私はあの日、中学の卒業式でした
卒業式が無事終わり、家に帰ってきてひと段落ついたところで、地震が発生しました。

私は普段から地震が苦手だったので、長すぎる揺れとテレビの中の慌てるアナウンサー、
そして急に切れる電気、食器棚から流れ落ちるように割れる皿、
普段見慣れない光景に言葉を失って、涙を流して泣き叫ぶことしかできませんでした。

ライフラインが全てとまり、頼りになったのは、中学の頃授業で作ったラジオでした。
それがなければ、私の家族はその時の状況を把握することが出来ていなかったと思います。

その時に、母から、「しょうこへが作ったラジオなかったらどうなってたかな」、
「本当にすごいねこのラジオ」と言ってもらえて、そこで私は人の役に立つことが出来たという気持ちが、
人の役に立つことがしたいという気持ちに変わっていました。

そこから私は工業高校に進学し、今に至ります。

女の子はなかなか少なくて、大変だねと言われることも何度もあります。
だけどその時に決心したことが忘れられなくて、
資格取得に励み、機械について積極的に勉強しました!!

そして今年の春、機械の勉強をもっとしたくて、
工学部に進学することを決め、無事進路が決まりました!

私は大学で、工業系職員免許証を取得し、
工業系分野で女性でも復興に携わっていけるんだということを伝えていきたいと思っています。

私は高校で機械のことを勉強してきて、作業中に力が足りなかったり、
体が一回り小さくて、機械の操作が大変だったことがありました。

それもあってからか、大会に出たり、検定を取得して、
周りの人からのおめでとうの後に必ずついてくるのは、
女の子なのにすごいね、珍しいね、大変だね、という言葉でした。

でもそれは、私の中で納得のいくものではなかったんです。
なんで女っていうだけで過剰に評価されなければいけないのか、
女というだけなのに、それが邪魔して、自分のこの強い復興への想いよりも、そっちが目立ってしまい、
かき消されていってしまうのではないかという不安な気持ちが生まれてきました。

その気持ちから、私が工業系分野で女性が活躍するという、
当たり前の環境をつくっていけばいいんだと思いました。

私にとって、高校でお世話になった先生方はとても大きな存在でした。
私もそんな先生になれば、きっとこの思いも伝わると思ったんです。

自分のこの思いが、私より後に生まれてくるたくさんの人に伝わり、
復興の力になればいいと強い気持ちで思うことが増えました。

私は機械の知識で何かの形で復興に携わりたいとは思っていますが、
あの時の不安や苦しみは機械では癒せないことなんて解っています。

だからこそ、携わっていく中で、今の私が伝えられる不安、
苦しみは伝えていかなければいけないことなんです。

私は家に津波は来ていないし、電気と水道が止まっていただけで、
自分の家で寝ることが出来ていました。

あの震災の状態で、こんなに贅沢な生活をしてたにもかかわらず、
復興について考えると、不安です。苦しいんです。

夕方の県内ニュースで震災のことについて見るとたまに涙が止まらなくなるんです。
大袈裟って思う人もいるかもしれません、だけど不安で苦しい人がたくさんいることを忘れないでください。

これからも3年前の震災のようなことがあるかもしれません、
自然は何をしても止めることは出来ません、だけどこの私の少しの想いがたくさんの人に伝わって、
1つでも多くの命が救われることを願っています。


宮城県 17歳 女の子
ラジオネーム:しょうこへ