2013年7月3日
7月2日 富岡を離れて2
きのうに引き続き、福島県を離れ東京で避難生活を続ける、橋本弘さんご夫妻の“今”をお伝えします。
双葉郡・富岡町で、洋食屋さんを営んでいた橋本さん夫妻は、津波と原発事故から逃れ、隣町の川内村(かわうちむら)や郡山市など、避難先を転々とした末、東京都の避難者受け入れに応募。東京江戸川区の都営アパートでの避難生活は、はや2年となります。震災のショックと、慣れない東京の暮らし。長引く避難生活は、橋本さんとご家族にどんな影響を与えたのでしょうか。
◆東京での生活
東京について2週間くらい娘のところにいて、そこから今の都営アパートに移り、今までここにいる。最初は母も一緒に来たのだが80歳を過ぎ、急激に足腰が衰えた。以前は2階に暮らしていて自分で暮らしていたが、それが一切、急激にできなくなってしまったので精神的にも不安定になってしまい、ここのアパートで2〜3回転倒。今は近くの施設でお世話になっている。
橋本さんは現在「59歳」。富岡で30年間、「街の洋食屋さん」を続けてきて、突然 職を失いました。避難指示解除・準備区域に再編されたとはいえ、富岡で生活を再建するメドは立っていません。そんな状況の中、仕事の再開について伺いました。
◆根を下ろす覚悟
仕事は現在はしていない。ちょっとアルバイトはしていたが。仕事をしてしまうと、それが日常になってしまってここの生活に根を下ろしたようになってしまう。そのまま継続するような被災者でいる不安がなくなる怖さ。変な言い方だし被災者という言葉も好きじゃない、そういう一つの見方でしかないんだろうけど、これからどうするかはっきりは決まっていない。仕事をするってそこに根を下ろす覚悟がなかったら出来ない。安心感はあるが、こんなに安心してしまっていいのだろうか。生活の基盤がここにあっていいのか。ここもいつまでいられるか分からない。地元・富岡は住めない。商売をしていたい人はいわき市でお店をもつとかそういうことも可能でもあるが、そのための色んな優遇制度もあるが、お店というのはそこで一度開いてしまうと、ずっとそこで基本は商売することになる。相当な覚悟がいる。なかなかお店をもう一度開くというのは難しい。できれば、やるなら富岡でと思っていたが、今の現状では難しいと思ったほうが良いと思う。
明日も、富岡を離れ、避難生活を続ける橋本弘さんの声をお伝えします。
双葉郡・富岡町で、洋食屋さんを営んでいた橋本さん夫妻は、津波と原発事故から逃れ、隣町の川内村(かわうちむら)や郡山市など、避難先を転々とした末、東京都の避難者受け入れに応募。東京江戸川区の都営アパートでの避難生活は、はや2年となります。震災のショックと、慣れない東京の暮らし。長引く避難生活は、橋本さんとご家族にどんな影響を与えたのでしょうか。
◆東京での生活
東京について2週間くらい娘のところにいて、そこから今の都営アパートに移り、今までここにいる。最初は母も一緒に来たのだが80歳を過ぎ、急激に足腰が衰えた。以前は2階に暮らしていて自分で暮らしていたが、それが一切、急激にできなくなってしまったので精神的にも不安定になってしまい、ここのアパートで2〜3回転倒。今は近くの施設でお世話になっている。
橋本さんは現在「59歳」。富岡で30年間、「街の洋食屋さん」を続けてきて、突然 職を失いました。避難指示解除・準備区域に再編されたとはいえ、富岡で生活を再建するメドは立っていません。そんな状況の中、仕事の再開について伺いました。
◆根を下ろす覚悟
仕事は現在はしていない。ちょっとアルバイトはしていたが。仕事をしてしまうと、それが日常になってしまってここの生活に根を下ろしたようになってしまう。そのまま継続するような被災者でいる不安がなくなる怖さ。変な言い方だし被災者という言葉も好きじゃない、そういう一つの見方でしかないんだろうけど、これからどうするかはっきりは決まっていない。仕事をするってそこに根を下ろす覚悟がなかったら出来ない。安心感はあるが、こんなに安心してしまっていいのだろうか。生活の基盤がここにあっていいのか。ここもいつまでいられるか分からない。地元・富岡は住めない。商売をしていたい人はいわき市でお店をもつとかそういうことも可能でもあるが、そのための色んな優遇制度もあるが、お店というのはそこで一度開いてしまうと、ずっとそこで基本は商売することになる。相当な覚悟がいる。なかなかお店をもう一度開くというのは難しい。できれば、やるなら富岡でと思っていたが、今の現状では難しいと思ったほうが良いと思う。
明日も、富岡を離れ、避難生活を続ける橋本弘さんの声をお伝えします。