陰山英男のヒューマン・ラボ
日本教育界の最前線で活躍する陰山英男が子どもの教育、日本の将来について、リアルな教育事情に迫ります。教育再生が求められている今、親はわが子に何をしてやれるのか?将来本当に必要な能力とは?
子どもたちがこれから健康に育っていくための環境への配慮など・・・様々な観点から「教育」を考えます。
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TOKYO FM
 
2011年06月25日
陰山英男のヒューマン・ラボ Vol.142
地震が起きた当時、小学校6年生の担任をしていました。
生徒達は、1週間後に卒業式を控え、お世話になった学校のために、奉仕作業をしていました。

私は、「校庭を走り回る下級生たちが危なくないよう、凸凹に土を入れるグループ」と一緒に校庭で作業をしている時の、あの大きな揺れが来ました。

子供達も立っていられないような状況で、校舎を見ると、窓が割れるのではないかと思うくらいの大きく揺れていました。

先に下校していた1年生も、泣きながら引き返してきたので、皆一緒に、校庭の真ん中へ避難させました。
そして、校舎から降りてきた生徒も含め、人員の確認をした後、裏山(日和山)へ避難しました。

うちの学校は、海が近いこともあり、避難訓練の際に、一時避難は机の下にもぐる、建物の倒壊の恐れがある場合には、外に避難する。
そして、津波の恐れがある場合には、日和山に逃げるというところまで想定していたので、日和山に逃げるところまでは、スムーズできました。

雨や雪も降っていたので、ブルーシートをもって登り、地域の方、保護者の方の手伝ってもらってそのシートを広げ、その下に子供達を入れて、津波が来るのを見ていました。

避難が早かったこともあり、だいぶ時間の余裕あったと思います。

そして、津波が来ると、前の方でその様子を見てしまった子供達の中には、泣き出す子や「家が流れる」とつぶやいた子、声にならない声を出している子もいました。

私自信も信じられない光景だったので、息を飲んでただ見ているしかなかったです。
そして、さらに子供たちを高い部分に避難させようと、一番てっぺんの神社の境内へ避難させました。

今回実際に避難をして思ったことは、避難訓練通りに動けた事もあったけれど、マニュアルにあった避難所より高い場所へ逃げようという判断の必要さでした。

予想などできませんが、これは尋常じゃないというのを肌で感じました。
山に逃げる時に後ろを振り返ると、まだ津波は来ていなかったけれど、「高い場所にあがるべきだ!」と思いました。

最初は、学用品が流されてなくなってしまい、再開は難しい状態でした。
ですが、とてもありがたい、たくさんの方の支援があり再開となりました。
まだまだ足りない教材や場所、時間もありますが、子供達はとても喜んでいます。

これから体調が崩れたり、具合が悪くなったりする子もいるかもしれないのですが、今は、でできた課題を片づけながらやっていくが精一杯という感じです。

子供達には、経験したことのない・味わったことのない「悲しさ」や「恐ろしさ」というマイナスの経験となってしまったけれど、「命の大切さ」やたくさんの支援をもらったことで「助け合うこと」も感じたでしょう。
そして、「家族の絆」を得たと思うので、今後に生かして前に進んで欲しいと思います。
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| 07:55 |

2011年06月18日
陰山英男のヒューマン・ラボ Vol.141
地震が起きた当時は、小学校1年生の担任をしていました。
授業が終わり、帰りの支度をさせている時に、あの気持ちの悪い、長い揺れが始まりました。

子供たちは驚き、私自身もこんなに大きい地震は初めての経験だったので、子供達を机の下に避難させたけれど、自分はどこに行ったらいいのか?とパニックになりました。

この後、おそらく避難することになると思い、教室のドアをあけ、そのドアを抑えたまま廊下と教室の間にいました。
隣のクラスの先生も同じ行動をされていて、お互いに、不安な顔を合わせました。
ですが、子供達がとても不安そうにしていたので、私はしっかりしなきゃいけないと思いました。

普段行っていた避難訓練では、避難を誘導する放送が始まるけれど、機材が使えない状態になってしまったため、指揮をとる先生が揺れの中校内を回り、校庭に避難する旨を伝えていました。

子供達の中には、叫んだりする子もいたけれど、日常から、放送が流れれば静かに聞く子達ですし、話をよく聞くように指導していたので、ほとんどの子が静かにしていました。

校舎時代は、津波による被害はそこまでひどくなく、昇降口に少し水が入ってくる程度でしたが、学校の周りがほとんど浸水してしまったので、お家から出ることのできない保護者の方が多く、子供達を完全に引き渡すまでは、4〜5日の日数を要しました。

私は、身籠の身体でしたが、地震当日、クラスの子がいたので、帰ることはできませんでした。

もちろんストーブは使えず、備蓄倉庫にある毛布を出して、子供や地区の方の配り、私も1枚いただき、夜を過ごしました。

津波の被害が、そこまで大きくなかったとはいえ、授業の再開にあたっては問題が多く、まずは、600人ほど集まった避難されている地域の方々に、少しずつ移動をしてもらい、体育館以外の教室を空けていただきました。

現在も、被災のひどかった別の学校が間借りをして使っているので、通常通りの授業再開にはなっていません。

そして、避難されている方のお世話で、現在も、学校の職員が交代で校長・教頭・教務が泊まり込みで対応している状態です。

お世話に関しては、最初は、どう接したらいいのかが分からず、すごく戸惑いました。
市や行政からの指示というより、困ったことはこちらから依頼して対応していただきました。

特に大変だったことは、PTA会長がリーダーになり、グループを分けてお世話をするなどの「システム作り」でした。

実質、避難所を管理するのは学校の先生になってしまったので、その負担は大きく、教職員の研修があれば、戸惑いも少なかったのかもしれないと思います。

震災後、子供達を見ていて思うことは、休み時間に校庭で遊んでいるときは元気だけれど、ふとした瞬間に見せる表情には、まだ暗さが残っています。

重い顔つきだった親をなくされたお子さんも、普段の生活の中では、意識してか、見せないようにしています。
こういった変化はどの子にもあると思います。

外部からの支援やタレントスポーツ選手が来るという支援も、一時的にでも、子供達が笑顔になれる瞬間があるのは、意味のあることだと個人的には思います。
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| 07:55 |

2011年06月11日
陰山英男のヒューマン・ラボ Vol.140
震災が起きた時は、転勤前の学校で、小学校2年生の担任をしていました。

5時間目が終わり、子供達には帰り支度をさせ、私は、印刷室で宿題のプリントを刷っていた時に、大きな揺れを感じました。

揺れの中、走って教室に戻ると、生徒達は日頃の指導通り、机の下にもぐり、机の脚をしっかりと握っていました。

私は、「先生、今、来たからな!大丈夫だぞ!」と声をかけ、揺れがおさまるのを待ちました。

昨年の秋に、校舎の耐震工事が終わったばかりだったことが、ひとつ安心の材料となり、生徒達には「学校は絶対に大丈夫だからな!」と話し、私自身も「安全だ!」と自分に言い聞かせていました。

実際、その耐震工事の際に、太い柱をしっかり固定しているのも見ていたので、「揺れがおさまるのさえ我慢していれば、大丈夫だ!」という気持ちがありました。

地震への意識としては、私自身、小学生の時に、震度5の揺れを観測した宮城県沖地震を経験したので、地震は怖いもの」というイメージがありました。

大きな揺れが続く中、途中、少し弱い揺れとなった時に、校長先生・教頭先生が校舎の中を走りまわって、状況を確認していました。
その様子を見つつ、私たち担任は、生徒の近くにいて、今後の指示を待ちました。

少しして、「大津波警報」の発令があり、生徒達をなるべく上の階に避難させる事になりました。
地域の方々も続々と避難されて来たので、皆で一緒に上に上がっていたのですが、消防団の方の「波来るぞ〜!!」という声が聞こえたと同時に、学校の数百メートル先の松林から、「これが海の水なのか?」という見たこともない黒い波が押し寄せ、学校の近くを流れる川からも水があふれ返っていました。

その水は、普段子供達が通学してくる学校の前の道を、車だけでなく家までもを流がしていきました。

再び消防団の方の「もっと上にあげろ!!」という声で、4年生以下は、学校で一番高い3階にある音楽室に5・6年生は屋上に通じる階段に避難しました。

波はみるみるかさを増し、校庭に止まっていた保護者の車などを飲みこんでいき、その車が校舎にぶつかって、「ゴーーーン」というなんとも不気味な音が響いていました。

この津波で、校舎の1階は、すべて水没。
2階の踊り場を折り返した辺りまで、水が来ていました。

子供達、保護者、地域の方、教員、みんなで最上階の音楽室に入り、300人ぐらいの人が、わずか1教室の中にいる状態で、一夜を過ごしました。

ギューギューで、横になることはもちろんできず、座るだけで精いっぱい。
酸素が薄く息苦しかったです。

指導や世話にあたった我々教員ですが、指揮をとった校長先生は、単身赴任で60キロ先に自宅があったため、家族に会えたのは1週間後以上経ってからでした。

現在、市から「学校として使用しない」と決められたため、同じ学区の学校のワンフロアを借りて授業を再開しています。

地震直後に、何人かの生徒が自宅に帰っていたため、
その生徒の安否の確認には、とても時間がかかりました。
数日経って、車を取りに帰れた先生が、避難所を回って生徒の居場所を確認したり、泥の中から名簿を引き出しました。

まだ、連絡手段が整っていないことなど、不自由なことはたくさんあります。
救援物資として大学ノートがたくさん届いているけれど、小学生に大学ノートは使えなかったり、適切なものを送り込んでもらう手段がなく、いつまでもつらい思いをしなくてはならないのかな?と考えてしまいます。
市が把握している事と、実際の現場とのずれは、生じてしまっているのです。
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| 07:55 |

2011年06月04日
陰山英男のヒューマン・ラボ Vol.139
最近の教育現場では、男女間の格差をなくすシステムがある。
名簿にしても男、女を分けることを避けている。
そこで、男らしさ、女らしさを強調しろ。と言うと、親御さんからの反感もあるかもしれないが、『らしさ』は非常に大切だと感じている。
これは考え直さなければならないほど重要だと考えている。
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| 07:55 |

パーソナリティ
陰山英男
Hideo Kageyama
プロフィール
*陰山英男 (かげやま ひでお) 1958年、兵庫県出身。
89年に兵庫県朝来郡朝来町立山口小学校に赴任。「読み・書き・計算」の徹底した反復学習、「早寝早起き朝ご飯」を二本柱に、基礎学力の向上を図る「陰山メソッド」を確立。 同校出身者の国公立大学進学率が類を見ない高さだっため、教育実践がメディアで紹介されるようになる。2003年、全国公募により、広島県尾道市立土堂小学校校長に就任。
06年4月より立命館小学校副校長・立命館大学教育開発支援センター教授を、08年4月からは立命館小学校副校長・教育開発推進機構教授を務める。
小学館の通信添削学習『ドラゼミ』総監修者。著作・共著多数。 文部科学省・中央教育審議会教育課程部会委員/安倍前首相の諮問機関「教育再生会議」有識者委員/大阪府教育委員会教育委員
陰山英男 Official WebSite http://kageyamahideo.com/
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