2018年5月31日

5月31日 女川駅前広場が「都市空間大賞」に!(2)

昨日に引き続き、宮城県女川町の駅前広場一帯が、優れた街づくりや都市デザインを表彰する『都市景観大賞』を受賞したという話題をお伝えします。

この受賞は駅前広場や、駅から海に真っすぐのびるレンガ道、統一されたデザインの商業施設「シーパルピア女川」や公共施設などその一体感ある街並み全体が高く評価されたもの。

インタビューに答えてくれたシーパルピア女川を運営する女川みらい創造の近江弘一さんは、「この街づくりデザインには、町民も大きく関わっているんです。」と話します。『女川にもともとある景観を活かしたい』『津波で倒れた建物=震災遺構を活かしい』『口説ける街にしたい!』など、行政と町民が一体となってアイデアや想いを持ち寄り、協議しながら街づくりが行われてきました。

◆未来に責任をもてる街づくりをしようと
シーパルピア女川も我々第三セクターが町と一緒に計画的に作っているけれど、その周辺は自立再建のお店が今いっぱい出来てきているんですね。やっぱり民間が立ち上がれるようになると大きな看板付けたりするじゃない? だけどそれも商工会とか我々民間企業とかが中心になって、もちろん女川町も入って
?景観デザイン協議会”みたいなのをつくって、交番でも郵便局でも銀行でも「こういう建物や色合いにしたい」というデザインをまず出してもらう。そこで協議会から「これ屋根の向き違うよね、四角い建物はやめようね、看板でか過ぎだよね」など強制力はないけどガイドラインを提案する。土地の使い方も例えば「右寄りじゃなくて左寄りにした方が海が見えるよね。隣との境には壁は作らないでくださいね。必ずシンボルツリーを1つ置いてくださいね。」というように、みんなでやっている。それで例えば植栽がきれいな使い方をしてくれた事業者や、建物自体がきれいなものにはそれぞれ賞を与えながら街づくりをしているんです。だから関係者全員で街づくりをみているんです。(みなさん協調性はありますか?)ありますね。その事業者の設計を担っている人たちも町がこうなったんだから理解できるんです、きちっと書き直してくれます。それは未来をちゃんと渡すためにしっかりやっている。女川町は震災直後「60歳、還暦以上は口出すな」というのがあって、町長含めて30代40代の人が街づくりしているから、自分たちの未来に責任もてる街づくりをしようと、そこは曲げないでやっているんじゃないですか。僕もあしたで還暦なんで、もう口も出さない・・・とはいかないけど、やっぱり未来の人たちに自分たちが持っているものを最高のままで渡すための人たちだと思っているから、僕の中で成功する必要はないし、だから、作り始めた人たちなんです。次の世代へ使いやすいようにお渡ししましょうというのが僕の立場です。


女川町が平成26年にまとめてた「100年先を見据えた街づくり」の計画案には
(1)どこからでも海が見える景観軸
(2)もともとの地形を最大限生かす
(3)神社仏閣などの歴史的遺産、被災を免れた遺産を最大限生かす
この「3つの基本方針」があります。例えば(1)の「海が見える景観」のために、女川町では高い防潮堤は作らないと決めています。これが、100年後の未来の人たちに残したい風景であると。まだまだ進化の途中である女川町。今ある風景をぜひ味わいに出かけてみてはいかがでしょうか。

2018年5月30日

5月30日 女川駅前広場が「都市空間大賞」に!

先日、東北の被災地に嬉しいニュースが入ってきました!
宮城県の女川町に震災後できた「女川駅前レンガみち周辺地区」が、優れた街づくりや都市デザインを表彰する『都市景観大賞』「都市空間部門」で大賞を受賞しました!!おめでとうございます。

これは、女川駅前広場と、駅から女川湾に真っ直ぐに延びるレンガ道、それを取り巻く「シーパルピア女川」などの商業施設や、公共施設などその一体感ある街並み全体が、高く評価されたものです。

震災後、女川の街づくりは官民一体となって、アイデアや想いを持ち寄り、協議してきました。今回の受賞について、シーパルピア女川を運営する女川みらい創造 代表 近江弘一さんに伺いました。

◆無駄なようだけど必要な空間
この駅前エリア全体じゃないですか、たぶん。レンガ道を中心とした街の作り方。もともとの想定は駅舎からレンガ道を真っ直ぐみて海を見た時にそこから初日の出が上がるように設計されていたんですね。その先に海が間近に見えるという?無駄なようだけど必要な空間”が賞をもらったと。例えば子供たちが手を離しても安心できる街、歩ける街、目的がなくても時間を過ごせる街というコンセプトがあるんです。裏のコンセプトは「口説ける」街(笑)。ただこういう都市の作り方って今ないじゃないですか、震災があったからやれたことだから逆に力になりますよね。だからみんながいろんな所から無目的で動線が作れる街が出来つつあるんです。あとは海から山を見た時に駅舎と奥の山の稜線の角度が非常にマッチしてて、そこに青い空があって色も良いですし、線も見えるし、何も遮るものがない設計になっているんです。みんな低層帯の建物にしているので。あとはシーパルピア女川やハマテラスより海側の国道があるんですが、その先に今度、観光緑地帯が出来てくるのでもっと穏やかに自然を感じられる街が出来てくるんじゃないかと。あと2年ぐらい、2020年に。だから街づくりはまだ終わってないし、奥の40ヘクタールの土地もあってそこはコバルト―レ女川というサッカーチームも使えるスタジアムを計画していたり。それを活用する人たちがまた来てこの街を使ってもらえるように仕込みをしていかないといけない。女川にいる時間を使ってもらえるようなソフトが、ハードの完成を待ちながら考えていかないといけない。


統一感ある街のデザインはとても大事。これは津波で8割の建物が失われたからこそ、できたことでもあります。ガレキだらけの街からのスタート… このニュースに、大きなエネルギーをもらった人も少なくないのでは。

この街づくりデザインには、町民も大きく関わっているそうです。話の続きは、あすお伝えします。

2018年5月29日

5月29日 四季彩食いまむら 5年目のチャレンジ(2)

昨日に引き続き、宮城県石巻市の和食店「四季彩食 いまむら」さん5年目のチャレンジをお届けします。

ご主人の今村正輝さんは震災後、ボランティアとして石巻で活動していく中で「自分もここでお店を出して商店街の一員としてやっていきたい」 と5年前にお店をオープンさせました。カウンターでメニューの説明を受けるとこんな感じ!

「アナゴの白焼きは牡鹿半島。渡波の一番摘みの海苔で巻いて食べると美味しいです。その隣が牡鹿半島で取れた芝エビのから揚げで。その隣が仙台牛A5ランクのローストビーフ。その隣が…」

一品一品、地元の食材を存分に使った四季折々の創作料理に全国から食通が集まり、連日にぎわっています。

そんな「いまむら」さん。オープンから5周年を迎えて、今週末6月2日に一旦店を休業し、10月の再オープンに向けて「修行の旅」へ出かけるとの知らせが入ってきました。どんな店へと進化するのでしょうか? 店長、今村正輝さんに伺いました。




◆カウンター席でもっとより深くお客さんに届けたい
今後の料理については、いまテーブル席もあるんですけど今後はカウンター席だけになって席数は少なくなる。今22席がカウンターだけで12席になる。ここを大きく調理場にしてそれをコの字型に囲うようにして、一皿一皿もう少し生産者さんの想いとか食材への想いとかストーリーをお皿にのせて届けたい。お客さんともっと深く、そして丁寧に作りたい。あとはお客さんで「これが食べたいな」という一人一人好みが違うのでそうしたのに少しでも応えられるようにしたい。5年で毎月来てくれる方もいて、ちょっと変えたいなというのがある。今日は山口県からのお客さんも。何回か来てくれている。わざわざ来てくれているのでやっぱり石巻のものを食べたいだろうし、よく書道家であなたに逢ってインスピレーションで文字を書くというのがあるけど、あれを料理でできたら最高ですね。ちょっと向こう側に行きたいなというのはいつも思ってやっています。
この後は6月2日に閉めて、6月9日に嫁と結婚式をするんですけど、それが終わったら新婚旅行という名の全国研修旅行に行きます。二人で車で北海道から九州、四国まで。北海道では昆布の漁師さんに船に乗せてもらって、九州ではかつお節を作るところも体験させてもらいたい。あとはいろんな縁があって知り合った全国のシェフや生産者の方と全国で何カ所か料理のイベントをしようかと。石巻の食材を送ってもらって、誰にも頼まれていないんですけど勝手に石巻のことを広める。その為に昨年末石巻の飲食店が集まって自然派ワインも作ったんです、「makinowa wine」それを持って勝手に石巻を宣伝してくる旅です。ここが最高の場所だと思ってますので。本当に悩みましたけどやって良かったと思ってますし、いろんなものを勉強させてもらった5年間でもあるので。まだまだこれからなのでもっともっと自分自身も高見を目指して、あとはそれがまた少し盛り上げられるようにまたみんなとタッグを組んで頑張っていきたいと思います、石巻で。


また今村さん、すでに「次の5年後」のことも考えているそうで「これだけ石巻に面白い生産者さんがいるので、世界へいったらもっといっぱいいるはず。
だから世界中の食材やシェフたちを見てみたい。石巻へ来てもらうためには、まずは自分から飛び出して、海外で料理ができるようチャレンジしていきたい」
とも話してくださいました。

「四季彩食いまむら」は6月2日で休業に入ります。改装前に訪れたい方は、必ず電話で予約を!
「四季彩食 いまむら」サイト

2018年5月28日

5月28日 四季彩食いまむら 5年目のチャレンジ(1)

今朝は宮城県石巻市の中心市街地に震災後オープンした和食店『四季彩食 いまむら』のレポートです。

ご主人の今村正輝さんが震災後、ボランティアで石巻に入ったのをきっかけに、石巻に2013年4月にオープン。地元の食材を存分に使った創作料理で、今では全国の食通が通う人気店に。

そんな「四季彩食 いまむら」。オープンから5年目にして、“次のステージに向けて” 動きはじめました。店長、今村正輝さんのお話です。

◆5年目のチャレンジ
今ちょうど5年。このタイミングで一回改装に入ろうかと。とりあえずお金もなかったのでお店も全部手作りで作ったんですけど、後々は直したいねというのはいっぱいあったし、たぶん方向性も変わってくるんじゃないかなというのは思ってて。それを5年の区切りの時に、6月2日で休業してもう一度自分のチャレンジ、やりたい料理をやってみたいという想いがどんどん出てきたので、それで決めましたこの時期に。


震災後、被災した飲食店の再開を手伝う中で「自分もここでお店を出して、商店街の一員としてやっていきたい」「料理人として、ここの食材を使いたい」という想いからボランティアを続けながらお店を出すことを決意。当時は資金集めなど、苦労の連続だったと言います。


本当どうなるか不安でしたよ、人通りがないじゃないですか、今もそうですけど。やっていけるのかな?というのは当時ありましたけど。勉強は近くに漁師さんや生産者さんがいるので、やってみてはじめて気づくことやありがたみ、その想いとか繋いでるバトンとかは、千葉や東京にいた頃はわからなかった自分がいた。震災があって復活するのに何年かかかって、その中で大事に大事に育てたものを預かるので、それをいかに喜んでもらえるように、そのもらったバトンをお客さまに渡したいという想いは強くなりました。生産現場に行くことで勉強になったり、想いの部分は変わりましたね。漁師さんたちもまた、僕も生産現場に近いですけど彼らも近くにお店があるのでチェックをしに来てくれる。例えば神経締めの魚屋さんで大森さんという方がいるんですけど(神経締めした魚は)みんな東京へ行ってしまうので味見ができない。それが日ごとにどうやって変わっていくかを食べに来てくれて「こう締めた方がいいかもしれない」とか、お互い向上できるように、それもここならでは。そういったことをいつもやっています。

これは石巻の金華山沖で獲れた鯛です。さっきまで活魚で先程大森さんに神経締めしてもらったやつです。今鯛を3枚におろしたところなんですけど、この鯛の身に岩塩をかけると・・・・はじまりましたね。(身がピクピクけいれんを始める)岩塩をかけることによってカラダが反応して今脱水しています。臭みとかヌメリとか、もうちょっとしたらすごい水分が出る。死後硬直を遅らすという意味で神経締めはあるんですけど、うちは更に余分なものを自分自身で抜いてもらう。これを召し上がってください。


金華山沖で獲れた鯛の神経締めし、3枚におろして切り身に岩塩をかけると切り身が痙攣して余分な水分が出てくる類を見ない産地ならではの調理方法です。

「四季彩食 いまむら」は6月2日で休業〜改装に入ります。改装前に訪れたい方、あと少しのチャンスを狙ってぜひ召し上がっていただきたいです!

改装後の店舗について、続きは明日お送りします。

「四季彩食 いまむら」サイト

2018年5月25日

5月25日 方言消滅の危機(7)

今週は、消滅の危機にあるという日本各地の『方言』 の問題、お伝えしています。

東日本大震災の影響で、岩手、三陸、福島の方言が消滅の危機にあるということをお伝えしてきていますが、こうした状況を受けて東北では、大学研究者による方言の調査研究、そして方言教育の支援が行われています。

お話伺ったのは、震災が方言におよぼした影響を調査している岩手大学の大野眞男教授。いま、東北・岩手県はじめ各地で方言の魅力を再確認する取り組みが盛んになっているといいます。

◆「やってやっぺし!」
地域の方言を自分の言葉としてしゃべってみる模擬体験も大事。一番良いのは演劇。従来演劇は観客誰でも分かるように共通語でするのが常識でしたが、地域では、地域で通じる言葉であれば別の効果がある。
田老第一中学校ではそういう試みをやっていて、田老地区の言葉で、昭和の津波のあとに、「こんなことではいけない、しっかりした防潮堤を作ることで悲劇がないようにしよう」という、昭和はじめの防潮堤作りに取り組んだ初代村長の「関口松太郎物語」という演劇をやっている。地域の素材なので共通語でなく田老の言葉でやろうと中学校の先生方がやっている。しかし先生はものすごく忙しいです。だいたいその土地の生まれでない方が担当するので、方言のシナリオ作りが難しい。そこに私ども研究者が入っていって、方言を翻訳する手伝いをしたり、地元の人に、方言訳の正しさのチェックをしてもらって、その結果出来上がった方言台本を子どもたちに演じてもらうということを2年続けてやってきました。今年も3年目で続きをやることになるわけです。

そんな地域の言葉で防潮堤を作る作らないの議論を方言でやるんですが、最後のシーンは共通語なら「やろうぜ」となりますが、地元の言葉で「やってやっぺし!」で決めるんです。そのセリフ「やってやっぺし」に、地元中学生も地元の人達も心が一つに向き合っていく。そういう地域の気持ちが同じ方向にピタッとまとまっていく瞬間が、去年も今年も劇の中でみることが出来ました。子どもたちが方言で演じるだけでなく、観ている聴衆も心がっぴったり寄り添う。これは共通語のシナリオでは考えられない。方言でやっていただいてよかった、私達も支援をして本当に良かったと思う瞬間です。


岩手県田老地区のほか、同じ岩手県釜石市は、いくつかの小学校で方言の授業、方言の昔話の語り聞かせも行われています。また、地方にはその土地の方言話者が、地元の民話を語るイベントがあり、その「語り部」が活動していることも少なくないということで、そうした活動と連携した取り組みも進んでいるということです。

2018年5月24日

5月24日 方言消滅の危機(6)

消滅の危機にあるという日本各地の『方言』 の問題、お伝えしています。

沖縄の言葉やアイヌ語だけでなく、東日本大震災の影響で、岩手、三陸、福島の方言が消滅危機にあるということをお伝えしてきていますが、こうした状況を受けて、国や自治体、そして大学の研究者の間でさまざまな取組が行われています。先日は、東京都内で、岩手大学、琉球大学、立命館大学などの研究者による研究報告会も行われました。


震災が方言におよぼした影響を調査されている、岩手大学の大野眞男(まきお)教授に被災地で、方言が人々の「力」になったケースについて伺いました。

◆「がんばろう」よりも「がんばっぺし」
※聞き手:ケリー・アン
(ニュースの報道などで被災者インタビューをするときに、なるべく標準語を使おうという意識のなかで自分の経験を話してくださるんですけど、それは逆に被災者に負担になるというのはそうなんですか)
私が見る限りでは、自分の気持ちを共通語で説明できるだろうかということにもどかしさを感じている気がします。やっぱりストレートに気持ちを言おうとしたらお年寄りの場合は間違いなく方言を使うことになる。津波で被災した直後に「なじょにかすっぺし陸前高田」とか「がんばっぺし釜石」とか。地域の外の人がそういうメッセージを与えたんじゃないんですよね。震災の瓦礫の中で自然発生的にペンキで殴り書きされたような、自分たちの中で生まれた仲間内のメッセージだと思う。共通語で「がんばろう」でもいいんだけれども、それでは表せないような気持ちが、「がんばっぺし」「なじょにかすっぺし」という言葉で、自分たちの言葉を使うことで自分たち同士で共有できているんだということを感じます。


方言にはこういう「力」があります。だからこそ方言を見直そうという機運も、高まっています。

◆学校教育でも方言見直しの動き
最近、この春から学習指導要領という学校の方針がガラリと変わりました。方言についてもかなり大きく変わって、小学校では共通語を使うようにしようというのが今まであったが、その部分が消えて「方言と共通語の違いを知ろう」とか、あるいは中学校では「方言と共通語の役割を知ろう」ということが書いてある。しかも文科省の指導要領の解説書にはそういう方言の役割に対してかなり積極的な解説文をつけてくれている。方言の良さについての指導とか、あるいは東日本大震災の被災地を例に上げていただいていて、そういうところでは方言を使うことで自分たちの心が元気になっていくこともあるということを書いてくれている。とてもありがたいことだと感じています。

2018年5月23日

5月23日 方言消滅の危機(5)

消滅の危機にあるという日本各地の『方言』 の問題、お伝えしています。

東北では、東日本大震災の影響で、岩手、三陸、福島などで方言の話者、つまり話し手が本当にいなくなってしまう可能性があると言われています。
そして、それよりも以前から、消滅の危機が指摘されているのが、沖縄や奄美の古くからの言葉、そして「方言」ではなく別の言語、北海道のアイヌ語です。

文化庁国語課 国語調査官の鈴木仁也さんに伺いました。

◆アイヌをテーマにした漫画が人気
アイヌ語は極めて深刻な状況にあるということになります。明治時代に同化政策と呼ばれる、事実上、アイヌ語を使うなという政策があった。家庭でもアイヌ語を使わないようにという形で、家庭内でのアイヌ語の継承が途絶えたというのが非常に大きなところです。現在アイヌ語の話者は、かろうじて80代後半の方で何人かいらっしゃるというのは聞いたことがあります。でもおそらくひとけたなんじゃないかと言っている学者の方もいらっしゃいます。だけど今アイヌ語は非常に注目されて、マンガ大賞を取った作品の影響が大きいですね。「ゴールデンカムイ」という漫画ですね。漫画の監修した大学の先生の講演会は札幌では抽選で倍率10倍以上、東京でやった時に座席数60のところに200人ぐらい来ていましたから非常に人気があります。言葉にも関心を持ってもらえますしアイヌの料理、儀式、文化的なものを幅広く関心を持ってもらえていることがきっかけで、アイヌの施設に足を運んだ若い方が多いと最近聞きました。


ケリー・アンはこの「ゴールデンカムイ」もアニメ版を以前から観ています。さすがアニヲタ!ちなみにこのアニメ、アイヌ語の発音も アイヌ語研究者が監修、徹底的にこだわった作品になっているそうです。

最後に、我々が方言をもっと身近に、親しむための方法、教えていただきました。

◆方言に触れる旅をしよう!
日本の方言、アイヌ語を守っていくことを考えたときに、沖縄や奄美であれば島唄というのがあります。あの中に出てくること言葉と言うのは、当然その地域の言葉です。島唄なんかは特によく耳にする。それを聞きに行くと言うことも多くの方がされているので観光に非常に深く結びついているツールがあるわけですね。2020年に白老に国立アイヌ民族博物館を含む民族共生象徴空間というのができます。その中では積極的にアイヌ語を使おうということで今まで以上にアイヌ語が聞けるのではないかと。さらに、バスの車内放送でもアイヌ語使おうという動きがこの4月から始まっているんです。ですから探してみるといろいろなところで、消滅の危機にある言葉を聞くことができます。多分東北であれば民謡だとかいろんな伝統行事の中の言葉、そして物にも生きているはずですし、そうした地方の、生の、その地域の言葉が、いかに生き生きとした力強いものかと感じて、良いぞと思ってくださると言うのが多分これから方言と言うものを残していく上においては1番大切なんではないかと思います。


明日も、方言をめぐる問題、考えます。

2018年5月22日

5月22日 方言消滅の危機(4)

沖縄や奄美の古くからの言葉、北海道のアイヌ語、さらに東京都・八丈島の八丈語、そして東日本大震災の影響で、岩手、三陸、福島で昔から使われていた「方言」がこのままでは消滅してしまう。つまり、その言葉を使う人がいなくなってしまう可能性がある、ということを、お伝えしてきました。

方言がなぜ必要か、大切なのか。実は方言には、本当に人の「心」に作用する なんらかの力があることが、注目されつつあります。

お話を伺ったのは文化庁国語課 国語調査官の鈴木仁也さんです。

◆方言で語ることで心が楽になる
実はそれを非常に強く感じたのは東日本大震災のとき。そこで非常に印象に残った、被災者の方が、自身の体験についてインタビュー、取材を受ける時に、共通語で答えてあげようとすることがある。被災体験は「語る」ことで相対化されてメンタルな面で少し楽になると言われているが、共通語で語っているとむしろストレスになったという。一方、方言、自分の普段の言葉で語った時にすごく楽になったというお話を聞いた。その時に情報伝達としての共通語の世界とは違い、「生きる」ということに深く関わっているのが方言であると強く感じた。喧嘩をする時に出てくる言葉って感情的で、共通語では喧嘩はしない。それはなぜかと考えると、メンタルな部分と密接に結びついているのは共通語ではないから。その言葉を失ったらどうなるのかと考えると、やっぱり失わせる訳にはいかない。震災の時に方言がとても大事だと改めて感じたという方が何人もいらっしゃった、というのがあります。福島から避難していて帰還した高齢者の方々に、方言の調査で話してもらっているうちにだんだん表情が良くなっていく。お話を聞く「傾聴」だけではなく、共通語ではなく方言で話すことによるメンタルのケアがかなりあるというのが顕著にある。福島に関しては、他の地域にまとまって避難しているケースであれば同じ方言を使う人達も多いが、ひと家族だけで移転している場合は、まず福島から来たということをできるだけ悟られたくないので方言は使わないという声は聞いている。特に茨城大学なんかでは、避難してきた方がその方言に触れられる機会を積極的に設けてやっている。


あしたも、この「日本の方言」をめぐる問題と対策についてお伝えしていきます。

2018年5月21日

5月21日 方言消滅の危機(3)

いま、消滅の危機にあるという日本各地の『方言』 、「お国言葉」の問題を考えます。

世界に6000ある言語のうち、およそ3000が消滅の危機にあり、日本でも沖縄や奄美の古くからの言葉、北海道のアイヌ語、さらに東京都・八丈島の八丈語などが「消滅の危機にある」。また近年は、東日本大震災の影響で岩手、三陸、福島でも同じことが起きています。

そんな状況を受け、国・行政、そして地域の大学などが連携して、方言を守る取り組みを続けています。

お話を伺ったのは文化庁国語課 国語調査官の鈴木仁也さんです。

◆「残したい」という気持ちが必要
消滅の危機にあるという警告がユネスコが出ており、方言が記録として残されていない地域もあります。そういう地域でもし本当に方言が無くなったら、その地域で話されていた言葉は何を調べても出てこなくなってしまう。それはさすがに良くないだろうということで文化庁では研究者に入ってもらって、この地域で、この島ではどんな言葉が使われているのかということを音声や文字で記録してもらう調査をしてもらっている。

東日本大震災の被災地もそれぞれの地域で、主に大学にお願いをして記録を取り、各地域で方言を使って活動している方々と一緒に方言に触れてもらう場を設けることをやっていただいています。岩手県の田老第一中学校では、地元の歴史上の人物を題材にした創作劇を作る時に、子どもたちの発想で「これは方言を入れないとリアリティがない」という話があったらしく、岩手大学の先生方が中心となって、震災の時に見つかった昭和初期の方言の記録文書などを参考、どういう方言を当時は使っていたかという監修で関わった例があります。方言に係る取り組みは、当然その言葉が継承されることがいちばん大切なポイントです。ただこれは国が「継承してくださいね」とお願いするものではないわけです。その土地の人達が「自分たちの言葉っていいよね、だから伝えていこうよ」と考えてくれないと意味がない。(国や行政、研究機関に)どこまでやれるかというと、学びたい時に学べるテキストや辞書などを整えること。自分たちの言葉がどれだけ良いものか表現をしてみることが大切で、共通語でアフレコをするのと方言でアフレコをするのでは、子どもたちは断然 方言のアフレコを楽しいという感覚を持つんですね。その楽しさを感じてもらいたい。そこがきっかけで、そのあとは自分たちでこういうふうにしたいと言う相談があれば、こういうことができるんじゃないかと相談に乗る。「残って欲しい」であって「残しなさい」ではないと考えています。


また、方言が消滅の危機となった理由の一つに、かつて年配の方の中には「子どもや孫には方言を使ってほしくない」など、継承を望まない人が多かった時期があったことが指摘されています。これは戦前・戦後を通じて共通語教育が重視され方言の価値が否定されてきたことが背景にあると考えられていますが、現在は、方言を「残したい、残って欲しい」と考える人は増えているといいます。

あしたも「日本の方言」をめぐる問題と対策についてお伝えしていきます。

2018年5月18日

5月18日 方言消滅の危機(2)

引き続き、消滅の危機にあるという日本各地の『方言』の問題です。

沖縄や奄美の古くからの言葉、北海道のアイヌ語、さらに東京都・八丈島の八丈語。日本でずっと使われきた、これらの言葉が、いま「消滅の危機にある」と指摘されています。言葉が失われるということは、その言葉で語られていた“文化”も消えること。調査が行われていないだけで、他にも消滅リスクのある方言はかなりあると考えられています。

そして近年、新たに指摘されているのが東日本大震災の影響を受けた地域の方言です。

日本で消滅の危機にある「方言」の調査研究を実施している文化庁国語課 国語調査官の鈴木仁也さんに伺いました。

◆震災が方言におよぼした影響
東北の場合は、もともと全般的に方言自体、最近耳にしなかったと言う声はかなり聞いていたんですが、やはり東日本大震災が非常に大きな影響与えていると考えています。東日本大震災では高齢の方がかなり亡くなっており、話者が減少しています。それから震災でその地域から離れる方がいらっしゃいましたが、若い世代が離れていき、年配の方は元の土地に戻る傾向がある。つまり「担い手」「受け手」が減っていく状況。震災が仮になかったとしてもある程度、方言が失われつつある中で震災が起きたことで話者が減り、それを受け継ぐ若い世代が土地から離れ継承者がいなくなる状況があったと思います。

やはり津波の被害が非常に大きかった岩手の三陸の沿岸部はかなりその影響があります。私自身がいくつか行ったところでは岩手県大槌町。若い世代が戻ってくるまで時間がかかるので、伝える場がなかなか無い。あのあたりは南部弁が話されている。昔の南部藩の言葉。仙台に伊達藩があり、北側・太平洋側が南部藩。青森県はですとその南部藩に対して日本海よりが津軽藩です。だから青森県は津軽藩と南部藩が一緒になっていて、(青森県)八戸あたりから(岩手県)釜石あたりまでが南部藩と呼ばれる地域です。実際に釜石と八戸の「語り」をやっている方の交流が震災のあとに出来まして、相互にそれぞれの話を語り合うと、かなり「わかる」ようなんです。釜石の人の話を八戸の人が聞いても分かる部分がかなりある。それはやっぱり根がおんなじという部分があると思います。それともう一つはやはり福島の原発の影響の大きい時期ですね。楢葉町などのあたりは徐々に帰還する方がいらっしゃいますけれども、多くの場合は年配の方で、方言はだいぶ危険な状況にあると考えられます。


来週も、この「日本の方言」をめぐる問題と、その対策についてお伝えしていきます。

2018年5月17日

5月17日 方言消滅の危機(1)

きょうは「ことば」をめぐり、東北だけでなく日本の各地で起きている問題を考えます。
いま、私達が使っている「日本語」に関する大きな問題、方言消滅危機です。

日本には、たくさんの「方言」がありますが、いま、その話者がいなくなる危機があるのをご存知ですか。

日本で、消滅の危機にある「方言」の調査研究を実施している文化庁国語課 国語調査官の鈴木仁也さんに伺いました。

◆消滅の危機にある8つの言語
ユネスコが2001年に「言語の体力測定」という尺度を示しました。いま言語がどのぐらい広く使われているか、それがどう継承されているか。それに基づいて、次につながっていかない状況にあるものが「消滅の危機にある危機的な言語」。ユネスコは、世界6,000言語の半分近くが消滅の危機にあると、2009年当時に発表しています。消滅の危機に陥る原因として一番大きいのは植民地支配などで現地の言葉を使わせない、自分達の支配下に置きたいから教育や何かを通して言語を学ばせちゃうわけです。日本も大陸に進出した時に日本語を教えていた歴史があります。国内で言えば日本語は多くの方が使っているんですが、「方言と共通語」の問題があり、方言の話者の減少ということになるわけです。そこに気づき出したことで「消滅の危機にある言語」が問題だ、となってきたわけです。それぞれの言語、方言もそうですけれど、その地域だからこそ捉えている、“モノの捉え方”がある。その言葉がなくなればその“捉え方”自体も、表現の仕方が無くなり文化が失われていく。伝統行事の言葉は大体その地域の言葉ですから、伝えられてきた文言の意味がどんどんわからなくなってくると、形だけやっているけど本来の趣旨がよくわからないということが起きてしまうことがあり得る。

ユネスコが2009年に発表したデータでは、日本の国内では8つ、消滅の危機にあると結果が出ています。1つは日本語とは全く違う言語ですけれども北海道を中心としたアイヌ語、これが非常に危機的な状況にある。危機の深刻度では最も高い。それ以外は八丈島の八丈語、奄美大島の奄美語、沖縄本島北部、与論、沖永良部を中心とした国頭語、沖縄の那覇、南部を中心とした沖縄語。それから宮古島を中心とした宮古語、石垣島の八重山語、そして与那国の与那国語の8つ。まだ同じ尺度で例えば鹿児島の甑島を調べてみると与那国と同じ危険度だというデータも出ました。さらには東日本大震災の被災地である岩手県の三陸地方も方言も、危機の状況であるという結果が出ているんですね。ですからそこ以外でも、もし同じ基準で調べてみれば、まだ消滅の危機にあるという結果がでるところは、可能性としてあると考えています。


明日以降も、この「日本の方言」をめぐる問題、対策をお伝えしていきます。

2018年5月16日

5月16日 熊本県益城町 岡本商店(3)

今朝も昨日に引き続き、熊本地震で被害の大きかった、益城町からのレポートです。

益城町で明治の頃から商店を営んでいた、岡本商店。ご主人の矢野好治さんが作る「益城プリン」が人気のお店です。2年前の熊本地震でお店は全壊、今は町内の仮設団地で、仮設店舗で営業しながらお店の再建を目指しています。

一方、もとあった店舗の場所は益城町の中心部を走る、県道沿いでした。震災後、県は2車線だった県道を「4車線にする」と決め、店舗のあった場所には建築制限がかかり、岡本商店は立ち退きを求められています。それでも岡本商店の矢野さんは、「一日も早く、元の場所で再建したい」と願っています。そこには、これまで商店を支えていた先代、義理の母への想いがありました。

◆母さんを益城町に戻してあげたい
今後については全く先が見えない状態です。地震直後〜1年後ぐらいまでは、よしまた頑張ってお店再建してまたやり直さんといかんね、という気持ちの方が100%だったんですけど、これが長期化して2年目になると、さぁ頑張るぞという気持ちよりも不安の方が占める割合が大きくなってくる。2年でこれですから3年後にはどうなるかと思ったら、自分たちのモチベーションもそこまで続くのかなという不安はありますね。今この仮説の店舗の期限が3年ということで来年の秋には一旦答えを出さないといけない。その時もしまだ県との話し合いが続いていて次行く場所が決まってなければひょっとしたらこのお店もリースの期限が切れるのでお店も一旦たたまなければならないかなと。ただ一旦お店をたたんで次再開となると、自分たちの気持ちの面も一旦途切れてしまうと次再建したい、という気持ちが出るのかも不安だし。だから一日でも早くお店再開したいというのが今の気持ちですね。
(お母さんの自宅でもあったので、自宅再建の目途が立たないということですよね)そうですね、今母さんも見なし仮設に住んでいるんですけど、そっちも期限が決まっているので、自宅再建もできない、自分たちの土地なのにそこに建物が建てられない、複雑です…。とにかく母さんを益城町に戻してやりたい。場所を代えてでもそこに岡本商店の土地を買ってそこにお店と家を建てて母さんが安心して生活できる空間に戻してやりたい。そういった意味ではまた益城町で、という想いは強いです。
今までいろんな方たちに地震後助けられてきたし仮設のお店ですけど皆さん応援してくださるんで「益城プリン買いに来ました!頑張ってください!」って言われるとやっぱりそれはエネルギーになりますね。



阿蘇のジャージー牛乳使用、岡本商店の「益城プリン」はなめらかで甘さ控え目、牛乳の旨みがダイレクトに味わえます。カラメルを混ぜると2度楽しめます!ノーマルの他、黒ゴマ、コーヒー、お茶味の「茶っぷりん」もお試しあれ!
場所は「益城テクノ団地笑店街」。詳しくは岡本商店のfacebookをご覧ください。

2018年5月15日

5月15日 熊本県益城町 岡本商店(2)

今朝は熊本地震でとくに被害の大きかった地域、益城町からのレポートです。
この益城町で明治の頃から商店を営んでいたのが、自家製の「益城プリン」で有名な「岡本商店」。地震で店舗は全壊となり、今は町内の仮設団地で仮営業しながらお店の再建を目指しています。

一方、もともと店舗のあった場所は益城町の中心部を走る、県道沿いでした。震災後、県は2車線だったこの県道を「4車線」に広げて、災害時に緊急車両が通りやすくする計画を発表。住民の多くがそれを知ったのは、拡張工事が決まった後だったと言います。岡本商店の矢野好治さんもその一人でした。4車線化が決まったことで、店舗のあった場所に建築制限がかかり、立ち退きを求められています。

「一日も早く、元の場所で再建したい」と話す、岡本商店の矢野さんに話を聞きました。

◆一日も早く元の場所で再建したいが、叶わない
元の場所に再建しようと思って業者を探したりどういったお店にするかとかいろいろ動いていたときに4車線化の話しがでて、そこは建築制限がかかるから建物が建てられませんって決まっちゃったんで僕たちもあれよあれよという間に全てが決まってしまって今では建物が建てられないでいます。
益城町の県道沿いを歩けばわかるんですけど、もう家を建てて元の生活に戻っている方もいれば、まだ解体できずに震災当時のままの家があったり、うちみたいに更地になってそこから先へ進めない人もいて復興の仕方もそれぞれバラバラ。
この仮設店舗の期限が3年で店舗のリースが切れるということでその後は全く未定。当然新しい場所を探して店舗再建したいんですけど県との話し合いがなかなか進まない。保証の問題もあってうちは「元あった場所で現状その土地に建物はないし営業もしていないので保障はありません」と聞きました。やっぱり4車線を作るんでそこを立ち退いてくださいというのであればその部分は保証してもらいたいけど、建物がない/営業していない、って言われても、それは地震で建物がなくなったわけで、営業してないのは建築制限がかかってしまったからで、僕たちの意思で営業してないわけじゃないんですよね。それなのになんの保証もないというのは、店舗再建が難しい状況なんですよ今…。最初は代わりの土地を見つけますと言っていたので僕たちも安心していたんですけど、今のままではちょっと待ってください話が違うのでは?という感じになって、あの場所を売るのは今の状況では納得できないのでサインはできない現状でいます。できればお店で商売をしているので一日の売り上げが生活費になるので一日も早く再建して元の生活に戻りたいんですけどそれも今は叶わない。だからもう少し寄り添った交渉をしてほしいなと思います。


益城町の中心を走る県道の4車線化。矢野さんは、この4車線化に反対しているわけではなく、もともと自宅兼店舗があった場所は、今は更地になっていて建築制限がかかる中で、「建物がない/営業していないから、補償はなし」というのはおかしい、と話す矢野さん。ただでさえ被災して大変な生活をしている中で、
再建に向け前に進めない状況を作っている県側の復興計画。「寄り添った交渉をしてほしい」という矢野さんの想いに今後どう応えていくのでしょうか。

明日も岡本商店 矢野さんのインタビューお伝えします。

2018年5月14日

5月14日 熊本県益城町 岡本商店(1)

今朝は熊本地震でとくに被害の大きかった地域、益城町からのレポートです。

この益城町で明治の時代から商店を営んでいるのが「岡本商店」。昔懐かしい駄菓子屋さんでもありながら、自家製の「プリン」で有名なお店。地震で店舗は全壊となり、今は町内の仮設団地で仮店舗で営業しています。

そんな岡本商店、益城町の元あった場所で店舗の再建を目指しましたが、町の中心部を走る幹線道路拡大の復興計画が進み、沿線に店舗のあった岡本商店は
立ち退きを迫られています。熊本地震から2年。岡本商店の矢野好治さんを訪ねました。

◆説明ないまま決定 県道の4車線化で県道沿いの家や店舗は立ち退き
僕のかみさんの実家が岡本商店。地震後にもう78歳になるのでもう辞めたいというのと、僕たちに継いでほしいというのもあっただろうし、もともとお店が明治時代から続いていて地域に密着した商店だった。「あんた達若い世代で今風のやり方でやったらどうね」という話になって、それで地震後二人でお店の再建しようかなという状況です。本震がきた時シャッターがくの字になって開かなかったり、壁が落ちて床が地割れして全壊の判定が出て、決断は早くてとにかく明治時代からやっているので、元の場所にお店を再建しようという気持ちが強かったので、公費解体で更地にもうなっています。もとあった場所に戻ろうと思っていた矢先に、県道の道路拡張4車線化の話しが出てきたので、その話も僕たちは事前に説明を受けたわけではなく地元の新聞で、県道の4車線化の話を見て「え!?なにこれ?」って感じで情報が全くなかったので混乱しましたね。その後に慌ただしい中で何回か説明会が行われました。益城町に住んでいる人には説明会の情報がいったんですけど、益城町から県外や熊本市内に避難されている方には説明会の情報はあまり伝わってなかったみたいです。あと益城町のホームページに説明会の情報は書いてあったみたいですけど、あの地震で混乱している中でなかなかHPを見ることもできないので十分に説明がいっていたとは思わないですね。僕はもともとお店が益城町にあったのでいろんな方から今度説明会があるらしいよというのは聞いたのでできる限り説明会には参加したんですけど、納得はいかなかったですねその時の説明では。知らないうちに可決されてもう決定しちゃったという。県道沿いの人たちは立ち退き、ということになりましたね。


この益城町の中心を走る県道の4車線化。もともとは2車線で、地震があって建物が道路ギリギリに建ってたので建物が崩壊したときに2車線の道路を緊急車両が通れなかった、というのが理由の1つ。あとは、渋滞がひどいということで4車線化が決まったそうです。

県が拡張工事をするのだから、その県道沿いにある家や店舗は強制的に立ち退きになり、その分の補償は県が支払うのが理想的。しかしこの補償に関しても県側と折り合いがついていないようです。この続きは、明日お伝えします。

岡本商店facebook

2018年5月11日

5月11日 益城町未来トーーク(3)


「益城町未来トーーク」が発案したジェラート「mashikinto(マシキント)」の当選者は
ラジオネーム るーさん、よしだのさん、ボコのパパさん
以上3名に決まりました!
当選おめでとうございます。
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今週は震災から2年を迎えた熊本からのレポート。今朝は引き続き、益城町で活動する若い世代を中心としたワークショップ「益城町未来トーーク」のレポートです。

益城町は、2016年4月14日と16日にいずれも震度7を観測したとくに被害の大きかった地域。丸2年が過ぎた今もなお、道路や建物などの解体や復旧作業が続いています。そんな中立ち上がった「益城町未来トーーク」は、高校生から20代の男女がメンバーの中心。イベントの企画運営やオリジナル商品の企画販売など、様々なプロジェクトを通じて町の活性化を図っています。先月は東京でマルシェを開いたり、GWには益城町で“マシフェス”というイベントを開催したり、次々とプロジェクトを実現させている「益城町未来トーーク」。いま計画中のプロジェクトについて、事務局代表 戸上雄太郎さんに伺いました。

◆360度カメラで今の益城町を記録
一つ面白いなと思ったのは情報発信のプロジェクト、普通だったら写真とかムービー撮って残そうっていう発想がベターかなと思うんですけれど、360度カメラで益城町の被害状況を上から下まで右から左まで全て残せないかというアイデアが出て、それは実際映像を撮ったんですよ。まだ公開できないんですけど、それはゆくゆく公開していって、10年後とか20年後に当時が状況がどうだったのかっていうのがわかる映像資料としてすごく貴重なものになるんじゃないかなという風に思ってます。この間はそこの県道熊本高森線を自転車でずっと走って全部記録したところなんです。そこは道路が4車線化になって、近い未来違った新しい道路ができると思うんですけど、その時に昔の道路ってどうだったっけって思い返したい時に出せるような貴重な映像データを残せたらいいなと思ってます


「益城町未来トーーク」の今後についても、戸上さんに聞いてみました。

◆この街のキーマンになってくような若い人たちの学びの場に
そうですね先はどうなるか分からないんですけど、自分の望みとしては、5年後も10年後も15年後も20年後もずっと細々とでもいいので、若い人たちがなにか益城の未来のためにアクションを起こすような、そういう場としては残していきたいなと思っています。学校の勉強とはまた違う勉強ができるので、ずっと最初から関わってる女子高生とかも最初はあまり意見言わなかったりしたんですけど、いますごく大人の前でも堂々と自分の意見を言えるようになっているのですごく変わったなと思いましたね。将来はほんとにこの街のキーマンになってくような若い人たちの学びの場みたいな、そんな感じになるといいなと思っていますね。

                                      
震災復興、そして未来の地域活性の面からも、ぜひこうした活動を続けていきたいと話してくださいました。

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「益城町未来トーーク」が発案したジェラート「mashikinto(マシキント)」。『芋とあんこのいきなりサプライズ』、『上品なお茶に黒蜜ドレス』、『つぶつぶお米のミルクカーニバル』、『大人になれるカボチャティラミス』の4種類、中身お任せの6個入り。直送で3名にプレゼントします。『LOVE & HOPE』ブログのメッセージフォームから、
「マシキント希望」と書いてご応募ください。今日いっぱい受付。当選者はブログで発表します。

2018年5月10日

5月10日 益城町未来トーーク(2)

今週は震災から2年を迎えた熊本からのレポート。
今朝は引き続き、益城町で活動する、若い世代を中心としたワークショップ、「益城町未来トーーク」についてお伝えします。

益城町は、2016年4月14日と16日に、いずれも震度7を観測したほか、大きな余震も複数回にわたって起こり、とくに被害の大きかった地域。丸2年が過ぎた今もなお、道路や建物などの解体や復旧作業が続いています。

そんな益城町で立ち上がった若い世代によるワークショップ「益城町未来トーーク」は、高校生から20代の男女がメンバーの中心。イベントの企画運営や、オリジナル商品の企画販売など様々なプロジェクトを手掛けています。「益城町未来トーーク」事務局代表をつとめる戸上雄太郎さんは、益城町役場の一員でもあります。現在の益城町の復興状況についても、お話しを伺いました。


◆被災者の生活再建を加速させていく
メンバーの中にも家が壊れて「みなし仮設」で暮らしてたりというメンバーもおりますし、ウチの実家も壊れてしまって今も「みなし仮設」に住んでますし、何を持って早い遅いとするのかという基準がすごく難しいので、なかなかそこら辺は表現するのが難しいところではあるんですけれども、最初の1年っていうのはもうとにかく人命救助から仮住まいを確保するところから始まって、今は少しずつ生活再建のフェーズに移りつつあるところです。ただ一方でいろんな公共事業であったり、被災者一人一人の個別事情がありますので、なかなか再建できていない方もたくさんいらっしゃるというのが現状ですので、今年度はとくに被災者の生活再建を加速させていくっていうのをテーマに取り組んでいかなければならないっていうのは、我々の共通の認識であるのは間違いないと思います。


3月末現在で、応急仮設住宅に住む益城町町民の数は、2496戸、6346人。(県全体だと16766戸、38112人)住宅再建、生活再建はまだまだこれからという現状。
そんな中でも、地域を活気づけようと若い世代が頑張っている「益城町未来トーーク」。去年は“益城に新しい名物を!”ということで、“ジェラート”を作りました。これがかなり評判が良かったそうなんですが、どんなジェラートなんでしょうか?

◆「いきなり団子」をイメージしたジェラート
益城の特産品を使ったオリジナルジェラートでして、4種類作ってます。1つ目が芋、さつまいもを使ったジェラート、かぼちゃを使ったジェラート、お茶を使ったジェラート、お米を使ったジェラート、4種類ありまして、売上の一部が益城町に寄付されるということになってます。レシピは熊本市内の有名なイタリアンシェフの方に監修して完成させたというところです。なんでジェラートになったかというと、女子高生が、“ジェラートが好き💛”って言ったのでその一声で決まりまして、じゃあ具体的にどういうのを作っていくかってなった時に、地元の特産品の素材の味を生かしたいよねという話で、さつまいもを使ったジェラートは、発想としては熊本の定番の「いきなり団子」っていうやつがあるんですけど、それをジェラートで再現しています・・・さつまいもをアイスにペーストしてあんこを織り込んだというか、一緒に食べると「いきなり団子風」になると。で餅も入ってるんですよね。いきなり団子の皮に似せた餅が入ってるんで、一緒に食べると熊本県だと、“あーこれはいきなり団子だ!”というようなアイスになっています。(昔からいきなり団子はよく食べてたんですか?)はい。いきなり団子で育ったと言っても過言ではないぐらいです。それからかぼちゃのジェラートがティラミス風。クッキーを練り込んで、食べるとティラミスのような食感が味わえるジェラートにしました。でそれからお茶のジェラートなんですけど、黒蜜を練り込んで黒蜜とお茶のハーモニーを楽しんで頂こうというようなジェラートにしてます。で最後にお米なんですけどミルク味のジェラートにお米のつぶつぶを混ぜ込んで、お米の食感も楽しんでもらいながら味わえるジェラートにしてます。食べてみると本当にいきなり団子でびっくりした!とか、けっこう評判が良くてですね、反響が良かったのでまた今年の春から販売開始ということになりました。


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「益城町未来トーーク」が発案したジェラート、名前は「mashikinto(マシキント)」。『芋とあんこのいきなりサプライズ』、『上品なお茶に黒蜜ドレス』、
『つぶつぶお米のミルクカーニバル』、『大人になれるカボチャティラミス』の4種類。今回は特別に、益城町に行かないと買えないレアモノ「mashikinto(マシキント)」、中身お任せの6個入りを直送で3名にプレゼントします!

『LOVE & HOPE』ブログのメッセージフォームから「マシキント希望」と書いてご応募ください。明日金曜日いっぱい受付。当選者はブログで発表します。

益城町では「益城ファーマーズヴィレッジ ファム」で購入可能です。

益城町未来トーーク 活動の様子はfacebookをご覧ください。

2018年5月9日

5月9日 益城町未来トーーク(1)

今週は震災から2年を迎えた熊本からのレポート。今朝は、震度7の地震に2度見舞われ、大きな被害を受けた“益城町”で活動する若い世代を中心としたワークショップ「益城町未来トーーク」についてお伝えします。

この益城町は、2016年4月14日と16日にいずれも震度7を観測したとくに被害の大きかった地域。丸2年が過ぎた今もなお、道路や建物などの解体や復旧作業が続いています。そんな益城町で立ち上がった、若い世代によるワークショップ「益城町未来トーーク」。いったいどんなワークショップなのでしょうか。事務局代表の戸上雄太郎さんに伺いました。

◆若い人たちの意見を聞ける場として
益城町未来トークは高校生から三十歳ぐらいの若い人たちを対象に益城町の復興のために自分たちができることは何か?というのを話し合うワークショップとして始まっております。特徴としては、ただ話し合うだけで終わるとなかなか復興に繋がらないよね、ということで自分たちで出してアイデアを自分たち自身で実現するということにこだわって活動を続けている団体です。もともとのきっかけは町が開催した住民説明会がきっかけだったんです。あれだけの大きな地震があったので町が復興するにあたっては復興計画を作らないといけないという状況に当時ありました。その時町が何十回も地元の地区を回って説明会を開いたんですけれど、参加される方がご高齢の方ばかり。若い方がぜんぜん顔を出さないっていう問題があって、一方でこれからの益城の復興のことを考えるのであれば、未来の主役であるべき若い人たちの意見も取り入れた方がいいというご意見も年配の方からありました。ですので若い人たちの意見を聞ける場として始めようというのが最初の「益城町未来トーーク」の出発点です。最初の未来トーークで100人ぐらい集まったんです。グループを分けてアイデアを出してもらって、すごくたくさんのアイデアが出たんですけれども、何回かワークショップを重ねていちばん最初の年度は5つのプロジェクトを立ち上げました。5つというのは、1つ目が“老若男女が楽しめるイベントを自分たちで企画したい”というプロジェクト。2つ目が地震で街灯が切れて町がとても暗い状態だったので何とかして明るくできないか?という“ランププロジェクト”。3つ目が益城の将来の未来予想図みたいな“地図を作ろう”というプロジェクト。4つ目がジェラートを作るなど“特産品を作るプロジェクト”。最後のひとつが益城の魅力を発信していこうという“情報発信プロジェクト”。この5つのプロジェクトが立ち上がって、それぞれメンバーがチームを作って独自に活動していたというのが最初の動き出しでした。いちばん嬉しかった言葉が“今までの益城にはない取り組みですごく町が明るくなったよね”とか、“変わったよね”っていう声を頂いたのがすごく嬉しかったですし、後はけっこう地震後、重いニュースとか暗いニュースばっかりだったんですけれども、若い人達が積極的に動くことで、“すごく前向きな気分になれた”っていうような応援して下さる方々、ご意見がとても多かったので、そこは嬉しかったですね。最初の1年間は自分たちの考えたアイデアをどうやって実現していくかということにこだわった一年でした。やりながら途中で気づいたのが、なかなか熊本の中で自分たちがいろいろ動いても、熊本の「外」に伝わらないんじゃないかっていうのはすごく肌で感じるようになりましたので、これからは益城とか熊本を飛び出して、いろんな地域の人たちと一緒になって取り込みをやっていくことで、益城が明るくなるような取り組みを続けていけたらなと思っています。


若い世代を中心としたワークショップ、「益城町未来トーーク」事務局代表、戸上雄太郎さんも30歳になったばかりで若く、じつは益城町役場につとめながら事務局代表として「益城町未来トーーク」をけん引しています。先月は東京でマルシェを開いたほか、特産品の素材を使った“ジェラート”も去年に続いて販売が決定。次々と若いメンバーたちのアイデアは実現しています。

明日も引き続き、「益城町未来トーーク」の話題。明日はそんな“ジェラート”のプレゼントもあります!

2018年5月8日

5月8日 東海大学生有志による「阿蘇復興への道」(2)

今週は震災から2年を迎えた熊本からのレポート。今朝は引き続き、南阿蘇村を中心に活動している東海大学の学生たちによる復興支援団体、「阿蘇復興への道」についてお伝えします。

東海大農学部の“阿蘇キャンパス”があった南阿蘇村の黒川地区、震災前は約1000人の学生が住む「学生村」と呼ばれていました。被災した阿蘇キャンパスは現在“実習施設”として活用されているものの、学生たちの多くは熊本市内の熊本キャンパスに転移しました。そんな状況の中、にぎわいの消えた黒川地区をなんとか活気づけようと活動しているのが東海大学生有志による「阿蘇復興への道」。参加しているメンバーや主な活動内容を広報 古堅あさひさん(3年生)に聞きました。

◆食事会や語り部で黒川地区との交流を
2年生から4年生までで30名近くでやっています。震災を伝えるという面でも苦しい部分もあるんで楽しいことばっかりではないんですけど、和気あいあいと活動しています。基本的には黒川地区と学生のつながりを繋いできたいということで、黒川地区でちょっとした食事会とかバーベキューとか交流会みないのを作ってみんなでご飯食べたり、黒川地区で語り部、震災当時の状況を話させて頂く活動とかもやっています。あと10月の「南阿蘇大復興祭」も自分たちの活動では重要な活動かなって思います。いつも大家さんに会いに行ったり、食事会や語り部や復興祭を通して会う時に、いつも“ありがとうねー”とちょっと涙ながらに言って頂けるだけで、本当に行ってよかったなって思いますいつも。


お話しにでてきた「南阿蘇大復興祭」が目下「阿蘇復興への道」のメインイベント。これまで2回開催され、餅投げや、そばの早食い競争、ステージでは片平里菜やthe LOW-ATUS(ザ・ロウエイタス)のライブなど行われています。くまもンの登場も!
今年も秋に開催予定の「南阿蘇大復興祭」、今年はどんなことを考えているのでしょうか?

◆大家さんが笑顔になってくれたら
いろいろです。うちの東海大生も参加しますし、大食い大会やずっと自分たちの団体と関わってきてくれているアーティストの方も参加して頂いて、なんでホントいろいろです。いまは自分たちの代なんですけど、後輩が祭りをするにしても、語り部をするにも、ぜんぶ委ねていこうかなと思ってて。復興っていう言葉自体、人によってはふわふわする単語っていうか曖昧な単語だとは思うんですけど、自分たちとしては大家さんとかが笑顔になってくれたらいいなっていうのをいちばんに考えて伝えていこうとは思います。


お世話になった黒川地区の人たちに喜んでもらえたらという思いの元に、交流を続けている「阿蘇復興への道」のメンバーたち。
実習施設として阿蘇キャンパスの「農場」などは残るものの、農学部のキャンパスは益城町に移されることが決まり、震災前のように黒川地区に学生が住むという可能性は限りなく少なくなりました。それでも古堅さんはじめ、黒川地区で学んだ学生たちにとってこの場所はやはり特別な場所であるといいます。

◆あの場所にいたからこそ築けた「絆」
当たり前ですけどいちばんは自然が身近にあること。本当に阿蘇キャンパスにいるときは、平日に川遊びだったりとかもできるし、農場がキャンパス内にあるってのもあるんですけど動物がホントに近くにいて、市内の大学とは比べ物にならないくらいの自然との密度で関われるっていうのも大きいと思ってて。ほかにやっぱり「絆」。大家さんとの絆もそうですし、友人同士の絆もそう、先輩後輩との絆も、あの場所にいたからこそ築けるものがけっこう多いんじゃないかなっていうのは感じてます。



『LOVE & HOPE』、明日は益城町に生まれた、若い世代による復興プロジェクトについてお伝えします。

2018年5月7日

5月7日 東海大学生有志による「阿蘇復興への道」

今週は震災から2年を迎えた熊本からのレポート。今朝は南阿蘇村を中心に活動している東海大学の学生有志による復興支援団体「阿蘇復興への道」についてお伝えします。

東海大農学部の“阿蘇キャンパス”があった南阿蘇村の黒川地区には、震災前は約1000人の学生が住む「学生村」と呼ばれていました。被災した阿蘇キャンパスは断層の上に建っていることが判り、阿蘇キャンパスの再開は断念。現在は熊本市内のキャンパスに通う農学部の“実習施設”として活用され、いま黒川地区に住む学生はいません。

そんな東海大の学生たちによって立ち上げられた「阿蘇復興への道」。広報を担当している古堅あさひさんに団体立ち上げの経緯を聞きました。

◆募金活動から始まった“学生たちの支援の取り組み”
自分達の団体は学生有志の団体です。元々は地震が起こって地元に一時避難をしたんですけど、すぐ阿蘇、黒川に戻って瓦礫作業や家具の仕分けをしてらっしゃる先輩もいたんですけど、それに行けなかったりする生徒とかはみんな募金活動したりして、その集まった募金をどうやって一つにまとめようかということで、学校だったり南阿蘇だったりに募金をしようってことで先輩方が一時的に団体を作って。せっかく集まった学生の気持ちを無駄にしたくないってことで、何か阿蘇と自分たちの繋がりや地震を伝えていくっていうことに生かせないかなということで、「阿蘇復興への道」と名前を変えて模索しながら三年目になります。


募金活動から始まった“学生たちの支援の取り組み”を絶やすまいと「阿蘇復興への道」は生まれました。いまは南阿蘇村での村民とのBBQや交流会、復興イベントの開催など、さまざまなアクションを展開しています。

古堅さんはいま3年生。震災の時はまだ1年生で出身地の沖縄から南阿蘇へやってきて間もない時の地震でした。いまは中心メンバーの一人として、団体の運営に関わっている古堅さん、彼女もまた、震災当時、村民に助けてもらったことが忘れられないといいます。

◆黒川地区は第二の故郷のような
自分自身、新一年生で黒川に来て2〜3週間ぐらいの時の地震だったので、土地勘も無いし何もわからない状態で地震起きちゃったんですけど、その時もすごい大家さんに助けて頂いて、その日、夜中だったんで連絡手段なんかもダメで、大家さんが自分の携帯電話を貸してくれてみんなに、“これで親御さんに連絡を取ってね”と言ってくれて。大家さんのお家も全部崩れちゃってたんですけれど、地元に帰ってからも連絡をくれて、“大丈夫ですか”とか言ってくださって、ありがたいなって思いましたし、他の子の話を聞いてもやっぱりみんな助けられてという感じで、そのつながりは黒川地区の「学生村」の特別な感じ、第二の故郷のような、自分の親元を離れてでも安心できる場所っていうのは、いま違う場所にいるからこそ感じる点かなっていうのあります。やっぱり自分たちいま黒川地区に住んでいないのってけっこう大きいことだなって思ってて、今までいた時よりもやっぱり活気もけっこう減っちゃうなって思ってて。自分たちが一年生の時に震災を体験したけど、自分たち以降の新入生の子とかは、実習で阿蘇に行くっていっても、やっぱり阿蘇と関わっていくことも減ってくだろうし、大家さんと関わることもやっぱりない、もしかしたら会わないで卒業していく子とかもいるかもしれなくて、温かいもの、つながりだったり優しさだったり、知ってる自分たちが伝えていかないと後世に伝わらないものだなって感じるんで、そういうのも含めて自分たちが伝えていけたらなと思って活動はしています。


崩落した阿蘇大橋を渡った先にある黒川地区。いまも復興工事が続き、住民の帰還もそれほど進んでいません。失なわれた“地域の活気”を取り戻すために何かしたいと、現役の学生はもちろん、震災後に卒業したOBたちも一緒になって「阿蘇復興への道」は活動を続けています。

明日も「阿蘇復興への道」について、お伝えします。

2018年5月4日

5月4日 南阿蘇村「おふくろ亭」(3)

今週は震災から2年を迎えた熊本からのレポート。今朝は引き続き、南阿蘇村で営業を再開した食堂、「おふくろ亭」の話題です。


「おふくろ亭」は崩落した阿蘇大橋に近い、南阿蘇村の黒川地区にあり、震災前は東海大農学部〔阿蘇キャンパス〕約1000人の学生が住んでいた、いわゆる“学生街の食堂”でした。

店主の橋本としえさんは、震災前学生や地元の常連客に腕を振るっていましたが震災で自宅が崩壊。6時間もの間、自宅の下敷きになりながら九死に一生を得ました。大けがをして入院し7月に退院。お店の建物が無事だったこともあって、いつか戻って来る学生のためにと、9月にお店を再開しました。

しかし今年春、東海大農学部の新キャンパスが益城町に整備されることが決まり、黒川地区が震災前のように、“学生が住む町”に戻ることは無くなりました。いまは工事関係者や、阿蘇大橋の崩落現場を見に来た方に、週に5日ランチを提供しています。

◆自慢の「あか牛丼」「煮込みホルモン定食」700円!
ここに橋が崩れたところを見に来られた方で、言って頂いた方には地震の時の状況とか、自分の知ってる限り話をしたりとか、主人が撮ったこの地域の昔の写真とかも置いて、以前はこんな感じだったんですよ、みたいな話をしたりしてます。
あんまりメニュー無いんですけど、「煮込みホルモン定食」っていうのが最初からやってるんですけど、にんにくをこの店の横に植えてるんですよ。そのにんにくを使って、味噌煮込みやってるんです。あと主人がいまいろんなところから人が来てるから、ここはひとつ赤牛の牛丼を食べてもらいたいと・・・(笑)赤牛牛丼高くなるからどうするの値段は!でも高かったら人は入ってくれないんじゃないかな〜とか思って・・・一緒で700円で出してるんです。ホルモンも結構手間がかかって大変なんですけど、美味しいと思いますのでよろしくお願いします(笑)


阿蘇の名物「あか牛」の牛丼が700円で食べられる!ということに衝撃を受けつつも・・・(ほかの店ではだいたい1400円以上)ここはやっぱり、イチオシの「煮込みホルモン定食」を注文することに!


◆学生が戻らないと、だんだん気力も失せてくる
(最大でこれ6人ですか?椅子を足せばもうちょっと入るかな)多い時は8人ぐらいかな。でも今あんまりそこの道が通行止めになったから人来ないかなと思ったら、旗が見えたからやってるんだと思ってぐるっと回って来てみましたっていう人もいて、ありがたいなと思って。(いま仮設はどこなんですか?)場所はシモノヤマダですね。ここを上って左の方にずっと入ったところです。車で10分ぐらい行かないといけないんです。(そこでご主人と?)主人と二人です息子は出まして。四畳半二間で台所。いまは主人が一部屋、私が一部屋みたいな感じです。(ここ阿蘇大橋が目の前。そうじゃなかったらすごい景色ですよね)そうですよ。もう一年目は岩がゴロゴロゴロゴロ落ちる音ばっかりしてました。その時はもうちょっと元気あったんです。あの頃あんなのに負けたらいかんと思ってから、最初はなんかすごい元気だったんですけど、2年も経つとだんだん気力が落ちてくるんですね。(学生が居なくなった下宿屋さんとか皆さん閉じてるんですか?)下宿屋さんはぜんぶほとんど解体。アパート残ってる下の所に作業員の方が住んでいる。(まだあと2年ぐらい続くんでしょうね)お待たせしました、ホルモン定食ですどうぞ〜(やばい美味しそうちょうだい)〜〜〜



「煮込みホルモン定食」。
味噌のコクとホルモンの甘みある脂、そしてにんにくの香ばしさが口に広がる、それはそれは旨い煮込ホルモン。

まだ復興工事が続いている黒川地区。「おふくろ亭」の前の道も通行止めの区間になっていますが、お店までは特別に通行できるよう措置がとられています。美味しい美味しい「煮込みホルモン定食」を求めて、訪ねてみてはいかがでしょうか。

2018年5月3日

5月3日 南阿蘇村「おふくろ亭」(2)

今週は震災から2年を迎えた熊本からのレポート。今朝は引き続き、南阿蘇村で営業を再開した食堂「おふくろ亭」の話題です。

「おふくろ亭」は、南阿蘇村の黒川地区、東海大阿蘇キャンパス近くにあるいわゆる“学生街の食堂”。店主の橋本としえさんは、学生や地元の常連客に腕を振るっていましたが震災で自宅が崩壊。その時、6時間もの間自宅の下敷きになりながら、九死に一生を得ました。橋本さんは救出された時、担架にカバーをかけられていて、自宅や町がどんな状況になっているか、その時は見ることが無かったんですが、それから3か月後に退院して初めて被災した自宅と店舗を見に行きました。


◆無地だった
ほんとびっくりしました。家がつぶれてカーテンゆらゆら、なんかもうちょっとショックだったですけれどもね。ここから助けて頂いたんだなと思って。(お店は見に来られたんですか?)店、その時見に来ました。で、“無事だったんだ”と思って。どうもなってないと思って。ほんとびっくりしましたね。ほとんど無傷、どこも手を入れてないです建物自体は何もしてなくて。そのかわり周りは土地が隆起したり、波打ったりしてましたけど。で9月の終わりぐらいに、それこそ学生さんとかボランティアさんに手伝って頂いて、中をきれいにして頂いて、そこから再開して今に至っているところです。


自宅は1階がつぶれて全壊したものの、お店はほぼ無傷。学生やボランティアに手伝ってもらいその年の9月にお店を再開しました。ただその時、被災した東海大阿蘇キャンパスからは学生が消え、住民の多くも仮設住宅などに移っていて、お店を再開しても人が来るかどうかは分からない状況でもありました。それでも店を再開しようと思ったのは、どんな思いからだったんでしょうか?

◆学生はいなくなったが、復旧作業にあたる方のために
なんだろ・・・いま自分にできることは何かなって思った時に、店があるから店で再開して、仕事、作業に来られている方とか、普通の方もいらっしゃいますし、ちょっとでも人の役に立てればいいかなって感じで始めたんですよね。その時は近所の人とか来ても寄るところも何も無いんですよね。だからちょっとでもここに来てゆっくりしてもらいたいなって気持ちもあったりして。何もないところで店があって、なんとなくこうチカラになるじゃないけど元気になるとか、そんな感じのことも言われたり、で、“あーやっぱり頑張らんといかんな”と思って。学生さん・・・入学したばっかしで親子3人で食べに来られて、“今からこっちの方に住みますからよろしくお願いします”って言って頂いて、“じゃあよろしくお願いしますね”とか言って、そういう会話した方が地震の後に来られて、“こんなことになって”みたいな感じで話をされたりとかですね、“ここ店が開きましたね〜”みたいな話をしたりとかですね。まあ今から来てもらえるのかな〜みたいな、ギリギリのところで頑張ってるところです。いつの日かもうちょっと商売になるように頑張りたいですけど。だんだん人が少なくなるしちょっと心細いところもあるんですよね。ここに住んでた人がみんなは帰ってこないし、まあ世の中なるようにしかならないからと思って、まあ今のところは作業の人が来てるし、道が通れば普通に仕事帰りの客さんとかも寄って頂けるんじゃないかなと思ってるんですよね。以前お店開けてた時に会社帰りのお客さん来て頂いたりしていたので、どうかな〜と思ってるとこですね。もうまったく先が読めない状況なんですよね、いま。


「おふくろ亭」は、今は週に5日、昼のみ営業しています。
以前は客の6割が学生だったが、今はほとんどが復興工事の関係者。まだ周囲は自宅再建もままならず、工事が続いていて、今回の取材でも辿り着くのに苦労しました。そんな状況にもかかわらず、まるで暗闇に灯りをともすように、お店を開けている橋本さんの「おふくろ亭」。「煮込みホルモン定食」がイチオシということなんですが、明日はそんな「おふくろ亭」のメニューについてお届けします。

2018年5月2日

5月2日 南阿蘇村「おふくろ亭」

今週は震災から2年を迎えた熊本からのレポート。今朝は南阿蘇村で営業を再開した食堂「おふくろ亭」の話題です。

「おふくろ亭」は、南阿蘇村の黒川地区、東海大阿蘇キャンパス近くにある、いわゆる“学生街の食堂”。崩落した阿蘇大橋にも近く、入り口からはその崩落現場が正面に見えます。店主の橋本としえさんは、学生や地元の常連客に腕を振るっていましたが、震災で自宅が崩壊。6時間もの間、自宅の下敷きになりながら九死に一生を得ました。


◆自宅の下敷きに〜救助されるまで
夜中にですね、ちょうどその日金曜日だったんですね、で11時ぐらいにここを閉めて家に帰って、ちょうど地震があった時、電気消して寝ましょう〜で立ってた時に地震。地震というよりですね、落とし穴にぱっと落ちるような、あんな感じなんですよ。へっと思ってあと気が付いた時には、家の中に閉じ込められて、つぶれた家に閉じ込められていたんですよ。うち三人で暮らしてまして、主人と私と一階にいて閉じ込められて、息子が二階に寝てて二階にいたから息子は無事だったから、私たちを呼んで、私は声が出なくて主人が話せるような状況だったので、それで私たちが中に閉じ込められているっていうのが分かったもんですから、息子が近所の人とかと一緒に、田舎だからまあチェーンソーとかそういう道具があったから助かったんだろうと思うんですよね。で主人のところは切ってもらって、自分で出たそうなんですけれども、自分の状況はどんな状況かなって考えて、風が来てるから呼吸はできるから大丈夫だなと思って、で左足はちょっと動く、右足は完全に股関節脱臼ではずれてて、もう足がくの字に曲がってて、左手はちょっと動く、右手はまあ完全に動く、右手がちょっと空間があるから手で探って、これガラスだから危ない、触っちゃダメだと思ったら、木が一本あって、これはしっかりしてるから触っても大丈夫だと思って、でその木をしっかり右手に握って、揺れる時に耐えて、足がもう痛くてたまらなかったんですけれども、それ握って耐えて、で、ゆっくりゆっくり狭くなってくるんですよね。あ、このままじゃ頭がつぶれると思って、頭がつぶれたらダメだと思って、その間に東海大の学生さんがたまたま通りかかって、ずっと助けられるまでそばにいてくれて、ずっと声掛けしてくれて、そういうのが力になってですね、頑張って、そうこうしてるうちに救助の人がチェーンソーで切ったりして四角く開けてもらって、そこから引っ張り出してもらったんですよ。


橋本としえさんは現在、ご主人とともに「みなし仮設住宅」で暮らしています。自宅は再建する予定だが、まだ水道などのインフラが復旧しておらずいまなお避難生活が続いています。

それでも橋本さんは、震災から5か月で「おふくろ亭」を再開しました!明日に続きます。

2018年5月1日

5月1日 『アウトドアクラブ南阿蘇 knot(ノット)』

昨日に引き続き、熊本地震で大きな被害を受けた南阿蘇村のレストラン「まるでん」オーナー、増田一正さんのインタビューです。

南阿蘇の玄関口、“阿蘇大橋”のすぐ目の前にあったレストラン 「まるでん」は熊本地震で全壊。 現在お店があった場所は更地になっています。お店だけでなく自宅も被害をうけて解体となる中、現在は仮設住宅で暮らしながらお店の再開に向け “キッチンカー” での営業を続けています。

そしてもう1つ、増田さんの心の支えとなっているのが南阿蘇村でのアウトドアガイド、『アウトドアクラブ南阿蘇 knot(ノット)』の存在です。中でも人気なのが、子供から大人まで体験できる『ツリーイング』です。

◆見ているだけで楽しいアクティビティ
ツリーイング=木登り体験です。久木野キャンプ場に12mぐらいの木があってそこをザイルとハーネスと特殊なシステムを使って自分の力で登ってもらいます。途中で枝ぶりが良いところは枝に座ったり、座りながら飲み物を飲んだり、高いところだと阿蘇五岳が見える木もあるのでがんばって登ってもらって。今日は風が気持ちいいんですけど、木の上で流れる風はまた違うし、今時の葉っぱの色や樹の皮の色だったり、たまには虫がいたり鳥の声が聞こえたり、そういった楽しみがこのキャンプ場ではできるのでしてもらえたらなと思います。腕じゃなくて足の力で登っていきます。ロープを使って地面に立つイメージで。だいたい規定は小学生以上となっています。
面白いもので子供も一回目登りはじめて「あ〜怖い」と言って、一回降ろして。友だちとか周りの子が登ってるのを見てると「私もまたやろう」って登っていって。一線超えるとどんどん登っていくんですよね。それが見ていて楽しいです。きっと家族でお父さんお母さんやじいちゃんばあちゃんが一緒に来てそういった子供たちの姿見ると喜びもあるんじゃないかな。だからこのツリーイングは木に登らなくても周りで見てるだけで楽しいアクティビティかなと思います。

もう1つGWに久木野キャンプ場とは別なところに草原の中にある木でイベントをさせてもらいます。場所はここは森の中なんですけど、そこは高台の草原のまん中に大きな赤松の木があって、そこがスゴイんです。それことその木に登ったら阿蘇のカルデラ中が見えるような、そんな場所でツリーイング体験してもらえたらと。名前が「天空の草原ツアー」で、草原で遊べるハンモックやトレッキング、草原でコーヒーやお茶が飲めるようなのを楽しんでもらおうと思っています。4日間ぐらいできたらいいなと思って今進めています。


GW期間中に体験できる「天空の草原ツアー」は5月3、4、5、6日と行われますが、すでに予約でうまってきており、現在5月6日のみ予約可能とのこと!詳しくは『アウトドアクラブ南阿蘇 knot』のサイトでご確認を。


また夏に向けて、ツリーイング体験やキッチンカーの 「あか牛のローストビーフキーマカレー」を食べにぜひ南阿蘇村に足を運んで、久木野キャンプ場へ立ち寄ってみては!
南阿蘇村 キッチンカー『minaaso マルデン』facebook
営業曜日 木・金・土・日 

パーソナリティ 鈴村健一

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