3年前のあの日、中学の卒業式を翌日に控えた私たちは卒業式の練習をして午前中で帰宅しました。
卒業式より一足先に渡された卒業アルバムを家で見ていた時でした。

2時46分。
地鳴りとともに今までには体験したことのないような揺れが襲いました。

何度も続く大きな余震。今まで聞いたことのないようなサイレン。
大津波警報を伝える市の防災無線。
家から見える道路に突然白い煙とともに現れた家(←海沿いの家が道路まで流されてきた)。
もう恐怖でしかありませんでした。

私の通っていた中学では防災学習を盛んに行っており、
震災時の避難所運営、炊き出し、避難者名簿の作り方などについて学習していたので
家族と一緒に中学校に避難してすぐ避難所運営の手伝いに駆り出されました。

再び家族と再会したのは夜の9時くらいでした。
その日は家に帰れず、中学校の校庭に止めた車の中で一晩を過ごしました。
外は雪が降り、町の中心部の空は真っ赤に染まり、絶え間なくなり続けるサイレン。
ほんとに怖くてほとんど寝れることができませんでした。

翌日からは家に帰り、給水車のところに水をもらいに行き、開いている店を探す毎日でした。
電気がないので暗くなる前に夕食を済ませ、
暗くなってからは庭にさしておく園芸用のソーラーライトだけが頼りでした。
(←乾電池やろうそくはもうどこにも売っていない中、唯一買うことができたものです。 なんでこんなものを買うんだろうという目で見る人が多かった。)

予卒業式は避難所になっている一部を貸していただき定より10日遅れで行われました。

その時の卒業生代表の答辞は全国的に有名になりました。
今でも検索すると一番上に出てくるはずです。
しかし、その動画のコメント欄で『生徒会長は演技』『会長は役者』などの言葉を目にしました。
あの時どんな思いで卒業したかを分かってほしい・・・

小学校から9年間以上も一緒だった友達が津波によって行方不明になったり、亡くなってしまったりした悲しさ。

家族や友人の安否がわからない辛さ。
これからどうなるのかわからない不安。

震災から1カ月半ほど過ぎて高校に入学することができました。
私が入学した高校は震災により校舎を流出したため、
入学式は市内の高校の一部を借りて行われ、3校に分かれての授業を経て仮設校舎でようやく普通の高校生らしい生活を送ることができました。

震災を超えて今の生活を送ることができるようになったのは
全国の皆さんからの支援のおかげだと思っています。

早く美しい街に戻るように頑張ります。


宮城県 18歳 男の子
ラジオネーム:しげさん33号

安波山から見た気仙沼湾
(2013年8月撮影)