SCHOOL OF LOCK! 「SCHOOL OF LOCK!未来新聞」2016年3月11日号

SCHOOL OF LOCK! MIRAI SHINBUN 2016

朝8時20分。車で仙台市から石巻市へと向かっている。ラジオネームおれんてぃに会いに行くためだ。正直、緊張している。被災地に来るのは初めてだし、会って何を話していいのかわからない。「あの日、何を思った?」なんて、失礼なんじゃないかとか、津波の恐怖を知らない自分が無神経な事を聞いてしまうんじゃないかとか。あと、5年間も被災地に来てなかった自分が恥ずかしいというか情けない気持ちもある。来るのが怖かったのかも。

車で走っていると街はきれいで、このすぐ近くで津波の被害があったなんて少しも感じない。石巻が近くなって、高速の道を進んで、開けた景色の所へ出てきた。どこまで波が来たんだろう。石巻の市内で、子供達が元気に走っているのを見かけた。少し、なぜだかホッとした。街の様子は思った以上にキレイだった。どこまで波が来ていたのかはわからないけれど、少なくとも僕にはそう見えた。ただ、新しい家が多い気がする。

少し入り組んだ道に入ると、仮設住宅が目に入ってきた。ドキッとした。テレビとかでは見てたけど、当たり前の様にどこにでもあった。やっぱりここまで波が来ていたのかとその時実感した。仮設住宅は無機質に見えた。
渡波駅にて、おれんてぃと合流。話を聞かせてもらった。震災の頃の話を聞いていいのかわからなかったけどおれんてぃに会って、向こうが会えた事をとても喜んでくれて少し気が楽になった。

おれんてぃの未来新聞 2016年の記事

震災から5年が経とうとしてる今、私はあの時のことを思い出します。
私は今、中学3年生で中学校は3年間、仮設校舎での生活を送っています。毎年毎年、いろんな県からたくさんの支援を送っていただき、とても感謝してます。
仮設校舎での生活はほかの学校に比べて不便です。例えば、体育館は借りるのであまり使えなかったり、運動会なども校庭を借りるので時間制限がかかったり。通学方法もバスです。放課後もバスの時間があるので徒歩で登下校する他校生がとてもうらやましいです。5年たった今、私が住んでる街はだんだん復興に近づいています。田んぼだったところに復興住宅が建ちはじめたり、新しい施設ができたり、街は変わってきています。
私は当時小学生4年生でした。あの日なにがあったのか、わけがわかりませんでした。津波は家の天井ギリギリまで入って住むことができなくなり、転校しました。あの時の街の光景はとても残酷で悲惨でした。亡くなった人のことを考えると、私は今を一生懸命生きていかないといけないと思いました。亡くなられた方のことを忘れず、この事を伝えていくのが私たちの使命だと思います。
津波は嫌いです。でも、海は好きなんです。海の近くで育った私は、海は嫌いにはなりません。とても静かで青い海は好きです。海を見ると思い出します。
海で遊んだ記憶、そしてあの日のことを。私は亡くなられた方のぶんまで今日を生きます。
おれんてぃ:これ、持ってきたんです。

あしざわ教頭:(おれんてぃに手渡されたアルバムを見ながら)これは地元の新聞?

おれんてぃ:はい。お父さんが全部切り取って、集めてました。これは、すぐそこ、です。缶の工場があったんです。

あしざわ教頭:たまに、見返したりもするの?

おれんてぃ:いえ…。お父さんがこれ(震災関連の記事のスクラップ)をしてる事も知らなくて、今日のことを話したら持って行きなって言われてはじめて見ました。

あしざわ教頭:そうなんだ…。ありがとう。お父さんにも、ありがとうって、伝えておいてね。

おれんてぃ:あの時、小学校4年生だったんですけど、下校途中で地震がおきて、揺れが収まった後、学校のサイレンが鳴って、校庭に避難しました。その時は何が起こってるかわからなかったです。その2日前ぐらいにも地震があったんですけど、それよりも大きかったんで、これはやばいな、と思いました。校庭に避難してたら、お父さんが歩いて迎えに来くれて、家に帰りました。そしたらちょうど家族が車の準備してたので、その車にすぐ乗って、一回山の方に逃げました。でも、車のガソリンがなくなって、ガソリンスタンドが近いからっていって、一回戻ったんですね。そしたら、ちょうど曲がった時に後ろから波がきたんです。よくヘリコプターとかから映されてるゆっくりな波なんですけど。すぐに、お父さんがハンドルをきって、急いで山の方に逃げて助かりました。雪も降ってたんで、すごく寒かったです。

あしざわ教頭:今でも寒いのに、これで雪か…。その後はどうしたの?

おれんてぃ:そこには一晩だけいて、次の日に小学校に行って、3日ぐらい泊まりました。

あしざわ教頭:その時はどんなことを思ったりしてたのかな?

おれんてぃ:津波が来てるのはわかってたんですけど、家がどうなってるかもわからないし、友達の安否もわからなかったんで、不安でしたね。

あしざわ教頭:ごはんとかは大丈夫だった?

おれんてぃ:小学校にヘリコプターが食料を持ってきてくれて、みんな体育館に集まるんですけど、子供優先なんで、子供がひとり一個おにぎりもらって、それを家族でわけて食べました。その後、お父さんのお姉ちゃんが迎えに来てくれて、親の実家に避難してそこで1年間過ごしました。そのまま小学校も転校になったんですけど6年生になってここに戻ってきました。

あしざわ教頭:中学校は?

おれんてぃ:中学は(津波の)被害にあってなくなってしまったんで、今は仮設校舎で過ごしてます。

あしざわ教頭:仮設校舎は通っていて、どう?

おれんてぃ:体育館は隣の小学校とか中学校を借りたりしてるんで部活が毎日できなかったりします。バトミントン部なんですけど、打てるのは週2だけであとはランニングです。あと、みんなバスで通ってます。

あしざわ教頭:こうやって来させてもらうにあたって、いろいろ話を聞いていいのかな?って思ってたりもしてて…。今聞いちゃったけど、喋るのもつらいよね。

おれんてぃ:つらい…ですね。でもこの震災のことを、忘れないでほしいし、亡くなった人のこととか、まだ苦しんでる人もいるし、伝えていかないとな、って思ってます。

あしざわ教頭:いつからそう思えるようになったのかな?

おれんてぃ:中2ぐらいから、ですかね。それまではあんまり理解してなかったっていうか、深く考えなかったです。でも、Youtubeとかで震災の動画を見たりして、忘れちゃいけないことだなって思ってきて、はい。

あしざわ教頭:今回はじめて実際に震災の被害があった場所に来させてもらったんだけど、正直、実感がなかったの。すごく街も綺麗だったし。

おれんてぃ:5年ですごく変わりました。前は田んぼが多かったりしたんですけど、復興住宅が建ってきたり、中学校が新しくなったり、風景が変わってきました。

あしざわ教頭:いろいろ変わっていってると思うんだけど、正直どういう風に感じてるのかな?

おれんてぃ:復興していくことはすごくありがたいことなんですけど、やっぱり震災前の風景を思い出すと悲しくなったりしますね。

あしざわ教頭:おれんてぃは、今海がすごい近くにあるこの街に住んでるわけじゃない?
海が悪いわけでもない。でも、海で怖い思いもしたよね。

おれんてぃ:海は怖い時もあるけど、海が好きなんで、(別の場所に避難してる時も)戻って来たいなって思ってました。海の近くにずっと住んできたし、懐かしさっていうか、波の音が聞こえると安心するっていうか。生まれ育ったとこだなーって感じがします。

あしざわ教頭:おれんてぃは、今後ってこうなったらいいなとか、自分が描いてる未来ってある?

おれんてぃ:今はまだ自分の夢がなくて…。なので高校に入ったら自分のしたいことをして夢を見つけていきたいです。

あしざわ教頭:絶対見つかると思うな。高校でもバトミントンは続けるの?

おれんてぃ:はい!

あしざわ教頭:バトミントンしてる時は楽しい?

おれんてぃ:楽しいです!

おれんてぃが、あの日の事を丁寧に話をしてくれた。恐かった事、辛かった事、色々と聞いていると「そりゃあ、そうだよな」って思った。文字にするとアホっぽいけど今までテレビで聞いたインタビューよりも、納得?理解できた。たぶん、その場所で、体験した本人に聞いたからだと思う。
「そぐそこで波が…」とか「向こうの山で…」とか、言葉を聞くたび本当にここで起きていたんだなって。そして、海を見に行った。ビックリするほどキレイだった。ホントに。

その後、ラジオネーム ともぼー☆の所へ。
もともと震災後、仮設に住んでいたが、ようやく新しい家へ。
ご両親が営んでる飲食店で話を聞いた。
互いにちょっと緊張していたけど、好きな音楽の話をしていると、打ち解けてきてその瞬間、友達と話をしている様だった。
けれど震災の話になると、ともぼー☆の顔がこわばっているのが印象的だった。想像もつかない恐怖があったんだ。
そんな話をしてくれる、ともぼー☆にありがたいと思うと同時に申し訳ない気持ちにもなった。

ともぼー☆の未来新聞 2016年の記事

一昨年の未来新聞の記事に、“新しい家に引っ越した時、私の中の震災はやっとひとつの大きな区切りを打てる”と書きました。あの記事を書いてから2年、ようやく新しい家に引っ越し、休業中だった飲食店を再オープンさせることができました。昔からのお客さんも新しいお客さんも来てくれて、お酒を酌み交わす賑やかな夜もあります。現在私は地元でアルバイトをしながら、忙しい時はお店に立って手伝いをしています。周りも新しい家が立ち並ぶようになり、沢山あった仮設住宅も将来的には数か所に集約させるようです。

5年が経とうとし、最近、震災の風化についての話題をよく耳にするようになりました。
正直、私自身も震災からしばらくの記憶が薄れつつある実感があります。でも、忘れないように思い出すこと=同時にその時の痛みを思い出すこと、である気もします。痛みを伴って記憶を思い出すくらいなら、無理をしてでも風化させないようとするのではなくて、あの日から地道に積み重ねてきた今の生活を大事にすることが大切だと、一つの答えのようなものを自分の中に見つけました。とはいえ、この文章を書いている私は津波を実際には見ていません。だからこんなにぬけぬけと記事が書けていると批判する自分もいます。罪悪感も少しあります。だけどもし見ていたら、立ち直るまでさらに時間がかかったかもしれないし、立ち直ることすらできなかったかもしれません。生まれ育った自分の家が流されていく様子を見ていたのなら、尚更。震災発生直後、空から牡丹雪がしんしんと落ちてくるのを見ながら「世界が終わる光景ってこんな感じなのかな」と思ったこと。一夜明けて、駐車場や田畑が全て湖のようになって、その水面に映った空の青。食糧や水や物資を探す為に歩き回った時の、津波を被った道路の土ぼこりの匂い。電気が復旧していない為真っ暗な街から見えた天の川。どれだけ時が経っても、きっと一生忘れられないものがいくつもあります。こうやって記事を書くことで、自分の中の震災を風化させず、痛みも少しは昇華できているのかもしれません。あの日からの記憶も感情も、ようやく少しは俯瞰的に見ることができている気がします。記事の冒頭に書いた言葉は、まさにその通りになったと思います。

3月11日が近づくにつれて、メディアも街もどこか震災の色を濃くさせていって、その日が過ぎると急激に薄れていき、そして何事もなかったかのように元の生活に戻ります。別にそれでもいいと思います。
ただ、私の住む街は3月11日になると突然現れる街なんかではなく、遠い昔から今もずっとそこにあって、沢山の人達が生活し続けているということをどうか知っていてほしいです。5年前の私は、未来なんか無いと何度も思いました。大変なことも苦しいこともあったけど、楽しいことも嬉しいことも、生きてて良かったと思えることもありました。
今の私は、無いはずだった未来を生きています。
あしざわ教頭:ともぼー☆がSCHOOL OF LOCK!を聴き出したのはいつぐらいからなの?

ともぼー☆:とーやま校長が校長に就任して1週間後です。まんまとハマってヘビーリスナーになりました。「叫べー!」で、そのままベッドにダイブしたり(笑)。聴き始めてから好きな音楽も広がってライブにも行くようになりました。

あしざわ教頭:ともぼー☆は21歳だから6年前か!ともぼー☆はこの未来新聞をはじめて発行した2014年から記事を送ってくれてるんだけど、最初に記事を書こうと思ってくれたのはどうしてなの?

ともぼー☆の未来新聞 2014年の記事

生まれも育ちも宮城県石巻市です。私の家は、津波で跡形もなく流されました。
地盤沈下とその後の土地計画により、もうそこには住むことができないそうです。
街には新しい家が続々と建ち始めていますが、家族は今でも仮設住宅に暮らしています。
仮設に入居できたのは、震災から半年が経った秋頃でした。

家を建てるには土地とお金が必要です。
我が家の例として、実家のあった土地を市が買い、そのお金で新しく家を建てるという流れになります。
新たに家を建てる土地は市の集団移転先によって決まります。家を建てるまで、遠く長い道のりです。
私は東京で一人暮らし。家族は地元で仮設暮らし。家族と離れ、上京する時はとても心が痛みました。
それでも、家族は温かく私を見送ってくれて、実家に帰った時は笑顔で迎えてくれます。
くだらない他愛もない話をして笑ってます。震災前と何ら変わりない日常です。

上京してもう少しで1年が経ちますが、
東京で生活しているとまるで震災なんてなかったかのように毎日が過ぎていきます。

ただ、時折震災の瞬間が鮮明にフラッシュバックします。
津波の夢を見た時は怖くて1日中動けませんでした。瓦礫とヘドロだらけの実家の夢も見ました。
せめて夢の中でだけでも震災前と変わらない風景であってほしかったのに。
また、あの時のような地震が起こったら、と考えてしまって苦しくなることもあります。

正直、この記事を書くことを悩みました。
というのも、“被災地”ということで“可哀想”と思われることが嫌だったからです。
そんな理由から自分の出身をちゃんと言えないこともありました。
今でも人に震災のことを話すのを躊躇ってしまうこともあります。

ですが、東京と地元を何度も行き来しているうちに、
両方の地で生活しているうちに強く思い始めたことがあります。

憂いたり、悲しむことも、大変なこともあるけれど、
それでもこの街には他の地で過ごす誰とも変わらない日常がちゃんと流れている。

悲しみが完全に癒えることはないかもしれないけれど、いつまでもずっと悲しんでいる訳じゃない。
“可哀想”だとはもうあんまり思ってほしくはありません。
むしろ、遊びに来てほしいと思ってます。新鮮な海の幸や美味しいものがたくさんあります。

店舗が大きな被害を受けてしまったけれど頑張って店を復活させた人や、
街を活気付けようと奮闘するボランティアの人がいます。音楽イベントやライブも盛んです。

私の実家も、震災前は飲食店をやっていました。
今は休業中ですが、ありがたいことに店の復活を待ち望んでいる人がいます。
新しく家が建ったら再開する予定です。

石巻へは、仙台から(車で)約1時間半という行くのには大変な距離ですが、
どうか遊びに来てもらいたいです。
大きく壊れて、そこから少しずつ変わっていく街の様子を見てもらいたいです。

先日、土地の移転先が決まったと家族から連絡がありました。
詳しい区画や買い取られる土地の金額、家が建つ時期はまだわかりません。
もしかすると、家が建つのは来年以降になるかもしれません。それでも、私にとっては大きな一歩でした。

父が「この仮設を出る時、家族写真を撮ろう」と言いました。
実家と呼ぶこの仮設も、いずれは出ることになります。そして取り壊されてなくなってしまうでしょう。
仮設を出て、家族写真を撮って、新しい家に引っ越した時、
私の中の震災はやっとひとつの大きな区切りを打てると思います。
ともぼー☆:震災があって、SCHOOL OF LOCK!から漫画を送ってもらったりもして(SCHOOL OF LOCK!では、震災の後全国の生徒から集めた漫画を被災地に送る活動をしていました。「HOPE LINES」)、自分ができることってこのぐらいしかないかなって思って。あと、周りに震災のことを話せる人があんまりいなかったんです。地元にいる時は周りも被災していてそれぞれ状況が違うし、東京に行ったらいつもと変わらない感じで時間が進んでいて、誰にも本当のことを言えなくて。なので、吐き出すような感じで、今ある事を言いたいなと思ったのがきっかけのひとつです。

あしざわ教頭:僕は、震災があってから今回はじめて来させてもらったんだけど、今、街も綺麗だよね。

ともぼー☆:そうですね。新しく街ができたところは綺麗だったりもするんですけど、海に近いところ…私が昔住んでいたところは、海から200mしか離れてなかったんですけど、そういったところは、草が生い茂っていて、時間が止まったままだなっていう感じです。

あしざわ教頭:ともぼー☆は、震災が起きてからずっと仮設住宅に住んでたんだよね。

ともぼー☆:震災が起きた年の9月から、去年の5月まで住んでました。仮設はやっぱりすごい狭かったですね。何より夏はサウナで、冬は冷蔵庫だし。隣の音も聞こえてきますしそういった意味での窮屈さっていうのはありました。
この家が完成して、自分の部屋をはじめて持ったんですよ!ギターやったり、パソコンやったりとか、周りを気にせず自由にできる空間ができて余裕ができた感じは、あります。

あしざわ教頭:あの日から、もうすぐ5年が経とうとしてるんだけど、今はどういう感覚?

ともぼー☆:…3月11日っていう日をどう過ごしていいか、まだわからないんですよ。
その日に向かって、日常が進んで行く感覚はあるし、(3月11日も)いつもどおりの日常のはずなんですけど…。去年はじめて普通に学校に行って笑って過ごして、もやもやした部分もあったんですけど、この日はこうやって過ごせばいいんだっていうのを、はじめて少しだけ感じました。

あしざわ教頭:それは日常が戻ってきてるっていうことなのかな?

ともぼー☆:んー…。震災があって「日常」が「非日常」になって、5年という時間をかけて、その非日常に慣れようと必死に生活してきたんですけど、日常が戻ってきたらその戻し方がわからなくて。戻さなくてもいいのかもしれないですけど、元の感覚がリセットされてしまったんで。3月11日になると(日常を)どう過ごしていいかのかっていうのを特に感じますね。
今も地震がくると怖いんです。物音だったりちょっとした振動でも体がビクッとして気持ちが落ち着かなくなったりしますし、地震の夢を見た次の日はしんどいものがあります。

あしざわ教頭:今、楽しいことはある?

ともぼー☆:学校にいたとき(ともぼー☆は高校を卒業後、東京の専門学校に進学。)は友達としゃべったり学校生活の中であったりもしたんですけど、社会にでて働くようになって、友達と会うことが極端に減って寂しいです。でもその分久々に会うと楽しいし、石巻にライブハウスがあるので好きなアーティストがきたら見に行ったり、仙台とか遠いところにいくようになったりして、楽しみを見つけたりしてますね。

あしざわ教頭:最近は誰のライブにいったの?

ともぼー☆:最近は東京スカパラダイスオーケストラのライブに行きました。すっごい楽しくて贅沢な時間でした!

あしざわ教頭:これまで、テレビのインタビューとかを見てても、そういうことが起きてるんだな、っていうのは理解してるんだけど、どこか感覚として距離をおいてる自分がいたんだなと、思っていて。腫れ物を触ってしまうっていう感覚がどうしてもあったんだけど、多分僕みたいに思ってる人…無意識に興味を持たないようにしちゃってるっていう人もいると思うんだけど…。

ともぼー☆:なんていえばいいのかな…。去年の逆電の話になっちゃうんですけど、去年逆電したときに、二人の声は聞こえてくるんですけど、なんかどこか、あしざわ教頭が遠い感じがしたんです。でもその次の日の放送で、今教頭が言ったことを話していて、あぁそういうことだったんだって。悲しいとかじゃなくて、「あ、そういうことだったんだ」って納得したんです。そう思う人もいるんだってちゃんと自分の耳で聞いてわかったし、こうやって関心を持ってくれるだけでもすごくありがたかったです。
私も教頭の立場だったら、そういう風になってしまうかもしれないし…。同じ石巻でも被害の状況っていろいろ違うんですよ。大変だったよねって、一概には言えない部分もあって。教頭の立場だったら無難な返事とか…無難な話題ではないけど、そうなってしまうなっていうのは思ってました。

あしざわ教頭:でも、本当にここで話せてよかったなって思います。今の事を例えば録音して聞かせてもらうのと、ここで直接聞くのは意味が違うなって思うんで。
こうやって来れて、話ができて、すごく嬉しかったです。ありがとう。

ともぼー☆:こちらこそ。来てくれて、本当にありがとうございます。こうやって話せたのも、そう思ってくれたのも嬉しいです。
東京から石巻までって、すごい遠いじゃないですか。だから簡単に「遊びにきてよ」なんて言えないんですけど、でも、こうやって足を運んでくれるのもありがたいし、もし東京とか、宮城から離れたところでも石巻や宮城のものを手にとってくれたときに、こういう街もあるよな、普通に生活してる人がいるっていうことを思い出すまではいかなくても一瞬思い出してくれるだけでも、住んでる人間として私はありがたいとです。

あしざわ教頭:今、ともぼー☆に見えてる未来って、あるかな?

ともぼー☆:今、地元に帰ってきて、アルバイトをして生活しているんですけど、こういう生活になるっていうのは高校の時には想像してなかったし、できなかったことで。
本当は東京で生活したかったんですけど、体調を崩しちゃって、帰らざるを得なくなっちゃって、いろんな人と離れてしまってしんどかったんですけど、でも会いたい人もいっぱいいるし、行きたい場所もいっぱいあるし、やりたいこともないわけじゃないから、自分の今できることをちゃんとやって、自分の中でいろんなものが整ったら、いろんなところに飛び出していけるように、いつかはなれたらいいな、と思っています。自分の好きなことを大切にやっていきたいです。

あしざわ教頭:楽しいこといっぱい増やして、楽しいこと、いっぱいしていきたいね。

ともぼー☆:はい。震災があって、バンドがいっぱい石巻にきてくれて、すごい崖っぷちの状態でいろんなものを諦めてしまおうかなって思った時に、音楽で助けられたから、自分が好きな音楽で、その人たちに恩返ししていけたらと思っています。

少しづつ忘れていく事と、その分強く残ってしまう事と、2つがある気がした。それがいい事なのか悪い事なのかはよくわからない。
けれど、ともぼー☆が話せてうれしいと言ってくれたのが僕もうれしかった。
ともぼー☆が楽しく話せる事がたくさんふえるといいなと思った。

そのあと、日和山公園へと行った。震災の時、たくさんの人が避難した場所。
当時の事を公園にいるおじさんが話してくれた。目の前に広がる景色のほとんどが海にのまれたという。当時の写真とくらべると全く違う景色で本当に?と思うほど。そのエリアに新しい家が建っていた。僕は正直「もう一度住みたい」と思えるのかとか「怖くないのか」とか考えた。

帰りの車。おれんてぃとともぼー☆の事を思った。2人とも、学校やバイトに行って音楽が好きな女の子。僕はどこか「特別な人」の様に思っていたのかもしれない。「かわいそう」とか「やさしくしなきゃ」とか距離が遠いほど、そう思っていたかも。

「この街に来て欲しい」「たまに思い出してくれたらいい」そう言ってくれたのが残っている。それを直接会って、あの場所で聞けたのが何よりも大事だった気がする。そこに人がいて、仲間がいるんだなって思えた。

おれんてぃが「津波は怖かったけど海は好きなんです」って。これって何だろうってずっと考えている、やっぱり生まれて育った故郷が好きなんだなって。
海をまた見たいんだなって。そう思える場所があるってうらやましいなと思った。

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