2013年10月16日
10月15日 映像作家、海南友子さんインタビュー(1)
今日は映像作家、海南友子さんのインタビューです。海南さんは1971年生まれ。NHKのディレクターを経て、フリーの映像作家として独立。「ビューティフル・アイランズ」や「いわさきちひろ〜27歳の旅立ち〜」などのドキュメンタリー映画を手掛けてきました。そんな海南さんを突き動かしたのが東日本大震災。海南さんは、震災直後から、最小限のスタッフと装備で福島に赴きます。福島第一原発と海南さんには、ある共通点があったのです。
◆福島第一原発とともに生まれて
3月11日〈地震が起きた時)、皆さんいろんなことを思われたと思うんですけど、わたしも最初は怖いな〜と思うだけだった。でも実はわたしは3月26日が誕生日で、(2011年に)40歳になったんだけど、スタッフの一人に「海南さんと福島第一原発の誕生日が一緒じゃないですか」と言われて。よく見たら、生年月日がほんとに一緒だった。
そこから福島で起きた事故が、自分にも直接なんらかの原因があるなと感じて、それを知ったあとは身体が勝手に動いて、昨日まですごく怖かったんだけど、気が付いたら、福島の現地に入っていて、近いところだと、原発4キロぐらいのところまで、当時はまだ警戒区域が設定される前だったので入れたので、そこでなにが起きているのか、どういう人達が家や故郷を失ったかということを、ぐーっと前のめりに取材に入っていった。
その年は一年かけて、「絶対これを作品にしよう!」と決めて、中に入っていった。最初に(福島に)入ったのが、2011年4月11日。普段わたしたちは取材に入るときは、いろいろ下調べをして入るが、今回はもうそのままカメラマンを連れて、出会った人出会った人にどんどんお話を聞いていくスタイルだった。それまで自分が外国とか災害の現場とかであったいろんな方たちに比べても、ある日突然なにもかも失うって、まるで日本で起きていることじゃないな、と。戦争とかがほかの国であって難民になって、というのは見たことがあったけれども、いわゆる難民状態の方が、こんなにいっぱい自分の身近に、同じ時代にたくさん生まれてしまったことがショックだったし、電気を使っていたという意味では、自分にも直接的な関係があると思うと、現場ですごく暗くなった。
また、津波の後の光景も相馬などで撮影したが、教科書で見た、広島や東京大空襲とだぶってしまって、いま自分の国で起きているとは、どうしても思えなかった。混乱しながら、でもやらなくちゃ、という気持ちで、二日と開けずに福島に通って、本当にたくさんの方にご迷惑をおかけしながら、お話を聞かせてもらった。
震災後の福島で精力的に取材を行っていた海南さんですが、現地に入って1か月もしないうちに、自らの妊娠が明らかになります。海南さんが下した「決断」とは?
続きは、明日の『LOVE&HOPE』でお届します。