東北の10代が、震災について考えたこと、感じていることを記事にしてくれた、SCHOOL OF LOCK! 未来新聞2014年3月11日号。東日本大震災から、今年で4年。まだまだ現在進行形のこの問題について考えるために、2015年版のSCHOOL OF LOCK!未来新聞を刊行します。君の“今”こそが、日本の“未来の鍵”。今年も、いっしょに考えよう。そして、つくろう。自分たちがほしい未来を。


あたりまえに学校に行けて、あたりまえに家に帰れて、
あたりまえに友達に会えて、あたりまえに過ごせる。
これってすごく幸せなこと。

「SCHOOL OF LOCK! 未来新聞」
震災から4年たって、周りの景色は震災前とほとんど変わらなくなった。でも、海岸付近はまだまだ。原発の問題も福島は抱えている。少しずつ帰宅できる範囲が広がったり、除染も進んでるけど、元通りには程遠い。

あの日は先輩の卒業式だった。学校は午前中で終わってたから、みんなが無事か心配で仕方なかった。学校が再会してみんなと会えたときは本当に嬉しかった。でも、震災から1ヶ月後また大きな余震が私たちを襲った。忘れもしない。

4.11。

3月は被害もほとんどなくて、、。だから正直「被災者」とか「被災地」と言われても実感ないし、どこか人ごとだった。でも、4月に自分の身に起きて、人ごとじゃなくなった。「あたりまえ」ってどれだけ素晴らしいことなのかを実感した。あたりまえに学校に行けて、あたりまえに家に帰れて、あたりまえに友達に会えて、あたりまえに過ごせる。これってすごく幸せなこと。これが震災を経験して今一番感じてること。

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私には夢があります。それは、福島で子供達のために働くこと。小学校か幼稚園かはまだ分からない。先生じゃない仕事かもしれない。でも、絶対、福島の子供たちのために働きたいって思ってます。

震災を経験して感じたあたりまえの大切さとか、他にも沢山のことを伝えたい。きっと、私が先生になるころには震災を経験していなかったり、小さくて覚えてない年代になると思う。だからこそ、今、自分たちが住んでいるところであの日何が起きたのか。伝えなければならないと思ってます。もちろん、子供たちだけじゃなくて、震災を経験したことのない人たちにも伝えなければならないと思う。経験した私たちでさえ4年経つと忘れかけてきたり、地震の耐性がついて慣れちゃってたりしている部分がある。忘れたい過去かもしれないけど、忘れちゃいけない過去だと私は思う。経験した人じゃないと伝えられないことがたくさんあるから、これから先たくさん発信していきたい。経験を生かすために。そして、同じことを繰り返さないために。

私の通う高校は、震災後の余震の影響で二つあるうちの一つの校舎が使えなくなり、取り壊されてしまいました。私が入学したときには、仮設校舎でした。それから3年間、仮設校舎で生活しました。廊下は狭いし、教室も狭い。夏暑くて、冬寒い。仮設校舎は思ったよりも不便でした。震災から四年。私はこの春卒業して、大学へ進学します。それと同時に、新校舎も完成します。本当は私たちもそこで過ごせるはずだったんです。でも、工事が思ったように進まず、私たちが新校舎で学ぶことはできませんでした。そして、私たちが学んできた仮設校舎はなくなってしまいます。きっと、卒業後学校に来たら、なくなってるんだろうなって思うとなんだかさみしいです。でも、これも一つの節目なのかなと。そしてこのことは、新校舎になる学校もそして春から大学に通う私も新たなスタートの一歩目なのかなと思います。

学校、先生、友達、親、支えてくれた全ての人に感謝してこれからも夢を叶えるために頑張っていきます。
写真は3年間お世話になった仮設校舎です。

きんぐぷーる 福島県 18歳 女

プロパンガスで炊いたご飯を食べ、ゆらゆらと揺れる大きなろうそくの火を吹き消し涙を堪えながら眠りに就く。
こんな生活したくない。誰もがそう思ったはずです。

「SCHOOL OF LOCK! 未来新聞」

2011年3月11日金曜日。あの日あの時、小学3年生だった私は友達と特別教室でおしゃべりをしながら帰りの準備をしていました。14時46分18秒。突如地震がゆらゆらと起き始め、私や友達はすぐさま机の下に隠れました。徐々に大きくなっていく地震。怖くて泣き始めてしまう友達もいるなか、私は涙を堪え「大丈夫!! 絶対助かるから!!もう少しで止まるから!」と必死になって励ましてあげました。その後揺れが少し収まった隙を見て教室で帰りの準備をしていた友達と先生と合流し校庭へ。雪がちらちらと降ってくる中、私の家族が迎えに来てくれて家に帰れました。

でも地獄はここからでした。私の家は3つある玄関の1つが潰れたりするなど、半壊していました。家の中もガラスが飛び散ったりテレビが倒れていたりして散々な状態でした。車の中で布団を敷き、皆で寝て、起きたら掃除して。そんな日々が1週間以上続きました。今日が何日で何曜日かも分からないほど毎日同じことを繰り返し、茶の間だけには入れるようになった時には皆憔悴していました。震災が起きた日から家に避難して来ていた親戚も。プロパンガスで炊いたご飯を食べ、ゆらゆらと揺れる大きなろうそくの火を吹き消し涙を堪えながら眠りに就く。こんな生活したくない。誰もがそう思ったはずです。

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1ヶ月すると電気も復旧し、テレビも見れるように。でも相変わらず食料は足りないし水道も復旧しませんでした。洗濯は近所の人の井戸の水で行い、給水車での給水は服を何度も替えて一人ポリタンク1個分なのを3個分貰ったりしたり、近所のスーパーに朝早くから並び食料を集め、必死に生きてきました。それでも私の我慢は限界でした。それを察してくれた母がドライブに連れてくれてそのとき堪えていた涙をたくさん流しました。その後水道も復旧し、ほとんど元の生活に戻ることができました被災して1年くらいしてから私は石巻の日和山に登り、復興の現状を見てきました。その時の日和山周辺はまだ瓦礫だらけで見るに耐えられませんでした。

でもあの震災から4年。今はどのくらい復興が進んでいるのか私にも分かりません。私の住む地域は幸い津波が来ず、大切な人たちもほとんど失わなかったです。でも皆辛い思いをして生きてきました。今思い返すと大切な経験だったと思います。人との関わりを、人の大切さを改めて実感できました。日本中、世界中の方々からの支援、援助金に感謝して私達被災者は生きています。この場をお借りして御礼申し上げます。県、そして国という垣根を越えたご支援ありがとうございました。私達被災者は生きる。亡くなってしまった方々の分まで。そしてこれから産まれてくる子供にこの震災のことを伝えなければならない。いつ起きるか分からない地震のために。地震の怖さを。人の繋がりの大切さを。

(写真の絵は支援で世界中の子供たちから貰った絵です。)

すりーみん 宮城県 13歳 女

研修でフランスとスウェーデンへ行き、
今の日本に必要なことがはっきりとわかりました。

私は青森県の太平洋側に住んでいます。震災の被害は他県よりは少なかったですが、実際に地面が隆起していたり、防波堤が壊れていたりしていたところなどを自分の目でみて、津波は恐ろしいなと思いました。私は福島第一原子力発電所の事故により、エネルギーに対しての関心が高まり、青森県主催の「高校生による海外エネルギー研修」という企画に参加することができました。

この研修でフランスとスウェーデンへ行き、原子力発電のことや海外のエネルギー事情、再生可能エネルギーのことなどを勉強でき、今の日本に必要なことがはっきりとわかりました。今の日本に必要なことは4つあります。

一つ目は「福島第一原子力発電所の事故について、正しい知識を知り、思いやりを持つこと」。
二つ目は「私たち未来ある世代が、今の日本に本当に必要なエネルギー源を考えること」。
三つ目は「原子力発電について、正しい知識を知り、それによって周りに流されない自分の意見を持つこと」。

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そして最後、四つ目は「エネルギー事情に対する教育を促進し、勉強できる環境をつくること」です。

四つ目に関して、日本は世界の国々と比べて、エネルギー事情に対しての教育が遅れています。根拠はあります。それは、フランスで訪れた高校では、年に三回ほど、エネルギーに対しての発表会を開催したり、エネルギー関連施設の方をお呼びしてディスカッションしたりしています。皆さんは定期的にそのようなことをしたことがありますか? ある方もいると思いますが、少ないと思います。一つ目、二つ目、そして三つ目に関して、私からは今この場では何も言いません。なぜなら皆さん1人1人が自分の力で調べ、頭で考え、そして、心で感じて欲しいからです。私の意見に左右されて欲しくないので、あえて私は言いません。浅はかな知識だけで侮辱や罵声をネットに書いたり、メディアを通して伝えたりなどすることは、エネルギー関連施設で働いている方々や、福島第一原子力発電所の事故の被害者、そして、東日本大震災を経験した被災者に対して無礼だと思います。もし、自分の力で調べ、正しい知識得て、自分の意見を持つことができ、何か質問等ありましたら、答えれる範囲は限られていますが、全力で答えさせていただきます。

長くなりましたが、私は東日本大震災を経験し、福島第一原子力発電所の事故をきっかけにエネルギーということに関心を持ち、勉強してきました。エネルギーは私達にとって一番大事なものだと言ってもいいと思います。皆さんも私の文章を読んで、少しでも何か感じてくださったら嬉しいです。そして、震災前の街並みを取り戻したり、新しい街並みを作ったり、被災者の方々が全員笑顔で前向きになり、一歩踏み出せる日を私は願い、応援していきます。

テラしず! 青森県 17歳 男

あの日声を上げたあの人は今、 県内の野球強豪校に進学し甲子園を目指し頑張っています。

震災の時は小6で卒業式の練習も終わり、帰りの会をしてる最中でした。
グラっと大きな揺れがきて「あ、地震だ」っと思った瞬間、教室の窓が割れ、テレビが落ち、みんなの悲鳴が聞こえました。

揺れが収まり校庭に避難した後も余震は続き、周りでは下級生の泣く声、ただ事ではない異常な空気の中、ある男子が声を上げました。

「泣くな!大丈夫だから!とりあえず落ち着いて先生の話しを聞こう!」と。

自分も割れたガラスで手のひらを怪我し、ただでさえ余震や家族のことで不安なはずなのに勇気を出し声を上げた、「なんて強い人なんだろう」そう思いました。
周りの子たちが保護者に連れられ帰り始めているのに私はまだ母と連絡が付かなくて不安で今にも泣きそうでした。
でも「大丈夫」その言葉が「泣くな自分!きっと大丈夫!」と意識を変えてくれました。

あの日声を上げたあの人は今、県内の野球強豪校に進学し甲子園を目指し頑張っています。

高校は離れてしまったけど今でもあの時の言葉がふと蘇ります。
あの日の震災を経験した自分たちだからこそ伝えられることがあると思います。

「大丈夫」もらった言葉を今度は自分が誰かにかけられるよう前を向いて頑張っていこうと思います。

眠たいpony 宮城県 16歳 女

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私は昨年から親元を離れ、東京での大学生活をスタートさせました。

私は昨年から親元を離れ、東京での大学生活をスタートさせました。憧れだった東京は交通のアクセスが良く、テレビや雑誌で見ていたものが手に入る、とても便利な街です。目にするもの全てが華やかで、毎日がお祭りのように賑わっている様子には驚くばかりでした。

まもなく3月11日を迎えようとしているなか、“震災復興”という言葉は東京の地でも耳にします。
しかし宮城県出身の私としては、被災地から離れてしまうと現実味のない、たたの“言葉”としか感じられないのも事実です。
例えば東京の電車に乗ると冷房は寒いほど効いていたり、繁華街には夜遅くまできらびやかな電飾が灯されていたりします。
一方、新幹線で2時間の地域では、仮設住宅に住んでいる人々が多くいるのも現状です。また宮城県内の地方紙には今もなお、震災に関連するコーナーが設けられ、被災者の声や復興の様子が毎日掲載されています。一人暮らしで忙しい毎日を送っていたことや、華やかな東京の街並みの姿に、わたし自身も震災が残した大きな爪痕を忘れかけていました。いま春休みで帰省したことをきっかけに、改めてあのときの気持ちを思い出しています。大学では生命科学科に進み、被災地の復興に携わることが出来るような研究を行いたいと思っています。またメディア関係の仕事に就きたいという夢も変わってはいません。次世代を担う東北民の一人として、将来の夢に向かって頑張ります!

のりたま 宮城県 19歳 女


今は明かりがあります。水があります。食べ物があります。笑顔があります。でも復興は終わっていません。

震災から4年たちました。
もうすでに周りの声はもう4年かとかあんなこともあったねみたいに風化が始まってるように感じます。
自分の地区はライフラインが数日絶たれただけで軽い方でした。ですが地震が起きたときの悲鳴、物の倒れる音、友達の涙はまだはっきりと覚えています。家の明かりはつかなくて、朝と夜の切り替えがとても早く、毎日水分や食料を歩いて買いにいく。日の光を暖かいと感じて、食べるものの美味しさを噛み締める。

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今は明かりがあります。水があります。食べ物があります。笑顔があります。でも復興は終わっていません。一日でも早くみんながあの日を乗り越えることが出来る日が来ることを願っています。

BOON 宮城県 16歳 男

あと数年したら、必ず新たな東北のまちを、つくってみせる。だから、待ってて。


あの地震から、4年が経とうとしていて、私は大学4年になろうとしています。

建築を今、東北山形で学んでいます。同期には気仙沼や石巻の子もいます。実際には話さないけど、お互いに思うところはあります。
自分たちが学んでいることは、地元の力になる。そうなると思っていたけど、知れば知るほど足りないものが多すぎると感じてしまう。
知識がない、技術がない、財政力がない、人脈がない、信頼がない、経験が足りない。

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だから、待っててほしい。あと数年したら、必ず新たな東北のまちを、つくってみせる。建築の力は、それができる。その自信は、ある。だから、待ってて。すぐにはできない。自分たちのまちは、自然と上手く生きていける。そうやって生きてきたんだ。私たちが建築の力で、東北を変えてみせる。だから、焦らないで、どれが最善なのか、考えていこう。

さってぃ 山形県 21歳 女

今度仙石線という電車が全線復旧開通するのでとても嬉しいです!


東松島市は野蒜と大曲という地区が特に深刻な被害を受けました。
最近は仮設住宅も空き家になってきて住宅の復興は進んだと感じています。

漁業や産業も4年経過してどんどん進んでいってるのでこれも皆さんの寄付のおかげです、ありがとうございました。

今度付近を走る仙石線という電車が全線復旧開通するのでとても嬉しいです!

Mrほうじ茶 宮城県 16歳 男

あのときは小学生でした。『何もできなかった』という気持ちしか残りませんでした。でも今は違う。

僕は、3/13が誕生日です。
震災の2日後です。まだ電気も、水道も復旧していない誕生日でした。
あのときは小学生でした。「何もできなかった」という気持ちしか残りませんでした。でも今は違う。大人に頼っていたけど、今は頼る側から、しっかりと頼られる側に変わっていけるようになっていきたいと思います。二度とあの震災を繰り返さないようにするために。

スガモン 宮城県 12歳 男

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"仮設住宅を出る日"が、
いよいよ実現味を帯びてきたのです。

昨年の未来新聞に記事を載せていただいた、ともぼー☆です。
記事を書いてから今日までの約1年間、大きな動きがありました。

この春に新しい家が完成します。
記事を書いて半年経った秋の中頃、家を建てる準備が始まったと母から連絡があり、冬になる頃には建設が始まりました。まさかこんなに早く家が建つことになるとは思いませんでした。
ぼんやりと想像していた”仮設住宅を出る日"が、いよいよ実現味を帯びてきたのです。
この記事を書いている間にも建設は着々と進んでいます。

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今も時々、震災の夢を見ます。大音量で鳴り響くサイレンの中、津波から逃げる為に必死で高台へ走る夢。何度も大きな揺れに襲われる夢。車のエンジン音や重低音といった地響きに似た音が今も苦手で、体が思わず反応してしまいます。
3月11日が近づくにつれて繰り返しテレビから流れてくる震災の映像も見ることができません。
もしも、またあの時のような大きな地震が起こったら。あの時のような大きな津波が来たら。それが、あの時のように新しく建つ家に襲い掛かったら。そんな不安が一時も心の隅から離れずにいます。

昨年記事を書いた時に、私は「”被災地”ということで“可哀想”と思われることが嫌だ」「人に震災のことを話すのを躊躇ってしまう」と書きました。それは今でも変わりません。ですが、書いてから気づいたこともあります。
人に震災のことを話すのを躊躇ってしまうのは、震災の話をして相手に苦い顔をされるのが、煙たがれるのがとてつもなく怖かったから。ということです。痛みも悲しみも、全部をそのまま知ることは不可能です。もっと苦しんだ人を何人も見てきました。だからこそ、本当の気持ちを誰にも打ち明けられませんでした。打ち明けられなくて、上手く消化できなくて、どんどんこびりついて。とうとう気持ちが大きく折れてしまったこともありました。
ですが、徐々に本当の気持ちを言えるようになってきました。学校にいる時にやや大きな地震があった時に友達や先生が心配してくれたり、気持ちが大きく折れてしまった時には優しく受け入れてくれました。昨年書いた記事を読んでくれた友達もいました。それだけでもう嬉しかったのです。優しい友達や先生に恵まれて、本当に幸せだと思いました。
仮設住宅は、少しずつですが空き家が目立つようになってきました。
6月には津波の被害を受けていた区間が復旧して、電車が完全に通る予定です。街は新しく変わりつつあります。

私はこの春、専門学校を卒業します。卒業後は一旦実家に戻り、再開予定の両親の飲食店の手伝いをします。再開を待ち望んでくれている人達の為にも、精一杯頑張ります。
家族みんなが元気に引っ越すことが、今の一番の願いです。

ともぼー☆ 東京都 20歳 女

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被害にあった人たちの気持ちはわからないのかもしれないけど、 せめてわかる努力をしたいと思うのです。

未来新聞を書いてから1年。私の夢は変わりました。1年前、私は未来新聞で宇宙を学びたいと言っていました。しかし今は違います。人を助けるような仕事がしたいと思うようになりました。やはりそれは震災があった時、自分が本当に多くの人に助けられたという経験を持っていたことと、未来新聞を書いてからあの時のことを深く考えるようになったからです。

もしも、同じような震災などが私の周りに起きた時、私には何かできるのだろうか、また助けられるだけの存在になってしまわないだろうかと考えました。そして私が思いついたのは医療です。山形大学の工学部には、工学分野と基礎医学分野を共に学べる学科があり、将来は医療系の会社に就職することもできるようです。わずかでも人を助けられるような仕事をすることが私の目標です。

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悲しいことに復興はまだまだですが、被災地の人たちの思いは変わっていません。少しずつ、少しずつ、鉄道が復旧したり、道路の工事が進んだりしてるとは言いますが、避難者が多くいて、まだ仮設住宅で過ごしている人もいるんです。今被災地はめげることなく復興しようと踏ん張っています。そしてそれは時が経てば経つほど強くなっていくように感じます。今の現状を知ってほしいです。私はとても悔しいです。同じ県にいるはずなのに何も出来ないということがどうしようもなく辛いです。私の家はライフラインが一時停止しただけで、津波もきていません。それに、数日後には避難をしたためにもう家にはいませんでした。だから私には本当に津波などの被害にあった人たちの気持ちはわからないのかもしれないけど、わからないのならせめてわかる努力をしたいと思うのです。 そしてそれを忘れずに生きたいです。

先日卒業を迎えることができ、何事もなく無事に卒業を迎えられることを幸せに思います。夢が変わったように、これから私の考え方はどんどん変わると思います。大学や就職やたくさんの経験をすればするほどそれは確かに変わっていきます。しかし、私の根底にあるものは絶対に変わりません。あの時、たくさんの人から頂いた優しさのおかげで気づけたたくさんのこと、自分も優しさを持った人になろうと決意したこと、それらを忘れることはありません。大学を卒業したら、宮城に戻り、自分の故郷のために、未来のためにできることをしていきたいです。

めてお番長 宮城県 18歳 女

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防潮堤を建てないでください。私たちにおだやかな海の景色を見せてください。
海は敵じゃないと教えてください。

去年も記事を送らせていただいたフォレオです。
この1年のうちに私は地元を離れ、一人暮らしを始めました。離れてしまったことで地元のことを忘れてしまうのではないかと思っていましたが、忘れるどころかどんどん知ることが多かったです。

例えば、「これが普通」だと思っていた地元の魚は、実はとても美味しかったんだということ。住むところが変わり、地元以外で初めて魚を食べましたが、味がまったく違うことに驚きました。小さな発見ですが、私にはとても大きな喜びなのです。ときどき帰ってどんなに小さなことでも地元の良いところを見つけられるのが楽しみになっていたりします。

しかし、良いところを発見したら悪いところも少なからず見えてくるでしょう。

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海側に行ってみると、たくさんの工事がいまだにおこなわれています。帰るたびに街が変わっていくように感じられてしまうのです。現在、市が決めたことで防潮堤の建設計画が進められています。何もできない私がどうしても言いたかったこと。防潮堤を建てないでください。防潮堤を建てても津波がそれを越えてきたらよけいに威力が増して被害が大きくなります。街が誇っている海の景色を消さないでください。私たちにおだやかな海の景色を見せてください。海は敵じゃないと教えてください。

震災によって失われたものはたくさんありますが、得たもののほうが多いと感じています。人々の情の厚さ、温かさ、思いやり、負けない心…。それらに気づけたこと。数え切れないほど良いところのある地元は、私の誇りです。新しい環境にかわり、自己紹介でもちろん隠さずに自信を持って地元のことを話しました。

地元のことが大好きです。震災に負げねえ!それは私の自慢の故郷ですから。

フォレオ 宮城県 19歳 女

どんどん忘れていく自分が大嫌いです。

震災のあった日のことは今でもよく覚えています。小学校の卒業式を間近に控えた大雪の降った日のことでした。まるで旅客船が転覆するような激しく大きい揺れ、友達の叫び声泣き声、まだ小学6年生でしたがあのときほど死を身近に感じたことはありません。怖くて震え が止まらなかったのも覚えています。幸い私の住む地域は内陸でしたので津波の被害は免れました。しかし停電していたために沿岸部での津波の被害をこの目で確認できたのは震災発生から1週間も後のことでした。友達が津波で亡くなりました。大好きな親戚が被爆しました。

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あのときは私も死にたくなるくらい辛かったのに、今では痛みも薄れ、記憶も薄れ、声も忘れ、不自由なく毎日を過ごしています。そんな自分が大嫌いです。どんどん忘れていく自分が大嫌いです。あのときは食事やお風呂だってままならなかったのに。必死に被災地を思って毎日生きていたのに。メディアも嫌いです。風化してしまったのはメディアにも責任はあるのに、忘れさせないためにメディアがどうにかしてくれなきゃ私たちはなす術もないのに。そういうことを思う夜は眠れなくなります。喉の奥が詰まったかのように苦しくて仕方なくなります。でも私たちは生きねばなりません。

苦しくても辛くても明日がやってくることに変わりはありません。2年後には受験をして、そのうち社会人になって、震災から10年が経つ頃にはもう、覚えていることなんてほんの少しかもしれない。でも思うんです。この痛みを背負って生きることが、命の重さを、人生を、しっかり感じて生きていくことが精一杯の供養であり、弔いなんじゃないかなって。

私は音楽に救われました。YUIの大ファンで、震災のときも毎日聴いていました。2011年11月には岩手のライブにも行ってきました。一生忘れられないと思います。YUIの音楽のおかげで私は今目標をもって生きることができています。

私は将来精神科医になることが夢です。亡くなってしまった親戚や友達のためにも私は一瞬一秒も無駄にできません。だからどうか、みなさんも。あの日のことを忘れないでほしい。日本人の心の美しさを誇ってほしい。助け合ったことをこれからも伝え続けてほしい。忘れてはいけないのだ。絶対に、絶対に、絶対に、忘れてはいけない。

ゆあ 宮城県 16歳 女

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私は今、人工衛星の製造に携わっています。

あの大震災から4年。私は2年半仮設校舎に通い昨年の3月市の総合体育館で卒業しました。

上京して間もなく1年になりますが、連休で地元に帰った時には少しずつ復興が進んでいるのを実感しています。年末に帰省した時には復興住宅が建っていました。復興が進むのは嬉しいですが、18年間過ごした町の風景が変わっていくのはやはり抵抗がありました。地元は潮のにおいがします。私はそのにおいと高台の山から見える内湾の景色が大好きなのでそれだけは変わってほしくないと思います。

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東京に住んでいると東北の情報があまり入ってきません。震災なんてなかったのではないかと思ってしまうときもあります。震災から何年とテレビで特集するのは酷だとある人が言っていました。確かに思い出したくない人もいるかもしれません。震災により失ったものは少なくありません。しかし、震災があったからこそ得られたこともあったと思います。それを伝えていくことが生かされた私たちの使命だと思います。

私は今N社に入社して、人工衛星の製造に携わっています。この仕事がしたいと思ったのは、はやぶさ帰還のニュースで宇宙に興味を持ったことはもちろんですが、震災の時『だいち』と『きずな』が情報通信や被災地の状況把握に役立ったことを知ったからでした。

決して簡単な仕事ではないけれど、いつか全国のみんなに役に立つような衛星を造りつづけて行きたいと思います。皆さんも後悔してしまう前に「あたりまえ」に思える日々や友達を大切に過ごしていきましょう。

しげさん33号 東京都 19歳 男

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たくさんたくさん震災のことを考えているけれど、
日常は、他の人と何も変わらないただの女子大生です。

去年の未来新聞から1年、私は大学に通い始め、本格的に教員の資格を取るための勉強を始めました。
自分の力で何かを変えたい一心で、でも行動に移すのは難しくて。それに、思った以上に勉強が難しくて、何度もやめたくて、講義をサボったこともありました。

だけど、通学途中の電車からみえるたくさんの仮設住宅。そんな景色を見て、進んでいるのかもわからない復興への不安。そんな光景に心を打たれ、絶対に諦めてはいけないと、見えない何かに自分の背中を押され、私は1時間半電車に揺られて、週6で大学に通いました。

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あれから私は、震災を思い起こすものを自分の目で見てきました。
道路の津波到達地点の標識、震災から時間が止まったままの崩れた建物、津波で浸かった水の跡が残るスーパーの壁… バンドのサークルでライブをするために行った石巻では、復興はだいぶ進んでいたはずでしたが、海の近くに住んでいない私にとって、決して簡単に見れる景色ではありませんでした。

こんな風にたくさんたくさん震災のことを考えているけれど、日常は、他の人と何も変わらないただの女子大生です。
普通に勉強して、普通にライブに行って、普通におしゃれして、普通にデートして、普通にバンド活動をして、普通にバイトをして、普通に寝て…

だけど、その普通がどんなに幸せなことかライフラインが断たれて、ラジオからは聞きなれない警報音、大好きな音楽は聴けないし、お腹は減るし、寒いし、水もなくなってきた、ケータイ使えない、電気いつくるんだろう真っ暗闇の中、そんな不安を抱えながら眠りについたあの日を私は絶対に忘れません、普通という幸せを噛み締めて生きていけてるかな、って立ち止まって考えたりします。この考えも、気持ちも、思い起こせば苦しいけれど、きっと自分を強くしてくれると信じて。

いつかこの想いを誰かに伝えられるように目標に向かって、がむしゃらに頑張ります!

しょうこへ 宮城県 19歳 女

頑張れって声をかけられない。
既に頑張っているから、これ以上どうしろと、そう思ってしまう。

被災者というにはなかなか違う立場ではあるが、少し話させてもらいたい。私の住まいは東京で、その日は保護者なしでは帰れない状況だった弟の学校へ走って迎えに行ったのを覚えている。共働きの両親もすぐには帰ってこなかった。小学生の弟と二人きりで、テレビを見つめて待っていた。

そこで、父の実家のある岩手県大槌町の名が出た時、二人で息を呑んだ。……確かに、震源が東北沖とか何とか言ってたから心配はしていた。まさかピンポイントで地名が挙がるなんて思ってもみなかった。そこに住んでいた父方の祖母と伯父は、もういない。後で聞いた話、伯父は仕事先が高台の方だったが、「おふくろが避難できてないかもしれない」と言い同僚の反対を振り切り車を走らせ家に戻ったのだという。二人の遺体はすぐ傍で見つかったという。きっと二人は会って、これから逃げようとしたところで津波が来たのだ、と父は話していた。それを聞いた私は「伯父さんかっけえよ」と泣いていた。

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四年経とうとしている今思い出しても目頭が熱い。実家は何もかも、基礎ごと全て流されていた。すぐそばを通っていた電車の線路も無かった。
小学校の跡地で、写真をいくつも保管しているところへ足を運んだ。大槌の人達の、様々なアルバムからバラバラの写真が、数えるとかいう次元じゃない量が、そこにはあった。
そしてそこで、母親に抱き上げられた、生まれて数ヶ月もしくは一歳位の頃の、自分の写真を発見した。写真は所々傷んではいたが、背景として家の中にあった物が、全て見たことあるもの。それもその筈、今も自宅に飾ってある花瓶などが写っていた、私と私の母の写真と確信した。当時、15年も、写真をしっかりと保管してくれていたことが嬉しくて、年に一度くらいしか帰省できてなかったけど、愛されていたことを痛感した。
その写真を引き取り、今も自宅に飾ってある。宮城県は本吉の従兄弟の家へ何度か帰省し、その度に大槌を訪れ、少しずつながら、復興を目指しているのを目にしている。山積みのがれきは整備されて集積され、所々新しく家が建っていたりした。

四年が経とうとしている今も、その年の6月に見たあの光景も、風も、においさえも、蘇ってくる。
早く復興できるよう、頑張っていって欲しい…… なんて、言うだけなら簡単で、そもそも頑張れって声をかけられない。
既に頑張っているから、これ以上どうしろと、そう思ってしまう。自分よりつらい思いをしてる人達なんて何人だっている。数えてる場合じゃない。だから、自分が頑張らねばならない。この未来新聞は、その勇気の一歩を踏み出す原動力になる、と私は思う。長々と失礼致しました。

ひかるす 東京都 19歳 女

『思ったことは口にしなさい!
何も言わなかったら、決定した時に反対する権利はないのよ』

震災から初めのうちは原発事故への差別、地震のニュースが頻繁に全国で流れてました。・・・・・・今年で4年。今はどうでしょうか?震災のことは覚えていますか?全国ニュースでもほとんど取り上げられなくなりました。東日本大震災から私は多くのものを学び多くのものを投げかけられたのではない のかな?と考えていました。皆さんはどうでしょうか?もう、歴史の1ページになってしまいましたか?
全国的に取り上げられてない部分を私はここで述べたいと思います。
原発事故はもう解決したと思いますか?地元のニュースでは、“汚染水が流れでてました。”“中間貯蔵場所は何処にするか?”こんなニュースが流れてます。そうです。全く解決していないのです。なのに、政府は原発を推薦しています。そんなでいいのでしょうか?私達が止めなければ政府は脱原発をすることはないでしょう。原発を推進していいのでしょうか?またあのような大きな地震がならないとは限らないです。その時、また福島と同じ状況になったらあなた達はどうしますか?このままでいいのでしょうか?私はもう絶対に繰り返してはならないと思います。

これからの世界を担うのは私達です。
私達から意見を発信していかないといけないのではならないのかな?と思っています。
私は家庭科の授業である問題を投げかけられた事があります。こういう時だからこそこの授業をする。と言われました。そうです。原発のことです。先生は黒板にこの様な図を書きました。

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高自然エネルギー(太陽光、波、風力etc) 火力発電 安 原子力発電

ここで、先生は私達に

「原子力は二酸化炭素を排出しないし、とても電気代は安いのよ。それに比べて自然エネルギーは自然が相手だから毎日毎日同じ量の電気を取れないし、電気代は高いわ。ここで、あなた達が将来働くようになったらどっちの電気を使いたい??正直に答えていいのよ。」

私は、将来どんな仕事に就いたとしてもそこまで高いお給料ではないだろうと思い、原子力発電を選びました。ほとんどの生徒が原子力発電を選びました。先生は「これが、現実なのよ。」泣きながら続けました。

「いくらあんな酷い経験をしても、選んでしまうの。それは悪いことではないの。私だって、政府が初めて原発を作ると言った時反対しなかったんだもの。私だって加害者なのよ。」

心に響きました。
私の家庭科の先生は授業でよく「思ったことは口にしなさい!何も言わなかったら、決定した時に反対する権利はないのよ」そのとおりだと思いました。

一匹のアリが大きなエサを見つけました。しかし、一匹では到底運ぶことができません。これが、何匹も何万匹も集まったらどうでしょう?運べますよね?これと同じです。私は、原発推進に反対です。
しかし、大きな政府に私一人が投げかけても誰も聞いてはくれないでしょう。しかし、同じ考えの人がたくさん集まり訴えれば少しでも政府は私達の考えに耳を傾けてくれるのではないでしょうか?自分は関係ない。そんなことは思わず少しでも、福島の問題、原発事故の問題を考えてみてください。関係ない人などいないのです。関係ないと思っていた人が私達にそう教えてくれたのです。原発を作っても何一ついいことはありません。“便利なものを作り我が身を滅ぼす”この言葉が、今回の事故で私が学んだ事です。

れもねぇさん 福島県 17歳 女

ボランティアの方たちや除染の作業員の方たちが被災地のために今も一生懸命頑張ってくれている。

震災からもう4年。
あれから街の様子は復興に向けて少しずつではあるが変わりつつある。僕の住んでいる南相馬市は沿岸部は津波の被害、小高区と原町区の一部は原発事故の影響で避難区域に指定されたりと多くの課題が山積みとなっている。あの当時は放射能のことで嫌な思いもたくさんした。
けれど、一番心に残っているのはボランティアの方たちや除染の作業員の方たちが被災地のために今も一生懸命頑張ってくれていること。これは感謝してもしきれない。休みの日は宿舎の周りをゴミ拾いして地域に貢献してくれている。こんな細かいことはメディアにも取り上げられないし、みんなに伝わっていない。風評被害も未だ続いている。検査して基準をはるかに下回っていても売れない。安全をもっとわかりやすく国が責任もって伝えてほしい。みんなにもっと現状を知ってほしい。
自分は今大学受験真っ最中。志望校に合格して行政、社会福祉の基礎を学びきって将来、生まれ育った地元の復興に携わり、よりよい街にするため自治体職員になりたい。
そして被災地の復興の足跡を全国、いや、世界中に発信して二度とこんなことが繰り返されないように伝えていきたい。

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あの日実感したこと、『あたりまえがあたりまえじゃない』

この出来事は絶対忘れてはいけないし、語り継がれなければいけない。1年に1回、この3月11日に改めて身の回りのあたりまえについて考えてみることが必要だと思う。

くろっくろー 福島県 18歳 男

福島県を10人で語りきることはできない。

ーできる人がいるなら、本にしてほしいー

僕が通学に利用している橋の除染作業がやっと終わりました。 この震災を1人の人間が語りきることはできないでしょう。世の国務大臣でさえ発言に気を配る問題です。

だからこそ、そんな難題に大人数で挑戦するこの企画が僕は好きです。僕の周囲には、農業関係者、漁業関係者、原発関係者、いずれもいません。震災特番など見ない限り、思い出すことも少なくなってきました。僕が震災で受けた直接的な被害なんて、お皿が数枚割れたり、当時部活の屋外活動制限がついたり、その程度。知り合いに亡くなった方はいません。今となってはまるで震災なんてなかったかのように不自由のない生活をしています。ただ他県の方から変な目で見られているだけです。震災を1人の人間が語りきることはできない。

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しかし、これはなにも震災に関係しない、僕が住む福島県に言える、重要なことです。

ー福島県を10人で語りきることはできない。

これは私の推測ですが、実際はもっと多くの人数を要するでしょう。福島県には気候が全く異なる3つの地方、大きく異なる職種、人によって考え方もかなり違います。雪が1メートル積もって当然の地域もあれば、雪なんて滅多に降らない地域もあります。そのなかで、「土地を持って生きる」という考え方が避難区域出身の方に多いのも事実です。私が通う高校には、私が知っているだけで2人の先生が、避難区域出身です。

私の中で震災は、国会の中のことです。これは他県にも言えることでしょう。宮城は?岩手は?茨城は?青森は?千葉は?東北の日本海側は?都道府県ではなく一個人では?果たして何人いれば、この震災をより強く記せるでしょうか。この企画がその答えに最も近いはずです。だからこそ、どうかこのままでは終わらせないでください。1つや2つの記事では「私たちの声」ではない。伝わりにくいし、想像さえ難しい。是非、生徒の声を集約し、世間の大人たちに見せつけるような場所を、そのチームを。

antitle 福島県 16歳 男

震災当時中学2年だった私も、
春から社会人として働く。

震災当時中学2年だった私も、春から社会人として働く。復興に直接貢献できる職に就くことができた。少しでも福島の力になりたい、そういう想いが、時を経るにつれ強くなっていったので、本当に嬉しい。思えばあっという間の4年間だった。色々なことがあった。良いことも嫌なことも楽しいことも苦しいことも、等しく訪れた。経験することができた。あの震災で、もう何も経験することができなくなった方々が、原発事故で避難を余儀なされ、やりたいことができなくなった方々が本当に沢山いることを私は知っている。福島県民なので放射線の影響はあるとはいえ、内陸部に住む私はめぐまれていると、しっかり自覚して、生きていきたい。4年も経過すると、やはり報道は風化してしまう。全国版だと尚更だ。悲しいが、仕方のないことだ。だが、3.11だけは、皆に思い出してほしい。忘れないでいてほしい。

仮面ライダー66号 福島県 18歳 女

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前を取り戻すのではなく、また新しく社会を築いていきませんか?

去年の未来新聞にはその当時私が思ったこと、経験したことを書きました。
辛いような話ばかりだったと思います。今回は今の話を書きたいと思います。
現状としては、当時よりがれきの数が明らかに少ないし壊れた家も取り壊されて津波の後が目に見えてわかるようなものが少なくなってきてると思います。あとはJR仙石線が今年全線開通するみたいです。一見何も変わっていないように思えますが4年たった今、目に見える形で復興はされてきています。

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あとは、辛い経験ばかりじゃなくて良い事があります。
人との繋がりが増えました。私の学校は防災教育が盛んで、他県に行き学生との交流をはかったり、私の学校にきて話を聞いてもらったり。個人的にはセーブザチルドレンの活動にも参加させてもらって、こどもの話し合いで大人に伝えたいことや復興についてなど話し合いのワークショップに参加しています。代表者は国際防災会議に参加し、直接意見を述べたりする場があります。
このような活動は人との繋がりを増やし、更にこのような経験はやっぱり生きている私たちが語り継がなければいけないものだと思うので、それができる場があるのはとても嬉しいです。
よく何でもかんでも震災につなげたりいつまでも何もしないでだらだら震災の話ばかり続けるのは個人的にはよくないと思うのですが、もし同じようなことが起きたりするときのために忘れてはならないことだし、これから生きている私たちがこの社会を作っていくのでしっかり意見をもってそれを主張していくことは重要です。
あとは前を取り戻すのではなく、これらを踏まえてまた新しく社会を築いていきませんか?
まとめると、当時より明らかに復興はすすんできているし笑顔も増えています。
ただ一つ言うとしたら私の地域は人が少なくなってしまい電気も減り明るみがなくなってやっぱり淋しいなあという思いは残ってるままです。

ちぁる 宮城県 16歳 女の子

復興なんかしなくていいから、全てなかったことになってほしい。

私は福島県に住んでいて、震災も経験してます。
沿岸地域ではなかったので津波などの被害は特にありませんでした。
しかし、地震が起きた時に家の中はぐちゃぐちゃ、食器はほとんど割れて、水は三日間断水しました。
当時私は小学校6年生で、卒業式を控えていました。
当然、卒業式は予定通りに行えず、3月のぎりぎりの日に教室で特別に開かれました。
卒業式なのに、みんな地震でそわそわしていて、感動も何もなかったです。

中学校入学も予定より遅れ、なんだか締まらないまま新生活が始まりました。
私はソフトボール部に入部しましたが、毎日廊下や体育館で交代しながらの練習。
外で練習するときは、放射線量が少ない地域に移動しての練習。
強豪校に行った友達は山形まで遠征していました。
私は一年生でしたが、三年生はもっと辛かったと思います。
ようやく外で活動できるようになったのは5月の終わりか6月の始まりくらい。
それでも平日は2時間休日は3時間以内という制限された中の活動で、さらに蒸し暑くても必ず長袖で活動しました。
汗が気持ち悪くても半袖にはなれなくて、とても辛かったです。
それから日が経っても、風評被害は消えずむしろ酷くなるばかり。
4年経ってもいまだに学校には必ず線量計がある。

復興だ、復興だなんて政府は言ってるけれど現状は何も変わってなくて、まだ家に帰れない人もいて、帰ったとしても全てを失った人もたくさんいて、何が復興だ。なにも変わっていない。
PRしなきゃ食べてもらえないお米、安全だって言っても食べてもらえない野菜や果物。
子供は外で遊んじゃいけない。福島の海には何十年も入ることはできない。
なんで福島に住んでいることを言いにくくなるのか、政府は何もしちゃいない。
他の県だって助けてくれない。
震災瓦礫はどこも引き取ってくれない。
そりゃそうだ誰も放射線が入った瓦礫なんて欲しくない。
受け入れようとしたってそこの地元の人が大反対。
福島だけが取り残されている。

宮城岩手の漁業は少しづつだけど再開しつつある、福島の漁業は再開しても試験的、放射線が基準値超えればなにも食べれない、越えてなくても福島県産だからって売れない。安くしないと買ってもらえない。
政府に言いたいことは復興の政策を掲げていくよりもまず福島県産のご飯を食べて欲しい。
福島のお米は美味しい、野菜も美味しい。桃なんて全国2位の生産量。なんで食べてもらえないんだ、放射線が怖いからだ。福島県民は毎日戦ってるんだ、何も変わらない現状と、何も変えてくれない政府と。

ホールボディカウンターの検査を受けた。何回か受けた。
母と話しててある言葉が出た「検査して、線量が多かったですと連絡が来てもどうすりゃいいんだよ」死ねばいいのか、いつか来るかもしれないガンに怯えて生活すればいいのか、忘れて生活すればいいのか、どうすりゃいいんだ。今やってることに意味があるのかもわからない。除染しても、元の線量がわからないから安全になったのかもわからない。何を持って安全とするのかわからない。

震災に関するニュースはどんどん減っているけれど、それは復興が進んでいるからじゃなくて、何も変わっていないからじゃないのか、進歩がないからじゃないのか。
危険区域が解除された、車で自由に帰れる!ってなったってぐちゃぐちゃのままの家と家畜のいなくなった小屋と雑草が生い茂る地元に帰ってどうすりゃいいんだ。わからない。

福島県にいて、福島のニュースを見て新聞を見てるのに、今どうなってるのかが全くわからない。
政府がどうやって復興させようとしているのかも伝わらない。
自分たちで変えていきたくても何をすればいいのかわからない。
わからないことだらけで、何がわかっていないのかもわからない。
とにかくわたしは、復興なんかしなくていいから、全てなかったことになってほしい。


2011年3月11日14:45に戻って、
地震なんか起きて欲しくない。


毎日変わらなくてもいいから平凡でもいいからこんな地獄なんてこなくていい。夢でもいいから帰りたい。
自分は特別誰かを亡くしたわけでもない、家がなくなったわけでもないし帰れないわけじゃない。
震災前と特に変わらない生活をして、不自由はほとんどない生活を送ってる。
それでも震災前に戻って欲しい。全てがなかったことにしてほしい。幻だった、長い長い辛い夢であってほしい。
目を開ければなにも変わらない日常だったってなってほしい。
叶わないけれど、もう、なにも叶わないけれど。

長文失礼しました。
また、途中で口調が荒くなって申し訳ありません。
でもこれが本音です。ほんとのほんとの気持ちです。

ろく 福島県 16歳 女

「SCHOOL OF LOCK! 未来新聞2015年3月11日号」を読んで感じたことを教えてください。



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SCHOOL OF LOCK! 未来新聞2014年3月11日号

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