとの豪雨で土砂災害が相次ぎ、去年秋まで長期避難認定となって、ほとんどの住民が避難生活を余儀なくされていました。立野駅周辺の鉄道は、JR、南阿蘇鉄道ともに今なお不通となっています。

この立野駅前で、1907年・明治40年から製造販売を続けているのが「ニコニコ饅頭」。震災の約1か月後にお店を再開して、いま熊本市内のスーパーにも卸しています。

国道が通れるようになって、長期避難認定が解除。着実に立野地区の復興は進んでいるように見えますが、現状はどうなのか?眄イ気鵑吠垢ました。聞き手は中西哲生さんです。

◆住民の戻り、今は7%
(いま実際に避難されてる方はこちらに戻ってこられたり出来てるんですか?)いま7%です。やっぱり山に囲まれてますからいつ崩れがあるかどうかわからない危険地区指定になってるんですよね。今年のまた梅雨も怖いんですよね。それが明けてからだと思います。それが明けて、仮設、みなし仮設の方々がもう2年、期限の2年が経ちますから、もうそこ出なくちゃならない方は帰ってこなくちゃならない。家を持ってらっしゃる方ですね。それ以外の方は、たぶん1年延長になってると思います。その方々がこれから先どうするかは、ここに家を建てるのか、復興住宅が来年あたりできるんですよ立野に。そこに住まれるのか、またはもう立野地区外に住まれるのかですね。それはぜんぜんあと2年くらい経たないと分からないんじゃないかと思います。(町としての計画ってのは?)村づくり協議会っていうのがあってですね、それが月一回話し合い。そこで今から先の立野の地区をどうやって行くか。JR も通って南阿蘇鉄道も通って、観光、いろんな人がまた戻ってきて、そういった未来の展望の話でしてますね。
JRは聞くところによると来年の春ぐらいにはここまでは来るっていう話は聞いてましたけど、南阿蘇鉄道はあと4年。そこに向けて逆算して、ちょっとずつちょっとずつですね。


いま現在も、ハザードマップで「危険」を示す赤い区域が多い立野地区。帰還住民は7%に留まるという話でしたが町をぐるりと囲む山々には、土砂崩れの跡がそのまま残っています。「ニコニコ饅頭」がある立野駅前は、「警戒」を示す黄色の区域になっています。

徐々に道路が通り、一時帰宅する人も多くなってきたとか。その時、立野住民の皆さんは「ニコニコ饅頭」に立ち寄られているそうです。

明治40年創業の老舗の味「ニコニコ饅頭」。一口サイズの饅頭で皮がふわっふわで、甘さをおさえたこしあんがしっとり。何個でもいけちゃう美味しいお饅頭でした。

◆ニコニコ饅頭、110年変わらぬ美味しさ!
これサイズ的にはどうでしょうね、両手にちょうど乗っかるぐらいのひとパック8個入っていて「ニコニコ饅頭、阿蘇立野名物、創業明治40年!」いいじゃないですか!じゃあちょっと失礼して、あーまたいいわ、これ。タコ焼きよりもちょっと大きいくらいの。すごいしっとりしてますね、このしっとり感が・・・いただきます〜〜うん、美味しいですこれ、甘さが優しいですね(そうですね甘さをちょっと抑えてはいます)すぐもう一個食べなくなるような、あと軽いですよね、しっとり感はちゃんとあるけれども軽いし。トロッコ列車に乗って食べたかったですね。(それ是非来てください)これはいい!これだけでも食べに来る価値ありますね。このやっぱり立野の空気感っていうか、すごく静かで風が穏やかで山見ながら食べるだけですごい気持ちいいし、今お店のちょっと半分外の上のところで座って食べてますけれども、このあと、ニコニコ饅頭だけは変わらずに、皆に食べて頂けるようになるといいですね。ちょっとこれプレゼントできないのがもったいないな〜これはもう現地に来て頂いて食べて頂くということで・・・(もう是非そうして頂ければ嬉しいです)。


無添加なので消費期限はわずか1日。なので番組プレゼントは出来ませんでした。お許しを・・・。立野の景色を楽しみながら食べていただきたい。

熊本地震から2年が経ちましたが、今なお仮設住宅や借り上げ住宅などに住む避難者の数は約38000人。復興はまだまだ道半ばです。東北と同じく、行って観光するだけでも、支援につながります。GWや夏のお出かけにいかがでしょうか。

2018年4月19日

4月19日 南阿蘇村・立野 ニコニコ饅頭(1)

今週は震災から2年を迎えた、熊本からのレポートをお伝えしています。
今日と明日は、南阿蘇村・立野地区の老舗饅頭屋さん、「ニコニコ饅頭」の4代目、眄ヂ臺紊気鵑里話しです。

立野は南阿蘇村の北西にあって、JR豊肥本線、南阿蘇鉄道が接続する「立野駅」があり、また熊本市と阿蘇を結ぶ動脈、国道57号線も通るアクセスの要所。地震とそのあとの豪雨で土砂災害が相次ぎ、去年秋まで長期避難認定となって、ほとんどの住民が避難生活を余儀なくされていました。立野駅周辺の鉄道は、JR、南阿蘇鉄道ともに今なお不通となっています。

この立野駅前で、1907年・明治40年から製造販売を続けているのが「ニコニコ饅頭」。震災後、立野からはひと足が途絶えてしまいましたが、復興を願っていち早くお店を再開した眄イ気鵑砲話しを伺いました。

◆一か月後にニコニコ饅頭再スタート
(いま立野駅のすぐ横に立ってますけれども本当に気持ちのいい場所ですね)そうですね、まあ自然と水はいいですね。(ここで地震があったときは?)両親は家にいました。私は隣町に住んでますので。店の隣が家なんですね。(どれぐらいの揺れでしたか?)よく“机の下に隠れろ”って言いますけれども、そんな状態じゃないです。もうそういうことはできない状態でしたね。もう立てません。自分の身を守ることだけしか頭になかったです。前前日に地震があったんでまったく寝てなくて、もう来ないだろうな、と思った矢先だったんですね、安心して寝ようかなって時だったんでもうどうにもできなかったですね。(倒壊は?)倒壊はなかったです。私は隣町に住んでいて家も揺れましたけれども、両親はもう連絡が取れなくなって、もう一瞬、諦めました。(いつこちらの方に?)2日後です。通れたのが。国道がもうどこもぐちゃぐちゃで、最初見たときは、私、地元の消防団に入ってるので家の状況をちょっと確認したくらいで、両親が頑張ってどうにかしてる状態で、自分はすぐ学校の方が避難所になってるので消防団で駆けつけて避難してる方々の手配してましたね。(けっこう倒壊した家も多かった?)多かったです。亡くなった方も立野では3人。(ちょうどいま山を見てますけど、山の中腹から下にかけて一気に崩れてる・・・)そうですねこっちの反対側の山もすごいです。これは今まで崩れたこと一回もなかったんですよね。(この場所にはいつも学生とか会社の方とかいっぱい?)そうですね観光客が南阿蘇鉄道のトロッコ列車に乗りに来られたりとか、そういったのも多かったですね。(震災直後はもう当然お店の方は・・・)震災食後は諦めました。饅頭づくりも。それでも地元の方とか、ぜひ頑張ってくれ、ということで、また再開を目指して一ヶ月後ぐらいには無事に再開して、ここで販売はぜんぜんできないので、隣の町の道の駅に問い合わせをして、そこからまた紹介してもらって、いま熊本市内のスーパーに出してる状態です。(じゃ熊本市内のスーパーではいま買える状態?)はい。まあウチでも買えますけれども、はい。


震災後、主要道路も鉄道も不通に、しかも住民も避難した立野地区で、わずか1か月後に饅頭の製造販売を再開した眄イ気鵝1援の声や、水を運んでくれたり支援してくれる人に背中を押されて、再開を決めたということ。

いま長陽大橋が開通して国道57号線が通れるようになり、去年秋には長期避難認定が解除された立野。ただ電車は不通のままで、人通りはほぼありません。

復興への願いも込められた「ニコニコ饅頭」、いまは立野駅前のお店のほか、熊本市内のスーパーでも買うことが出来ます。

2018年4月18日

4月18日 熊本地震から2年 地獄温泉「清風荘」(3)


阿蘇の山麓で200年以上にわたり、湯治の湯として愛されてきた地獄温泉「清風荘」。3つの源泉を楽しむことができる人気の宿でした。しかし熊本地震と豪雨災害で旅館に大量の土砂が流れ込み、本館を残しておよそ8割の建物が解体を余儀なくされました。


清風荘の代表、河津誠さんに案内されたのは、今でも湯船の底からポコポコと温泉が湧き続ける「すずめの湯」。震災後も変わらぬ姿に、勇気を与えています。


河)ボコボコ沸いてるでしょ
中)じゃ、実際に手を入れさせていただきます・・・ちょうどいい!!!
河)誰も入ってないのにね、とにかくこうやって沸き続けているんですよ。


そんな江戸時代から人々に愛された名湯を復活させるため、清風荘では復興ファンドの募集を始めています。「すずめの湯」と「本館」の再生。新たな伝統づくりへの挑戦です。

◆新しい技術で古いものを守っていく
河)新しいトライをすることで老舗は100年200年、400年と続くんですよね。新しいトライをしようと思わない企業はだいたい30年ぐらいで終わります。ですから今回も新しいトライをしたいなと。誰に泊まってもらいたいかというと、世界のお客様に泊まってもらってここから日本の文化につなげて観光してもらって、新しい観光の形のプラットホームの役割をしたい。ですからここは外国の方も入りやすいように水着をつけて入るスタイルにする。
本館はこれだけの被害なので全部取り戻せるわけではない。前通りには戻れないと2年も経てばわかるんです。計画としては7割復旧です。部屋も7割なので減らすことになります。壁は実は新建材が覆っていたものが地震で揺れて中の土壁が見えて本物がわかったので本物に戻します。だけどここは標高800mぐらいあって寒いところなので暖かくいられるよう2重窓にしたり床暖房入れたり、今まで襖ごしの部屋しかなかったので今度はベッドルームと居間と2間を使って大きな部屋にして単価を上げるなどいろんなトライをします。だけど仕上がりは、お得意様から「さらに古くなったね」と誉めてもらえるような仕上がりにします。そういうのを新しい技術の床暖房とか2重窓、耐震の構造とかを取り入れながら古いものを守っていく。それを今までの200年と同じように磨きましょうと。それがまた伝統になります。
中)どんどん図々しく両手まで入ってしまいました。本当にすごいよ、ビックリした
河)足湯でお願いします、と言ってるだけで落ちてもらうのは構わないですよ!(笑)
中)これほんとすごい、だって触って俺の肌!スゴイわ〜



「過去200年の歴史と、これから200年先の未来をつなぐんだ」「それを考えるとやめる理由はない」と語る河津誠さんら、清風荘を応援しましょう。

★現在「すずめの湯」や本館の再建を目標としたクラウドファンディングが始まっています。金額に応じた入浴券や宿泊などの特典もあります。(期間は来年の3月まで) 

⇒詳しくはこちらのサイトをご覧ください。

2018年4月17日

4月17日 熊本地震から2年 地獄温泉「清風荘」(2)

今朝も引き続き、熊本地震から2年を迎えた南阿蘇村からのレポートです。

阿蘇の山麓で200年以上にわたり、湯治の湯として愛されてきた「地獄温泉 清風荘」。地震と豪雨災害によって大量の土砂が旅館に流れ込み、 一部を残して建物の解体を余儀なくされました。

そんな2重の災害にもめげず、清風荘の代表、河津誠さんは「すぐに復興しよう」ではなく、“100年先・200年先”を見据えています。その心の支えとなっているのが、130年前に建てられ、取り壊しを免れた「本館」と、1つだけ残った温泉「すずめの湯」でした。

◆誰も入ってないのにここで沸き続けている
中)そこまで聞くとお湯に入りたくなる
河)もう1つ僕らの元気を支えてくれて、常に変わらぬ態度で接してくれるものがあるんですね、だから僕らがブレない気持ちでいられる。それを見にいきましょう
中)うわ〜香りがすごい!
河)これは世界でも珍しい、源泉に直接入るお風呂です。普通こういった濁った硫黄泉というのは熱くて入れないんです。だけど奇跡的にあの石垣の下から天然の水が沸いてそれが絶妙にブレンドされているんです。
中)乳白色でものすごいきれいな色で美しいですよ
河)ボコボコ沸いてるでしょ
中)じゃ、実際に手を入れさせていただきます・・・ちょうどいい!!!
河)誰も入ってないのにね、とにかくこうやって沸き続けているんですよ。
中)もう、10日ぐらいここに居ていいですか
河)お得意様はここに入りますね。この角。静かにしていただくと、ボコボコだけじゃなく、シャンパンみたいな「シャーー」という音がします (実際にシャーーっと炭酸水の様な音が聞こえます)
やっぱりこれがあるからお客さんに入っていただきたいと思いますよね
中)これは僕も日本全国の方に入っていただきたいですね、どうしても。
あとは源泉に直接足を入れさせていただいていますけど、この贅沢はないですね。
河)まずは道路が入れるようになることが第一条件ですね。一応来年4月の予定なんですけど遅れると言っています。
今はベストな状態じゃないんですよ、白い幕が張ったりしてるでしょ、これはうまい循環になってない、まだ、ただ沸いているただのお湯です。これを僕らが営業してお客さまが入るという循環が加わるとはじめて温泉になる。というのも地震で休んではじめてわかったことですね。こんなふうに以前はなってなかったから。
でガスの中に硫化水素が含まれているので囲えないんです、囲うと人が死んじゃうんです。それで男女混浴に。これから外国のお客様も迎えないといけないので湯浴み着を付けて入ることにします。思い切って。


唯一残った「すずめの湯」は、地震後も止まることなくボコボコと沸き続けています…ここだけ時が止まってないような、震災なんてなかったかのように入浴する人を待っています。


★現在、この「すずめの湯」や本館の再建を目標としたクラウドファンディングが始まっています。(今年の3月〜来年の3月まで受付)金額に応じた入浴券や宿泊などの特典があります。
詳しくはコチラをご覧ください

河津さんのさらなる復興への想い、明日もお伝えします。

清風荘ホームページはコチラ。

2018年4月16日

4月16日 熊本地震から2年 地獄温泉「清風荘」(1)

今朝は、熊本地震で大きな被害を受けた、南阿蘇村からのレポートです。

今回中西さんが訪ねたのは、熊本地震と豪雨災害によって甚大な被害を受けた阿蘇の地獄温泉、200年の歴史を誇る老舗旅館「清風荘」です。
もっとも被害を大きくさせたのが、震災から2ヶ月後に阿蘇地方を襲った豪雨による土石流。大量の土砂が旅館に流れ込み、一部(本館)を残して建物の解体を余儀なくされました。宿に通じる道は現在も閉鎖されたままで、土砂を運び出す作業が今なお遅れています。

昨年の風景


本館を残して建物の解体が進んだ2年目


そんな2重の災害にもめげず、一歩ずつ、“温泉の再開”に向けての活動が始まっています。「清風荘」の代表、河津誠さんに案内していただきました。

◆「壊したことでいろんな夢が見られるんです」
中)風も気持ちいい、鳥の鳴き声もするし、素晴らしいところですね。歩いているこの辺りすごく硫黄の香りがしますね
河)この辺りお湯も沸きますし、ガスもどんどん沸いている場所です。
熊本地震から2ヶ月後の6月20日の大雨による土石流で、あそこに自動販売機が何台か転がっていますが、流されちゃったんですね。川の音が聞こえると思いますけど、その川が土砂で堰き止められて溢れて、この宿を壊しながらこっちに流れて、地獄温泉の敷地内を川が流れている状態で。新館も旧館も泥だらけです。
これが本館です。明治の中期、およそ130年前ぐらいに建てたものですが、今回解体したことによって大昔の人のものすごい執念のこもったものが出てきました。ちょっと見にいきましょうか・・・


中)すごいしっかりしてますね、床もものすごい丁寧に作られている・・・ 
河)そうですね130年前は今車で来た道もなかった、歩いてしか来れなかった時代にこんなでかいのをこんな山の中に作ってるんです。
解体前は全くこれ見えなかったんです。

中)あ、(本館裏の床下に)石垣が。
河)この辺りは沼地なんです。制御しないとここに建物建てられないのでまず掘って石垣作って水を逃がしたんです。それをまだパワーシャベルもない頃に全部手でやってる。この石運んできたと思いますか?歩かないといけないのに絶対に運んでないですよね。ここから出てきた石をきれいに削ってのっけて。お城並みなんですよこれ。なぜこんなことしたかというと、歩いてしか来れないので日帰りで帰ってくれなんて言えないじゃないですか、お風呂入りに来た人に。だからどうしても泊めたいと思ったんでしょうね。ゆっくりしてもらいたい、痛みを治してもらいたい、傷を治したもらいたい。じゃ泊るところが必要。じゃここ基盤づくりから始めましょうと。というのを僕ら今回の地震ではじめて知ったわけです。「なにめそめそしているんだ、このぐらいのことで」と、そういうメッセージが伝わってきます。そのエネルギーはスゴイですよ。そうなると諦める理由にはならないでしょこの状況は。ま地震はあったけどこの先祖たちの苦労に比べれば全然楽だと。今度はこの沼地もロケーションとして活かしちゃおうと、水が出るんだったら水の庭にしようと、壊したことでいろんな夢が見られるんです。その夢はあと100年磨きましょうと、一生懸命この方たちがやったように。そうすれば新しい技術が次の伝統になっていませんか?というコンセプトです。


旅館の解体をして見えてきた老舗旅館の歴史。本館の裏、山の水をハケさせるための石垣は、河津さんや兄弟も知らなかったそうで、先月この石垣を発見した
ことで目標がクリアになり「この夢を100年磨くとすれば自分の代では完結しないので、思いっきりじっくり考えられる」ととても明るい表情で話してくれました。
そしてもう1つ、河津さんに元気を与えてくれているのが、今も変わらず沸き続けてくれている源泉です。復旧への想い、続きは明日お伝えします。

2018年4月13日

4月13日 献上桃の郷BBQフェス(2)

今朝は昨日に続いて、いま桃の花が満開の季節を迎えている福島県の桃源郷、桑折町について綿谷エリナさんのレポートです。

あさって日曜日に行われる、桃の花を見ながらバーベキューを楽しんじゃおう!という「献上桃の郷BBQフェス」。会場である桑折町の桃畑はものすごく広大で、いま満開を迎えているということです。そんな桃の花の下でバーベキューを楽しむ!という贅沢なイベントは今回で3回目。あらためてこのイベントについて、実行委員長の佐藤克巳さんに伺いました。

◆桃の花で一面ピンク!空の青と山の緑と桃畑のピンクの中BBQ
桑折町は平成6年から献上桃、皇室に桃を献上していたんですね。それで今年また皇室に送られれば25年目の献上の桃の里なんです。そこをもっとアピールして桑折町の知名度をアップして全国に広めて、桑折から桃を買って頂こうということで、この桃源郷・・・桃の花すごいピンクでもう満開なると素晴らしい景色なんです・・・今年で3回目になるんですけれども、この中でバーベキューやって、いろんな人を呼んでアピールしようということで始まったわけです。(何人ぐらいのいらっしゃるんですか?)毎回1000人程度募集しまして、一人2000円なんですけれども、牛肉と豚肉、野菜、みんなセット。カラ身で来て頂ければコンロも用意してますので、来て、食べて、桃の花見ながら、夏になったら「あかつき」出たら今度はまた桃を食べて頂きたいということでやっております。(ここ一面がぜんぶ満開なんですね)一面ピンク。桜より色がピンクでキレイ。空の青と山の緑と桃畑のピンク、これがいいコントラストで、お酒飲まなくても酔っちゃうような感じですね。(まるで夢のような世界ですね)まさに桃源郷ですね。(イベントは当日あるんでしょうか?)ステージではですね風船の国アリスというバルーンを創作したお話しや、ぺんぎんナッツってお笑いもあります・・・昨年はAKBの一部が来たんですけれども今年はちょっと・・・(笑)・・・あとゆっくり飲んで食べてもらえれば。(佐藤さんにとってここの景色というのはどういったものなんでしょうか?)小さい頃から見慣れた桃畑なんですけれども、私らは当たり前の景色だと思っていたんですけど、外から来た人はすごい絶賛でお褒めの言葉を頂きまして、すごいいいところだということで改めて気づかされていますね。やっぱり誇りに思って推薦したいと思いますのでよろしくお願いします。


「献上桃の郷BBQフェス」は、あさって日曜日開催。チケットの申し込みは締め切りとなっていますので、行きたい!と思った方は来年にぜひ!でもBBQはなくても桑折町の満開の桃の花は一見の価値ありです!まさに桃源郷。ぜひ散策に訪れてはいかがでしょうか。

また皇室にも献上されるほど美味しい桃は7月から出荷が始まりますが、果汁たっぷりのソルベやグミ、ワインなど、町の6次化産業商品も販売しています。
そして近くには半田山(はんだやま)という風光明媚な観光名所もあります。これからGW、夏休みのお出かけに、桑折町、いかがでしょうか?

2018年4月12日

4月12日 献上桃の郷BBQフェス

今朝は、いま桃の花が満開の季節を迎えている福島県の桃源郷について、綿谷エリナさんのレポートです。

15日(日)に、桃の花を見ながらバーベキューを楽しんじゃおうというイベント、「献上桃の郷BBQフェス」が行われる桑折町の桃について、桑折町産業振興課の朽木健太朗さんにお話しを伺いました。

◆皇室献上の美味しい桃
桑折町ではもともと養蚕業が盛んだったんですが、大正時代から徐々に果樹栽培の方にシフトチェンジして、その頃から桃の栽培を始めました。(となりに桑の木が・・・)まだ名残がありますね。(今どれぐらいの規模で栽培されていますか?)福島県自体が果樹王国でとくに桃は有名なんですけれども、中でも桑折町はとても高品質な桃の生産をしておりまして、桑折町の農家のほとんどの方が桃の生産に携わっています。(どんな桃が?)7月初めの「はなよめ」「はつひめ」から、有名な「あかつき」、「ぎょうせい」、「ひかわはくほう」、9月末の「さくら」くらいまで、いろんな品種を作っています。(中でもいちばん多い品種は?)桑折町の桃でいちばんはやはり「あかつき」。(それがすごく有名で皇室にもう献上するようになったということなんですけれどもいつ頃から?)平成6年から福島県知事の指定を受けておりまして、毎年皇室、宮家の方に献上させて頂いております。(今年も献上できそうですかね?)はい今年も是非献上の指定を受ければ25年連続ということになりますので、町としては期待を含めて待っているところです。(2011年に震災。その時の状況というのは?)桑折町は停電も3日ほど続いたり道路の陥没もしたりだったんですが、やはり原発事故による風評被害払拭、これが皆さん苦しんでおられたのかなと思います。(でもその間も献上されてたんですよね?)農家の方も大変だったんですけれども、すぐに果樹除染を行なったり、桃のモニタリングだったり、すぐ検査をして、安全安心な桃を届けられるようなかたちで生産しておりましたので、そういった形で連続で献上をさせて頂いておりました。(でもすぐに復活とはいかなかった?)生産者はずっと生産していたんですが、被害という意味でいちばん大きかったのがやはり風評被害。消費者の買い控えだったり生産したものの値段が震災前の水準になかなか戻らないということで、そういった部分を町の方でも安全安心な桑折町の桃ということでPR をさせて頂いていた結果もございまして、何とか昨年には震災前の水準に戻ったというところです。


7月の「はなよめ」「はつひめ」から始まる桑折町の桃。8月には主力の「あかつき」が出荷になり、今年も皇室に献上されれば、25年連続となります。
また町では“もっと桑折町の桃をPRしよう”と、6次化産業にも取り組み、果汁たっぷりのソルベやグミ、ワインなども作っています。

明日は日曜日に開催される、「献上桃の郷BBQフェス」についてお届けします。

2018年4月11日

4月11日 岩手県宮古市 7年前の郵便局員さん

今日お伝えするのは、7年前に出会った岩手県宮古市のある郵便局員のお話し。

「オモトさんいらっしゃいますか?・・・(配達風景)・・・
(配達はいつから始められた?)配達は、自分も被災して詳しいことは分かりませんけど次の日くらいに避難所がだいたい分かってきて、そこから避難所の方と協力して、それで自分たちで調査して持って行ってるような感じでしたね。(配達される皆さんも被災されている?)自分もそうなんですけど家が流されたりしてる人もいます。(それでもこうして配達されている)自分だけじゃないっていう言い方は変かもしれないですけど、自分よりつらい人もいるので、そういう感じでやってないと自分もまいりそうなんで。」


このやりとりは、2011年4月9日、震災から1か月足らず、避難所となっていた宮古市の鍬ケ崎(くわがさき)小学校でのやりとりです。多くの家が津波で流された鍬ケ崎地区。避難所にスタッフが取材で訪れた時、身を寄せていた住民の多くは、まだ被災のショックで口数も少なく、沈んだ空気が流れていました。そこへ現れたのがこちらの郵便局員さん。私服のまま、郵便物を届けに来ていました。その瞬間、避難所の沈んだ空気が和らぎました。彼の名前は林崎広大さん。宮古郵便局の郵便局員です。林崎さんも住んでいたアパートを流されましたが、すぐに住む部屋を見つけ、瓦礫だらけの町を走って郵便物を届けていました。

この時の出会いから7年が経ちましたが、林崎さんはいまも宮古で配達業務を続けています。今回、久しぶりに再会してお話しを伺いました。

◆市民のために声を出し続けた警察の人が亡くなった
今でも自分の頭に残っているのは、地震があって、浜に降りて行ったんですけど、みんなが避難してる時に降りていって、警察の人が“早く逃げろ、郵便屋さん早く逃げろ”ってマイク越しに言ってくれたんですけど、その人が亡くなったんです。鍬ケ崎に交番があって、配達で顔を合わせてた人なんですけど。自分はそこに、同じ時間同じ場所に居たのに、市民のために声を出して、早く逃げろ早く逃げろって言ってくれたんで、自分は助かったのかなって思いますね。その言葉だけは今でも覚えてますね。


岩手県の沿岸部中部にある宮古市。東日本大震災では、死者行方不明者合わせて568名の方が犠牲になり、家屋の倒壊は4098棟に上りました。そんな中、いち早く業務を再開した宮古郵便局。当時は安否確認の便りも多かったことから、林崎さんも先輩たちと一緒になって、懸命に配達業務に尽力していました。郵便局員として、おもに鍬ケ崎地区の復興を見つめ続けてきた林崎さんに、7年経っての思いを伺ってみました。

◆いい景色になってきた
こういうことがあって毎日毎日がむしゃらにやって来たら、7年経ってたような感じですかね。でもいま、宮古は本当にほかの山田、大船渡、宮城の方にくらべれば復興が早い方だと思うんで、それこそ先ほど行った小学校の近辺もかさ上げ工事が終わって、仮設住宅からやっと家を建てて戻ってこれる人たちも居るんで、やっぱそういう人たちと、“ああ戻ってきましたね”とかって話が出来るんで、“長かったね〜、やっとだよ〜”って言ってくれるんで、ふだんから顔なじみの人はやっぱり、“お兄さん久しぶりだね〜”とか言ってくれるんで、やっぱそういうのがあると、“良かったな”と思わず笑顔にもなるんで、なかには“休んでいけ”とか言ってくれるんですけど、“仕事です”って冗談を言いながら。やっぱそういうのをじかに感じられるんで嬉しいですよね。やっぱり少しずつですけど、元に戻ってきたっていうか、いい景色になってきたとは思いますね。


かさ上げが終わって、家が少しずつ建ち始めている鍬ケ崎地区に、林崎さんが配達するバイクの音が響いています。

『LOVE&HOPE』、明日は、福島県桑折町から「献上桃の郷BBQフェス」の話題をお届けします。

2018年4月11日

4月10日 福島県富岡町で小中学校再開(2)


原発事故による避難指示が昨年4月に解除された福島県富岡町で先日7年ぶりに小中学校が再開しました。入学、進学した小中学生は17人です。一方、町では避難先の「三春校」も存続します。こちらは児童・生徒、併せて22人。今回は、富岡校と三春校の合同入学式となりました。


富岡小学校の校長に就任した、岩崎秀一さんに話を聞きました。

◆三春の少人数による教育のノウハウを、富岡校へ
三春と富岡は60キロ離れているから合同の入学式、セレモニーをやるといったときに、「この距離の壁はきついな」と思いましたが、実際にやってみて子どもたちは短い時間だったけど会うことで打ち解けて、同じ富岡の仲間なんだという気持ちが芽生えたみたいですね。だから最後あんなになかよく手を振りながらお別れができたのかなと思います。
少人数学級による教育のノウハウは三春校にあります。実績がある。その結果が三春の子どもたちの姿にあるんです。これからは三春校でやってきたことを富岡校でも継承してやっていきたい。授業はもちろん、まずは4月13日の合同遠足。夜ノ森に三春校の子どもたちを呼んで、桜を見て、天神岬に行って、その後合同バーベキュー会。みんなでご飯を作って、みんなで食べて片づけをする。絶対意義のあることだと思っています。それをまず一番最初にやる。運動会もやりたい。学習発表会も一緒にやりたい。富岡校単独で授業もやりますが、どうしたら三春校と一緒に合同授業ができるかなと知恵を絞っています。できる限り、三春と富岡の距離を縮めていきたいと思っています。

お父さん、お母さんが富岡に関わりがありますが、富岡の子どもたちは全然ここに住んだことがないんです。この子どもたちのスタートは富岡町を知ることから始まります。せっかく住んでいるんだから、自分たちから町へ出かけていこう。また、いろんな方がいるんだから学校に来ていただこう。人から学ぶということを富岡の子どもはやっていきます。富岡の人、モノ、コトについてゼロから知ることから始める。これは小学校も中学校も同じ。なので1Fはふれあいの場としようと考えていて、町民の皆さんがいつでも集まることができる場にしたい。2Fが学びの場。2Fから1Fに降りてくると、地域のおじいちゃん、おばあちゃんがいる、というような。やっぱり復興の拠点は学校なんです。いろんな老人クラブの方と授業をやりましたが、わたしがお礼を言うと、逆にお礼を言われました。「わたしたちは子どもたちから元気をもらったわ」と。たぶん、この町に戻ってきた方、ご高齢の方がほとんどですが、震災さえなければ二世帯三世帯同居でずっと一緒に生活をしていたはずなんです。でも震災でなかなかお孫さんとも会えない。そういう生活をこの7年間してきたのではないか。だからなおさら子どもに対しては強い思いがあるんじゃないかなと思っています。


原発事故後、7年ぶりに富岡で学校が再開しましたが、小・中学生あわせて17人とまだまだ人数は少ない。でも岩崎校長先生は、「ここからがスタート。2年3年のスパンではなく、10年、20年後に子供たちがこの学校に入りたい!と思えるような学校を作りたい」と話してくれました。
また、お子さんを三春校に通わせている保護者の一人は「富岡町はまだ暮らすには不十分。環境が整ったら戻ってきてもいいと思っている。まだスタートしたばかり。子どものことを第一に、先のことはゆっくり考えていきたい。」と話してくれました。

富岡町の子どもたちの様子、これからも引き続きお伝えしてきます。

2018年4月9日

4月9日 福島県富岡町で小中学校再開

原発事故による避難指示が昨年4月に解除された福島県富岡町で、先日7年ぶりに町内で小中学校が再開しました。

富岡町ではこの4月から、町に戻った住民と避難を続ける住民のため、町内と三春町、2つの場所で小中学校を運営します。
今回は富岡校と三春校の小中学校、合同の入学式でした。中学3年、持舘さくらさんの挨拶です。

◆学校再開の言葉
ここ富岡町はわたしたちが日々学んでいる三春町より暖かいです。街のシンボルである桜も三春町より早く、満開を迎えました。そんな花々に見守られ、今日学校再開を迎えることができ、とてもうれしく思います。富岡町と三春町、距離はあっても同じ富岡の生徒として、これからの学校生活を歩んでいきたいです。この本校が新たな思い出で彩られることを心からお祈りし、あいさつといたします。三春校児童生徒一同代表、持舘さくら。



今年度、富岡校に入学した小学1年生は2人。三春校は1人。中学生は、富岡校に2人、のみです。
富岡校に入学した、元気いっぱいの新1年生、三国優君の声です!

「三国優です。1年生です。行く前にドキドキしました。だってさー、広かったから。(学校に入って頑張りたいことは?)跳び箱と逆立ちです。(お勉強は?)国語です。(好きな本は?)車図鑑です。」

そして、三国優君のお母さんにもお話を伺いました。

◆「旦那が復興関係の仕事でこちらに移ってきて。わたしは宮城から、3月の半ばぐらいに息子と移り住んできました。教育も充実しているいうのもいいなあと。あんまり抵抗もなかったし、すんなり入ってこれました。(富岡小学校に寄せる期待は?)クラスの人数が多いよりは、こんなふうな少人数のほうがコミュニケーションが取れる人数で、子どもにとってもいいのでは。これから復興でにぎわっていけばいいなあと思っています。」


◆町民も大歓迎「開かれた学校に」
「やっぱり子どもの声を聞くと安心します。人数がまだまだだからね、お家を直している人もいるから、だんだんと戻ってくるのではないか。そうしたら町もにぎやかになるんじゃないですかね。」
「ほんとに富岡町にこんなに人がいたの?というくらいにたくさんの人が集まって。おめでとう!って大歓迎だったですよ〜。孫もいないからこういうときにでも行って学校を探検しようかと思って。やっぱり来てよかった〜。開かれた学校になるんじゃないですか。」


この日、校門前で入場してくる子供たちを、多くの町民に出迎えられる場面もあるなど地域の方たちも、学校の再開を歓迎していました。

 
明日も続きをお伝えします

2018年4月4日

4月4日 陸前高田、今できる支援

今日も、岩手県・陸前高田市からのレポートです。

街の津波到達地点に桜の木を植えるプロジェクト「桜ライン311」。代表理事の岡本翔馬さんは地域復興のさまざまな取り組みにもチャレンジしています。「桜ライン」では例年より3週間ほど早く、3月下旬に早咲きの桜が開花し今週すでに見ごろを迎えています。岡本さんが桜を見て思い出すのは、震災で亡くした友人や後輩のことです。

◆生き残ったぼくらが出来ること
実際こうやって東京によく来させてもらっていただいてるんですけど、震災から7年経って、なかなか現地に赴くことができないということもあると思う。こっちにいながらどんなことができるのかということに意識を持ってくださっている方がたくさんいる、と本当に感じています。遠くにいながら陸前高田に関われるような、ある種ご提案のようなものをいま現地にいる僕たちがどんどん作っていかなければいけないなと思っています。例えば桜ライン311の植樹のようなものだったり、春になるとわたしたちのチャリティグッズをつくって販売してくださっている方たちもいます。そういうのも一つの関わり方だと思います。高田暮舎もそうですが、どれだけ多くに人たちに陸前高田に関わり続けてもらえるかというのが、僕のなかではすごく大きなテーマとなっています。

東日本大震災は確かにいまでも多くの人が苦しんでいて、多くの人が亡くなったのは痛ましいものではありますが、それをそのまま終わらせてしまうのか、言葉はよくないかもしれないけれど、東日本大震災があったから今の僕らがいるよね、いまの陸前高田があって、岩手があって、いまの日本があるよねと思えるようになるのは、生き残った僕らだからできることだと思う。なので、復興みたいなことを考えるときに、元の、従前の形に戻すことが僕はゴールじゃなくていいと考えている。震災がきっかけで生まれた、ある種の「芽」のようなものが育っていって、いままでにない「価値」みたいなものが作れたらと思っています。僕自身35歳になりますが、一度きりしかない人生だし、震災で亡くなった親しい後輩や同級生に胸を張って会いに行けるように生きていたいと思う。笑って、本気で過ごしていくというのが、僕のある種の人生の目的ではありますね。


「これからも、陸前高田の内と外をつなぐ役割を果たしていきたい。」と話してくれた岡本さん。おすすめの陸前高田情報として、「うごく七夕まつり」の話もしてくれました。高田の夏の風物詩。きらびやかに飾られた巨大な山車が、威勢のいいお囃子にあわせて街を練り歩くお祭りです。毎年8月7日に開催予定です。

「桜ライン311」では、マンスリーサポーターや古本での寄付も受け付けています。詳しくはプロジェクトのオフィシャルサイトで確認を。

2018年4月3日

4月3日 陸前高田「高田暮舎」

今日も、岩手県・陸前高田市からのレポートです。

昨日ご紹介した陸前高田の「桜ライン、311」代表理事の岡本翔馬さんは、ほかにも地域復興のさまざまな取り組みにチャレンジしています。その一つが、「高田暮舎」。陸前高田に移住や定住を考える方に情報を提供。移住定住後のサポートも行っています。

◆地域の人との円滑なコミュニケーションづくり
陸前高田市の移住定住総合支援事業を請け負っている法人格。陸前高田市に引っ越してきたいという方に情報提供を行ったり、高田の場合は街の中心が流されてしまったので、そもそも家がないので、空き家バンクや住む場所の情報提供が活動の中心。わたしたちが特徴としたいと思っているのは、過不足のない情報をちゃんと正しく伝えること。陸前高田は東日本大震災で大きなダメ―ジを受けているので、必ずしも利便性がいいわけでもない。地域の人たちに受け入れられて、自分の居場所だと思えるかどうかというのがすごく重要なことだと考えている。地域の人たちと移住者さんが、円滑なコミュニケーションをとれるようになるような事業を展開しています。


岡本さん自身、陸前高田市出身。大学卒業後、東京で仕事をしていましたが震災をきっかけに故郷に戻り、地域の復興に取り組んでいます。

◆自分らしく生きる
僕が今回震災をきっかけにUターンして陸前高田でいろいろやらせてもらうなかで、外の人たちとなにかやる、やりやすい環境があるというのが、いまの陸前高田の特徴の一つだなと思っています。震災をきっかけに、個人の方や団体の方、企業や行政など、いろんな人たちが行政に関わって、いまのこの街があるので、地域だけでなく外の人たちと一緒にどう復興に向かっていくか、その先の街づくりを見据えていくかということが、ある種ベンチャーがしやすい空気が陸前高田の特徴だと思います。実際に移住してくるかたで僕の周りにすごく多いのは、「自分らしく生きる」ということに意識や関心が強い人が多いなと。そういう意味では、必ずしも陸前高田が都市部のように発展していくのがいいのではなくて、いい意味での地域らしさ、人のつながりで生かされているんだなと思う瞬間が多くて、それは地域のつながりも強いので、その中から自分らしさ、自分の居場所だと思えるような街づくりができるんじゃないかなと思っています。


「ポジティブな過疎地を創る」これが、高田暮舎のミッションだそうです。
誰もが「自分の居場所」を探している。陸前高田に興味を持った人の、「自分らしく生きたい」という気持ちを応援するのが「高田暮舎」です。

詳しくは「高田暮舎」のfacebookで確認を。

明日も岡本翔馬さんのお話です。

2018年4月2日

4月2日 桜ライン311

今日は、「桜ライン311」の話題です。

東日本大震災による津波で甚大な被害が出た、岩手県・陸前高田市。津波は市街地にもおよび、人口のおよそ10分の1が犠牲になりました。「この教訓を次の世代に伝えたい。」そんな強い想いからスタートしたのが「桜ライン311」です。これまでも何度か、この「LOVE&HOPE」でご紹介してきましたが、今日はその最新情報。お話は、「桜ライン311」の岡本翔馬さんです。

◆植樹活動に20年かかる理由
2011年10月からスタート。陸前高田市内の津波到達地点に17000本の桜を植えて、どこまで津波が来たかを後世に残そうという取り組み。いま現状、市内でおよそ2800か所に1400本くらいの桜を植えました。震災から7年が経ち、大きな課題としては、わたしたちの植樹の事業は植えるだけでも20年ぐらいかかるだろうと認識していて、なんでそんなにかかるかというと、一つは復興関連の工事が終わらないと植えられない現場がたくさんあること。もう一つは地域の人が遺したいと思えるまでに時間がかかるということ。例えば津波の到達地点上にご自宅があって流されて、ご家族が流されていたとすると、東日本大震災は覚えていたい出来事かというと、残念ながらそうではない。(東日本大震災と大津波のことを)なかったことにはしたくないというのは地域の皆さんが皆思っていることだが、それに自分が自発的に参加できるよになるには、それぞれ時間が必要で、それが5年の方もいれば10年の方もいれば20年の方もいる。50年、100年と街に受け継がれていく事業をどういうふうに繋げていくかというのは、これからやっていかなきゃいけないところだと思っています。


陸前高田市の津波の到達地点は、ラインにすると全長170キロ。そこに10メートル間隔で桜の木を植樹すると、全部で1万7000本になるという計算です。「桜ライン311」では、毎年春と秋に、桜の木を植える「植樹会」を行っています。

◆未来にどう伝承していくか
先日3月10日にも植樹会を行って。北は北海道、南は愛媛からもお越しいただいきました。街が復興に向かう中で外の人が関わりやすいプロジェクトがどんどん減っているのも事実。こうして継続的に町の未来に関われる「桜ライン311」のような事業はすごく価値があるものなんだよ、と先日おっしゃっていただいた。来るきっかけを与える、という意味で。まさにわたしたち桜ライン311は未来にどう伝承していくかがテーマ。そうなったときに、伝承する人は必ずしも地域の人だけではなく、日本全国の皆さんに参加いただけたらと思っているんです。最初に来た人が親しい人を連れてきたりして、徐々に活動の輪が広がっていくことは、すごくうれしいことだと思っています。


一言で「桜を植える」といっても、そのプロセスは結構大変です。苗木の入手や土地の取得交渉、桜の木の手入れなど、多くの人の手で支えられています。
2011年に植えた桜は、すでに5メートルくらいの高さに成長し、今年は例年より3週間ほど早く、3月のうちに開花。今週早くも身頃を迎えるということです。

活動の様子、支援の方法など詳しくは「桜ライン311」のサイトをご覧ください。

明日は岡本さんに、陸前高田への移住をサポートする「高田暮舎」の活動について伺います。

パーソナリティ 鈴村健一

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