2015年6月23日

6月23日 東松島市東名の牡蠣漁師2

今朝も宮城県東松島市の、若き牡蠣漁師・東松島市・東名の牡蠣漁師・阿部晃也さん(32)のインタビューです。



東名は、東松島市の西側。松島湾に面した港町。目の前の豊かな海のめぐみで、東名の人々は暮らしてきたと言います。しかし、当時の景色は津波によって失われました。阿部さんは、震災前の町の様子をこう語ります。

◆牡蠣のスペシャリストの港町
港町と言う感じで、民家が百数十件ずらーっと並んでいていて京都みたいな感じですね。その民家をずっといくと海にぶちあたる。港町では珍しいんですが専業で牡蠣専門、東名は他は何もやらない牡蠣だけの町なんですね。20軒位あるんだけど全員が牡蠣専門というのが珍しいし、知識もスゴイしプライドもある。譲れないところがある。牡蠣の町と言っても過言ではないくらいスペシャリストが集まっている。


全国に種牡蠣を出荷していることでも知られる東名。目の前の松島湾は、2本の川から注ぐ栄養豊富な淡水と海水が混ざり合い、牡蠣にとって最高の環境なんだそうです。
しかしあの日、その豊かな海が、阿部さんたち東名の人々に牙をむきました。



◆海があればやりなおせる
震災で一言で言えば壊滅状態。土石流が端から端まで流れたような感じで、これはもう日本が終わったなと思ったんですけど、工場も流されましたし船も一艘流されて。でも我々は海があれば仕事ができるんですね。家族もいて海さえあればやる気も出るんです。船は買えばいいし家も建て直せばいい。海が残ったということで(津波が)何回来てもできるなという自信もあった。あんまりショックっていうのはなくてやる気しかなかった。種も若干残っていたのでこれはできるなと。逆にチャンスかなという感じ。うちの親父は牡蠣に関しては今後やる必要はないんじゃないかと思っていて、種牡蠣に力を入れようという会社の話もあったが、どちらかというと種は生産者のためで牡蠣は消費者のためと大きく分けられる。待っているお客さんがいるので牡蠣をここでやめるわけにはいかないんですよ。仮に種を作って全国へ出荷しても他はできるわけで。種が出荷できるのになぜ牡蠣が生産できないんだと思ったら、やるしかないと思った。その年に工場を建てるって決めて、親父に頭を下げて一からやりなおさせてくれということで、こういうスタイルでやっている。自分で工場をたてちゃえば浜全体の底上げにつながるんじゃないかなと思いました。(東名という地域をもりあげよう)そういう気持ちもあるし、やっぱり親孝行なので親父をなんとかさせたいという気持ちが強くて(どんだけ親不孝だったか)想像の30倍以上。(お父さんは喜んでいるのでは)どうなんでしょう。俺の前ではそういうのは見せないけど、まあいてくれるだけでもいいかなと思いますけど。



阿部さんのご自宅は海のすぐ前にあったのですが、松島湾の小さな島々のおかげで津波も弱まり、家は残ったそう。「家も家族も無事で、海もある。漁師を再開しない理由が無い。」阿部さんはそう考えたと話します。東名では牡蠣養殖を辞めた漁師さんは20軒中2軒にとどまっている。いち早く漁を再開した阿部さんを見て、やる気になった漁師さんも多いという。阿部さんご自身の牡蠣の売り上げも、今年は震災前の水準に戻ったそう。

2015年6月22日

6月22日 東松島市東名の牡蠣漁師1


今朝は、宮城県東松島市の若き牡蠣漁師のレポートです。
お話を伺ったのは、東松島市・東名の牡蠣漁師・阿部晃也さん、32歳。

東名をはじめ、東松島市の沿岸部「奥松島」は、全国的にも有名な「種牡蠣」、つまり牡蠣の赤ちゃんの生産地です。まずこの、東名の種牡蠣について伺いました。

◆種牡蠣の一大生産地
俺が生まれる前から種牡蠣はやっていて、歴史はだいぶ古いんですね。フランスやアメリカにも出荷していました。松島湾が種牡蠣のルーツと言っても過言じゃないくらい出荷しています。うちの場合はだいたい北海道から九州までやっているんですが、地域の生産者によって好みが違う。北海道だと厚い種が欲しいとか、岩手だと薄い種が欲しいとか、九州はそのあいだですよとか。ホタテについていればついているほど量は取れるけど大きいものは取れない。種が少なければライバルがいないので量はとれないけど大きいものが取れる。生産者によって好みが違うのでそれに合わせて種を仕込むということですね。親牡蠣から抱卵されるんですが、水温と気温を足して50度以上とか、7月くらいからはほぼ毎日塩水を組んで、水温や気温や比重を全部見極めて顕微鏡で調べて、抱卵している状況を研究してそこから一気にホタテの貝を投入・・・。最初は石ころにつけていたのが原点らしいんですけど、その次は牡蠣のからにつけていたらしい。その後に付着率がホタテの殻のほうが良いということを発見して、そこからはホタテの殻に変わったんですね。


ということで、東名で生産された種牡蠣は全国へ出荷されています。そこで育った牡蠣を私たちは、「北海道産」とか「九州産」として、食べていることになるわけです。

ちなみに種牡蠣の生産は、阿部さんのお父さんが中心となってやっていて、阿部晃也さんは、消費者向けの殻付きの牡蠣を担当。種牡蠣と牡蠣の両方を扱うのは、全国的にも珍しいそう。親子で役割分担して、牡蠣を作るようになったきっかけを、阿部さんは、「親孝行したかったから」と話します。

◆後継者問題?クソですね(笑)
原点は親孝行というところから始まった。親孝行をしたい、認めてもらいたいという簡単な気持ちで19歳で親父に頭を下げて仕事を始めた。そこから仕事を教えてもらう段階で、やっぱり若いので夜は遊びたいじゃないですか。そのためにはお金が必要で、親父にお金をくれともいえないし、そこで自分で牡蠣を売って小遣いを稼ごうかと悪だくみを考えた。インターネットで牡蠣を売れるかも知れないよという友達がいて、うちの親父も30年前から直売をやっていたので賛成してくれて。おやじは産直・漁師直送を一番に初めたんだと思う。人と触れ合う機会もものすごく多くて、そういう環境で育ったのでうらやましいなと思ったし、未だに超せない存在。追いつきたいとは思うけど、まだくるぶしくらい(笑)自然に跡を継ぎたいと思わせてくれた。
この浜はそういう人がものすごく多くて、後継者が半分以上いる。親が良いので自然に後継者がついてくる。よく「後継者問題をどう思うか」と聞かれますがクソですね(笑) 親が悪いとしか言いようがない。最初に海の魅力を与えてくれたし、手を加えればちゃんと売れるということを導いてくれた。我々は2代目・3代目なので全然工場も船も機械もそろっていてやるだけの状態。たまに「すごいですね」と言われるけど全然すごくない。親父がすごいとしかみんな思っていない。俺はそれに乗っかっただけなので。あとは時代に合わせてインターネットとかおやじたちができないことをやったり、バーベキューを企画したり、そんな感じで若いなりにアレンジを加えて販路を広げられればなと思っていますね。


漁師の後継車問題の話がありましたが、他の地域では、「漁師はやめておけ」と親が子どもに跡を継がせないケースも多いと言います。でも阿部さんはお父さんからそう言われなかったという。「子どもの頃から、海の魅力をオヤジが教えてくれていた」そうで、その経験が今に繋がっているとも話しています。これは東名の漁師さん全体にも言えることだそうです。

あしたも阿部晃也さんのインタビューをお届けします。



Photo by 東松島食べる通信
«前の記事へ || 1 | 2 | 3 |...| 587 | 588 | 589 |...| 1066 | 1067 | 1068 || 次の記事へ»

パーソナリティ 鈴村健一

メッセージ、ご意見、プレゼントご応募はこちら

特別番組 LOVE & HOPE ~10年目の春だより

TOKYO FM 特別番組 HANABI

「LOVE&HOPE~防災ハンドブック2015」PDF版ダウンロード配信中

アーカイブ

  • いのちの森
  • Support Our Kid's
  • TOKYO FM
  • JFN