SCHOOL OF LOCK!
SCHOOL OF LOCK!
頑張れって声をかけられない。 既に頑張っているから、これ以上どうしろと、そう思ってしまう。

被災者というにはなかなか違う立場ではあるが、少し話させてもらいたい。私の住まいは東京で、その日は保護者なしでは帰れない状況だった弟の学校へ走って迎えに行ったのを覚えている。共働きの両親もすぐには帰ってこなかった。小学生の弟と二人きりで、テレビを見つめて待っていた。

そこで、父の実家のある岩手県大槌町の名が出た時、二人で息を呑んだ。……確かに、震源が東北沖とか何とか言ってたから心配はしていた。まさかピンポイントで地名が挙がるなんて思ってもみなかった。そこに住んでいた父方の祖母と伯父は、もういない。後で聞いた話、伯父は仕事先が高台の方だったが、「おふくろが避難できてないかもしれない」と言い同僚の反対を振り切り車を走らせ家に戻ったのだという。二人の遺体はすぐ傍で見つかったという。きっと二人は会って、これから逃げようとしたところで津波が来たのだ、と父は話していた。それを聞いた私は「伯父さんかっけえよ」と泣いていた。

四年経とうとしている今思い出しても目頭が熱い。実家は何もかも、基礎ごと全て流されていた。すぐそばを通っていた電車の線路も無かった。小学校の跡地で、写真をいくつも保管しているところへ足を運んだ。大槌の人達の、様々なアルバムからバラバラの写真が、数えるとかいう次元じゃない量が、そこにはあった。そしてそこで、母親に抱き上げられた、生まれて数ヶ月もしくは一歳位の頃の、自分の写真を発見した。写真は所々傷んではいたが、背景として家の中にあった物が、全て見たことあるもの。それもその筈、今も自宅に飾ってある花瓶などが写っていた、私と私の母の写真と確信した。当時、15年も、写真をしっかりと保管してくれていたことが嬉しくて、年に一度くらいしか帰省できてなかったけど、愛されていたことを痛感した。その写真を引き取り、今も自宅に飾ってある。宮城県は本吉の従兄弟の家へ何度か帰省し、その度に大槌を訪れ、少しずつながら、復興を目指しているのを目にしている。山積みのがれきは整備されて集積され、所々新しく家が建っていたりした。
四年が経とうとしている今も、その年の6月に見たあの光景も、風も、においさえも、蘇ってくる。早く復興できるよう、頑張っていって欲しい…… なんて、言うだけなら簡単で、そもそも頑張れって声をかけられない。既に頑張っているから、これ以上どうしろと、そう思ってしまう。自分よりつらい思いをしてる人達なんて何人だっている。数えてる場合じゃない。だから、自分が頑張らねばならない。この未来新聞は、その勇気の一歩を踏み出す原動力になる、と私は思う。長々と失礼致しました。

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