2014年7月4日
7月2日 気仙沼の塩辛「波座物産」1
今日から3日間は、気仙沼の塩辛、再生の物語です。
宮城県気仙沼は養殖のカキや、サンマ、カツオ、マグロの水揚げで知られる魚介類の宝庫。
川崎市に本社を置く「波座物産(なぐらぶっさん)」は、その気仙沼に工場を置いて、水産加工業を営んできました。看板商品は、気仙沼の家庭の味を再現した「昔ながらの濃厚熟成塩辛」です。
しかし、東日本大震災による津波で工場は2階まで浸水。大きな被害を受けます。
お話は「波座物産」専務取締役、朝田慶太さんです。「波座物産」の「波座」とは、漁師や釣り人の間で使われる「なぶら」という言葉が元になっているそうです。
◆気仙沼に寄せる想い
これはうちの父親のお兄さんがつけてくれた名前。波座(なぶら)とは、潮と潮の境目で魚が集まるところ。潮目と潮目の境目には魚やプランクトンが集まってきて、それを海鳥がめがけてくる。それを見て漁師たちは漁をする。そんなふうに「人、モノ、お金」が集まってくる、という意味で「波座」と名付けた。
わたしの父と母が気仙沼出身。気仙沼ではなく東京で食品卸問屋として事業を始めた。気仙沼のある工場にうちの資本を入れて、気仙沼工場としてスタートした。わたしも震災前、気仙沼の工場の改革のため、気仙沼に通っていた最中に、震災があった。気仙沼の湾があるが、500メートルぐらい入った場所に工場があるが、津波の影響で6〜7メートルの波が来て、うちの工場も外観や看板は残っていたが、中はぐちゃぐちゃになった。地盤沈下もして水浸しの状態で、すぐには使えない状況だった。変わり果てた街を見て、言葉が出ないというのはこういうことなんだなというのを実感して、びっくりした。ただ幸い工場で働いていた人達はみんな無事で、それがなによりうれしかった。一人も欠けることなく、また工場を再開するときはみんな戻ってきてほしいという話もしたし、あの震災以降、気仙沼に寄せる思いは一段と強くなった。
気仙沼工場があった地区は震災後建築制限区域に指定されて、最長2年間自由に建物を建てることができなくなりました。工場を別の街に移転することも頭をよぎったという朝田さん。でも、看板商品「昔ながらの濃厚熟成塩辛」の味を守るためには、なんとしても気仙沼で工場を再開しなければ!その思いから、朝田さんたちの奮闘が始まります。
宮城県気仙沼は養殖のカキや、サンマ、カツオ、マグロの水揚げで知られる魚介類の宝庫。
川崎市に本社を置く「波座物産(なぐらぶっさん)」は、その気仙沼に工場を置いて、水産加工業を営んできました。看板商品は、気仙沼の家庭の味を再現した「昔ながらの濃厚熟成塩辛」です。
しかし、東日本大震災による津波で工場は2階まで浸水。大きな被害を受けます。
お話は「波座物産」専務取締役、朝田慶太さんです。「波座物産」の「波座」とは、漁師や釣り人の間で使われる「なぶら」という言葉が元になっているそうです。
◆気仙沼に寄せる想い
これはうちの父親のお兄さんがつけてくれた名前。波座(なぶら)とは、潮と潮の境目で魚が集まるところ。潮目と潮目の境目には魚やプランクトンが集まってきて、それを海鳥がめがけてくる。それを見て漁師たちは漁をする。そんなふうに「人、モノ、お金」が集まってくる、という意味で「波座」と名付けた。
わたしの父と母が気仙沼出身。気仙沼ではなく東京で食品卸問屋として事業を始めた。気仙沼のある工場にうちの資本を入れて、気仙沼工場としてスタートした。わたしも震災前、気仙沼の工場の改革のため、気仙沼に通っていた最中に、震災があった。気仙沼の湾があるが、500メートルぐらい入った場所に工場があるが、津波の影響で6〜7メートルの波が来て、うちの工場も外観や看板は残っていたが、中はぐちゃぐちゃになった。地盤沈下もして水浸しの状態で、すぐには使えない状況だった。変わり果てた街を見て、言葉が出ないというのはこういうことなんだなというのを実感して、びっくりした。ただ幸い工場で働いていた人達はみんな無事で、それがなによりうれしかった。一人も欠けることなく、また工場を再開するときはみんな戻ってきてほしいという話もしたし、あの震災以降、気仙沼に寄せる思いは一段と強くなった。
気仙沼工場があった地区は震災後建築制限区域に指定されて、最長2年間自由に建物を建てることができなくなりました。工場を別の街に移転することも頭をよぎったという朝田さん。でも、看板商品「昔ながらの濃厚熟成塩辛」の味を守るためには、なんとしても気仙沼で工場を再開しなければ!その思いから、朝田さんたちの奮闘が始まります。