満月の扉辻村アズサ

第2話 崩壊する日常

俺の腕を誰かがつついた。マユだった。
薄闇の中に、彼女の小さな顔が浮かび上がっている。トレードマークの1つであるツインテールが、車のカーブを曲がる動きに合わせて揺れている。
──車?
(ああ、そうか……)
まるで風邪をこじらせて高熱が出た時みたいに、意識が朦朧としている気がする。その頭でゆっくりと噛みしめるように、今に至るまでの出来事を思い出す。 (家族で旅行に行ってたんだっけ……温泉旅行。2日くらいだった。なかなか休みのとれない父さんが久しぶりに休暇を取れたからってことで。………それで今から家に帰るんだっけ)隣のマユが欠伸を噛み殺しながら、
「お兄ちゃん……今度の旅行楽しかったけど、なんだか疲れちゃったね」
「ああ」
浅くて心地よい……眠りの波の中に漂いながら返事をする。
最近知名度のあがってきてミュージシャン──確かミコトという名前だったか……ミコトの澄んだバラードと、両親が交わす他愛ない会話が絶妙な加減で耳に優しいBGMとなって、車内を満たしている。瞼を閉じているのか開いているのか、自分でも分からない。目に映る輪郭は曇りガラス越しに世界を見ているようだ。
蛍光色に発光するデジタル時計が刻んでいる、21時23分という数字が、やけに浮いて見える。
(この調子だとどうなんだろう……もうすぐ家に到着するんだろうか)
いくら温泉で疲れをとったとはいえ、旅館という場所で寝泊まりすることに慣れていなかったからなのか、疲れが体に重くのしかかっていた。
マユが覗き込んでくる。
「そういえばさぁ、お兄ちゃん?」
「ん?」
「あのお土産、誰に渡すの?凄く可愛い感じのストラップだったよね?」
「……お前には関係ないって」
「ふぅん、へー」
俺がとっさに首をもたげて目をそらすと、マユは悪戯っぽく微笑んだ。
最近はますます変にませてきたから困る。まあ中学2年にもなれば考え方も大人びてくるのはごく自然なことなんだろうけど……妙に勘ぐってくるのが少し鼻につく。
俺は溜め息混じりに口を開いた。
「お前だって、友達に贈るにしてはゴツい感じのアクセサリー買ってただろ」
「あー、あれは、あたしが使うの」
「……あんな男モノを?」旅館の土産コーナーの片隅──明らかに土産物として陳列する必要はなさそうな、アクセサリーショップにでも並べれば良いのにと思ってしまう。そのなかの男モノのアクセサリーコーナーの陳列棚の前で、パンキッシュなデザインのネックレスを大切そうに手にとり、レジへと持っ ていく時の彼女の姿を思い浮かべる。
友達に贈る時とはちょっと違った感じの、少しよそよそしい笑顔だった。
どんな相手に渡すのか、恋愛に疎い俺の目にも明白だった。
マユはチロッと舌を出す。
「いーの!そういうのもファッションなんだから。ねー、それよりお兄ちゃんは誰に贈るの?もしかしてカノジョ?」
「父さん、あとどのくらいで家に着く?」
追いかけてくるマユの好奇の視線を振り払うように窓の外に目を向けながら、俺は半ばヤケになって父さんに訊いた。夜の山道を照らすのは僅かな外灯と、車のライトと、月明かり。
ほのかな外灯の明かりの前を通り過ぎると、すぐに圧倒的な闇が我が家のワゴン車を包み込む。ずっとそれの繰り返しだ。まるで障害のない、暗い水中を走っているかのようだと夢想してしまうほどに、車は緩やかに走り続けている。
(そう、とても緩やかだったんだ。俺達の前を遮るものなんてあるわけがない、なんて錯覚してもいいくらいに)

──いや、錯覚じゃない。
俺達家族の日常はこの瞬間まで確かに、誰にも邪魔されることはなかったんだ。平凡な家族で、平凡な毎日で、だからこそ幸せだった。

そこで意識が冴え渡る。
いや冴え渡るだなんて表現もおかしいけれど、とにかく、俺はこの夢の登場人物達の中で自分に起きた異様な行動と意識を、蘇えらせてしまった。

──そうだ、確かもうすぐ、あのカーブの前に来てしまう。みんな死んでしまう!視線の端で、時計が21時40分をさした。あと二分後──俺の家族は死んでしまう。

思考が強烈な熱にあてられたかのように飛び上がる。だけど、何故か俺の体は、操り人形のように自由な行動を許されなくなってしまった。
「そうだなぁ、あと30分くらいかな」
父さんの陽気な声が返ってきた。
俺の唇が勝手に言う。
「結構時間かかるね」
「いやいや、これでも混雑に巻き込まれなかった分マシだぞ。ま、急がば回れって言うしな。今頃高速道路は帰省ラッシュってやつで混雑してるさ」
母さんが和やかな声で頷く。
「最初は山道なんてどうかと思ったけど、お父さんの言う通りにこっちを経由して良かったかもしれないわね」
「だろ?俺の長年の経験ってやつだ」
そうして父さんと母さんは、クスクスとくすぐったい笑い声を交わした。
そんな2人のやり取りに、こちらも少しだけくすぐったくなった。
いつもは家で顔を突き合わす度に小言をぶつけあうばかりの両親のその穏やかな姿が、あまりに新鮮だったからだろう。
「そっか。……じゃ、俺ちょっと眠ってる。マユはどうする?」
「うん、あたしもそうしよっかな」
俺のお気楽な提案に、マユはなんの躊躇いもなく相槌を打った。

──やめろ。
思わず呟いていた。
だけど、夢の中の俺とは違う俺が、間違いなく呟いていた。
絶望を予感した小さな悲鳴だった。
なのに、夢の中の俺は、ゆっくりとあの夜の眠りの世界へ引きずり込まれていく。瞼が重たい。見えない掌で覆われていくかのようだ。
「おやすみなさい、お兄ちゃん」
右肩に柔らかな温もりが寄りかかってくる気配を感じた。

──やめろ。
視界が、閉ざされた。
1秒……2秒……3秒……4秒……5秒……、
あの時、何故か俺の意識は急に掬いあげられた。
まるで真実をその目に焼きつけろと言わんばかりに、別に誰の命令というわけでもないのに。けれど目に見えない──直接脳に指令でもくだされたとでも空想してしまうほどの──何かに、俺は叩き起こされた。

そして、あの光景が網膜に焼きつけられた。
スローモーションのようだと思った。
その巨大な塊は頭部と胴体の間接部分を大きくひねらせ、センターラインを乗り越え、運転席側──つまり父さんと、そしてマユ──に向かって迷う素振りもなく突っ込んでくる。窓ガラスが砕ける。激しい轟音と全身に走る鈍い痛み……俺の意識は、先の見えない闇の中へと投げ出される。

──お兄ちゃん。

マユの声がする。
どこだ。
闇に閉ざされた視界。
声のする方向を耳で確かめながら、手探りでマユと思わしき感触に縋りつこうともがく。

──お兄ちゃんってば。

「マユ?……どこだ?」
──ここだよ、目の前に居るじゃない。
言葉の通り、すぐ目の前で声がした。
途端に、安堵の笑みがこぼれる。
それに呼応するかのように、指先が確かな質量を持つ温もりに触れた。
光がはじける。

「マユッ!」
不安の海で探し求めていた妹の名を口にした瞬間──俺の思考は固まった。あろうことか俺の右手が、柔らかなネグリジェに包まれた少女の胸元を鷲掴みにしていたからで。更に言葉を続けるなら、その少女は死んだ俺の妹と瓜二つなわけで。
彼女は戸惑いながらもどこか意味深な笑みをたどたどしく浮かべながら、
「お兄ちゃん、おはよ。その……手、外してくれない?」
「あ…………あ………な、なん、なんでこんなことに!?」
窓を覆う白いカーテンの隙間からは、眩い朝日が射し込んでいる。昼の陽光とは違う新鮮な輝きが、チラチラと室内に光線を伸ばしていた。嫌な寝汗が体にまとわりついている。ワナワナと言葉にならない震えにみまわれながら、俺はゆっくりと彼女の胸元から手を外し、吐き気すらもよおしそうな程の緊張感を胸に詰まらせる。
少女の顔は、何故か息がかかりそうな程の近距離にある。
平たく言うならば──いや平たくもなんともないけど──、彼女は俺の上に馬乗りになり、前かがみで顔を覗き込んできていた。それを頭が理解した瞬間、羞恥心に俺の頬は紅潮した。
「なにって、朝ごはんの支度が出来たから起こそうと思ったんだけど──」
「これが人を起こす時のやり方か!?もっと他にあるだろ!!」
俺の反論に圧倒されたのか、それとも渋々なのか、少女は眉根を寄せながらゆっくりと俺の上から退去した。唇をムッと尖らせているところを見ると、後者だったらしい。いやそんなことはどうでもいいのだ。
「その前に、なんでお前まだいるんだよ!?」
「え?だってあたしここ以外行くところないじゃん。ていうかお兄ちゃん、少し見ない間になんか、薄情になってない?」
人の抗論を受け取るどころか冷静に流し、さも当たり前のように言葉を返してくるこの少女。何の因果か昨日の晩から勝手に我が家に出現し、とっくの昔にあの世へ行った我が妹の名──どころか姿形までそっくりそのままに名乗ってくるこいつ。
あまりの当然だ、とでも言いたげな表情に、俺も思わず閉口させられてしまう。

そんな俺の表情をどう取ったのか、彼女は再び、布団の脇から覗き込んできた。
妹と同じ顔で、心配そうにこちらを見つめないで欲しい。
「ねぇ、大丈夫?なんか、凄いうなされてたよ?悪い夢でも見た?あ!あのね、おやすみ前に言った通り、あたし朝ごはん用意したんだよっ?勿論食べるよね?今日は平日だし、学校だから沢山食べて力をつけなきゃ。その為にあたし、はりきって……」
俺は額の汗を拭うと、サッサと立ち上がり、手早く布団を畳んだ。
昨晩はシャワーも浴びずに寝てしまって、我ながら不潔だとも不快だとも思えど、時計に目をやれば7時40分──
やばい、HRが8時からの我が高校まで俺が到着するには、最低でも20分は必要だ。これでは、飯を食う暇すら有りはしない。
遅刻は面倒だ。洗面所に駆け込み、必要最低限の身支度や着替えを済ませ、ロクに中身も確認せずに鞄を掴むと、そのまま玄関に直行する。
「ちょっと、お兄ちゃん?」
視界の端に、置いてけぼり状態の少女と、テーブルの上で湯気をたてる朝ご飯らしきものがものが見えた気がした。
「いいか!俺が家出てる間に消えるか出ていくかしとけよ!さもないと、本当に警察呼ぶからな!」
俺はまくしたてるように言いながら、今までにないほど乱暴にドアを閉めた。
幻も悪夢も、全てこのドアの向こうに閉じ込めていくかのように。
朝っぱらから息が上がってしまう。嫌な疲労感。クラリと目眩がした。少しだけ、背中をドアに預ける。
「……マジかよ?」
疑問の呟きは、自分の足元のコンクリートに落ちていった。

うちの父さんはいわゆるエンジニアってやつで、仕事が忙しく家を空けるのもしょっちゅうだったし、早めに帰宅出来た日があったとしても、母さんと小言のぶつけあいばかりだった。
……それでもまあ、今のご時世を振り返ってみると、こんなことは一般的な家庭ではそんなに珍しいことでもない。
だから平凡と言えば平凡な家族風景なのだ。だけど、妹のマユはなかなか理解出来なかったらしく、その埋め合わせを欲しがるように、兄である俺に対して、父親像みたいなものを求めていた。自然と俺自身もそうであろうと……彼女の訴えみたいなものに応えるようになっていた。マユが生きていた頃には決して口に出すことなんてなかったけれど、俺とマユのかけがいのない絆ができていた。
……彼女は俺にとって、世界で1番大切な女の子だった。いや女の子とか関係ないか。でも、とにかく大切だった。守りたい存在だった。だから──そんな彼女の死を受け入れるまで、どれほど苦労しただろう。今だって、ふとした拍子にバランスを崩してしまいそうなのに。

なのにあれはなんなのだろうか。
思いつめ過ぎた俺の──妹の死を未だに受け入れられないままな俺の──心が作り出した虚像なのだろうか。だとすれば、なんて情けない幻なんだろう。
死んだ妹が蘇ってくる──今どき、そんなご都合主義なことがまかり通ってたまるか。
「……そうだ、あれは幻だ。あんな出来の悪い幻にいちいち動揺するだなんて、俺らしくないな」
開く気配のないドアを睨みつける。
鍵を開けたままにしておくか否か……暫く迷った挙げ句、結局俺は、閉める道を選んだ。
──ガチャリ。
普段はそれほど意識しないその音も、この時ばかりはやけに重々しく響いて聞こえた。
「……はあ」
鍵をポケットにしまう。
毎日繰り返される悪夢のこと、部屋に現れた妹の幻か何かのこと──全てを吹っ切るかのように、俺は朝の通学路を走り出していた。

【第1話に戻る】 【第3話に続く】

第2話満月の扉

蒼き賞
Copyright (c) TOKYO FM Broadcasting Co., Ltd. All rights reserved.