
とにかく車を交換してもらおう。いやその前に、前の車から少し離しておいたほうがいいだろう。このままだと、ぶつけたのがばればれだ。私は自力で車を動かそうと、窓枠に手をそえ足を踏ん張りかけた。その時だ。視界の隅に、歩み寄る男が映った。刺すような眼付きの警備員――こちらに向かってくる。
まずいな……。すべて見られていたのだ。車をぶつけたのも……。
緊張して立ち尽くす私に彼が何か言った。ポルトガル語だ。……???
眼付きが鋭い割に口調は穏やかだ。どうやら、何をやってるんだ? と言っているらしい。私はジェスチャー混じりの英語で、車が壊れていると説明した。
男がキーを貸せという。差し出す。彼がエンジンをかけた。ギアを入れる。ちょっと!――声をかける間もなく車が動いた。後ろに。……???
彼が右手でシフトレバーを掴んだまま、左手でレバーノブのすぐ下を指す。ノブの下に帽子のツバみたいなもの。
中指と薬指ではさんで、クイクイと引っ張り上げていた。上げたままレバーを前に押すとギアはバックに入るらしい。
彼が何か言った。こんなことも知らないで運転する気か?
たぶんそんなことを言ったのだろう。苦笑いで返すしかなかった。立ち上がった彼と握手をし、代わって座席に座る。レバーのツバを持ち上げると、驚くほどあっさりと手ごたえがあった。車がゆっくりと後ろに動く。窓越しに彼と笑顔を交わす。
駐車場の出口の先には、ポルトガルの真っ青な空が見える。さあ、気を取り直して、旅はこれからだ。マデイラ島で5日間をすごしたとはいえ、日程の5分の1を消化したにすぎない。いや、旅の目的は日数の消火ではない、ホテルなのだ。何しろぜひ訪ねたいホテルが、今晩泊まるリスボンの『ラパ・パレス』をはじめ、リストにはまだ約20軒以上も残っていた。
私は気持ちを切り替えるように一度、景気よくエンジンを吹かすと、青空に向かってハンドルを切った。
……了(つづきはいずれ、単行本で)