2014年5月7日
5月7日 気仙沼・唐桑半島3 「唐桑の若き牡蠣漁師」
引き続き、宮城県気仙沼市・唐桑半島からのレポートです。
今回の取材で、唐桑半島を案内してくれたのが、街づくりサークル「からくわ丸」です。地元の“わかもの”、外から来た“よそもの”が一緒になって町のこれからを考える・・・そんな呼びかけのもと、震災後の街づくりに取り組んでいます。
そんなからくわ丸のメンバーの一人が、唐桑で生まれ育った牡蠣漁師、畠山政也さん。この界隈では「戸羽平(とばひら)」の屋号で呼ばれる、若き牡蠣漁師さんです。
◆寄港した日に被災
漁師歴まだ1年と3か月くらい。というのも前は漁業取締船という官庁関係の、漁業を取り締まる船に7〜8年乗っていた。沖縄、尖閣諸島の海域を取り締まっていた。ちょうど気仙沼に寄港したその日が3月11日で、ようやく帰宅してお茶を飲んでいたら地震に見舞われた。
現在30歳、「戸羽平」の5代目・政也さんは、3年前の震災と津波で、漁業取締船の仕事を休業せざるを得なくなったそうです。牡蠣漁師を継ごうと考えたのは、壊滅した気仙沼で、なお立ち上がろうとする4代目・つまりお父さんの姿があったからだと言います。政也さんは当時、何を思ったのでしょうか。
◆奇跡的に残った船
こいつはやるなと(笑) まだやるなと。震災から下手すると2日くらいで漁を再開しようと思っていましたね。というのも、この辺の養殖船は沖出しといって、命の次に船を守れという教えがあって、船を避難させたのだが、自分の家の養殖船は、気仙沼の市内の湾内にある造船場で修理をしていた。避難させられる状態じゃなかった。それでも親父は、震災直後でがれきで埋め尽くされている中で、震災から2‐3日で、がれきをかき分けてその場所に行ったら、船がそのまま、その場所にあって流されていなかった。周りの船はすべて横になっていたり燃えていたりする中、うちの小さな養殖船だけがぽつんと、動かずにいた。それを見て、養殖をやろうと覚悟を決めたみたい。おやじもそうだが、自分もそこで、これは養殖をやれということなのかと思った。実際に初めて見ると当然生きもの相手だから大変だが、手間をかけた分、恵まれた三陸の海は、良いものを育てる。消費者のみなさんも喜んでくれる。その顔を見るのが嬉しくてバネにしてやっている。励みにしている。
そして明日は、唐桑の若き牡蠣漁師が育てた牡蠣も食べられる、大人気の牡蠣小屋をご紹介します!
今回の取材で、唐桑半島を案内してくれたのが、街づくりサークル「からくわ丸」です。地元の“わかもの”、外から来た“よそもの”が一緒になって町のこれからを考える・・・そんな呼びかけのもと、震災後の街づくりに取り組んでいます。
そんなからくわ丸のメンバーの一人が、唐桑で生まれ育った牡蠣漁師、畠山政也さん。この界隈では「戸羽平(とばひら)」の屋号で呼ばれる、若き牡蠣漁師さんです。
◆寄港した日に被災
漁師歴まだ1年と3か月くらい。というのも前は漁業取締船という官庁関係の、漁業を取り締まる船に7〜8年乗っていた。沖縄、尖閣諸島の海域を取り締まっていた。ちょうど気仙沼に寄港したその日が3月11日で、ようやく帰宅してお茶を飲んでいたら地震に見舞われた。
現在30歳、「戸羽平」の5代目・政也さんは、3年前の震災と津波で、漁業取締船の仕事を休業せざるを得なくなったそうです。牡蠣漁師を継ごうと考えたのは、壊滅した気仙沼で、なお立ち上がろうとする4代目・つまりお父さんの姿があったからだと言います。政也さんは当時、何を思ったのでしょうか。
◆奇跡的に残った船
こいつはやるなと(笑) まだやるなと。震災から下手すると2日くらいで漁を再開しようと思っていましたね。というのも、この辺の養殖船は沖出しといって、命の次に船を守れという教えがあって、船を避難させたのだが、自分の家の養殖船は、気仙沼の市内の湾内にある造船場で修理をしていた。避難させられる状態じゃなかった。それでも親父は、震災直後でがれきで埋め尽くされている中で、震災から2‐3日で、がれきをかき分けてその場所に行ったら、船がそのまま、その場所にあって流されていなかった。周りの船はすべて横になっていたり燃えていたりする中、うちの小さな養殖船だけがぽつんと、動かずにいた。それを見て、養殖をやろうと覚悟を決めたみたい。おやじもそうだが、自分もそこで、これは養殖をやれということなのかと思った。実際に初めて見ると当然生きもの相手だから大変だが、手間をかけた分、恵まれた三陸の海は、良いものを育てる。消費者のみなさんも喜んでくれる。その顔を見るのが嬉しくてバネにしてやっている。励みにしている。
そして明日は、唐桑の若き牡蠣漁師が育てた牡蠣も食べられる、大人気の牡蠣小屋をご紹介します!