2015年3月17日

3月17日 女川町づくり-須田町長2-

21日(土)、津波で全壊した女川駅がいよいよ開業。全国から注目を集める、宮城県女川町(おながわちょう)の町づくりをレポートしています。

女川町では、新しい駅舎周辺を「中心地」として町づくりを進めてきました。そしてそのデザインには、町民の意見が数多く反映されています。須田善明町長に、女川の町づくりの仕組みについて伺いました。

◆『口説ける水辺』を!
わが町の場合は7割以上の建物が失われ、中心部、漁業集落地区も含めほとんどやられつくしたわけですね。となるとわが町の復興まちづくりは「ゼロから線を描ける」ことが未来にとって唯一の糧だった。そのうえで「町づくりワーキンググループ」というのを設定させて頂いた。住民のみなさんに入って頂いて、これからの町づくりについて具体的に策定のプロセスに参画を頂いた。メンバーは20代から70代まで。比較的40代の層が厚かったが、中には30代のやんちゃ系のおにいちゃんもいて、「俺たちも議論に参加したい」と言ってくれて1年間入ってもらった。新しい人材発掘にもなった。これまで、商工会だとか漁協という活動がメインだったがそういうカテゴリじゃない人材がこういう風に新しい町づくりに入ってくれた。これはものすごくうれしかったですね。おおやれやれ!という感じで。そこで提言としてあったのが、「口説ける水辺を作りましょう」というもの。漁業・水産の町。海は仕事場。漁港でもある。
そうではなく、女川(おんながわ)という川もあるのだが、そうした水辺で若い世代が口説ける。あるいはカップルで来なければならない。口説ける水辺になるような素敵な空間がこの町全体に広がっていたらいいよね。おお素晴らしいキャッチコピー。いいセンスだなと思った。被災地復興の言葉の響きには悲壮感があるが、これはすごく未来志向。
なかなか街の復興で「口説ける水辺」というのは出て来ない。それを言っちゃえるのがおらが町のよさというか、また市の強さかな。みんなで作る町づくりです。


この町づくりワーキンググループは、住民と行政、さらに建設業者も同じテーブルで話し合うもの。いわゆる「住民のガス抜き」ではなく、アイデアを本当に「形にする」ための会議でした。

主婦や若者、経営者、そして行政の長。それぞれが役割をもって町を作っていく。須田町長はこれを「我々」という主語で表現します。

◆“我々”が、納得するため
何年後の将来を見据えるかは別にしても方向は一緒。リーダーという役割だが、あくまで女川全体がチーム。その一員、行政を担っているという意識は持っている。これからの取り組みに対して「我々」という表現を使っている。我々はこうしていくんだということ。だからこそ自分自身もこれからの道筋に対して納得したい。行政の長と言う立場ではあるが、わが町の復興というより新生。もう一度作る、生まれ変わる、新しく生み出す。納得したいからやっている。自分の生きる未来に対して。
還暦になった時に、ここまで出来たとなるか、ここまでしか出来なかったとなるかは分からないが、一緒にやってきた連中と「でもやったよ」と、ガル屋…東北で唯一10種類のクラフトビールが飲める店、ぜひお越しください。そこでビール飲みたいじゃないですか。

 
そのほか、町づくりワーキンググループでは、 「スナックなどがあって、ちゃんと“夜の楽しみがある町”じゃないと、人は集まらない!」という意見も出たと言います。行政の生真面目な会議ではおそらく出てこない住民の本音が飛び出す会議だったことが想像できます。

明日も引き続き、女川町の町づくりについてお伝えします。

2015年3月16日

3月16日 女川町づくり-須田町長1-

今週は被災地だけでなく全国から注目を集める、宮城県女川町の町づくりについて。

今週末21日、JR石巻線が全線復旧。女川町は、津波で全壊した駅舎が開業します。女川町はこの4年間「ほぼゼロからの町づくり」に取り組んできました。あの日、女川を襲った津波の高さは、およそ20メートル。8割の建物が失われたと言います。須田善明町長は、当時をこう振り返ります。

『地獄ですよね。みたまんまの。いままで当たり前だったものがなくなっただけじゃなく、これ以上ないくらいの姿。家の屋根に乗って、そのまま何キロも沖に流されて船で救出されたという方もいる。残念ながら犠牲になられた方は、女川町内で人口の1割・827名が失われた。家族は無事だったが、家は流された。うちの母の兄夫婦の亡がら、クルマの中で抱き合っているように眠っていた。それは本当に辛かったですね。』

須田町長は42歳。
震災直後・2011年秋の町長選で当選しています。当時66歳だった前の町長は、須田町長の出馬を受け、自ら身を引いたと言います。若い世代に、町の行政が託された形です。

◆「女川は流されたのではない。新しい女川に生まれ変わるんだ。」
当時 自分は県議を12年やっていて39歳。当時の前町長は全力を尽くして頂いた。街をどうするかということでリーダーシップをとっていた。ただ我々の年代、世代として、我々が背負うべき責任が20年後に待っているならば、復興の1歩目から将来背負うであろう責任を我々世代がちゃんとしょって行くべきじゃないのかと。そうすることで我々自身も未来に対して納得できる。
そして子どもたち。あの状況でたぶん色んな不平不満もあるはず。大人たちがそうやって下を見るしかなかった時に子どもたちが詩を書いたり絵を描いたりしていた。当時小学校5年生の男の子が「女川は流されたのではない。新しい女川に生まれ変わるんだ。人々は負けず、待ち続ける。新しい女川に住む喜びを感じるために」こういう詩を書いていた。大人たちがもしかすると下しか見られていなかった時に、子どもたちは未来を見ていたんだと。頭を殴られたような気がしましたね。政治家として以上にここに生きる人間人としてどうあるべきか、彼らの親世代である我々がどう行動していくべきか。そのことを改めて突きつけられた思いがした。彼らが未来を信じているのなら、我々大人がちゃんと未来へ至る道筋を作らなければ。泣いていられないということを突きつけられた気がしましたね。


今朝は、今週21日に JR石巻線が全線復旧、駅舎が開業する宮城県女川町から、須田善明町長のインタビュー、お伝えしました。明日も続きをお伝えします。
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パーソナリティ 鈴村健一

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